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【投稿】 ダラットへの道
かつて「ゆめ」を共有した人々に捧げるちいさなベトナム報告 武峪 真樹 2002.8.5

解放戦線の進撃路

●ダラットへの道

 ダラット市はホーチミン市から北東方向に約三百キロの高原地帯にある。空港に着いた翌朝、私は早朝の長距離バスでダラットにむかった。飛行機でも行けるが、高原地帯は気候が不安定なため、よく欠航となるので、確実性をとってバスにしたのだ。朝七時三〇分、バスは出発し、国道一号線を東へ向かった。
 国道一号線はベトナムを南北に縦貫する大動脈である。メコンデルタ南端の町ナムカンを起点とし、ホーチミン市中を通って東へ向かう。そして海岸に出ると、そこからは海岸伝いに北上する。国道はダナンやフエなどを通ってハノイに至り、更にそこから中越紛争激戦の地として伝えられた国境の町ランソンまで伸びている。かつてはこの道路を通って何台ものアメリカの軍用トラックが兵員と軍需物資を積んで北へ向かった。そして七五年の解放の時には逆にここを解放戦線軍部隊が南下した。

 バスは郊外へ出てサイゴン河を渡る。そしてドンナイ省ビエンホアを過ぎてしばらく行くと道は二手に分かれる。左の道が国道二〇号線。二〇号線はここから始まって北東へ延び、ダラットまで続いている。右へ行けば国道一号線。すこし行くとスアンロク市がある。
 ホーチミン市で買った地図を見ながら、七五年の春季大攻勢の時、解放勢力が進撃していった道を地図上でたどってみた。解放戦線軍は、まず三月中に中部高原地帯を制圧した。これはラオス国境からホーチミンルートを南下した主力部隊によるものであった。部隊はさらに南下し、中南部の都市ブォンメトートを攻略。三月一一日にこれを陥落させた。これは攻防の帰趨を決したと言ってよいほど決定的な勝利への布石であった。解放軍部隊がブォンメトートから東の海岸地帯まで進めば、南ベトナム各地に点在する軍事拠点の多くは首都サイゴンとの連絡線を断たれて孤立する。傀儡政府軍は浮き足立った。戦意を喪失したところへ解放戦線軍の猛烈な攻撃が始まった。フエ、ダナンなどが次々と解放されていった。
 二〇号線には途中、ブォンメトートから二七号線と二八号線が交差する。ブォンメトートを制圧した解放勢力はおそらくこのどちらかの道を通り、二〇号線に入ってバオロクを制圧、そしてスアンロクへ向かった。サイゴン防衛の前線基地であったスアンロクへの攻撃は四月九日に開始され、二一日に陥落した。こうしてサイゴンは無防備となった。
 首都サイゴンは、このスアンロクに結集した部隊、そして北部のカンボジア国境タイニン省方面からの部隊に加えて西方向、そして南方向のメコンデルタ地帯から集結した部隊によって解放された。二七年前の四月三〇日のことである。わたしは、解放軍がサイゴンに向けて進撃した国道二〇号線を逆にダラットに向けて進んでいる。

 国道は幅約二〇メートルほどの舗装された一本道となってどこまでも続く。道路が舗装されている以外には、ほとんど整備らしい整備というものはされていない。交差する道路もほとんどないから信号もない。だからバスは全く止まることもなく快速でとばす。そしてけたたましく警笛を鳴らしながら道路わきを走るバイクやトラックを追い越してゆく。
 ホーチミン市は再開発が進んでいることを感じさせるが、郊外に出ると、まだそれほどの大きな変化を感じない。すこし豊かになった人はレンガとモルタルの家をつくる。しかし、まだ木造の家が多い。とくに高原地帯に住む少数民族には経済発展の影響を感じるところがない。子どもたちは泥んこになりながら家の軒先や空き地でサッカーをしている。ベトナム人はサッカーが大好きである。
 道路の両脇には新しい電柱が立てられ、家々にはテレビのアンテナが高く高くそびえ立っている。少し大きな街には大きな鉄塔が建っている。ダラット市に建っていたのは大きさも形も岩山大鉄塔によく似ていた。電気とテレビの普及は、もしかするとこの国の最も大きな変化かもしれない。ダラットのホテルで見たテレビはチャンネルが三っつあり、ドラマ、ニュース、ポップミュージックをやっていた。ベトナムの若手ミュージシャンと思われる歌手が歌っていたのが新鮮だった。

 道は少しずつ高さを増しながら高原地帯へと昇ってゆく。ドンナイ省をとおり、ラムドン省にはいる。途中、ゴムの木の長い森林を抜け、桑畑や茶畑のあいだを通る。このあたりの風景は日本のいなかにそっくりで、いつか来たようななつかしい気分になる。バナナや椰子の木がなければ、ほとんど日本と変わらない。どこまでもうねうねとつづく広い茶畑から、やがて水田地帯に入る。安らぎを覚える風景。峠を越えて下り道をおおきく曲がるとダラットの街が遠くに見えてきた。


フランス植民地時代の面影を残すダラット師範短期大学校舎

●ダラット師範短期大学

 ベトナムの高等教育は大学(四年制)の他にいくつかに分かれている。ダラット師範短大は三年制の独立した短期大学であるが、他に、二年制の中等専門学校、五年制の工科大学、貿易大学。そのほかに多くの大学が短期大学課程も併設しており、これは志願者が願書を提出して入学するのではなく、入学試験で合格点に到らなかった場合に短期課程の定員に組み込まれるという制度をとっている。
 ラムドン省都ダラット市。人口約三〇万。東西に長く延びる湖のほとりに町は開けている。円形広場を中心にして正面に大きな市場がある。それを囲むようにたくさんの商店街、そしてホテル。我々は、そのホテルのひとつに部屋をとり、すぐに師範短期大学へ向かった。

 大学は湖の横の橋を渡って南側へ回り込んだ先の斜面にある。古いレンガ造りの高い尖塔を持つ、美しい建物。広いキャンパスは木立ちや花に囲まれ、落ち着いた佇まいを見せている。ここは一九二九年、フランス植民地時代にリセとして開校された。そして一九七六年一〇月六日、現師範短大として新たに開校した。学生数は一学年あたり約千五百名。幼稚園、小学校、中学校の教師を養成している。卒業生たちは、教師として全国各地へと赴任してゆく。
 音楽の授業を受ける学生数はおよそ五百人。しかし、現在までのところ楽器はなく、音楽の授業は歌だけだという。私が持ち込んだ楽器の多くは主に吹奏楽用のものであるが、学校教育用には、ピアノなどの方が役に立つのかもしれない。先日、日本の街角にピアノが捨ててあり「まだ充分使えるので欲しい方はどうぞ」などと張り紙がしてあったのを思い出した。日本の多くの家庭にはピアノが粗大ゴミと化して大量に眠っているのに、ベトナムでは学校にさえろくに楽器がない。なんとかできないものか。

校長先生に楽器を贈呈

 我々が訪れた日は休日だったので、先生方は、我々を迎えるために学校へ出てくる。我々が約束の時間よりも早く来てしまったために、先生方はまだ学校に到着していなかった。校長室の横の大きな掲示はおそらく学校の沿革などが書いてあるのだろう。毎年の学生数がグラフで示されている。
 やがて、学校支配人、校長先生、音楽教師、英語教師の方々がやってきて握手をかわした。そして、私のささやかな贈り物にとても喜んでくれた。グエン・コン・ダィン校長先生は、この贈り物を「我が校とあなたたちの友情の始まりのしるしとしたい」と言われた。さらにプロの写真屋を手配して記念写真撮影。その後、校舎を案内し、学校の歴史を説明し、公用車でホテルまで送ってくれ、そのうえ夕食に招待したいと言われた。こんなちっぽけな贈り物のために、そんなにまでしてもらう事に、かえって気がねをしてしまった。が、断ることはかえって失礼である。招待を受けることにした。
 夕刻、われわれは市中ではかなり高級と思われる料亭「萬華楼」の一室でもてなしをうけた。もしこれが日本だったら、中古楽器よりも宴席の方がはるかに高くつくはずである。なにか申し訳ない。
 食事中の話題は専らサッカーである。ベトナム人の多くはアジアチームを応援する。ヨーロッパと比べて同じアジア人という気持ちをもっている。フランスが負けた時には大喜びしたそうだ。これは植民地支配への感情に関係あるのだろうか。それなら日本チームにも韓国チームにも反感をもってもいいのじゃないか、とも思うが、そういう様子は見えなかった。
 余談だが、ワールドカップでにわかサポーターになった日本人と違って、ベトナム人のサッカー好きは驚くほどである。彼らは外国チームや選手の事も、よく知っている。勝敗をめぐる賭けも盛んで、過度に熱中する人も多い。買ったばかりで支払いが残っているバイクを賭けて負けてしまい、首を吊って死んだ人や、負けた腹いせに自宅に放火した人などの記事が新聞に載る。
 これも余談であるが、ベトナム語は美しい。以前からそう思っていたが、今回、間近で聞いて本当にそう思った。校長先生の話すベトナム語は、端正で、リズミカルである。そのうえメロディアスでもある。つまり音楽的なのだ。その秘密はベトナム語のイントネーションにある。文法は英語よりも易しく、覚えるのに苦労はしないだろう。しかし、六種類の抑揚を使いこなすのは難しい。だが、それに習熟できた時、世界一美しい言語を操ることができるようになる。
 さて、こうして今回の主要目的を果たすことができた。心に残る一日だった。この日の事は一生涯忘れない。そして我々は翌朝のバスで再びホーチミン市へともどった。

ダラット市場の風景

●やりての女主人

 短い滞在期間はまたたく間に過ぎた。帰国に際して、いろいろお土産品を物色した。雑貨店には面白いものがある。銃弾を使ったライターは粗悪品だが、実弾から作ったところに面白みがある。古い時代のコインや紙幣を物色してみた。インドシナ三カ国で共通に使えた植民地政府発行の紙幣、解放戦線支配地区で通用していた紙幣、それからグエンバンチュー政府の紙幣などもあった。ここの店の女主人はなかなかやり手で、まけようとしない。さんざん交渉して、少し値引きしてもらった。そして店を出ようとすると、このおばあさん、今度はわれわれを無理矢理に引っ張って店のすこし奥の棚に案内した。その棚には、グエンバンチュー時代の真新しい紙幣が何千枚、いや、何万枚もきちんと揃えて積んであった。
 おばあさんがこんなにチュー政権時代の紙幣を持っている理由を想像してみた。アメリカが手を引き、チュー政権が崩壊の瀬戸際にあった時、サイゴンにいた政府関係者や米軍と親しかった者たちは、パニック状態にあった。解放戦線がやってこないうちに、ここから何とか逃げ出す事を考えていた。そして街の両替屋などでベトナム紙幣を大量にドルに替えていったのだろう。やり手のおばあさんなら、こういう時、ベトナム札を安く買いたたいて「大もうけ」をしたに違いない。

 しかし、おばあさんの喜びは長くは続かなかった。ベトナム解放は、同時に苦しみの始まりでもあったからである。当時四〇万人と言われる売春婦をはじめ高級クラブなど米兵相手に商売をしていた者の多くが失業者となった。また南ベトナム政府軍百万人も同じく失業者となった。南ベトナム経済を支えてきた膨大なドルの供給がストップし、そのうえ、アメリカはベトナムに対し長期間にわたる経済制裁をおこなった。統一ベトナム新政府は破壊された農村経済と大量の失業者と傷痍軍人と地雷や爆撃や枯れ葉剤の犠牲者と戦災孤児とを抱えて経済復興に挑戦しなければならなかった。
 物資の不足からすぐに猛烈なインフレがはじまった。「おおもうけ」したはずの貨幣価値が見る見るうちに下がっていった。そしておばあさんがしこたま集めたベトナム札は結局たいして価値のない紙くずの山になってしまった。…という事にちがいない。そうでもなければこの大量の旧紙幣の山の理由が説明できない。さて、この想像は当たっているだろうか。
 インフレの名残は現在のベトナム通貨に見ることができる。あまりにもケタが大きすぎるのだ。ホーチミン市で通用している最低単位が二百ドンで、それ以下の紙幣はない。「ハオ」や「スー」などの通貨単位は流通していない。コーヒー一杯飲むと五千ドンもする。訪問団の報告集によれば当時の一ドンは六一円であった。それと比較するとインフレ率は二十三年間で七千六百倍に達したことになる。映画で、逃げ出した王女がアメリカの新聞記者から一万リラを渡されて驚くシーンがあったが、ベトナムははるかその上を行っている。


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