戸田ひさよし氏とまっぺんとの論争に至る経過説明 20007年2月5日(月) まっぺん@おにやらい |
東京都知事石原慎太郎の外国人への差別的暴言を糾弾する若竹りょうこ小金井市議が、これをネット上でも指弾した。それに対して様々な反応がネットワーカーから寄せられたが、それに対する若竹議員の対応をめぐって論争がおこった。門真市議戸田氏は、彼女を応援する目的を持ってこの論争に介入したが、彼の差別的・独善的態度は逆に多くのネットワーカー諸氏から疑問や抗議を受けた。その結果として多くのネットーワーカーが戸田氏の主宰する「なんでも掲示板」で疑問を提示したが、戸田氏およびその応援者たちは彼らを罵倒し、戸田氏は彼らを強権的に掲示板から追放してしまった。なお、若竹議員はその後、自分の非を認める謝罪文をネット上に提示し、ネットワーカーとの和解を求めたが、戸田氏は自分がとった行動を正当化し責任を回避した。 参考資料:
パソコンとインターネットの普及がもたらした情報革命が、市民運動の発展にとってどのように寄与しているか、またどのような可能性をもっているか、実際に運動の中で活用されている様々な事例を紹介しつつ、運動の発展に資する目的をもって、社会批評社から『サイバーアクション』が刊行された。この七章に章立てされた論文集の最後の八番目に、一年前の若竹議員と戸田議員のネット上における失敗例と、そこに表現される若いネットワーカー世代の動向を紹介し、そこから汲み取るべき教訓を提案する井上はるお氏の文章が、「補章」として掲載された。 参考資料:
戸田氏の失敗経験から7年、それが「サイバーアクション」に掲載されてから6年が経過した2007年正月2日に突然、戸田氏はこの戸田失敗談を暴露した井上文書(補章)を猛烈な勢いで非難し始めた。その非難は感情的で凄まじく、またその量も尋常ではなかった。戸田氏による井上「補章」非難は2日から毎日続き、6日間で42本もの数となった。その主張内容は「7年前の自分の掲示板処理は画期的・先進的なものであり、なんら失敗などではない。それを失敗であるかのように描き出す井上には悪意がある」とまで妬みと僻みに満ちたものであり、自分の文章を「名文」とまで自慢するものだった。 戸田氏は、この文章を書いた井上氏が同社刊行の『キツネ目のスパイ宮崎学』の共著者でもあった事を理由として、「井上の本当の目的は宮崎潰しであり、そのため宮崎支持者である戸田を潰すのが、井上『補章』の真の目的である」と結論するに至った。しかし、この非難は井上「補章」に留まらず、「補章を採用する事によって宮崎追及に有利となると判断した社会批評社の陰謀」ととらえ、社会批評社(社長小西誠氏)、「サイバーアクション」著者等の責任をも追及するものへとエスカレートしていった。 参考資料:
まっぺんは、戸田氏のこの「正月42連発逆上文書」に驚きつつも、この時点では戸田氏の井上批判に対しては、直接井上氏が答えるべきものであるという判断のもとに、あまりにも無茶な批判のみをピックアップして反論を試みたが、この時点ではまだ穏やかな批判でしかなかった。むしろまっぺんにとっては、戸田氏が6年も経ってなぜ今ごろこんな逆上文書を書くのかに疑問をもっていたが、戸田氏が、井上批判の中で、自分への批判理由を「宮崎潰しのための戸田潰しの陰謀」と「推断」した事から、これは逆に戸田氏の宮崎復活のための陰謀なのではないかとの懸念を抱き、それを牽制する意味もあって「宮崎批判」を中心として戸田氏への批判の方向を進めていこうとした。 参考資料:
ところが戸田氏は、「井上氏の批判には井上氏との間でどうぞ、まっぺんの批判にはまっぺんが答えます」というまっぺんからの回答を無視し、かわりに「まず戸田の提示する井上糾弾文書に最初から全て、一日に一本ずつ(又は10日めに10本でも可)答えよ」という「厳重要請」をしてきた。これはまっぺんに「井上の代理として反論せよ」という事であり、「まっぺんという人格を否定する」暴挙である。まっぺんはこれに激怒し、一旦は戸田氏のこの理不尽な要請を断った。しかし逆に、そうした「要請」に答える事で議論の深化も期待できると思い直し、反論を開始した。11日より文章作成を開始し20日に数本掲載。以後、戸田氏が自分勝手に設けた条件であるにもかかわらず、それに従って一日一本ずつ投稿を続けた。 参考資料:
しかしついに戸田氏は、このまっぺんからの投稿に耐えられなくなり、今度は突如「戒厳令」を敷き、一切の投稿を禁止し、まっぺんに一方的な断定に基づく要求を突きつけてきた。まっぺんの投稿についての「見解の相違」を認めず、一方的に「約束違反」と決めつけ、「自分に異論を唱えないと誓約せよ」との要求を、「誓約するか、誓約しないか」だけで答えさせる、という極めて異常で尊大な態度を示したのである。もちろん「誓約しなければ追放」という結論である。これは到底同意できない内容であり、それを見越した「追放のための策略」であるのは明らかである。こうして、戸田氏は、ひとまず「自分の掲示板上では追及から逃れた」ことでほっとしているのであろう。しかしこれで終わったわけではない。これから第4ラウンドが始まるのである。(2007年2月5日) 参考資料:
7年前の「第一ラウンド」の時には、抗議投稿を自分の掲示板から排除し、それで済んだと思い込んでいる。だがインターネット上で一度発言した内容はそのままいつまでも、いわば「歴史」として残るのである。書籍や新聞などのメディアと同じである。その重要性に気づかない戸田氏は、一年後に自分の醜態を暴露した『サイバーアクション』の井上「補章」に恨みを抱き、今ごろになって噛みついた。これはますます戸田氏の立場を悪化する事になった。戸田氏は「匿名のネットワーカー」ではなく、社会批評社社長であり、言論の自由を自ら体現している小西誠氏に対しても「宮崎潰しの陰謀の共犯」のぬれぎぬを着せたのである。 |