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組織内女性差別問題の克服のために
STRUGGLS OF OLD TROTSKISTS


差別のない組織をめざして
99年10月 まっぺん

まず私の立場をはっきりさせておきたい。私はこの問題についてふたつの立場からアプローチしなければならないと思っている。

第一の立場

私は1970年代初期に第四インター派学生運動(学生インター)に参加し、その後、共青同に81年まで在籍した。それまでに参加したさまざまな闘争と文献の学習などからトロツキズムの正しさについての確信を得た。しかし、遂にJRCL(第四インター日本支部。以下JR)には入党しなかった。私は組織的活動に対して必ずしも順応せず、組織や仲間からも度々そのような批判を受けてきたが、どうしても組織活動に対して納得できないものがあったため、入党はしなかったのである。
したがって組織内でおこった女性差別事件に対しては主体的な立場からなにか批判的な意見をいう資格は私にはない、と考えている。所詮、私は“ファン”でしかない。この事件によって深く傷ついた多くの同志達に対し、崩壊した組織に対し、被害者の女性たちに対して高所からわかったような口をきく権利は私には全くない。また加害者として追放され、今も良心の苦しみにあえいでいる男たちを嘲りののしる資格も私にはない。
だから私の文章の中でこの事件の関係者たちに対して何か批判がましくきこえる書き方があったら、それはそのようには受け取らないでほしい。今も第四インターナショナルの運動に対して熱烈な声援を送るファンからの疑問であり提案なのだと思ってほしい。

第二の立場

それにも関わらず、この問題については、一組織の問題に止まらずより普遍的な問題として考えてゆかねばならないものがある、とも考える。
なぜならば自分もひとりの男であるばかりでなく、差別意識を持っている男であり、もしも自分が加害者と同じ立場にあった時、はたして潔癖でいられただろうかと思うことがあるからである。また、この問題は特殊“トロツキスト組織だから”おこったのではない事は明らかである。男女両方が属する組織であればどんな組織にでも起こりうる問題であり、その根元によこたわる女性の差別的地位について自覚しない限り、この問題は解決しない。
“規律”を設けることは事件の発生をくい止める有効な手段となるであろう。それを否定するものではない。しかしそれは根本的解決とは違う。大切なのはこの問題について考え、討議しながら理解を深めていく事なのだと思う。世界の解放は男女差別の解放でもなければならないと考える観点から、私はひとりの“差別者”側に立つ「男」として、自分自身の問題としてこの問題を主体的に考えていきたいとも思う。

資本主義社会は差別を廃止できない

現代社会は差別社会である。さまざまな差別がわれわれを差別者と被差別者とに分断し双方の意識と存在とを束縛する。被差別者は差別からの解放を求めて団結し自立した組織を作りだしてきた。全国水平社−部落解放同盟をはじめ婦人解放組織、障害者解放団体など多くの組織・団体が生まれ差別廃止のために活動してきた。
しかし、差別は解消されるどころか、常に再生産され次の世代へと受け継がれてきた。私はこのメカニズムを組織内の学習によって学んできた。差別はこの資本主義社会を維持してゆくための道具になっているし、一部の人々にとっては“利益”にさえなっていること、利益を求めて差別は意識的に拡大再生産されていること、一種の“商品”として差別は流通さえしているのだということ。
この資本主義社会がそれらの拡大再生産の根元であり、資本主義の廃止なしには差別を廃止する事はできない。このように私は学んできたが、今もそれは正しい考えだと思っている。
しかし、重要なのは、資本主義を廃止した後どのような社会を建設するのか、ということである。「社会主義」と一言でかたられる概念の、その内実が問われている。どのように豊かな、差別のない「社会主義」を建設するのか、が問われていたと思うが、この部分について我々はどの程度真剣に考えてきただろうか。

党と青年運動、婦人運動

資本主義を廃絶し社会主義に向かって大衆を導く前衛をめざすJRCLはこの問題をどう提起しようとしていたのか。JRのもとにはいくつかの大衆的運動が組織された。日本共産青年同盟(共青同)、社会主義婦人会議(社婦会)、アジア青年会議(アジ青)、その他・・・・とりわけ共青同、社婦会のふたつは兄弟・姉妹組織としてJRの二本の柱であった。過渡的綱領にいう「青年、婦人に道をひらけ!」のスローガンを実践的に担う運動体として、タテマエとしては“自立した運動”として両組織は建設された。社婦会は当然にも女性差別と闘うことがJRによっても婦人会議のメンバーによっても期待された。

しかし、その実態はどうだったか。青年同盟はJRの“行動隊”であった。青年の問題に深く関わることよりも、闘争課題にむけて動員力を強化し、行動していく“党のための運動”の位置にあった。もちろん、それはそれで否定はしない。それも青年同盟の重要な一側面であると思う。しかしそれだけであっては本当の青年運動とはいえない。今ふりかえってみると、私はそこに“違和感”を覚えていたのではないかと思う。
婦人運動も同じだったのではないか。“婦人の自立”をめざし女性解放のたたかいを担っていった社婦会と機関誌「婦人通信」の運動はJRにとっては外部に向けて婦人運動を確立し、自らの傘下に大衆運動として拡大してゆくための行動隊だったのではないか。婦人運動が掲げる“女性差別”“婦人の地位向上”の概念は外部に向けて有効であったが、組織内部に向けてはまったく意識されていなかったことが、あの一連の事件で暴露されたのではないだろうか。

婦人運動が組織するべきもの

「婦人通信」はあの頃それなりに購読者を拡大していたように思う。しかし、その中で男性の購読者はどれほどいただろうか。社婦会の提起する問題を“自分の問題”として受け止めていた男性はどれほどいたのだろうか。私自身についていうならば、当時たしかに購読者ではあった。しかし彼女たちが提起していた問題は「おんなの問題」であって自分の問題ではないと認識していたと思う。新時代社の男たちはどうであったか? やはり同じだったのではないだろうか。他ならぬ組織の内部で“婦人問題”は他人ごとであった。
女性差別問題は他の差別問題とちがって「第三者」でいることができない問題である。さまざまな差別が存在する中で女性差別というのは一番身近で日常的だからである。日常のなにげない光景のなかにさえ女性差別に関係するものはたくさんある。われわれ“加害者”側陣営に属する者はそれを見落としてきた。婦人解放運動は、男の意識を解放する運動と不可分なのであり、自分自身の運動として位置づけるべきなのだと、このごろは考えるようになった。

トロツキズムの国際組織そのものが失格なのか?

すでにこれまで明らかにされているようにJRは何よりも男中心の組織であり、自らの組織内部での差別的意識を克服する事ができなかった。その結果として全女性メンバーは脱退し、また組織の分裂を招いてしまった。男たちの内のいくらかはこれまでの組織の対応について苦悩し自己批判しつつも、日本支部の再生をめざして3つの組織に残った。女たちは組織そのものを“トロツキズム”の概念もろとも捨て去った。男女のこのような対応の違いについて私はまだ理解できないでいる。JRが組織として犯した罪に対して女性メンバーが絶望したのは理解できる。しかし、それは全世界50カ国でたたかい続ける兄弟姉妹組織の全てに対しての絶望なのだろうか? もしそうならば、それまで少なくともトロツキズムを最も優れた思想として受け入れて入党した自分自身の過去をも捨てさることになるのではないだろうか。
私は資本主義社会は差別を廃絶することはできない、と書いた。婦人差別もまた資本主義の廃絶なしにはあり得ないと確信している。一度はそのように確信して「社会主義婦人会議」に結集した元JRメンバーの女性たちこそ、本当に差別廃絶をめざす政党をつくる事ができる、と私は思っている。他ならぬ婦人解放のためにも、過去のJRの誤りを乗り越えるためにも、女性たちみずから“党をめざす”運動をおこすべきなのではないだろうか。

差別克服の鍵は女性がにぎっている

男女差別を克服するのは一方の性だけでは不可能である、と思っている。女性は男性から“あらゆる意味で”自立しなくてはならない。女性が男性と同等の位置に自らの足場を築いた時、差別克服の糸口がひらけると思う。
これまでの組織内差別問題の経過は、女性側からの追求、男性側の居直り、女性の絶望そして脱退、組織の分裂、男性なりの自己批判的作業と運動の継続、という経過をたどっている。男性トロツキスト達のどのような自己批判にもかかわらず、現実の日本トロツキスト運動は今も男性側が代表している。この状態を放置しておくかぎり永久に何も始まらない。
時間が解決するのだろうか? 長い時間がたち、当時の事件が風化して、忘れてしまうことが解決なのだろうか? それは本当の解決ではない、と思う。自立した女性組織を作り、世界大会オブザーバー権についても女性側の方が獲得するべきなのではないか、と思う。
あの事件で多くの女性たちが深い痛手を負った。なによりも精神的な支柱であった組織に裏切られた、その絶望感は、とても「理解できる」などと軽々しくくちにはできるものではない。
「一生忘れない。一生ゆるさない。」この言葉の絶望的な響きは胸に突き刺さって苦しい。何よりもこの言葉を発した女性自身が一生救われないのだと思うと耐えられない。しかし、もしも女性たちが団結して新しい「政党」運動に向かっていくならば、それはいくらかでも救いになるような気がしてならない。男たちにとっても。

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