第三章 最初の試練
――安保闘争と左翼中間主義とのたたかい――
1 学生活動家の結集とブントとの対立
ブント結成を転機に日本トロツキズム運動の局面は転換する。五九年から六〇年にかけて、トロツキズムは左翼中間主義と争い、小ブル急進主義と対立することとなる。
大川が反スタ統一戦線をめざしてブント結成の流れに便乗しようとして破産し、遠山がトロツキスト同志会へ移り、山村はその任務の重さに耐え得ることなく活動から召還し、黒田はついに政治局辞任の申し出を西に行った。こうして、JRの東京の体制は崩れた。
勤評で敗北し日教組が後退するという情勢を迎えて学生運動も沈滞に回おうとしていた。このとき、岸政府は安保改訂への布石として警察権力の強化のために警職法改正を企図し、情勢は一挙に大衆と岸政府との対決の局面へ転換した。
JR関西の指導部は緊迫した情勢のなかで東京の体制の再建に着手しなければならなくなった。
十一月、関西ビューローは「世界革命」の休刊状況を座視できず機関紙「プロレタリアート」を創刊し、警職法闘争の情勢に応えていった。
ほぼこの頃までに、JRの全国体制が形成された。その過程を整理してみると、ほぼーつの時期に別けられる。JRの学生メンバー確保の第一段階は五八年の四月であった。この段階では京都の指導的メンバーの限定された部分が加盟した。星宮、寺岡らがこのとき加盟した。京都、大阪では徐々にメンバーの獲得が進行し、夏から秋にかけて、京大、同志社、立命館、京学大、大阪市立大、大阪外大、大阪学大などにメンバーが組織されていった。このなかには、酒井、永井らが含まれていた。
メンバー獲得の第二段階はブント結成に対応して五八年の十月から十一月にかけてすすめられた。関西における最後の刈り取りがなされ、東京、東北、四国、九州の学生運動の指導メンバーがJRに獲得された。東京では塩川、鬼塚、土屋らをはじめ、東大、一橋大、東工大、東学大、明治大、法政大、東京女子大、埼玉大などにJRメンバーが誕生した。
東北においては東北大の今野、藤原らをはじめ、福島大にもJRメンバーか組織された。
その他金沢大、九大、熊本大、鹿児島大、高知大、広島大等にもJRメンバーか生れた。かくて、五八年十二月のブント結成時においてはJRは全国政治組織として体裁を作りあげていたのである。この当時のピークにおいてJRメンバーは三百名から四百名の間はいたといえよう。
反スタ統一戦線のための活動が破産した大川は書記局を関西へ移転してほしいと提案してきた。大川の申し入れによって五八年十二月、拡大政治局会議が開かれ、書記局の関西への移転を決定した。
JRが学生運動の主流にある関西において、組織の建設と中央書記局機能の回復が開始した。
五九年二月「世界革命」は五ヵ月ぶりに復刊した。四月には機関誌「第四インタナンョナル」が活版で創刊された。五月には西が起草した綱領草案が発表され、八月の第一回全国大会に向って組織活動が始動したのである。
ブント結成の直後、全学連第十三回臨時大会が開かれ、塩川委員長、土屋書記長によるJR系の指導部が成立した。このことをみても、発足当時のブントが連合体であったことがよくわかるであろう。
しかし、あいまいな連合体がそのままでつづくことはできない。第四インターナショナルとトロツキズムに対して、ブント内からの攻撃が開始された。
ブントにおいてJR批判の先頭に立ったのが青木(=姫岡)や清水ら元の駒場グループであった。島をはじめとして、生田、富岡らブント指導部はJRに対して妥協的であり、かれらは対立を深化させることによってブントが分裂してしまうのを回避しようとしたがために、JR批判のイニシアチブをとることを日和見たのである。したがって、ブント内でのJR批判のイニシアチブは青木をはじめ、後の中核派指導部を構成するメンバーが握っていき、結局、青木、清水らはJR批判のイニシアチブをとることを通じて、ブント内でのヘゲモニーを形成していったのである。
ここで、黒田理論が大活躍する。青木らのトロツキズムと第四インターナショナルに対する攻撃の論理は、ほとんどすべて黒田からの借物にすぎない。当時、かれらはトロツキーを理論的に批判することはできなかった。そこで、黒田の口マネをして、ほとんど黒田理論を口移しして、わが同盟に攻撃をかけてきたのである。ブントが創刊した機関誌「共産主義」第一号において青木は「革命的インターナショナリズムとは何か?――第四インターナショナル批判」と題する論文を発表し、公然たるJR批判を開始したのである。(このタイトルも黒田の「革命的マルクス主義とは何か?」と似ていることに注目しよう。)青木論文の論点は先に黒田のところで述べた内容とほとんど同じである。青木はまずスターリニズムによる革命の裏切りを指摘したのち、スターリニズムのコミンターンにかわる新しいインターナショナルの必要性を指摘しその新しいインターナショナルとして第四インターナショナルをどう評価すべきか、と問題を設定する。そこから青木はトロツキーを客観主義、組織論の誤りなどの観点からトロツキー批判に入り、そして戦略問題として、「労働者国家無条件擁護」というトロツキズムと第四インターナショナルの原則を非難し、黒田と同じ「反帝反スタ」戦略を打ち出すのである。
「われわれの原則はブルジョアジーとスターリン主義官僚の『同時的打倒』という戦略の上にたてられるであるう『世界革命』の利益に優先する『ソヴェトの無条件擁護』の原則は、拒否されねばならないであろう。」(「共産主義」第一号 姫岡論文)
青木によればわれわれは「労働者国家護擁」を世界革命の利益に優先させているらしい。しかし、歴史上、労働者国家を防衛しないで世界革命の利益を防衛できるという経験をわれわれは知らない。トロツキーは労働者国家の擁護は決して「スターリニスト官僚擁護」にはならないことを口を酢っぱくしていっているではないか。われわれは世界革命の利益のために労働者国家を防衛するのである。
かくて青木は自分は反スタ主義者であることを宣言する。そして次のように断定する。
「結局、われわれは、国際労働運動の真の前衛として『第四インターナショナルをとるべきか』との問に対して、「否」と答えざるをえない。新しいインターナショナルは、おそらくはスターリン主義の告発者たるにとどまったトロツキズムを超克したところに形成されるべきであろう。」(前出)
超克の好きな青木はその後はマルクス主義も超克して、ついに帝国主義ブルジョアジーの無条件擁護派に転身し、革命のバリケードの向う側へ走り去った。
青木の第四インターナショナル批判は黒田のそれを一ミリも越えた内容はもっていないので、ここで改めてとりあげなくてよいであろう。黒田―青木によってなされたトロツキズム批判をその後何回となくステロタイブ的にくりかえされるのをわれわれは聞くことになる。そして、七〇年代の中核、革マル、ブント諸派によるわが同盟への批判も、黒田―青木の内容の口マネであり、むしろ水準は低下しているというべきであろう。
黒田の反トロツキズム理論はこうして利用された。黒田は“反スタ統一戦線”形成のためにかれの理論を準備したのであるから、青木による黒田理論の借用は大いに黒田の意図に応えたことといえよう。しかし、青木もブントも理論だけは借用するが、決して黒田を認めはしないのである。
ブント内部でのJR批判は五九年に入って、対立から排除の路線に進んでいった。わが同盟の側の反撃は弱かった。もともと、革共同メンバーでブントに参加したのは、“いやいや”の意識があり、JRフラクによってブントのヘゲモニーを奪うという組織方針は星宮の頭のなかには存在していたかも知れないが、JRメンバーの共通した方針ではなかった。その意味で、JR派はブントに対して受身の意識であり、ほんとうの前衛はブントではなくてJRであると考えていたのであるから、ブントでの論争を不退転の決意で展開することはできなかったのである。
三月、ブントの全国細胞代表者会議はJR系メンバーをブントから排除することを決議し、これは、六月のブント第二回大会で実行される。三月決議を契機として、JR派は事実上分離し、各地方学連においてもJR派とブント派が分裂していく。東京都学連、京都府学連、九州学連においてそれはもっとも激しくなされるのである。このとき、東北学連にはほとんどブント派が存在せず、ほぼ全一的にJR系にまとまっていた。
六月、ブント二回大会はJR系を排除して開かれ、形式上もブントとJRの分裂は成立した。大会直後、全学連第十四回大会が開かれる。JR系の塩川―土屋体制は十四回大会にむけて、学生運動の転換路線を集大成していくが、非和解的なところまで発展したJR派とブント派の対立によって、少数派のJRの全学連体制はブントの攻撃によって危機におかれていた。ブント派はJR派の用意した大会議案を認めもせず、対案も提出せず、中執会議はその機能を停止して大会に突入していった。結局、議案はJR派提出議案をブントも承認しなければならなくなったが、人事においては唐牛委員長、清水書記長のブント派の体制が成立し、JR派は中執において少数派となった。
全学連指導部を掌握したブントは八月に第三回大会を開き、安保闘争を前面にかかげて闘うことを決定する。全学連のブントによる支配は転換路線の清算と、小ブル急進主義への逆もどりを必然的につくりだしていくのである。
2 ICPの結成ど学民協の活動
五八年十二月、太田はトロツキスト同志会がいくらか拡大し、かつ日比谷高校グループがみな大学へ入って活動家となった状況のうえに太田グループの総力をまとめて、国際主義共産党を結成したのである。国際主義共産党(ICP)の結成はブント結成と時を同じくしていた。しかし、ICPはほとんどまったくといっていいほどブント結成には無関心で、この流れから召還していたのである。太田はブントなどはアブクの様なものであるといっていた。
ICPの社会党加入メンバーは五九年四月の統一地方選挙に各地区で取組んだ。しかしこれをやってみても社会党の活動に展望はなかった。この当時の社会党は議員と労働組合官僚の組織であって活動家は各地区に存在してはいなかった。自分たちがその活動家になって社会党の地区活動を創出しようとしてもその手がかりをつかむことも不可能であった。地区における加入活動は太田の展望を裏づけるような成果もなく、またその展望に向う突破口すらも見い出すことができなかったのである。
社会党の地区へ向おうとしたICPメンバーは再びその活動の活路を学生運動に求めようとしだした。否、正確にはそこへ追い込まれたといえよう。太田はこの気運を察知し、学生運動によって加入活動をすすめる、という方針を提起した。それは社会党の学生運動をつくり出すことであった。
太田竜は社会党の学生運動をプロレタリア的な学生運動として規定した。そしてその内容を体系化したのである。プロレタリア的学生運動はまず学生層を小ブル的知識層として規定せず、プロレタリア予備軍として規定しこのプロレタリア予備軍の要求を闘いとることがプロレタリア的学生運動であるのである。したがって闘争の課題は情勢に対応した政治闘争よりは、奨学金のための闘争、授業料の廃止、カリキュラムの自主決定、大学卒業生の完全就職の要求など、プロレタリア予備軍の経済要求が中心課題となるべきであるとされた。
太田のこの学生運動論は決して情勢と無縁な形で提起されたわけではない。五八年から五九年初頭にかけて学生運動はもうひとつの転機を迎えていた。すなわち、勤評、警職法の後、五九年後半からの安保闘争にむかうまでの間、学生運動は“空白”をむかえた。先駆性論にしても、労働者階級の同盟軍規定にしても運動の再構築が要求されていたのである。したがって、太田の学生運動論は当時において新しい問題の提起を伴っていた。地区に向っていたICPのメンバーは学園を単位に再結集し、社会党青対部に社会党の学生運動を創出することを申し入れた。
学生運動は戦後において共産党の独占的領域であり、社会党はついぞ学生運動に自己の支持勢力を見出すことはなかった。したがってICPの申し出を社会党青対部は歓迎し、ICPのメンバーに当時全寮連で活動していた佐々木慶明を紹介した。佐々木は理論的に山川均を信奉しており、その関係からほとんど当時の学生では唯一人ともいうべき社会党員であった。
佐々木は学生運動に春闘方式をひきうつす理論を展開したが、これは太田の学生運動論に一脈通ずるものであった。ICPのメンバーは佐々木の理論と太田の理論を重ね合せられることを喜んで、学生運動民主化協議会を結成した。結成には佐々木とICPに加えて浅沼稲次郎以来の伝統をもつ早大の建設者同盟が参加した。五九年五月に結成した学民協はまず六月の全学連第十四回大会に対案を提出した。対案は東大駒場の代議員である小島が提案説明をした。十四回大会は“議案はJR、人事はブント”といわれ、塩川、土屋、鬼塚らのJRの体制から、唐牛、清水、青木らのブントの体制に転換した大会であったが、この転機をなした大会への学民協の対案はユニークな理論として注目はされた。しかしもちろんのこととして、圧倒的少数で否決された。
ICPの加入活動は学民協運動は集中することとなった。その運動論を具体化するために、学生のなかでの活動も、下層の学生、労働者的学生を対象にしぼって、教育系学生、夜間学生、看護学生などの運動を追求しようとしたのである。この活動を通じて、ICPはメンバーの一定の拡大を果した。
五九年七月、あるブルジョア新聞が学生運動の内幕を紹介する記事を掲載し、その中でICPが社会党に加入している事実を指摘した。太田はICP第四回総会を招集し、この記事は加入活動に危機をもたらすかも知れない、防衛の処置としてICPを解党するという提案を提起し、総会はこれを承認した。ICPは形式上解消し、代って第四インターナショナル日本委員会が存在することになった。太田の考えは社民からICPメンバーが追及されたとき、ICPが形式上存在していなければ“二重党籍”で統制処分に問われることはないという立場で、ICPを解党しようとしたのであった。
社会党からのいくつかの“いやがらせ”はあったが加入メンバーは排除されることもなく社会党内にとどまることができた。しかし八月に入ると早くも学民協内部に対立が発生した。早大の建設者同盟や東大の高木郁朗らは学民協から離れた。このことは、ICPメンバーが社会党に結びつくための手がかりが失われて、ICPが社会党内で独立化してしまうことを意味していた。学民協は社会党の学生運動を展開することを通じて加入活動を推進しようと意図されたが、はじめから、ICPの活動として、学生運動のなかではICPの活動としてしか見なされなかったのである。このときの加入活動は自分たちだけが懸命になって社会党と名乗りながら、周囲のすべてはあれはICPであると好奇の目で見られた活動にすぎなかった。すなわち、社民の仮面をかぶったICPの独立活動であった。大衆運動が不在の日本の社会党においては、加入活動はどうしてもこのような出発を宿命づけられるといってよいであろう。問題はそれをどう突破して加入活動によって大衆運動を創出するかにかかってくるのである。このことは五八年から六〇年にかけてのICPの加入活動では実現しなかった。この課題はずっと後の三多摩と宮城の加入活動によって果されるのである。
3 黒田、大川の除名と分裂
西が起草した綱領草案を中心にして、JRは八月の第一回全国大会の準備に入っていった。
ここで、JRは再び小ブル反スタ主義者の黒田との党内論争をむかえる。もともとが、五八年七月の太田派分裂が不思議な性格をもっていた。トロツキズムと第四インターナショナルの諸原則について、西と太田は黒田よりはるかに一致していたのである。黒田と西の距離の方が太田と西のそれよりもはるかに遠いものであったにもかかわらず、太田の分裂主義的性格は、反スタ主義者・黒田との党内闘争をほとんど展開しないまま分裂を生みだすことによって、革共同はいずれは“黒田理論”と対決しなければならなかったのである。
論争のテーマはほとんど全面的であったが、結局、反帝反スタ戦略をめぐる問題と、三池闘争のために提起された「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンをめぐる問題にしぼられた。しかも、論争は実質的には反帝反スタ論争は以前からのむし返しにすぎず、新たな黒田の本質を示すこととしては「炭鉱無償国有化・労働者管理」の問題となった。
黒田は同盟の提出したスローガンは社民的であるといって次のように批判した。
「労働者兄弟諸君! 生産再開、強行就労に対する労働者的反撃の道は、決して単なるピケットであってはならない。バリケードの内側に諸君の陣地を移し、背水の陣を敷いての闘争を組織しなければならない。すわり込みスト―鉱山占拠へ! これが三池の闘争を強化しうる唯一の道だ。『無償国有化・労働者管理』などという社民化したトロツキスト(革共同関西派)の非現実的な遊戯は、国家に対する幻想を拡大するだけである。」(『逆流に抗して』 全国委員会 一二一頁)
このJRへの批判と、かれらの方針はブントのそれと同じであった。ブントはただ徹底的に闇えとわめくだけであった。黒田やブントに共適していることは、前衛党の政治方針としてスローガンをたて、現実の大衆闘争から出発していかに闘争を権力にむかって前進させるのかという過渡的方針を提起することへの拒否であった。かれらはただ、戦術的に断固闘えということによって、大衆に迎合することと最後通謀を発することしかないのである。「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンは、日本のトロツキズム運動がはじめて過渡的綱領を現実の日本の階級闘争に適応したスローガンであった。同じスローガンを掲げたICPとJRはこのスローガンを三池労組や炭労や総評に宣伝したが、それは受け入れられなかった。しかし、このスローガンを掲げてのJRとICPの精力的な宣伝活動は、日本のトロツキズム運動がスターリニスト党や社民党では決して提起しえない方針を掲げて、労働者階級のなかに持込もうとしたことによって画期的な意義を有していたということができる。
黒田はこの段階に来るともはやトロツキズムと第四インターナショナルとどのようなつながりの必然性ももち合せてはいなかった。かれが同盟を脱退しないのは、ただ、黒田が反スタ統一戦線として期待したブントがいっこうに黒田をむかい入れてくれず、ただ黒田の理論だけを利用している状況が続いていたからにすぎない。
黒田―大川のスパイ問題は事実上分裂していた黒田派が形式上の組織分裂を行う契機となった。
先に述べたように大川は埼玉の民青、共産党組織の情報をかなり収集できる立場にいた。大川はこのスターリニスト組織に関する情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、このことを黒田に相談し、黒田はそれを支持した。
大川と黒田は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答した。かれらはしばらく待った。しかし、“世界に冠たるマルクス主義者”であるわが黒田氏の欠点は「小心」であることである。また、海千山千の大川も正面から堂々とスパイを働きたいから来てくれというのは、きっとはじめてであったろう。かれらは次第につのってくる恐怖心を抑えることができなくなった。「おい、逃げよう!」といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散に新宿の町をかけ出した。これが事件のてん末である。
当初、この事件の当事者たちは事を内密にしておこうとした。しかし、小心な黒田は大川が先にこのことを暴露してしまったら自分の立場がなくなると考えたのであろう、何人かの側近に「大川はスパイである、このことは他言するな」と打ちあげたのである。この話は未だ書記局にいた遠山の耳に届き、遠山はこの話を聞いて直後にトロツキスト同志会に移っていったのである。この事件を遠山から聞いた太田は西に報告すべきだと指示した。遠山は西に報告し、太田はJRがすぐ処置しないと、自分の方で暴露すると西に通告した。
西はそんなことがあるとは信じられなかったが、関東の中野をはじめとする数人のメンバーを調査委員会に指名し、早速調査することを命じた。中野の招集に応じて査問に出てきた黒田と大川は、先の事件を自供し、認めた。
黒田・大川のスパイ行為は「未遂」で終った。しかし、当時のJRやICPのメンバーがどれほどスターリニストを憎み、非難したとしても、帝国主義権力との関係においてはスターリニストといえども階級闘争のバリケードのこちら側であるというのは議論の余地ない原則であり、それはことさら取上げて論ずることでもなかった。だから「未逐」に終ったとはいえ、バリケードのこちら側の情報をバリケードの向う側へ売ることは階級的裏切りである。
JRはこの原則を防衛するため、調査委員会の報告にもとずいて、五九年八月の第一回大会に大川の除名、黒田の権利停止を提案することにした。しかし、問題は組織処分ではなく、黒田派の分裂という事態にまでつき進んでいくことになる。
さて、われわれは黒田、大川のスパイ行為が本当に先にのべたように発生したことが信じられないという疑問に対して、黒田自身の次のような素晴しいテーゼを示しておきたいと思う。このテーゼから導かれる結論は、目的のためには、すべてが正当化されるという黒田マキアベリズムの醜悪な本質をもった理論であり、この理論は反対派抹殺のためにはゲバルトを動員してよいという革マル・内ゲバ主義の論拠をなす。黒田はまさに反スターリニズムのためにスターリニスト的手段を容認するのである。
「一般に革命的政治運動というものは、現象的には(本質的にはではない)極めてヨゴレタものであり誤解にみちたものであって、政治的、あまりにも政治的な“陰謀”をすら活用しないかぎり(この点ではレーニンの右にでることのできる革命家はない)、そもそも政治そのものを止揚しえないのだという、このパラドックスが、ぜひとも自覚されなければならない。だから、赤色帝国主義論者をすら活用して、動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部を瓦解させる一助たらしめるという“陰謀”をたくらむべきである。(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一 三九頁)
第一回全国大会は五九年八月に開催された。大会の主要目的は綱領の確定にあった。
五月に発表された綱領草案は「前文」と「第一節 根本任務」「第二節 過渡的要求の綱領」によって構成されている。綱領論争は黒田グループとその他の間でたたかわされた。黒田の批判は相変らず反帝反スタ論からのトロツキズムへの難ぐせであった。綱領草案の前文をめぐって黒田は西批判を行なった。
綱領草案はその前文において世界革命を有機的に構成する三セクターとして、帝国主義先進国における革命、植民地革命、ソ連圏における政治革命をあげている。そのなかから黒田は「植民地革命の無条件擁護」と「労働者国家の無条件擁護」に反対する。それは、黒田の反スタ論からの当然の帰結であるが、第四インターナショナルとわが同盟にとって、「今日帝国主義とたたかい民族的解放をめざす一切の植民地革命をわれわれは無条件に支持する」ことと「われわれは革命によってかちとられた巨大な成果、労働者国家を帝国主義の攻撃から無条件に擁護する」(綱領草案)という原則は反スタ主義者たちにゆずり渡すことのできない決定的に重要な原則であったのであり、黒田の攻撃はまさにこの点に集中したのである。
スターリニストの裏切りに絶望させられたトロツキストがいったん労働者国家擁護の原則を放棄し、反スタ主義に移ることによって反共主義者に一挙に転落していった事例をわれわれは歴史上何度も目撃している。そして日本においても、黒田によってわれわれは好事例を目撃することとなったのである。
黒田グループとの対立はまず関東ビューロー総会で展開された。五九年八月に全国大会を前にして開かれたこの会議で、黒田派の中心となってきた本多が「田宮テーゼ」をもって綱領草案反対を展開し、これに対して、鎌倉、中野ら関東ビューロー指導部が綱領草案防衛の立場から反撃した。関東ビューローの会議は黒田派分裂の序曲であった。
八月二十九日、第一回全国大会の初日において、黒田・大川スパイ事件問題が調査報告され、大川の除名、黒田の権利停止が提案されると、本多を先頭とする黒田派は、組織処分に引っかけて綱領論争を弾圧し、反対派を排除するものである、といって退場した。その後大会は黒田、大川の除名を決定した。これが黒田派が「革共同第二次分裂」というところの黒田派の分裂である。
黒田派は分裂を準備して大会に臨んだ。このことは、退場してすぐ、黒田派は革共同・全国委員会なる正体不明の組織をでっち上げ分裂を“完成”させたことによって明確であろう。
第一回大会は黒田派分裂という混乱をのりこえて、綱領を採択決定し、中央委員を選出することによって成功をかちとった。
かくてJRは太田派と黒田派の二回の分裂を経過して西、岡谷の路線が確立されることとなった。そして、西、岡谷のヘゲモニーの確立によって、やっと政治的組織としての統一性と均質性がそなえられるようになった。それは明らかに日本のトロツキズム運動の前進を物語っていた。
スターリニズムからの学生の離脱という歴史的事件に対して、太田は召還主義の立場で対処し、黒田は反スタ統一戦線をもって破産してしまった。唯一、西、岡谷が日本共産党の党内闘争を経過して、たとえ一部分の少数派とはいえ学生グループを第四インターナショナルの下に獲得することによって、第一の試練をのりこえたのである。しかし、第二の試錬、安保闘争における小ブル急進主義との闘争において、西、岡谷路線は敗北してしまう。われわれは次にこれを見ていかねばならない。
4 安保闘争
黒田派の分裂によってJRは西、岡谷のヘゲモニーのもとに政治組織としての統一性を獲得した。かくてJRは第一の試錬においては部分的な成果を得てのりこえたといえよう。この成果は太田派や黒田派との比較をしてのことである。太田は学生活動家の政治的流動と再編の過程には相対的には無縁であり、ごく少数の学生メンバーの刈り取りがなされるや、この学生の流動から召還して、早くからの加入活動路線に入ったのである。結局、この加入活動は破産して、再出発を余儀なくさせたのである。黒田は学生の流動に対して反スタ統一戦線をもってのぞんだがこの路線も破産してしまった。五九年八月の分裂をもって黒田はもはやトロツキズム、第四インターナショナルと絶縁し、敵対者への道を歩み出したのである。
学生の流動の結末が左翼中間主義としてのブント結成に行きついたことは、総体的には日本トロツキズム運動の失敗、敗北として総括しなければならないであろう。しかし、JRが学生のうちの少数派とはいえ、すぐれた活動家を組織して全国政治組織の実態をつくりあげたことは部分的な成果として評価しなければならない。 」
しかし、JRには二回目の試錬が訪れてきたのである。それは安保闘争という大衆闘争の試錬である。全学連十四回大会で中執の多数派を握ったブントは理論的には階級路線への転換を清算して、再び学生運動の先駆性論、学生の小ブル急進主義的傾向の助長によって安保闘争を議会主義的で戦術的には極左主義の立場からおしすすめていったのである。
これに対してJRは労働者階級との提携の路線を防衛する立場から、当時、労働者階級にかけられてきた合理化攻撃に対しての闘争の帰趨が安保闘争も規定するととらえ、反合理化闘争の軸となって展開されていた三池闘争と安保闘争の結合による労働者階級の職場生産点実力闘争を闘争の中心軸にすえるべきであり、学生運動もこの職場生産点実力闘争をどうつくり出すために生かすかという観点から任務を導こうとしたのである。
例えば次のような主張にJRの立場が端的に表現されている。
「我々は九月以前の段階にあって『炭労と志免闘争(=国鉄の炭鉱の閉鎖合理化への反対闘争―引用者注)が安保闘争の帰趨を決定するであろう」と主張して来た。『階級闘争の力関係の上にたってのみ、安保闘争の階級的性格は明らかになり、その発展が保障されるであろう』という我々の見解は今もなお変りない。」(「十一・二七闘争と今後の方針」全学連中執の少数意見)
ブントが平和主義、議会主義の枠内で戦術極左で安保闘争を取組もうとしていたとき、JRの労学提携の路線は一般的に正しさをもっていたとしても、労働者階級が権力をめぐる闘争の水準に到達せず、戦術においてもはるかに学生の闘争より平和主義的で合法主義的であるとき、この労働者階級との提携は、学生運動には右翼日和見主義としてしか登場できなかったのである。
ブントの小ブル急進主義的傾向に対して、西、岡谷は激しい批判を早くから展開していた。すでにその批判は五八年九月の奈良闘争から開始していたのである。
奈良闘争総括は未だ端初であった。ブントの戦術極左とJRの戦術日和見の対立は、定保闘争を迎えて全面化していくのである。
いっぽう、ICPはジグザグを描く。安保闘争に入る前、ICPは社会党の加入活動を学民協として展開するがこの学民協の路線は階級的路線ではあったが学生運動としては右翼路線として登場したのである。十一・二七の国会突入が転機となって、太田竜は極左へと転換する。ICPの学生運動は五九年秋からはそれまでのJRとの一定の連携をも絶ちJRに対して日和見主義批判を展開し、ブントの戦術を支持し、これに従い、同一行動をとることとなるのである。その意味ではICP、太田の立場は情勢に敏感ではあるが党派としての原則的路線に欠如していた。他方、JRの西、岡谷は小ブル急進主義に対するもっとも原則的批判者として安保において貫徹する。この反急進主義の立場を、西、岡谷の歴史的過程から見ておこう。
共産党の五〇年分裂で国際派に所属した西、岡谷は所感派による火炎ビン闘争、極左冒険主義に対して強い反対の立場をもっていた。極左戦術では階級の力関係を転換することはできない。階級の力関係はまさに労働者階級の生産点における闘争が基本的に決定していく、西、岡谷の信念はこうして、共産党の極左冒険主義批判を通じて形成されていった。したがって、奈良闘争での学生の戦術的ハネ上りは本質的には火炎ビン闘争の誤りに通じるものであると考えたのである。
しかし、五〇年代末の日本の学生運動がもった急進主義は決して小ブル急進主義という性格規定によって全面的に否定されるべき性質の急進主義ではなかったのである。共産党の五〇年代初期の極左冒険主義は明らかに大衆から切断され、孤立させられた共産党の自滅に向う絶望的な戦術極左主義であったが、六〇年安保に到る学生運動の急進化は、客観的情勢と主体的条件が存在するなかでの急進化であったのである。
客観的情勢とは国際的には冷戦構造の崩壊期から米ソ平和共存体制へ移行する過渡的時期であり、帝国主義の後退、なかんずくイギリス・フランス帝国主義の衰退、そしてアルジェリア革命、キューバ革命を先頭とする植民地解放革命の前進があり、韓国では李承晩打倒の反独裁闘争、トルコの学生を中心とする反独裁闘争などが登場するという歴史的転機を背景としていたのである。
第二に国内情勢では五五年から六〇年に到る期間、ブルジョア階級は保守合同を契機として本格的な支配体制の警備強化に着手したのである。これは具体的に戦後民主改革においてブルジョアジーに不利に働らくものを除去し、ブルジョア支配の安定をめざすこととして追求された。そして、ニワトリからアヒルへと転換した総評の左の柱を次々と各個撃破するという攻撃を実行してきたのである。すなわち、政治支配体制を警備して六〇年代の高度成長を準備する歴史的時期であったのである。安保改定はその仕上げの位置にあった。
このような国際、国内情勢は学生たちに連続的に危機感を与えるところとなった。そしてこの危機感が大衆的規模で学生の急進的エネルギーを湧きたたせたのである。
主体的には非スターリン化が学生たちの意識と行動に決定的に影響を与えた。七〇年の「造反有理」が資本主義社会の管理体制への叛乱のスローガンとして提起されたのに対して、五〇年代末の学生たちの造反は、スターリニズムへの糾弾であり、その歴史への叛逆であり、自己を一刻でも早くスターリニズムの呪縛から解き放とうとする欲求である。
スターリニズムへの叛逆とそれからの離脱は、スターリニズムが革命を“裏切って”きたのであるから、自分たちは革命を裏切らないのだ、という使命感と自負によって裏打ちされていたのである。したがって、日和見主義は唾棄すべき対象であった。日和ることは罪悪であった。意識は急進的かつ戦闘的であったのである。
このような五〇年代末の学生活動家たちの意識と行動を規定した諸条件のなかで、われわれは六〇年安保闘争の戦術の是非を検討するべきであろう。
さらに、西、岡谷が把握し得なかった当時の学生運動の国際主義的性格の側面について指摘しておかねばならない。五〇年末の学生運動は一国平和主義の構造の枠内で展開されたことは明らかである。しかし、平和擁護闘争というひとつの限定された枠づけがあったとしても、学生たちの意識は国際情勢に敏感に反応していた。情勢をたえず世界全体において把握し分析しようとした。どのように弱い自治会の議案書も情勢の項は詳細な国際情勢の分析からはじめられていた。このような国際的意識が全体として決してインターナショナルの問題に迄は到達しなかったとしても、日本の学生運動の急進的性格を、単に戦術の次元でのみ断定してしまうことが誤りであることを示しているといえよう。学生のハネ上りは、共産党の極左冒 ツ人紙だった<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川 ♂フゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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