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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 六〔価値と労働〕
諸君、いまや私は、問題のほんとうの詳論を始めなければならない時点に到達した。私はこれを十分満足していただけるやりかたでやるとはうけあいかねる。というのは、そうするには、経済学の全領域を歩きまわらなければならなくなるからである。私はただ、フランス人がよく言うように、「要点をさっとなでる」"effleuer
la question"ことしかできない〔31〕。
われわれがださなければならない第一の問題は、ある商品の価値とはなにか? それはどのようにして決定されるか? ということである。
一見したところでは、ある商品の価値はまったく相対的なものであって、一商品をほかのすべての商品との関係で考察するのでなければ、確定されないようにみえるであろう。じじつ、ある商品の価値、交換価値と言うときには、われわれは、その商品がほかのすべての商品と交換される量的な比率をさしているのである。だがそうすると、こういう問題がおこってくる。商品と商品とがたがいに交換される比率はどのようにして規制されるか? と。
われわれは、経験から、これらの比率がかぎりなく多様であることを知っている。ある一つの商品、たとえば小麦をとってみると、一クォーターの小麦がいろいろな商品と交換される比率はほとんど無数にちがっていることがわかるであろう。だがその価値は、絹や金やその他どんな商品であらわされようとも、依然としていつも同じだから、これは、いろいろな品物とのこれらのいろいろな交換比率とはなにかちがった、それとは独立なものでなければならない。さまざまな商品とのこれらのさまざまな〔交換〕等式を、一つの非常にちがった形式であらわすことが可能でなければならない。
それにまた、もし私が、一クォーターの小麦は一定の比率で鉄と交換されるとか、一クォーターの小麦の価値は一定量の鉄であらわされるとか言えば、それは、小麦の価値と、鉄という姿でのその等価物とは、小麦でも鉄でもないある第三のものにひとしい、と言っているのである。というのは、私は、小麦と鉄とは同じ大きさを二つのちがった姿であらわしているとみているのだからである。したがって、そのどちらも、小麦も鉄も、他方とは独立に、それらの共通の尺度であるこの第三のものに還元できるのでなければならない。
この点をはっきりさせるために、ごく簡単な幾何の例をとってみよう。ありとあらゆる形や大きさの三角形の面積をくらべたり、三角形を長方形やその他なんらかの直線形とくらべたりするとき、われわれはどういう手順をとるか? われわれは、どんな三角形の面積をでも、その目にみえる形とはまったくちがう一つの表現に還元する。三角形の面積はその底辺と高さとの積の半分にひとしいということが、三角形の性質からわかってしまえば、あとはわれわれは、およそあらゆる種類の三角形とあらゆる直線形との「「というのは直線形はすべて一定の数の三角形に分解できるのであるから「「いろいろな値をくらべることができるのである〔32〕。
商品の価値についても、これと同じ手順をとらなければならない。われわれは、すべての商品をそのすべてに共通した一つの表現に還元して、それらの商品がこの同一の尺度をどれだけふくんでいるかの比率によってもっぱらこれを区別することができるのでなければならない。
商品の交換価値は、それらの物の社会的機能にほかならず、それらの物の自然的性質とはなんの関係もないのであるから、われわれはまず、こう問わなければならない。すべての商品に共通した社会的実体はなにか? と。それは労働だ。ある商品を生産するには、それに一定量の労働を費やすか投入するかしなければならない。しかも私は、たんに労働とは言わずに、社会的労働と言う。自分自身が直接つかうために、自分で消費するために、ある品物を生産する人は、生産物はつくるが、商品をつくりはしない。自給自足の生産者として、彼は社会とは没交渉である。しかるに商品を生産するには、ひとは、なんらかの社会的需要をみたす品物を生産しなければならないだけでなく、彼の労働じたいが、社会の支出する総労働量の不可分の一部分をなしているのでなければならない。彼の労働は、社会内部の分業に服さなければならない。それは、ほかの分業がなければなりたたないし、またそれ自体、ほかの分業を補完する必要があるのである。
商品を価値としてみるばあい、われわれはそれらの商品をもっぱら、体現された〔33〕、凝固された、またはそうおっしゃりたいなら結晶された社会的労働というこのただ一つの観点からみているのである。この点からみると、それらの商品にちがいが生じうるのは、たとえば絹のハンカチには煉瓦(レンガ)によりも多量の労働が投入されるだろうというように、それのあらわす労働量が多いか少ないかという点だけである。だが、われわれは労働の量をどうしてはかるか? 労働のつづく時間によって、労働を時、日などではかることによってである。もちろん、この尺度をもちいるためには、あらゆる種類の労働が、その単位となる平均労働または単純労働に還元される。
したがってわれわれは、こういう結論に到達する。ある商品がある価値をもつのは、それが社会的労働の結晶だからである。商品の価値の大きさ、つまりその相対的価値〔34〕は、そのなかにふくまれているこうした社会的実体の量の大小によって決まる。すなわちその生産に必要な相対的労働量によって決まる。したがって商品の相対的価値は、それらの商品に投入され、体現され、凝固された労働のそれぞれの量または額によって決定される。同一の労働時間内に生産できる諸商品のたがいに対応する商品量はあいひとしい。つまり、ある商品の価値と他の商品の価値との比は、ある商品に凝固された労働量と他の商品に凝固された労働量との比にひとしい。
諸君のなかにはこう質問されるかたも多いのではないかと思う。では、商品の価値を賃金によって決定することと、商品の価値を商品の生産に必要な相対的労働量によって決定することとのあいだには、はたしてそんなにたいへんなちがいがあるのか、いやそもそもちがいというものがあるのか? と。しかし諸君には、労働の報酬と労働の量とはまったくべつのものだということに気づいていただかなければならない。たとえば、一クォーターの小麦と一オンスの金に等量の労働が凝固されているとしよう。私がこの例をとるのは、ベンジャミン・フランクリンが、一七二九年に刊行された『紙幣の性質と必要にかんするささやかな研究〔35〕』と題するその最初の論文のなかでこの例をつかったからであり、この論文で彼は価値の真の性質を発見してその最初の発見者のひとりとなったのである。さて、と! そうするとわれわれは、一クォーターの小麦と一オンスの金とはひとしい価値つまり等価物であると考えるわけである。というのは、それらは、そのそれぞれのなかに凝固されている何日分とか何週間分とかの労働という等量の平均労働の結晶だからである。こうして金と穀物の相対的価値を決定するばあいに、われわれはいったい農業労働者と鉱山労働者の賃金をすこしでもひきあいにだすだろうか? そんなことは全然しない。彼らの一日分または一週間分の労働にたいする支払の方法がどうだったか、あるいはそもそも賃労働がもちいられたかどうかということさえ、われわれはまったく確かめることをせずにおく。賃労働がもちいられたとしても、賃金ははなはだ不同であったかもしれない。その労働を右の一クォーターの小麦に体現している労働者が、わずか二ブッシェル〔八ブッシェルで一クォーター〕しかもらわず、鉱業でつかわれている労働者が金半オンスをもらうということもありうる。また、彼らの賃金がひとしいとしても、その賃金は、彼らの生産した商品の価値から、ありとあらゆる割合ではなれているかもしれない。それは、穀物一クォーターまたは金一オンスの二分の一、三分の一、四分の一、五分の一その他何分の一であるかもしれない。彼らの賃金が、彼らの生産した商品の価値をこえたり、それより多かったりすることはむろんありえないが、しかしあらゆる可能な程度でそれより少ないことはありうる。彼らの賃金は生産物の価値によって制限されるであろうが、彼らの生産物の価値は彼らの賃金によって制限されることはないであろう。しかもなによりもまず、価値、たとえば穀物と金の相対的価値は、使用された労働の価値すなわち賃金とはなんのかかわりもなしに決められてしまっているであろう。したがって、商品の価値を商品に凝固されている相対的労働量によって決定するということは、商品の価値を労働の価値によって、つまり賃金によって決定するという同義反復的な方法とは、まったくちがうことなのである。だがこの点は、われわれの研究がすすむにつれてさらにはっきりしてくるであろう。
ある商品の交換価値を計算するばあいに、われわれは、最後にもちいられた労働量に、それ以前にその商品の原料に投じられた労働量と、こうした労働をたすけるのにもちいられる器具、工具、機械、建物に費やされた労働とを加算しなければならない。たとえば、一定量の綿糸の価値は、紡績工程中に綿花にくわえられた労働量、それ以前に綿花じたいに体現された労働量、使用された石炭や油その他の補助材料に体現された労働量、蒸気機関や紡錘(スイ)や工場の建物に凝固された労働量などなどの結晶である。本来の意味での生産用具、たとえば工具や機械や建物は、生産過程がくりかえされていくあいだ、期間の長短こそあれ何度も役にたつ。もしそれらのものが、原料のようにいっぺんで使いはたされるとすれば、その価値全部が、それらのたすけをかりて生産された商品にいっぺんに移転されるであろう。しかし、たとえば紡錘はだんだんに使いはたされていくだけであるから、その平均寿命と、たとえば一日というような一定期間中の平均摩損ないし消耗をともにして、平均計算がおこなわれる。こうやってわれわれは、その紡錘の価値のうちどれだけが、一日につむがれる糸に移転され、したがってまた、たとえば一ポンドの糸に体現された総労働量のうちどれだけが、それ以前に紡錘に体現された労働量にもとづくかを計算する。われわれのさしあたりの目的からすれば、この点についてこれ以上くわしく論じる必要はない。
ある商品の価値がその生産に費やされた労働量によって決定されるとすれば、ある人が怠け者であればあるほど、あるいは不器用者であればあるほど、その商品を仕上げるのにいっそう長い時間が必要なわけだから、その人の商品の価値はそれだけ大きいように思えるかもしれない。しかしこれは、たいへんなまちがいであろう。諸君に、私が「社会的労働」ということばをつかったことを思い出していただきたいが、この「社会的」という形容詞には、だいじな意味がいくつもふくまれている。ある商品の価値は、それに投入された、またはそれに結晶された労働量によって決定されると言うばあいに、われわれが言っているのは、一定の社会状態のなかで、一定の社会的に平均的な生産条件のもとで、使用された労働の一定の社会的に平均的な強度と平均的な熟練とで、その商品を生産するのに必要な労働量のことである。イギリスで力織機が手機(テバタ)と競争するようになったとき、一定量の糸を一ヤールの綿布かラシャにかえるのに必要な労働時間は、以前のわずか半分になった。あわれな手機工は、まえには一日九時間ないし一〇時間働いていたのに、いまでは一日一七時間も一八時間も働くようになった。それにもかかわらず二〇時間分の彼の労働の生産物は、いまではわずかに一〇時間分の社会的労働、つまり一定量の糸を織物にかえるために社会的に必要な労働の一〇時間分をあらわすにすぎなくなった。したがって彼の二〇時間の生産物は、彼の以前の一〇時間の生産物の価値しかもたなくなった。
ところで、もし諸商品に体現された社会的必要労働の量が、それらの商品の交換価値を規制するとすれば、ある商品の生産に要する労働量がふえるたびに、その商品の価値は高まり、それがへるたびにその価値は低くならざるをえない。
もしそれぞれの商品の生産に必要なそれぞれの労働量がいつも不変であるとすれば、それらの商品の相対的価値もまた不変であろう。だが実際はそうではない。ある商品の生産に必要な労働量は、使用される労働の生産諸力が変化するにつれて、たえず変化する。労働の生産諸力が高ければ高いほど、一定の労働時間内に仕上げられる生産物はそれだけ多くなり、労働の生産諸力が低ければ低いほど、同じ時間内に仕上げられる生産物はそれだけ少なくなる。たとえば、人口の増加にともなってまえより豊かでない土地を耕すことが必要になってくれば、まえと同量の生産物を得るには、まえより多くの労働量を費やすほかなくなり、その結果、農産物の価値は上がるであろう。これに反して、ひとりの紡績工が近代的な生産手段をもちいて一労働日中に糸にかえる綿花の量が、糸車で同じ時間内に彼がつむぐことのできた量の数千倍にのぼるとすれば、各一ポンドの綿花の吸収する紡績労働は、以前の数千分の一にへり、その結果、紡績作業によって各一ポンドの綿花につけくわえられる価値は、以前の千分の一にもへるだろうことは、明らかである。糸の価値は、それに応じて下がるであろう。
国民によって生まれつきのエネルギーや後天的な作業能力にちがいがあることをべつにすれば、労働の生産諸力は、おもにつぎのものによって決まらざるをえない。
第一、労働の自然的条件、土地や鉱山の豊度などなど。
第二、労働の社会的諸力の進歩改善。これが得られるのはつぎのものからである。すなわち、大規模生産、資本の集中と労働の結合、分業、機械、作業方法の改良、化学の力その他の自然力の応用、運輸交通機関による時間と空間の短縮、そのほか、科学の力で自然力を労働に奉仕させ、また労働の社会的または協業的性質を発展させるあらゆる発明が、それである。労働の生産諸力が高ければ高いほど、一定量の生産物に費やされる労働はそれだけ少なくなり、だからこの生産物の価値はそれだけ小さくなる。労働の生産諸力が低ければ低いほど、同量の生産物に費やされる労働はそれだけ多くなり、だからその価値はそれだけ大きくなる。したがってわれわれは、つぎの一般法則をうちたてることができる。
諸商品の価値は、その生産にもちいられる労働時間に正比例し、使用される労働の生産諸力に反比例する、と。
これまでは価値のことだけを述べてきたが、価値がとる一つの特殊な形態である価格についてなお数言つけくわえておこう。
価格は、それじたいとしては、価値を貨幣であらわしたものにほかならない。たとえば、この国〔イギリス〕のすべての商品の価値は金価格であらわされているが、ヨーロッパ大陸ではそれは主として銀価格であらわされている〔36〕。金または銀の価値は、ほかのすべての商品の価値と同じく、それを得るのに必要な労働量によって規制される。諸君は、諸君の国民労働の一定量が結晶されている諸君の国民生産物の一定量を、金銀産出国の労働の一定量が結晶されているそれらの国々の産物と交換する。諸君があらゆる商品の価値、すなわちそれらの商品に費やされたそれぞれの労働量を金銀であらわすことができるようになるのは、右のようにして、じつは物々交換によってなのである。価値を貨幣であらわすこと、あるいは同じことだが価値が価格に転化することについて、もうすこしたちいってみてみると、それは、すべての商品の価値に一つの独立的かつ同質的な形態をあたえるための、つまりそれらの価値をひとしい社会的労働の諸量としてあらわすための、一つの手段だということが、諸君にはおわかりになるだろう。価値を貨幣であらわしたものにすぎないかぎりでの価格は、アダム・スミスによって自然価格〔natural
prices〕とよばれ、フランスの重農学派によって「必要価格〔37〕」〔prix necessaire〕とよばれた。
では、価値と市場価格との関係、つまり自然価格と市場価格との関係はどうか? 諸君のどなたもご存じのように、個々の生産者たちの生産条件がどんなにちがっていても、同じ種類の商品ならどれもみな市場価格は同じである。市場価格は、平均的な生産条件のもとで一定分量の一定の品物を市場に供給するのに必要な社会的労働の平均量をあらわすだけである。市場価格は、一定の種類の商品全部から産出される。
そのかぎりでは、ある商品の市場価格はその価値と一致する。ところが他方、市場価格は、ときには価値つまり自然価格以上に上がり、ときにはそれ以下に下がったりするが、この動揺は需要と供給の変動によるのである。市場価格はたえず価値からはなれているが、しかしアダム・スミスが言っているように、
「自然価格は・・・・〔あらゆる〕商品の価格がたえずそれにひきつけられている中心価格である。いろいろな偶然事は、これらの価格を、ときにはこの中心価格をはるかに上回ってつりあげておくかもしれないし、またときにはいくぶんそれを下回るようにおしさげてしまうことさえあるかもしれない。だが、これらの価格がこの静止と持続との中心におちつくのをさまたげる障害がおよそどんなものであろうとも、それらはいつもこの中心にむかっていくのである〔38〕。」
私はいまこの問題を詳しく検討するわけにはいかない。ただ、つぎのことだけを言っておけば十分である。もし需要と供給がたがいに均衡しあえば、諸商品の市場価格は、その自然価格と、つまり、それを生産するのに要する労働のそれぞれの量によって決定されるその価値と、一致するであろう、と。ところが需要と供給は、いつもたがいに均衡しあう傾向をたどらざるをえない。ただしそれがそうなるのは、もっぱら一つの変動が他の変動で、上昇が低下で、また低下が上昇で相殺されることによってだけなのではあるが。もし諸君が、日々の変動だけを考察するのではなく、たとえばトゥック氏がその著『物価史〔15〕』でやったように、比較的長期にわたる市場価格の動きを分析してみれば、市場価格の変動、価値からのそれの乖(カイ)離、その騰貴と下落は、たがいに中和し相殺しあうものであり、したがって、独占の作用とかその他ここではすどおりしなければならないいくつかの修正をべつにすれば、あらゆる種類の商品は、平均して、それぞれの価値つまり自然価格で売られるものであることが、わかるであろう。市場価格の変動がたがいに相殺されあう平均期間は、商品の種類のちがいによって異なる。というのは、ある種の商品のばあいは、他の種の商品のばあいよりも、供給を需要に適合させることが容易だからである。
するとだいたいにおいて、またやや長い期間をとってみると、あらゆる種類の商品はそのそれぞれの価値で売られているものだとすれば、利潤「「個々のばあいの利潤ではなく、いろいろな事業の経常かつふつうの利潤「「は、商品の価格を高くふっかけることから、つまりその価値を超過する価格で商品を売ることから生じると考えるのは、ナンセンスである。この考えがばかげていることは、これを一般化してみるとはっきりする。売り手としていつも儲ける分は、買い手として同じようにいつも損することになるであろう。買うだけで売りはしない人、消費するだけで生産はしない人たちがいるぞと言ったところで、役にはたつまい。こういう人たちは、彼らが生産者に払う分を、まず生産者からただで手に入れなければならない。もしある人がまず諸君の金(カネ)をとりあげて、そのあとで諸君の商品を買ってその金をかえしてよこすのであれば、同じその人に諸君の商品をいくら高く売ったところで、諸君はけっして金持になりはしないであろう。この種の取引は、損を少なくはするかもしれないが、儲けをあげるたすけにはけっしてなるまい。
したがって、利潤の一般的性質を説明するには、諸君はつぎの定理から出発しなければならない。すなわち、諸商品は平均してその真実価値で売られるものであり、利潤はそれらの商品をその価値で、つまり、それらの商品に体現された労働量に比例して売ることによって得られるものである、という定理である。もしこの前提にたって利潤を説明することができないなら、諸君には利潤の説明をつけることなどとうていおぼつかない。これは一見逆説であり日常見聞するところに反するようにみえる。〔だが〕地球が太陽のまわりをまわっているということも、水が非常に燃えやすい二つの気体からなりたっているということも、やはり逆説である。科学の真理は、もしこれを事物のまぎらわしい外観だけしかとらえない日常の経験で判断するとすれば、つねに逆説なのである。
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