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★   六 列強のあいだでの世界の分割

 地理学者A・ズーパンは『ヨーロッパの植民地の領土的発展』という著書のなかで、一九世紀末におけるこの発展についてつぎのような簡単な要約をしている。〔第14表を参照〕
 (*) A・ズーパン『ヨーロッパの植民地の領土的発展』、一九〇六年、二五四ページ。

〔第14表〕 ヨーロッパの植民地領有列強(合衆国をふくむ)に属する土地面積のパーセント
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        、1876年、1900年、 増加率
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 アフリカ   、  10.8%、  90.4%、+ 79.6%
 ポリネシア  、  56.8%、  98.9%、+ 42.1%
 アジア    、  51.5%、  56.6%、+  5.1%
 オーストラリア、  100.0%、  100.0%、  ―
 アメリカ   、  27.5%、  27.2%、−  0.3%
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 「したがって、この時期の特徴はアフリカとポリネシアの分割である」――彼はこうむすんでいる。だがアジアにもアメリカにも未占取の土地、すなわちどの国家にも属さない土地はないのだから、ズーパンの結論を拡張して、この時期の特徴は地球の最後的分割である、といわなくてはならない。もっともここに最後的というのは、再分割が不可能だという意味ではなく――それどころか、再分割は可能だし、不可避である――、資本主義諸国の植民政策がわが地球上の未占取の土地の略取を完了した、という意味である。世界ははじめて分割されつくした。だから今後きたるべきものは再分割だけである。すなわち、無主の状態から「所有主」への移転ではなくて、ある「所有者」から他の「所有者」への移転である。
 したがってわれわれは、世界的植民政策の独特な時代に際会しているのであるが、この植民政策は「資本主義の発展の最新の段階」と、金融資本と、きわめて緊密に結びついている。だから、この時代とまえの諸時代との相違および現在の事態をできるだけ正確に解明するためには、なによりもまず事実資料をもっと詳しく見る必要がある。この場合なによりもつぎの二つの事実問題がおこる。すなわち、植民政策の強化、植民地のための闘争の激化が、ほかならぬ金融資本の時代に見うけられるかどうかということと、現在この点で世界はいったいどのように分割されているかということとである。
 アメリカの著述家モリスは、植民史にかんする著書(*)のなかで、一九世紀のいろいろな時期におけるイギリス、フランス、ドイツの植民地領土の規模にかんする資料をつくることを試みている〔53〕。彼の得た結果をつぎに簡略にしてかかげよう。〔第15表を参照〕
 (*) へンリー・C・モリス『植民史』、ニューヨーク、一九〇〇年、第二巻、八八ページ、第一巻、四一九ページ、第二巻、三〇四ページ。

〔第15表〕 植民地領土の規模
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      、   イギリス   、   フランス   、   ドイツ
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      、  面積  、人口 、  面積  、人口 、  面積  、人口 
      、(100 万平、(100 、(100 万平、(100 、(100 万平、(100
      、方マイル)、万人)、方マイル)、万人)、方マイル)、万人)
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 1815―1830、   ? 、 126.4、  0.02 、  0.5、  ―  、 ―
  1860  、   2.5 、 145.1、  0.2  、  3.4、  ―  、 ―
  1880  、   7.7 、 267.9、  0.7  、  7.5、  ―  、 ―
  1899  、   9.3 、 309.0、  3.7  、 56.4、   1.0 、 14.7
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 イギリスにとっては、植民地略取が大いに強まった時期は一八六〇―一八八〇年の諸年のことで、一九世紀の最後の二〇年間もそれが非常に顕著だった時期である。フランスとドイツにとっては、それはまさにこの二〇年間のことである。われわれがさきに見たとおり、独占以前の資本主義、自由競争の支配していた資本主義の発展が絶頂に達した時期は、一八六〇年代と一ハ七〇年代である。われわれはいまや、まさにこの時期のあとで植民地略取のおそるべき「高揚」がはじまり、世界の領土的分割のための闘争が極度に激化したことを見るのである。したがって、独占資本主義の段階への、金融資本への資本主義の移行が、世界の分割のための闘争の激化と結びついているという事実は、疑うべくもない。
 ホブソンは帝国主義にかんする彼の著述のなかで、一八八四―一九〇〇年の時代を、主要なヨーロッパ諸国家の猛烈な「膨張」(領土拡張)の時代として、とくに区別している。彼の計算によれば、イギリスはこの時期に五七〇〇万の人口をもつ三七〇万平方マイルを、フランスは三六五〇万の人口をもつ三六〇万平方マイルを、ドイツは一四七〇万の人口をもつ一〇〇万平方マイルを、ベルギーは三〇〇〇万の人口をもつ九〇万平方マイルを、ポルトガルは九〇〇万の人口をもつ八〇万平方マイルを、獲得した。一九世紀末の、とくに一八八〇年代以降の、すべての資本主義国家による植民地追求は、外交史と対外政策史のあまねく知られている事実である。
 イギリスで自由競争が最も繁栄した時代、一八四〇―一八六〇年代には、この国の指導的なブルジョア政治家たちは植民政策に反対であって、植民地の解放、イギリスからの植民地の完全な分離を、不可避で有益なことと考えていた。M・ベアは一八九八年に発表した『現代イギリス帝国主義(*)』という論文のなかで、ディスレイリのような、一般的にいえば帝国主義的な傾向のイギリス政治家が、「植民地はわれわれの首にかけられた石うすだ」、といったことを指摘している。だが一九世紀の末には、イギリスにおける時代の英雄は、公然と帝国主義を唱道して最大のあつかましさで帝国主義的政策を実行したセシル・ローズやジョセフ・チェンバレンであった!
 (*) 『ノイエ・ツァイト』、第一六年、第一巻、一八九八年、三〇二ページ。

 最新の帝国主義のいわば純粋に経済的な根底と社会=政治的根底との結びつきが、そのころすでにイギリス・ブルジョアジーのこれらの指導的政治家たちにとってはっきりしていたことは、興味ないことではない。チェンバレンは、イギリスがいまや世界市場でドイツ、アメリカ、ベルギーから受けている競争をとくに指摘して、帝国主義を「真実の、賢明な、経済的な政策」として唱道した。救いは独占にある――資本家たちはこういって、カルテルやシンジケートやトラストをつくった。救いは独占にある――ブルジョアジーの政治的首領たちはおうむがえしにこういって、世界のまだ分割されていない部分の略取をいそいだ。セシル・ローズは、彼の親友の新聞記者ステッドが語ったところによれば、一八九五年に自分の帝国主義的思想についてステッドにつぎのように言った。「私はきのうロンドンのイースト・エンド(労働者街)にゆき、失業者たちの集会をおとずれた。そしてそこで、パンを、パンを、という叫びだけの荒っぽい演説を聞き、家にかえる途中でそのときの光景をよく考えてみたとき、私はいままでよりもっと帝国主義の重要性を確信するようになった。・・・・胸に秘めた私の理想は社会問題の解決である。すなわち、連合王国の四〇〇〇万の住民を血なまぐさい内乱から救うためには、われわれ植民政治家は、過剰人口を住まわせ、工場や鉱山で生産される商品の新しい販路を得るための、新しい土地を手に入れなければならない。私がいつも言っているように、帝国とは胃の腑の問題である。もし内乱を欲しないならば、諸君は帝国主義者にならなければならない(*)」。
 (*) 『ノイエ・ツァイト』、第一六年、第一巻、一八九八年、三〇四ページ。

 百万長者、金融王、そしてボーア戦争の張本人であるセシル・ローズは、一八九五年にこのように言った。ところが、彼の帝国主義擁護はやや荒っぽくてあつかましいというだけで、本質的には、マスロフ、ジュデクム、ポトレソフ、ダーヴィドやロシア・マルクス主義の創始者、その他等々の諸氏の「理論」と違いはない。セシル・ローズはすこしばかりより正直な社会排外主義者だったのである〔54〕・・・・
 世界の領土的分割とこの点での最近数十年間における変化のできるだけ正確な姿を描きだすために、世界のすべての強国の植民地領有の問題にかんする前述の著書のなかでズーパンがあたえている総括的資料を利用しよう。ズーパンは一八七六年と一九〇〇年をとっているが、われわれは一八七六年と一九一四年をとる。一八七六年はきわめて選択の当を得た時点である。なぜなら、大体においてまさにこのころに独占以前の段階における西ヨーロッパ資本主義の発展が完了した、と考えることができるからである。もうひとつの一九一四年については、ズーパンの数字のかわりにヒューブナーの『地理統計表』によって新しい数字をあげよう。またズーパンは植民地しかとっていないが、われわれは――世界の分割の完全な姿をしめすために――、非植民地諸国と半植民地諸国にかんする数字を簡単につけくわえるのが有益だと考える。われわれが半植民地の部類に入れるのはペルシア、中国、トルコで、このうち第一の国はすでにほとんどまったく植民地になったし、第二と第三の国はそうなりつつある〔55〕。
 こうしてつぎの表が得られる。〔第16表を参照〕

〔第16表〕 列強の植民地領土
     (面積―100万平方q,住民―100万人)

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      、       植民地       、   本国   、   本国
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      、  1876年  、  1914年  、  1914年  、  1914年
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      、 面積 、 住民 、 面積 、 住民 、 面積 、 住民 、 面積 、 住民
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 イギリス 、 22.5、 251.9、 33.5、 393.5、  0.3、 46.5、 33.8、 330.0
  ロシア  、 17.0、 15.9、 17.4、 33.2、  5.4、 136.2、 22.8、 169.4
 フランス 、  0.9、  6.0、 10.6、 55.5、  0.5、 39.6、 11.1、  95.1
  ドイツ  、  ―、  ―、  2.9、 12.3、  0.5、 64.9、  3.4、  77.2
  合衆国  、  ―、  ―、  0.3、  9.7、  9.4、 97.0、  9.7、 106.7
  日本  、  「、  「、  0.3、 19.2、  0.4、 53.0、  0.7、  72.2
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6大強国総計、 40.4、 273.8、 65.0、 523.4、 16.5、 437.2、 81.5、 960.6
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 その他の強国(ベルギー,オランダ,等)の植民地・・・・・・・・・・・・、  9.9、  45.3
 半植民地(ペルシア,中国,トルコ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 14.5、 361.2
 その他の諸国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 28.0、 289.9
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 全世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、 133.9、1,657.0
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 われわれはここに、一九世紀と二〇世紀との境目で世界の分割が「完了」したことをはっきり見る。植民地領土は一八七六年以後巨大な規模に拡大した。すなわち、六大強国にあっては四〇〇〇万平方キロメートルから六五〇〇万平方キロメートルへ、一倍半以上に拡大した。増加面
積は二五〇〇万平方キロメートルであって、これは本国の面積(一六五〇万平方キロメートル)の一倍半にあたる。三つの強国は一八七六年にはすこしも植民地をもっておらず、第四の強国フランスもほとんどもっていなかった。だが一九一四年までに、これらの強国は一四一〇万平方キロメートルの面積の植民地を獲得していた。これはヨーロッパの面積のほぼ一倍半であって、その人口はほとんど一億人になる。植民地領土の拡大における不均等は非常に大きい。たとえばフランスとドイツと日本を比較すると、これらは面積と人口の点であまり違わないのに、フランスは、ドイツと日本をあわせたもののほとんど三倍(面積の点で)の植民地を獲得したことがわかる。だが金融資本の規模の点では、フランスはこの時期の初めのころには、おそらく、ドイツと日本をあわせたよりもこれまた何倍も富裕であった。植民地領土の規模には、純経済的な条件のほかに、それを基礎にして、地理的な条件その他が影響をおよぼす。最近数十年のあいだに、大工業や交易や金融資本の圧迫のもとで、世界の平準化、さまざまな国における経済条件や生活条件の平均化がどんなにいちじるしくすすんだとしても、それでもやはり少なからぬ相違が残っているのであって、上記の六ヵ国のなかにも、われわれは、一方では、異常に急速に進歩しつつある若い資本主義諸国(アメリカ、ドイツ、日本)を見るかとおもうと、他方では、近年前記の諸国よりも進歩がはるかにゆっくりしていた、資本主義的発展の古い国々(フランス、イギリス)を見るし、第三には、経済の点で最も立ちおくれた国(ロシア)を見る。ここでは、最新の資本主義的帝国主義が、いわば、前資本主義的諸関係のとくに細かな網の目でおおわれている。
 列強の植民地領土とならべて、われわれは小国の小さな植民地をかかげておいたが、これらの植民地は、おこりうべき、そしてたしかにおこりそうな植民地「再分割」の、いわば最も手近な対象である。これらの小国の大部分がその植民地を維持しているのは、ひとえに、大国のあいだに獲物の分配についての協定を妨げる利害の対立やあつれきその他があるおかげである。「半植民地」国家についていえば、それらは、自然と社会のすべての分野に見うけられるあの過渡的形態の一例をしめしている。金融資本は、あらゆる経済関係とあらゆる国際関係において、きわめて大きな、決定的ともいえるほどの力であるから、それは、完全な政治的独立を享有している国家をさえ従属させる能力があるし、実際にも従属させている。われわれはすぐあとでその実例を見るであろう。だが、いうまでもなく、金融資本に最大の「便宜」と最大の利益をあたえるのは、従属する国と民族との政治的独立の喪失と結びついているような従属である。半植民地はこの点での「中間物」として典型的である。これらの半従属諸国をめぐる闘争が、残りの世界がすでに分割されてしまった金融資本の時代にとくに激化せずにおかなかったのも、当然である。
 植民政策と帝国主義は資本主義の最新の段階以前にも存在したし、資本主義以前にすら存在した。奴隷制に基礎をおくローマは植民政策を遂行し、帝国主義を実現した。しかしもろもろの経済的社会構成体の根本的相違をわすれ、あるいは背後に押しやって、帝国主義について「一般的」に論じるような議論は、不可避的に、「大ローマと大ブリテン」とを比較するというような空虚な駄弁や駄ぼらにならずにはおかない(*)。資本主義の従前の諸段階の資本主義的植民政策でさえ、金融資本の植民政策とは本質的に異なるのである。
 (*) C・P・ルーカス『大ローマと大ブリテン』、オックスフォード、一九一二年、あるいはクローマー伯『古代帝国主義と近代帝国主義』、ロンドン、一九一〇年。

 最新の資本主義の基本的特質は、巨大企業家たちの独占団体の支配ということである。このような独占体は、すべての原料資源を一手ににぎっているときに最も強固である。そして国際的資本家団体が、対抗者から競争のあらゆる可能性をうばうために、たとえば、鉄鉱山や油田その他を買いしめるために、どんなに熱心に努力しているかは、すでにわれわれが見たとおりである。植民地の領有だけが、競争相手との闘争のあらゆる偶発事――対抗者が国家専売法によって自分をまもろうと思うかもしれないというような偶発事までもふくめて――にたいして、独占が成功する完全な保障をあたえる。資本主義が高度に発展すればするほど、原料の不足が強く感じられれば感じられるほど、また全世界における競争と原料資源の追求が激化すればするほど、植民地獲得のための闘争はそれだけ死にものぐるいになる。
 シルダーはつぎのように書いている。「一部の人にはおそらく逆説的と思われるだろうが、都市工業人口の増加は、多少とも近い将来に、食料品の不足によるよりはむしろ工業原料の不足によって抑制されることになりかねない、という主張をすることもできよう」。たとえば、木材の不足がひどくなっているので、木材価格はますます高騰している。皮革や繊維工業の原料もおなじである。「工業家の団体は世界経済全体の範囲で農業と工業との均衡をつくりだそうと試みている。その例として一九〇四年以来存在している、いくつかの最も重要な工業国における綿紡績業者の団体の国際的連合や、一九一〇年にこれにならって設立されたヨーロッパの麻紡績業者団体の連合を、あげることができる(*)」。
 (*) シルダー、前掲書、三八―四二ページ。

 もちろん、ブルジョア的改良主義者たちは、また彼らのなかでとくに今日のカウツキー主義者たちは、この種の事実の意義を弱めようと試みて、つぎのことを指摘している。すなわち、原料は「高価で危険な」植民政策なしにも自由市場で入手することが「できるであろう」とか、原料の供給は農業一般の条件の「たんなる」改善によっていちじるしく増大させることが「できるであろう」とかいうのである。しかしこのような指摘は帝国主義の弁護、美化に転化する。なぜなら、その基礎には、最新の資本主義の主要な特質である独占の忘却があるからである。自由市場はますます過去のものとなりつつあり、独占的なシンジケートやトラストは日ごとに自由市場を狭めている。そして農業の条件の「たんなる」改善というのは、つきつめれば、大衆の状態を改善し、賃金を引き上げ、利潤を減少させることである。いったい、植民地を征服するかわりに大衆の状態に配慮することのできるトラストなどというものが、甘ったるい改良主義者の幻想以外のどこに存在するだろうか?
 金融資本にとっては、すでに開発されている原料資源だけが意義をもっているのではない。ありうべき資源もまたそうである。なぜなら、今日、技術は信じられないほどの速さで発展しており、きょうは役にたたない土地も、新しい方法が発見されれば(このために、大銀行は技師や農学者その他の特別遠征隊を用意することができる)、またもっと多くの資本支出がなされるなら、あすは役にたつものになりうるからである。鉱物資源の探査、あれこれの原料の新しい加工法や利用法、その他等々についても、おなじである。そこで、金融資本は不可避的に経済的領土の拡張、さらには領土一般の拡張に努力することになる。トラストが、将来「ありうべき」(現在のではなく)利潤を計算に入れ、独占の将来の成果を計算に入れて、その財産を二倍にも三倍にも評価して資本化するのとおなじように、一般に金融資本も、ありうべき原料資源を計算に入れ、まだ分割されていない世界の土地の最後の一片のための、あるいはすでに分割されている土地の再分割のための、気違いじみた闘争でおくれをとることをおそれて、どんな土地であろうと、それがどこにあろうと、どのようにしてであろうと、できるだけ多くの土地を略取しようと努力するのである。
 イギリスの資本家は自分たちの植民地エジプトで綿花の生産を発展させようと、さまざまに努力している。一九〇四年には、エジプトの可耕地二三〇万ヘクタールのうちすでに六〇万ヘクタールが、すなわち四分の一以上が綿花栽培地であった。またロシアの資本家は自分たちの植民地トゥルケスタンでおなじことをしている。それは、こうすることによって彼らは、よりたやすく外国の競争相手に打撃をくわえることができるし、よりたやすく原料資源を独占するようになることができるし、また、「結合された」生産をもち、綿花の生産と加工のすべての段階を一手に集中した、より経済的で利潤の多い繊維トラストを、よりたやすく設立できるようになるからである。
 資本輸出の利益も同様に植民地の征服に押しやる。なぜなら、植民地市場では、独占的方法によって競争相手を排除し、供給を確保し、適当な「結びつき」をかためる等々のことが、よりたやすい(いや、ときにはここでだけそういうことが可能である)からである。
 金融資本の基礎上に成長する経済外的上部構造、すなわち金融資本の政策やイデオロギーは、植民地征服の熱望を強める。「金融資本は、自由ではなく支配を欲する」とヒルファディングは正当にも述べている〔56〕。またフランスの一ブルジョア著述家は、さきに引用したセシル・ローズの思想をいわば発展させ補足して、現代の植民政策の経済的諸原因に社会的諸原因をつけくわえるべきだと書いている。「生活が複雑になり、生活難が増大して、これが労働大衆だけでなく中産階級をも圧迫するようになるため、すべての旧文明諸国で『焦慮、憤怒、憎悪が蓄積されて、これが社会の平穏を脅かしている。ある一定の階級的軌道からほとばしりでるエネルギーは、行き場を見つけなければならない。国内で爆発しないように、そのエネルギーは国外で発散させられなければならない(*)』」。
 (*) ワール『植民地におけるフランス』――アンリ・リュシエ『大洋州の分割』、パリ、一九〇五年、一六五ページから引用。

 資本主義的帝国主義の時代の植民政策について述べる以上、金融資本とそれに照応する国際政策――それは、世界の経済的および政治的分割のための列強の闘争に帰着するが――は、国家的従属の一連の過渡的形態をつくりだすということを、注意しておかなければならない。この時代にとって典型的なのは、植民地領有国と植民地という二つの基本的国家群だけでなく、政治的に、形式的には独立国でありながら、実際には金融上および外交上の従属の網でがんじがらめにされている、種々さまざまな形態の従属国もそうである。これらの形態のうちの一つ――半植民地――については、すでにさきに指摘した。もう一つの形態の見本は、たとえばアルゼンティンである。
 シュルツェ―ゲーヴァニッツはイギリス帝国主義にかんする著述のなかでつぎのように書いている。「南アメリカ、とくにアルゼンティンは、ほとんどイギリスの商業植民地と呼んでもよいほど、ロンドンに金融的に従属している(*)」。イギリスがアルゼンティンに投下している資本を、シルダーは、ブエノスアイレス駐在オーストリア=ハンガリー領事の一九〇九年度報告によって、八七億五〇〇〇万フランと算定した。このためイギリスの金融資本――およびその忠実な「友人」である外交――が、アルゼンティンのブルジョアジー、その国の経済生活と政治生活全体の指導者層と、どんなに強固な結びつきをもつようになっているかは、想像にかたくない。
 (*) シュルツェ―ゲーヴァニッツ『二〇世紀初頭のイギリス帝国主義とイギリス自由貿易』、ライプツィヒ、一九〇六年、三一八ページ。ザルトリウス・フォン・ヴァルタースハウゼンもおなじことを述べている。『国外投資の国民経済体系』、ベルリン、一九〇七年、四六ページ。

 政治的独立をたもちながら金融的および外交的に従属していることのいくらか違った形態をしめしているのが、ポルトガルの例である。ポルトガルは独立の主権国家であるが、事実上は二〇〇年以上のあいだ、すなわちスペインの王位継承戦争(一七〇一―一七一四年)のとき以来、イギリスの保護下にある。イギリスは自分の対抗者であるスペインやフランスとの闘争での自分の立場を強化するために、ポルトガルとその植民地領土を擁護した。イギリスはそれとひきかえに通商上の特恵、すなわち、ポルトガルおよびその植民地への商品の輸出ととくに資本の輸出のための他国より有利な条件や、ポルトガルの港湾、島、海底電線を利用する可能性、その他等々を獲得した(*)。個々の大国と小国とのあいだのこの種の関係はいつの世にもあった。しかし資本主義的帝国主義の時代には、それは一般的な体系となり、「世界の分割」の諸関係の総体のなかの一部分となり、世界金融資本の諸活動の鎖の環に転化している。
 (*) シルダー、前掲書、第一巻、一六〇―二八一ページ。

 世界の分割の問題を終えるにあたって、なおつぎのことを注意しておかなければならない。アメリカ=スペイン戦争後のアメリカ文献とボーア戦争後のイギリス文献だけが、まさに一九世紀末から二〇世紀初めにかけてこの問題をまったく公然と、そしてきっぱり提起したのではないし、まただれよりも「嫉妬ぶかく」「イギリス帝国主義」をあとづけていたドイツ文献だけがこの事実を系統的に評価したのでもない。フランスのブルジョア文献のなかでも、この問題は、ブルジョア的見地から考えられるかぎりで十分にきっぱり、また広範に提起されている。歴史家ドリオを引合いに出そう。彼は著書『一九世紀末における政治問題と社会問題』のなかの「列強と世界の分割」という章でつぎのように書いている。「近年、中国をのぞき、地球上のすべての自由な土地は、ヨーロッパと北アメリカの列強によって占取された。このことが基礎になってすでにいくつかの衝突と勢力の移動がおこったが、これは近い将来におけるもっと恐ろしい爆発の前兆である。なぜなら、いそがなければならないからである。なにも確保しなかった国民は、今後けっして自分の分け前をもらえず、またつぎの世紀(すなわち二〇世紀)の最も本質的な事実となるであろう地球のあの大規模な開発に参加できない恐れがある。だからこそ全ヨーロッパとアメリカは近時、植民地拡張の熱病に、一九世紀末の最も顕著な特徴である『帝国主義』の熱病に、とりつかれてしまったのである」。そして著者はつけくわえている。「この世界分割のもとで、地上の宝庫と大市場をめざすこの気違いじみた追求のなかで、今一九世紀に建設された諸帝国の相対的な力は、それらの帝国を建設した諸国民がヨーロッパで占めている地位とまったく釣りあわなくなっている。ヨーロッパで優位にある諸強国、すなわちヨーロッパの運命の決定者が、全世界でも同様に優位にあるわけではない。そして植民地の威力、まだ算定されていない富を支配しようという希望は、明らかにヨーロッパの列強の相対的な力に反作用をおよぼすであろうから、そのため、すでにヨーロッパ自身の政治的諸条件を変化させた植民地問題――あるいはそういいたければ『帝国主義』――は、その政治的諸条件をさらにいっそう変化させるであろう(*)。」
 (*) J・ドリオ『政治問題と社会問題』、パリ、一九〇七年、二九九ページ。


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