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【投稿】 ダラットへの道
かつて「ゆめ」を共有した人々に捧げるちいさなベトナム報告 武峪 真樹 2002.8.5

ホーチミン市の空に湧き上がる入道雲

●ベトナム反戦世代

 戦争がおわって僕らは生まれた。しかし別の戦争によって僕らは新しい世界へと踏み出していった。
 ベトナム戦争が世界の注目を浴びていた、あのころ青年時代を過ごした人々のうちの少なくない部分が、ベトナム反戦運動の荒々しい波を体験した。六〇年代後期に始まった世界の青年反乱を鼓舞し牽引したのは、紛れもなくベトナム人民の不屈のたたかいであった。
 ベトナム戦争は七五年の勝利に到るまで、世界の青年たちをひきつけた。日本でも、沖縄で、立川で、砂川で、相模原で、ノースピアで、あらゆる所で青年たちは解放戦線旗を掲げてたたかった。我々の合い言葉は「ベトナム」であった。所属するグループや主義主張のちがいをこえて、青年たちのこころはベトナムを通じて結ばれていた。その意味で、現在、四十代なかばから五十代までに分布する人々を「ベトナム反戦世代」と呼ぶことができる。
 私も、その「ベトナム反戦世代」の一員といっていい。それまで閉ざされていた私の心の扉は、ベトナムによって世界へと開かれた。そうして私は我が青春をベトナム反戦と三里塚闘争に捧げていくことになった。だから、ベトナムは私にとって「特別の国」なのである。社会主義政策がどうであるとか革命の問題がどうであるとかを語るまえに、まず自分の闘いの軌跡として、自分の一部として、ベトナムは私の胸のなかに今も存在し続ける。
 ここに報告するのは、そうした熱い想いをほんの一時でも共にしたすべてのベトナム反戦世代の人々に捧げる、最近のベトナムの事情についてのささやかな報告である。政治的にまとまった文章とはいえないし、経済的な分析をおこなっているわけでもない。ベトナムを訪問し、直接見て、聞いてきた「生のベトナム」である。伝聞の中には不正確なものもあるかもしれない。不充分なものもたくさんあるにちがいない。しかし、私の報告が今日のベトナムというものをいくらかでも理解するうえでの参考になれば、そしてそこから何か汲み取るに値するものがあるなら幸いである。

アメリカ戦争犯罪展示場を見学する訪問団一行(1979年5月)

●戦車阻止闘争の思い出

 相模原・ノースピア闘争を体験した人なら、よく覚えているだろう、あのM48型戦車のことを。三十年前、村雨橋前で米軍戦車はおよそ百日間にわたって搬出入を阻止された。間もなくこの闘争は相模原の米軍補給廠前での監視テント村へと発展し、連日はげしい阻止闘争が続いた。
 当時日本政府と軍需産業は米軍のベトナム侵略に荷担し、国内では米軍のあらゆる兵器・弾薬の補給・修理・整備を行なっていた。また大量の軍需物資を米軍に供給していた。爆撃機は沖縄嘉手納基地から出撃し、連日南北ベトナムに膨大な量の爆弾と地雷と枯れ葉剤とを降らせていた。日本は、いわば米軍によるベトナム人民殺害への手助けと引き替えにアメリカから巨額の利益を得ていたわけである。多くの心ある日本人は皆これに抗議し阻止する闘いに決起していた。あの時のわれわれの戦車阻止闘争はそのままベトナム人民の戦いと直結していたのである。
 この闘争の情報はベトナムのジャングルの中にも密かに伝えられ、解放戦線兵士たちを大いに勇気づけたという。今春、元ベ平連の人たちがベトナムに行き、当時の資料を手渡した時に、その話が出たそうである。
 実はまったく同じ話を、二十三年前、我々も耳にしている。我々がベトナムに派遣したベトナム友好訪問団から、その情報はもたらされた。

 七五年のベトナム解放のあと、カンボジア・ポルポト政権との間で紛争があり、三年後、ベトナム軍によってポルポト政権が打倒された。するとすぐにこれに対する報復として、中国がベトナム北部国境から侵入してきた。
 世界的「ベトナム非難」の大合唱のなかで、私が所属していたアジア青年会議はベトナム友好訪問団の派遣を決定し、青年たちを募り、ベトナムへ実情調査に向かわせた。帰国した八名の青年たちは精力的に全国をまわって数十回に及ぶ報告集会をひらき、火を吐くような勢いで解放四年後のベトナムの様子を熱く語った。その彼らの話のなかに戦車阻止闘争のエピソードはあったのである。
 訪問団一行はホーチミン市の米軍戦争犯罪展示場に案内されたという。そしてそこにM48戦車があるのをみつけて興奮し、口々に、日本での戦車阻止闘争の様子をベトナム人ガイドに説明した。そのベトナム人ガイドは日本語が堪能であったが、実は元解放戦線のゲリラ兵士であった。彼はジャングルの中にいてラジオで日本語の短波放送を聞きながら日本語を学んでいった。それで日本の反戦運動が戦車を阻止した事を知り、仲間たちに伝えたのである。ガイドはそう説明した。
 訪問団は帰国後、多くの場所でこの話をした。集会参加者の多くは、自分たちの闘いがジャングルの奥深くまで確かに伝わっていた事を知って非常に驚き、深く感動した。いまもまざまざと思い出す、私にとっても貴重な思い出である。
 訪問団は、この他にも多くの未知の情報を我々にもたらした。ここでは、その時の訪問団の報告による当時のいろいろな情報と比較しながら、現在のベトナムの姿についてエピソードなどをまじえながら報告してゆこう。

72年相模原補給廠前。ここに我々の青春があった

●楽器を寄贈する

 今回のベトナム訪問が実現したのは、全くの偶然による。私は吹奏楽に親しんでいた関係からいくつかの楽器を所有していた。その中には、友人から譲り受けたユーフォニウムもあった。ユーフォニウムは七六年頃購入され、政治集会や日韓交流会の時にも使用された。しかし、ユーフォニウムは個人で所有していても演奏する機会はない。もったいないのでどこかで引き取って使ってくれないか、と各方面に問い合わせていた。するとベトナム在住の友人からメールが来た。以下は、私と友人とのメールのやりとりの内容である。

友人より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ベトナムでは、音楽の授業は歌のみとのことです。
 ブラスバンド好きの教師も必ずや居るに違いないでしょうが探すのも手間取りそうなので別件で以前コンタクトしたことがあるダラットの師範短大の学長に問い合わせてみました。
 学生達は卒業後教師になり、音楽も教えることになるわけで、当然、師範短大でそのための授業もあり、ユーフォニウム2台共引取りたいとのことです。
 ダラットは高原地帯で、少数民族居住地でもあり、何といっても子ども達の可愛らしさでは少数民族が一番です。
 師範短大の備品となるわけですので、贈答者の氏名住所職業等を明記した書類が欲しいとのことでした。お手数ですが、事前に適当な贈答趣意書みたいなものを簡単に作ってもらえませんか? 英文であればベターですが、日本文でも結構です。その場合はベトナム語に訳し、送り返しますので、署名の上ご返送ください。
 配送、通関手続きについては調べてからまた連絡します。

友人への返信・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 おお!ありがとうございます。趣意書をつくってみました。
 なお、ユーフォニウム2台だけではたいしたアンサンブルもできないし、他に超格安の楽器をみつけたので、それもいっしょに贈ります。なお、リコーダーは今の日本では教育用のおもちゃみたいなものですが、バロック時代にはアルトリコーダーはフルートと同程度の地位にあり、かなり高度な演奏もできます。バッハ、テレマン、ヘンデルなどの楽譜も一緒におくります。これは安いのでもっとたくさんおくるのも可能です。

ベトナムから届いた許可書

楽器寄贈趣意書

 私はかつて、青年時代に、平和を求めるこころの大切さをベトナムの人々に教えられました。(中略)しかし、まだ貧しい経済事情の中で多くの日常の必需品も不足している事も知りました。そして友人のM氏から貴師範学校にはまったく何の楽器もなく、音楽の授業は歌ばかりであるとおしえられました。
 将来、豊かな国を建設してゆくために子どもたちには豊かな感性をもって育っていってほしいと思います。そのためにも、私の楽器を貴師範学校に贈呈したいと思います。私が所有するユーフォニウムをぜひお受け取りください。そしてこれらを音楽教育のために、あるいはさまざまな催しのために活用していただけたなら、これほどうれしいことはありません。ついてはユーフォニウムをはじめ以下の楽器を贈呈したいと思いますので、どうかお受け取り下さるようお願い申し上げます。 ダラット師範短大 御中

●ユーフォニウム 2台
●クラリネット  2台
●トランペット  1台
●小アコーディオン2台
●アルトリコーダー3台
●楽譜、教則本など

友人より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ダラット師範大学からFAXで、ダラット人民委員会によるホーチミン市税関宛、「免税申請書」が届きました。これで通関の際の課税問題はクリアできるものと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こうしてベトナムに楽器をおくることが決まった。友人の骨折りによりダラット師範大学の要請によるダラット人民委員会の寄贈品受け取り許可と免税提議の公式の書状がビザ申請手続きのコピーとともに航空便で私の手許にとどいた。
 しかし輸送の手続きや梱包の手間が思ったより大変であることがわかった。航空運賃は高い。また船便では相当に頑丈な梱包をしなければならないし日数もかかるので、その間に湿気にあたって楽器が錆びることも考えられる。梱包料金も高いし、サイゴン港についたあと、三百キロ先のダラットへ運送する手配も考えなければならない。すっかり途方にくれてしまった。
 しかし、ここまで話がすすんだからには今さら後へはひけない。絶対にベトナムへ楽器を送り届けなければならない。友人に相談してみると、「そんならハンドキャリーで来い」という。そこで旅行運賃を調べてみた。すると手荷物として直接持ち運んだほうがはるかに安いし安全であることがわかった。ダラットへもバスで持っていけばいい。そうなると話ははやい。一番都合がいい日を選んで旅行することが突然にきまってしまった。


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でも結集してもなんにもないけど