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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  五

 生産的資本が増大することと賃金があがることとは、実際に、ブルジョア経済学者の主張するように、切りはなせないようにむすびついているのであろうか? われわれは彼らのことばをそのまま信じてはならない。彼らが、資本が肥えふとればふとるほど資本の奴隷の餌(エサ)もよくなる、などというのをさえ、われわれは、信じてはならない。封建諸侯はその従者の華美をほこったものであるが、ブルジョアジーは彼らとこうした偏見をともにするには、開化しすぎており、勘定高すぎる。ブルジョアジーは、その生存条件からして勘定高くしないわけにはいかないのである。
 そこでわれわれは、もっとくわしく研究しなければならないだろう。
 生産的資本が増大すると、賃金にどういう影響があるか?
 ブルジョア社会の生産的資本が全体として増大すれば、労働のいっそう多面的な蓄積がおこる。もろもろの資本の数と規模が増大する。資本の数がふえれば、資本家のあいだの競争がふえる。もろもろの資本の規模が大きくなれば、いっそう巨大な武器をもった、いっそう膨大な労働者軍を産業戦場にひいていく手段が得られる。
 ある資本家が他の資本家を戦場から駆逐し、この資本を奪取することができるのは、より安く売ることによってだけである。より安く売って、しかも破滅せずにいられるためには、彼はより安く生産しなければならない。すなわち、労働の生産力をできるだけたかめなければならない。ところが、労働の生産力がたかめられるのは、なによりも、分業を増進させることによってであり、機械をいっそう全面的に採用し不断に改良することによってである。分業をおこなっている労働者軍が大きくなればなるほど、機械の採用が大規模になればなるほど、生産費は比較的に言ってそれだけへり、労働はそれだけ多産的になる。そこで資本家のあいだに、分業と機械を増大させ、それらをできるだけ大規模に利用しようとする全面的な競争がおこる。
 いまある資本家が、分業を増進させることにより、新しい機械を使用し改良することにより、自然力をいっそう有利に大量的に利用することによって、同じ量の労働または蓄積された労働をもって彼の競争者たちよりも多量の生産物、商品をつくりだす手段をみいだしたとすれば、彼が、たとえば、彼の競争者たちが半ヤールの亜麻布を織るのと同じ労働時間のうちに一ヤールの亜麻布を生産できるようになったとすれば、この資本家はどう行動するであろうか?
 彼は、ひきつづき半ヤールの亜麻布をいままでどおりの市場価格で売ってもさしつかえないが、しかし、それでは、彼の敵を戦場から駆逐して、自分自身の販路を拡大する手段にはならないであろう。ところが、彼の生産が拡大したのと同じ割合で彼にとって販路の必要も拡大したのである。彼がこの世にもたらした、より強力で高価な生産手段は、なるほど彼が自分の商品をより安く売ることができるようにはするが、同時に、より多くの商品を売り、自分の商品のためにはるかに大きな市場を奪取しなければならないようにする。だから、わが資本家は、半ヤールの亜麻布を彼の競争者たちより安く売るであろう。
 しかし、この資本家は一ヤールを生産するのに、彼の競争者たちが半ヤールを生産する以上の費用はかけていないのだが、彼はその一ヤールを、彼の競争者たちが半ヤールを売る値段ほど安くは売らないであろう。そうしたのでは、余分のもうけは一文もなく、交換しても生産費を回収するだけとなろう。したがって、たとえ他のものより多くの収入を得たにしても、それは彼がより大きな資本をうごかしたからであって、より有効に彼の資本をもちいたためではないということになろう。それに、彼の商品の価格を彼の競争者たちより数パーセント安くきめれば、彼のめざす目的は達せられるのである。競争者よりも安く売れば、競争者たちを戦場から駆逐し、彼らからすくなくともその販路の一部をもぎとることになる。そして、最後に、商品の時価は、その販売が産業の好況期におこなわれるか不況期におこなわれるかに応じて、たえず生産費の上なり下なりにあるということを、思いおこそう。一ヤールの亜麻布の市場価格がそのいままでふつうであった生産費の下にあるか上にあるかに応じて、もっと多産的な新しい生産手段をもちいた資本家が彼の現実の生産費をこえて売る率もかわるであろう。
 しかし、わが資本家の特権はながつづきしない。競争相手の他の資本家たちも、同じ機械、同じ分業を採用し、それらのものを同じまたはもっと大きな規模で、採用するようになる。そして、それはやがてあまねく採用され、その結果、亜麻布の価格はそのもとの生産費以下どころか、その新しい生産費以下にひきさげられるであろう。
 だから、資本家たちはおたがいに、新しい生産手段が採用される以前にあったのと同じ状態におかれるのであって、もし彼らがこの生産手段をつかってまえと同じ価格で二倍の生産物を供給できるとすれば、いまではこの二倍の生産物をもとの価格以下で供給しなければならないのである。この新しい生産費を基礎として、ふたたび同じ競技がはじまる。分業がすすみ、機械がふえ、分業と機械の利用される規模が大きくなる。そして競争はこの結果にたいしてふたたび同じ反作用をもたらす。
 これでわかるように、生産方式、生産手段はこうしてたえず変革され革命化されていき、分業は一段とすすんだ分業を、機械の使用は一段とすすんだ機械の使用を、大規模な作業は一段と大規模な作業を、必然的によびおこすのである。
 これが、ブルジョア的生産をたえずくりかえしてその古い軌道からなげだし、資本が労働の生産力を緊張させたという理由でさらに資本を強制して労働の生産力を緊張させる法則であり、資本にすこしの休息もさせずに、たえず、すすめ! すすめ! と耳うちする法則である。
 この法則こそは、景気周期の変動の内部で商品の価格を必然的に平均化させてその生産費に一致させるあの法則にほかならない。
 ある資本家がどんなに有力な生産手段を戦場にひきだしても、競争はこの生産手段を一般化するであろうし、競争がこの生産手段を一般化したそのときから、彼の資本がいっそう多産的になったこのただ一つの結果は、いまでは同じ価格で以前の一〇倍、二〇倍、一〇〇倍を供給しなければならない、ということでしかない。ところが、彼は、販売価格の下落をもっと多量の生産物の販売でおぎなうために、おそらく千倍も売らなければならないので、また、いまでは、もっともうけるためばかりでなく、生産費を回収するためにさえ「「生産用具そのものがますます高価になっていくことはわれわれがすでにみたところである「「もっと大量に売らなければならないという理由で、またこのように大量に売ることは、この資本家にとってだけでなく、彼の競争相手たちにとっても死活問題になっているという理由で、従来の闘争が、すでに発明された生産手段が多産的であればあるほどそれだけ激しいものとなって、はじまるのである。だから、分業と機械の使用とは、くらべものにならないほど大きな規模で、あたらしくすすむであろう。
 使用される生産手段の力がどうであろうと、競争は、商品の価格を生産費にひきもどすことによって、したがって、いっそう安く生産できるように、すなわち同じ量の労働でいっそう多量に生産できるようになるのと同じ割合で、ますます安く生産すること、同じ価額でますます多量の生産物を供給することを一つの命令的な法則にすることによって、資本からこの力のうむ黄金の果実をうばおうとする。こうして資本家は、彼自身の骨折からは、同じ労働時間内にいっそう多くのものを供給する義務のほかには、一言で言えば、彼の資本の増殖の条件をいっそう困難にするほかには、なにも得るところがないことになろう。だから、競争がその生産費の法則をもってたえず資本家を追いまわし、およそ彼がその競争者にたいしてきたえる武器はみな彼自身にむけられた武器としてはねかえってくる一方、資本家は、古い機械と分業のかわりに新しい、より高価ではあるがより安く生産する機械と分業をやすみなく採用し、競争が新しいものを旧式にしてしまうまでまたないというやりかたで、たえず競争をだしぬこうとする。
 いま、この熱病的な運動が世界市場全体で同時におこっていることを考えるなら、資本が増大し、蓄積され、集積するのにともなって、分業や、新しい機械の使用や、古い機械の改善がたえまなく、たてつづけに、ますます大規模におこなわれる結果となることは、あきらかである。
 だが、生産的資本の増大ときりはなすことのできないこれらの事情は、賃金の決定にどういう影響をおよぼすか?
 分業がすすめば、一人の労働者が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることができるようになる。だから、それは労働者のあいだの競争を五倍、一〇倍、二〇倍も増大させる。労働者は、たがいに自分を他のものよりも安く売りあうことで競争するばかりではない。彼らは、一人が五人、一〇人、二〇人分の仕事をすることによっても競争する。そして、資本によって採用され、たえず増進していく分業は、労働者を強制してこの種の競争をさせるのである。
 さらに、分業がすすむのに比例して、労働が単純化される。労働者の特別の熟練は無価値なものになる。彼は、肉体力も精神力もはたらかせる必要のない、単純な、単調な生産力にかえられる。彼の労働はだれにでもできる労働になる。そこで、競争者が四方八方から彼におそいかかってくる。そのうえ、労働が単純になり、まなびとりやすいものになればなるほど、それを身につけるのに必要な生産費がすくなくなればなるほど、賃金はますます下落することを、注意しておこう。というのは、他のあらゆる商品の価格と同じように、賃金も生産費によってきめられるからである。
 だから、労働が不満足な、不快なものになるのに比例して競争が増大し、賃金が減少する。労働者は、もっと長い時間はたらくか、同じ時間内にもっと多くのものを供給するか、どちらにしてももっと多く労働することによって、自分の賃金額を維持しようとする。こうして彼は、困窮にせまられて、分業の有害な影響をさらにはなはだしくする。その結果は、彼がはたらけばはたらくほど、彼のうけとる賃金はそれだけすくなくなる。それというのも、はたらけばはたらくほど、彼は仲間の労働者たちと競争するようになり、したがって仲間の労働者たちをことごとく競争者にかえてしまい、彼らもまた彼自身と同じ悪い条件ではたらこうと申しでるようになるという、したがって、結局彼は自分自身と、つまり労働者階級の一員としての自分自身と、競争するようになる、という簡単な理由からである。
 機械は、これと同じ影響をはるかに大きな規模でもたらす。というのは、機械は、熟練労働者を不熟練労働者で、男を女で、大人を子供でおきかえるからであり、また、それがあたらしく採用されるところでは、手作業労働者を大量に街頭になげだし、それが完成され改良され、もっと多産的な機械によっておきかえられるところでは、労働者を、小きざみにおはらいばこにするからである。さきほどわれわれは、資本家相互のあいだの産業戦争のあらましを走り書きした。この戦争の独特な点は、その戦闘の勝利が労働者軍を徴募するよりむしろ除隊させることによって得られるという点である。将軍である資本家は、だれがもっとも多く産業兵を除隊させることができるかについて、たがいに競争するのである。
 なるほど、経済学者は、機械のために余分になった労働者は新しい部門で仕事をみつける、とわれわれにかたってきかせる。
 彼らは、さすがに、解雇されたその同じ労働者が新しい労働部門に就職する、とはっきり主張しようとはしない。事実はこのようなうそに、あまりにも明白に反しているからである。ほんとうは、彼らは、労働者階級の他の構成部分のために、たとえば、労働者の若い世代で、すでにこの没落した産業部門にはいろうとして待機していた部分のために、新しい雇用の道がひらかれるであろう、と主張しているだけなのである。これは、もちろん、落伍した労働者にとってたいした慰めというものだ。資本家諸公は、新鮮な、搾取できる血肉に、こと欠かないであろう。死者をして死者をほうむらしめよ、と。これは、ブルジョアが労働者にあたえる慰めであるよりも、むしろ自分自身にあたえる慰めである。もし賃金労働者階級全体が機械によって絶滅されるのだったら、賃労働がなければ資本でなくなってしまう資本にとって、なんとおそろしいことであったろう!
 だが、機械のために直接に仕事から追われたものも、また新しい世代で、すでにこの仕事の口をまっていた部分の全体も、新しい仕事をみつけるものと仮定しよう。この新しい仕事にたいして、なくした仕事と同じ額が支払われると、だれか思うものがあろうか? そういうことは、経済学のあらゆる法則と矛盾することであろう。われわれがすでにみたとおり、近代産業は、たえず、より複雑な、より高級な仕事をより単純な、より低級な仕事とおきかえるのである。
 そうだとすると、機械のためにある産業部門からほうりだされた一団の労働者は、もっと賃金の低い、悪いところでないかぎり、どうして他の産業部門に避難所をみつけられようか?
 例外として、機械そのものの製造に従事する労働者がひきあいにだされてきた。産業でより多くの機械が要求され消費されるようになれば、かならず機械がふえるはずであり、したがって機械製造が、したがって機械製造業における労働者の雇用が増大するはずである。そして、この産業部門で使用される労働者は、熟練労働者、それどころか、教養ある労働者でさえある、というのである。
 この主張は、すでに以前でも半面の真理にしかすぎなかったのであるが、一八四〇年以来は、真理らしい外観さえまったくうしなってしまった。というのは、機械の製造でも、綿糸の製造におとらずますます多くの方面で機械がもちいられるようになり、機械製造につかわれている労働者も、きわめて精巧な機械にくらべてはすでにきわめて精巧でない機械の役目しかはたせなくなったからである。
 それでも、機械のためにおはらいばこになった一人の男のかわりに、工場はたぶん三人の子供と一人の女をつかっているだろう、という! だが、この男一人の賃金は、この三人の子供と一人の女をやしなうのに十分なはずではなかったか? 賃金の最低限は、〔労働者の〕種属を維持し繁殖させるのに十分なはずではなかったか? そうだとすれば、ブルジョアのこのんでもちいるこのきまり文句はなにを証明するのか? ほかでもない、いまでは、一労働者家族の生計の資を得るために以前の四倍の労働者の生命が消費されているということである。
 要約しよう。生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用がますます拡大する。分業と機械の使用が拡大すればするほど、労働者のあいだの競争がそれだけ拡大し、彼らの賃金はますます縮小する。
 そのうえ、労働者階級はなお、彼らより上の社会層からも補充されていく。多数の小産業家や小金利生活者が労働者階級のなかへ転落してくるが、これらのものは、労働者の腕とならべて自分の腕をさしあげる以外には、どうしようもないのである。こうして、仕事をもとめて高くさしあげられた腕の森はますますしげっていき、腕そのものはますますやせていく。
 たえずますます大規模に生産することを、すなわち、まさに大産業家であって小産業家でないことを第一条件の一つとする闘争に、小産業家がもちこたえられないことは、自明のことである。
 資本の量と数が増大するのに比例して、資本が増大するのに比例して、資本の利子が低落していくこと、したがって小金利生活者はもはやその利子では生活できなくなり、そこで産業に身を投ずるほかなく、したがって小産業家の仲間の、こうしてまたプロレタリアートの候補者の、増加をたすけること、これらのことはみな、おそらく、これ以上くわしく説明するまでもないであろう。
 最後に、資本家がまえに述べたような運動に強制されて、すでに存在する巨大な生産手段をさらに大規模に利用し、この目的のために信用のあらゆる発条(バネ)をうごかすにつれて、それに比例して産業地震、商業界が富、生産物の一部を、また生産力の一部をさえ、地獄の神々にいけにえとしてささげることによってようやくその身をたもつあの産業地震も、増加する。一言で言えば、恐慌が増加する。恐慌は、つぎの理由だけからでもますますひんぱんに、激烈になっていく。それは、生産物の量が増大し、したがって市場を拡大しようとする要求が増大すればするほど、世界市場はますます収縮し、また開発すべき新市場はますますのこりすくなくなるという理由である。というのは、いつでも前回の恐慌によって、これまで征服されずにいたか、あるいは商業が表面的に搾取してきただけの一市場が世界商業に従属させられたからである。しかし、資本は労働によって生きているだけではない。権勢あると同時に野蛮な支配者である資本は、彼の奴隷の死体を、恐慌で没落する労働者のいけにえ全体を、自分といっしょに墓穴にひきずりこむのである。これを要するに、資本が急速に増大すれば、労働者のあいだの競争は、それとはくらべものにならないほど急速に増大する。すなわち、雇用手段である労働者階級のための生活資料は、相対的にますます減少する。だが、それにもかかわらず、資本の急速な増大は、賃労働にとってもっとも有利な条件である。

     一八四七年一二月一四「三〇日におこなった講演
     はじめ『新ライン新聞』一八四九年四月五「八日および一一日号に発表
     一八九一年にベルリンで単行小冊子としてエンゲルスの序文および編集で発行
     右の小冊子のテキストによる


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