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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  人名注
アレクサンドロス大王(前356「323)  マケドニア国王。

エンゲルス,フリードリヒ(1920「95)

マルクス,カール(1818「83)

リカードー,デーヴィド(1772「1823)  イギリスの経済学者。古典経済学の最後の偉大な代表者

☆  事項注
〔1〕 『新ライン新聞』「「1848年6月1日から1849年5月19日までケルンで出ていた。同紙の編集主筆はマルクスであった。
〔2〕 マルクスは『資本論』にこう書いている。「私が古典経済学というのは、……ウィリアム・ペティ以来の、ブルジョア的生産関係の内的関連を研究する経済学全体のことである。」(『資本論』、第1巻、国民文庫版(1)、145ページ)
イギリスにおける古典経済学の最大の代表者はアダム・スミスとデーヴィド・リカードーであった。
〔3〕 「狭義の経済学は17世紀の終りごろに天才的な人々の頭脳に生まれたとはいうものの、重農学派とアダム・スミスがあたえたその積極的な定式化においては、本質上、18世紀の所産である……」(エンゲルス『反デューリング論』、選集、第14巻、285ページ)
〔4〕 「すべての社会成員が」「「原文ではこれは aller Gesellschaftsglieder となっていて、ungeheuren Produktivkraefte にすぐつづいているので、ここの文章全体は、「すべての社会成員の、すでに存在している巨大な生産力を計画的に利用しさらに発達させることによって、平等の労働義務を負いながら、生活のため、生活享楽のためいっさいの肉体的・精神的能力を発達させ発揮するための手段をも平等に、ますますゆたかに利用できる、そういう社会制度なのである」としか訳せない。しかし、これは不完全文章なので、引用した語はおそらく allen Gesellschaftsglieder の誤植であろう。そうだとすると、本文に訳したようになる。
〔5〕 イギリスの労働組合は、5月の第1日曜日に国際的プロレタリア的祝日をいわうことにしていたが、1891年には、5月3日が第1日曜日にあたっていた。
〔6〕 すなわち、パリにおける1848年2月23「24日の革命、ウィーンにおける3月13日の革命、ベルリンにおける3月18日の革命。
〔7〕 『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストでは「その所属する労働部門のことなるにしたがって」という句のうしろに「一定の労働時間にたいし、または」という句がはいっている。
〔8〕 当時ヨーロッパ大陸では、おもに銀本位制が採用されていた。
〔9〕 この箇所の「労働力」という用語は、エンゲルスが挿入したものではなく、『新ライン新聞』にマルクスが発表したテキストで、すでにそうなっている。

§ 解説

 マルクス主義経済学をまなぼうとするばあい、ほとんどかならずといっていいほど、まず最初に『賃労働と資本』や『賃金、価格、利潤』(本文庫既刊)を読むのが普通である。これは、日本でも諸外国でも、そうである。このように『賃労働と資本』は、マルクス主義理論をまなぶ者の必読の文献となっている。それはなぜだろうか。

☆  一

 われわれの生活はもとより、政治をはじめ社会全体の動きが、経済の問題とふかくつながっていることは、だれでも感じている。経済ほど切実でしかも根本的な問題はないであろう。ところがまたその経済の問題ほど、一般につかみにくく、わかりにくいものもないのではないか。資本主義の経済は、たんなる常識や外見だけの観察ではわからない秘密のカラクリを土台にしている。だから資本主義経済のほんとうの姿、意味、働きをつかむためには、どうしてもわれわれは科学の力によって、この秘密のカラクリを見やぶらなければならない。それによってはじめて、われわれは社会全体の動きの方向を見とおすことができるようになるし、またしたがって、そのなかでわれわれがどう生活し行動したらいいかもはっきりしてくる。この意味で、科学的な経済学についての大筋だけでもまなんでおくことは、現代に生きる人々、とくに働く人々にとって絶対に欠くことができないと言っていい。
 マルクス経済学は、まさにこの資本主義経済の秘密のカラクリをはじめて赤裸々にえぐりだし、働く者の行動に科学的な指針をあたえ、その未来をあかあかとてらしだした。資本主義経済のカラクリは、きわめて複雑で巨大な体系をなしている。しかしその巨大な網の目をときほごしてゆく手がかりは、資本家と労働者との関係をただしく理解することにある。実際に富の生産にたずさわっている労働者がまずしいのに、労働をしない資本家が利潤(これを正確に科学的なことばで「剰余価値」とよぶ)をあげて富んでいるのはなぜなのか。つまり労働者はどのようにして資本家に搾取されているのか、を理論的につかむことにある。この理論が、「剰余価値の法則」とよばれるものであって、マルクス経済学全体の土台石であり、核心である。マルクスは『資本論』のなかで、この法則をくわしく説明するとともに、それを鍵とし、それを発展させて、資本主義社会全体の経済的運動法則、資本主義社会の発生と発展と消滅の法則をあきらかにした。そしてこれによって、資本主義社会のなかに生きる労働者の地位と運命とすすむべき道をさししめして、社会主義の必然性を科学的に論証した。
 けれども、『資本論』は全三巻、数千ページにおよぶ大著であり、それを読みとおし、十分に理解することはけっしてやさしいことではない。どうしても手引きとなる入門書が必要である。ことに毎日の労働と生活に追われる労働者には、『資本論』全体をひもとくことはきわめてむずかしいであろう。この意味で、その簡潔な解説書が必要である。そして、こうした入門書、解説書としてもっとも正確で適切なものと言えば、言うまでもなくマルクス自身が書いたものであろう。『賃労働と資本』は、まさにそれなのである。
 『賃労働と資本』は、わずか数十ページのパンフレットであるが、そのなかには、前述のマルクス経済学の核心、『資本論』の中心理論、科学的社会主義の理論的土台である「剰余価値の法則」が、生きいきと簡潔に述べられている。
 この本のはじめでマルクスは言っている、「われわれは、労働者にわかってもらいたいのである」と。そして「経済学のごく初歩的な概念さえもたない」読者のために、「できるだけ簡単に、わかりやすく述べる」と言っている。たしかに、どんなに読書になれない人でも、この本によってマルクス経済学の中心理論を理解できるはずである。またすでに多少ともマルクス理論を知っている読者のばあいにも、この本によって自分の知識を生きいきとしたものにし、いっそう確実なものにたかめることができるであろう。

☆  二

 マルクスは一八四七年の末に、ベルギーのブリュッセルのドイツ人労働者協会で労働者のために経済学の講演をやった。その講演をもとにして、一八四九年四月に『新ライン新聞』に『賃労働と資本』という表題で論文を連載した。その後これは単行本で発行されたが、マルクスの死後、一八九一年に、エンゲルスが、いままでの版に必要な修正をくわえて、新版を発行した。これが現在の『賃労働と資本』であり、この訳本の原本である。
 マルクスがこの講演をやった一八四七年、この論文を書いた一八四九年という年を考えていただきたい。一八四九年には、マルクスはまだ三一歳の若さであった。しかしこのころには、マルクスはエンゲルスとの協力をとおしてすでに科学的社会主義すなわち共産主義の理論を確立していた。前年の一八四八年には、二人の共著で『共産党宣言』が出ている。同時にこの一八四八年は、ヨーロッパ大陸全体が民主主義革命のあらしでゆらいだ年であった。パリでも、ウィーンでも、ベルリンでも、民衆は武器をとってたちあがった。そしてマルクス自身も、この革命のあらしの渦中に積極的に参加したのである。
 しかし、一八四八「四九年の革命は、どこでもブルジョアジーの裏切りのために敗北した。これ以後、労働者階級は、ブルジョアジーとともにではなく、ブルジョアジーに抗して、民主主義革命の旗をおしすすめなければならなくなる。ブルジョアジーとの階級闘争をとおして、民主主義革命を達成し、つづいて社会主義革命をおこなわなければならない。だが、労働者階級が本当にその能力をもち、正しい戦略と戦術のもとに闘争をつづけるためには、彼らはまず、階級闘争の歴史的意義と資本主義社会の動きを正確におしえる科学的社会主義の理論を身につけること、そして自分自身の階級的地位と歴史的使命とを、はっきり理解することが必要である。『共産党宣言』はまさにこの大綱をしめしたものであり、『賃労働と資本』は、それをとくに経済学的な分析によって裏づけるものであった。マルクスが『賃労働と資本』を書いたのは、第一節のはじめで彼が言っているとおり、こういう実践のための理論をあきらかにすることを目的としたのである。

☆  三

 前述のように、エンゲルスはこの本の新版を出すさいに、マルクスの論文に多少の修正をくわえた。「これは、マルクスが一八四九年に書いたままのパンフレットではなくて、ほぼ彼が一八九一年にはこう書いたろうと思われるパンフレットである」と、彼は言っている。エンゲルスが修正をくわえたのは、「労働」と「労働力」ということばの区別を、はっきりさせるためであった。
 労働力とは、富を生産し、価値を創造する、人間の肉体上精神上の能力、すなわち労働する力、の全体である。「労働」とは、この労働力を実際に使用し、発揮して、富を生産し、価値を創造することである。「労働力」は人間にやどっている働く力であり、「労働」はその力を実際につかうことである。この二つを区別することは、きわめて重要である。ある意味では、これが剰余価値理論の中心であり、資本主義的搾取の秘密を解く鍵であると言っていい。いわゆるブルジョア経済学は、すべてこの点でまちがっていると言うこともできる。
 エンゲルスの修正以前の『賃労働と資本』でも、事実上はこの区別がはっきりしており、それにもとづいて賃金や剰余価値の説明がおこなわれている。しかしこの点がほんとうに理論的にはっきりするのは、『資本論』第一巻(一八六七年発行)である。『賃労働と資本』を書いた当時のマルクスは、まだマルクス主義経済学を完成していなかった。したがってエンゲルスは、後年のマルクスの正確な概念規定にもとづいて、『賃労働と資本』の用語や表現をいっそう科学的な形になおしたのである。
 以上のことについては、この本のはじめのエンゲルスの序文で、くわしく、しかも平易に説明されている。本文でも一節から三節にかけて説かれているが、読者がまずこの序文をよく読んでおかれることを希望する。そして、「労働力」と「労働」の区別が、たんなることばの問題でなく、深刻な階級的意味をもっていることを、しっかりつかんでいただきたい。さらにすすんだ読者は、『賃金、価格、利潤』の第七「一〇節、『ソ同盟・経済学教科書』第七章「資本と剰余価値。資本主義の基本的経済法則」、『資本論』第一巻第二篇第四章第三節「労働力の購買と販売」、同第三篇第五章「労働過程と価値増殖過程」などを研究されるといいと思う。

☆  四

 つぎに本文の主な内容にふれておこう。
 第一節では、賃金とはなにか、が論じられ、それが資本家が買いとる労働力という商品の価格であることがあきらかにされる。そのほか、三二「三ページにかけて、奴隷と農奴と賃労働者とのちがいをしめし、賃労働の歴史性を説いた有名な一節がある。また、三〇「二ページには、賃労働者が人間らしい生活をうばわれているありさまが説明されている。マルクス経済学の根底にながれている激しいヒューマニズムの精神に注目すべきであろう。
 第二節では、まず商品生産の経済法則である価値法則と、この価値法則が競争と生産の無政府性をとおして実現される様子が簡潔に説明される。『資本論』で言えば、第一巻第一篇第一章第一、二節で説かれている労働価値論の部分にあたる。これによって一般に商品の価値と価格がなにによってきまるかがあきらかにされ、ついでこの節の終りの部分で、労働力という商品の価格すなわち賃金が、同じ価値法則にもとづいて、労働力の生産費すなわち労働者の生存費と繁殖費によってきまることが説かれる。
 第三節では、資本が分析される。資本とはなにか。資本はたんなるカネでもないし物でもない。われわれの家計のカネや家財道具は資本とは言えない。資本とは、時にはカネ、時には物(機械とか原料とか)と、さまざまに形をかえながらも、全体として、賃労働者を搾取することによって自己増殖する価値のことだ。したがってそれは、資本家と労働者のあいだの社会的生産関係、階級関係をあらわしている。ここで、第二節で述べられた労働力と労働、価値という概念にもとづいて、資本がいかにして剰余価値を獲得するかが説明される。この意味で、ここはこの本の中心である。マルクスはまだ剰余価値ということばをもちいていないが、ここの内容はまさに剰余価値の源泉を平易に説いたものである。本節ではさらに、四四「六ページに、生産力と生産関係についての古典的な説明があり、また最後の五一「二ページでは、資本家と労働者との利害の同一という、御用学者の俗論が批判されている。「資本家あっての労働者」、「会社あっての組合」というこうした俗論は、いまでもわれわれのまわりに流布されていることに注意したい。
 第四節では、すすんで資本家と労働者との利害がまっこうから対立することを論証している。これは前節の剰余価値法則から出てくるもっとも重要な結論である。ここでマルクスは、名目賃金と実質賃金の区別をあきらかにし、さらに資本主義が発展するにつれて労働者階級の資本家階級にたいする相対敵地位がしだいに悪化することをしめしている。これは、いわゆる労働者階級の相対的貧困化の法則である。五三ページにある小さい家と邸宅の例も、よく引用される部分である。
 第五節では、資本主義の発展、すなわち資本の蓄積が賃金水準におよぼす作用を分析している。すでに前節で、資本蓄積の増大は労働者にとっては相対賃金の低下(相対的貧困化)と資本の支配の増大であることがあきらかにされた。ここではさらにその説明が発展させられる。すなわち、資本蓄積が増大すれば、分業と機械の使用がひろがり、それがまた労働者のあいだの競争をはげしくして、彼らの賃金をますます切りさげ、また他方、大量の労働者から職をうばって産業予備軍(失業者群)をつくりだす反面、婦人や子どもを家庭から工場にひきずりだす。さらに血で血をあらう資本間の競争は、たえず弱小の企業家たちを没落させて、労働者軍を拡大し、こうして社会全体を少数の大資本家と多数のプロレタリアートに二分してゆく。以上が、マルクスのしめす賃金運動の法則、労働者階級の絶対的貧困化の法則、資本主義下の労働者階級の運命である。ますます頻繁に、ますますはげしくなる恐慌はこの過程をはやめ、破局を近づける。『資本論』第一巻第三篇第八章、第四篇、さらにとくに第七篇第二三章の「資本主義的蓄積の一般法則」は、以上の点をくわしく述べたものといってよい。

☆  五

 『賃労働と資本』は、ここでおわっている。この本のはじめのところでは、マルクスは三つの項目をあげてこの本のプランとしているが、実際に書かれたのは、そのうち第一の項目だけで、第二、第三は書かれずにおわった。この事情はエンゲルスの序文の冒頭にくわしい。マルクスが第二、第三でなにを書くつもりであったかは、いろいろな推測はできるけれども、はっきりしない。ただ、このように『賃労働と資本』ははじめのプランからすれば未完におわってはいるが、しかし現在のままの形でも、経済学のもっとも基本的な原理は十分に説明されており、これだけで独立のパンフレットとしてまとまっていると言ってよい。
 『賃労働と資本』を読んだ人は、それをさらに発展させる意味で、できるだけすすんでつぎの諸文献を併読していただきたい。(一)マルクス=エンゲルス『共産党宣言』、(二)マルクス『賃金、価格、利潤』、(三)エンゲルス『空想から科学へ』、(四)エンゲルス『資本論綱要』。さらにすすんだ読者は、(五)マルクス『経済学批判』(以上はすべて本文庫にはいっている)、(六)ソ同盟科学院経済研究所『経済学教科書』(新日本出版社)第二篇を読まれるとよく、もっとすすんでは、(七)マルクス『資本論』(国民文庫)ととりくんでほしいと思う。

   一九五六年四月
     国民文庫編集委員会


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