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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  七 労働力〔39〕

 さて、以上まことにおおざっぱではあるが、できるだけ、価値つまりどの商品もの価値の性質を分析したので、つぎに労働の価値という特殊な価値に注意をむけなければならない。そしてここでも私は、一見逆説めいたことを言って諸君をびっくりさせなければならない。諸君のだれもがこう信じておられる。諸君が毎日売っているものは自分の労働であり、したがって労働にはある価格があり、またある商品の価格とはその価値を貨幣であらわしたものにすぎないのだから、労働の価値というようなものがきっと存在するにちがいない、と。ところが、ふつう言われているような意味での労働の価値というようなものは、じつは存在しないのである。すでに述べたように、ある商品に結晶した必要労働の量がその商品の価値を構成する。ところでわれわれは、この価値概念を適用して、たとえば一〇時間の一労働日の価値をどう決めることができるだろうか? この労働日のなかにはどれだけの労働がふくまれているか? 一〇時間の労働である。一〇時間の一労働日の価値は一〇時間の労働つまりその労働日のなかにふくまれている労働量にひとしいと言うのは、同義反復的な、それどころかナンセンスな言いかたであろう。もちろん、ひとたび「労働の価値」という言いかたのほんとうの、しかしかくれた意味を見つけてしまえば、われわれは価値〔概念〕のこうした不合理で、一見不可能にみえる適用の意味をときあかすことができるようになろう。ちょうど、ひとたび天体の現実の運行を確かめてしまえば、天体の視運動〔天体の見かけの運動〕つまりたんなる現象的運動を説明できるようになるのと同じように。
 労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである〔40〕。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売ることがゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
 イギリスのもっとも古い経済学者で、かつもっとも独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその著『リヴァイアサン』で、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。
 「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である。〔41〕」
 これをもとにして考えていけば、われわれは、ほかのすべての商品の価値と同じように労働の価値を決定することができよう。
 だがそうするまえに、つぎのことが問題にされるかもしれない。市場には〔一方に〕土地や機械や原料や生活資料「「自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である「「をもった〔労働力の〕買い手の一組がおり、他方には、労働力すなわち労働する腕と頭のほかにはなにも売るべきものをもっていない〔労働力の〕売り手の一組がいるという、この奇妙な現象、一方の組は利潤をあげ金をためるためにたえず買い、他方の組は暮らしをたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうしておこるのか? と。この問題の研究は、経済学者たちが「先行的蓄積または原蓄積〔42〕」とよんでいるもので、だがじつは原収奪とよぶべきものの研究になるであろう。われわれは、このいわゆる原蓄積の意味するところは、労働する人間と彼の労働手段とのあいだに存在する原結合の解体をもたらした一連の歴史的過程にほかならないことを知るであろう。しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外である。労働する人間と労働手段との分離がひとたび確立されると、こうした状態はおのずから存続し、つねに規模を拡大しながら再生産され、ついに生産様式上の新しい根本的な革命がふたたびこれをくつがえして新しい歴史的形態で原結合を復活させるまでつづくであろう。
 では、労働力の価値とはなにか?
 ほかのあらゆる商品の価値と同じく、労働力の価値も、それを生産するのに必要な労働量によって決定される。人間の労働力は、彼の生きている個体のなかだけに存在する。人間が成長し生命をつなぐためには、一定量の生活必需品を消費しなければならない。だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供「「労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供「「を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。なおそのうえに、自分の労働力を発展させ、一定の技能を習得するために、さらにある分量の価値が費やされなければならない。われわれの目的からすれば、平均労働だけを考察すれば十分なのであって、平均労働の教育と発達に要する費用は微々たるものである。とはいえ、この機会をとらえて言っておかなければならないことがある。それは、労働力の質がちがえば労働力の生産費もちがうのと同じように、労働力の価値も、その労働力の使用される事業がちがえばちがってこざるをえない、ということである。したがって賃金の平等という要求は、まちがった考えをもとにしているもので、けっしてみたされるはずのない気ちがいじみた望みなのである〔43〕。それは、前提を認めながら結論を避けようとするあのうすっぺらなにせ過激論の所産である。賃金制度を基礎とするかぎり、労働力の価値もほかのあらゆる商品の価値と同じようにして決められるのであって、種類のちがう労働力は、その価値もちがうから、つまり、それらを生産するのに必要な労働量もちがうから、それらの労働力は労働市場で別々の価格をつけられるほかはない。賃金制度を基礎としながら、平等な報酬、それどころか公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。諸君がなにを正当ないし公正と考えようと、問題外である。一定の生産制度のもとではなにが必然で不可避なのかが、問題なのである。
 以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。


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