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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
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§ 空想から科学への社会主義の発展
☆ 一
現代の社会主義は、その内容からいえば、なによりもまず、一方では、今日の社会にひろく存在している有産者と無産者、資本家と賃労働者との階級対立を、他方では、生産のなかにひろく存在している無政府状態を、認識することから生まれたものである。しかしその理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちがたてた諸原則を、うけついでさらにおし進め、みたところいっそう首尾一貫させたものとして現われる。新しい理論というものはすべてそうなのだが、現代の社会主義もまた、どんなに深くその根を物質的な経済的事実におろしているにしても、さしあたりは、すでに存在している思想上の素材に手がかりを求めなければならなかったのである。
フランスで来たるべき革命のために思想上の準備をした偉大な人物たちは、彼ら自身がきわめて革命的に行動した。どんな種類のものでも、外的な権威というものを彼らは認めなかった。宗教に、自然観に、社会に、国家制度に、すべてにすこしも容赦なく批判がくわえられた。一切のものが、理性の審判廷にたって、自分が存在してもよいわけを弁明するか、それができなければ、存在することを断念しなければならない、と彼らは考えた。悟性的思考が、なんでもはかれる尺度〔モノサシ〕として、一切のものにあてがわれた。それは、ヘーゲルが言っているように、世界を逆立ちさせた〔世界の上に思想をではなく、思想の上に世界をおいた〕時代であった〔*〕。はじめには、人間の頭脳とその思考によって見いだされた諸命題とが、一切の人間の行為と社会的結合との基礎であると認められることを要求した、という意味で、だがもっとのちには、これらの命題に矛盾する現実が実際に根こそぎひっくりかえされた、というもっと広い意味で、そうだったのである。すべてのこれまでの社会形態と国家形態、すべてのふるくからの伝統的観念が、非理性的なものだとしてごみ箱のなかに投げこまれた。世界は、これまでまったく偏見によってみちびかれてきたのであり、一切の過去は、ただあわれみとさげすみに値するにすぎなかった。いまやようやく夜が明け、理性の国が出現した。これ以後は、迷信、不正、特権、圧制は、永遠の真理、永遠の正義、自然にもとづく平等、人手に渡すことのできない人権によって、とって代わられるべきだ、とされた。
〔*〕 フランス革命について述べた箇所は次のようである。「正義の思想、正義の概念が一挙に力を現わし、不正義の古い足場はこれにたいしてなんらの抵抗もできなかった。こうして、正義の思想のうちにいまや一つの憲法がうちたてられ、今後はすべてのものがこの基礎の上にすえられるべきだ、とされた。太陽が天空にかかり遊星がそのまわりをまわるようになって以来、人間が逆立ちをして、すなわち思想の上にたって、現実を思想にしたがって建設するということは、かつて見られなかったことである。ヌース、すなわち理性が世界を支配するということを、アナクサゴラスが最初に語ったのであるが、いまやはじめて人間は、思想が精神的現実を支配すべきであるということを、認識するにいたった。こうして、これは壮大な日の出であった。およそ思考するものはみなともにこの時代を祝った。まるで神的なものと現世との和解がいまはじめてなりたったかのように、崇高な感激が当時の人々のあいだにみなぎり、精神の熱狂が世界をゆりうごかした。」(ヘーゲル『歴史哲学』、一八四〇年、五三五ページ)――故ヘーゲル教授のこのような公安に害のある変革学説にたいして、いまこそまさに社会主義者取締法を発動すべきではなかろうか?
いまではわれわれは知っている。この理性の国とはブルジョアジーの国の理想化にほかならなかったのだということを。永遠の正義はブルジョア的司法として実現されたということを。平等はけっきょく法律上のブルジョア的平等になってしまったということを。最も本質的な人権の一つとして宣言されたもの――それはブルジョア的所有権であったということを。そして理性国家、ルソーの社会契約〔44〕は、ブルジョア的民主共和国としてこの世に生まれでたし、またそのようなものとして生まれでるよりほかはなかったということを。一八世紀の偉大な思想家たちも、彼らの先駆者たちのすべてと同様に、自分たち自身の時代が自分たちにたいしてもうけた限界をこえ出ることはできなかったのである。
しかし、封建貴族とそれ以外の全社会の代表者として登場しつつあったブルジョアジーとの対立とならんで、搾取するものと搾取されるものとの、金持の怠け者と労働する貧乏人との一般的な対立が存在していた。だが、こうした事情があったからこそ、ブルジョアジーの代表者たちは、自分たちはある特殊な階級の代表者ではなく、悩める人類全体の代表者であると称することができたのだった。そればかりではない。ブルジョアジーははじめから自分の対立物をせおっていた。すなわち、資本家は賃金労働者なしには存在できないのであって、中世の手工業同職組合の親方が近代的ブルジョアに発展していったのに比例して、同職組合の職人や同職組合に属さない日雇労働者はプロレタリアに発展していったのである。そして大体のところ、ブルジョアジーは貴族との闘争では同時に当時のさまざまな労働する階級の利害をいっしょに代表すると主張することができたとはいえ、大きなブルジョア運動がおこるたびごとに、近代的プロレタリアートの、多少とも発展した先駆者である階級の、自主的な動きがいつも現われた。たとえば、ドイツの宗教改革と農民戦争との時代における再洗礼派とトマス・ミュンツァー、イギリス大革命における平等派〔45〕、フランス大革命におけるバブーフがそれである。まだ一人前になっていなかった階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた。一六、一七世紀には理想的社会状態の空想的な描写〔46〕が、一八世紀にはすでにあからさまな共産主義理論(モレリーとマブリー)が現われた。平等の要求はもはや政治的権利だけに限られないで、個々人の社会的地位にも及ぼされるべきであるとされた。階級的特権ばかりでなく、階級的差別そのものを廃止すべきであるとされた。こうして、新しい学説の最初に現われた形態は、禁欲的な、人生のあらゆる享楽を禁止する、スパルタ流の共産主義であった。そのあとに、三人の偉大な空想的社会主義者がつづいた。すなわち、サン−シモン、彼にあっては、プロレタリア的傾向とならんで、ブルジョア的傾向がまだある程度の力をもっていた。ついで、フーリエとオーウェン。オーウェンは、資本主義的生産の最も発展した国で、資本主義的生産によって生みだされた諸対立の印象を感受し、フランスの唯物論に直接に結びついて、階級的差別を撤廃するための彼の提案を体系的に展開したのである。
この三人のすべてに共通の点は、彼らが、そのころ歴史的に生まれていたプロレタリアートの利害の代表者として登場したのではないということである。啓蒙思想家たちと同様に、彼らは、まずある特定の階級を解放しようとは思わないで、いきなり全人類を解放しようと思った。啓蒙思想家たちと同様に、彼らは、理性と永遠の正義との国を実現したいと願った。だが彼らの国と啓蒙思想家たちの国とのあいだには、天地のへだたりがある。これらの啓蒙思想家たちの諸原則にしたがって建設されたブルジョア的世界もまた、非理性的であり、不正義であり、したがって封建制度やそれ以前のすべての社会状態と同様に、ごみだめに投げこまれる。ほんとうの理性と正義がこれまで世の中でおこなわれなかったのは、ただ、それらが正しく認識されたことがなかったからである。まさに天才的な個人が欠けていたのであり、いまやその天才が出現し、真理を認識した。いまその天才が出現したということ、真理がちょうどいま認識されたということは、歴史的発展の連関から必然的にでてくる、避けられない出来事ではなくて、まったく偶然な幸運である。このような天才は、五〇〇年前にもやはり生まれることができたかもしれないのであり、もしそうだったら、人類は五〇〇年間の誤謬や闘争や苦悩をまぬかれていたことであろう、というのである。
われわれがみたように、一八世紀のフランスの哲学者たち、すなわち革命を準備した人たちは、理性こそは現存する一切のものの唯一の審判者であるとして、この理性にうったえた。理性国家、理性社会が確立されるべきであり、永遠の理性に矛盾する一切のものは容赦なく除去されるべきだ、とされた。同じくわれわれがみたように、この永遠の理性とは、実際には、ちょうどそのころブルジョアへと発展しつづけていた中産市民の考えの理想化されたものにほかならなかった。だから、いよいよフランス革命がこの理性社会と理性国家とを実現してみると、この新しい諸制度は、以前の状態にくらべてなるほど合理的ではあったけれども、けっして絶対的に理性的なものではない、ということがわかった。理性国家は完全に砕けさった。ルソーの社会契約は恐怖政治時代〔47〕に実現されたが、自分自身の政治能力に自身を失ったブルジョアジーは、この恐怖政治時代から最初は腐敗堕落した執政官政府〔48〕へと逃げこみ、最後にはナポレオンの専制政治に保護を求めた。約束された永遠の平和は果てしない征服戦争に一変した。理性社会もやはりうまくゆかなかった。貧富の対立は、解消して一般的繁栄をもたらすどころか、この対立を橋わたしする役をしていた同職組合的特権やその他の特権が除去され、この対立を緩和していた教会の慈悲施設が廃止されたことによって、いっそう鋭くなった。封建的束縛からの「所有の自由」はいまや真実となったが、しかしそれは小市民や小農民にとっては、大資本や大土地所有の圧倒的な競争によっておしつぶされたわずかばかりの財産をまさにこれらのお偉がたに売りわたす自由にほかならないことがわかった。こうして小市民や小農民にとっては、所有の自由は所有からの自由〔所有を失うこと〕へと転化した。資本主義を基礎とする産業の躍進によって、働く大衆の貧しさとみじめさは、この社会が存続するための必要条件の一つにまで引きあげられた。カーライルの表現によれば、現金支払がますます、この社会を結びつけるただ一つの鎖になった。犯罪の件数は年ごとに増加した。以前には白昼公然とおこなわれた封建的悪業は、根絶されなかったとはいえ、さしあたり背景へとおしやられたが、そのかわりに、これまではこっそりと隠されていたブルジョア的悪業が、いっそうあでやかに咲きほこるようになった。商業はますます詐欺になった。「友愛」という革命のスローガン〔49〕は、競争場裡での奸計や嫉妬となって実現された。力づくの圧迫のかわりに買収などの不正行為が現われ、剣のかわりに貨幣が、社会的権力の第一のてことして現われた。初夜の権は封建領主からブルジョア工場主に移った。売春はかつてなかったほどにひろがった。結婚そのものは、あいかわらず、売春の法律で認められた形式、売春の公然の隠れみのであって、そのうえおびただしい姦通によって補足されていた。要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、「理性の勝利」によってうちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を幻滅させる痛烈な諷刺画であることがわかった。この幻滅を確認する人々がまだ欠けていただけであり、そしてこれらの人々も世紀があらたまるとともに現われてきた。一八〇二年にはサン−シモンの『ジュネーヴの一住人の手紙〔50〕』が現われ、一八〇八年にはフーリエの最初の著書〔51〕が現われた。ただし彼の理論の基礎はすでに一七九九年にさかのぼるのだが。一八〇〇年一月一日にはロバート・オーウェンがニュー・ラナーク〔52〕の管理をひきうけた。
しかしこの当時、資本主義的生産様式は、またそれとともにブルジョアジーとプロレタリアートとの対立は、まだ非常に未発展であった。大工業は、イギリスでようやく生まれたばかりであって、フランスではまだ知られていなかった。だが大工業によってはじめて、一方では、生産様式の変革、すなわちその資本主義的性格の除去を不可抗的な必然性にまで高める衝突が展開される。――それは大工業によって生みだされた諸階級のあいだの衝突であるばかりではなく、また大工業によってつくりだされた生産力と交換形態そのものとのあいだの衝突でもある。――そして他方では、やはり大工業によって、まさにこの巨大な生産力のうちに、この衝突を解消させる手段もまた発展させられるのである。だから一八〇〇年ごろには、新しい社会制度から生まれる衝突はようやく発生しかけたばかりであったし、それらの衝突を解消させる手段にいたっては、なおさらのことであった。パリの無産大衆は、恐怖時代にほんの一時期だけ権力をにぎり、このことによってブルジョア革命を、ブルジョアジーに対立してさえも、勝利にみちびくことができたとはいえ、それによっては、ただ、当時の事情のもとでは彼らの支配を長く持続させることがどんなに不可能であったかを証明しただけであった。この無産大衆から一つの新しい階級の根幹としてようやく分かれようとしていたプロレタリアートは、自立的な政治行動をする能力がまだまったくなくて、抑圧され、苦しんでいる身分、すなわち、自力でやってゆくことができないので、せいぜい外から、上から、援助をあたえなければならない身分として現われていた。
このような歴史的な状態は社会主義の創始者たちをも支配した。資本主義的生産の未熟な状態、未熟な階級の状態には、未熟な理論が対応していた。社会的な課題の解決は、未発展の経済関係のうちにまだ隠されていたので、頭のなかからつくりだされなければならなかった。社会は弊害ばかりを示していた。これらの弊害をとりのぞくのは、思考する理性の任務であった。社会的秩序の新しい、より完全な体系を考えだして、これを宣伝によって、できれば模範的実験の実例をつうじて、社会に外からおしつけるということが必要であった。これらの新しい社会体系は、ユートピアになるという運命をはじめから宣告されていた。それが細目にわたって詳しく仕上げられれば仕上げられるほど、ますますそれはまったくの空想にならざるをえなかった。
ひとたびこのことを確認したら、われわれは、いまではまったく過去のものになってしまったこの側面にはもはや一刻もとどまらないことにしよう。いまではただこっけいなだけのこれらの空想について、しかつめらしくあらさがしをしてまわったり、このような「妄想」にくらべて自分の分別くさい考え方がすぐれていることを主張したりすることは、文筆の小商人たちにまかせておけばよい。われわれはむしろ、空想の覆いの下からいたるところで顔を出しているのにあの俗物たちの目には見えない天才的な思想の萌芽や思想をよろこぶものである。
サン−シモンはフランス大革命の子であった。この革命がおこったとき、彼はまだ三〇歳たらずであった。革命は、それまで特権をあたえられた有閑不労身分だった貴族と僧侶とにたいする、第三身分の、すなわち生産や商業で働いている国民大衆の勝利であった。ところがまもなく、第三身分の勝利とは、ただこの身分のうちの小さな一部分の勝利でしかなかったということ、この身分のうちの社会的特権をもっている層、つまり有産ブルジョアジーによる政治権力の獲得であるということが、明らかになった。しかもこのブルジョアジーは、没収されてから売却された貴族領や教会領での投機によって、また、軍需品御用商人として国民を欺いたことによって、まだ革命の最中に急速に成長したものであった。ほかならぬこの詐欺師たちの支配こそは、執政官政府の治下でフランスと革命とを破滅の淵に追いやり、それによってナポレオンにクーデタの口実をあたえたものだったのである。このようにして、サン−シモンの頭のなかでは、第三身分ともろもろの特権身分との対立は、「勤労者」と「不労者」との対立という形態をとった。「不労者」とは、旧来の特権者ばかりでなく、生産や商業にたずさわらないで年金で生活しているすべてのものもそうであった。また「勤労者」とは、賃金労働者ばかりでなく、工場主や商人や銀行家たちもそうであった。不労者が精神的指導と政治的支配との能力を失ったということは確実だったし、また革命によって終局的に確証されていた。無産者がこの能力をもっていないと言うことは、サン−シモンには、恐怖政治時代の経験によって証明ずみのように思われた。では、いったいだれが指導し支配すればよいのか? サン−シモンの意見によれば、それは科学と産業であり、この両者は新しい宗教的な紐帯によってたがいに結びつけられている。この宗教的な紐帯とは、必然的に神秘的で厳格に位階制的な「新キリスト教」であって、宗教改革以来こわされていた宗教観の統一を回復する使命をもつものであった。だが、科学とは学者のことであり、そして産業とは、なによりもまず、活動的なブルジョア、すなわち工場主や商人や銀行家のことであった。なるほどこれらのブルジョアは、一種の公務員に、すなわち社会の受任者になるべきだとされていたが、しかし労働者にたいしては、命令的な、経済的に優越した地位を保持すべきだとされていた。とくに銀行家は、信用を調節することによって社会的生産の全体を規制する使命をもつべきだとされていた。このような見解は、フランスで大工業が発生しはじめ、またそれにともなってブルジョアジーとプロレタリアートとの対立がようやく発生しかけたばかりの時代に、まったくふさわしいものであった。しかし、サン−シモンがとくに強調しているのは次のことである。どこでもまたいつでも自分にとって関心があるのは、「最も人数の多い、最も貧しい階級」(la
classe la plus nombreuse et la plus pauvre)の運命である、と。
サン−シモンはすでに『ジュネーヴの一住人の手紙』のなかで、
「すべての人間は労働しなければならない」
という命題をたてている。この同じ著作のなかで、彼はすでに、恐怖政治が無産大衆の支配であったことを知っている。彼は無産大衆にむかってこう呼びかけている。
「君たちの同志たちがフランスを支配した時代に、そこでどういうことがおこったかをよく見たまえ。彼らは飢餓をもたらしたではないか〔53〕。」
だが、フランス革命を階級闘争として、しかもたんに貴族とブルジョアジーとのあいだだけのではなく、貴族とブルジョアジーと無産者とのあいだの階級闘争として理解したということは、一八〇二年としてはきわめて天才的な発見であった。一八一六年に彼は、政治学は生産にかんする科学であると言明し、また政治学はまったく経済学のなかに没してしまうことを予言している〔54〕。ここでは、経済状態が政治的諸制度の土台であるという認識はまだやっと萌芽的に現われているだけであるが、人間にたいする政治的統治が物の管理と生産過程の指導とにかわってゆくということ、したがって近ごろひどく騒ぎたてられている「国家の廃止」ということが、ここですでにはっきりと言明されているのである。同じく同時代人をこえた卓見をもって、彼は、連合軍がパリに入城した〔55〕直後の一八一四年と、さらに百日戦争〔56〕中の一八一五年とに、フランスとイギリスとの同盟、また二番めにはこれら両国とドイツとの同盟が、ヨーロッパのさかんな発展と平和との第一の保障である、と宣言している〔57〕。一八一五年のフランス人にむかって、ワーテルロー〔58〕の勝利者との同盟を説くには、じっさい、勇気と歴史的先見とが必要であった。
サン−シモンには天才的な視野の広さが見いだされ、この視野の広さのおかげで彼の思想には、厳密に経済的な思想ではなかったけれども、後代の社会主義者たちのほとんどすべての思想が萌芽としてふくまれていたとすれば、フーリエにみられるのは、現存の社会状態にたいする、真にフランス人的な才気にみちた、それでいて洞察の深さにおいても劣らない批判である。フーリエは、ブルジョアジーの言質を、革命前の彼らの熱狂的な予言者たちと革命後の彼らの打算ずくのおべっかつかいたちとの言質を、とっている。彼はブルジョア世界の物質的・精神的なみじめさを容赦なくあばきだしている。彼は、理性だけが支配する社会だとか、すべての人を幸福にする文明だとか、無限に完成してゆく人間の能力だとかについての、以前の啓蒙思想家たちの魅惑的な約束や、同時代のブルジョア・イデオローグたちのはなやかな美辞麗句を、このみじめさとつきあわせる。彼は、おおげさな空文句のかげには、どこにでも、このうえなくみじめな現実があることを指摘し、これらの空文句のすくいようのない破綻に、しんらつな嘲笑をあびせかけている。フーリエは批判者であるだけではない。彼のいつもかわらぬ快活な性格によって、彼は諷刺家に、しかもあらゆる時代をつうじての最大の諷刺家のひとりになっている。彼は革命の退潮にともなってさかんになった詐欺的投機や、当時のフランスの商業にあまねく見られた小商人根性を、たくみにかつ嘲笑的にえがきだしている。それにもまして傑作なのは、両性関係のブルジョア的形態やブルジョア社会における女性の地位にたいする彼の批判である。ある社会における女性解放の程度は全般的解放の自然的尺度〔59〕である、とは彼がはじめて言明したところである。だがフーリエが最も偉大な姿で現われるのは、社会の歴史についての彼の見解においてである。彼はこれまでの歴史の全行程を、野蛮、家父長制、未開、文明という四つの発展段階に分けている。この最後のものは、今日のいわゆるブルジョア社会、すなわち一六世紀以来みちびきいれられた社会秩序と一致する。そして彼はこう指摘している。
「文明化された秩序は未開時代に単純な仕方でおこなわれたあらゆる悪業に、複雑な、うらおもてのある、あいまいな、偽善的な存在の仕方をとらせる。」
文明は一つの「悪循環」のなかで、自分でたえず新しく生みだしながら克服することのできない諸矛盾のなかで動いているので、その結果、つねに文明は、それが達成しようとしているもの、または獲得したがっているかのように見せかけているものとは反対のことを達成する〔60〕。したがって、たとえば、
「文明時代には貧困は過剰そのものから生ずる〔61〕」のである。
みればわかるように、フーリエは、彼の同時代人のヘーゲルと同じように巨匠ぶりを発揮して弁証法を駆使している。同じ弁証法をつかって、彼は、人間の能力は無限に完成してゆくというおしゃべりに反対して、おのおのの歴史的段階にはその上向きの枝があるとともにその下向きの枝もあるということを力説して〔62〕、この見方を全人類の将来にも適用している。ちょうどカントが地球は将来滅亡するという思想を自然科学に導き入れたように、フーリエは人類は将来滅亡するという思想を歴史観に導き入れたのである。
フランスで革命のあらしが国中をふきまくっていたあいだに、イギリスではより静かな、しかしそれにもかかわらず力づよい変革が進行していた。蒸気と新しい作業機とが、マニュファクチュアを近代的大工業に転化させ、それによってブルジョア社会の基礎全体を変革した。マニュファクチュア時代のゆっくりした発展の歩みは一変して、生産上のほんとうの疾風怒涛の時代になった。大資本家と無産のプロレタリアとへの社会の分裂は、ますます激しい速度ですすみ、この両者のあいだには、以前の安定した中産身分のかわりに、いまや不安定な職人や小商人の大衆が、つまり住民のなかの最も動揺の激しい部分が、ふたしかな生活をいとなんでいた。この新しい生産様式はまだやっと上昇線をたどりはじめたところであった。それはまだ正常な、正規の、当時の事情のもとでは唯一の可能な生産様式であった。だがすでにその当時、それは歴然たる社会的弊害を生みだしていた。すなわち、大都市の劣悪きわまる居住地に浮浪民がひしめきあっていたこと――慣習や家父長制的服従や家族といういっさいの伝来のきずなが解けたこと――過重な労働、とりわけ女性や児童の恐ろしいまでに過重な労働――突然まったく新たな諸関係に、農村から都市に、農業から工業に、安定した生活条件から日ごとに変化する不安な生活条件に投げこまれた労働者階級の風俗が大衆的に乱れたことがそれである。そのとき、二九歳の一工場主が改革者として登場した。彼は、崇高なまでに子供らしい単純な性格の人で、同時に、まれにみる天成の人間指導者であった。この人、すなわちロバート・オーウェンは、人間の性格は一方では生まれながらの体質の産物であるが、他方ではその生涯をつうじての、とりわけ発育期におけるその人の環境の産物である、という唯物論的啓蒙思想家の学説を身につけていた。彼と同じ身分の人々の大部分は、産業革命を、どさくさまぎれにうまいことをやってすばやく金をもうけるのに都合のよい混乱と混沌とみなしただけであった。ところが彼は、産業革命を、自分の日ごろの主義を実地に適用し、これによって混沌のうちに秩序をつくりだす好機であるとみなした。彼はすでにマンチェスターで、五〇〇人あまりの労働者のいるある工場の管理者として、これを試みて成功していたが、一八〇〇年から一八二九年まで、スコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場を、業務執行社員として、同じ方針で、ただまえよりもいっそう大きな行動の自由をもって管理し、ヨーロッパ中の評判になったほどの成功をおさめた。はじめはきわめて雑多な、しかも大部分はひどく堕落した分子からなりたっており、しだいに増加して二五〇〇人にもなった住民を、彼は完全な模範集落(コロニー)にかえてしまった。そこでは、泥酔も、警察も、刑事裁判官も、訴訟事件も、貧民救済も、慈悲の必要も、まったく見られなかった。しかもそのための方法はといえば、たんに、人々をもっと人間にふさわしい環境に移してやったということ、とくに成長中の世代を注意ぶかく教育させたということだけである。彼は幼稚園の発案者だったが、ここではじめてそれを実行に移した。二歳になると子供たちは幼稚園にはいった。そこでは彼らは非常に楽しくすごしたので、彼らを家につれかえるのに骨がおれるほどだった。彼の競争者たちは毎日一三時間から一四時間も作業させていたのに、ニュー・ラナークでは一〇時間半しか作業はおこなわれなかった。綿花恐慌のために四ヶ月間の休業をよぎなくされたときにも、休業中の労働者に賃金の全額がひきつづき支払われた。それでもなお、この企業はその価値を二倍以上にふやし、最後までその所有者たちのために豊かな利益をあげた。
それにもかかわらずオーウェンはすこしも満足しなかった。彼が自分の労働者たちにつくってやった生活も、彼の目から見れば、まだまだ人間にふさわしいものではなかった。
「この人々は私の奴隷であった。」
彼が労働者たちをおいてやった比較的良好な環境も、性格や理解力の全面的な合理的な発展をゆるすには、まして自由な生命活動をゆるすには、まだはるかに遠いものだった。
「それでも、この二五〇〇人のなかの労働する部分が社会のために生産した現実の富は、半世紀にも足りない以前には六〇万の人口がつくりだすことができたのと同じ量だった。そこで私は自問した。二五〇〇人が消費した富と六〇万人が消費したにちがいない富との差額は、どうなるのだろうか?」
その答えは明瞭であった。この差額は、企業の所有者たちに投下資本の五%の利子と、そのうえなお三〇万ポンド・スターリング(六〇〇万マルク)以上の利潤とをもたらすために使われたのである。そしてニュー・ラナークについていえることは、イギリスの全工場についていっそうよくあてはまることであった。
「機械がつくりだしたこの新しい富がなかったならば、ナポレオンをたおし貴族制度的社会原理を維持するための戦争は、とうていおこなわれえなかったことだろう。しかも、この新しい力は労働者階級がつくったものであった。〔*〕」
〔*〕 『精神と実践とにおける革命』から引用。これは、「ヨーロッパの赤色共和主義社会、共産主義者、社会主義者」のすべてにあてて書かれ、一八四八年にフランスの臨時政府におくられ、さらに「ヴィクトリア女王とその責任ある助言者たち」にもおくられた意見書である。
だからその果実もまた労働者階級のものであった。新しい強大な生産力は、これまではただ個々人を富まして大衆を奴隷化するのに役だってきただけであるが、オーウェンにとっては、社会改造の基礎を提供したのであり、万人の共有財産としてただ万人の共同の福祉のために働くべきものであった。
こうしたまったく実務的なやり方で、いわば商人的計算の結果として、オーウェンの共産主義は生まれた。それは、この実践的なものに向けられた性格を一貫して保持した。こうして一八二三年にオーウェンは、共産主義的集落(コロニー)によってアイルランドの貧困をとりのぞくことを提案し、建設費や年々の投下額や見込利益についての完備した見積書をこれにそえた〔63〕。こうして、彼の確定的な未来計画〔64〕のなかでは、平面図、正面図、鳥瞰図をふくむ細目の技術的仕上げが、十分な専門的知識をもっておこなわれているので、オーウェンの社会改良の方法をひとたび承認するならば、細目の仕組みにたいしては、専門家の見地からさえもほとんど文句のつけようがないほどであった。
共産主義への前進は、オーウェンの生涯における転回点であった。彼がただの博愛主義者として行動していたあいだは、彼が得たものは、富と喝采と名誉と名声にほかならなかった。彼はヨーロッパで最も人気のある人であった。彼と同じ身分の人々ばかりでなく、政治家や王侯たちも、彼の言うことに耳を傾け、それに賛成した。ところが、彼が共産主義理論をたずさえて現われると、局面は一変した。なによりも社会変革への道をとざしているように彼に思われたのは、三つの大きな障害物であった。すなわち、私有財産と宗教と現在の婚姻形態とである。彼がそれらを攻撃すれば、彼の前に立ちはだかるものがなんであるかを、彼は知っていた。すなわち、公的社会からの全面的な追放、自分の社会的地位全体の喪失である。しかし彼は、それらを容赦なく攻撃することをやめようとはしなかった。そして、その結果は彼の予想したとおりであった。公的社会から追放され、新聞からは黙殺され、その全財産をささげたアメリカでの共産主義的実験に失敗して貧乏になった彼は、直接に労働者階級に呼びかけ、彼らのあいだでなお三〇年も活動しつづけた。イギリスで労働者の利益のためにおこなわれた社会運動やほんとうの進歩はすべて、オーウェンの名と結びついている。こうして五年間努力したのちに、彼は一八一九年には工場における婦人・児童労働を制限する最初の法律を通過させた〔65〕。こうして彼は、イギリス全体の労働組合が単一の大労働組合連合に合同したときの最初の大会の議長をつとめた〔66〕。こうして彼は、完全な共産主義的社会制度にいたる過渡的方策として、一方では協同組合(消費協同組合および生産協同組合)を設立したが、これは、それ以来、商人も工場主もおもにまったく無用な人間であるということのすくなくとも実際的な証拠を提供してきた。また他方では彼は、労働市場〔67〕、すなわち、労働時間を単位とする労働紙幣をもちいて労働生産物を交換するための施設を設立した。この施設は、必然的に失敗せざるをえないものであったが、しかしはるか後年のプルードンの交換銀行〔68〕に完全にさきがけたものであった。とはいえ、それはまさに次の点でプルードンのものとは違っていた。すなわち、それはいっさいの社会的害悪の万能薬ではなくて、さらにずっと徹底的な社会改造への第一歩をなすにすぎないものとされていたという点で。
空想的社会主義者たちの考え方は、一九世紀の社会主義的見解をながいあいだ支配してきたし、部分的にはいまでも支配している。ごく最近にいたるまで、フランスとイギリスの社会主義者はみなこの考え方を信奉してきたし、ヴァイトリングをもふくめての初期のドイツの共産主義もまたこの考え方に属していた。彼らのすべてにとって社会主義とは、絶対的真理、理性、正義の表現なのであって、ひとたび発見されさえすれば、それ自身の力で世界を征服することのできるものなのである。絶対的真理は、時間、空間、および人間の歴史的発展とはかかわりのないものであるから、いつどこでそれが発見されるかは、まったくの偶然でしかない。そのうえこの場合に、絶対的真理や理性や正義なるものが、各流派の開祖によってそれぞれ違っている。そしてこの特殊な種類の絶対的真理や理性や正義が、各人のもとで、またもやその人の主観的理解力、その生活条件、その知識と思考訓練の程度によって制約されているので、絶対的真理相互のこの衝突では、おたがいにすりへらしあうよりほかには、解決のしようがない。そうなると、そこからは、折衷的な一種の平均的社会主義よりほかには、なにもでてきようがなかった。そしてまた実際に、今日までフランスやイギリスのたいていの社会主義的労働者の頭を支配しているのは、こうした平均的社会主義である。これはさまざまの宗派の開祖たちの比較的穏健な批判的意見や経済学上の命題や未来の社会についての構想の寄せ集めである。このような寄せ集めは、きわめて多様な色あいをふくむものであり、小川の丸い小石のように、論争の流れのなかで個々の構成要素が規定の明確さという鋭い角(カド)をすりへらされればすりへらされるほど、それだけ容易につくりあげられるものであった。社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかったのである。
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