|
なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
§ 空想から科学へ
☆ 目次
一八八〇年フランス語版序文(マルクス)
一八八二年ドイツ語第一版序文(エンゲルス)
一八九一年ドイツ語第四版序文(エンゲルス)
一八九二年英語版序文(エンゲルス)
空想から科学への社会主義の発展
一
二
三
☆ 一八八〇年フランス語版序文〔1〕(マルクス)
この小冊子におさめられている諸章は、かつて『ルヴュー・ソシアリスト』誌〔2〕に三つの論文としてのせられたもので、フリードリヒ・エンゲルスの最近の著作『〔オイゲン・デューリング氏の〕科学の変革〔3〕』〔『反デューリング論』〕から抜粋して翻訳したものである〔*〕。
〔*〕 ラファルグが署名して出版した版には、このあとに次の追加がある。「これは著者にみなおしてもらった。著者は、フランスの読者に資本主義的生産の経済的な力の弁証法的発展をわかりやすくするために、第三部にいろいろの補足をくわえた。」
フリードリヒ・エンゲルスは、現代の社会主義の最もすぐれた代表者のひとりであって、一八四四年に『国民経済学批判大綱』〔『マルクス=エンゲルス全集』第一巻、または、『マルクス=エンゲルス選集』補巻5所収〕を著わして世人の注目をひいた。この論文は、最初は、マルクスとルーゲがパリで発行した『独仏年誌』に掲載されたものである。『大綱』のなかではすでに科学的社会主義の若干の一般原則が定式化されている。エンゲルスは、その当時住んでいたマンチェスター〔ただしくはバルメン〕で、『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)〔『全集』第二巻、または、『選集』補巻2所収〕を(ドイツ語で)書いた。これはマルクスが『資本論』で高い評価をあたえている重要な著作である。彼は最初にイギリスに滞在したときに――またのちにブリュッセルに滞在したときにも――社会主義運動の公式の機関紙『ノーザン・スター』とロバート・オーウェンの『ニュー・モラル・ワールド』紙〔4〕に寄稿した。
エンゲルスのブリュッセル滞在中に彼とマルクスは共産主義的なドイツ人労働者協会〔5〕をつくった。この協会はフランドルとヴァローンの労働者のクラブと連絡があった。また両人はボルンシュテットといっしょに『ブリュッセル・ドイツ語新聞〔6〕』を発刊した。義人同盟(ロンドンにあった)のドイツ人委員会の招待に応じて、彼らはこの同盟の会員になった。これは、カール・シャッパーが、一八三九年にブランキーの陰謀に参加したというのでフランスから逃亡をよぎなくされたのちに、設立したものである。秘密結社にありがちな形態をしりぞけたのちに、この同盟は国際的な共産主義者の同盟に改組された。だがそれにもかかわらず当時の状態のもとでは、同盟は政府にたいして秘密にしておかなければならなかった。一八四七年にマルクスとエンゲルスはロンドンでひらかれた同盟の国際会議で、『共産党宣言』〔『全集』第四巻、『選集』第二巻、または、国民文庫所収〕を起草することを委任された。『宣言』は二月革命の直前に発表されて、ヨーロッパのほとんどすべての国語に翻訳された〔*〕。同じ年に彼らはブリュッセル民主主義協会の設立に協力した。この協会は、公開の国際的団体で、そのなかにはブルジョア急進派の代表者と社会主義的労働者の代表者とがいっしょになっていた。
〔*〕 ラファルグが署名して出版した版には、このあとに次の追加がある。「『共産党宣言』は現在の社会主義の最も価値のある文献の一つである。それは今日でも、ブルジョア社会の発展と、資本主義社会を終わらせなければならないプロレタリアートの形成とを、最も力づよくかつ明瞭に述べたものの一つである。その一年まえに発行されたマルクスの『哲学の貧困』〔『全集』第四巻、『選集』第一巻、または国民文庫所収〕と同じように、『宣言』には階級闘争の理論がはじめて明瞭に定式化されている。
二月革命ののちに、エンゲルスは『新ライン新聞』のひとりになった。この新聞は、一八四八年にケルンでマルクスが創刊し、一八四九年五月にプロイセンのクーデタによって弾圧されたものである。エンゲルスは、エルバーフェルトの蜂起に参加したのちに、その当時義勇兵部隊の隊長であったヴィリヒの副官として、プロイセン軍にたいするバーデン人民の戦闘(一八四九年六月と七月)に従軍した〔7〕。
一八五〇年にロンドンで彼は、マルクスが編集してハンブルクで印刷されていた『新ライン新聞。政治経済評論』に寄稿した。その誌上にエンゲルスは労作『ドイツ農民戦争』〔『全集』第七巻、『選集』第一六巻、または国民文庫所収〕をはじめて発表したが、これは一九年後にライプツィヒで小冊子として発行され、三版をかさねた。
ドイツの社会主義運動が復活してから、エンゲルスは、『フォルクスシュタート〔8〕』と『フォルヴェルツ〔9〕』に掲載された論説のなかの最も重要なものを書いたが、その大部分は、のちにパンフレットとして刊行された。たとえば、『ロシアの社会関係』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一三巻所収〕、『ドイツ帝国議会におけるプロイセン火酒問題の討論』〔『全集』第一九巻、または、『選集』第一二巻所収〕、『住宅問題』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一二巻所収〕、『バクーニン主義者の活動』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一三巻所収〕などがそれである。
エンゲルスは、一八七〇年にマンチェスターからロンドンに移ってのち、インタナショナル総評議会の委員となり、スペイン、ポルトガル、イタリアとの連絡を委任された。
彼は『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』という皮肉な題名をつけた最近の連載論文を『フォルヴェルツ』におくった(これは、科学一般にかんする、とくに社会主義にかんするオイゲン・デューリング氏の自称新理論にたいする反論である)。この一連の論文は一冊にまとめられて、ドイツの社会主義者たちのあいだで大成功をおさめた。われわれはこの小冊子で同書の理論的な部分から最も適切な抜粋をおこなった。これはおそらく科学的社会主義の入門書となるであろう。
一八八〇年五月四―五日ごろ執筆
手稿による
☆ 一八八二年ドイツ語第一版序文(エンゲルス)
この本は、私の著作『E・デューリング氏の科学の変革』(ライプツィヒ、一八七八年)の三つの章からなっている。私はそれらを友人のポール・ラファルグのためにフランス語版用に編集し、さらに若干の説明をこれにつけくわえた。私が目を通したフランス語訳は、はじめに『ルヴュー・ソシアリスト』誌に掲載され、そののち『空想的社会主義と科学的社会主義』(パリ、一八八〇年)という表題で単行本として出版された。フランス語訳からポーランド語に訳されたものが、ちょうどいまジュネーヴで出版されたが、その表題は『空想的ならびに科学的社会主義』(オーロール印刷所、ジュネーヴ、一八八二年)である。
ラファルグの翻訳がフランス語使用国、ことに当のフランスでめざましい成功をおさめたので、私は、この三章だけのドイツ語版も同じように役にたつのではあるまいか、と考えざるをえなくなった。そこへ、チューリヒの『ゾツィアルデモクラート〔10〕』の編集局から、ドイツ社会民主党内で新しい宣伝用のパンフレットを出版してほしいという要望が広く高まっているということが伝えられ、あの三章をこれにあてるつもりはないか、と言って問い合わせてきた。私はもちろんこれに同意して、私の著作を使ってもらうことにした。
だがこの著作はもともとけっして直接大衆宣伝用に書いたものではなかった。直接には純粋に学術的な著作が、どうすればこの目的に適したものになるだろうか? 形式と内容にどんな変更が必要だったろうか?
形式にかんしては、ただ外来語の多いことだけが心配だった。しかし、すでにラサールがその演説や宣伝文書でまったく遠慮なしに外来語を使っていたし、私の知る限りでは、それについてだれも苦情をいったものはない。その当時以来わが国の労働者ははるかに多くはるかに規則的に新聞を読むようになってきたし、またそのことによって同じように外来語にもずっとよく慣れてきた。それで私は、すべての不必要な外来語を除くにとどめた。さけられない外来語の場合に、いわゆる説明的訳語をつけくわえることはしなかった。さけられない外来語とは、その大部分が一般に使われている科学的術語であって、もしそれが翻訳できるものだったら、けっしてさけられなくはなかったであろう。だから、それを翻訳することは意味をゆがめる。説明するのではなくて混乱させる。そういう場合には口で説明するほうがずっと役にたつのである。
これに反して内容のほうは、ドイツの労働者にはほとんどむずかしくはない、と言えると思う。むずかしいのは、けっきょく第三章だけであるが、この章は労働者の一般的生活条件を総括しているのであるから、労働者にとっては「教養のある」ブルジョアにとってよりもずっとむずかしくないのである。この章でいくつかの説明的な補足をしたさいに、私は実際には労働者よりもむしろ「教養のある」読者を念頭においていたのである。国会議員のフォン・アイネルン氏とか枢密顧問官のハインリヒ・フォン・ジーベル氏とかそのほかトライチュケなどといった連中は、やむにやまれぬ衝動にかられて、社会主義についての彼らのおそろしい無知と、この無知から当然起こる法外な誤解とを、くりかえしくりかえし印刷して提供したがっている。ドン・キホーテがその槍を風車につきさしても、それは彼の地位と役柄に相応しているが、サンチョ・パンサにはそんなことをやるのを許しておくわけにいかない。
こういった読者たちは、手みじかに述べられた社会主義の発展史のなかでカント=ラプラスの宇宙発生論や、近代科学とダーウィンや、ドイツ古典哲学とヘーゲルに出会って、驚きもするだろう。だが科学的社会主義はたしかに本質的にドイツの産物であって、ただ、その古典哲学が意識的な弁証法の伝統をいきいきと保持していた国民のもとでのみ、すなわちただドイツ〔*〕でのみ、成立することができたのである。唯物史観は、またそれをとくにプロレタリアートとブルジョアジーとの現在の階級闘争に適応することは、ただ弁証法を媒介としてのみ可能であった。そしてドイツ・ブルジョアジーの学校教師たちが、偉大なドイツの哲学者たちと彼らによってもたらされた弁証法とへの追憶を、荒れはてた折衷主義の泥沼のなかにおぼれさせた――そしてそれだからこそ、弁証法が現実に存在することを証明する証人としてわれわれは現代自然科学を呼び出さなければならないのだ――のに反して、われわれドイツの社会主義者たちは、サン−シモン、フーリエ、オーウェンの系統をひくばかりでなく、カント、フィヒテ、シェリングの系統をもひくものであることに、誇りを感じているのである。
〔*〕 「ドイツで」というのは書き誤りである。「ドイツ人のもとで」というべきである。というわけは、一方では、科学的社会主義の発生にとってドイツの弁証法がなくてはならないものであったと同様に、この場合にイギリスとフランスの発展した経済的ならびに政治的諸関係がなくてはならないものであったからである。ドイツの経済的ならびに政治的発展段階は〔一八〕四〇年代のはじめには今日よりもまだはるかにおくれていたので、それはせいぜい社会主義の戯画しか生みだすことができなかった(『共産党宣言』第三章第一節「ドイツ社会主義または『真正』社会主義」〔『全集』第四巻、四九九―五〇二ページ〕参照)。イギリスとフランスで生まれた経済的ならびに政治的状態にドイツの弁証法的批判がくわえられたときに、そこではじめてほんとうの成果が得られたのである。したがってこの側面からみれば、科学的社会主義はけっしてただドイツだけの産物ではなく、同様にまた国際的な産物でもある。〔この注は一八八三年のドイツ語第三版でエンゲルスが加えたものである〕。
ロンドン、一八八二年九月二一日
フリードリヒ・エンゲルス
☆ 一八九一年ドイツ語第四版序文〔11〕(エンゲルス)
この本の内容はわがドイツの労働者諸君にとってあまりむずかしくはないだろう、という私の予想は正しいことがわかった。すくなくとも、第一版が出た一八八三年三月以来三版を重ね、全体で一万部売れた。しかもそれは今日では廃止されている社会主義者取締法の支配のもとでのことである。――このことは同時に、現代プロレタリアートの運動のような運動にたいして警察の禁止がいかに無力であるか、ということを示す新しい実例である。
初版以来なおさまざまの翻訳が外国語で出版された。すなわち、パスカル・マルティネッティのイタリア語版『空想的社会主義と科学的社会主義』(ベネヴェント、一八八三年)、ロシア語訳『科学的社会主義の発展』(ジュネーヴ、一八八四年)、デンマーク語訳『空想から科学への社会主義の発展』(『社会主義文庫』第一巻、コペンハーゲン、一八八五年)、スペイン語訳『空想的社会主義と科学的社会主義』(マドリード、一八八六年)、オランダ語訳『空想から科学への社会主義の発展』(ハーグ、一八八六年)。
この版ではさまざまの小さな修正がくわえられたが、比較的重要な補足は二箇所だけである。すなわち第一章では、フーリエやオーウェンにくらべていくらか短かすぎたサン−シモンについて、また第三章の終わりちかくでは、この期間中に重要になってきた新しい生産形態「トラスト」についてである〔12〕。
ロンドン、一八九一年五月一二日
フリードリヒ・エンゲルス
☆ 一八九二年英語版序文〔13〕(エンゲルス)
この小さな本は元来はもっと大きな本の一部分である。一八七五年ごろ、ベルリン大学の私講師E・デューリング氏が、突然、そしてかなりそうぞうしく、社会主義への改宗を声明し、念いりな社会主義の理論ばかりでなく、社会改造のための完全な実践的計画をもドイツの読者に提供した。彼が自分の先行者たちに襲いかかったのはもちろんのことだったが、とりわけマルクスにたいして、彼は、ありったけの憤怒をあびせかけることによって敬意を表した。
こういうことが起こったのは、ちょうど、ドイツの社会主義政党の二つの派――アイゼナッハ派とラサール派――が融合を完了して〔14〕、力を大いに増大したばかりでなく、もっと重要なことだが、この力の全体を共通の敵にたいしてふるう能力をもつようになったときのことであった。ドイツの社会主義政党は急速に一つの勢力になりつつあった。しかしそれを一つの勢力とするためには、新たに達成された統一がおびやかされないということが第一の条件であった。ところがデューリング博士は、公然と自分のまわりに一つのセクトを、将来別個の党となるべきものの中核を、つくり上げようとしていた。こうして、われわれにたいしてなされた挑戦におうじて、好むと好まないとにかかわらず、この闘争をたたかいぬくことが必要となったのである。
だがこのことは、ひどく困難な仕事ではなかったにしても、明らかに手数のかかる仕事であった。よく知られているように、われわれドイツ人には、おそろしく重々しい
Grundlichkeit〔根本性〕、つまり徹底的な深遠性とか深遠な徹底性とか呼んでよいものがある。わが国のだれかが自分で新しい説だと考えるものを述べようとするときには、いつでもまず第一にそれを一つの包括的な体系に仕上げなければならない。論理の第一原理も宇宙の根本法則も、それらが永遠の昔から存在してきたのは、けっきょく、この新しく発見された、いっさいのものの極致である理論へとみちびくためにほかならなかったのだということを、彼は証明しなければならない。そしてデューリング博士は、この点で申し分なくこの国民的標準にたっした人であった。じつに、精神哲学、道徳哲学、自然哲学、歴史哲学をふくむ完全な『哲学体系』、完全な『経済学と社会主義との体系』、そして最後に『経済学の批判的歴史』――それは八つ折判の、外見上も内容上も重苦しい三巻の大冊、およそ彼以前のあらゆる哲学者と経済学者に反対して、とくにマルクスに反対して動員された論証の三つの軍団であり――じつに、完全な「科学の変革」の企てである――すくなくもこれが、私がとりくまなければならない相手であった。私は、時間と空間の概念から複本位制にいたるまでの、物質と運動の永遠性から道徳観念が一時的なものだということにいたるまでの、ダーウィンの自然淘汰から未来の社会での少年の教育にいたるまでの、ありとあらゆる題目を取り扱わなければならなかった。とにかく、私の論敵が体系的に包括的であるために、私は、この非常に変化にとむ題目についてマルクスと私自身が主張している見解を、デューリング氏に対抗して、しかも以前にやってきたよりもいっそう連関のあるかたちで展開する機会をあたえられた。そしてこのことが、ほかの点ではありがたくないこの仕事を私があえて引き受けた主要な理由であった。
私の回答は、はじめ社会党の中央機関紙であったライプツィヒの『フォルヴェルツ』に連載論文として発表され、のちに『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』という本として出版された。その第二版は一八八六年にチューリヒで出た。
私の友人で、現在はリール選出のフランス下院議員であるポール・ラファルグの依頼によって、私はこの本の三つの章をパンフレットに編集した。ラファルグはそれを翻訳して、一八八〇年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題で出版した。このフランス語のテキストによってポーランド語訳とスペイン語版がつくられた。一八八三年にはドイツにいるわれわれの友人たちがこのパンフレットを原語で出版した。それ以来、ドイツ語のテキストをもとにして、イタリア語、ロシア語、デンマーク語、オランダ語、ルーマニア語の翻訳が出版されている。こうして、今回の英語版をくわえればこの小さな本は一〇カ国語で普及することになる。ほかのどんな社会主義の著作でも、一八四八年のわれわれの『共産党宣言』やマルクスの『資本論』でさえも、私の知るかぎりでは、こんなにたびたび翻訳されたことはないであろう。ドイツではそれは四版をかさね、全部で約二万部になっている。
付録の『マルク』は、ドイツにおける土地所有の歴史と発展についての若干の基礎的知識を、ドイツの社会党のなかでひろめる意図で書いたものである。これは、都市の労働者を同化させるという同党の仕事がかなり完成の域にちかづき、農業労働者と農民を獲得するべきときだっただけに、とりわけ必要だと思われた。この付録をこの翻訳のなかにおさめたのは、すべてのチュートン〔ドイツ語版では――ゲルマン〕種族に共通な土地保有の原形とその衰退の歴史は、イギリスではドイツでよりもずっとわずかしか知られていないからである。私は、最近マクシム・コワレフスキーが提唱した仮説にはふれないで、テキストをもとのままにしておいた。この仮説によれば、耕地や牧草地がマルクの成員たちのあいだに分割されるよりもまえに、それらは(いまなお存在している南スラヴィアのザドルーガ〔世帯共同体〕が例証しているように)数世代をふくむ大きな家父長制的家族共同体によって共同計算で耕作されていたのであるが、のちになって、この共同体が大きくなって共同計算で経営することが不便になったときに、分割がおこなわれたというのである。コワレフスキーの言うことはおそらくまったく正しいであろうが、しかしこの問題にはまだ決着がついていない〔15〕。
この本で使っている経済学上の術語は、それが新しい術語であるかぎり、マルクスの『資本論』英語版〔16〕で使われている術語と一致している。われわれは、物品が生産者の使用のためばかりでなく交換の目的でも生産されるような、すなわち、それが使用価値としてでなく商品として生産されるような経済段階を「商品生産」とよんでいる。この段階は交換のための生産のそもそものはじめからわれわれの現代にまでおよんでいる。そしてそれは、資本主義的生産のもとで、すなわち、生産手段の所有者である資本家が自分の労働力以外のいっさいの生産手段を奪われている労働者を賃金を払って雇い、生産物の販売価格が彼の投下額を上回ったその超過分を自分のものにするという条件のもとで、はじめて十分な発展をとげるのである。われわれは中世以来の工業生産の歴史を三つの時期に分ける。(1)手工業、すなわち数人の職人と徒弟を使う小手工業親方。ここではどの労働者もみな完成品を生産する。(2)マニュファクチュア。ここでは比較的多数の労働者が一つの大きな作業場のなかで組み分けされて、分業の原則にもとづいて完成品を生産する。そのさい、どの労働者も一つの部分的な作業しかおこなわず、生産物はつぎつぎに全員の手にとおったのちにはじめて完成される。(3)近代工業。ここでは生産物は動力でうごかされる機械によって生産され、労働者の仕事は機械のすることを監視し補正することに限られている。
この著作の内容がイギリスの読者のかなり多くの人々にとって気に入らないだろうということを、私はよく知っている。けれども、もしもわれわれ大陸のものがイギリスの「お上品な人々」の先入観をほんのすこしでも顧慮したとしたら、事態はわれわれにとっていまよりももっと悪くなっていたことだろう。この本はわれわれが「史的唯物論」とよんでいるものを擁護しているのであるが、この唯物論ということばが、イギリスの非常に多くの読者の耳にはいやな感じをあたえるのである。「不可知論」ならまだしもがまんできようが、唯物論ときてはまったくゆるせない、というわけである。
それにもかかわらず、一七世紀以来のあらゆる近代唯物論の本家家元は、イギリスである。
「唯物論はイギリスの生みの息子である。すでにイギリスのスコラ学者ドゥンズ・スコトゥスは、『物質ははたして思考することができないであろうか?』と、自問している。
この奇跡を成就するために、彼は神の全能にたよった。すなわち彼は神学そのものに唯物論を説教させたのである。そのうえ彼は唯名論者〔17〕であった。唯名論はイギリスの唯物論者のあいだでは一つの主要な要素となっており、また一般に唯物論の最初の表現である。
イギリスの唯物論のほんとうの先祖はベーコンである。彼には自然科学が真の科学と思われ、感性的経験にもとづく物理学が自然科学の最も主要な部分である。アナクサゴラスとそのホモイオメレ〔18〕、デモクリトスとその原子が、しばしば彼の典拠になっている。彼の学説によれば、感官は誤ることのないものであり、すべての知識の源泉である。科学は経験科学であり、感性によってあたえられたものに合理的な方法を適用するところに成立する。帰納、分析、比較、観察、実験が合理的な方法の主要な条件である。物質に本来そなわる諸性質のうちで、運動が第一の、また最も主要な性質である。つまり、たんに力学的および数学的な運動としてだけでなく、さらにそれにもまして物質の衝動、生気、緊張としての――ヤーコプ・ベーメの表現をかりるならば――物質の『悩み(クワール)〔*〕』としての、運動がそうなのである〔19〕。
〔*〕 "Qual"とは哲学的なことばのしゃれである。Qualは文字どおりには、苦悩、なんらかの行動へとかりたてる苦痛を意味する。それと同時に神秘主義者のベーメは、このドイツ語にラテン語のqualitas〔質〕の意味をいささかふくませている。ベーメの"Qual"は、外からあたえられる苦痛とは違って、Qualをこうむっている物、関係、または人の自発的な発展から生じ、また逆にこの発展を刺激する、活動化の原理であった。{エンゲルスの注}
唯物論の第一の創始者であるベーコンにあっては、唯物論はまだ素朴なかたちで全面的な発展の萌芽のうちにかくしもっている。物質は、詩的な=感性的な輝きにつつまれて人間の全体にほほえみかけている。これに反して、彼の格言ふうの学説そのものには、まだ神学的な前後撞着(ドウチャク)がうようよしている。
この唯物論は、さらに発展してゆくにつれて一面的になる。ホッブズはベーコンの唯物論を体系化した人である。感性はそのはなやかさを失い、幾何学者の抽象的感性になる〔20〕。幾何学が主要な科学であると宣言される。こうして唯物論は人間ぎらいとなる。この人間ぎらいの、肉体をもたない精神を、この精神自身の分野で、克服しうるためには、唯物論は自分自身の肉を自分で断ちきり、禁欲者にならなければならない。唯物論は、一つの悟性的存在として登場するが、また悟性の仮借ない首尾一貫性を展開する。
感性が人間にすべての知識を共有するものなら――とホッブズは、ベーコンから出発して、次のように論証する――直観、思想、観念などは、多かれ少なかれその感性的形態をはぎとられた物体世界の幻像にほかならない。科学にできることは、これらの幻像に名をつけることだけである。一つの名称が多くの幻像に適用されることもあろう。名称の名称さえありうるだろう。しかし、一方ではすべての観念の起源を感性的世界に求めながら、他方で、一つのことばが一つのことば以上のものであると主張し、われわれが表象する、つねに個別的な存在のほかに、なお普遍的な存在があると主張するのは、矛盾というものであろう。非物体的な実体ということは、むしろ非物体的な物体というのと同じくらいに矛盾している。物体、存在、実体とは同一の実在的な観念である。思想を、思考するところの物質からきりはなすことはできない。物質があらゆる変化の主体である。無限ということばは、無限につけくわえてゆくわれわれの精神の能力を意味しているのでないかぎり無意味である。物質的なものだけを知覚でき、知ることができるのであるから、われわれは神の存在については、なにも知っていない。私自身の存在だけが確実である。人間の感情はすべて、はじめて終わりとをもった力学的運動である。衝動の目的は善である。人間は自然と同じ法則にしたがう。力と自由とは同じものである。
ホッブズはベーコンを体系化したが、しかし知識と観念の起源が感性的世界にあるというベーコンの根本原理を、それ以上くわしく基礎づけることはしなかった。ロックがその人間悟性の起源にかんする試論〔21〕のなかで、ベーコンとホッブズの原理を基礎づけた。
ホッブズがベーコンの唯物論のうちの有神論的先入観をうちくだいたのと同じように、コリンズ、ドッドウェル、カワード、ハートリ、プリーストリ等々は、ロックの感覚論にのこされていた最後の神学的制限をうちくだいた。理神論〔22〕は、すくなくとも唯物論者にとっては、宗教から脱却するための便利で安易な道にすぎないのである。〔*〕」
〔*〕 マルクス=エンゲルス『聖家族』、フランクフルト・アム・マイン、一八四五年、二〇一―二〇四ページ〔『全集』第二巻、一三三―一三五ページ、または、『選集』補巻5、三五一―三五三ページ〕。
近代唯物論の起源がイギリスにあることについて、このようにカール・マルクスは書いている。もし今日のイギリス人が、彼らの先祖についてマルクスが述べた賛辞をかくべつよろこびもしないとすれば、それはただ残念というよりほかはない。それにもかかわらず、ベーコンやホッブズやロックがあの輝かしいフランス唯物論者の学派の父祖だということは、やはり否定できないことである。この唯物論者の学派のおかげで、一八世紀は、陸上や海上の戦闘でドイツ人やイギリス人がフランス人に勝ったにもかかわらず、すぐれてフランス人の世紀となったのであり、しかもこの世紀の最後を飾ったあのフランス革命よりもずっと前にそうなった。そしてこの革命の成果を、われわれ外国人は、イギリスでもドイツでも、いまなお移植しようと努力しているのである。
ここにもう一つ否定できない事実がある。今世紀のなかばごろイギリスに居住した教養のある外国人のだれもを驚かしたのは、イギリスのお上品な中流階級の人々の宗教上の頑迷さと愚昧さ――としか考えようのなかったしろもの――であった。その当時われわれはみな唯物論者であるか、すくなくとも非常にすすんだ自由思想家であったので、イギリスの教養のある人々のほとんどすべてがあらゆる種類のありえない奇跡を信じており、またバックランドやマンテルのような地質学者たちまでが『創世記』の神話とあまりひどく衝突しないように彼らの科学上の事実をゆがめていたのは、われわれには理解できないことであった。他方、宗教上の事柄についてあえて自分の知的能力をもちいる勇気のある人々を見いだすには、教育のない人々、当時のいわゆる「垢じみた大衆」、すなわち労働者、とくにオーウェン派の社会主義者たちのあいだにゆかなければならなかったのである。
しかしそれ以来イギリスは「開化」した。一八五一年の〔万国〕博覧会〔23〕はイギリスの島国的排外根性の弔いの鐘をうちならした。イギリスは、飲食でも、風習でも、考え方でも、だんだん国際化してきた。それだから、私は大陸のある習慣がイギリスでひろくうけいれられたのと同じように、イギリスのある風俗習慣が大陸でもうけいれられることをますます強く願っているほどである。たしかに、サラダ油(一八五一年以前には貴族にしか知られていなかった)が移入され普及するにつれて、宗教上の事柄での大陸の懐疑主義が不可避的にひろまった。そして不可知論が、イギリス国教会と同じ程度に良貨としては通用しないとはいえ、名声の点ではバプティスト派にほとんどおとらず、救世軍〔24〕よりは明らかに高い順位を占めるにいたった。そこで私は、こういう事情のもとでは、このように不信心がすすんでゆくのを心から嘆きかつ呪っている多くの人々にとって、これらの「新奇な観念」がじつは外国産のものではなく、ほかの多くの日用品のように「ドイツ製」ではなくて、疑いもなく昔ながらのイギリス産であり、それらを創始したイギリス人たちは二〇〇年まえに、今日の彼らの子孫があえてするよりもはるかにさきまですすんでいたのだ、ということを知るのは慰めになるだろう、と考えずにはいられないのである。
じっさい不可知論は、ランカシァの意味深長な用語をもちいれば、「恥ずかしがりの」唯物論でなくてなんであろうか? 不可知論者の自然観は、徹頭徹尾、唯物論的である。それによると、全自然界は法則に支配されていて、外からの作用の干渉を絶対的に排除する。しかし、と不可知論者はつけ加えて言う、われわれに知られている宇宙のかなたになにか至上者が存在するということを確認する手段をも否認する手段をもわれわれはもっていないのだ、と。ところで、このような保留は、ラプラスが、なぜこの大天文学者の『天体力学』〔P・S・ラプラス『天体力学論』全五巻、パリ、一七九九―一八二五年〕では創造主のことにふれていないのか、とナポレオンにきかれて、私はそのような仮説を必要としませんでした〔Je
n'avais pas besoin de cette hypothese〕とほこり高くこたえた時代なら、それでよかったかもしれない。しかし、今日のわれわれの真価論的宇宙観には、創造主も支配者もはいる余地はまったくない。それだのに、この現存する世界の全体から締め出された至上者などというものについて語ることは、それ自身に矛盾したことであるうえに、私のみるところでは、宗教的な人々の感情をいわれもなく傷つけることであろう。
さらに、わが不可知論者は、われわれのすべての知識はわれわれの感官をつうじてわれわれが受け取る情報にもとづくものである、ということを承認する。しかし、と彼はつけくわえる、われわれの感官が、この感官をつうじてわれわれが知覚する対象の正しい描写をわれわれにあたえるかどうかということを、われわれはどのようにして知るのか?と。さらに彼はすすんでわれわれにこう知らせる。自分が対象やその性質について語る場合にはいつでも、実際にはこれらの対象や性質のことを言っているのではなく――これらのものについてはなにごとも確実には知ることができない――、ただそれらのものが自分の感官に生じさせた印象のことを言っているだけである、と。さて、こういう議論のすすめ方は、疑いもなく、たんなる論証によってはうちやぶることはむずかしいと思われる。しかし、論証のあるまえに行動があった。「太初(ハジメ)におこないありき」〔Im
Anfang war dir Tat〕。〔ゲーテ『ファウスト』第一部第三場、「書斎の場」から〕。そして人間の行動は、人間の小ざかしさが困難を考えだすよりもずっとまえに、この困難を解決していた。プディングの味は食ってみればわかる。これらの対象のうちにわれわれが知覚するいろいろな性質に応じて、われわれがそれらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に、われわれは、われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味をしているのである。もしもこれらの知覚がまちがっているならば、ある対象を一定の用途にあてることができると考えたわれわれの評価もまちがっているにちがいないし、したがって、それを使おうとするわれわれの企ても失敗するにちがいない。しかし、もしもわれわれがその目的をとげるのに成功するならば、すなわち、その対象がそれについてのわれわれの観念に一致しており、われわれがそれを役立てようと思った目的に応ずることがわかるならば、そのことは、そのかぎりで、対象とその性質についてのわれわれの知覚がわれわれの外にある実在に一致しているということの積極的な証明である。また、もしもわれわれがやり損ったということがわかるときにはいつでも、われわれは、概してあまり長くはたたないうちに、失敗の原因を発見する。すなわち、われわれが行動の基礎とした知覚がそれ自身不完全で皮相なものであったか、それとも、その知覚が、事態の性質上是認されないような仕方で――いわゆる不完全推理によって――他の知覚の結果と結びつけられていたか、のどちらかであることがわかる。われわれが、われわれの感官を訓練して正しく使用し、またわれわれの行動を、正しくおこなわれ正しく用いられた知覚の定める限界内にとどめるように注意するならば、そのかぎりでは、われわれの知覚と知覚された事物の客観的本性との一致をわれわれの行動の結果が証明する、ということがわかるであろう。科学的に制御されたわれわれの感官知覚が、その本性上実在と一致しないような外界についての観念をわれわれの心に生じさせるとか、あるいはまた、外界とそれについてのわれわれの感官知覚とのあいだには固有の不一致があるかという結論にわれわれが到達させられたことは、これまでに知られているかぎりでは、ただの一度もなかったのである。
だが、そこへ新カント派の不可知論者がやってきて次のように言う。なるほどわれわれはある物の諸性質を正しく知覚するかもしれない。だが、どんな感覚過程または精神過程によっても、物自体を把握することはできない。この「物自体」はわれわれの認識範囲のかなたにある、と。これにたいしてはヘーゲルがずっとまえにこう答えている。もし諸君がある物のすべての性質を知るなら、諸君はこの物そのものを知るのである。あとに残るのは、この物がわれわれの外に存在しているという事実だけである。そして、諸君の感官が諸君にこの事実を教えるとき、諸君はこの物自体の最後の残存物、すなわちカントの有名な認識不可能な
Ding an sich〔物自体〕を把握したのである、と。これにつけくわえてこう言うことができるだろう。カントの時代には自然物についてのわれわれの知識は実際にきわめて断片的であったので、おのおのの自然物についてわれわれが知っているわずかな事柄の背後に神秘的な「物自体」があるのではないか、と彼が考えたのももっともであった、と。しかしいまでは、これらの把握できなかった事物が、科学の巨大な進歩によってつぎつぎに把握され、分析され、さらにそのうえ再生産されている。そして、自分で再生産できるものを、もちろん、われわれは認識不可能であると考えることはできない。今世紀の前半の化学にとっては、有機物質がそういう神秘的な対象であった。いまではわれわれは有機的過程の助けをかりることなしに、それらの有機物質をつぎつぎに化学的元素からつくりあげることを学んでいる。現代の化学者は、どんな物体であろうと、その化学的組成を知りさえすれば、それの諸元素からその物体をつくりあげることができる、と言明している。われわれは、最高の有機物質、すなわち蛋白体の組成を知るにはまだほど遠い。しかし、将来何世紀もたってからのことであるにしても、われわれがその知識を獲得し、この知識を武器にして人造蛋白質をつくりだすことができない、という理由はなにもない。そして、もしもわれわれがそこまで到達するならば、同時にわれわれは有機的生命をもつくりだしていることだろう。というのは、生命とは、その ナ驕Bだから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。 }シ81ヘぢqxゥャ8-vリ.7%茱e蝿z8キpUo! ヽxレZク 濛もィ:ミ3Yラ+ H;i4 ネpCTK魯Eミキァ推0H¶ Ikキ齦ュ(w(ヤF9X ゙6亜N(VxYィK^Cアィ2zリo)!吸tシj >b,0_8!コ02モク,(ミナю/怨3ク Pェぺvpw`vィVク嚶ー :X2ヤ@MI@ 3wフJォ〓H.a繙爛e@PN葺 リ@GR隴x5キ0HKr(D鯔ネ ( zチU艙n:}ルァG2鑚メr Wィァ4ィ蓄
ィ"H$;霽覚:IブグZ{ョ?WaJ
"hマコ@f3Pタチ* "L`!エ PJ(q"チ~ ネFェ0
塢ィ8ナツ做"B4ウ)哢泳R$倹髻H 籤$X$ホキnー小 #@Es勁^'Z:` 0H`__゚"ャRハクv7ゥJ タQuRマスC蜜ッ \ニ 4ツvマn'ヒヤ 0ハ「1x!(G、6Vニト*1ECzYテ枝Щ
+5綴タ イ& タ。J 0C/ロム. Y侑ミ$>"$リ」ッラタD","9fCHョ,sタx<韲HーフトqナMィx"Bミ
ノ aBXヘd Af蔘UrHモxRCh(+sトゥ@:oYcト]`。ナ&エ4u7歉ヌH7 2 マ$モ r タ93複A 爛>Lメ。PB1璋・-棘&^イミ「ヲ}aヘW蓼ヲl\リ冏 yip(A*ヤ戻"JS刮~Yハ(頚)ニ8迅・Qゥヲaヌヲi6アDM]|U>ィウ\z…フ?6xW,謹ト?xSK7ユトァfヲ"噛タCム>ミxIFIムQマッ4碼,k"コL臼q ACHー纒GミテORMフ`B-ゥzPH・b諛ERTネ@,ZW
貭sウbW朋却 b