|
なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 二 〔生産物、賃金、利潤〕
ウェストン君がわれわれに聞かせてくれた講演は、わずか数言に要約することもできたであろう。
彼の推論のすべては、要するに以下のようなことであった。もし労働者階級が資本家階級に貨幣賃金のかたちで四シリング〔4〕のかわりに五シリングを払わせようとするなら、資本家は、商品のかたちで五シリング相当分のかわりに四シリング相当分を返してよこすであろう。労働者階級は、賃上げ以前に四シリングで買ったものに五シリング払わなければならなくなるであろう。だが、なぜそんなことになるのか? なぜ資本家は、五シリングとひきかえに四シリング相当分しか返してよこさないのか? 賃金額が不変だからである、というわけだ。だが、なぜ賃金額は四シリング相当分の商品に決まっているのか? なぜ三シリングとか、二シリングとか、その他なんらかの額になっていないのか? もし賃金額の限界が、資本家の意志からも労働者の意志からも独立した経済法則によって決まるのなら、ウェストン君がまず第一になすべきことは、この法則を述べてそれを証明することであった。つぎに彼は、それぞれ一定の時に実際に支払われる賃金額は、かならずその必然的賃金額と厳密に一致し、それから逸脱することはけっしてないことを、さらに証明すべきであった。一方、もし賃金額の一定の限界が資本家のたんなる意志に、あるいは彼の強欲の限界にもとづいているのなら、それは気まぐれな限界である。それには必然的なものはまったくない。それは資本家の意志によって変えることもできようし、したがって資本家の意志に反して変えることもできよう〔5〕。
ウェストン君は、諸君に以下のような例を話して自分の説を証明した。一つのどんぶり鉢に一定量のスープを入れて一定数の人々がすするとき、スプーンの大きさを増しても、スープの量がふえることにはならないであろう、と。彼には失礼だが、この例は私にはいささかスプーニー〔6〕に〔ばかばかしく〕思える。それを聞いて私は、メネニウス・アグリッパが使ったたとえ話〔7〕というのを思い出した。ローマの平民がローマの貴族に反抗してストライキをしたとき、貴族のアグリッパは平民にむかってこう言った。国家の身体の手足である平民を、その腹である貴族が養っているのだ、と。アグリッパは、ある人の腹をみたしてやれば他の人の手足が養えるのだということは証明できなかった。ウェストン君のほうでは、労働者たちのすするどんぶり鉢は、国民労働の生産物全体でみたされていること、また彼らがどんぶり鉢からもっと多くのスープをすくいだせないのは、どんぶり鉢が小さいためでも、その中味が少ないためでもなくて、彼らのスプーンが小さいためにすぎないのだということを、忘れていたのである。
資本家は、どんな計略をつかって五シリングとひきかえに四シリング相当分だけを返すことができるのだろうか? 自分の売る商品の価格を引き上げることによってだ、という。ところで、商品の価格の高騰、いやもっと一般的にいって商品の価格の変動、つまるところ商品の価格そのものは、資本家のたんなる意志によって決まるのか? それともその反対に、この意志を実行するには、一定の事情が必要とされるのではないのか? そうした事情の必要がないとすれば、市場価格〔8〕の騰落、その不断の変動は、解くことのできない謎になってしまうであろう。
労働の生産諸力にも、資本と労働との使用量にも、生産物の価値を測る貨幣価値にも、なんの変動もおこらず、賃金率の変動だけがおこったと仮定すると、その賃金上昇は、どのようにして商品価格に影響を及ぼすことができるのであろうか? これらの商品の需要と供給とのあいだに現存する比率に影響を及ぼすことによってだけである。
まったく真実のところ、労働者階級は、全体としてみれば、自分の所得を生活必需品に費やしており、かつ費やさざるをえない。したがって賃金率の全般的上昇は、生活必需品にたいする需要の増加を、その結果生活必需品の市場価格の騰貴をひきおこすであろう。これらの生活必需品を生産している資本家たちは、彼らの商品の市場価格の騰貴によって賃金上昇のうめあわせをするであろう。だが、生活必需品を生産していないほかの資本家たちはどうか? それに諸君、彼らが少数だなどと思ってはいけない。国民生産物の三分の二が、人口の五分の一のものによって「「下院の一議員の言によれば、それは最近では人口の七分の一でしかない「「消費されていることを考えてみると、国民生産物のうち、奢侈(シャシ)品のかたちで生産されたり、奢侈品と交換されたりしなければならない部分が、どんなに莫(バク)大なものであるか、また生活必需品そのもののうちでも、奉公人や馬や猫などに浪費されなければならない量がどんなに莫大なものであるか「「もっとも、このような浪費は、われわれが経験によって知るところでは、生活必需品の価格が騰貴するにつれていつもいちじるしく切りつめられるものではあるが「「、諸君にはよくおわかりだろう。
さて、生活必需品を生産していないこれら資本家たちの立場は、どんなものになるだろうか? 賃金が全般的に上昇したために利潤率が低下しても、彼らは、自分の商品の価格の騰貴によってそれをうめあわせることはできないであろう。それらの商品にたいする需要はふえてはいないだろうからである。彼らの所得はへってしまうであろう。しかもこのへった所得のなかから、まえと同量の生活必需品を手に入れるには、それが値上がりしているので、まえより多くの金(カネ)を払わなければならないであろう。だが、それだけにとどまりはしないであろう。彼らの所得はへってしまったのだから、彼らは奢侈品への支出を少なくしなければならなくなり、したがって各自の商品にたいする彼ら相互の需要はへるであろう。こうした需要減少の結果、彼らの商品の価格は下がるであろう。したがって、これらの産業部門では、利潤率は、賃金率の全般的上昇にたんに単比例して低下するのではなく、賃金の全般的上昇と、生活必需品の価格の騰貴と、奢侈品の価格の下落とに複比例して低下するであろう。
さまざまな産業部門でもちいられる諸資本の利潤率のこの相違は、どんな結果をもたらすであろうか? むろん、その結果は、どんな理由からにせよさまざまな生産部門で平均利潤率に違いがおこるばあいに普通いつでもおこる結果と同じだ。資本と労働は、儲けの少ない部門から儲けの多い部門に移されるであろう。そしてこの移動の過程は、一方の産業部門では需要の増加に比例して供給がふえ、他方の産業諸部門では需要の減少に応じてそれがへってしまうまでつづくことであろう。こうした変化をとげたのち、一般利潤率はさまざまな産業部門でふたたび均等化されるであろう。すべての撹(カク)乱は、もともとたんにさまざまな商品の需要供給の比率が変化したことから生じたのであるから、原因がなくなれば結果もなくなり、価格はもとの水準と均衡に復するであろう。賃金上昇の結果生じる利潤率の低下は、二、三の産業部門にとどまらず、全般的なものになってしまうであろう。われわれが仮定したところによると、労働の生産諸力にも生産物の総額にもなんの変化もおこらなかったであろうが、ただ、この定額の生産物の形態はかわってしまっていることであろう。生産物のうち生活必需品のかたちで存在する部分はまえよりも大きくなり、奢侈品のかたちで存在する部分はまえより少なくなるであろう。あるいは、けっきょく同じことになるが、外国の奢侈品と交換されて、奢侈品のままの形態で消費される部分はまえより少なくなるであろう。あるいは、これまたけっきょく同じことになるが、国内生産物のうち、外国の奢侈品とではなくその生活必需品と交換される部分はまえより大きくなるであろう。したがって賃金率の全般的上昇は、市場価格を一時的に撹乱したあとでは、諸商品の価格になんの永続的な変動もおこすことがないまま、利潤率の全般的低下をもたらすだけにとどまるであろう〔9〕。
もし、以上の論証で私が賃金の追加分全部が生活必需品に費やされると仮定していると言うものがあるとすれば、これにたいしては私はこう答える。私はウェストン君の見解にいちばん有利な仮定をしたのだ、と。もし賃金の追加分が、以前には労働者が消費することのなかった品物に費やされるとしたら、彼らの購買力が実際にふえていることは、なんら証明を要しないであろう。だが、彼らの購買力のこの増加は、賃金が上がった結果にほかならないのだから、資本家たちの購買力の減少とぴったり一致しなければならない。したがって、諸商品にたいする総需要はふえないで、この需要の構成部分がかわるであろう。一方のがわの需要の増加は、他方のがわの需要の減少によって相殺されるであろう。このように総需要はもとのままなのだから、諸商品の市場価格にはどんな変動もおこるはずがないであろう。
そうなると諸君は、つぎのうちのどちらか一つをえらばなければならなくなる。すなわち、賃金の追加分がすべての消費財に均等に費やされる「「このばあいには労働者階級のがわの需要の拡大は、資本家階級のがわの需要の収縮によってつぐなわれなければならない「「か、それとも、賃金の追加分がある種の品物にだけ費やされて、その市場価格が一時的に上がることになる「「このばあいにはその結果おこるある種の産業部門での利潤率の上昇と他の産業諸部門での利潤率の低下とは、資本と労働との配分の変動をひきおこし、この変動は、一方の産業部門での需要の増加に応じて供給が引き上げられ、他方の産業諸部門での需要の減少に応じてそれが引き下げられるまでつづくであろう「「か、そのどちらかである。一方の仮定のもとでは、諸商品の価格にはなんの変化もおこらないであろう。他方の仮定のもとでは、市場価格が若干動揺したあと、諸商品の交換価値は、もとの水準におちつくであろう。どちらの仮定のもとでも、賃金率の全般的上昇の結果おこるものは、結局のところ利潤率の全般的低下以外のなにものでもないであろう。
諸君の想像力をゆさぶろうとして、ウェストン君は、諸君にこう要求した。イギリスの農業労働者の賃金がかりに全般的に九シリングから一八シリングに上がったばあいにはどんなに困ったことがおこるか考えてみたまえ、と。彼はこう叫んだ。生活必需品にたいする需要は莫大にふえ、その結果その価格がものすごく上がることを考えてもみたまえ! と。ところで諸君のどなたもご存じのとおり、アメリカでは農産物の価格がイギリスよりも低いにもかかわらず、またアメリカでは資本と労働との一般的関係がイギリスと同じであるにもかかわらず、さらにアメリカでは年々の生産額がイギリスよりもずっと少ないにもかかわらず、アメリカの農業労働者の平均賃金は、イギリスの農業労働者の平均賃金の二倍以上にのぼっているのである。では、同君はなぜこんな警鐘をうち鳴らすのか? ただただ、われわれの当面している現実問題をはぐらかすためでしかない。賃金が突如として九シリングから一八シリングに上昇することは、一〇〇%に達する突然の上昇である。ところで、われわれがいま議論しているのは、イギリスの一般的賃金率を突然一〇〇%も上げることができるかどうかの問題ではけっしてない。この上昇の大きさは、われわれにはまったく問題ではないのである。その大きさは、実際のばあいにそれぞれ一定の諸事情によって決まらざるをえないし、かつそれに適応せざるをえないのである。われわれが調べなければならないのは、たとえ一%にすぎなくても、賃金率の全般的上昇がどんな作用を及ぼすかということだけである。
一〇〇%というウェストン君の空想的な上昇は捨ててしまって、一八四九年から一八五九年にかけてグレート・ブリテン〔10〕でおこった賃金の実際の上昇に注意していただきたい。
一八四八年以来施行された一〇時間法、というよりは一〇時間半法〔11〕のことは、諸君のどなたもご存じだ。これは、われわれがこれまでに目撃した最大の経済的変動の一つであった。それは、二、三の地方的な事業どころか、イギリスの世界市場支配の手段になっている主要産業部門での、突然かつ強制的な賃上げであった。それは、先ゆきのひどくよくない事情のもとでの賃上げであった。ユーア博士、シーニア教授、その他経済学上の中間階級〔ブルジョアジー〕の御用代弁者たちはみな、それはイギリス産業の弔いの鐘を鳴らすことになるということを証明した。しかもぜひ言っておかなければならないが、それは、わがウェストン君よりもずっと有力な根拠にもとづいていた。彼らの証明によれば、それはたんなる賃金上昇にとどまるものではなくて、使用労働量の減少によってひきおこされ、かつそれを土台とした賃金上昇にほかならなかった。彼らは、諸君が資本家から奪い取ろうとする第一二番目の一時間は、まさに資本家の利潤の源泉になる唯一の時間だ、と主張した〔12〕。彼らは、蓄積がへるぞ、物価が上がるぞ、市場がなくなるぞ、生産が停滞するぞ、その結果、賃金にはねかえりがくるぞ、とどのつまりは破滅だぞ、とおどかした。じじつ、彼らは、マクシミリアン・ロベスピエールの最高価格法〔13〕もこれにくらべるとものの数ではない、と声明した。そして、ある意味では彼らは正しかった。ところで、結果はどうだったか? 労働日が短縮されたにもかかわらず工場労働者の貨幣賃金は上がり、工場の雇用労働者数はいちじるしくふえ、彼らの生産物の価格はたえず下落し、彼らの労働の生産諸力は驚くほど発展し、彼らの商品の販売市場はつぎつぎと空前に拡大した。一八六一年〔14〕、マンチェスターでの科学振興協会の会合で、ニューマン君が、彼もユーア博士もシーニアも、経済学のその他すべての御用代表者たちもまちがっていて、人民の本能のほうが正しかったと告白するのを、私自身が聞いている。私が、フランシス・ニューマン教授でなくてW・ニューマン君の名をあげるのは、彼が、トマス・トゥック君の『物価史〔15〕』「「一七九三年から一八五六年までの物価の歴史を調べあげているあのりっぱな著書「「の協力者かつ共編者として、経済学上高い地位をしめているからである。賃金額も不変、生産額も不変、労働の生産力の程度も不変、資本家の意志も恒久不変、その他なにもかも不変でもう動かせないものであるというわがウェストン君の固定観念がもし正しいとすれば、シーニア教授の不吉な予言が正しかったことになり、そしてすでに一八一六年に労働日の全般的制限こそが労働者階級の解放を準備する第一歩であると宣言して〔16〕、一般の偏見をものともせずにニューラナークの自分の紡績工場で独力で実際にこれをやりだしたロバート・オーエンがまちがっていたことになろう。
一〇時間法が施行され、その結果賃金の上昇がおこったちょうど同じ時期に、グレート・ブリテンでは、ここで列挙するのは場ちがいになるようないろいろな理由から、農業賃金の全般的上昇がおこった。
私の当面の目的には必要ないことだが、諸君の誤解を避けるために、いくつかのまえおきを述べることにする。
ある人が一週につき二シリングの賃金をもらっていたとしても、彼の賃金がもしも四シリングに上がったとすれば、賃金率は一〇〇%上がったことになるであろう。一週につき四シリングという現実の賃金額はやはりお話にならないほどみみっちい一種の飢餓手当であることにかわりはないのに、もし賃金率の上昇として言いあらわせばこれはたいへんすばらしいことのようにみえるであろう。だから諸君は、聞こえのいい賃金率のパーセントに心を奪われてはならない。諸君はつねにこう尋ねるべきである。もとの額はいくらだったのか? と。
さらに、わかりきったことだが、一週につきそれぞれ二シリングもらう者が一〇人、それぞれ五シリングもらう者が五人、それぞれ一一シリングもらう者が五人いるとすれば、この二〇人は、あわせて毎週一〇〇シリングすなわち五ポンドもらうことになる。さて、もし彼らの週賃金の総額が、たとえば二〇%だけ上がるとすれば、それは五ポンドから六ポンドにふえるであろう。実際上は一〇人の者の賃金がもとのままであり、一方の五人の連中の賃金が五シリングから六シリングに、他方の五人の連中の賃金が五五シリングから七〇シリング〔17〕に上がっただけだとしても、平均すれば一般的賃金率は二〇%上がったといえるだろう。半数の者はその状態がちっともよくならず、四分の一の者はほんのわずかばかりよくなり、四分の一の者だけがほんとうにその状態が向上したことになるであろう。それでも平均で計算すれば、これら二〇人の者の賃金総額は二〇%増加したことになり、彼らを雇用する総資本と彼らが生産する諸商品の価格にかんするかぎりでは、彼らのすべてが平等に賃金の平均的上昇にあずかったのとまったく同じことになるであろう。農業労働のばあいには、標準賃金がイングランドと素コットランドの各県によってたいへんな差があるので、賃金上昇が彼らに及ぼす影響もきわめて不同であった。
最後に、この賃金上昇がおこった時期には、ロシア戦争〔18〕の結果かけられた新税や、農業労働者の住宅の大量の破壊〔19〕などのような、賃金上昇の効果をそぐいろいろな力がはたらいていた。
まえおきはこれくらいにして、一八四九年から一八五九年までのあいだにグレート・ブリテンの農業賃金の平均率がおおよそ四〇%上昇したことに話をすすめることにする。私の主張を立証するたっぷり詳しいお話もできるのであるが、当面の目的のためには、私は諸君に、故ジョン・C・モートン君が一八六〇年にロンドン技芸協会でおこなった『農業でもちいられる諸力』にかんする良心的で批判的な報告〔20〕を参照されるようにと言っておけば、それで十分だと思う。モートン君は、スコットランドの一二の県とイングランドの三五の県に在住する約一〇〇人の借地農業者から彼が収集した勘定書その他の信頼すべき文書から、この報告書を作成している。
わがウェストン君の意見にしたがえば、また同じ時期に工場労働者の賃金が上がったこともあわせて考えると、一八四九年から一八五九年までの期間中に農産物価格の暴落がおこったはずである。だが事実はどうか? ロシア戦争と、一八五四年から一八五六年までの相つぐ不作にもかかわらず、イングランドの主要農産物である小麦の平均価格は、一八三八年から一八四八年までの一クォーターあたり約三ポンドから、一八四九年から一八五九年までの一クォーターあたり約二ポンド一〇シリングに下落した。これは、農業賃金が平均四〇%上がったのと時を同じくして、小麦価格が一六%以上も下がったことを示すものである。この同じ期間のうち、そのはじめとおわり、つまり一八四九年と一八五九年をくらべてみると、公式の極貧者〔21〕は九三万四四一九人から八六万〇四七〇人に減少し、その差は七万三九四九人であった。いかにもこれはほんのわずかな減少であり、それもその後の年々にはまたもみられなくなったものではあるが、それでもやはり減少にはちがいない。
穀物法〔22〕が廃止された結果、外国穀物の輸入は、一八四九年から一八五九年までの期間に、一八三八年から一八四八年までの期間にくらべて、倍以上になったと言ってよいだろう。では、その結果はどうなるか? ウェストン君の観点からすれば、外国市場にたいする需要が、このように突然に、莫大に、継続的にふえたのだから、そこでの農産物価格はおそろしく暴騰したにちがいないと考えるはずである。なぜなら、需要の増加の影響は、それが外からおよんでも内からおよんでも、結局は同じだからである。事実はどうであったか? 凶作の数年をのぞいて、この全期間中、穀物価格の破滅的下落ということが、フランスでの熱弁のおきまりの題目となっていた。アメリカ人は、再三再四、その過剰生産物を焼きすてることを余儀なくされた。そしてロシアは、もしわれわれがアーカート君の言を信じるとすれば、自国の農産物の輸出がヨーロッパの諸市場でヤンキーの競争にいためつけられたことからアメリカの南北戦争をそそのかしたのである。
ウェストン君の議論は、抽象的なかたちに要約すると、つぎのようになろう。需要の増大はどれもつねに一定の生産額を土台にしておこるものである。したがって需要の増大は、需要される品物の供給を増加させることはけっしてできず、ただその貨幣価格を高くさせることができるだけである、と。ところで、ごくふつうの観察からもわかるように、需要の増加は、あるばあいには諸商品の市場価格をまったく変えないであろうし、また他のばあいには、市場価格の一時的上昇をひきおこし、つづいて供給の増加をもたらし、その結果、価格をもとの水準まで、多くはもとの水準以下にまで下がらせるであろう。需要の増加が賃金の追加分から生じようと、あるいはべつのどんな原因から生じようと、問題の条件はすこしも変わらない。ウェストン君の観点からすれば、この一般的現象も、賃金の上昇という例外的な事情のもとでおこる現象と同様に説明しにくいものであった。したがって彼の論証は、われわれのとりあつかっている主題とはなにもとくべつ関係のあるものではなかったのである。彼の論証は、ただ、需要の増加は供給の増加をひきおこすのであって、市場価格の終局的な騰貴をひきおこすものではないという法則を説明するのに、彼が当惑していることをあらわすものでしかなかった。
|