第四章 労働者の中へ
――加入活動の時代――
1 加入戦術をめぐる論争と分裂
加入戦術をめぐる論争は、日本トロツキズム運動の初期に、組織方針の分野でもっともはげしくたたかわされた論争である。
加入戦術は、一九五〇年代に、山西英一や太田竜によってすでに実行に移されていたが、六全協以後の日本共産党の学生党員を中心とする大量の代々木ばなれした活動家にとって、新しい党建設を志向する立場から第四インターナショナルに判断を下すための重大な問題点としてクローズアップされた。
加入戦術を一貫して熱心に主張したのは、太田竜であった。彼は、パブロの第三回世界大会における立場と路線の熱心な支持者であり、日本の第四インターナショナルを強固なパブロ派として組織しようとしていた。
パブロの加入戦術論は、次のように提起された。
「第三回世界大会=ついで国際執行委員会第十回総会によって決定された戦術(加入戦術)は何よりも時代の深く革命的な性格の評価と国際的力関係の革命に基本的に有利な発展に基づいている」
「帝国主義の戦争へ向っての志向と具体的前進にもかかわらず国際的力関係が革命に基本的に有利に発展する基本的に革命的な時期という条件のもとで、第三回世界大会ついでIEC第十回総会は、各国の現実の大衆運動への可能なかぎりのあらゆる深い浸透と作用という戦術を決定した。」(第四回世界大会への報告――パブロ)
「……この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。この二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争にむかうこの歴史的時期全体を特色づけるものである。」
「決定的戦闘までになお二年か三年――いやもう少し――残されているとしても、われわれが準備するのに十分ではない。それどころかいたるところでわれわれが現実の大衆運動へ参加するためにすみやかに行動し、われわれの勢力を配置し、今から行動にうつらなければならない。これが、第三回世界大会の戦術適用についての討論を長々とひきのばしてはならない理由である。」(第十回国際執行委員会報告――パブロ)
きわめて急速に革命的危機が到来する。われわれはこの危機にどのように間に合うことができるか――これが、パブロが加入戦術を提起した核心の問題設定であった。パブロはユーゴ革命と中国革命を総括するなかから、革命的大衆の圧力は、スターリニスト党をも(革命党不在の場合には)ゆり動かして、権力にむけて押しやるであろうと予測した。今日第四インターナショナルがきわめて微弱である前提のうえに立てば、来るべき数年のうちに開始される決定的戦闘においては、大衆の革命的エネルギーは、スターリニスト党や社会民主主義党の既成の大衆的政党に流れ込むであろう。われわれはそれを外から評論するのではなく、これらの党の内部にいて、大衆のエネルギーを待ちうけ、合流し、これらの党の官僚と大衆のミゾを拡大し、大衆的な革命党建設のダイナミックな出発点をたたかいとらなければならないのである。
来るべき二〜三年というようなパブロの切迫した問題設定は、事実とはならなかった。世界資本主義は世界大戦を回避しながら、経済上昇の長い時代に入っていった。こうしたなかでマンデルは、加入活動を全般的な組織戦術として再度定式化した。
「一、大衆的革命党の創造は広汎な勤労大衆の急進化なくしては不可能である。
二、……この急進化は、その第一局面においては、伝統的大衆党への労働者の流入とこれら諸党の労働者党員の重要な部分の急進化によって表現されるであろう。
三、この急進化の基盤に立って強力な左翼がこれら諸党の内部に結成されるし、それは大衆の目には予備指導部としての真の役割をはたすであろう。この左翼は伝統的指導部とあすの大衆的マルクス主義政党とのあいだにわたされたカケハシとなるだろう。」(IEC二十回総会)
マンデルはこう定式化することによって、加入戦術を、一般的な組織戦術に高めた。パブロの「来るべき対決」の展望はくずれたとはいえ、加入活動の戦術は、第四インターナショナルの基本的組織戦術として六〇年代後半の急進的青年運動の爆発の時期まで受けつかれていくのである。
これにたいしてキャノン派は、加入戦術一般には反対しないが、その基礎にすえられている「スターリニスト党と革命的大衆」の関係のとらえ方が、修正主義的であるとして猛烈に反対した。キャノン派によれば、こうしたとらえ方はトロツキストの原則の放棄、武装解除につながるのである。したかってキャノン派の加入戦術にたいする理解は、あくまでも一時的で部分的なものでなければならず、スターリニスト党の「可能性」に立脚したり、主体性を喪失した「全面加入」であったりしてはならないのである。
ICPの太田竜は、パブロ―マンデルの方針を忠実に実行すべきだという立場に立った。
「第四インターナショナル日本支部は、社会党左派とその周辺、及び共産党の戦闘的労働者・学生の中に見られる革命路線への多分に自然発生的な潮流を意識的に指導し、その中に計画的にボルシェビズムを注入し、この潮流を強化し、意識化することを当面の任務とする。この目的のために支部は独立の組織をあくまで維持しながら、比較的長期に亘って既存の労働者諸党すなわち社会党及び共産党の内部で活動することにその主たる努力を向ける。」(日本革命のテーゼ)
ここでは社・共両党としてのべられているものの、共産党内活動はエピソード的にしか展開されず(「鉄の戦線」の活動)、太田は全力をあげて、社会党加入活動を早くから推進しようとした。
これにたいしてJRは、加入活動には当初から消極的であった。西京司が行った六一年の第二回全国大会政治報告の結語は次のようにのべている。
「いずれにせよ、今日労働運動内部における左への潮流は、なお多分にこれら既成組織(特に社会党)の下部における左翼的動きとしてあらわれつつあること、このことをはっきりと認めねばならぬ。そしてその事実の上に立ってわれわれは労働者大衆との接触を求め、その左翼化をおし進めるに当って一切の戦術的組織的配慮を行うことが必要である。それは加入戦術の採用の可否を考慮する点においても極めて重要である。だが、もちろんこのことは決して安易に加入戦術の採用を正当とするものではない。われわれはこの労働者大衆内部の左翼化の傾向にいかに接触し、われわれの影響を拡大するか、という見地から戦術を考慮する。それはいうまでもなく、わが同盟自身の独立の組織の強化拡大と深く結びつけて考えられるべきであり、結局はそれに従属させられねばならない。」
第二回大会の最終日、九州の代議員は、青年労働者が安保闘争のなかで政治化し、社青同に結集しつつあること、彼自身も社青同加盟をすすめられているが、どうすべきか、という問題を提起した。これと同じ問題は、全国各地方ですでに起っており、JRの地方組織は、社青同・社会党系の組織に接触しつヽあった。加入戦術をめぐる実践的な決断を行なうべき必要が、運動のなかからつき出されていた。しかし大会は、結論をくださず、加入戦術の検討に着手することをきめるとともに、他方青年インター(国際主義共産青年同盟)準備会の発足を決定した。社学同左翼反対派(レフト)は、青年インターに解消、吸収されることになった。
大会後、中央書記局の鎌倉らは山西英一らの示唆をうけて加入戦術の採用を提案した。鎌倉提案は、組織全体を社会党加入活動に移行させようとするものであった。したがってそれは青年インターの解散をもふくんでいた。この提案は、すでに青年インターの組織化のとりくみを開始している関東のメンバーに、強い不満と反発を生み出した。他方、関西は、全体として鎌倉提案に反対であった。関西は、部分加入はあり得るが、全面加入は誤りだとの立場にいた。だが、関西でも青年労働者は社青同に急速に結集しつつあった。青年インターとして活動を開始した若い労働者活動家は、孤立を強制され、分散化していた。彼らは、大原を中心とする関西の青年インター指導部がこうした現場の困難に適切な指導を行ないえず、官僚化しているとして不信と反発を深めていた。青年インターのこの混乱のなかで、関西ビューローは、部分的加入戦術を採用することによって、労働運動の総体的情勢との結合をはかることを提案した。大原は、ビューローのこの方針に反対し、ビューローは鎌倉を中心とする全面加入派と野合したとの批判を展開した。
関東の青年インターメンバーは、当初、関西ビューローと結合して鎌倉提案に対抗しようとしていた。だが中央指導部の岡谷らは、彼らの実践的な困難を理解せず、方針上問題はあるけれども指導部としては鎌倉を信頼するとして、彼らの直訴を斥ぞけた。大原はこうした複雑な組織内情勢を利用して、政治的には十分な必然性が存在しなかったにもかかわらず、関東の反対派と結合することに成功し、「革命的分派」なるものを結成したのである。それは「青年インター派」と呼ばれた。
六一年末の六中委において、「青年インター派」はJRから分裂した。
「彼らの政治的主張と批判は@全国指導体制と能力の弱体さ、A同盟活動の政治的・組織的総括の必要性の主張、B社会民主主義政治組織への加入戦術に対する絶対拒否、C青年インター(レフトをふくむ)の解散に対する反対等であった。
これらの政治的主張ないしは批判はそのままでは同盟の分裂を正当化する何等の理由もない。分裂の決定的点は、同盟中央委員会を、『革命的分派』と同盟の残余の部分との連邦主義的機関に変更せよという要求が、中央委員会多数派によって拒否されたことによる。彼らはその組織的要求を固執して分裂していった。
この連中は分裂以降、身を細らせて細々と『高く独立の旗』をかかげている。」(六四・一一、『政治討論ブレチン』bU、酒井)
六中委は分裂の後、主たる組織戦術を加入戦術とすることを決定した。さらに翌年の第三回大会では、六中委決定を確認、青年インターの解散を決めた。
だが、六中委の後、もう一つの分裂が、関西と神奈川を結んで発生した。その中心は、大原指導部との闘争で先頭に立った京大の篠原である。
「第二は、主要に関西を中心とするものであって『赤い旗手』グループ、『革命的理論建設』派である。彼らの言い分は『結局のところ、我々はトロツキストだと思って活動してきたが一切は全く疑がわしいということに気づいた。自分自身、果して現にマルクス主義者であるか否かわからない。まず、このことを理論的に確かめ、そして世界革命の理論、その展望、戦略、戦術を明らかにすることが第一に必要なことであって、それ以前には一切の実践は行うべきではない』として、書斎派の立場へ『確固として』移行し、一切の大衆的諸闘争への参加を拒むことによって、同盟から分裂していった。このグループは、黒寛に接近しつつ、革共同全国委員会に参加し、今日『前進派』にいるr (同右)
加入戦術の全国的実践に先立つ二つの分裂は、JRの中央機関に深い打撃を加えた。そのなかで、東京の東学大グループによる加入戦術が開始された。中央機関の中心メンバーも加入にふみ切った。二つの分裂と同時におこなわれたこの加入の実践と同じころ、中央書記局の独立活動メンバーは、事実上活動から召還した。こうした連続的な痛手のために中央指導部の機能はマヒし、加入活動の統一的な組織的な展開はおこなわれず、地方の組織の自主的な実践にゆだねられることとなった。
他方ICPも、六〇年に分裂を経験し、さらにその年の末、三多摩の加入グループは太田と袂別して離党した。 」
六〇年のICP分裂の基本的背景は、やはり加入活動にあったといえよう。学民協という形での無理な加入活動の結果、学生運動での基盤を失なってしまった学生カードルが、太田の路線に反乱し、基本的に独立活動にうつることを主張して多数派を形成したのである。かれらは六月には太田を除名して、JRとの合同に踏み切ったが、そののちJRからもとび出して、闘争から召還してしまった。
六〇年末の三多摩グループの離党は、これとは逆に、太田の指導の下では、加入活動そのものがつづけられない、加入活動をより深く推進するためには、太田と一旦絶縁しなければならないという危機感から出たものであった。
旧JRにおいても旧ICPにおいても、加入活動は大きな犠牲を払ってはじめて実践にうつされ、しかも多くの場合、組織的な指導がないなかで始められていったのである。
2 加入のためのたたかい
加入活動は、このように、けっして組織的とはいいがたい、多分に個人的、経験的なやり方ではじめられた。
三多摩では、最初の加入はICPによって五九年におこなわれていたが、その段階では、純然たる個人活動の領域を出なかった。加入メンバーのイニシアの下で、社青同三多摩支部準備会が結成され、機関紙「青年の力」が発刊され、労動組合を対象とする宣伝活動がおこなわれていたが、参加する活動家は社会党の青年党員に限られていて、しかもそのほとんどは、青年というよりは社会党の若手というにすぎず、青年部運動に一定の基盤をもっていたのは国鉄労組八王子支部だけであった。
六〇年安保闘争のさなかに、第二陣が加入して来た。このメンバー達は、東京学芸大学に社青同の班を組織して、十数名の活動家を三多摩支部に提供した。六月四日、六月二二日の国労ストに際して、東学大で百名をこえる学生を支援動員し、社会党、三労に一躍社青同の名を売った。
この時点から、三多摩での加入活動は、急速に前進しはじめた。
社会党にとって、ある組織が有用であるか否かを見きわめる最大のテストは、つねに選挙である。六〇年秋の衆院選で、山花秀雄選対に参加し、行動隊として活躍した東学大グループは、社会党のこのテストに見事に合格した。三多摩での加入のためのたたかいは、この衆議院選挙で基本的に終ったとしてよいだろう。これ以後、三多摩の社青同運動の指導部は、最後まで加入メンバーの手からはなれたことはなかった。
六一年四月、社青同三多摩支部が結成された。
「同盟員数六〇名。うち五分の一は学生で他のほとんどは社会党青年部活動家であった。
われわれは六〇年に社会党、労動組合活動家の信任を得、六一年にその全ての青年部活動家と親密になった。社会党に合体するという視点から言えば、もうやることはなかった。社会党系青年運動というものはまったく存在しなかったr
「だが、いずれにせよわれわれが支部を結成したとき、そこにはまだ運動はなかった。二年前に学民協をはじめたときと同じ矛盾にわれわれは直面した。われわれは青年運動を通じて社会党に食い入ろうとしたのだが、青年運動自身が社会党に存在せず、われわれの手で最初からはじめなければならなかったのである。」(『三多摩社青同闘争史』)
三多摩における加入のためのたたかいは、先行する青年運動の不在、対抗する異なった党内分派の不在にうらづけられた、合体の容易さによって特徴づけられる。唯一の行動力ある部分であった加入メンバーの手に、社青同の指導権はすぐに帰した。そこで、すべての問題は、この指導権をどこにむけて発揮するのか、どのような青年運動をつくり出していくのかにあった。
東北地方では、これとはまったく事情がことなっていた。宮城における加入のためのたたかいは、きわめて大きな障害にぶつかった。ここでは、加入を達成するために、独自の運動をつくり上げ、その運動の力を動員しなければならなかったし、加入のためのたたかい自体が、数年にわたる分派闘争となったのである。
当時社会党宮城には、旧左派社会党の青年活動家グループが地区労働運動に影響力をもっていた。労働運動への介入をはじめようとしたJRメンバーは、この旧左社グループと接触し、ここから、五九年四月の統一地方選挙を通じて地区労働運動への足がかりをつかんだ。
彼らは五九年夏、民間労連の書記のポストを得た。仙台の主要な民間中小労組を結集した民間労連の中で、彼らはその戦闘化と産別組織への再編を押し進めた。五九年の年末闘争の中で、いくつかの組合は結成以来はじめてのストライキ闘争を行い、全国金属加盟をきめた。また、同じ年の十一・二七安保闘争に参加した民間労連の部隊は、JRメンバーの指導のもとに果敢なデモを展開し逮捕者を出すなど、その戦闘化は急速に進んだ。
六一年民間労連は、全金宮城地本、仙台印刷労組、宮城化学労協の三つの産別組織に再編され、六五年に仙台印刷労組は宮城合同労組と統一する。JRメンバーは、その各労組にひきつづき書記、あるいは専従役員として活動を継続していった。
加入活動の宮城での第一段階は、このように、かならずしも社会党への加入活動ではなく、労働組合活動への介入を目的としながら、そのために社会党の活動家グループと接触をもっていくという形ですすめられた。したがって、社会党加入活動自体にたいして、どのような方針をとるべきかという点では、JRとしての基本的な一致が確立されていたわけではなかった。
六〇年に、社青同宮城地本準備会がつくられたとき、JRメンバーは、旧左社青年グループとともにここに参加した。だが、一年後、実際の宮城地本結成が、構造改革派のイニシアティブのもとですすめられるようになったとき、そこに参加すべきかどうかをめぐって、JR内に対立がおこった。全金に参加していた部分は、構革派主導下の社青同運動への合流を主張し、JRを脱党していった。他のメンバーは、この路線に反対して、社青同運動からはわかれて、独自の労働組合を拠点とする活動をつづけていった。
JR中央委において、加入活動を支持する多数派と反対する少数派の間で分裂がおこなわれたのち、六一年暮、レフト(社学同左翼反対派)東北大班は、社青同加入を決定し、四〜五人のメンバーが、社青同東北大班に加盟した。東北大の社青同には、当時解放派の活動家が、同じく四〜五名所属していたが、かれらは大衆運動に足をもたず、レフトが民青に対抗する大衆運動の指導権をもっていた。
六二年四月、憲法公聴会が仙台でひらかれた。レフトの社青同グループは、まだ社青同に加入していないメンバーとともに、新入生を結集し、阻止闘争のヘゲモニーを完全にとった。当然のなり行きとして、この闘争は、構革派の地本指導部と、東北大班の解放派を脅やかした。
当時社青同全国学生班協議会の指導部であり、中執メンバーであった、解放派の創設者佐々木は、中執内部では構革派と対立していたが、東北大班におけるレフトの抬頭に危機感をもち、地本執行部と結托して、レフトのメンバーの排除の陰謀をめぐらした。
五月、闘争において中央の指揮、統制にしたがわなかったという理由で、一名が除名通告をうけた。この処分は、抗議をうけて一たん撤回されたが、その後、今度は教養部班解散という、いっそうきびしい処分が、強行された。このときの理由は、直接に「加入活動とみなす」というものであった。反対派を組織処分によって排除するという方法は、やがて解放派自身が社青同から追放される際にうけたのであったが、その先鞭をつけたのは、かれら自身であったという歴史的事実は、記憶されてよい。
これ以後約二年間にわたり、宮城のJRは処分反対をかかげ、非合法の社青同を名のりつづけ、加入のためのたたかいをおこなっていった。
地本から追放された東北大の社青同は、社青同東北大学生班と自称し、公聴会阻止闘争以後、ソ連核実験をめぐる論争、青葉山移転阻止闘争、学園民主化闘争をたたかいぬき、大学法闘争の先頭に立つなかで、急速に大衆的な基盤を獲得し、六三年には、九〇名以上に成長した。自治会においても、六二年には川内東分校六三年には文学部、六四年には経済学部の執行部をにぎった。
この間、公認の社青同東北大班、(解放派)は、なんら大衆闘争に登場できず、弱小なセクトの位置にとどまりつづけた。
他方、労働戦線ではこの学生班の闘いを地区に動員しつつ、構革派に対抗するために、国労、全逓、市職等社青同のメンバーを左派として社会主義協会に組織する活動が進められた。
六四年、社青同第四回全国大会は、構革系指導部にたいする、協会派を中心とする左派の反乱が勝利した。いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が、修正案として提出され、採択されたのである。これは、江田ビジョンのもとで展開されて来た社会党構造改革派の運動が、次第にその右翼的本質を明らかにして、反共右寄り統一戦線づくりであることが暴露されるなかで、社青同運動のなかに反撥をつくり出して来たあらわれであった。第四回大会は、全国の構革派系地本に大きなショックを与えた。
宮城地本も例外ではなかった。二年間にわたる「加入のためのたたかい」を進めてきたJRに、攻勢のチャンスが訪れた。
六四年はじめ、開店休業となっていた仙台支部が、左派の手で再建され、七月支部大会で、学生班から専従書記長を送り出して、指導権が掌握された。つづいて、この年の秋に地本再建大会が左派のヘゲモニーでひらかれた。学生班からは、専従組織部長が送り込まれた。この過程で、六二年の処分は、事実上撤回され、「加入のためのたたかい」は完全に勝利した。
宮城の加入活動の特質は、重要な政治闘争に打ち勝つことではじめて加入を達成し得たという点に、まずある。加入活動の通常の理解では、加入すなわち同化の第一段階では、われわれは独自の政治性を表わすことは極力さし控えるべきであり、加入の過程が完全に終り、社会党の党機構のなかに一つの歯車としてわれわれがくみこまれたのちに、注意深く情勢を待ち、機会をつかんで徐々に政治的な独自性を主張し始めるべきであるとされていた。事実、他の全ての地区での加入活動は、程度の差や時間の長短はあっても、基本的にはそのような第一段階を必ず経ていたのである。
だが、宮城のJRは、加入のためのたたかいそのものが、明白な分派闘争であり、加入が完了したときには、社青同宮城全体において、すでにヘゲモニーをゆるぎなく確立していた。この経験は、加入活動の教科書には、想定されていない経験である。
宮城のJRの加入の前に立ちふさがった勢力は、右派構革派だけでなく、当時全国社青同の最左派分派となっていた解放派でもあった。この「反四トロ左右連合」は、機関の力に依拠していたが、大衆運動を組織する能力をもっていなかった。JRは、学生の大衆運動を先行させ、その大衆的戦闘力の魅力をもって、労働運動への工作を並行して進めた。解放派は学生運動で終始劣勢に立ち、防戦を強いられたために、労働運動工作でもほとんどなに一つできなかった。JRの組織した二つの戦線が合流したとき、勝負がついたのである。大衆運動の魅力には、なにものも勝てない。
独自の大衆運動を組織することによって、既成の社青同運動を内側から変革する方向で加入活動を成功させたという点では、三多摩と宮城の二つの事例は共適している。だが、三多摩の場合、この変革の過程は、上から、丸がかえ的にすすめられた。宮城の、下からの分派闘争を経てたたかいとられた過程と比較するとき、活動家の結集の質の政治的水準において、大きな差が存在していることは否めない。この差は、六〇年代後半の情勢転換に対応する、加入活動から独立活動へむかう転進の際に、大きなハンディキャップとして三多摩にあらわれたとみなければならない。この転進において、宮城のJRは加入活動の基本的成果を失なうことなく新しい段階に飛躍できた。だが三多摩のJRは、ばくぜんとした地区的な影響力という点ではたしかに大きな財産を残したけれども、新しい段階をになう具体的なカードルという点では、きわめてわずかな収獲しかかちとり得なかったのである。このことの原因は、三多摩を中心に展開したJR指導部の混乱に帰すべきではあるが、さらに遠くさかのぼって、三多摩での加入のためのたたかいと宮城のそれとの質的なちがいもまた、無視し得ない背景の一つをなしていたことを、認めなければならない。
他の地区での加入のためのたたかいは、この二つの地区よりも時間的にも、また量的にもおくれていた。
山形、福島、秋田を中心とする東北の各県は、六二年〜六三年にかけて加入が進んだが、これらの地区では、さして問題になるような障害に出合うことなく、六五年頃までに、地本における一定のヘゲモニーを獲得することに成功した。
東京では、三多摩地区以外には、太田竜を中心とするICPのメンバーが、東京南部の社会党、社青同に加入し、JRのメンバーは、三多摩や、その他の地区で、主として労働組合の書記として加入していった。
太田竜は、社会党の品川に加入したが、ここでかれは反右派闘争の先頭に立ち、品川を曾我派の拠占にするために大いに役立った。だが、品川における左派のヘゲモニーが確立されたのち、曾我は右派の攻撃材料を後にのこすことを恐れ、この天下にかくれないトロツキストを、さっさと除名してしまった。
東京JRの加入部分の中心的指導者は、社会主義協会のなかで活動していたが、かれはあまりにも深く加入しすぎて、その思想もふくめて社会主義協会派になってしまい、トロツキストであることをやめてしまった。かれがその後の社会主義協会の発展のなかで、どのような非凡な役割を果したかについては、ここではふれない方が礼儀であろう。
この二つの実例は、東京都内における加入のためのたたかいが、基本的には失敗したことを示している。このため、東京の社青同運動には、協会派、解放派、そしてわがJRによる三派鼎立の条件が出来上ってしまった。これは、六〇年代後半の、東京を中心とするはげしい分派闘争の構造をつくっていったのである。
関西での加入活動は六一年から部分的に開始されたが、機関として開始されたのは六三年であり、六三年から六四年にかけて大阪の学生、高校を中心に加入が進んだ。
だが、関西の創成期から六〇年前後までJRをになった第一期のカードルは、加入活動に消極的であった。このため、加入の実際的指導は若いメンバーにゆだねられた。関西では、六〇年前後にすでに一定の労働者拠点を、JRはつくり出していたのだが、この拠点と加入活動は結びつくことができなかった。この事情は、若いメンバーによる加入が基本的に完了し、社青同大阪池本を中心とした浸透が開始されたあとでも、一つの無視しえないシコリとして尾を引いていった。
それにもかかわらず関西の加入活動は、きわめて有能なカードルによってになわれて急速に前進し、社青同大阪地本のイニシァチブは六〇年代後半にはJRの手に帰した。このもとで六七年以降の反戦青年委員会運動のヘゲモニーもまた、JRによって掌握されることになっていくが、旧指導部と加入メンバーのシコリが、完全に解決されていなかったことが、六六年のビューロー指導メンバーの交代以降大きな問題になっていくことになる。だがその点は、次章にまわすことにしよう。
加入のためのたたかいは、全国的にみるとき、六四年にほぼ完了したといえる。この時点で、組織建設をめぐるICPとJRの間の対立は、理論的にも実践的にも解消したのである。両者はともに社会党、社青同の加入活動に立脚しており、情報交換や方針上の一致が要求されていた。
統一のための条件と、なによりもその必要が生み出されていたのである。
3 同盟の統一
太田竜とわかれ、ICPから離脱した部分によっておこなわれてきた三多摩の加入活動は、三多摩社青同を拠点にして、急速に発展した。六一年からはじまった統一労組運動は中小企業の青年労働者の戦闘的活動家を大量に社青同に流入させ、その生々とした運動は官公労や民間労組に波及し、文化運動、婦人運動にも広がり、さらに六二年以降JRの東学大グループが社青同加入を決めたことによって、学生運動でも大きな前進がかちとられた。その勢いは、誕生後三年にして民青を大きく引きはなすところまで到達し、六四年の四月、青学共闘主催の春闘決起集会では、民青の動員力一五〇名にたいし、社青同は七〇〇名を上まわったのである。
三多摩社青同のこうした発展のなかで、専従者が次々と配置され、社会党、地区労の書記は、ほとんどICP、JRメンバーによって占められることになり、その数は五〇名近くにのぼった。こうした活動家の増大と、それを基盤とする全国政治闘争への登場は、社青同運動を指導する党の必要性を増大させた。六三年半ば、極秘裡につくられていた三多摩社青同トロツキスト・フラクションは、ICP、太田竜のもとに復帰することを決定し、ただちにそれを実行した。突然の復帰の申し出を受けた太田竜が、きわめて複雑な感慨を抱いたであろうことは、想像に難くない。
こうして、三多摩のICPの組織化が、三多摩社青同の活動家を対象としてすすんだ。このICP組織は、厳格な非合法中央集権であった。それは加入活動は二重の秘密活動であるという理由にもとづいていた。
一方、在京の指導的メンバーが、加入活動のなかで社会主義協会派に移ってしまったこと、そして独立活動メンバーの招還という二つの理由によってJRの関東指導部、中央指導機能は、きわめて弱体化した。こうしたなかで東北、関西から、数名のメンバーが六三年〜六四年に在京、ことに三多摩に派遣され、加入活動強化の努力がつづけられた。
東北、関西からのメンバー派遣は、三多摩のICPからの要請を受けておこなわれた場合もあった。急速に力を拡大しつつあった三多摩の加入活動は、社会党、社青同の地区機関や労働組合の専従者に配置するトロツキスト・カードルを大量に必要としたが、ICPのメンバーだけではこの需要に応じられなかったのである。
JRメンバーの三多摩への配置がすすむことによって、ICPとJRの実践的な協働がきずかれ、過去の経緯にもとづくよそよそしい関係を克服することが要求されて来た。とりわけ、このことは、JRの側にはつよく意識されていった。三多摩社青同を中心とするICPの加入活動の急速な発展は、エピソード的な成功の様相をこえて、社会党、社青同における一つの重要な拠点として機能しはじめたのである。
六三年七月に書かれた関東書記局通達(bS)は、JRの側のこのような問題意識を正直に伝えている。
「……多摩において、ICPの部分に対する我が方の介入は飛躍的に進みつつある。しかしこれは理論的なあるいは将来の見通しに関するものであって、指導部内部に限定されたものである。この地域における我々のメンバーが、各自、その直面している具体的闘争の先頭に立って果敢に活動し、ここにおける社青同運動の発展に対し全く具体的な寄与をなすなら、我々とICPの部分との合同統一の問題は全く近い将来の時間の問題となるであろう。
理論的には全く反バクの余地なく、彼らは我々の見解にひきつけられつつあるが、我々のメンバーの戦闘性の欠除、実践活動におけるサボタージュとそれと対照的なICPに対する評論家的な批判的態度は、実践活動のなかで彼らを我々に決定的に引きつけることを妨げている。」
「具体的な闘争の先頭に立つことをぬきにした、他党派に対する理論的優越などというものはどっちみち長続きするものではない。運動の尻尾からついていって、理論的批判的言辞によってのみ、党派的独自性、運動における地位を獲得しようとするのは、革命家として、革命的政治組織として、全く恥ずべきことである。
関東書記局は、全メンバーに対し、各自の活動場所における当面の具体的任務を、SKにおける討論と客観的資料から、絞り出し、全メンバーに具体的特殊的任務を課し、その任務がどのように果されたかをねばり強く点検しつづけるであろう。」
JRの中央指導部再建の努力は、二つの分裂を経た後に、六三年から開始された。六三年第四回大会、六四年第五回大会によって、中央委員会、中央書記局体制が再編、確立された。ICPからの統一の申込みは、六三年に太田竜によってなされた。第四回大会は、この申し込みを受けて、統一にむけた努力を開始することを書記局に義務づけた。
両組織の統一へのとりくみが開始された背景には、六三年、第四インターナショナルの国際書記局派(IS)と国際委員会派(IC)の統一があった。従来、JRはキャノンに代表されるICを支持し、ICPはパブロに代表されるISを支持していた。もっともこの支持の色合いは、それほど厳密なものではなく、JRのICにたいする態度は、批判的な支持といったものであり、またICPのISとの関係は、IS内のポサダス派(ラテン・アメリカビューロー)に近いものである。
第四インターナショナルの六三年における統一は、どちらの側にも新しい分裂をつくり出した。IC内では、ランベール派(フランス)、ヒーリー派(イギリス)の二つのセクト主義潮流の分離を生み出し、IS内ではポサダス派(植民地革命派)につづいて、新パブロ派(平和共存、労働者管理、植民地武装解放闘争)が分裂したのである。
だが、いずれにせよ、第四インターナショナルの基本的中心は、ICとISの合体した統一書記局(US)にうけつがれた。JRは、このUSへの合流を志向し、その立場から、ICPとの統一についても努力することになった。
ICP、というよりも太田の統一についての立場は、奇妙なものである。
統一にたいする太田の熱意は、二つの動機あるいは背景にもとづくようである。一つはいうまでもなく、国際的な統一の動きである。しかし、それに劣らず大きな比重をしめていたのは、国内的な要因、強力な全国組織を手に入れることへの要求であったのだろう。三多摩社青同の成功は、既存の社会党、社青同の全国組織から注目される水準に到達し、それをになっているICPのカードルの太田にたいする忠誠と献身は、異例なものであった。すでにのべたように、JRは東京が弱体であり、東京の一角をしめる三多摩での実力に依拠できる太田は、統一組織の全国ヘゲモニーを確立できるとふんだのであろう。太田の立 チた<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川 ♂フゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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