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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html
http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html


§ 賃金、価格、利潤

☆  目次
 〔まえおき〕
 一 〔生産物と賃金〕
 二 〔生産物、賃金、利潤〕
 三 〔賃金と通貨〕
 四 〔需要と供給〕
 五 〔賃金と価格〕
 六 〔価値と労働〕
 七 労働力
 八 剰余価値の生産
 九 労働の価値
一〇 利潤は商品をその価値どおりに売ることによって得られる
一一 剰余価値が分解する種々の部分
一二 利潤、賃金、価格の一般的関係
一三 賃上げの企て、または賃下げ反対の企ての主要なばあい
一四 資本と労働との闘争とその結果

☆  〔まえおき〕

 諸君、
 本題にはいるまえに、二、三まえおきを述べさせていただきたい。
 ヨーロッパ大陸では、このところ、ストライキがほんものの伝染病のように猛威をふるい、賃上げを要求する叫びがいたるところにあがっている。この問題は、われわれの大会〔1〕で討議されることになろう。国際労働者協会の幹部〔2〕である諸君は、このもっとも重大な問題についてゆるぎない確信をもっていなくてはならない。 したがって私としては、あえて諸君にしびれをきらす思いをさせても、この問題を徹底的に論じるのが私の義務だと考えたのである。
 もう一つウェストン君についてまえおきを述べなければならない。彼は、労働者階級にしごく評判がわるいことを自分でも承知している意見を、労働者階級のためになると考えて、諸君に提出しただけでなく、公然と弁護してきたのである〔3〕。このように真の勇気を発揮したことには、われわれ一同おおいに敬意を表さなければならない。私はあけすけな言い方で報告をするが、その結論の点では、彼の主張の基礎をなしていると思われる正当な考えに私が賛成であることは、彼もわかってくれることと思う。しかし、彼の主張は、現在のかたちのままでは、理論的にまちがっており、実践上危険なものである、と私は考えないわけにはいかない。
 では、さっそく、われわれの本題にはいるとしよう。

☆  一〔生産物と賃金〕

 ウェストン君の議論は、じつは、二つの前提にもとづいていた。すなわち、第一に、国民生産物の額はある不変なもの、数学者たちがよくいう一つの定量ないし定数だということ、第二に、実質賃金の額、つまりその賃金で買うことができる諸商品の量で測った賃金の額は、ある不変の額、一つの定数だということである。
 ところで、彼の第一の主張が誤りだということは、一目瞭然(リョウゼン)だ。年々歳々、諸君がお気づきのとおり、生産物の価値と数量は増加し、国民労働の生産諸力は増大し、この増加する生産物を流通させるのに必要な貨幣の額はたえず変動している。その年のおわりに、またちがう年をたがいに比較した場合にあてはまることは、この年の平均の各一日にもあてはまる。国民生産物の額ないし数は、たえず変動する。それは、定数ではなくて変数であり、人口の変動を度外視しても、そうでなければならない。というのは、資本の蓄積と労働の生産諸力とがたえず変動するからである。よしんば賃金率全般の上昇がきょうおこったとしても、さきざきの結果はどうなるにせよ、この上昇が、それだけでただちに生産額を変化させるものでないということは、まったく正しい。この上昇は、まず最初、万事現状のままのなかからおこってくるであろう。だが、賃金が上がるまえに国民生産物が変数であって不変数でなかったなら、賃金が上がったあとでもひきつづき変数であって、不変数ではないわけであろう。
 しかし、かりに国民生産物の額が変数ではなくて定数であるとしてみよう。このばあいでも、わがウェストン君が論理的帰結であるとみているものが、やはり根拠のない主張であることに変わりはないであろう。たとえば、八という一定の数があるとする。この数には絶対的な限界があるが、だからといって、この数の諸部分の相対的な限界が変わらないわけではない。利潤が六で賃金が二であったとしても、賃金が六にふえ、利潤が二にへることもありうるのであって、それでもやはり総額は八のままである。このように、生産額が不変だということは、けっして賃金額が不変だということの証明にはならないであろう。では、わがウェストン君は、賃金額のこの不変性をどのようにして証明するのか? ただそれを主張することによってである。
 かりに一歩ゆずって彼の主張に同意するとしても、その主張は両側面にあてはまるはずなのに、彼はその一面だけを主張する。賃金額が一つの定数だとすれば、それは、ふやすこともできないし、へらすこともできない。だから、もし労働者が一時的な賃上げを強要することがばかな行動だとすれば、資本家が一時的な賃下げを強要することも、それにおとらずばかな行動だということになるであろう。わがウェストン君も、一定の情況のもとでは労働者が賃上げを強要できるということを否定しはしないが、しかし賃金額はほんらい不変数だから、かならず反動がやってくるというのである。その反面、資本家は賃下げを強要できるし、じじつ、たえず強要しようとしていることも、彼はご存じだ。賃金不変の原則にしたがえば、このばあいにも、まえのばあいと同じように反動がやってくるはずである。したがって、賃下げの企てや実行に反対する労働者の行動は、正しい行動であるはずだ。したがって、労働者が賃上げを強要するのも、正しい行動であるはずだ。というのは、賃下げにたいする反対行動は、すべて賃上げ要求の行動だからである。したがって、ウェストン君自身の賃金不変の原則にしたがえば、労働者は、一定の情況のもとでは、団結して賃上げ闘争をしなければならないことになる。
 もし彼がこの結論を否定するのであれば、この結論がでてくるもとになっている前提を捨て去らなければならない。彼は、賃金額は一つの定量だなどと言わないで、賃金額は上がることはできないし、上がってはいけないが、資本がこれを引き下げたいと思うときにはいつでも下げることができるし、また下がらないわけにはいかない、というべきである。もし資本家が、諸君に、肉のかわりにジャガイモを、また小麦のかわりに燕麦を食わせておこうと思うなら、諸君は資本家の意志を経済学の法則としてうけいれ、これにしたがわなければならない。もしある国の賃金率が他の国よりも高いばあいには、たとえば合衆国ではイギリスよりも高いばあいには、諸君はこの賃金率の差を、アメリカの資本家の意志とイギリスの資本家の意志との相違によって説明しなければならない。これはまったく、経済現象の研究だけでなく、そのほかのあらゆる現象の研究をも、すこぶる単純なものにしてしまうやり方だ。
 だが、そのばあいでも、われわれはこう質問してもいいだろう。なぜアメリカの資本家の意志は、イギリスの資本家の意志とちがうのか? と。そしてこの質問に答えるためには、諸君は意志の領域のそとに出なければならない。牧師は私にこう告げるかもしれない。神はフランスでは或ることを、イギリスでは他のことを欲したもう、と。もし私が彼にむかってこうした意志の二重性を説明してくれるように求めれば、あるいは彼はあつかましくも、神はフランスでは或る意志を、イギリスでは別の意志をもつことを欲したもうと答えるかもしれない。しかしわがウェストン君が、このように合理的な考え方をすべて完全に否定する議論をするような人でないことはたしかである。
 資本家の意志は、たしかに、できるだけ多く取ることである。われわれのなすべきことは、彼の意志を論じることではなくて、彼の力、この力の限界、この限界の性格を探究することである。


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