第五章 分 裂
A 「党」の分裂
われわれはこれから、三多摩社青同の歴史のなかで、いちばん語りたくない時代に、とりかからなければならない。全国の急進的青年運動の先頭に立ち、単独で国家権力と激突し、また民同型の改良主義労働運動の壁に挑戦した三多摩社青同が、なぜ、どのようにして急激な崩壊をむかえていったのかを、これからのべていかなければならない。運動が高揚期にあるときは隠されている根本的な弱さが、本質的な限界であったのかどうかということは、停滞期にさしかかったときにあきらかにされるものである。ほんとうに力強い運動は、停滞期に表面化する自分の弱さとの格闘を通じ、それをのりこえて飛躍していく。そうした力が育っていない場合には、停滞期の矛盾はしばしば分裂を通じて深刻なものとなり、停滞は衰退から崩壊へみちびかれていくのである。
赤化方針が発表され、四月ベトナム闘争、五・一八、そしてケミカル闘争へと運動が進むなかで、JR内部の問題意識のズレと対立が大きくなっていった。JR統一後の第二回大会は八月に開かれ、この時から分裂は急激にはじまり、ひろがった。
しかし、分裂は八月大会で突然にもち上ったものではない。分裂を避け得ないような問題意識の対立はすでにICP第一三回総会(六五年一月)直後から始まっていたのである。
赤化運動が宣言された時点で、Kは、次の文書を発表した。
「赤化闘争の組織論
・・・新たな大衆路線への復帰としての要求の運動化・・・
・・・・・
すでに多くのことが、原潜・日韓闘争の積極面については語られている。特に組織の問題としてふりかえるならば、闘争の成果として、活動家層の成長と固定化があげられる。少なくとも二百名を下らない革命的な青年・革命への献身を誓う同盟員が、闘争を通じて成長した。おそらくこのような豊富な活動家を一地区でもつ同盟は、全国的にも少ないだろう。二百名を下らない青年革命家は、三多摩同盟はもちろん、革命的政治運動、労働組合運動、その他の大衆闘争の広汎な発展の基礎として、決して少なすぎる数字ではない。しかもこれらの活動家が社会党系の運動では未曾有の弾圧の嵐の中で成長したことを考えるなら、一層可能性に富んだ部分であると確信できる。
それにもかかわらず、重大なことは、闘争の消極面である。
それは、これらの活動家層をもつ三多摩同盟が、大衆から孤立していることなのである。昨年の秋から春にかけてくりかえされている多くの集会、デモで、三多摩のヘルメット部隊はその名を全国にひびかせた。だがそれは、その広汎な大衆への影響力、動員能力にたいする評価ではない。あくまでも、少数の勇敢な街頭での戦闘を通じての評価にすぎない。そして三多摩同盟自身は、うちつづく集会、デモに、大衆とともに闘うのでなく、孤立的な戦闘をくりかえすことによって次第にそのエネルギーを失ない、組織的矛盾を蓄積していったのである。
それではなぜ、このような現象――『大衆からの孤立』が出てきたのか? このことか反省されねばならない。』
「われわれの運動の形態は『思想の観念的な伝達』であった。情勢分析を行い政治的課題を明らかにする。そしてこれを直接に言葉で大衆の意識に伝達する。
しかもこの運動は、大衆の現在の意識、要求から出発する運動によって支えられてはいなかった。大衆自身の生活の中にひそむ、のっぴきならぬ矛盾、したかって広汎に生まれ出る潜在的工ネルキーの爆発の可能性を引き出すたたかいとはならなかった。
そこから、一定の類型化されたスタイルが生まれてきた。
たとえば、分室執行部が原潜についての情勢分析を行い、方針(主としてカンパニア)を決定する。次に分室段階の活動者会議でこのことが指導部からさけばれる。第三に支部指導部が同じことを班の中心メンバーにわめく。第四に班の中心メンバーは班の同盟員にこれをわめく。最後に全同盟員が職場の大衆にたいして同様にわめく。下に行く程わめく内容は粗雑になり、荒々しくなり、ヒステリックにさえなる。
このような一方交通が、〇・〇〇の度にくりかえされていく。職場にあふれる不満、要求の組織化、運動化が逆に下から上へともり上っていく過程はない。すなわち一方交通たる由縁である。
『思想の伝達』がいけないのではなく、その観念的なとらえ方が誤りなのである。われわれの思想から出発して大衆の説得へと向ういわば下向きの働きかけと、大衆の要求から出発してわれわれの思想の高さにまで高まる、いわば上向きの働きかけとが統一されなければならない。これが統一される場――『要求の運動化』が、すなわち職場から、大衆から出発する上向きの大衆運動がなければならない。そしてこの運動が大衆の現在の意識・要求とわれわれの提起する思想・課題との結合の場にならなければならない。このようにとらえられてはじめて『思想の伝達』はその物質的な基盤、保証を主体的に獲得するのである。
このような場をもっていなかったことによって、われわれは孤立した。われわれは大衆の現在のあるがままの意識・要求と、われわれの思想、政治方針との結合を見失った。大衆の要求に注意を向けず、それを低いものとして、何かしら遠ざけるような傾向が生まれた。本来われわれは大衆の一人として生活してきたにもかかわらず、今は『同盟』という『別世界』の中にとじこもり、この『世界』の内部でのみ呼吸し生活するという風潮にそまってきた。同盟員は同盟外の大衆に働きかけることよりも、同盟内の討論、意志統一、あるいはケンカ等々のために、時間的にも、労力的にも多くのものをかけるようになってきたのである。
これは危機である。同盟の政治的性格を失なわせるような、巨大な危機である。このような傾向が続くかぎり、同盟は大衆とのつながりをますます失いつつ、二つの極へと分解するだろう。一方は極左的な少数のセクト主義的な集団、他方は右翼的ななかよしグループの集団へと、分解はすでに始まりつつある。」
「職場と街頭の結びつき、ということがよくいわれる。 これはどういうごとであろうか。
街頭、すなわち政治デモ、集会を中心とするカンパニア闘争と、反合理化を中心とする職場闘争とが同じ資本家階級との闘いであるというだけではない。この二つの闘いは、それぞれ出発点から独自に組織され発展させられねばならない。そして独自に組織される各々の闘いがその発展の中で必然的に国家権力打倒の闘いへと高まる中で両者の統一が最終的に実現する。
これと同じように、大衆の現在の意識、要求から出発する闘い――『要求の運動化』と、政治デモを中心とするわれわれの前衛的な闘いとは、それぞれ独自に出発する。それぞれが独自に出発することによって同時に相互に結合する。『要求の運動化』の前進は、われわれの前衛的な闘いの大衆化を助け、一方われわれの前衛的な闘いの前進は多数の活動家を大衆の中に送りこむことによって『要求の運動化』を助ける。観念的に抽象的に運動の実状を無視して結合をはかるときは必ず『政治主義』『経済主義』等の一面的な誤りに陥いる。前衛的闘いの中にいて大衆を忘れず、『要求の運動化』の中にいて政治課題を忘れず、しかもそれぞれを独自に発展させながら、運動の実状に応じて、具体的な結合をかちとっていくことが必要なのである。」
「われわれに全く欠けていたのは、『要求の運動化』であった。大衆の現在の要求、意識を出発点とする運動を組織することであった。われわれが職場や地域のそれぞれの実情に応じて、このような『運動化』を進めるならば、それは、われわれの前衛的な政治行動を大衆的に支えるものとなり得たのである。その時われわれは、政治闘争の中で孤立の不安におびえることなく、むしろ逆に、生々とした闘いの体験を職場の大衆にもちこむことによって、政治闘争の質的な発展をかちとることができたのである。」
「要求に根ざして大衆運動を組織していくことが『要求の運動化』である。要求には二つある。一つは顕在的な要求、一つは潜在的な要求である。
資本主義の支配は大衆の意識にも及ぶ。だから、大衆の革命的な要求は抑えられ、弾圧され、意識の奥底にとじこめられる。したがって、表面に出てくる要求の大半はきわめて保守的なもの、現状維持的なものである。大衆の表面しかとらえない時は、大衆の保守性だけしか見出せない。
だが、大衆の心の奥底にある要求こそ、真実の革命性である。そこには解決の要求が、団結の要求が全世界を獲得せんとする要求が眠っている。革命はこのような大衆の真実の要求を解き放つ事業である。
われわれの言う要求の運動化とは、大衆の要求をその深い所からひき出してくる闘いである。表面にあるさまざまな要求を、単に並列的に並べ立てるのではなく、一歩深い所に、ある要求を引き出すために最も革命的な可能性に富んだ要求から運動を起すことである。そしてこの運動の開花の中で要求そのものをさらに深く掘り下げていくことである。」
「われわれが指導部として闘いの出発点に立つ時、必ず持たねばならぬ三つのものがある。その一つは『現状把握』であり、もう一つは『ビジョン』である。
『現状把握』は、大衆の置かれた状況を正しく把握することである。大衆の要求、資本(あるいは当局)の動向、大衆運動とその諸組織の状況を分析し、『運動化』の『環』を見出すことである。どこから出発すべきかを探り当てることである。
『ビジョン』とは、運動の未来像であり、展望である。今出発する『運動化』をどのような到達点にむけて推し進めるかを『像』として想い描くことである。この『像』は、運動が革命の主体的な『力』にまで高められた展望の、感性的表現である。展望は抽象的な理論として語られる限り、十分に大衆をつかむことはできない。『像』として感性的にも把握されたとき、『未来』は大衆をしっかりと把握するに到る。
このようにして『現状把握』と『ビジョン』が提出されるなら、その二者の中間頃としての『運動過程』の路線が定められる。『運動化』の『環』から出発して『未来像』の獲得に到る『道程』が設定される。これが第三のものである。
以上の三者が、指導部としてのわれわれの中に豊かなイメージをともなって理論的にとらえられたとき、われわれは真に現実的な出発点に立ったのである。そしてこの出発点にわれわれが立ち得たとき、運動の成功は半ば保証されたのである。」
このようにしてわれわれが、大衆から出発して運動をすすめる時、実践をつらぬく一本の赤い糸がある。この糸は、『赤化』の思想である。職場闘争であろうと文化運動であろうと、一切の実践は、大衆を『思想的に獲得する』赤化の過程としてとらえられるのである。
そもそも『われわれの』思想――日本帝国主義打倒・社会主義革命は、大衆自身の思想なのである。大衆の諸要求・諸矛盾の必然的な、最高の解決なのである。われわれの思想だけが大衆のあらゆる不満や苦悩を、統一的に、全体として解決できるのである。
『要求の運動化』は、もともと大衆の思想であってただ資本主義的抑圧の結果として大衆に自覚されていないこの思想を、大衆のものにするための闘いである。大衆の政治的自覚の過程を促進させる闘いである。もちろんわれわれはここで、段階論的誤りをさける。『まず』一定の成果を上げて『から』という立場に立たない。『要求の運動化』の過程そのものが、同時に、大衆の政治的自覚の過程であるとしてとらえ、実践の一歩一歩を、大衆とわれわれとの相互の『思想変革』のステップにする。このような立場から組織され、指導される『要求の運動化』は、一歩ごとに高まり、一歩ごとに広がり、大衆の運動の前進が、直ちに同盟の発展となる。」(六五年三月)
読者諸氏にとってはわずらわしいかもしれぬこの長い引用をあえて行なったのは、この論文のなかには、統一労組運動からはじまった三多摩社青同の運動展開のもっとも重要な組織論的立場が集約されているからである。ここにのべられているのは、単にKの個人的な見解にすぎないものではなく、たぶんに自然発生的な外見をもって進められた三多摩の大衆運動が、運動の論理として宿していた本質的な方法論である。
だが、太田竜の意識は、このような方法論とはまったく異質であった。もともと太田は自ら組織をつくって大衆運動を指導した経験をもってはいなかった。せいぜい党派闘争の立場で、外から大衆運動に工作したことがあるにすぎなかった。大衆運動のもつ言いあらわせない魅力にとりつかれたことがなく、大衆運動の内部で大衆の意識の成長の苦しみを共有したことはなかった。言いかえれば、彼ははじめから“党”だったのであり、大衆運動ははじめから“党”にとっての手段にすぎなかったのである。ところが、いま太田には量においてもジャンルにおいても豊富な三多摩社青同の“指導”がゆだねられている。彼はこれを意のままに使うことができる。見知らぬ用具を与えられた幼児は、それを本来の性質とは異なる方法で使うことによって、破壊してしまうものである。そうすることによって、すくなくとも彼がこの用具を“領有”したという喜びを実感するのである。
当時の太田の意識は、六五年五月、JR第一回中央委員会の議案の次のような文章に端的にあらわれている。
「このように、七月(六四年)から九・二七に至る三ヵ月は、明らかに拠点地区を先頭としてわれわれは全日本の階級闘争の最前線にあって、主導権に挑戦していた。
だがこのあと、我々は事態の主導権を失った。それは、表面的には一一・七横須賀闘争において明らかになった。我々はこのとき、行動を抑制した。
なぜか?
なぜなら我々は拠点の我々の組織が突出しすぎたのではないか、と考えたからである。・・・・・
これは重大な政治的誤謬であった。」
「要するに我々は新たな革命前的情勢への序曲をかなでた二四回大会で(社会党、左派が権力奪取、六四年一二月)の前で全く無力であり、傍観者であったのた。この事実の重みを感じ、従来の右翼的解党主義、客観主義的偏向を最短期間に克服する内部闘争が急務となった。」
「この意味で原潜闘争は我々の中の解党主義に対する最終的な打撃を加えた。客観情勢は党指導部の正しい路線の我が党内への貫徹を一挙に促進した。」
「我々はベトナム侵略反対闘争の先頭に立つ、アメリカ大使館への抗議行動を市街戦へ転化させねばならない。そして更に米軍基地に対する実力行動のイニシアをとらねばならない。ベトナム人民への資金カンパ運動の先頭に立たねばならない。
米軍兵士に対する工作は直ちに大衆的に開始することができよう。
ベトナムへの義勇兵派遣の闘いを我々は主導しなければならない。
沖縄の武力解放闘争の準備に着手しなければならない。」
ここに示されている太田の主要な願望は、二つある。一つは、三多摩の従来の指導部であったK、I、Sらの“右翼解党主義”から、“党指導部の正しい路線”すなわち太田自身が、運動の完全な指導権を奪い、全面的に従属させようという願望であり、二つは、来る数ヵ月を通じて、武装街頭闘争、市街戦によって、一挙に情勢のへゲモニーを取ろうという願望である。つまり組織と情勢の両者のヘゲモニーを、数ヵ月の短期間で掌握しようというおどろくほどせっかちな欲望だったのである。
ところで、右翼解党主義と名指されたKらの方は、自分達がそれほど太田によって憎悪されているとはつゆ知らず、指導権は自ら太田にどうぞと差し出しているわけで、こうした太田の本当の意図についてはまるで無頓着であった。それゆえ太田の願望がむかう敵は、Kらの個人を通りこして、三多摩社青同の全体のなかにある指導部にたいする信頼そのもの、権威そのものとなった。だからそうした第一の願望は、第二の願望とかたくむすびつくものとなった。文字通りの市街戦を主導することによって、従来、三多摩社青同の誰もが果せなかった大胆な方針提起の功績は無条件に太田のものとなろう。まさに過去においては不当に冷遇されていた絶対の指導者が、ここに、騒乱の硝煙のなかから神々しい御姿を登場あそばすことになるのだ。“領有”がそこで完成するのである。
太田の観念のなかでは、諸階級と諸政治勢力が、一分のスキもなく役割を与えられ、最後の合図を待ちかまえていた。合図とともに彼らはいっせいに動き出し、その役をつとめ上げて退場するであろう。日本社会主義共和国は目前である。これはひとつのカラクリである。合図をうち上げる部隊は、三多摩社青同の三〇〇の行動隊と、そのもとにしたがう約二〇〇〇名の労働組合員である。太田の論理の世界では、諸勢力の本質と現実とが、常に一致しているのである。
だが、Kの論文に示されているように、三多摩社青同の運動がつねに問題にしてきたのは、労働者階級の潜在的な、いいかえれば本質的な革命性を、どのようにして現実の運動にひき出してくるのかという、その過程なのであった。ここに、太田とKらの問題意識の根本的なズレが存在していたのである。
第一回中央委は、五・一八闘争の一〇日前にひらかれた。太田が“市街戦”を口にしたとき、そこでは一般論がのべられていたのではなく、五・一八とそれにひきつぐべき具体的な市街戦が予定されていたのである。
すでにのべたように、五・一八闘争は不発に終った。社民との全面対決も、五・一八にひきつづく全国の人民と米軍との衝突も起らなかった。
こうして、五・一八の総括をめぐり、全面的な論争が開始された。論争の口火を切ったのは、GやSらの旧JRの活動家であったが、論争はすぐに全体にひろがった。
五・一八をめぐって発生したJR内部の対立のなかで、KとYは、突如としてこれまでと異なる立場に立つ声明を発表した。それは「解党提案」であった。
彼らは、問題の根源は単に太田個人の誤りにあるのではなく、太田をそのような限界に立たせている第四インターナショナルの歴史的位置そのものなのではないかと考えたのである。この提案は、「徳川・中曾根提案」と呼ばれて、関東の同盟員に深刻なショックを与えた。
「T・N提案」の骨子は、次のようなものである。
@ われわれの運動は、いま大衆から孤立しつつある。この孤立は、部分的な方針のあやまりから出て来るのではなく、第四インターナショナルのあらゆるたたかいが経験して来た孤立と同根である。
A 第四インターナショナルは、思想としては生きのびて来たが、世界党としての実体は失なってしまった。世界党は、世界革命の現実の発展に依拠しなければならない。世界革命はヨーロッパでは敗北したが、中国からアジアにむけて前進してきた。だが第四インターナショナルは中国革命に重心を向けず、ヨーロッパに依拠しつづけた。ここに第四インターナショナルの実体喪失の根拠がある。
B われわれは第四インターナショナルを脱退して日本とアジア革命に依拠する新しい党建設の道を歩むべきである。
この考え方は、実は、彼らがはじめて打ち出したものではなかった。太田自身の思想のなかに含まれていたものを端的に結論化したというべきものであった。
太田は、六四年に、「第四インターナショナルの歴史入門」を発表した。そのなかで太田は、第四インターナショナルの歴史的孤立にふれ、次のようにのべた。
「我々は、第四インターナショナルの危機を正面から見すえなければならない。この危機は実に深刻であり、あと一歩すすめば危機から破局に突入せざるを得ない地点に来てさえいる。
我々は中国に影響力を持っているか? 否、亡命した若干のトロツキスト(ICC派)が香港に生活しているのみだ。
我々はキューバにメンバーを持っているか?
然り。だがキューバのトロツキストはポサダス派である。
我々はアルジェリアに力を持っているか?
然り。そしてしかもパブロはベンベラの有力な政治顧問である。だが今日パブロはジェルマン(マンデル)らのために指導部を追われ、インターナショナルのなかで事ごとに圧迫される少数派である。
今日の世界革命の前衛であるこれら三つの国の運動をこのような形に追い込みつつジェルマンらのインターナショナル多数派は折衷主義的、日和見主義的路線を頑として推進している。
真に世界革命の利益とダイナミックスを表現するインターナショナルであるならばキューバやアルジェリアの内部の運動を代表する傾向がインターナショナルの少数派になるなどということは、絶対にあり得ないことである。だが現実には、我がインターナショナルは立ち遅れ、腐敗した西欧の労働運動に依拠する部分――ジェルマン、フランク、リビオのトリオによって代表される――が多数となることをかくも容易に許容しているのだ。」
「第四インターナショナルは今日までのところ、レーニン、トロッキーの第三インターナショナルの崩壊過程から救い出された一つの宝物の水準を脱していない。この意味でそれはあくまで『コミンテルンの遺児』でしかなかった。コミンテルンの正統性はことごとくこの中に残存し、保持されている。
にも拘わらず、なぜそれが今日の如き激動的な革命の時代に、世界史の主人公となることができないのか。
我々の持論は、すでに述べたごとく、世界革命の前衛的民族が不在であったということである。この前衛的民族は、
1 国内的に巨大な現状変更の力に充満し
2 国際的に矛盾の結節点となっており、
3 そして全民族的な革命の英雄を大量に産出し
4 そして最後に世界革命のその瞬間における利益が民族の利益と合致しているがゆえに、大衆の中に高度の世界革命の意識が成熟しうるような、
そういう一民族でなければならぬ。
我々は、我が国の被支配階級こそが現瞬間においてそのような特性を備えている世界革命の前衛の候補であると確信する。」
(六四年一月)
この考え方が、「T・N提案」の結論に到るためには、わずか半歩だけ歩めば良いのである。なぜなら、この考え方の結論は、第四インターナショナルを復活するためには、一の前衛民族を構成しなければならず、それが日本民族であるというのであるが、この前衛民族の構成じたいが、第四インターナショナルのもとではじめて可能となるとは、言わないのである。むしろ現実の第四インターナショナルは、腐敗した西欧労働階級の利益を代表するにすぎないというのであるから、日本を前衛民族に押し上げるたたかいは日本の“党”自身の任務として、完全に一国的な作業として遂行されなければならない、つまり第四インターナショナルがその名に値いするものとなるまでは、一国主義で行こうということになる。KとYが「解党提案」のところまでたどりつく論拠は、彼らが学んだ太田の「教え」自身のなかにあったのである。
太田は、五・一八をめぐる論争のなかで活動家の不信にとりかこまれつつあった。そこへ「T・N提案」問題が生じた。これは劣勢をはね返し、三多摩のヘゲモニーを再び掌握するチャンスであった。市街戦がダメなら分派闘争で行け、というわけである。
「T・N提案」を発表する前に、KとYは太田と討論する時間を持った。太田は、賛成も反対もしなかった。というのは、太田にとってはまずKとYにこれを発表させ、そののちにたたくことが必要だったからである。
「T・N提案」発表の直後、太田は「全同盟員への手紙」を書いた。手紙で彼は、K・Yの二人が、札つきの解党主義者であり、今回が始めてでないこと、彼自身は終生変らぬ忠誠を第四インターナショナルにたいして誓って来たこと、二人の解党主義者と対決するためには、JR旧関西派と結ぶ決意であることを表明した。
二つの方面に広がった論争は、八月のJR第二回大会にもちこまれた。
大会にたいしてKとYは、一切の役職を辞退し、場合によっては脱盟をえらぶ決意であった。だが、東北の同志達が、その決意を押しとどめた。東北の同志達は、第四インターナショナルにたいする根本的な再検討という点では、問題意識を同じくすること、だが結論の出し方が、「T・N提案」は早急にすぎること、長期にわたる同盟内討論が必要であること、まず太田のジグザグな「指導」と組織的冒険主義を粉砕するために、ブロックを結ぶ用意があることを申し出た。KやYにとっても、「T・N提案」が粗雑な論理の組み立てになっていて、一時の勢いにかられた感をまぬがれないことは自覚されていたし、またここで脱盟を選ぶとすれば、ともにたたかって来た多くの同志達とのつながりを絶たねばならず、心情としては耐えがたいものであった。KとYは、東北の同志達の提案を受け入れ、「T・N提案」の結論部分は撤回され全体としては継続審議になった。
大会の討論につづいて、太田の立場にたいする批判と擁護の応酬となった。東北の同志達の批判は、太田のインターナショナルにたいする立場が、パブロ派とポサダス派との間で、つねに動揺して来たことに向けられた。太田は大会の席上で、パブロ派を全面的に支持する旨を回答した。だがこれにたいして、パブロ派は中・ソ論争については中国批判派であり、中国核実験に反対している事実のうえに立ってもなおパブロ派を支持するのかと、かさねて追及され、太田は混乱のなかで沈黙した。また、関西の同志達も太田のジグザグ路線に全面的に反対であると表明、太田の手になる全ての議案が却下された。
ここで三多摩のSから、太田の指導の個人主義的性格を暴露する発言と糾弾が展開された。太田の対女性関係における政治的ひきまわし主義の実態、太田が運動の“領有”の欲望を、“女性の領有”の欲望にまでひろげている事実の劇的な暴露によって、太田の権威は一挙に破壊された。この糾弾発言ののちに太田は自ら「一切の責任ある地位からの一定の期間の辞任」を表明し、大会は新しい議案を作成する任務を帯びた一〇名の新中執を選出して閉会した。太田は大会の決定にもとづき査問委員会に付されることになった。
大会のこのような結末が、何を生むか、それはすでに明らかであった。太田は大会の会場を後にするその足で、分派の結成にとりかかった。三多摩の活動家の一部を中心とする新太田派が結成された。
新太田派はやがてボリシェビキレーニン主義派(BL派)と名のり、活溌にオルグ活動を展開した。その要求は、@太田路線支持 A「T・N提案」=解党主義粉砕 B太田の個人問題については政治問題化するな C人事については太田派と他派の同数委員会設置、の四点である。太田はこの闘争の前面には出ずCやMなどがもっぱら同盟員のあいだを動きまわって、関東内部の多数派工作をすすめた。
BL派の分派工作は、大会での劇的な逆転が同盟員のあいだに強い印象をのこしている六五年一一月頃までは、さほど派手なものではなかった。他方、新中執多数派においても、太田批判という点での一致は見られたものの、それに代る路線を提起する準備が出来ている部分は存在しなかった。機関紙「世界革命」の発行も途絶えがちになった。
階級闘争は秋の日韓条約批准阻止闘争にむけて動き出していた。だが、JR内部には、奇妙な空白が生じた。六五年春の激突を走り抜けた後の第二回大会における急激な逆転に直面した三多摩の活動家もまた一人一人が考え込みはじめた。一人一人がとらえ得た問題領域がどれほどのものであったかは別として、過去五年間の三多摩の運動を特徴づけた指導と路線の「一枚岩的団結」や戦略的一貫性が、確実にくずれ去っていることに、気づかされたのである。ベクトルは分散の方向にむいた。
KとYが「T・N提案」徹回にあたって発表した第二声明は、次のように訴えている。
「われわれは、インターナショナルを再検討し、新しいインターナショナル建設を主体的に受けとめていく努力は、解党主義であるどころか、不可欠な問題意識であり、理論的作業であり、これなしにはいかなる前進もないと考える。国内党建設と国際党建設は一つの過程であるから、インターナショナルの再検討は、当然、われわれの国内組織の再検討へとつながるのである。むしろ我々が自己批判すべきなのは、大川の個人独裁的傾向と断乎として闘うことを怠り、従って我々自身が、自立した革命家に、自立した指導部に成長するように、あらゆる努力を払って来なかったことである。太田への依存こそが責められるべきである。」
「以上の自己批判に立って、我々は、全党の同志、とくに東京の同志に訴える。
自立せよ。
自らの足を、自らの頭脳に従属させよ。
内部の声を重視せよ。
党建設は、偉大な一個の頭脳の下に、幾百方大衆がひざまづく過程ではない。自立した幾千幾方の前衛が、一個の巨大な思想の潮流へと、合流していく過程なのだ。真の指導部はこの過程そのものを指導する部隊なのだ。
あらかじめ我々の足をすくませる教条を排して、運動の真実以外は何物をも信じない頑強な懐疑派の立場から、われわれ自身の自立の基礎を、共同で追求しようではないか。」
B 日韓闘争の敗北と、分派闘争のはじまり
八月三〇日、全国反戦青年委員会が結成された。社会党、総評、社青同の呼びかけによって、社会文化会館でひらかれた結成総会には、主要単産青年部、学生諸組織、さらに民青までが参加した。討論は民青の提起した二点の要求、@安保廃棄のスローガンを入れよ A青学共闘を再開せよ、をめぐって紛糾、民青は反戦青年委員会への加入を拒否した。
結成総会は「ベトナム侵略反対、日韓批准阻止の一点に向かってすべての青年を結集しよう」との決議を採択し、「一〇・一五全国統一行動」を呼びかけた。ここに、日韓闘争の主要な推進組織が生まれたのである。
日韓闘争の主要な経過を、以下、順を追って示そう。
六五年六月二二日、首相官邸で、日韓条約調印。総評は三〇〇〇の動員を官邸前に指令した。だが結集した部隊わずか三〇〇名。うち半数は社青同動員。夜、都学連二〇〇〇名が機動隊と激突。
八月二五日。韓国では一万人をこえる学生が決起。軍隊の学園乱入。八一五人の逮捕者を出した韓国学生のたたかいに呼応して、社青同東京地本一〇〇〇名が決起集会とデモをおこなった。
一〇月五日。都学連三〇〇〇がデモ。機動隊と激突、逮捕者多数。夜、社青同東京地本五〇〇と都学連残留部隊一〇〇〇が国会デモ、参議院面前で坐り込み。機動隊のゴボウ抜きと衝突、日枝神社周辺までかけて投石と棍棒の乱戦。重傷者多数。
一〇月一二日。全国実行委員会一〇万五〇〇〇人が第二波統一行動。うち七万人が国会デモ。参院議面前で都学連二〇〇〇、社青同一〇〇〇、社会党五〇〇が坐り込み。機動隊の弾圧で一〇名入院。
一〇月一五日。一万八〇〇〇人を全国各地から集めて、全国反戦青年委員会の第一派中央行動。午后八時、地方代表を先頭にデモにうつり、国会西側の道路上をはじからはじまで埋めつくして坐り込み、約一時間。機動隊は手出し出来ず。
このようにして一〇月に入ってからの闘争は日を追って拡大し、戦闘化した、驚いたのは警視庁だけではなかった。社会党、総評は、エスカレートしていく闘争の深まりに恐怖して、闘争に空白期間を置いた。その口実とされた一〇・二二ストライキは、全単産でくずれ去った。一〇月中旬までの連続闘争の波で高まった大衆の戦闘意欲は、強引にねじふせられた。
一一月に入ると、日韓特別委員会の強行採決が日程に上った。だが、社会党、総評は“中間がヤマ”といつわって、闘争スケジュールを一一月九日以降に設定した。こうしたなかで社青同東京地本が中心となった東京反戦青年委は、独自闘争に立ち上った。
六日に強行採決の報が伝えられた前日の五日夜、八〇〇〇の青年労働者が日比谷に結集して国会デモに出発。幾度も機動隊と激突しながら坐り込み闘争を追求。国会前で乱闘をくりかえし、四〇名の逮捕者と多数の負傷者を出した。とりわけ、最先頭に立った全逓青年部に弾圧が集中し、八日、全逓本部は一一日以降の反戦青年委の行動に青年部が参加することを禁止した。
九日。第一波国民共闘が、全国、中央両実行委員会の一日共闘としてもたれたが、民青系全学連と都学連が会場内で乱闘。夜のデモでは、都学連と社青同東京が機動隊との乱闘で八〇名の負傷者を出したが、共産党の“民医運“は、「トロツキストの手当は拒否する」として、“診療拒否”を行った。
一一日、本会議採決阻止の決定的闘争にたいして、総評単産委員長会議は「坐り込みはさせない」方針を確認。徹夜を決意して集った地方代表三〇〇〇を含む労働者全てを流れ解散させた。こうして、すべての闘争が解体された後の一二日未明、衆院本会議は日韓条約を四五秒の「瞬間採決」で通過させたのであった。
これに先立って総評は、一一月四日評議員会で一三日のストライキを決めた。一部から「政府の緊迫した情勢の中で、ストライキが一三日では遅すぎないか」との指摘がなされたが、「院内闘争の状況から見てヤマは一三日」という社会党の情報を根拠に、一三日ストの方針がきめられた。一二日未明の強行採決のあとでは、気のぬけたビールのような一三日のストが、なんの役にも立たなかったのは当然であった。
日韓国会審議の参院段階への移行とともに闘争は小規模となった。一一月一九日、二六日、一二月三日四日、六日、七日、八日とデモは続いたが、参加者数は日一日と減少した。一七日、社青同東京地本は、参院議面前で一五分間の坐り込みをおこなった。だが、脇を通る労組の隊列は、奇妙なとまどいの表情をうかべ、合流しようとはしなかった。この日、一七人が逮捕された。最後の坐り込み闘争であった。
一二月一一日、参院本会議は日韓案件を一括採択した。佐藤政府は、自然成立を待ってはいなかった。
日韓闘争全体を通じて、警視庁の弾圧体制の強化が目立った。二〇〇〇の機動隊を中心に、常時一万五〇〇〇の警察官が待機した。
学生を除く社青同東京地本の犠牲者は、次のような数にのぼった。
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