第六章 終章
A 分裂の完了
第二回大会からはじまったJRの分裂は、あっというまにのぼりつめて、一年後には完了していた。
六五年の日韓闘争のなかで、活動の主要な分野を社会党内分派闘争、革命的社研づくりにおくことを主張し、多数派の大衆運動主義を冷笑していたBL派は、六六年のはじめごろから、社会党地区活動のなかでの公然活動を開始した。それぞれの地区で、ほとんどBL派のメンバーだけを構成員とする社研(本来は佐々木派の分派組織である)をデッチ上げ、機関紙・誌を発行して、暴力革命の主張、議会主義批判、社会民主主義批判や、社会党を「ボルシェビキ党」にせよという要求などを声高らかにわめきたてた。もしこれが、社会党史の範囲に加えてよいものであったならば、かつて存在したことのない革命的分派としての敬意をはらわれるべきであったろう。残念ながら、「社研」を名のりはしたものの、本来の社会党員は誰も真面目につき合おうとしなかった。つまりそれは“加入活動”の“たてまえ”のもとでのマスターベーションにすぎなかった。
社会党から相手にされないとなれば、もっと身近かなところに“闘争対象”を求めようとするのは、当然の成り行きである。BL派は的をしぼり、当面の敵をJR多数派に定めた。三多摩社青同の指導部、三多摩社会党オルグ団の多数派であるJR内反BL派勢力こそ、トロツキズムの旗をけがして、革命の情勢にジノビエフ・カーメネフのような戦線逃亡をきめこむ裏切り分子である。彼らこそ、三多摩社青同のこれまでの成果を台無しにし、社民官僚に売りわたす憎むべき日和見主義者である。こうして、BL派の活動は、社青同、社会党のなかにJR内部対立をもち込み、大衆闘争と大衆組織を分裂させようとするものになっていった。
JR内部の対立は、大衆闘争における対立を背景として、するどさを増した。こののぼりつめていく対立を一挙に爆発させる契機となったのは、「社通bS」問題である。
BL派の分派行動の尖鋭化とともに、JR多数派も分解した。より徹底的に太田の急進主義的傾向と、「終末論」的情勢分析、事実上の加入活動放棄に反撥する部分が「社会主義通信派」を結成したのは六六年一月であった。ここには、社会党オルグ団の中心部分であるY、G、S、都内の公労協のなかで反対派活動をおこなってきたU、そして中執の中心であった酒井などが参加したが、三多摩社青同の指導的部分は参加しなかった。S、I、Kらの社青同グループは、ベトナム革命連帯や米中対決の危機を許えるBL派の急進主義的傾向にたいして、気分として共通するものをもち、社通派にたいしては「右翼的偏向」への警戒心を抱いていたからである。
社通派は、四月に「社会主義通信bS」を発行し、そのなかで、第四インターナショナルのための条件は未だ成熟していない、第四インターナショナルはでき上ったインターナショナルとしてではなく国際的な組織体にすぎないものと自覚したうえで、新しいインターナショナルをめざして、より広い範囲での世界的交流、共同討議をつくり出すたたかいにくわわるべきであると主張する論文を発表した。これは、社通派全員の一致した見解ではなかった。またこうした論文や反対する見解などをたがいに発表し合って、インターナショナルについての討論をふかめていくことは、第二回大会が「T・N提案」問題に関連して採択した決議に沿って必要な作業であった。 ・
だが、すでに分裂を完了させて単独組織に移行することをねがっていたBL派にとっては、「社通bS」は見逃がすべからざるチャンスであった。五月九日、JR三多摩地区執行委員会多数派は、社通派メンバーである三名の同志のJRからの除名を決定した。また、「世界革命一六五号」は、社通派が第四インターナショナルから「脱走」したことを公然と報告し、今後はBL派が中央と東京の指導部をひきうけることを宣言した。
五月二一日、酒井の招集のもとで第四回中執がひらかれ、この問題についての討論と決定をおこなったが、BL派は、すでに中執は解党主義者の機関であってJRの真の指導部たり得ないと宣言し、参加を拒否した。中執は、BL派の不参加のもとで三同志の除名を取り消し、インターナショナル問題に関する討論を積極的におしすすめていくことを確認したうえで、「社通bS論文」が組織の内部に混乱をつくり出すような仕方で提起されたことを自己批判して、より建設的な組織討論をつくり出すうえで責任をひきうけるように社通派に要求した。社通派はこれを受け入れた。
六六年五月二一日をもって、JR内部分裂は完了した。この日以後、BL派と多数派が“党”として同じ会合に顔を合わせることはなくなった。分裂の仕方としては、実にあっけないもので、日本の政治組織では通常避けがたいものである多数派工作や、文書、財政の奪いあい、物理的な衝突などはなにひとつ起らなかった。暗黙の協議離婚とでも呼ぶべきであるような仕方で、分裂は完成した。
なぜこうした事態になったのであろうか。多数派の側は、明確な展望をもってはいなかったし、はっきりした政治的一致でむすばれていない。BL派とはり合って「世界革命」を出したところで、そこに掲載すべき論文を用意できるわけでもない。それに、太田の政治活動と一〇年近くつき合ってきたYやKにとっては、今日は意気軒昂にみえるBL派か、かならずまもなく内部矛盾をふかめて、分裂―崩壊の途をたどるだろうということが、はっきり見えていた。つまり多数派のBL派にたいする態度は、「ほっておけ、やらせておけ」というものであった。これにたいしてBL派も、そうした多数派を相手にしつこいけんかを組織内でいどんでみても、たいした収穫は得られない、それよりは社青同内部や労働運動のなかで多数派をたたき、その影響力を失遂させるべく活動することに重点を置いた方が利口た、と判断したのであろう。
こうして、JR分裂は、統一後一年半のうちに、静かに完了したのである。
JR多数派の活動は、独自活動の領域では極度にゆるやかなものとなった。確信をもった活発な勢力であるBL派との分裂は、組織を沈滞した気分のなかにおとし込んた。機関の開催はまのびしたテンポでしかひらかれず、機関紙活動は停止した。
この時期の唯一の機関活動は、東京地本分裂問題に対処するために強制された。
一〇月には二度の中執がひらかれ、東京地本分裂にどう対処するかをめぐって激論がかわされた。東京の社青同部分は、単独でも東京地本を名のり、再登録を拒否する姿勢を確立して動揺する解放派を突き上げていくことを主張した。これにたいして、関西の代表はこの事件そのものが極左小児病の端的な破産であり、その結果としての全国社青同からの孤立であるから、単独でも(解放派と手を切っても)自己批判し、屈伏すべきであると提案した。
東京と関西とでは、事件にたいする見方が根本的にちかっていた。東京は、解放派による集団暴行にたいしては批判していたが、事件の全体については協会派のセクト主義的な“左派排除”の陰謀としてとらえ、協会派との全面対決を基本方針においた。関西は、内ゲバ事件というところに焦点をおき、また協会派にたいする明確な政治的評価は持っていなかった。
この両方とちかって、東北は、「屈伏でない再登録」の路線を提起した。東北の主張は結果として解放派の路線と似通ったものであったが、加入活動の継続を前提に置けば当然の方針であった。再登録を単独で拒否する方針は、事実上加入活動の放棄にしかならない。たから、中執がほんとうに討論し、決断を下さなければならなかったのは加入活動をつづけるのかどうか、という点だったのである。東京でも、社通派の傾向は東北に近かった。これにたいして東京の社青同グループは、「全面的加入活動」からの撤退を検討しはじめていた。それは、主として社青同運動では加入活動をやめて、独立した青年運動に移行していく、だが社会党内の加入活動は継続するという二方面活動路線であった。
中執の討論は一致した結論に達しなかった。一〇月二三日の拡大中執は、社青同グループの強硬な態度をあきらめとともに受け入れ、当面の処置を次のようにきめた。
「第一に、東京のメンバーの全体的な意志統一のための関東臨時全同盟員会議をひらく。
第二に、学生運動で解放派への攻勢を強める。
第三に、必要とされる四つの戦線、拒否活動の先頭に立つ者、独立活動の強化に専念する者、社会党内で次の闘争にそなえる者、再建されるであろう協会派東京地本のきりくずしに従事する者を、可能なかぎり具体的に配置すること。
第四に、独立活動と加入活動の関係を中心とする全体的な総括と展望の討論の強化をはかること。
第五に、独立活動の強化の具体的な努力をはじめること。」
こうした結論は、妥協の産物以上のものではなかった。加入活動をどうするのか、やめるのか、部分的にだけつづけるのか、全面的につづけていくのか、肝心な点でなにひとつ結論が出ないまま、また本格な論争にも着手しないままで、社青同グループの単独拒否闘争方針を追認し、その実行をいくつかの点でやわらげるという性格の方針にすぎなかったのである。事態が先にすすみ、JRはそのあとをたどっていくという、みじめな状態が、まさにこの時期であった。
一〇月二九日にひらかれた関東臨時総会でも、討論はすれちがったままであった。加入活動からの事実上の撤退という事態は、すぐ目前にせまっていた。もしそうなったとしたら、残存している三多摩社青同の約二〇〇の部隊(BL派の約一〇〇はのぞいたとして)はどうすれば良いのか、彼らにどのような組織的、政治的立場を与えるのか、こうした重要な具体的方針は、なにひとつ提起されないままで、時間は経過していった。
われわれは、党建設の展望を加入活動のうえに立ててきた。JRの分裂ど東京地本の分裂がほぼ同時に発生したことによって、党建設の展望に重大な転換が要求されたにもかかわらず、“党”は新しい展望をうち出す用意ができていなかった。“党”自身の分裂の痛手から、われわれはとうぶん立ち直れそうになかった。
三多摩社青同の指導部をになってきたK、I、Sらは、この時期にML研(マルクス・レーニン主義研究会)を組織した。ML研は、JR内分派ではなく、社青同内の分派的学習会組織であったが、JR内論争においても一つの傾向を代表したため、BL派が去ったあとのJRは、関東ではこのML研と社通派、そして後にのべる関東社研派の三傾向によって一時期構成されることになった。
三多摩社青同の急速な衰退はすでにあきらかになっていた。一番直接的な不幸は、三多摩社青同に方針を提起し、活動家の政治的な訓練をひきうける位置にあったJRの分裂が不可逆的に進行し、とりわけ社青同指導部は、こうした分裂のなかで積極的な立場を喪失してしまった部分によってになわれていたことであった。
ML研の関心は、運動のこうした現状に規定されて、主として“総括”にむけられた。“なぜこうなってしまったのか“を、ようやく太田理論から自立しはじめた自らの頭脳に問い、理論的な解答を見つけ出すことで、衰退の趨勢をまき返す足がかりを得ようとしたのである。
ML研の活動――総括討論は、約一年間つづいた。どうにか、一定の結論らしいものにたどりついたころには、三多摩社青同の分解と解体は、ほば終りに近づいていた。一人、また一人、一班、また一班と、親しかった仲間、果敢にたたかった組織が運動を去り、そのうちのあるものは、BL派の理論に獲得されて大衆運動から召還して行く状況を見つめながら、ML研の総括討論はつづいた。
こうした作業のなかで到達した一定の結論の、主要な内容を「旧槁」を引用してここに記そう。それ自体、十分に体系化されたものではないし、世界革命の構造と第四インターナショナルの位置を総体的にとらえようとする問題意識に欠けているが、大衆運動と革命、大衆組織と党の関係に一歩踏み込もうと試みている視点において、今日でもある意義はもっていると考えられる。
「六七年ML研は、旧ICPとしての、また三多摩社青同としての自己の運動の総括を、来るべき再度の攻勢に向けて開始した。その主要な点をここにあげよう。
@ 長期全面加入活動が、社会民主主義諸党にたいする基本方針としてパブロによって提起され、太田によって日本に持ち込まれ、旧JRは安保闘争後にその方針を採用した。
だがわれわれは、党建設は本質的に独立活動であるとしなければならない、すなわち、社会民主主義党もスターリニズム諸党も、それ自体の内部からではなく、革命党の動員する革命的大衆闘争の力によってだけ破壊されるのであり、この意味において革命党の建設が一時的に加入活動の形をとるにしても、概念と歴史の展開において、革命党の形成は改良主義諸党の解体の結果ではなく原因である。革命党の加入活動は、革命党の絶体的孤立という条件のもとで改良主義党と取り結ぶ統一戦線戦術の特殊な形態であるべきである。パブロの長期全面加入活動の方針は、この点をあいまいにして修正主義に転落した。それは強固な独立の本体を、少なくともその党的意識の世界から欠落させた。わがICPもまた六五年までそのようであった。
A 諸闘争の戦略的深化を、われわれは戦術的極左化によって代行させてきた。しかしながらこのことは、われわれの運動をカンパニア主義の自転車操業におとしこんだ。
われわれは、闘争の発展を権力関係に踏み込んでいく闘争へと深化させねばならない。過渡的綱領の指し示す道はこのことである。権力闘争、自己自身の権力樹立への萌芽を闘争の諸局面に限りなく追求しつつ、敵権力との対抗的関係をつくり出す闘争を、われわれは単なる改良闘争の徹底化ではなく、革命的権力闘争への過渡的闘争として規定する。当面する労働運動の領域においてこれは“合理化絶対阻止を通じて労働者管理へ、闘争委員会を通じて工場委員会へ”と表現されるべきであり、反戦政治闘争の領域では、“帝国主義の武装解除と労働者の武装へ”と向けられねばならない。重要なことはこれらの過渡的闘争において、“要求の永続革命と組織の永続革命”の相互関係を把握し実現することである。
B 学習と実践の相互関係の問題が重要である。われわれは学習を一方通行的にしか組織し得なかった。学習がマルクスやへーゲルの言う“想起”として把握されていなかったことになる。学習の原点を組織の闘争の体験そのものに求めねばならない。“学ぶ”ということの真の意味は“自立”である。それは自らの闘争に自らが学びうるときに本物になるのであり、そのようなもの達の闘争における共同の体験が原点となって“共に学ぶ”ことが保証されるのである。
C 労働者国家擁護のスローガンを再検討せねばならない。このスローガンは、世界的二重権力スローガンとして普遍化されねばならず、言葉の狭い意味でのこのスローガンは、革命の防衛のスローガンである。だが、われわれがいまたたかっているこの世界において革命は攻勢である。したがって一般スローガンとしてわれわれは“世界社会主義合衆国樹立”をこのスローガンに置きかえねばならない。こうしたスローガンの深化は、“党”=第四インターナショナルを、歴史関係における特定の物質的な位置の問題として提起する。
以上は、マル研派(太田派)やその他の諸傾向との論争を通じて、われわれが六七年から六八年に確認してきたいくつかの総括点のうちの主要なものである。だが、ここでも明らかなように、われわれは自己の運動の破産を歴史的運動の一サイクルとして見る位置には未だ立っていなかった。だからわれわれの総括もまた、理論的自己批判にすぎず、運動のエネルギーの生成と消滅のサイクルそのものを解き明かしうるものではなかった。しかし、“党”の問題の真の解明は、その基盤としての運動のエネルギーの波動のサイクルを観測することなしには究極的にはなされない。
六七年にわれわれのなした総括は、依然として“もっと賢明であればとり得たいくつかの方針”にすぎず、核心の問題――“党”を解明するものではなかったのである。」(『旧稿』)
このころ(六六年〜六七年)、JR内部にもう一つの傾向が流入してきた。東京の学生運動カードルによって構成される、社青同国際主義派――関東社研である。
横国大、中大、東学大、東洋大などの活動家によってつくられたこの集団は、はじめのうちはBL派にひきつけられたが、やがてそこからはなれ、JR多数派の一翼を占めた。
関東社研が、社通派やML研と決定的に異なっていたのは、第一に、ほとんど加入活動を経験していないこと、第二に、ベトナム革命にもっとも深く、また直接的に影響されていたことである。彼らは一時、社青同国際主義派を名のりはしたが、都学連――全学連内の諸分派との分派闘争における“標札”としてだけであって、実際に社青同運動に根づいたわけではなかった。そしてまた彼らの理論と感性は、きわめて政治的、国際主義的であって、当時の学生運動の諸分派のなかでも、きわだって極左的な位置にいた。
関東社研は、東京のJRのなかで唯一エネルギーに満ちた、上り坂にある傾向であり、二つのくたびれた“分派”――社通派、ML研をつき上げ、“党“の再建にむかわせた牽引力であった。
未だ深く加入活動を続行している社通派、すでに加入活動からひき上げつつあったML研、そして名目はともかく事実上独立活動にいる関東社研、この三つの傾向で東京のJRは構成された。そして六七年砂川、羽田以降の急進的青年運動の嵐にむけて、関東社研だけが感性的にも準備されていたのである。
六七年八月、機能のマヒしているJRをどうにかしようという意図のもとで、全国代表者会議がひらかれ、各地方、各県の指導部と、諸傾向が久しぶりに顔を合わせた。この会議では、関東社研と東北各県の積極的な提起によって、東京のJRを再建するために、社通派、ML研、関東社研の三者の代表で“三者協議会”を開催すること、“三者協議会”は、中央機関紙の再刊と、関東ビューローの再建にとりくむことが決められた。
この年一二月、八月全国代決定具体化の第一歩が踏み出された。三者協議会は、長い間の沈黙を破って、ようやく、全都のJRメンバーにむけた呼びかけを発した。佐藤訪べト、訪米阻止をかかげ、一名の死者を出した六七年一〇・八羽田闘争の二ヶ月後であった。
「三者協議会は、関東の党組織の再建が、今日緊急の課題であるばかりでなく、一定の限界内では全く可能でもあると考えるものである。六七年は、日本の反戦闘争の特殊な一時期を画するものとなった。砂川、羽田、三里塚へとつながる『実力』反戦闘争の巨大な前進こそ、日韓闘争の敗北の教訓を受けとめた若い世代が、いまや七〇年闘争にむかっての新たな前進を、不死鳥のように試みはじめたことを示している。
この青年学生の前進が、六〇年代安保闘争のプチブル的水準の枠内での戦闘性と、基本的に異質であることは、すでに明白である。砂川、羽田、三里塚、そして七〇年安保の最重要課題である沖縄の闘争が、活動家と大衆の意識において、ベトナム、中南米、アメリカ人民の革命闘争と直接に結合して登場して来たというこの一事をとってみても、基本的に中立主義の立場に厳密に押さえこまれていた六〇年安保闘争からの巨大な距離を実証するに十分である。
だが、それ故に六〇年安保闘争を自己の出生地として持ち、成長の養分をそこから取り出して来た新左翼が、その幼児期を終え、六七年反戦闘争を主体的に担うなかで再び思想的混沌の中に自らを投げ込み、流動的な分派闘争を経ることによって七〇年へむけての展望を見出さねばならない巣立ちの羽ばたきをはじめていることもまた、必然的である。
わが党は、池田から佐藤への、所得倍増から日韓への重要な転換を主導的に突破することに失敗し、その『世界的前衛』の名の重みを自らの足で支えることに耐え切れずに崩壊した。この自壊作用を、最も徹底させたのは、関東の組織であった。そこでは、自ら進んで精神病院に合宿することによって、大衆の正気の圧力から身を遠ざけ、自分だけの安住の地をつくりあげたBL派(太田派)という変質者(ママ)の群をのぞけば、最後の結合の根拠を自己のどうしても裏切ることのできない運動そのもののなかに見出したいくつかのグループ、または個人が残るまでとなった。こうした諸グループは、それぞれ独自に理論的追求を試み、多くの理想的成果を獲得しては来たが運動の場の違いがそのままそれらの諸グループ間の真にかみあった分派闘争の発展を妨げる壁となって立ちふさがるという限界を、この二年間、ついに突破し得ずに来たのである。
だが、六七年反戦闘争の高揚は、関東の党再建を妨げて来たかかる内的要因の突破を外から強力に呼びかける圧力としていまわれわれに働いている。この外的圧力は、その反作用としての『党のための闘争』への集中力をわが関東の大多数のメンバーとグループに生み出している。かかる意志的集中力が、それだけではこの『壁』を突破するに不十分であることは言うまでもないが、その過程の出発の原動力をあたえるには十分であろう。
かくして、三者協議会は、関東党組織再建の事業を、遠慮ない分派闘争と、緊密な連帯の中で、全開東の同志の自発的協力で達成すべく、行動を開始するものである。この事業の成功は、党中央の、したがって党そのものの再建の途の半ばを切り開くものとなろう。(後略)
…………六七年、一二月四日」
B 三多摩社青同の崩壕
六五年日韓闘争の総括をなし得ないままに三多摩社青同の分派闘争は、六六年に急激に公然化した。BL派は、JR内部の論争に勝利し、指導権を早く獲得するためには、対立を大衆運動のなかへ広げ、大衆的な力関係を変革することがもっとも効果的な方法であると判断したのである。この判断には、対立を公然化することによって、JR多数派の加入活動の基盤がくずれ、多数派の中心部分である社会党オルグ団は、その立場の制約のために十分な反撃をおこなえず、社青同の戦闘的な活動家の目には、“裏切り分子”“日和見主義者”とうつるだろうとの予測があった。
六六年の前半は、日韓闘争の敗北がもたらした政治的な沈滞の気分が大衆開争をおおっていた。三多摩社青同はこのなかで、労働組合のいくつかの拠点闘争(統一労組三和電気、トリコット労組)に取りくんでいた。
三和電気の闘争は、会社の組合否認、工場閉鎖にたいして、一年をこえる工場占拠、寮占拠をたたかいぬいて、最終的には“金で解決”したたたかいであったが、統一労組と中小企業労働運動にたいして“労働者管理”の問題意識を提起した点で新しい意味をもっていた。BL派は、この争議のなかへも分派闘争をもち込み、やがて統一労組三和電気分会は、彼らの分派的拠点となった。
BL派の分派拡大工作は、六五年以降に加盟した若い同盟員のなかに、次第に成果を広げていった。この層は、中小企業労働者が多く、過去の三多摩社青同のたたかいの伝統から切断されていた。直接的な戦闘性という点では、未だ挫折を知らずエネルギーに満ちた不満分子としてのかれらは、他の同盟員よりもはるかに強かった。
BL派の分派工作は、だんだんとエゲツなくなって、個人にたいする打撃主義の方向に変っていった。一〇歳近くも年若い、つい一〜二ヶ月前に入ったばかりの新同盟員が、ゾッとするような冷笑をうかべなから、IやSに「おい、Iよ、お前は社民なんだってなあ」「Sさんは、日和見主義者ですね」などとあざける場面が見られるようになった。「なんだと。何故だ?」と聞きかえしてみても「だって、社会党から金もらってるじゃないか」「民同の気にいるようなことしかやらないんでしょう」などという類いの、幼稚な独断しか返って来ない。IやSは、馬鹿馬鹿しくて、だまって聞きながしているよりほかになかった。そうしたお調子者は、BL派の会合では得々とその場面を報告し、CやMらの指導者におだてられているにちがいなかった。意識していたかいないかはわからないが、心理作戦としてはきわめて有効な手段であった。一枚岩の同志的関係のなかで育ち、そうした素朴な信頼が前提となっていたIやSにとって、“言葉の通じない想い”を味あわされることは、なによりもつらいことであった。
IやSの分室指導部は、BL派に対抗する分派工作を積極的に展開しようとはしなかった。自らの路線喪失を自分の頭で克服する以外に、BL派の攻撃を斥そげ、運動の停滞を克服する道はすでになかった。
六六年七月二三日〜二四日にかけて、第六回分室大会がひらかれた。大会にむけてIは、議案作成の任を負い、一ヶ月間にわたって自宅に閉じ込もった。もともと文章活動の得意でなかったIが、一五〇枚の議案書を一人で書きあげたことは、Iを知る人にとって真に驚くべきことなのだが、Iはこの作業を太田の諸論文との格闘を通してやりとげようとした。だが、出来上ったものは、太田路線に強く影響されていた。
「現代我々は、二つの意味で重大な危機に直面していると考える。
一つはベトナムを中心とした反帝植民地革命を直接的契機とする、米帝対労働者国家中国との公然たる武力衝突の危機であり、従って、米、英、仏、日、独を主力軍とする世界白色反革命軍対中ソを主力軍とする労働者国家と植民地人民との同盟による赤色革命軍との、全面的武力衝突の現実的可能性の深化の危機である。
一つは、この激動する東南アジアにその地の利を置き、重化学工業を基幹産業とする先進国の日本は、その勝敗の決定的イニシアをになわされているにもかかわらず、日本のプロレタリアートが、いまだこの歴史的英雄的使命を充分自覚していないという危機である。
我々が今、自己の内に前衛的プロレタリァートたらんとする誇りがあるならば、まさにこの二つの危機を直視し、有機的関係の中で実践のための理解を深めることである。」
「一九五九年から六〇年を時期的中心として『反日共、反民同』の旗をかかげた新たな労働者党(?)の建設を目的とする組織が多く出現し、現在にその影響を及ぼしていることを省りみれは、いかに労働者大衆が、民同指導部を中心とする既存の指導部との決別を意識しているかが理解されるであろう。
社青同は、このような客観的主体的必然性、即ち日本帝国主義下における新たな革命的世代として、日本共産党を支持しえずまた、社会党、民同を批判しても全面的に否定する意識には致っていない労働者大衆の期待を満身に受け、そして生れ育ち、今日に致っているのである。……このように歴史的に客観的主体的要求を根底に持つ社青同の戦略的任務が、真の革命党建設にあり、帝国主義復活という情勢下にあって新たな革命的指導層として我が世代に与えられていることをこれ以上述べる必要はないであろう。」
「社青同の当面の戦術的任務は……歴史上すでにその任務を終了している民同指導部にとってかわることであり、従ってこの指導権への不断の挑戦にある。……合理化を認めるか拒否するかのこの課題こそもっともするどく改良主義的集団なのか、さもなくば革命を明確に意識する集団なのかを選別している。我々は自らを革命的集団たらんとしていることを認めるとき、現在我々に与えられている戦術的任務が、この改良主義を根底にもつ一切の政治路線への断乎たる挑戦であり、とりわけ労働者大衆の大部分をその指導下に依然としておさめている民同に対して集中されねばならないじ
<闘いの基調>
「一、改憲阻止、安保条約破棄、日本帝国主義打倒、社共民社を中心とする反戦反帝社会主義統一戦線政府を樹立しよう!
一、米帝打倒、義勇軍派遣を頂点とするベトナム革命支援の行動を強力に展開しよう。
一、合理化阻止! 企業倒産には労働者の工場管理で対決しよう。」
「<反合闘争方針>
@ 職場の自主的管理と権利拡大を目的とする『平常能率運動』の統一的実践活動を展開しよう!
A 物価上昇には、賃金の自動調整制度の確立要求で応戦し、政府のインフレ政策に対決しよう。
B 倒産の危機にある工場は、積極的に我々のイニシアで倒産させ、工場の『労働者管理』へと発展させよう。
C 同盟会議、ないしそれに準ずる御用組合に、革命的第二組合の結成をもって反撃しよう。
D 交渉権、スト権、妥結権を下部大衆組織に移譲させる職場要求を起し、組合の官僚制度を粉砕しよう。
E 地区労を動員し、電機、金属を中心とする中小企業を組織し、下請けを共闘させると共に、公労協、民間大企業への断乎たる系統的介入をさらに押し進めよう。
F 闘争の拠点を目的意識的に設定し、(一企業内に於ては、一職場の場合もある)典型的闘争を展開し、遅れた他の企業(職場)に働きかける原動力としての根拠地をつくりだそう。」
このような議案書をつくり上げながら、一方でIとSは、分室指導部からの辞任を考えていた。いくらもがいても、太田路線の迷路から脱出出来ず、その間にもBL派の個人批判は、IとSに集中していた。こうしたなかでIとSは、大会の組織過程で、総辞職を表明し、「一人の同盟員としてはじめからやり直す」決意をかためていた。
だが、ML研グループの討論は、こうした方向に反対し、分室をBL派に明けわたすことはできないこと、また議案書が多くの点で極左主義の誤まりにおちこんでいることを指摘し、IとSも最終的に自己批判した。大会前夜のフラクション会議の結論にもとづいて、IとSは方向を転換した。
ML研の討議は、加入活動をつづけるのかいなか、という前提から出発した。Iの議案書のなかには、重要な結論がいくつかあるとはいえ、根本的に加入活動を継続していく立場に立っていない。それは、社会党、民同との決別を主張し、社青同を“党”化しようとしている、これは基本的な誤まりであるとされたのである。
社通派のYは、この議案書が配布されたときにおどろきあわて、ML研グループにたいして「この議案書は社会党で問題になっているぞ、君らは加入活動をやめるつもりなのか」と警告した。ML研の前夜フラクションの一つのきっかけは、このYの警告であった。
こうして開かれた第六回大会は、二つの点で奇妙なものになった。一つには、議案の提案説明が、議案の内容とまったく異なってしまったことである。IとSによる口答報告は議案否定の立場表明といえるものとなった。二つめは、大会当日になってIとSが再度分室指導部に立候補すると宣言したことである。
BL派は、当然のこととしてIとSのこの方向転換をするどく衝いた。かれらはTとSが執行部辞任を表明したときには「逃亡」を責め、再度の立候補宣言にたいしては「社民官僚の助けをかりて立候補する気になったのだ」と非難したのである。弁明に窮したIは、「われわれの立場は日々変るのだ」と居直った。この発言には、代議員の多数を占める分室(I・S)支持派も、開いた口がふさがらなくなった。
大会に出席した一〇〇名の代議員は、満場一致、流会を決定した。九月一七・一八日に再開し、それにむけて分室指導部(I・S)原案と、BL派による対案を整理して再提出し、全同盟員が参加する論争を組織することが確認された。
対案提出グループは、直ちに意見書をつくって配布した。
「三多摩社青同の旧来の指導部―K・S・Iの三同志によって代表される―の政治路線、それは改良主義的社民官僚への屈服と服従に他ならなかった。……労働運動において、三多摩社青同は、民同官僚の忠実な番犬としての役割を果して来た事実に恐れることなくメスを入れなければならない。そしてまさに右にあげた三同志こそ、三多摩民同の青年運動における主要な番犬としての役割を長期にわたって果してきたのである。
なるほど彼らは、時にはこっそりと民同のかげで批判する。しかし、彼らは未だかつて社青同の政治路線として、民同打倒の旗をかかげたことはなかったのだ。」
「我々は今迄、このような分室指導部に、多大の不満と疑惑を持ちつつも、かれらの表面的な左翼身振りにごまかされ、その巧みなことばの魔術のペテンに幻惑されて、共に闘ってきた。
だが我々は、このように一つ一つの闘いを総括するとき、今日の危機の形成に我々自身あまりある重大な責任を負っていることを痛感せざるを得ない。我々は昨年以来これら同志達に政策の再検討と自己批判を要求してきた。しかし大会で同志達が目撃したように、これらの同志たちは、このように総括することを拒否したのだ。これらの同志達にこれが不可能だとしたら、我々がその責任を負わなければならない。」(「三多摩社青同の革命的再建の出発にあたって」西多摩支部書記長、S・S)
これにたいして、I・Sは反論を提出した。
「同盟員たけがひとり闘うのではなくて同盟員が仲間の先頭に立って仲間をひきい、職場で、階級内部で闘うこと――この簡単なようでむずかしく、かつわれわれの運動のすべての根底にある重大なこと、このことを軽視するならば闘いは必ず崩壊敗北する。職場の仲間の意識は、階級分裂の資本主義社会の中にあって常に分裂し、矛盾し二重的である。……われわれが思想闘争、大衆運動をまき起していくとき、このような矛盾的意識をもった仲間を組織し部隊化し、力をもって進まねばならないのだ。それが欠落するとき、分派の主張は“犬の遠ぼえ”に終り、大衆とは関係のないひとりよがりの分派闘争にならざるを得ない。……対案提出者の諸君の“主体性論”の中には、主体的立場と主観主義を混同し、五・一八闘争総括においてみられるように『主体的に分派闘争をおしすすめなかったことが最大の誤りである』といった発想が一貫しており、過去の大衆操作主義的立場が何ら反省されていない点をわれわれは指摘しなければならない。」(「過去の誤った路線を正しく自己批判総括し、新たな闘う路線を全同盟員でうちたてよう。極左主義反対!」分室委員長S、書記長I)
続開大会までのあいだに、東京地本の分裂が起ったことは、すでにのべたとおりである。分裂と中央委員会の組織解散処分に関してとるべき態度については、両派は一致していた。しかし、その一致は、対立をやわらげるものにはならなかった。すでにBL派は、三多摩社青同の指導権を全面的に奪取する決意でかたまっていた。
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