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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
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☆ 解説
★ 一
一八四七年の春、マルクスとエンゲルスは秘密の宣伝結社である「共産主義者同盟」にくわわり、この同盟の第二回大会(一八四七年十一月、ロンドン)に参加して有力な役割をはたし、大会の委任をうけて、一八四八年二月に刊行された有名な『共産党宣言』を作成した。――以上はレーニンが『宣言』成立経過を要約したところである。
いますこし詳しくその間の事情を、エンゲルスの『共産主義者同盟の歴史』〔全集第八巻所収〕その他によって補足しておこう。三〇年代に成立した「義人同盟」という、ドイツ人労働者を中心とする国際的な結社があって、当時ロンドン、パリ、ブリュッセル等で活動していた。指導者はワイトリングであり、この結社は職人共産主義的な偏狭なものであったが、社会事情は、「同盟」にたいしてただしい世界観のうえにつくられた綱領と整然たる組織とを要求せざるをえないように進展してきた。ロンドン本部の指導者はついに一八四七年春ブリュッセルで、『在ブリュッセル・ドイツ人新聞』によってプロシア専制政府とたたかい、フランス=イギリス社会主義とドイツ哲学の混淆物とたたかっていたマルクスに連絡をつけ、ここにマルクスとエンゲルスは「同盟」に加入したのである。彼らの加入とともに「同盟」は従来の陰謀的な性質から、より宣伝団体的なものに成長することになった。
こうして、「同盟」は、一八四七年六月初めロンドンで再組織大会をひらいた。「同盟」は「共産主義者同盟」となった。大会にパリ班を代表してエンゲルスも参加した。この大会でエンゲルス提案の「同盟」規約が採用された〔選集第二巻〕。もう一つ、大会には共産主義的綱領(信条)を作成する問題があった。この点について会議は、なんら最後的結論にたっしなかった。綱領の作成は、第二回大会まで延期された。六月大会のすぐあとで、とりあえず九月以前にロンドンの中央委員は「共産主義者の信条」草案を大陸にある同盟の諸組織におくり、パリにも、討論のためにおくってきた。十月十五日ごろ、まだエンゲルスがブリュッセルからパリにつかないうちに、モーゼス・ヘスはパリ班で――エンゲルスはパリに到着後すぐ地区委員に選出されたが、十月二十五日にマルクスにあてて書いたように――「すばらしく改良された信条をつくりあげた」。十月二十二日に、エンゲルスは「これを地区(会議)で一問ずつ吟味したが、いまだなかばにたっしないのに、その場の人たちは十分だと声明した。」そこで「なんの反対もなく」エンゲルスは新しい信条を起草することを委任され、その信条は、つぎの、十月二十九日にひらかれる地区会議で討議され、「仲間にかくして」ロンドンにおくることになった。
十一月十四日に、エンゲルスは、パリ地区により、十一月二十九日にはじまる第二回ロンドン再組織大会の代議員にえらばれた。十一月二十三日、オスタンド経由ロンドンへの旅行の三日まえに、彼はマルクスに書いている。「ぜひ信条について、すこし熟考してくれ。ぼくは問答形式をやめて、こいつを共産党宣言と題するのがいちばんよいと思う。そのなかには、多少歴史がのべられなければならないから、従来の形式はまったく不適当だ。ぼくがつくったこちらのものをもってゆく。これは、平易にのべているが、大いそぎで書いたまずい編集ものだ。ぼくは、共産主義とはなにか? からはじめ、これにつづいて、すぐ、プロレタリアートの発生史、以前の労働者との差異、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立の発展、恐慌、結論となる。そのあいだに種々付随的なことがあり、最後に、公開すべきかぎりでの共産主義者の党の政策がくる。これらのものはまだ全然承認をもとめるために提出されていないが、ぼくは若干の全然些末な点をのぞいては、すくなくともわれわれの見解に反するものはなにもないように仕上げていると思っている。」こうして、本書に収録した『共産主義の原理』は『宣言』の草案として成立したのである。
『原理』は、はじめてエドゥアルド・ベルンシュタインにより、一九一四年に(ベルリン、『フォルウェルツ』)公刊された、――草稿『共産主義の原理』は、エンゲルスがパリ地区委員会の委託により、おそらく十月二十三―二十九日のあいだに書きおろした共産主義者の信条であることはたしかである。この草案は、はじめ計画されたように(前述参照)、ロンドンにおくられたのではなく、エンゲルスがみずからもっていった。この問答書が「大いそぎで」仕上げられたことなどは、ベルンシュタインその他が、第二十二、二十三問で答えのかわりに「欠」の記入がある事情からして、それが第二の文章または浄書と関係があると仮定するのは、ゆるせない。この記入は、同盟諸組織に七月または八月におくられた中央委員会のもとの草案、またはパリでモーゼス・ヘスが「すばらしく改良した」草案には関係がないようである。
まえにかえって、一八四七年十一月末から十二月にかけ、ロンドンでひらかれた第二回大会には、マルクスとエンゲルスは、エンゲルスの『信条』を大会で採用させるのに奮闘して、やっとその原則を大会に承認させ、マルクスがそれを『宣言』に起草することを一任された。マルクスは、ブリュッセルにかえってから仕事をすすめ、とにかく種々の資料によると、一八四八年二月初めにできあがって二月革命の数日前に公表されるはこびになったのである。
★ 二
「共産主義者がその見解、その目的、その傾向を全世界のまえに公表して、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時が、すでにきている。」『宣言』はこの意味でプロレタリアートの前衛が有史以来はじめて高くかかげた戦闘の旗じるし――綱領である。「綱領は、簡潔な、一言もむだなことばをふくまない諸命題をあたえなければならない。説明は注釈書やパンフレットや煽動にゆだねられるべきである。」レーニンは綱領のスタイルにこう要求している。『宣言』はまさしくこの要求を十二分にみたしており、マルクスの力づよい文章は、いまなお全世界のプロレタリアートの旗じるしとなっている。綱領の内容についていえば、スターリンは『ロシア共産主義者の戦略と戦術』中で、綱領は理論を基礎として、労働運動の目標を、理論の要点を科学的に定式化した目標を決定する、という意味のことをのべている。この見地からしても『宣言』は、資本主義社会の発生と必然、プロレタリアートの使命を規定しており、全プロレタリア正統がその綱領を作成する基礎となっている。レーニンは言う。「この著作のなかには、新しい世界観、社会生活の領域をもふくむ首尾一貫した唯物論、もっとも全面的で深遠な発展学説である弁証法、階級闘争および新しい共産主義社会の創造者であるプロレタリアートの世界史的・革命的役割についての理論が、天才的な明瞭さとあざやかさでえがかれている。」(本文庫『マルクス=エンゲルス=マルクス主義』第一冊一二ページ〕すなわち、マルクスの見解と学説の全体系の精髄である。したがって、その後マルクスとエンゲルスがこれをいかにふかめたかは、本文庫の全巻の研究によってはたされよう。いま二、三注意すべき点だけをあげておこう。冒頭に「歴史は階級闘争の歴史」と喝破して、共産主義者の直接の目的は、「プロレタリアートの階級的形成、ブルジョアジーの支配権の転覆、プロレタリアートの政治権力の獲得」であるとし、第二章末にこれを定式化して「支配階級として組織されたプロレタリアート」という規定をおいている。これは、プロレタリアート独裁の思想のただしい基石をすえたものであり(三七ページ以下)、レーニンは『国家と革命』でとりわけこのことを強調している。この独裁がおこなうべき革命的方策(エンゲルスがその各項目は「時代おくれになった」と序文でのべている)と、その推移は、いまなお革命的政党のとるべき方策の基本点を示唆している貴重なものであろう。
最後に、「反政府党にたいする態度」および『原理』の第二十五問で、各種の急進党、民主党との関係についてあげているところは、当時の統一戦線戦術の条件をしめしたものであり、その基本的態度はいまでもますます妥当性をもつものである。とくにドイツは、「ブルジョア革命の前夜にあり」、それが「発達したプロレタリアートによって」おこなわれ、「したがってドイツのブルジョア革命は、プロレタリア革命の序曲となるであろう」という見通しは、一八四八年三月革命以後の『新ライン新聞』活動によって如実にしめされている。マルクスは、「荒野の説教師」でなく、陰謀家でもなく、大衆運動のすぐれた指導者であった。もちろんこの指導性は、第三章にしめされているように、当時の社会主義者、共産主義者との闘争――この論争のあとは、いずれ本文庫で巻をおって発表される――によって得たただしい世界観によるものであった。
★ 三
『宣言』は、もちろん今日では歴史的文書である。したがって、運動の発展にともなって「時代おくれになった」部分が出てくるのは当然である。エンゲルスはいくつかの序文を書き、これを補足している。そのうち重要なものは、パリ・コンミューンの実践的経験からみちびいた「労働者階級は、できあいの国家機構をたんにその手ににぎり、それを自分自身の目的のためにつかうことはできない」という修正である。これはプロレタリアート独裁の思想の発展であり、重要な前進である(本文庫『国家と革命』四九ページ以下、九六ページ以下)。さらに、アメリカ、ロシアは一八四八年革命には登場していなかったので、それが革命運動でしめる地位等については、「一八九〇年のドイツ語版序文」で補足されている。
しかし、もっと重大な問題は、資本主義が、独占の時代に、帝国主義の時代にはいったことである。「当時、帝国主義への転換は――トラストの完全な支配という意味でも、大規模な植民地政策等々という意味でも――フランスではようやくはじまったばかりであり、北アメリカやドイツでは、なおいっそう微弱であった。」この客観情勢の発展こそは、アングロ・サクソンの軍事=官僚機構での例外性の消滅、帝国主義的反動戦争等々の時代をひらいたものであるが、とくに重要なのは『原理』第十九問の修正である。すなわち、帝国主義時代における一国社会主義建設可能性の問題である。トロツキーらが「レーニン主義は四〇年代のマルクス主義である」と称して(本文庫『レーニン主義の基礎』八ページ)この問いをよりどころとし、社会主義建設の可能性に不信をもちこんだとき、スターリンは、この問いの命題について、それがはっきり今日適用されないことを言明している。(最初にあらわれたのは、一九二五年、エルマコフスキーあての手紙――全集七巻、および八巻二八三ページ以下――と『党小史』結論であった。)
しかし、このことは『宣言』の基本思想が時代おくれになったのではなく、じつはそのうえにのみ新しい綱領が発展するものであることをさまたげはしない。
この基本思想をもとにして、スターリンの論文『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』は、自然または社会の諸法則の客観性をただしくつかむこと、そしてそれを無視するとどんな混乱が生じるかということを明示している。なお、このスターリン論文をとりいれて、ソ同盟共産党は、綱領の改正をおこなうことになっている。『宣言』の基本はただしく補足され、新しい光りで読みなおされる時がきている。
わが国では、明治三十年以来、幸徳・堺訳(平民新聞所載)が発売禁止になり、ついで、その翌年に雑誌『社会主義研究』に合法的に出たことはあるが、それ以来は、秘密出版の形で、あるいは手写によってひろめられていた。(当時、『宣言』が公刊禁止されていたのは、日本とツァーリ・ロシアだけであった。戦後、イギリスの労働党は、一九四八年に、『宣言』の百年記念祭をやっていながら、他方、自国の植民地では、『宣言』を禁止している。)わが国では、『宣言』は、戦後はじめて合法出版として出ることになったが、それ以前から『宣言』はこうした形でわが前衛闘士の血肉となり、前衛党の結成にも大きな力となったのであった。
★ 四
『共産主義者同盟中央委員会の呼びかけ』は、一八四八年―四九のドイツ革命が敗北したのち、ドイツでの革命の新しい高揚を期待してドイツの同盟員あてに書かれたものである。
ドイツ革命の敗北については、マルクスとエンゲルスはたえず、『新ライン新聞』で自由主義ブルジョアジーは労働者に武器をむける情勢がある、と判断していた。そして、小ブルジョア民主主義者にたいしては革命的労働者党はいかなる態度をとるべきかを当面の問題としていた。一八四八―四九年革命で、個々のメンバーが民主主義運動の巨大な運動の先頭に立ちはしたが、独自の組織としては解消した「共産主義者同盟」を再組織すること、その独自性を確保し、小ブルジョア民主主義者を批判し鼓舞しつつ、さらに当面する革命で民主主義者が政権をとったばあいの「永続革命」を提唱して、マルクスとエンゲルスは、その対策を結論づけている。「永続革命」とは、本文の意味からすれば、ブルジョア革命のプロレタリア革命への発展転化の問題である。レーニンは、これを『二つの戦術』で模範的に展開した。いま、二〇世紀帝国主義時代のブルジョア革命と一九世紀なかばのそれとを比較するばあい、臨時政府参加の問題、プロレタリアートの指導権の問題等において大きな差異があることは、両者を比較すれば明瞭である(いずれ本文庫『二つの戦術』で解説したい)。ただ、トロツキーは一九二三年ごろ、「永続革命」論をたねにしてレーニンのテーゼを歪曲しようとし、かえってその日和見主義を暴露した。詳細は『レーニン主義の基礎について』(本文庫版、四三ページ以下)、『レーニン主義の諸問題によせて』(本文庫版、一四ページ以下)、『レーニン主義か、トロツキー主義か』、『十月革命とロシア共産主義者の戦術』(いずれも全集第六巻所収)の参照をおねがいする。
一九五二年十一月
国民文庫編集委員会
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