アジア青年会議ベトナム友好訪問団の記録 1979年4月24日〜5月4日 |
旧サイゴン市街の中心に近いベンタンホテル付近は道路も広くてハノイよりもずっと都会的な雰囲気がある。かつてはここに数万の米軍兵士が駐留していた。歓楽街が発達し売春窟、麻薬、犯罪が横行した。米軍は南ベトナムに200万人の失業者と100万人の戦災孤児・私生児と貧苦と犯罪とを残して去っていった。
なお旅行団は同じアングルでメーデーの早朝もここを撮影。 |
政治的スローガンが街のあちこちに掲げてある。このころにはまだ企業の広告など見られない。左側の青い看板には「共和国・社会主義・ベトナム万歳」と書いてある。 |
旧下院議事堂。「全ての国民は北京の侵略に立ち向かおう」 |
屋外には熱帯の美しいブーゲンビリアが咲き乱れる木陰に不釣り合いな米軍の各種兵器が展示してある。1トン爆弾と装甲兵員輸送車。他にも窒息爆弾、クギ爆弾、7トン爆弾、ミサイルなど凶暴な兵器が並んでいた。 |
M48中戦車。われわれがかつて東神奈川村雨橋と相模原で搬出入阻止して闘い抜いた戦車。当時米軍は解放戦線によって破壊された戦車を横須賀で陸揚げし相模原補給廠に運び込んで修理、再び戦場へ搬出していた。72年、相模原補給廠前に多数の市民や組織によってテント村が作られた。阻止闘争をたたかった我々の闘争のことを解放戦線兵士は短波ラジオで聞いて知っていた。「ジャングルの中でこのニュースを聞きたいへん勇気づけられました」話をきいて、訪問団のメンバーは胸がいっぱいになった。 |
グリーンベレーが何をしたかを見よ!
(屋内展示写真の一部。残酷な写真は無数にあった) |
ギロチン台。解放直前まで使用されていた実物。チュー政権はこれを使って政治犯を確実に処刑した。また、政治犯に対する拷問は残虐で、効率よく行われていた。拷問器具の実物とくわしい使用例を見せられた。 |
オーケストラと民族音楽、舞踊などで歓迎してくれた。ここは米軍の高級将校のクラブとして使われていたところ。 |
少数民族の舞踊。ベトナムには少数民族が多数いる。おもに山岳地帯に生活し総人口の10%程度だが、およそ90種類の民族に分かれている。全体の90%を占めるのがキン族(ベトナム族)。 |
ベトナムでは「孤児院」とは呼ばず「竹の子学校」と呼ぶ。戦争によって最も傷つくのは子ども達。孤児の数は全土でおよそ100万人。ホーチミン市だけで10万人。特に南では混血児が多い。黒人兵、白人兵、韓国兵との間に生まれた子どもたちは「竹の子学校」でなかよく暮らしている。 |
屈託のない子ども達の明るいえがお。訪問団はこどもたちから「ホーおじさんの歌」(ニュー・コ・バ・ホー)を教わった。 |
レッドモール党(第四インターナショナル・ファンクラブ)へ結集せよ |
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