第五章 同盟の再建
――急進的青年運動の中での苦闘――
1 再建への着手
――「三者協議会」の発足
同盟の全国指導機能は、一九六六年五月の第四回中央執行委員会をもって崩壊した。BL派を除く多数派は、残念ながら中央指導機関を維持し、機関紙の発行を担うことかできなかった。「世界革命」は、BL派によって潜称されるという事態にたいして、なんらの積極的な対応もおこなうことができなかった。こうして、六六年の秋から六七年の春にかけて、わが同盟は、各地方グループと各傾向に分散化してしまった。
われわれの崩壊とは対照的に、全世界の人民による革命運動と日本の急進的な運動は、一九六七年に入って急速に発展の兆しをみせていた。ベトナム人民の武装解放闘争の進展は近代技術を総結集させたアメリカ帝国主義の軍事的堅陣をかいくぐり、その一角を食い破り、ますますアメリカが反革命戦争の深みに入っていくことを強制していった。そして、なかでもこの年のケサン渓谷の戦闘は激烈なものであった。この戦闘において、ベトナム人民は、単にゲリラ闘争によって敵にたいする打撃と自らの前進を切り開いていっただけでなく、正面からの正規軍戦によってもアメリカ帝国主義と闘争し打ち勝つことができるところまで成長していることを示していた。ベトナム人民の闘争は、アメリカ帝国主義との対峙・力関係の均衡状態から一歩飛びこし、勝利を獲得できる兆しをはっきりと示しつつあったのである。
このように真向うから史上最強のアメリカ帝国主義に抵抗し、そして打ち破るべく闘いぬいていたベトナム人民の闘いは、全世界の新たな闘う人民・青年たちに無限の感動を呼びおこすこととなった。第二次世界大戦と朝鮮戦争の過程でつくられた神話、それは、アメリカ帝国主義が史上最高の、そして不敗の帝国主義ということであった。事実、アメリカ帝国主義にたいして戦争を挑み、そしてその敗北を強制させるなどということは、一九四〇年代の戦争を経験し、そして、五〇年代と六〇年代前半のいく多の敗北と後退をなめさせられてきた帝国主義・植民地陣営の労農人民にとって、想像さえすることができない超常識のことであった。だから、ベトナム人民が幾多の犠牲をものりこえて果敢にこの常識に挑戦し、しかも十分に渡りあって闘っている姿をみて、全世界の労農人民は、なおのこと感動を深くしてへトナム革命にひきつけられていったのであった。
このような全世界の人民・青年たちの感動を、きわめて文直に、感情あふるるばかりに表現し、そして訴えたのが、あのボリビアの軍事政権の銃弾の前に倒されていったゲバラであった。「二つ、三つ、そしてもっと多くのベトナムを!」。この呼びかけは、本当に心から抑圧と搾取からの解放を願おうとする者はだれでも、ただちに、ベトナム人民の闘いの支援にかけつけ、ともにアメリカ帝国主義と自国帝国主義の打倒にたちあがらなければならないとする、アピールであった。
こうして、全世界の人民、青年たちは、このベトナム人民の英雄的な闘いとゲバラの呼びかけをとおして、時代の歴史的な転換、新たな時代の到来の息吹きを確実に感じとって次々に急進的な闘争の世界に入っていったのである。
日本におけるこの時代の転換と新たな闘争の発展は、なによりもまず、六七年二月と七月における砂川闘争の発展としてはじめられた。とりわけ、七月の闘争には、全国の急進的学生活動家が六千人結集したのみならず、日韓闘争以後事実上冬眠状態であった各県、各地区反戦の活性化がはじまっていることを示していた。そして、このときの闘いにおいて掲げられた「この米侵略機をベトナムに送るな!」というスローガンこそが、日本の発展しはじめた反戦闘争とベトナム人民の闘争との結合を物語るものであった。こうして、農民、学生、青年労働者が固く団結して闘いぬいた砂川闘争の発展は、日本の反戦闘争と急進的大衆運動のその後の全面的な高揚の幕明けになった。
崩壊したわが同盟が、一年も経過しないうちに再結集への動きをはじめることができた理由は、なによりもこのようなベトナム人民の英雄的な闘いの前進と日本における急進的な大衆運動の発展の兆しであった。六七年の八月、ともかくも各地方と各傾向の代表者とを集めて、全国代表者会議を開催することができたのは、このような情勢の圧力によるものであった。だが、この会議は、ベトナムを軸とする新しいアジア情勢について、日本における反戦闘争の高揚の新たな兆しとその可能性について、さらに社青同・社会党加入活動の全国的点検とその展望・路線について何らの具体的討論も展開できなかった。同盟を再建していく根本課題であると共に具体的な活動の軸とならねばならないこれらの問題でなんらの討論もできなかったという点に、当時のわが同盟の政治的崩壊の深さを知ることができる。会議は、ともかくも同盟の再建に着手しなければならないこと、そのためにまず関東の再建が図られなければならないとして、「三者協議会」(社通派、ML研、関東社研の代表で構成)の発足を確認した。
したがって、その後の政治情勢と大衆運動の展開にとって決定的ともいえる新たな地平を切り開いた六七年十・八佐藤訪べト阻止羽田闘争にたいして、わが同盟は、地方グループと各傾向がそれぞれの位置づけや目的にもとづいて参加せざるをえなかったのである。
学生グループは、すでに八月半ばより十・八闘争への取り組みを独自に精力的にはじめ、一つの全国潮流として羽田闘争を闘いぬいていった。学生において、同盟の再建より一歩早く全国性を形成しえたのは「三派」、「急進派」による全国学生運動が、六五年の「都学連再建」から六六年「全学連再建」というようにすでに統一的に展開されていたからにほかならなかった。こうして、全国の学生同盟員グループを先頭にして、東北の各県、関東の同盟員は、自らの指導する大衆運動団体を率いて、十・八、十一・一二羽田闘争を闘いぬいたのであった。
「三者協議会」が実際に機能をはじめたのは、この巨大な十・八闘争以後であった。全国代表者会議がベトナム人民の闘いと砂川闘争で獲得されたように、この会議の成果である「三者協議会」の発足は、実に十・八羽田闘争で獲得されたものであった。
こうして、ベトナム、砂川、羽田闘争という三つの闘いこそが、わが同盟を本気で再建させようとする気運、テコをつくりだしたのであり、ひいては同盟の再建、統一をかちとる過程において加入活動から独立活動へと転換させる契機となったのであった。
「三者協議会」は、その何回かにわたる会議の積み重ねによって、同盟の全国的再建のためには、まずなによりも関東地方委員会の再建から手がけていくことを確認した。
関東同盟員総会は六七年十二月、何年かぶりで開催された。そして、当面の全国と関東における政治的な意志統一を図るために「第四インターナショナル」の復刊発行を決定し、かつ三グループの活動の強化を確認した。その三グループとは、関東――全国学対活動の強化、社会党・社青同内における急進的大衆活動の発展が呼びおこしつつある新たな政治的分化を発展させていく活動の強化、ならびに三多摩、都内における独自的な青年労働者活動家集団の形成であった。
こうして、復刊された「第四インターナショナル」は七号までの発行をかちとることができ、全国と関東の政治的な再結集のために一定の、少なくない寄与をはたしたのである。
2 「世界革命」の復刊と中央機関の再建
六八年二月、佐世保エンタープライズ闘争の高揚の後を受けて、「全国代表者会議」が開催された。
ここで確認されたのは、次の三点である。
第一に、砂川、羽田、佐世保エンタープライズの三つの闘いによって、いよいよ日本における急進的な大衆運動の発展は不可逆的で、かつ激化していくであろうこと。第二に、その発展は、ベトナムを軸とする世界的な革命と反革命の力関係の転換に依拠した世界的な青年の急進化の一翼としてあること、第三にその発展の性格は、社会党・民同、共産党を直接に通過して、独立的な大衆運動として成立していること、この点から加入活動再検討と独立活動への転換が真剣に検討されねばならないこと。
こうして、われわれは、この全国代表者会議において、ようやく現実の政治情勢と大衆運動を媒介として、各地方、各傾向の分散からその政治的統一に向かうこととなったのである。そして、この会議での基本的な確認こそが、その後のわれわれの活動と同盟再建に向かっての加速度的な闘いのための土台となったのであった。そして、このような三点の確認は、三月の三里塚闘争の高揚、そこでの全国反戦青年委員会の大衆的な急進化を見てとった社会党・民同官僚が、それまでの妥協的なポーズを捨て去って全国反戦の抑圧に回った、いわゆる「三月逆流」によってなお一層確証づけられるものであった。
この時点での急進的大衆運動への参加・介入は、依然として学生グループ、ならびに東北各県反戦の闘いに分断されていたままであった。
学生は、王子・三里塚・拝島米タンク車闘争を闘いぬき、「急進的学生運動」の一翼に国際主義の旗をひるがえす活動をつづけていった。また、宮城反戦は三里塚闘争における機動隊の包囲にひるまず闘いぬいたその大衆的な戦闘性のゆえに、全国の青年労働者の注視を浴びることとなった。
そして、わが同盟の政治的統一を促進させ、再建への歩みを決定づけたものは、ベトナムのテト攻勢、フランスの五月、そしてチェコスロバキアの反官僚闘争の勃発であった。
ベトナムのテト攻勢は、きわめて明白に、ベトナム人民がいついかなるときでもアメリカの軍事的堅陣を打ち破って、都市に突入する能力をもっていることを高らかに宣言するものであった。
これまでは、帝国主義の軍事的エスカレーションを通してしか知ることができなかったベトナム・インドシナ人民の英雄的な闘いの前進が、今後は直接に報道され、その一挙手一投足は全世界の人民の共通の関心事になっていった。三月、ジョンソンは、北爆の停止とパリ会談の開催に同意することを余儀なくされた。こうして、一〜三月にかけてのテト攻勢と北爆の停止は、アメリカ帝国主義のいかなる軍事的エスカレーションを通してもベトナム人民の闘いを抑止することができないとの告白にほかならなかった。五九―六〇年にかけてはじめられたベトナム人民の闘争とアメリカ帝国主義との息をつかせぬ八〜九年間の闘争は、前者の勝利への道、そして後者の敗北への道を分かつ歴史の重大な峠にほかならなかった。こうして、また、ベトナム人民の英雄的な闘いに感動し、ひきつけられていった真実の反帝国主義的な感情をもった人民と青年たちは、今や世界革命の勝利ということが、けっして架空のロマンではなく、現実のものであることを確信したのである。
フランスの五月は、このベトナム革命がつくりだした全世界的な青年の急進化の尖鋭な感動的な爆発にほかならなかった。腐れきった帝国主義とその支配体制にたいして、偽善と不正、それを支える怠惰な秩序全体を打倒し、生き生きとした、そして自らが本当に参加し意欲を感ずることができる社会をつくりだそうと決意したフランス、パリの青年、学生たちは、臆することなく大胆に決起した。このように青年たちが新しい感性と尖鋭さ、そして断固たる大胆さをもって決起したがゆえにパリの労働者たちもすぐさま闘いの戦列に投じたのであった。大学は数十万の学生で占拠され、労働者たちは工場占拠とゼネラル・ストライキで応え、そして街頭では警察・機動隊がみごとに殲滅させられた。これは、まさしく、文字どおり、革命のはじまりであった。そして、パリの青年・学生たちの数十万の隊伍の先頭には、わが第四インターナショナルの旗の下に闘う「革命的共産主義青年」(JCR)がたちつづけていた。
このようにして、フランスの五月は、全世界の急進的な青年・学生運動を鼓舞するとともに、分裂と停滞という苦難の道を歩みつづけていたわが世界的な第四インターナショナルの建設に、決定的な展望と確信を与えるものとなったのであった。
わが「世界革命」紙の復刊は、このベトナム革命の前進とフランスの五月革命によって決定づけられたものでありった。
「関東臨時ビューロー」という機関名によるこの復刊第一号〔通刊第一六五号)は、五月三日、突如としてフランスの五月革命が勃発し、そしてわが第四インターナショナルの同志たちがその最先頭にたって闘うことを知るや否や、いよいよ日本支部も今や闘いに突入しなければならないと決意した酒井が、木原と織田の同意をえて発行に踏みきったものである。
フランスの五月革命の勃発、わが「世界革命」紙の復刊の敢行とその後の発行の持続、そして「八月国際反戦会議」の開催は、いよいよわが同盟の政治的統一と再建への歩みを決定的なものにしていった。
そもそも、この集会は、中核派と分裂していたいわゆる「反帝全学連」を担う共産主義者同盟=ブント社青同解放派、同国際主義派、社会主義労働者同盟によって企画され、準備されていたものであったが、その主たる推進者は、ブントであった。彼らは、全世界的な青年の急進化という新しい情勢のなかで、自らの「共産主義者同盟」としての発展の展望を「第五インターナショナル」の建設におき、かくて国際的な急進的闘争の団体を結集させようとした。他方、第四インターナショナルの建設を支持するわが社青同国際主義派は、かかるブントの誤まった、かつ幻想に満ちた展望と闘いつつ、この「会議」を真に国際的な反帝国主義闘争の戦線の形成に導びき、また日本の戦闘的な青年・学生を、国際主義の下に獲得していく絶好のチャンスと把え、積極的に推進しようとした。そして、海外から結集した諸代表の多くもまた、第五インターナショナルの建設が夢想にすぎないこと、もっと現実の大衆運動において国際主義的な連帯を深め、ベトナム革命支援の国際的運動をつくらねばならないと強調した。こうして、この「国際反戦会議」は、わが同盟ならびに社青同国際主義派の活動家にたいして、わが第四インターナショナルが世界的な青年の急進化という新たな状況のなかで、具体的に前進しつつあることを実感として感じさせ、深い確信を植えつけたのであった。こうして、また、この「国際反戦会議」は、急進的大衆運動のなかにおけるわが同盟の国際主義的な位置と役割を刻印させたのであった。
六八年九月、このような国際反戦集会におけるわれわれの全国的な前進という成果を土台として、同盟の再建に直接に挑戦しようとする全国代表者会議が開催された。
この会議の宣言は次のように訴えている。
「昨年一二月、関東臨時ビューローが再建への出発を開始して以来九ヶ月を経て、今日全国同盟体制再建のための全国代表者会議を成功裡に迎え得たことは、世界革命の現実的主導的一翼たらんと闘う我々にとって、巨大な意義を有する前進である。
本代表者会議は、明らかに革命的な転換を示しつつある当面の情勢に立ち向う全国的な統一方針と統一指導体制を確立することに成功した。今日以後我々は、有機的に結合した前衛の部隊として、あらゆる闘争へ主体的に介入するであろう。
当面の情勢が何に向かって激動しているのかを端的に指し示しているものは、日大を先頭とする全世界的なスチューデント・パワーである。ここでは、文字どおり過渡的綱領とその思想だけが、闘う大衆に有効な唯一の政治的理論であることが鮮明にされている。フランス五月革命、チェコ政治革命をその劇的な象徴とするこの間の世界情勢もまた、闘争とそれが破壊したブルジョア的秩序の廃虚のなかに、この不滅の思想にだけ生き残る権利を与えている。まさに、今日は、トロツキズムの時代であり、社会民主主義とスターリニズム、そして一切の中間主義左翼が死に向って解体する時代である。
………………
我々日本支部と第四インターナショナルはこの戦場においてはじめて真実の力を獲得しうるのである。それ故我々はまた、この戦場できたえられることを通して我が思想と組織を大衆の武器として真実に強化することを、全世界のプロレタリア人民に深く負う責任であると自覚する。
再建された政治局、全国指導部を武器に、我が全国同盟はこの自覚の実現のために奮闘するであろう。
永続的世界革命方才ノ1
全世界にソヴィエト権力を樹立せよ!
第四インターナショナルの旗の下、全世界に新しい共産党を組織せよ。」(「世界革命」第一七三号、六八、一〇・五、縮刷版第一集四五二ページ)
この宣言がのべているように、統一第二回大会(六五年八月)によって選出された中央執行委員会の崩壊からほぼ二年間の空白をへて、ここに全国的な指導機関としての「中央政治局」が選出され、また中央委員会に相当する「全国代表者会議」が公式の常設機関として確認された。
こうして、わが同盟は、この「中央政治局」の下で、急進的大衆運動への精力的介入を主軸とし、旧関西地方委員会との内部闘争を副軸として、いよいよ、全国大会の開催をめざして意欲的な闘いにのりだしていったのであった。
3 急進的大衆闘争の展開
統一した全国指導体制の下に高揚する急進的大衆運動に介入した最初の闘争は、六八年夏から秋の日大闘争、十・二一の新宿闘争、そして、あの六九年一月の東大闘争という三つの闘いであった。この三つの闘いによって、わが同盟は、不十分とはいえ、同盟としての統一した指導の下に運動への介入を図ることができたのであった。
六七年の砂川・羽田闘争を突破口として発展しはじめた六〇年代後半の急進的大衆運動の頂点を最も端的に記録したのは、六八年夏から秋にかけての日大闘争、そして十・二一新宿闘争、さらに六九年一月の東大安田講堂という三つの闘いであった。六九年十一月に至っても、急進的大衆運動は青年労働者と市民にむけてその裾野を広げて拡大していったが、運動の深さと鋭どさを鮮明に刻みこんだのは、この三つの闘いにほかならなかった。
以前とは異なった、中央機関紙「世界革命」をもってその急進的大衆運動に参加していったわれわれはこの三つの闘いにおいて、特筆すべき二つの意義もしくは成果を印すことができた。
その第一は、五九年から六〇年にいたる安保闘争にたいするわが同盟の当時のかかわり方とは全く異なって、対立的に外から闘争の発展に対応したのではなく、独自な革命的な内容をもってその闘いに参加、介入し、その革命的な発展をかちとろうとしたことである。
その第二は、十・二一新宿闘争や東大一月安田講堂への意識的な参加によって、そして国家権力の強力な弾圧によって、かえって、後の七〇年代のわが同盟建設を最前線で担う鍛えられた学生活動家カードル層を、けっして少なくない数で獲得したことである。
復刊された「世界革命」紙第一七三号(六八、十・五)は、次のように闘いの方針を提起している。
「6、全共闘指導部多数派は『九・三〇団交確約事項の実質化、完全実施』をスローガンにかかげている。……
これらのスローガンや方針は、一〇月一日以降のブルジョアジー、その政府、自民党の意図と企図の本質を見ぬいていない。このスローガンや方針はいまや客観的にはブルジョアジーに有利に作用する。対立するのは『大衆団交』についてであり、若干の人事権についてである。
問題の中心は、私有財産権そのものである。ブルジョア私学日本大学の私有財産権の全構造そのものに肉迫するスローガンと闘争路線をうちたて、永続的に深まりゆく攻撃性をもって全闘争を政治的に再武装しようとすることである。理事会=評議会の行政、財政権と財産権、教授会の自治とその人事、カリキュラム権――これらに闘いの矛先きを設定することである。私有財産権を強制的に侵害し、学生自身に直接に基礎づけられた自己権力=学生評議会権力の闘争と運動にむけてつき進もうとしなければならない。……学生自身に基礎をおく評議会権力が財政・経理を直接に統制監視しようとすべきである。われわれは全財産権そのものを奪取しようとしなければならない。
公共的その他諸々の施設、設備にたいする大学当局の私有権を否認せよ! 学生自身の管理のもとに学生自身が自由にすべきであり、働く民衆とそのための運動と闘争にこれを解放すべきである。
全都学生統一自衛隊を形成せよ! 官憲は日大闘争にたいする攻勢を開始した。全共闘指導部を官憲の弾圧逮捕から実力で防衛せよ! バリケードをうちかためよ! 全都の学生のあいだに日大闘争防衛を中心にする全都学生統一自衛隊をつくれ!
――一九六八、一 〇・七――」(「世界革命」縮刷版第一集、四五五頁)
以上の闘いの内容は、いつわりの過激派、まがいものの「革命派」の立場ではなくして、本物の過激派であり、本当の革命派の立場であった。
このような革命への発展をめざそうとするわれわれの主張は、東大一月闘争にも貫徹されていた。
あの壮絶であった一月十八日、十九日の闘いの攻防戦を総括して、わが同盟中央書記局は、「戦略的勝利へ向けて」と題するアッピールを次のように寄せている。
「国家権力、文部省当局の現在の意図は自己の支配構造の弱い環としての大学行政の全面的再編にある。警察力を背景とした文部省直接統制のもとで、進歩派教授の追放から学生自治の圧殺に到るまでを、強権をもって断行せんとする。そしてこれが七十年代革命の恐怖におびえる帝国主義ブルジョアジーの共同意志であることは論を待たない。だとすれば全国学園闘争の新局面を主導せんとする我々革命派のプログラムは何でなければならないのか? 学内改良が結局のところテルミドール反動のための短い幕間劇にすぎないのだとすれば、“改良闘争を革命的に闘う”などと寝言を言っているうちに敵の攻勢は直接本丸に迫ろうとしているのだ。
“帝国主義秩序のための既存の全大学機構の解体”これが我々が国家権力とブルジョアジーにつきつける要求であり、“全大学と知的文化的施設の労働者人民への解放と、労働者・人民による管理”これが我々が大衆に向けて提起する目標である。
………………
東大闘争はこうした全国戦線の焦点である。東大生も、教官も、もはやこの闘争を終らせることができない。入試は阻止された。だがわれわれはさらに要求する。入試制度そのものの永遠的破壊へと前進すべきである。この制度は、労働者・人民とその子弟に対して選別的に閉じられた知的文化的施設のブルジョア私有制に他ならないのであるから……。全ての労働者・人民は、自己の欲する学習や研究をこの“最高学府”で自由に享受すべきであり、まさにこのことのために東大闘争は実力を行使するものであることを示さなければならない。入試と共に制度としての“卒業”も破壊されねばならない。生産的闘争にプロレタリアートとして参加するに際し、支配秩序への帰順の度合いを当局の発行する一片の証書でブルジョアジーに証明してもらうこの制度は粉砕されなければならない。労働者・人民とその子弟が、自らの欲する時に来、欲する時に出るべきであって、ブルジョアジーによる一切の強制は拒否されなければならない。
東大闘争の戦列の中に、かかる根本的にラディカルな戦略を自覚した部分が、今こそ組織され、結集されなければならない。改良主義“秩序派”の破産と分化のなかにこのような“戦略左派”の陣地を構築することによって、東大闘争の新局面に於る新しい前進が開始されるのだ。」(「世界革命」紙第一七九・一八〇号、一・二〇日、「縮刷版第一集」四八三〜四八四頁)
当時の急進主義運動や急進諸派の水準から見るならば、かかる光り輝やくようなこの革命的な内容は、全くかえりみられなかった。その内容は、日大十万、東大、そして全国の急進的活動家層に全く注目されなかったし、わが同盟の運動を学生の分野において担っていた「国際主義派」のすべてがここに武装されきっていたわけでもない。
だが、われわれは、繰り返し次のように言うことができる。
われわれのそのような内容は、急進的運動をまさに発展させんがために、その運動をともに担いぬくなかで提起されたのである、と。したがって、一九五八年から六〇年に至るわがJRの致命的な弱点を、この時点で実践的にはじめて克服できたとする評価は、けっして誇張ではないことを。そして急進的大衆運動を自らが担いながらも、それにたいして確固たる批判的な見地を堅持したことこそが、七〇年代に入っての一方における急進諸派の衰退、堕落と他方におけるわれわれの政治的成長とをはっきりと画したものである、と。
それでは、第二の点についてはどうか?
十・二一のあの新宿における人民的な闘争の高揚によって国家権力は驚がくし、十五年ぶりで騒乱罪の適用による弾圧で報復しようとした。
「国際主義派」は、およそ八百名以上の大部隊でこの闘争に参加した。それ以前の闘争では、常に百名前後の少数部隊で参加して闘っていたことと比較するならば、これは驚くほどの急成長であった。そしてそれ故にこそ、国家権力は、中核派にたいするとともに、「国際主義派」にたいして、全面的な弾圧をかけてきた。これによる事後逮捕者は十数名にも達し、その内三名が騒乱罪という罪名で起訴、長期拘留された。このような弾圧は、「国際主義派」がはじめてこうむった経験であり、しかもカードル層の薄さと経験不足のゆえに、重大な打撃をもたらすものとなった。十・二一新宿闘争の直後の十一・七日比谷闘争への参加者がわずか十数名というあまりにもみごとな後退ぶりは、事実上「国際主義派」の潰滅を印象づけるものであった。
だが、かかるはじめての弾圧をくぐりぬけることによって、国家権力と闘いぬきえるという太い一本の骨格をうちたてることができた「国際主義派」は、十一月・十二月の東大闘争への参加をとおして闘争体制の整備、再結集を図っていったのであった。
そして、東大のあの安田講堂への壮絶な篭城戦には、国際主義派は、関東のみならず全国の精鋭活動家を結集させて(―かき集めて)参加した。その数は、およそ二百名であり、これは、あの東大闘争の戦力にとって不可欠な、きわめて重要な役割を担いぬくものであった。とぼしい財力、したがって貧弱な食糧にもかかわらず、わが同盟と国際主義派の戦士たちは、どこの党派よりも立派に、敢然と、そして最後まで闘いぬいていった。それは、全国大学闘争の発展と革命への大道を切り開くことに意識的であっただけでなく、第四インターナショナルの旗を急進的大衆運動のなかに打ちたてるには、かかる激烈な犠牲がほんのささやかな投資のはじまりにすぎないことを確信しきっていたからであった。
この闘いにおいて、「国際主義派」は約一〇〇名が逮捕され、約四〇名が長期拘留され、そして起訴された。
こうして、全国のわが同盟の学生カードルの圧倒的多くは、二つの闘争によって獄中に閉じこめられることとなった。したがって、「国際主義派」を発展的に解消して結成された「学生インター」は、かかる骨格的なカードル層を失なったために、ほとんど未経験な新しい活動家群によって担われ、それゆえ、展開される急進的大衆運動にやっと参加していくという実状であった。
近視眼的に見れば、たしかにこのように犠牲は巨大であった。だが、それに余りある以上に、自らの力一杯に国家権力と闘いぬき切ったという政治的資産をわれわれは獲得することができたし、なによりも次の同盟建設をその最前線で担うべき一定の重大な試練をくぐり抜けた新しいカードル層を獲得することができたのであった。この点で、六一〜二年から六五〜六六年に至る加入活動とその一定の成果とともに、かかる急進的大衆運動への全力をつくした介入は、わが同盟建設のための新たな土台をつくりだした、と評価できるのである。したがって、十・二一新宿闘争や東大闘争への介入を決定するに際しては、全く無
意識であったが、この二つの大闘争をやり切ったことは、次の同盟建設の前進にむけての乏しい財布をはたき切った貯金となったのであった。
4 旧関西指導部との闘争と第三回大会
中央政治局を先頭とする急進的学生運動や青年労働者運動への全力をつくした介入の体制が強化されるにしたがって、中央政治局内の矛盾が激化し、やがて内部闘争に発展することは事態の発展の当然の成り行きであった。なぜならば、中央政治局は、新たな傾向が多数となっていたにもかかわらず、それは、依然として暫定的な連合体制にほかならなかったからである。
すでに中央政治局内部において、東大闘争の評価をめぐって旧関西地方委員会の指導的同志の方から批判的な意見が展開されていた。だが、このときは、公然たる論争にまでは至らなかった。
このような深い潜在的な対立が、公然たる非妥協的な対立に発展していった最初の問題は、六九年の五月三一日におこった、いわゆる大教組集会の「五・三一」事件であった。このときにはじめて、中央政治局は公然たる多数派・少数派に分割され、双方の見解が「世界革命」紙上に発表された。
この論争の性格は、単なる「五・三一」事件にたいする態度に限定されたものではなかった。それは、当時激烈に闘いぬかれていた急進的大衆運動の発展全体にとどまらず、五八年〜六〇年にいたる旧JRの評価、政治体系・路線・体質の評価に深くかかわるものであった。
この「五・三一事件」において、当初旧関西地方委員会は、次のような声明文を発表した。
「五月三一日大阪扇町プールで開かれた大阪教職員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に約二一〇人といわれるいわゆる反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠し、この争いで数名の組合員が傷つけられるという事件が起った。
乱入した高校生が何を求め、いかに主観的に判断したかにかかわらず、かようなかれらの行動が革命運動と反戦・沖縄奪還闘争にたいする許しがたい破壊行動であることは明白である。大教組の教員たちがこの高校生の行動をいかに見、いかに対応するかにかかわらず、われわれはこれら高校反戦派と称する青年の行動を断じて容認することができない。
……われわれは大教組の指導方針について意見がないわけではない。いかしながら大教組が昨年来沖縄教職員会との連帯を発展させ、沖縄奪還闘争に真剣にとり組もうとしてきたことをわれわれは知っている。……。たとえ、高校生が大教組の方針にどんな不満をもっていようと、教師にたいする彼らの批判に若干の正当性があろうと、このような客観的意義は明白である。それは、教員の自主的大衆行動にたいする破壊挑発の行動であって、それはかれらが叫ぶスローガンの主観的善意とさえ全く反対の結果をしか生み出せないことは確実である。」(「“沖縄奪還大教組全員集合”における高校生反戦諸組織の行動について」「プロレタリアート」第三五号、六九、六・一〇)
この声明文の客観的な政治的位置が、「国際主義高校生戦線」を中心とする高校生の行動に真向うから敵対し、大教組、つまり、社会党・民同官僚と共産党の側にたつものであることは明白であった。したがって、それは、すでにのべてきたような、六七年以後の急進的大衆運動の発展にたいして過少評価もしくは否定的な見解がはらまれていたことも当然であった。この点で、旧関西地方委員会書記局の声明は、五八年から六〇年の旧JRの路線をそのまま踏襲するものであった。
これにたいして、中央政治局の多数派は、この問題が運動の利害ならびにわが同盟の再建にとって決定的な分岐をなすものであるとして認識し、ただちに、旧関西地方委員会の声明に反対し、その撤回を要求した。
政治局会議の多数で採択された「中央政治局」による「五・三一大教組沖縄集会及び関西地方委声明にかんする声明」は、次のように言っている。
「2、前記の同盟関西地方委員会書記局声明は、高校生活動家たちが政治的に代表しているものと他方民同官僚と共産党の官僚的統制下に組織されたこの沖縄集会が政治的に代表しているものを単に並列的においており、この二つのあいだにある重大な政治的かつ歴史的対立についてまったく無自覚である。前記声明の致命的な誤まりはここにある。今日の大学闘争一般、そして高校生大衆がいまや参加しつつある闘争が既存のブルジョア的管理と統制の秩序そのものにたいする反乱として闘争を形成しつつあるとき、つまり伝統的ブルジョア社会と国家の強権的秩序および改良主義的支配の均衡そのものを部分的かつ過渡的に崩壊させはじめているとき、この闘争を伝統的な改良主義運動と政治的に並列して論じることは絶対にできない。フランスの五月革命についてふれるまでもなく日本の青年労働者が現に課題として直面しつつあるのは、いま大学生と高校生たちが経験的かつ手さぐりのうちに挑戦している闘争なのである。われわれは青年の文字どおり急進的な大衆闘争の発展を伝統的改良主義運動の抑圧から防衛しようとしなければならない。」(「世界革命」第一九〇号、六九、六・二〇、縮刷版第一集五一七頁)
ここに引用した二つの声明の立場は、相入れることができない、深刻な、非妥協的な対立であった。とくに、旧関西地方委員会を代表する指導的同志たちが、「中央政治局声明」に反対する声明として、次のようにのべたとき、その対立はきわめて明白なものとなっていった。
「(五・三一事件の)事の本質は今日の左翼の運動、特に学生運動におけるいわゆる旧三派と革マル派によって代表される極左急進主義的、最後通謀主義的傾向が重大な危険となりつつあるという兆候を明瞭に示したことである。そしてまたこの極左セクト主義的急進主義に対し、わが同盟自体が全体として正しく対処しえず、それに引きずられてきたということをはっきりと認識しなければならない。」(「世界革命」第一九一号、六九、七・五、縮刷版第一集、五二〇頁)
蛇足ながら、その声明から明らかなように旧三派と革マル派を並列してのべ、革マル派が日大、東大闘争から惨めにも逃亡し、かつ急進的大衆運動に敵対していた重大な事実を旧関西地方委 ス<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川 ♂フゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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