第六章 勝利をめざして
――労働者階級の革命的多数派へ――
1 第四回大会以隆の新たな細い
七〇年八月の同盟第四回大会以降のわれわれの闘いをふり返るにあたって、情勢と大衆運動における大きな変化をみておかねばならない。それらは、まさしくわれわれが参加して担いぬいてきた新たな急進的な大衆闘争を、どの方向に導びいていくべきかの、重大な分岐とも呼ぶべきものであった。
大衆闘争における特徴的な変化は、次の三つであった。
その第一は、「入国管理令」粉砕闘争、小西三曹の革命的決起にはじまった叛軍闘争、浦和地裁占拠闘争を重要な契機とする狭山差別裁判糾弾闘争の高揚、「富村支援闘争」などに示される、急進的な大衆闘争の新たな各戦線への広がりであった。
その第二は、七一年から七二年にかけて激烈に展開された本土と沖縄における沖縄本土復帰闘争の高揚であり、三里塚闘争の壮絶な闘いであった。この二つの闘いは、他方で急進的な闘争が人民的な広範な広がりを示すものであった。
そして、第三の大きな変化は、七一年の沖縄本土復帰闘争の最後の局面で表現され、あるいは七二年から七三年にかけて展開された国鉄マル生粉砕闘争に示されていた、もっと広範な青年労働者の労働組合、職場自身における政治的な活性化と急進化であった。
この三つの大きな変化は、一方では急進的な大衆闘争の連続的な発展を示すものであるとともに、他方ではそれに質的な、断絶的な飛躍を要求するものでもあった。
以上の巨大な三つの変化にたいして、われわれはどう闘いぬいてきたのであろうか? それぞれについて、ごく簡単にふり追ってみよう。
第一の変化について。
入管闘争、叛軍闘争、狭山差別裁判糾弾闘争などの新たな大衆闘争の発展は、六九年までの党派主義的な、急進主義的な大衆運動の政治的飛躍を無条件に要求したのみならず、わが同盟にとってもはじめての試練であった。
わが同盟は、これらの闘争に意識的に参加し担いながら、いかにこれらを革命の観点から位置づけていくのかという課題を追求しつづけてきたのであった。
七一年当時、われわれは、入管闘争、富村闘争、小西叛軍裁判闘争において、東奔西走の毎日であった。それこそ、毎日が闘いの連続であった。だが、国際主義労働者委員会(ILC)と学生インター、国際主義高校生戦線などの青年労働者、学生、高校生などの闘士たちが担いぬいたことによって、まさしく、わが同盟は、これらの闘争にたいする一定の政治的指針を提起することができたのであった。
たしかに、当時いまだ政治的方針を提起するまでには至らなかった部落解放闘争を別として、入管闘争や叛軍闘争、そして富村闘争において提起できていたのは、原則的な革命の観点からする政治的立場にとどまっていたものであった。それは、労働者階級全体の政治的組織化にまで向かわなければならない、具体的な政治方針にまでは到達できなかった。にもかかわらず、そのようにわれわれが実際に闘いぬき、そして一定の鮮明な政治的立場を提起してきたことによって、新たな貴重な政治的経験を自らのものにすることができたのであった。そして、これが、革命党建設にとって不可欠の、大衆闘争を媒介とする綱領のための闘争にたいする貴重な土台をつくりだしていったのであった。
第二の変化、第三の変化は、いずれも、急進的大衆闘争とそれを担う諸党派間の分裂を必然化させるほどの巨大な圧力をおよぼすものであった。
最初の分裂は、七一年の六・一七闘争に表現された、沖縄本土復帰闘争における「返還粉砕」派としての社青同解放派、フロント派、ブント派と、沖縄労農人民の復帰闘争を支持し発展させる立場としてのわれわれ、中核派、そして「主体と変革派」との分裂であった。
いうまでもなく、「返還粉砕」派の主張とは、日本が帝国主義であるゆえに、その下には帰ってくるな、という反動的な主張であった。したがって、このような「返還粉砕」派との闘争は、沖縄・本土の労働者人民の利益のために闘争しなければならない急進的大衆闘争の政治生命にかかわる根本的な問題であり、かくて、われわれは、もっとも鮮明な政治方針を掲げて「全国反戦」、「全国全共闘」、「入管闘」という大衆闘争の戦列を守りぬいたのであった。こうして、また、その最終決算となった十一月施政権「返還協定」粉砕闘争において、中核派、「主体と変革派」の青年、学生とともに、戦闘的な街頭闘争を担いぬいたのであった。
なお、党史の一ページとして特記されねばならない闘いとして、七一年の二月、七月、九月の三里塚闘争をあげておかねばならない。われわれは、他の急進的諸党派の闘士たちとともに、戦う農民と固いスクラムをもって、国家権力の攻撃と闘いぬくことができた。二月の闘いにおいて、われわれは、地下深いザンゴウをもって、終始国家権力、機動隊に抵抗しぬいていった。われわれは、九月の秋の陣において、労働者と農民の赤い旗をひるがえしたトリデを構築して闘いぬいていった。それは、全国の労働者と農民はこのようにして自らの利益の防衛のために闘いぬこうではないかという、熱い闘いの宣言であり、呼びかけでもあった。われわれは、このように自らが銃弾となり、盾となって闘いぬいていく敢闘的な精神を貴重な財産として受けついでいかねばならない。
他方、すでにのべてきたように、われわれは中核派とともに、最後まで沖縄本土復帰闘争を担いぬいてきたのであるが、その過程自身において政治的対立が形成されつつあった。それは、いうまでもなく、中核派が大衆闘争の新たな変化に対応できず、むしろ、その危機を一層非政治的な戦術的急進主義を強めていくことによって形成されていた。したがって、われわれが沖縄本土復帰闘争の展開とますます政治的かつ大衆的な戦闘性として闘いぬこうとしたことにたいして、彼らは、一言でいって、街頭決起的な闘争として展開しようとしたのであった。だから、またこの沖縄本土復帰闘争をどのように評価するかで、真向うから相違する結果となったのである。われわれは、社会党・民同に率いられた労働組合青年部の大衆的な急進化に注目し、それを評価した。そして、われわれが立ち向かい、組織しなければならない対象はまさにここにあると評価した。
かかる政治的な対立は、七二年のそれぞれの新年号論文によって、明らかに戦略的な総路線上の対立にまで発展していったのであった。彼らは、その戦術急進主義的な路線を、ついには軍事主義的な路線に結晶させていったのであった。これが、明らかにセクト主義、大衆闘争からの召還、内部ゲバルトの道に入っていくものであることは自明であった。
こうして、沖縄本土復帰闘争の高揚にともない、小西三曹の決起につづくものとなった、沖縄派兵を拒否する四・二八の「五兵士」の決起にたいして、彼らはそれを急進的な大衆闘争全体の財産にしていくことを拒絶し、ただ自らのセクト主義的な利害のもとに従属させようとした。したがって、このことの是非をめぐってついには分裂にまで至った背景は実はかかる急進的な大衆闘争と革命の発展の道にかかわる根本的な路線の対立にほかならなかったのである。
こうして、五八年から六〇年の三池・安保闘争や六四年から六五年に至る原潜・日韓闘争を受けついで六七年から発展した急進的大衆闘争の成果を防衛し、発展させようとする革命的な潮流は、ついには一人わが同盟のみとなってしまったのであった。
かかる大衆闘争の三つの変化は、当然にも情勢の変化からもたらされたものであった。
ここで特記しておかねばならないのは、七一年の七、八月に発表されたニクソンの「二つの声明」、つまり、「ドル防衛声明」と「訪中声明」であった。この二つの声明こそは、アメリカ帝国主義の戦後国際政策における戦略的な転換を物語るものにほかならなかった。これは、アメリカ帝国主義がどれだけベトナム革命から打撃を受けていたかを如実に示すものであった。われわれは、この二つの声明によって、アメリカ帝国主義の巨大な力によって支えられてきた日本帝国主義の戦後の政治的上部構造が完全にゆらぐであろうと判断した。そして、このことは、青年労働者、学生の限定された層にとどまることなく、広範な労働者階級と人民の急進化が必然的に発展するであろうと判断した。
そして事実、三里塚や沖縄本土復帰闘争の高揚や七二年から七三年にかけた国鉄マル生粉砕闘争の勝利こそが、以上の正しさを如実に示していたのであった。
このような情勢や大衆闘争の変化は、われわれをして、もっとはっきりと急進的大衆闘争を全労働者階級の中枢にむけて発展せしめていく新たな闘いに取り組むことを要請するものであった。
このような新たな戦略的な転換を、鮮明に提起していたのは、七二年一月の「新年号巻頭論文」であった。「アジア革命の勝利をめざし労農人民の多数派へ――労農大衆を工作し、獲得する同盟へ――」と題する論文はわれわれの挑戦すべき新たな戦略的路線を次のように提起していた。
「5、第三次アジア革命は主体的な全要素を次々と登場させて発展させている。アメリカ帝国主義の軍事的アジア支配は確定的に総崩壊の時代への戸口に突入した。極東の最前線、南部朝鮮は最後の政治的な非妥協の対決局面にともはや突入してしまった。アメリカ帝国主義の力を基礎としてのみ四半世紀延命してきた日本帝国主義の崩壊も幾何級数的にその動きが早められている。沖縄労農人民の米軍基地撤去・反軍事植民地闘争の発展は一層高まり深まっている。日本本土における労働者階級・諸人民の急進化は一層具体的に開花している。
……。かくて、真に開始されている情勢と時を前にしてわれわれは何からはじめるべきなのか? どこから着手すべきなのか? ……。
以上のような情勢と設問をまえにして、まさしくわれわれは、アジア革命に応え勝利を準備する党・革命を政府権力として組織する党・革命を蜂起として組織し準備する党建設への挑戦であると答えなければならない。……。
かくして、この挑戦への政治的準備の戦略的環こそは、労働者階級を真に全人民の指導的階級とすること、労働者階級を真に全人民の護民官とすること、換言すれば、労働者階級の全てではないにしても少なくともその多数を、真に改良主義的・組合主義的水路から米日帝国主義を打倒し、アジア革命に応えうる反帝国主義の水路に政治的に獲得することなのである。」(理論機関誌『第四インターナショナル』第九号、九頁)
第五回大会(七二年二月)の議案ともなった本論文において、われわれは、労働者階級・人民の革命的多数派へと挑戦することを、このように公然と宣言した。それは、いうまでもなく、わが同盟が創立されて以来、終始一貫して挑戦しつづけてきた道にほかならなかった。そして、六七年から六九年までの過程では、その先進的運動をより政治的に発展させ、労働者階級のなかに拡大することをめざして闘いぬいてきた。だが、その先進的な運動が次第に党派カンパニア主義的な運動として衰退を呈しつつあったとき、まさしくわれわれは、先進的な運動を担いつつ、他方では、このもっと広範な次の新たな発展に向けて、労働者人民の大海という新たな戦場に出撃しなければならなかったのである。
そして、このような戦略的な路線を同盟全体としてうちかためていったのは、七二年二月の同盟第五回全国大会であった。
だが、この七一年終りから七二年初頭にかけて提起された新たな戦略的路線は、いわゆる第四回大会路線との間になんの矛盾ももたなかったのであろうか? 否、明らかに対立する要素が存在したのであった。以上の提起された新たな戦略路線が、客観的には第四回大会路線の飛躍的発展として位置していたにもかかわらず、当時われわれが「転換」とごく自然に規定していたのは、かかる対立的側面が存在していたからであった。
それでは、同盟第四回大会は、どの点で不十分であり、かつ立ち遅れていたのか?
昨年の一月開催された同盟第八回大会は、この点について整理した解答を導いている。そこでは、次のように二つの問題として整理している。
「その第一は、路線そのものがもっていた政治的な体系上の弱点、誤まりについてである。その第二は、それがどのように理解され、かつ実践されていたか、についてである。……。
(第四回大会)で提起されていることのなかには、要約的に次のような特徴を見出すことができる。そのなによりもまず第一のことは、アジア革命と極東解放革命の綱領的見地からして、社共に代表される既存の「国民平和主義」的大衆闘争にたいする、徹底的に対立的な関係において任務を組みたてていることである。その第二は、同様に、この見地から当時の急進的大衆闘争の内部にのみ自らの任務を限定させていることである。……。
……。既存の大衆運動の主要な傾向がたとえ「国民平和主義」的なものであろうとも、それが分解・衰退し、あるいはそのなかから革命的傾向が形成される新しい客観的諸条件の到来を意味することであることも、また明白であった。だから、これらのことは、当然にもわれわれの政治的任務をして、独自な綱領的見地から所与の情勢と大衆運動の戦術的局面に介入し、その政治的再組織の過程をとおして獲得される成果に依拠しながら戦略的局面への介入を準備・実践することに設定されねばならなかったのである。つまり、実践的・具体的には、当時の急進的大衆運動の内部にあって、一方ではその闘争の客観的成果を防衛し政治的に発展させつつ、他方では既存の労働者階級全体との非生産的な、あるいは反動的なものに転化しかねない分断構造の固定化という危険性と闘争することによって、既存の社共とその支配下の運動への介入をめざさねばならなかったのである。
かかる点で、同盟や第四回大会路線自身の問題点を次のように要約してみることができる。
それは、全体的・政治的な核心点として、自らの政治的任務の基軸を、明白に権力のための闘争という政治的体系に設定できなかったことである。つまり、極東的規模であれ、どのようであれ、政治的に意識的な政府のための闘争、統一戦線のための闘争を任務の中心環として設定し、ここから所与の大衆運動の戦術的局面への政治方針を導くということができなかったのであった。だから、実践的な任務の設定がほとんどもっぱら、急進的大衆闘争のイデオロギー的な、反帝国主義的な政治的再編の任務に限定され、既存の社共と労働者階級の運動主体にたいするかかわりは、捨象されざるをえなかったのである。」(理論機関誌『第四インターナショナル』第二〇号、四〇頁〜四二頁)
次に、第二の問題として、同盟第四回大会路線が、どのように理解され、かつ実践されていたのか、という点について検討してみなければならない。 」
六七〜六九年の急進的大衆闘争の経験をとうして獲得された同盟建設の新たな担い手たちが、とくに学生運動出身者を中心にして「極東解放革命」論に熱狂的であったことは、すでにのべてきたとおりである。だが、この受け入れ方には、実は重大な弱点が印されていた。すなわち、社共に支配されている既存の運動にたいする単なる拒絶性という新左翼主義的な弱さという問題であった。いうまでもなく、労働者階級の革命的な多数派に挑戦しようとする潮流にとって、問われている任務は、社共に支配されている既存の運動を、明白な綱領と確固たるイデオロギー的な確信に支えられて、粘りづよく作りかえていくことである。だから、たとえどのように正しい政治路線や内容をもっていたとしても、それを党派集団的に叫ぶことだけでは、何の意味も有さないのである。問題は、それを現実の運動のつくりかえをとおして、本当に新たな階級闘争として実現させていくことなのである。そして、まさしく、再建過程全体や同盟第三回、第四回大会の、根本的内容こそは、労働者階級の革命的多数を獲得するためにはどのような政治綱領が必要なのかを明らかにしたのであった。だが、社共に支配されている既存の運動にたいする拒絶性、いわゆるわれわれの「綱領カンパニア主義」は、核心たるべきこの前提そのものを切断させてしまう弱さが内包されていたのであった。
わが同盟が前進できるか否かの成否が、大衆運動の最前線を担う新たなカードル層の成長のいかんにかけられていた以上、かかる弱さの克服は、まさしくわれわれ自身の死活的な問題にほかならなかったのである。
同盟第四回大会を成功のうちに獲得したわれわれは、再建過程全体に一定の終了をつけることによって大きな山を乗りこえることができた、と確信していた。事実、それは、すでにのべてきたように、わが同盟のこれまでの混迷と分散性に一つの歴史的区切りをつけ、新たな出発点をきづいたのであった。
だが、われわれが乗り越えたと確信したその山々は、次に登るべきもっと高い山を見出すための前衛峰にすぎなかったのである。第四回大会をもったことによって、さらに挑戦すべき巨大な壁がわれわれの前に見えることになったにすぎなかったのであった。こうして、第四回大会の政治路線上の立ち遅れや、「綱領カンパニア主義」という二つの問題について、ただちにその克服のための闘争に着手しなければならなかったのである。
情勢や大衆闘争の大きな変化に対応させ、かつわが同盟の弱点を克服させようとする闘いは、同盟第五回大会と第六回大会に課せられた中心的な任務であった。そして、この二つの大会は、基本的に一つの大会であった。いわば、第五回大会は、第六回大会を獲得するための突破口を切り開く布石としての位置をもっていたのであった。
第五回大会は、われわれが向かうべき、新たな戦略的方向を提起できたにすぎなかった。それは、われわれ自身の任務の大きな枠組みの変更を提起できただけであった。だから、同盟全体は、その戦略的な正しい方向を確認できたとしても、どこから、どのようにして手をつけていくかについて、十分な正しい解答を見出すことができなかった。だから第五回大会の開催は、その戦略的な方向性をどう体系化し、かつ具体的に方針化していくのかという任務を、ただちに自動的にわれわれに課すこととなった。
このような問われている課題に挑戦したのは、翌年三月に開催された第六回大会であった。この大会は、決定集(理論機関誌『第四インターナショナル』第一〇号)を検討すれば明らかなように、第四回大会の「極東解放革命」論の成果を防衛しつつも、わが同盟の任務の体系づけについては、根本的に相違するものであった。すなわち、第四回大会が急進的大衆闘争のなかにおける意識的な「全国分派」というように設定していたことにたいして、ここでは、「インターナショナルのための闘争」や「綱領のための闘争」を含めた労働者階級に基礎をおく革命的建設のための基本任務を設定できたのであった。そしてかかる体系のなかで、七〇年以後われわれ自身に提起された叛軍闘争や部落解放闘争、婦人解放闘争等を、革命の綱領や過渡的綱領の具体的な作成への挑戦として位置づけようとしたのであった。
こうして、第六回大会は、アジアと極東のなかにおける日本帝国主義の危機の発展が呼びおこす、きたるべき労働者階級による権力のための闘争の時代にむけてわれわれを意識的に準備する、換言すれば、本当に労働者階級の革命的多数派に挑戦していくわれわれの出発点をきづくことができたのであった。そして、このような第六回大会路線をもつことによって、同盟第四回大会が印すことができた新たな政治体系も、本当の生きた意義を見出すことができたのであった。この意味で大きなジグザグや試行錯誤をもちつつも、第四回大会と第六回大会という二つの大会は、まさしくわが同盟の再生と革命的多数派への挑戦という任務にむけて、重大な活路を切り開いたのであった。
だが、かかる同盟第六回大会の獲得が、ただちにわれわれの前進につながるものとはなりえなかった。同じように、ただちにわれわれの弱点を克服するものとはなりえなかった。
第六回大会を開催した一九七三年という年は、大衆闘争全体の発展において谷間とでもいうべき位置にあった。
七二年秋に示された国鉄マル生粉砕闘争の高揚は、労働者階級、とくに公労協主導による新たな階級闘争の構造をうちたてるものであったが、ただちにそれは、春の上尾国電暴動において、重大な政治的壁に直面した。それは、社会党・民同がもつ改良主義の路線をどう労働者全体がのりこえて闘っていくのかという、きわめて本質的な課題にほかならなかった。
他方、旧来の急進的大衆闘争と急進的諸党派をめぐる状況は最悪であった。
連合赤軍による浅間山荘事件は、もっとも端的に、日本新左翼の弱さを露呈させるものであった。そして、急進的な大衆闘争を担い主導してきた中核派は、わが同盟とのブロック解消によって、急速に、革マル派との内部ゲバルトの道に入った。それは、革マル派の急進的大衆闘争にたいする内ゲバによる敵対を政治的に組織された健康な大衆運動で粉砕していくという、ただ一つの正しい道をとることができなかった中核派の弱点を示すものであった。こうして、六七年からの急進的大衆闘争は、取り返すことのできない巨大な打撃をこうむったのであった。
健康で急進的な大衆運動を維持し、さらにそれを労働者階級全体のものにしていくための闘いは、こうしてわが同盟だけの、全くの孤独な作業として強制された。だが、このような任務を背負って闘いぬいていくためには、われわれは余りに微弱な力しかもちえていなかった。そして、また、生き生きとした、発展する大衆運動の不在のゆえに、同盟第六回大会路線を具体化させる闘いも遅れざるをえなかった。同盟第六回大会路線が、単なる労働者基盤の獲得というレベルで理解されざるをえない弱さも印しはじめられていた。
中央政治局の関同志を突如失わねばならなかったという重大な痛手を含め、一九七三年はわれわれにとってもっとも苦しい時期であった。
そして、かかる状況を、実践的に突破しはじめた最大の契機は、なんといっても、七四年の参院選戸村選挙闘争であった。この闘いでわれわれは、戸村候補の当選をめざして、健康で急進的な大衆闘争の全国戦線を再度構築すべく努力した。われわれはこのような闘いのなかで、信頼できる多くの友人を見出すことができたし、わが同盟をかかる全国的な戦闘的イニシァチブの形成のために動員していくという、具体的な政治的位置を再度見出していったのであった。
2 第八回大会
情勢や大衆運動の構造的変化があったとはいえ、、以上にのべたように、一九七二年から一九七三年が大衆運動の発展の合間にあったがゆえに、同盟第六回大会は、不可避的な限界をもたざるをえなかった。
それは、端的にいって、労働者階級の権力のための闘争に不可欠な労働者統一戦線の形成に向けて、われわれが、どこから、どのようにして具体的に着手するのかという方針にまで帰結させることができなかった。それは、だから、大衆闘争を展開し政治的に集約していく大衆運動方針と統一戦線戦術の不在として表現されるものであった。そして、ここで具体的な結論を有し、具体的に前進していくことなしには、労働者階級への革命的多数派への挑戦と言っても空語に等しいものであった。われわれの弱点の克服も、このような闘いへの実践的な挑戦として展開されて、はじめて可能となるべきものであった。
こうして、革命的多数派への挑戦という、体系的かつ具体的な路線の深化とわが同盟の意志結集という課題は、七六年一月の同盟第八回大会に課せられることとなった。このような課題の達成は、七三年の苦難の時期をしのぎ、七四年の戸村参院選闘争や七四・七五春闘争などを闘いぬく一定の経験の蓄積や労働者基盤の確立をとうすことによって、はじめて可能となったのであった。
同盟第八回大会は、以上のような懸案の課題について整理をあたえ、かつベトナム革命勝利後の新たな政治情勢に対応する体系と政治路線を提起できたのであった。
同盟第八回大会の内容を貫ぬいている回転軸は、ベトナム革命の勝利という偉大な歴史的事業の達成である。これを基軸として、一切が展開されきっている。そして、ここで提起している内容を、われわれは三つの政治的任務として要約してみることができる。
第一に、アジア革命の完全勝利をめざして闘いぬくことのできる日本労働者階級の革命的獲得として。第二に、日本と韓国における権力のための闘争を展開できる日本労働者階級の革命的獲得として。第三に、以上の構造のなかで不断に提起される政府危機の出現に対して、権力のための闘争――政府と統一戦線のための闘争を担いきれる労働者階級の革命的獲得として。
ここでは、とくに今日の政治情勢からみて、後の二者について要約することで、同盟第八回大会の内容をふり返ってみよう。
このベトナム・インドシナ革命の打撃を、もっとも衝撃的にこうむったのは、ほかならぬ韓国の朴支配体制であった。なぜならば、韓国とその現在の支配こそは、ベトナムのカイライ政権と全く同じ性格、基盤で支えられていたからである。
その最後的な決着はただ世界革命の勝利として決せられるべき、革命と反革命とが相緊張しあいながら不断に対峙して存在している今日の世界的二重権力状態は、そのもっとも厳しい最先端においては、民族的分断として表現されていたのであった。革命の勝利以前のベトナム革命が、一七度線によって分断されていたのは、このことの具体的な表現であったし、現在の朝鮮は三八度線によって依然として苛酷な民族的分断を強制されつづけているのである。
したがって、サイゴンのカイライ政権であったチュー政権がものの見事に倒壊させられたとき、それは韓国朴政権の明日の姿にほかならなかった。
こうして、彼は、サイゴン・カイライ政権の崩壊を耳にするや否や、ただちに、「北からの侵略の危険性」というデマゴギーの下に、噂すらおこなう自由を奪いつくす「戦時支配体制」をつくりあげていった。それは、アメリカ帝国主義を中心とする国際帝国主義陣営の最先端を担いぬき、そのなかで自らの支配体制の安泰を図ろうとする、朴のきわめて意識的で機敏な、予防反革命の行為にほかならなかった。抵抗闘争の最前線にたっていた知識人、言論人、宗教人、学生は、徹底的に弾圧され、地下に追いやられていった。金芝河氏は再度獄中につながれ、そして朴の最大のライバルである金大中氏もまた、ついに逮捕された。七五年の五月と六月、すでに初夏の薫りをうるおわせていた韓国の美しき緑と土は、だが、政治的にはすべてが凍りついてしまう、厳しい冬の季節に閉じこめられねばならなかった。その季節の長さは、一年の四分の一で自動的に終りとするものではない、ただ日本をはじめとする全世界の闘う人民の闘争の進展度によって決定されるものであった。
だが、他方、最後の最後の、本当に最後の非常体制である「臨時体制」に朴が訴えたことは、彼にとってもはやどのような脱出口も存在していないことを物語るものであった。臨戦体制としての朴か、それとも人民によって打倒された朴か、ただこのような二つの道だけを朴自らが準備したのであった。したがって、臨戦体制にすき間風が生じ、ゆるみはじめ、そして穴があきはじめるとき、それは朴支配体制の断末魔の叫びをあげるときの声になるであろうことは明白であった。そして、ほぼ二年後の今日、そのような時が、確かな足取りで近づいているのである。 」
他方、朴支配体制が、このように形容すべき適切な言葉を見い出せないほどの苛酷な臨戦体制で国際帝国主義陣営の最先端の防衛に入ったとき、それが根本的には日本帝国主義の防衛にあったことは、きわめて自明のことであった。まさしく、彼らは、ベトナム革命の勝利がつくりだした革命の前進という新たな事態に対して、そのようにして日本帝国主義の防衛を図ろうとしたのであった。
したがって、日本帝国主義・自民党政府は、韓国のこの新たな支配体制にたいして相も変らぬ支援を送りつづけてきた。否、韓国の朴がこのような支配体制をとらざるをえない深い事情を理解して、以前よりも一層強力な支援を送りつづけてきた。
こうして、ベトナム・イシドシナ革命の勝利とアメリカ帝国主義の敗北は、飛躍的に日本と韓国との結合を深めさせることとなったのである。それは、日本帝国主義の維持と韓国の朴支配体制の維持とがますます密接不可分なものとなってきていることからして、必然的な事態であった。
このことはまた、全く自動的に、日本の革命が自足的にそれ自体では成立しないこと、同じように韓国――朝鮮半島の革命も自足的に成立しないことを教えるものであった。すなわち、両国の支配階級がかたく結合するのと同様に、否それ以上にかたく兄弟的に団結しあって、韓国と日本の労農人民とが、それぞれの革命をまさに一体的な一つの革命として遂行しようとすること――ただ、このようにして闘うことだけが勝利の道を切り拓くということを教えるものであった。日本の労働者階級が、朝鮮半島の南半部から帝国主義と反動派の一切を追放・打倒し、その民族的で社会主義的な統一のために韓国の労農人民と運命を分かちあって闘争しようとすること。この観点からまた米日帝国主義の打倒にむかって進撃すること。韓国の労農人民が自らの解放と統一のために意識的に日本労働者階級の獲得と育成にたち向い、米日帝国主義と闘争しようとすること。日本における金大中事件の発生や朴臨戦体制の成立などは、明らかにこのことを日本労働者階級全体に提起するものであった。
こうして、第八回大会は、わが同盟が真に前衛党へと挑戦するもっとも重大な任務として、まさしくこのような極東を一つの舞台とする権力のための闘争に日本労働者階級を動員し獲得するために闘わねばならないことを、明白に提起したのであった。
同様に、ベトナム・インドシナ革命の勝利は、すでに揺らぎはじめていた戦後の上部構造、いわゆる「五五年体制」の土台に最後の致命的打撃を与えるものであった。なるほど、その影響は、東南アジアや韓国とは異なって、緩慢かつ関接的な表現をとっていた。だが、それは、日本帝国主義が、朝鮮戦争以後の、一五年間、一定の政治的・経済的力の蓄積をもっていたことによるにすぎなかった。
「五五年体制」を象徴するブルジョア議会を基礎とする自民党の安定的な単独支配体制は、佐藤自民党政府で完全に終りであった。多くのブルジョアの新たな期待を受けて誕生した田中自民党政府は、七四年夏の参院選挙で手痛い敗北を喫し、秋の金脈問題で惨めにも失脚しなければならなかった。つづいて、この危機を回避すべく登場した三木自民党政府は、ロッキード疑獄事件において前首相田中を逮捕するという重大な譲歩を労働者大衆に行いつつも、自民党単独支配体制の崩壊のテンポを全く喰いとめることはできなかった。昨年末の衆院選挙の結果は、七四年参院選で出現させたブルジョア議会における「保革伯仲」状況が、ついに衆院にまで波及したことを物語るものであった。
だが、かかる政府危機の進展やロッキード疑獄事件にみられた爆発は、自動的に労働者大衆の闘争の高揚を招くものとはならなかった。危機の深まりが進展すればするほど、労働者階級の指導部の問題が決定的な比重を占めるという歴史の真理の正しさが余すところなく証明されたのも、七五年から七六年の情勢から学ばねばならない重要な点であった。
事実、労働者大衆は、七〇年代に入るや否や、自らの直接的な闘争への希求をますます深めていった、七二年の秋から七三年の初頭にかけて、戦闘的な国鉄労働者たちは、国家・当局の強権的な労務管理体制の構築という攻撃にたいして全面的な反撃を加え、ついに彼らの企図を粉砕した。この闘いは、同時に、原則的にも実際的にも、大衆闘争の指導的担い手が労働者階級のヘゲモニーに移行したことを示すものであった。そして、伝統的な組織された労働者階級の戦闘的回復と高揚をなによりも指し示していたのは、七五年十一月から十二月にかけて展開された八日間にわたるスト権闘争であった。官僚的指導部による制限つきの土俵のなかであったとはいえ、青年労働者と中高年労働者とがかたく団結して闘いぬいていったことは、他の中小・民間や未組織の労働者たちに闘いへの確信と感動をつくりあげていったのであった。
だが、他方、このスト権闘争は、すでにはじまっている危機の時代と総対決の深まりというなかにあって、旧来の組合主義的で改良主義的な政治闘争が、もはや完全に無力となってしまったことを刻印するものであった。それは、たとえそのはじまりようが組合主義的な政治闘争であろうとも、情勢と階級闘争の客観的な論理の発展にしたがって、資本家政府を打倒する全人民的な政治闘争に転化していく以外に勝利の道はありえない、という危機の時代における階級闘争の筋道を明らかにしたのであった。このような点で、萌芽的には七三年の上尾国電暴動が、そして決定的にはこの七五年のスト権闘争こそが、危機の時代における階級闘争の折り返し点、転換点を印したのであった。
したがって、労働者階級にとってこれ以上の絶好な機会はありえないというロッキード疑獄事件が発生したとき、社会党や民同、そして共産党が大衆闘争への動員を全く呼びかけず、意識的に旧来のブルジョア議会主義的な政治闘争と組合主義的な改良闘争の道を保持したことは、彼らにとってごく当然の既定の路線であった。
こうして、危機は深まり、労働者大衆の戦闘性は客観的に増大しつつも、大衆闘争の高揚、爆発として表現されていないという矛盾は、ひとえに革命的な指導部の問題として集約されているのである。
だが、この革命的な指導部の建設という問題が、単に社会党や共産党をのりこえる、戦闘的に闘いぬくという水準ではとても応えられないということもきわめて明らかである。このことは、急進主義的諸党派や革マル派などの新左翼の完全な衰退でよく示されているとおりである。
それでは、この危機の時代に、労働者階級のなかに革命的指導部を建設するという挑戦は、いかなる内容によって可能となるのか?
それは、いうまでもなく、労働者階級と人民大衆の多数を、革命的な権力のための闘争、政府と統一戦線のための闘争に動員し獲得することにほかならない。
労働者階級を、権力獲得のための闘争を展開し勝利を獲得することのできる強力な一つの政治的階級として形成することが、本当に問われている。日々政府問題が提起され、そして大衆闘争の一つ一つが同盟JC、社会党、共産党の右翼的・官僚的統制力との真向うからの対決をとおして以外には 事実を旧関西地方委 ス<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川 ♂フゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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