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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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★  七 資本主義の特殊の段階としての帝国主義

 いまやわれわれは一応のしめくくりをし、帝国主義について以上に述べたことを総括してみなければならない。帝国主義は、資本主義一般の基本的諸特質の発展および直接の継続として生じた。だが資本主義が資本主義的帝国主義になったのは、やっとその発展の一定の、非常に高い段階でのことであり、資本主義のいくつかの基本的特質がその対立物に転化しはじめ、資本主義からより高度の社会=経済制度への過渡期の諸特徴があらゆる面で形成され、表面に現われたときのことである。この過程で経済的に基本的なのは、資本主義的自由競争に資本主義的独占がとってかわったことである。自由競争は資本主義および商品生産一般の基本的特質である。独占は自由競争の直接の対立物であるが「この自由競争が、大規模生産をつくりだし、小規模生産を駆逐し、大規模生産を巨大な規模の生産によっておきかえ、生産と資本との集積を、そのなかから独占――カルテル、シンジケート、トラスト、および、幾十億の金をちごかすおよそ一〇ほどの銀行の、これらと融合した資本――がすでに発生し、いまも発生しつつあるほどにまでみちびき、こうしてわれわれの目のまえで独占に転化しはじめたのである。それと同時に、独占は、自由競争から生長しながらも、自由競争を排除せず、自由競争のうえにこれとならんで存在し、そのことによって幾多のとくに先鋭で激烈な矛盾、あつれき、衝突を生みだす。独占は資本主義からより高度の制度への過渡である
 もし帝国主義のできるだけ簡単な定義をあたえなければならないとしたら、帝国主義とは資本主義の独占段階である、というべきであろう。この定義は最も主要なものをふくんでいるであろう。なぜなら、一方では、金融資本は、産業家の独占団体の資本と融合した、少数の独占的な巨大銀行の銀行資本であり、他方では、世界の分割は、まだどの資本主義的強国によっても略取されていない領域へ妨げられずに拡張しうる植民政策から、くまなく分割された領土の独占的領有という植民政策への移行だからである。
 しかしあまりにも簡単すぎる定義は、なるほど主要なものを総括するので便利であるとはいえ、定義すべき現象のきわめて本質的な特徴をその定義からとくに引きださなければならないとなると、やはり不十分である。だから、定義というものはけっして現象の全面的な関連をその完全な発展のうちにとらえうるものではないという、一般にすべての定義のもつ条件的で相対的な意義をわすれることなしに、つぎの五つの基本的標識をふくむような、帝国主義の定義をあたえなければならない。(一)生産と資本との集積が、経済生活で決定的な役割を演ずる独占をつくりだすほどに高い発展段階に達したこと。(二)銀行資本と産業資本が融合し、この「金融資本」を基礎にして金融寡頭制がつくりだされたこと。(三)商品の輸出とは異なる資本の輸出がとくに重要な意義を獲得しつつあること。(四)世界を分割する資本家の国際的独占団体が形成されつつあること。(五)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了していること。帝国主義とは、独占体と金融資本との支配が形成されて、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である。
 なおあとで見るように、もし基本的な純経済的概念(右の定義はこれに限定されている)だけでなく、資本主義一般にたいする資本主義のこの段階の歴史的地位とか、あるいは労働運動の内部における二つの基本的傾向と帝国主義との関係を考慮に入れれば、帝国主義についてこれとは別様に定義することができるし、またしなければならない。だがいまは、右に指摘した意味に理解される帝国主義は、疑いもなく、資本主義の特殊の発展段階であるということを、注意しておく必要がある。帝国主義についてできるだけ根拠ある観念を読者にあたえるために、われわれはことさら、最新の資本主義経済のとくに争う余地なく明確な事実を承認することをよぎなくされているブルジョア経済学者の論説を、できるだけ多く引用することにつとめた。銀行資本等々がまさにどの程度まで成長したか、量の質への移行、すなわち発展した資本主義の帝国主義への移行がまさにどういう点に現われているか、ということを見せてくれる詳しい統計資料を引用したのも、これと同じ目的からであった。もちろん、いうまでもなく、自然や社会における境界はすべて条件的で可動的なものであるから、たとえば帝国主義が「最終的に」確立されたのは何年のことか、あるいは何十年代のことか、などということについて論争するのは、ばかげたことであろう。
 しかし帝国主義の定義について、まずだれよりも、いわゆる第二インタナショナルの時代の、すなわち一八八九―一九一四年の二五年間の、主要なマルクス主義理論家であるK・カウツキーと論争しなければならない。われわれがあたえた帝国主義の定義のなかで表現されている基本的思想にたいして、カウツキーは一九一五年に、いやすでに一九一四年一一月にまったく決然と反対して、つぎのように言明した。――帝国主義は、経済の一「局面」あるいは段階と理解すべきではなくて、政策と、すなわち金融資本が「好んでもちいる」一定の政策と、理解すべきである。帝国主義と「現代資本主義」とを同一視してはならない。もし帝国主義を「現代資本主義のすべての現象」――カルテル、保護政策、金融業者の支配、植民政策――と理解すると、資本主義にとっての帝国主義の必然性の問題は、「最も月なみな同義反復」に帰してしまう。なぜなら、そうとすると、「帝国主義は、当然、資本主義にとって死活の必要物だ」ということになるからである。等々。カウツキーのこの考えは、われわれの叙述した思想の本質にまっこうから反対して彼があたえた帝国主義の定義を引用することによって、なによりも正確にあらわせるであろう(なぜなら、長年のあいだこれと同様の思想を説いてきたドイツのマルクス主義者の陣営内の異論は、マルクス主義内の一定の潮流の異論として、カウツキーには早くから知られていたことだからである)。
 カウツキーの定義はつぎのようにいっている。
 「帝国主義は高度に発展した産業資本主義の産物である。それは、そこにどんな民族が住んでいるかにかかわりなく、ますます大きな農業地域(傍点はカウツキー)を隷属させ併合しようという、あらゆる産業資本主義的民族の志向である(*)」。
 (*) 『ノィエ・ツァイト』、一九一四年、第二巻(第三二年)、九〇九ページ、一九一四年一一月一一日号。なお一九一五年、第二巻、一〇七ページ以下を参照〔57〕。

 この定義はまったくなんの役にもたたない。なぜなら、それは一面的だからである。すなわち、それはかってに民族問題だけを(それは、そのものとしても、また帝国主義にたいする関係においても、いちじるしく重要なものではあるが)とりだし、しかもそれを、かってに、またまちがって、他の民族を併合する国の産業資本とだけ結びつけ〔58〕、おなじくかってに、またまちがって、農業地域の併合を取りだしているからである。
 帝国主義は併合への志向である――カウツキーの定義の政治的部分はまさにこれに帰着する。その部分は正しいが、しかしきわめて不完全である。なぜなら、政治的には、帝国主義は一般に強圧と反動とへの志向だからである。しかしわれわれがここで論じているのは問題の経済的側面であって、カウツキー自身もその側面を彼の定義のなかにとりいれているのである。カウツキーの定義のなかの誤りは明白である。帝国主義にとって特徴的なのは、まさに産業資本ではなく、金融資本である。フランスで、産業資本が弱まったのに、まさに金融資本がとくに急速に発展したため、前世紀の八〇年代に併合(植民)政策が極度に先鋭化したのも、げっして偶然ではない。また帝国主義にとって特徴的なのは、まさに、農業地域だけでなく最も工業的な地域をも併合しようという志向である(ドイツはベルギーに、フランスはローレーヌに食指をうごかしている)。というのは、第一に、地球の分割が完了しているので、再分割にあたっては、どんな土地にも手を出さなければならなくなっているからであり、第二に、帝国主義にとっては、ヘゲモニーをにぎろうと努力する、すなわち、直接に自分のためというよりも、むしろ相手を弱めてそのヘゲモニーをくつがえすために土地を略取しようと努力する、いくつかの強国の競争が本質的だからである(ドイツにとってはベルギーはイギリスにたいする拠点として、イギリスにとってはバグダードはドイツにたいする拠点として、特別に重要である、等々)。
 カウツキーは、帝国主義ということばの純政治的意義を彼カウツキーのいう意味で確立したといわれるイギリス人たちを、とくに――しかもたびたび――引合いに出している。そこでイギリス人ホブソンをとってみよう。一九〇二年に出版された彼の著書『帝国主義論』には、つぎのように書いてある。
 「新しい帝国主義はつぎの点で古い帝国主義と異なる。第一に、一個の成長しつつある帝国の野望にかわって、それぞれ政治的膨脹と商業的利益とにたいする同様の欲求によって誘導されている、競争しあういくつかの帝国の理論と実践が現われたことであり、第二に、金融上の利益あるいは資本投下の利益が商業上の利益に優越していることである(*)」。
 われわれは、カウツキーがイギリス人を一般に引合いに出すのは事実のうえから絶対にまちがいであることを知る(彼はせいぜい、イギリスの俗流帝国主義者あるいは帝国主義の公然たる弁護者を引合いに出せるだけであろう)。われわれはまた、カウツキーが、自分ではマルクス主義の擁護をつづけているつもりになっていても、実際には社会自由主義者ホブソンとくらべて一歩後退していることを知る。ホプソンは現代帝国主義の二つの「歴史的に具体的な」(カウツキーは彼の定義によってこの歴史的具体性をまさに愚弄しているのだ!)特性を、すなわち(一)いくつかの帝国主義の競争と(二)商人にたいする金融業者の優越を、より正しく考慮に入れている。だがもし工業国が農業国を併合することが主として問題であるのなら、商人の傑出した役割が前面に押しだされるわけである。
 カウツキーの定義はまちがっていてマルクス主義的でないだけでない。それは、すべての面でマルクス主義理論ともマルクス主義的実践とも手を切ったもろもろの見解の全体系の基礎として役だつものであるが、このことについてはなおあとで述べよう。カウツキーがもちだした用語上の争い、すなわち、資本主義の最新の段階を帝国主義と呼ぶべきか、金融資本の段階と呼ぶべきかということは、まったくくだらないことである。呼びたいように呼ぶがよい。それはどうでもよいことだ。ことの本質は、カウツキーが帝国主義の政策をその経済から切りはなし、併合を金融資本の「好んでもちいる」政策と説明し、この政策に、金融資本というこの同じ基盤のうえで可能であるという他のブルジョア的政策を対置していることにある。これでは、経済における独占が政治における非独占的な、非強圧的な、非侵略的な行動様式と両立しうることになる。また、ほかならぬ金融資本の時代に完了し、最大の資本主義諸国家のあいだの競争の現代の形態の特異性の基礎をなす地球の領土的分割が、非帝国主義的政策と両立しうることになる。こうして、資本主義の最新の段階の最も根本的な諸矛盾の深刻さをあばきだすかわりに、それらを塗りかくし、鈍く見せることになり、マルクス主義のかわりにブルジョア的改良主義が得られるのである。
 カウツキーは帝国主義と併合のドイツ人弁護者クノーと論争している。クノーは不器用に、しかもあつかましくつぎのように論じている。帝国主義は現代資本主義である。資本主義の発展は不可避であり進歩的である。だから帝国主義は進歩的である。だから帝国主義のまえにひれふし、これを賛美しなければならない!と。これは、一八九四―一八九五年にナロードニキが〔60〕ロシアのマルクス主義者に反対して描いた漫画と、まずは同じようなものである。もしマルクス主義者がロシアにおける資本主義を不可避で進歩的なことと考えるのなら、マルクス主義者は居酒屋でもひらいて資本主義の扶植に従事すべきである〔61〕、というのである。カウツキーはクノーに反論していう。いや、帝国主義は現代資本主義のことではなく、現代資本主義の政策の一形態にすぎない。だからわれわれはこの政策とたたかい、帝国主義、併合、等々とたたかうことができるし、またたたかわなければならない、と。
 この反論はいかにももっともらしく見えるが、実際には、それは帝国主義との和解のより巧妙な、より隠蔽された(だからまたより危険な)説教である。なぜなら、トラストや銀行の経済の基礎に手を触れないでトラストや銀行の政策と「闘争」することは、ブルジョア的改良主義と平和主義に帰着し、お人好しであどけない願望に帰着するからである。存在する諸矛盾をその全根底から暴露するかわりに、それらの矛盾を回避し、それらのうちの最も重要なものをわすれること、――これこそ、マルクス主義とは緑もゆかりもないカウツキー理論である。このような「理論」がクノー一派との統一の思想を擁護するのに役だつだけなのは、明らかである!
 カウツキーは書いている。「純経済的見地からすれば、資本主義がなお一つの新しい段階を、すなわち、カルテルの政策の対外政策への転移を、超帝国主義の段階をとおることは、ありえないことではない(*)」。この超帝国主義の段階というのは、全世界の帝国主義者があいたたかうのではなくて合同する段階であり、資本主義のもとで戦争がなくなる段階であり、「国際的に連合した金融資本による世界の共同搾取(**)」の段階なのである。
 (*) 『ノイエ・ツァイト』、一九一四年、第二巻(第三二年)、一九一四年一一月一一日号、九二一ページ。一九一五年、第二巻、一〇七ページ以下を参照。
 (**) 『ノイエ・ツァィト』、一九一五年、第一巻、一九一五年四月三〇日号、一四四ページ。

 この「超帝国主義の理論」については、それがマルクス主義とどれほど決定的に、どうにもならないまでに絶縁しているかを詳しくしめすために、われわれはまたあとで論じなければならない。ここでは、この概説の一般的計画にしたがって、この問題に関係ある正確な経済的資料に目を向けてみる必要がある。いったい「純経済的な見地から」して「超帝国主義」は可能であろうか、それともこれは超ノンセンスであろうか?
 もし純経済的見地ということを「純粋の」抽象と解するなら、言いうろことのすべては、要するに、発展は独占にむかっており、したがって一つの全世界的独占に、一つの全世界的トラストにむかっている、という命題に帰着するであろう。これは争う余地がない。だがこれは、「発展は」実験室内での食糧の生産に「むかっている」という指摘とおなじように、まったく無内容である。この意味で、超帝国主義の「理論」は「超農業の理論」とおなじくらいばかげている。
 もし二〇世紀の初めにあたる歴史的に具体的な時代としての金融資本の時代の「純経済的」事情について語るなら、「超帝国主義」という死んだ抽象(現存する諸矛盾の深刻さから人々の注意をそらすという、きわめて反動的な目的に役だつもの)にたいする最良の回答は、現代の世界経済の具体的な経済的現実をそれに対置することである。超帝国主義にかんするカウツキーの無内容きわまるおしゃべりは、とりわけ、金融資本の支配は、実際には世界経済の内部の不均等性と矛盾を激化させているのに、それらを弱めるかのようにいう、根本からまちがった、そして帝国王義の弁護者たちに力をかす思想を、鼓吹するものである〔62〕。
 R・カルヴァーは小著『世界経済入門(*)』のなかで、一九世紀と二〇世紀との境目のころにおける世界経済内部の相互関係について具体的な観念をあたえうる、最も主要な純経済的資料を総括する試みをした。彼は全世界をつぎの五つの「主要な経済地域」に区分している。(一)中央ヨーロッパ地域(ロシアとイギリスをのぞく全ヨーロッパ)、(二)イギリス地域、(三)ロシア地域、(四)東アジア地域、(五)アメリカ地域。植民地は、それが属する国家の「地域」にふくめてあるが、どの地域にも配分されない少数の国、たとえばアジアのペルシア、アフガニスタン、アラビア、アフリカのモロッコ、アビシニアなどは、「度外視してある」。
 (*) R・カルヴァー『世界経済入門』、ベルリン、一九〇六年。

 つぎに、これらの地域にかんする彼のあげた経済的資料を、簡略にしてしめそう。〔第17表を参照〕

〔第17表〕
「「「「「「「ホ「「「「ホ「「「ホ「「「「「「「ホ「「「ホ「「「「「「「「「「「
       、 面積 、 人口 、  交通機関  、 貿易 、 工業
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「ホ「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
 世界の主要な、(100 万、(100 、 鉄道 、商船 、輸出入、石炭採、銑鉄生、綿紡績
 経済的地域 、平方q)、万人)、(1000、(100 、合計 、堀高 、産高 、業の紡
       、    、   、 q)、 万ト 、(10億、(100 、(100 、錘数
       、    、   、   、 ン)、 マル 、 万ト 、 万ト 、(100
       、    、   、   、   、 ク) 、 ン) 、 ン) 、 万)
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
(1) 中央ヨーロ、 27.6 、 388 、 204 、  8 、  41 、 251 、 15  、  26
  ッパ地域 、(23.6)、 (146)、   、   、   、   、   、
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
(2) イギリス 、 28.9 、 398 、 140 、  11 、  25 、 249 、 9  、  51
  地域   、(28.6)、 (355)、   、   、   、   、   、
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
(3) ロシア地域、  22 、 131 、  63 、  1 、  3 、  16 、 3  、  7
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
(4) 東アジア 、  12 、 389 、  8 、  1 、  2 、  8 、 0.02、  2
  地域   、    、   、   、   、   、   、   、
「「「「「「「゙「「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「゙「「「
(5) アメリカ 、  30 、 148 、 379 、  6 、  14 、 245 、 14  、  19
  地域   、    、   、   、   、   、   、   、
「「「「「「「ヨ「「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「
( )内の数字は植民地の面積と人口

 われわれは、資本主義の高度に発展した(交通機関も貿易も工業も大いに発展した)三つの地域、すなわち中央ヨーロッパ地域、イギリス地域、アメリカ地域を見る。これらの地域には世界を支配している三つの国家、ドイツ、イギリス、合衆国がある。それらのあいだの帝国主義的競争と闘争は、ドイツがとるにたりない地域とわずかな植民地しかもっていないことから、極度に先鋭化している。「中央ヨーロッパ」ができあがるのはなお将来のことであって、それが生まれるのは死にものぐるいの闘争のうちにである。いまのところ、全ヨーロッパの特徴は政治的細分状態である。イギリス地域とアメリカ地域では、これと反対に、政治的集中度が非常に高い。しかし、前者は広大な植民地をもっているのに後者はとるにたりない植民地しかもっていないという大きな不均衡がある。ところで植民地では資本主義は発展しはじめたばかりである。南アメリカをめざす闘争はますます激化している。
 二つの地域は資本主義の発展の微弱な地域で、これはロシア地域と東アジア地域である。前者では人口の密度がきわめて低く、後者ではきわめて高い。また前者では政治的集中度が大きいが、後者ではそれが欠けている。中国の分割はやっとはじまったばかりである。そして中国をめぐる日本、合衆国、その他のあいだの闘争は、しだいにますます激化している。
 この現実――経済的および政治的諸条件がこのように非常に多様であり、さまざまな国の成長速度その他に極度の不均衡があり、帝国主義諸国家のあいだに凶暴な闘争がおこなわれているというこの現実――を、「平和な」超帝国主義というカウツキーのばかげきったおとぎ話と対比してみたまえ。これは、びっくり仰天した小市民が恐ろしい現実から身をかくそうという反動的な企てではないだろうか? カウツキーには「超帝国主義」の萌芽と思われる(実験室での錠剤の生産を超農業の萌芽と宣言「できる」のと同様に)国際カルテルは、世界の分割と再分割の実例平和的な分割から非平和的な分割への移行およびその逆の移行の実例を、われわれにしめすものではないだろうか? ドイツの参加を得てたとえば国際軌条シンジケートや国際海運トラストにおいて全世界を平和的に分割していた、アメリカその他の金融資本は、まったく非平和的な方法によって一変されつつある新しい力関係にもとづいて、いま世界を再分割しつつあるのではないだろうか?
 金融資本およびトラストは、世界経済のさまざまな部分の成長速度の相違を弱めるものではなく、むしろ強めるものである。ところで、力関係が変化した場合、資本主義のもとでは、矛盾の解決は力による以外になににもとめえようか? 世界経済全体における資本主義と金融資本との成長速度の相違についてのきわめて精密な資料を、われわれは鉄道統計のうちに見いだす(*)。帝国主義発展の最近の数十年間に、鉄道の延長はつぎのように変化した。〔第18表を参照〕
 (*) 『ドイツ帝国統計年鑑』、一九一五年、『鉄道事業記録』、一八九二年。一八九〇年度におけるいろいろな国の植民地のあいだの鉄道の分布については、細部はいくらか概算しなげればならなかった。

〔第18表〕
「「「「「「「「「「ホ「「「「「ホ「「「「「ホ「「「「「
          、1890年、1913年、 増加率
「「「「「「「「「「゙「「「「「゙「「「「「゙「「「「「
 ヨーロッパ    、 224   、 346   、+ 122
 アメリカ合衆国  、 268   、 411   、+ 143
 全植民地     、 82ホ 125、 210ホ 347、+ 128ホ 222
 アジアとアメリカの、 43コ  、 137コ  、+ 94コ
 独立国と半独立国 、     、     、
「「「「「「「「「「゙「「「「「゙「「「「「゙「「「「「
          、 617   、1,104   、
「「「「「「「「「「ヨ「「「「「ヨ「「「「「ヨ「「「「「

 したがって、鉄道の発展は、アジアとアメリカの植民地と独立国(および半独立国)で最も急速にすすんだわけである。周知のように、四つか五つの最大の資本主義国家の金融資本が、この地域で全面的に君臨し支配している。植民地とアジア、アメリカのその他の国々における二〇万キロメートルの新しい鉄道、それは、四〇〇億マルク以上の新しい資本の投下がとくに有利な条件でおこなわれ、収益がとくに保障され、製鋼所に利益の多い注文がなされる、その他等々のことを意味する。
 資本主義は植民地と海外諸国で最も急速に成長しつつある。それらのなかに新しい帝国主義的諸強固(日本)が出現している。世界帝国主義の闘争は激化している。金融資本が植民地や海外のとくに有利な企業から取りたてる貢物が増大している。この「雑物」の分配にあたって、異常に大きな部分が、生産力の発展速度の点でかならずしも第一位を占めていない国々の手に落ちている。植民地をふくめた最大の諸強国における鉄道の延長は、つぎのとおりであった。〔第19表を参照〕

〔第19表〕  (単位 1000q)
「「「「「「「ホ「「「ホ「「「ホ「「「
       、1890年、1913年、 増加
「「「「「「「゙「「「゙「「「゙「「「
 合衆国   、 268 、 413 、 145
 イギリス帝国、 107 、 208 、 101
 ロシア   、 32 、 78 、 46
 ドイツ   、 43 、 68 、 25
 フランス  、 41 、 63 、 22
「「「「「「「゙「「「゙「「「゙「「「
 5強国合計 、 491 、 830 、 339
「「「「「「「ヨ「「「ヨ「「「ヨ「「「

 このように、鉄道の全延長の約八〇%が五つの最大の強国に集積されている。しかしこれらの鉄道の所有の集積、金融資本の集積は、これよりずっといちじるしい。なぜなら、アメリカ、ロシアその他の鉄道の大量の株式や社債が、たとえばイギリスとフランスの百万長者の手にあるからである。
 イギリスはその植民地のおかげで「その」鉄道網を一〇万キロメートル増加させたが、これはドイツの増加の四倍にあたる。ところが周知のように、この期間におけるドイツの生産力の発展は、とくに石炭業と製鉄業の発展は、フランスやロシアはいうまでもなく、イギリスとくらべてさえ、比較にならないくらい急速であった。一八九二年には銑鉄の生産高はイギリスの六八〇万トンにたいしてドイツは四九〇万トンであったが、一九一二年にはもはや九〇〇万トンにたいして一七六〇万トンであって、イギリスより圧倒的に優位にある(*)! そこでたずねるが、資本主義の基礎上では、一方における生産力の発展および資本の蓄積と、他方における金融資本のための植民地および「勢力範囲」の分割とのあいだの不均衡を除去するのに、いったい戦争以外にどんな手段がありえようか?
 (*) なお、エドガー・クラモンド『イギリス帝国とドイツ帝国との経済的関係』――『王立統計協会雑誌』、一九一四年七月、七七七ページ以下を参照。


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