●ダラットへの道
ダラット市はホーチミン市から北東方向に約三百キロの高原地帯にある。空港に着いた翌朝、私は早朝の長距離バスでダラットにむかった。飛行機でも行けるが、高原地帯は気候が不安定なため、よく欠航となるので、確実性をとってバスにしたのだ。朝七時三〇分、バスは出発し、国道一号線を東へ向かった。
国道一号線はベトナムを南北に縦貫する大動脈である。メコンデルタ南端の町ナムカンを起点とし、ホーチミン市中を通って東へ向かう。そして海岸に出ると、そこからは海岸伝いに北上する。国道はダナンやフエなどを通ってハノイに至り、更にそこから中越紛争激戦の地として伝えられた国境の町ランソンまで伸びている。かつてはこの道路を通って何台ものアメリカの軍用トラックが兵員と軍需物資を積んで北へ向かった。そして七五年の解放の時には逆にここを解放戦線軍部隊が南下した。
バスは郊外へ出てサイゴン河を渡る。そしてドンナイ省ビエンホアを過ぎてしばらく行くと道は二手に分かれる。左の道が国道二〇号線。二〇号線はここから始まって北東へ延び、ダラットまで続いている。右へ行けば国道一号線。すこし行くとスアンロク市がある。
ホーチミン市で買った地図を見ながら、七五年の春季大攻勢の時、解放勢力が進撃していった道を地図上でたどってみた。解放戦線軍は、まず三月中に中部高原地帯を制圧した。これはラオス国境からホーチミンルートを南下した主力部隊によるものであった。部隊はさらに南下し、中南部の都市ブォンメトートを攻略。三月一一日にこれを陥落させた。これは攻防の帰趨を決したと言ってよいほど決定的な勝利への布石であった。解放軍部隊がブォンメトートから東の海岸地帯まで進めば、南ベトナム各地に点在する軍事拠点の多くは首都サイゴンとの連絡線を断たれて孤立する。傀儡政府軍は浮き足立った。戦意を喪失したところへ解放戦線軍の猛烈な攻撃が始まった。フエ、ダナンなどが次々と解放されていった。
二〇号線には途中、ブォンメトートから二七号線と二八号線が交差する。ブォンメトートを制圧した解放勢力はおそらくこのどちらかの道を通り、二〇号線に入ってバオロクを制圧、そしてスアンロクへ向かった。サイゴン防衛の前線基地であったスアンロクへの攻撃は四月九日に開始され、二一日に陥落した。こうしてサイゴンは無防備となった。
首都サイゴンは、このスアンロクに結集した部隊、そして北部のカンボジア国境タイニン省方面からの部隊に加えて西方向、そして南方向のメコンデルタ地帯から集結した部隊によって解放された。二七年前の四月三〇日のことである。わたしは、解放軍がサイゴンに向けて進撃した国道二〇号線を逆にダラットに向けて進んでいる。
国道は幅約二〇メートルほどの舗装された一本道となってどこまでも続く。道路が舗装されている以外には、ほとんど整備らしい整備というものはされていない。交差する道路もほとんどないから信号もない。だからバスは全く止まることもなく快速でとばす。そしてけたたましく警笛を鳴らしながら道路わきを走るバイクやトラックを追い越してゆく。
ホーチミン市は再開発が進んでいることを感じさせるが、郊外に出ると、まだそれほどの大きな変化を感じない。すこし豊かになった人はレンガとモルタルの家をつくる。しかし、まだ木造の家が多い。とくに高原地帯に住む少数民族には経済発展の影響を感じるところがない。子どもたちは泥んこになりながら家の軒先や空き地でサッカーをしている。ベトナム人はサッカーが大好きである。
道路の両脇には新しい電柱が立てられ、家々にはテレビのアンテナが高く高くそびえ立っている。少し大きな街には大きな鉄塔が建っている。ダラット市に建っていたのは大きさも形も岩山大鉄塔によく似ていた。電気とテレビの普及は、もしかするとこの国の最も大きな変化かもしれない。ダラットのホテルで見たテレビはチャンネルが三っつあり、ドラマ、ニュース、ポップミュージックをやっていた。ベトナムの若手ミュージシャンと思われる歌手が歌っていたのが新鮮だった。
道は少しずつ高さを増しながら高原地帯へと昇ってゆく。ドンナイ省をとおり、ラムドン省にはいる。途中、ゴムの木の長い森林を抜け、桑畑や茶畑のあいだを通る。このあたりの風景は日本のいなかにそっくりで、いつか来たようななつかしい気分になる。バナナや椰子の木がなければ、ほとんど日本と変わらない。どこまでもうねうねとつづく広い茶畑から、やがて水田地帯に入る。安らぎを覚える風景。峠を越えて下り道をおおきく曲がるとダラットの街が遠くに見えてきた。
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