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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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§ 帝国主義論

☆  目次

資本主義の最高の段階としての帝国主義(一般向け概説)

  序 文
  フランス語版およびドイツ語版への序文

  一 生産の集積と独占体
  二 銀行とその新しい役割
  三 金融資本と金融寡頭制
  四 資本の諭出
  五 資本家団体のあいだでの世界の分割
  六 列強のあいだでの世界の分割
  七 資本主義の特殊の段階としての帝国主義
  八 資本主義の寄生性と腐朽
  九 帝国主義の批判
 一○ 帝国主義の歴史的地位

付録
 バーゼルにおける臨時社会主義者大会の宣言(一九一二年一一月二四―二五日)

事項注
解 説
あとがき
人名索引
文 献

☆ 資本主義の最高の段階としての帝国主義
(一般向け概説)

☆ 序文

 ここに読者に提供する小冊子を、私は一九一六年の春にツューリヒで書いた。仕事をしたその土地の事情から、私は当然、フランス語と英語の文献のある程度の不足に、またロシア語の文献のいちじるしい不足になやまなければならなかった。しかしそれでも私は、帝国主義についての主要な英文の労作、J・A・ホブソンの著書を、十分の注意をもって利用した。この労作は、私の確信するところによれば、まさにそういう注意に値するものである。
 この小冊子はツァーリズムの検閲を顧慮して書かれた。だから私はよぎなく、もっぱら理論的な――それもとくに経済学的な――分析にごく厳重に局限しなければならなかったばかりでなく、政治について少数の欠くことのできない意見を述べるときには、最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な−−のろわしいイソップ的な――ことばで、定式化しなければならなかった。ツァーリズムのもとでは、「合法的」な著述のためにペンをとろうとすれば、あらゆる革命家がそれにたよることをよぎなくされたのである。
 いま、自由の日に、ツァーリズムの検閲を考慮してゆがめられ、鉄の万力によって圧しつぶされ締めつけられたこれらの箇所を読みなおすことは、苦痛である。帝国主義は社会主義革命の前夜であること、社会排外主義(口さきでは社会主義、行動では排外主義)は社会主義にたいする完全な裏切りであり、ブルジョアジーの側への完全な移行であること、労働運動のこの分裂は帝国主義の客観的条件と関連するものであること等々を、私は「奴隷の」ことばで語らなければならなかった。それで私は、この問題に関心をもつ読者には、一九一四―一九一七年に私が外国で書いた論文の、まもなく出る再録版〔1〕を参照していただかなければならない。だがとくにここで指摘しておく必要のある箇所が一つある。それは一一九―一二〇ページ〔本訳書では一五七―一五八ページ〕である。資本家と彼らの側にはしった社会排外主義者(カウツキーは彼らとはなはだ不徹底にしかたたかっていない)とが領土併合の問題でどんなに恥しらずな嘘をついているか、彼らが自国の資本家による併合をどんなに恥しらずに包みかくしているかということを、検閲をとおる形で読者に説明するために、私はよぎなく・・・・日本を例にとらなければならなかった! 注意ぶかい読者は容易に、日本のかわりにロシアを、朝鮮のかわりにフィンランド、ポーランド、クールランド、ウクライナ、ヒヴァ、ブハラ、エストニア、その他、大ロシア人でない人々が住んでいる地方をおいてみるであろう。
 私はこの小冊子が、それを研究しないでは現在の戦争と現在の政治を評価するうえになに一つ理解できない基本的な経済問題、すなわち帝国主義の経済的本質の問題を、究明する助けとなることを期待したい。
    著者
  べトログラード 一九一七年四月二六日

☆ フランス語版およびドイツ語版への序文〔2〕

★  一

 この小著は、ロシア語版の序文で指摘したように、一九一六年にツァーリズムの検閲を顧慮しながら書かれたものである。私には今日、全文を書きあらためる余裕はない。またそうすることはおそらく当を得ていないであろう。なぜなら、本書の基本的な任務は、以前もいまも、争う余地のないブルジョア統計の総括的資料とあらゆる国のブルジョア学者たちの告白とにもとづいて、二〇世紀初頭に、すなわち最初の帝国主義世界戦争の前夜に、資本主義世界経済の概観図がどのようなものであったかを、その国際的相互関係においてしめすことにあるからである。
 なおまた先進資本主義諸国の数多くの共産主義者にとって、ツァーリズムの検閲の見地からも合法的なこの小著の実例で、つぎのこと――すなわち、たとえば最近共産主義者がほとんど一人のこらず逮捕されたあとの今日のアメリカあるいはフランスで共産主義者にとってなお残されている、あのわずかばかりの合法性を利用して、「世界民主主義」という社会―平和主義者の見解と期待がまったくの偽りであることを説明することが可能であり、また必要であるということ――を確信することは、いくらか有益ですらあるだろう。だがこの検閲下の小著にたいするどうしても必要な補足を、私はこの序文ですることにしよう。

★  二

 この小者では、一九一四―一九一八年の戦争は両方の側からして帝国主義的な(すなわち侵略的な、略奪的な、強盗的な)戦争であり、世界の分け取りのための、植民地と金融資本の「勢力範囲」の分割と再分割、等々のための戦争であったことが、証明されている。
 というのは、戦争の真の社会的な性格、より正確にいえば真の階級的な性格がどんなものであるかの証明は、もちろん、戦争の外交史のうちにではなく、すべての交戦列強の支配階級の客観的立場の分析のうちに存するからである。この客観的立場を描きだすためには、たんなる事例や個々の資料をとりあげるべきではなく(社会生活の諸現象は非常に複雑なので、任意の命題を確証するのに事例や個々の資料をいつでも好きなだけ探しだすことができる)、ぜひとも、すべての交戦列強と全世界の経済生活の基礎にかんする資料の総体をとりあげなければならない。
 反駁することのできないまさにこのような資料を、私は一八七六年と一九一四年における世界の分割(第六章)と、一八九〇年と一九一三年における全世界の鉄道の分割(第七章)を描くさいにあげた。鉄道は、資本主義工業の最も主要な部門である石炭業と製鉄業との総括であり、世界商業とブルジョア民主主義文明との発展の総括であり、またその最も明瞭な指標である。鉄道が大規模生産と、独占体と、シンジケートやカルテルやトラストや銀行と、金融寡頭制と、どれほど結びついているかは、本書の初めの諸章でしめされている。鉄道網の分布、分布の不均等、鉄道網の発展の不均等――これは、世界的規模における現代の独占資本主義の総結果である。そしてこの総結果は、生産手段の私的所有が存在するかぎり、そのような経済的基礎のうえでは、帝国主義戦争が絶対に避けられないことをしめしている
 鉄道の建設は単純な、自然な、民主的な、文化的な、文明的な事業のように見える。資本主義的奴隷制を美化することで報酬をもらっているブルジョア教授たちの目には、また小ブルジョア的俗物の目には、そう見える。だが実際には、これらの事業を数千の網の目によって生産手段一般の私的所有と結びつけている資本主義の糸は、鉄道の建設を、(植民地ならびに半植民地の)一〇億の人々、すなわち、地球人口の半分以上を占める従属諸国の住民と「文明」諸国における資本の賃金奴隷とを抑圧する道具に変えてしまっている。
 小経営主の労働にもとづく私的所有、自由競争、民主主義――資本家と彼らの新聞が労働者と農民をあざむくのにもちいているこれらのスローガンはみな、もはや遠い昔のものとなった。資本主義は、ひとにぎりの「先進」諸国による地球人口の圧倒的多数の植民地的抑圧と金融的絞殺との世界的体系に成長した。そしてこの「獲物」の分配は、頭のてっぺんから足の先まで武装したニ―三の世界的に強大な略奪者ども(アメリカ、イギリス、日本)のあいだでおこなわれており、彼らは自分たちの獲物の分配をめぐる自分たちの戦争に全世界を引きずりこむのである。

★  三

 君主制ドイツによって指図されたブレスト―リトフスクの講和〔3〕と、ついで「民主主義」共和国アメリカとフランスならびに「自由な」イギリスによって指図された、はるかに凶悪で卑劣なヴェルサイユの講和〔4〕とは、たとえ平和主義者とか社会主義者とか自称していても、「ウィルソン主義〔5〕」を賛美して、帝国主義のもとで平和と改良が可能であることを証明しようとしてきた、帝国主義のお雇い文筆苦力(クーリー)や反動的な俗物どもの正体をあばきだすことによって、人類にきわめて有益な貢献をした。
 戦争――金融的強盗のイギリス・グループとドイツ・グループのどちらが大きな獲物を手に入れるべきか、ということをめぐる戦争――の残した幾千万の死者と不具者、ついでこれら二つの「平和条約」は、ブルジョアジーによって打ちのめされ、抑圧され、あざむかれ、愚弄されてきた幾百方、幾千万の人々の目を、かつて見られなかったような速さでひらかせている。こうして、戦争がつくりだした全世界的な荒廃を基盤にして、全世界的な革命的危機が成長しているのだが、この危機は、どんなに長期にわたる苦難な転変を経過しようとも、プロレタリア革命とその勝利とで終わるほかはありえない。
 第二インタナショナル〔6〕のバーゼル宣言〔7〕は、戦争一般ではなく(戦争にもいろいろあり、革命戦争もある)、一九一四年に勃発したまさにあの戦争の評価を、一九一二年にあたえたものであるが、この宣言は、第二インタナショナルの英雄たちの不名誉きわまる破産、彼らの裏切りをあますところなく暴露する記念碑として残っている。
 だから私はこの宣言を本書の付録に収録して、この宣言のなかで、ほかならぬきたるべきこの戦争とプロレタリア革命との関連について的確に、明白に、率直に述べてある箇所を、第二インタナショナルの英雄たちが用心ぶかく避けている――ちょうど泥棒が、盗みを働いた場所を避けてとおるように用心ぶかく避けている――ことについて、読者の注意をなおもういちど促したい。

★  四

 この小著では、「カウツキー主義」の批判に、すなわち、世界のあらゆる国で、「有数の理論家」である第二インタナショナルの指導者たち(オーストリアではオットー・バウアー一派、イギリスではラムゼー・マクドナルドその他、フランスではアルベール・トマ、その他等々)と、多数の社会主義者、改良主義者、平和主義者、ブルジョア民主主義者、僧侶たちによって代表されている一つの国際的思潮の批判に、特別の注意をはらってある。
 この思潮は、一方では第二インタナショナルの崩壊と腐敗の産物であり、他方では、その全生活環境のためブルジョア的および民主主義的偏見にとらわれている小ブルジョアたちのイデオロギーの不可避的な果実である。
 カウツキーと彼の同類がいだいているこの種の見解は、この著述家が数十年のあいだ、わけても社会主義的日和見主義者たち(ベルンシュタィン、ミルラン、ハインドマン、ゴンパース、その他)との闘争のなかで特別に擁護してきた、マルクス主義のまさにあの革命的な原則を、完全に放棄するものである。だから、「カウツキー主義者」たちがいま全世界で、極端な日和見主義者(第二インタナショナルあるいは黄色インタナショナル〔8〕を通じて)やブルジョア政府(社会主義者の参加したブルジョア連立内閣を通じて)と実際政治のうえで結合するにいたったのも、偶然ではない。
 全世界で成長しつつあるプロレタリア革命運動一般、とくに共産主義運動は、「カウツキー主義」の理論的誤りの分析と暴露をしないですますことはできない。それは、平和主義や「民主主義」 一般――これらはすこしもマルクス主義たることを僭称してはいないが、しかしカウツキー一派とまったく同じように、帝国主義の諸矛盾の深さと帝国主義の生みだす革命的危機の不可避性とを塗りかくしている――のような思潮が、全世界でいまなおきわめて強力にひろまっているので、なおさらである。そしてこれらの思潮との闘争は、ブルジョアジーに愚弄されている小経営主と多少とも小ブルジョア的な生活条件におかれている幾百方の勤労者とを、ブルジョアジーから奪いとらなければならないプロレタリアート党にとって、ぜひともなすべきことである。

★  五

 第八章「資本主義の寄生性と腐朽」について数言述べておく必要がある。本文ですでに指摘してあるとおり、かつての「マルクス主義者」でいまはカウツキーの戦友であり、また「ドイツ独立社会民主党〔9〕」内のブルジョア的、改良主義的政策の主要な代表者の一人であるヒルファディングは、公然たる平和主義者で改良主義者のイギリス人ホブソンとくらべて、この問題で一歩後退している。労働運動全体の国際的分裂はいまやすでにまったく明るみに出た(第二インタナショナルと第三インタナショナル〔10〕)。二つの潮流のあいだの武装闘争と内戦の事実もまた明るみに出た。ロシアではボリシェヴィキ〔11〕に反対してメンシェヴィキ〔12〕と「社会革命党〔13〕員」がコルチャックとデニーキンを支持しており、ドイツではスパルタクス団〔14〕に反対してシャイデマン派とノスケ一派がブルジョアジーと手を組んでいる。フィンランド、ポーランド、ハンガリーなどでも同様のことがおこっている。ではこの世界史的な現象の経済的基礎はどこにあるか?
 それはまさに、資本主義の最高の歴史的段階すなわち帝国主義に特有な、資本主義の寄生性と腐朽にある。この小者で証明したように、資本主義はいまや、ひとにぎりの(地球人口の一〇分の一以下の、最も「おおよう」で誇大な計算をしても五分の一以下の)とくに富裕で強力な国家を抜きんでさせたが、これらの国家は――たんなる「利札切り」によって――全世界を略奪している。資本の輸出は、戦前の価格で戦前のブルジョア統計によっても、年に八〇−一〇〇億フランの収入をもたらしている。いまでは、もちろん、もっと多い。
 このような巨額の超過利潤(というのは、それは資本家が「自」国の労働者からしぼりとる利潤以上に得られるものだから)の一部で、労働者の指導者や上層の労働貴族を買収しうろことは、理の当然である。そして「先進」諸国の資本家たちはこれら上層の人々を、幾千の直接および間接の、公然および隠然の方法で、実際に買収している。
 このブルジョア化した労働者あるいは「労働貴族」の層は、その生活様式、その稼ぎ高、その全世界観の点でまったく小市民的なものであって、これが第二インタナショナルの主要な支柱であり、そして今日ではブルジョアジーの主要な社会的(軍事的ではないが)支柱である。なぜな
ら、これは労働運動におけるブルジョアジーのまぎれもない手先であり、資本家階級の労働者手代(labor lieutenants of the capitalist class)であり、改良主義と排外主義のまぎれもない先導者だからである。ブルジョアジーとのプロレタリアートの内戦で、彼らは不可避的に、それも少なからぬ数のものが、ブルジョアジーに味方し、「コンミューン派」に反対して「ヴェルサィユ〔15〕派」に味方するのである。
 この現象の経済的根源を理解せず、その政治的および社会的意義を評価しないでは、共産主義運動ときたるべき社会革命との実践的課題の解決にむかって一歩もすすむことはできない。
 帝国主義はプロレタリアートの社会革命の前夜である。このことは一九一七年以来世界的な規模で確証された。

  一九二〇年七月六日
    エヌ・レーニン

 最近の一五―二〇年間、とくにアメリカ=スペイン戦争〔16〕(一八九八年)とボーア戦争〔17〕(一八九九―一九〇二年)以後、新旧両世界の経済文献ならびに政治文献は、われわれの生活している時代を特徴づけるために「帝国主義」という概念について論じることが、しだいにますます多くなっている。一九〇二年にロンドンとニューヨークで、イギリスの経済学者J・A・ホプソンの著書『帝国主義論』が出版された。この著者は、ブルジョア的な社会改良主義と平和主義の見地――これは、本質的には、かつてのマルクス主義者K・カウツキーのいまの立場と同じものだが――に立ちながらも、帝国主義の基本的な経済的および政治的特質を非常にみごとに詳細に記述している〔18〕。また一九一〇年にはウィーンで、オーストリアのマルクス主義者ルドルフ・ヒルファディングの著書『金融資本論』(ロシア語訳、モスクワ、一九一二年)が出版された。この著者は貨幣理論の問題で誤りをおかしているし、またマルクス主義を日和見主義と和解させようとするある程度の傾向をもっているが、それにもかかわらず、この著書は、「資本主義の発展における最新の局面」−−ヒルファディングの本の副題はこういっている――のいちじるしく貴重な理論的分析の書である〔19〕。本質的には、帝国主義について近年いわれてきたこと――とくに、このテーマにかんする無数の雑誌論文や新聞紙上の論文で、またたとえば一九一二年の秋にひらかれたケムニッツとバーゼルの両大会〔20〕の決議のなかでいわれたこと――は、上述の二人の著者によって説かれた、あるいはより正確にいえば、概括された思想から、ほとんど一歩も出ていない・・・・。
 以下にわれわれは、帝国主義の基本的な経済的諸特質の関連と相互関係とを、できるだけ一般向きな形で手短かに述べてみよう。問題の経済的でない側面に立ちいることは、それがどんなにやりがいのあることであっても、われわれとしてするわけにはいかない。引用文献やその他の注は、かならずしもすべての読者の関心をひくものではないので、巻末に追いこんでおく〔21〕。


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