「国際革命文庫」総目次にもどる


国際革命文庫 14

織田 進
6

電子化:TAMO2
●参考文献
全国社青同1969〜71
滝口著作集の栞

「三多摩社青同闘争史」
――ひとつの急進的青年運動の総括――

第六章 終章

 A 分裂の完了

 第二回大会からはじまったJRの分裂は、あっというまにのぼりつめて、一年後には完了していた。
 六五年の日韓闘争のなかで、活動の主要な分野を社会党内分派闘争、革命的社研づくりにおくことを主張し、多数派の大衆運動主義を冷笑していたBL派は、六六年のはじめごろから、社会党地区活動のなかでの公然活動を開始した。それぞれの地区で、ほとんどBL派のメンバーだけを構成員とする社研(本来は佐々木派の分派組織である)をデッチ上げ、機関紙・誌を発行して、暴力革命の主張、議会主義批判、社会民主主義批判や、社会党を「ボルシェビキ党」にせよという要求などを声高らかにわめきたてた。もしこれが、社会党史の範囲に加えてよいものであったならば、かつて存在したことのない革命的分派としての敬意をはらわれるべきであったろう。残念ながら、「社研」を名のりはしたものの、本来の社会党員は誰も真面目につき合おうとしなかった。つまりそれは“加入活動”の“たてまえ”のもとでのマスターベーションにすぎなかった。
 社会党から相手にされないとなれば、もっと身近かなところに“闘争対象”を求めようとするのは、当然の成り行きである。BL派は的をしぼり、当面の敵をJR多数派に定めた。三多摩社青同の指導部、三多摩社会党オルグ団の多数派であるJR内反BL派勢力こそ、トロツキズムの旗をけがして、革命の情勢にジノビエフ・カーメネフのような戦線逃亡をきめこむ裏切り分子である。彼らこそ、三多摩社青同のこれまでの成果を台無しにし、社民官僚に売りわたす憎むべき日和見主義者である。こうして、BL派の活動は、社青同、社会党のなかにJR内部対立をもち込み、大衆闘争と大衆組織を分裂させようとするものになっていった。
 JR内部の対立は、大衆闘争における対立を背景として、するどさを増した。こののぼりつめていく対立を一挙に爆発させる契機となったのは、「社通bS」問題である。
 BL派の分派行動の尖鋭化とともに、JR多数派も分解した。より徹底的に太田の急進主義的傾向と、「終末論」的情勢分析、事実上の加入活動放棄に反撥する部分が「社会主義通信派」を結成したのは六六年一月であった。ここには、社会党オルグ団の中心部分であるY、G、S、都内の公労協のなかで反対派活動をおこなってきたU、そして中執の中心であった酒井などが参加したが、三多摩社青同の指導的部分は参加しなかった。S、I、Kらの社青同グループは、ベトナム革命連帯や米中対決の危機を許えるBL派の急進主義的傾向にたいして、気分として共通するものをもち、社通派にたいしては「右翼的偏向」への警戒心を抱いていたからである。
 社通派は、四月に「社会主義通信bS」を発行し、そのなかで、第四インターナショナルのための条件は未だ成熟していない、第四インターナショナルはでき上ったインターナショナルとしてではなく国際的な組織体にすぎないものと自覚したうえで、新しいインターナショナルをめざして、より広い範囲での世界的交流、共同討議をつくり出すたたかいにくわわるべきであると主張する論文を発表した。これは、社通派全員の一致した見解ではなかった。またこうした論文や反対する見解などをたがいに発表し合って、インターナショナルについての討論をふかめていくことは、第二回大会が「T・N提案」問題に関連して採択した決議に沿って必要な作業であった。            ・
 だが、すでに分裂を完了させて単独組織に移行することをねがっていたBL派にとっては、「社通bS」は見逃がすべからざるチャンスであった。五月九日、JR三多摩地区執行委員会多数派は、社通派メンバーである三名の同志のJRからの除名を決定した。また、「世界革命一六五号」は、社通派が第四インターナショナルから「脱走」したことを公然と報告し、今後はBL派が中央と東京の指導部をひきうけることを宣言した。
 五月二一日、酒井の招集のもとで第四回中執がひらかれ、この問題についての討論と決定をおこなったが、BL派は、すでに中執は解党主義者の機関であってJRの真の指導部たり得ないと宣言し、参加を拒否した。中執は、BL派の不参加のもとで三同志の除名を取り消し、インターナショナル問題に関する討論を積極的におしすすめていくことを確認したうえで、「社通bS論文」が組織の内部に混乱をつくり出すような仕方で提起されたことを自己批判して、より建設的な組織討論をつくり出すうえで責任をひきうけるように社通派に要求した。社通派はこれを受け入れた。
 六六年五月二一日をもって、JR内部分裂は完了した。この日以後、BL派と多数派が“党”として同じ会合に顔を合わせることはなくなった。分裂の仕方としては、実にあっけないもので、日本の政治組織では通常避けがたいものである多数派工作や、文書、財政の奪いあい、物理的な衝突などはなにひとつ起らなかった。暗黙の協議離婚とでも呼ぶべきであるような仕方で、分裂は完成した。
 なぜこうした事態になったのであろうか。多数派の側は、明確な展望をもってはいなかったし、はっきりした政治的一致でむすばれていない。BL派とはり合って「世界革命」を出したところで、そこに掲載すべき論文を用意できるわけでもない。それに、太田の政治活動と一〇年近くつき合ってきたYやKにとっては、今日は意気軒昂にみえるBL派か、かならずまもなく内部矛盾をふかめて、分裂―崩壊の途をたどるだろうということが、はっきり見えていた。つまり多数派のBL派にたいする態度は、「ほっておけ、やらせておけ」というものであった。これにたいしてBL派も、そうした多数派を相手にしつこいけんかを組織内でいどんでみても、たいした収穫は得られない、それよりは社青同内部や労働運動のなかで多数派をたたき、その影響力を失遂させるべく活動することに重点を置いた方が利口た、と判断したのであろう。
 こうして、JR分裂は、統一後一年半のうちに、静かに完了したのである。
 JR多数派の活動は、独自活動の領域では極度にゆるやかなものとなった。確信をもった活発な勢力であるBL派との分裂は、組織を沈滞した気分のなかにおとし込んた。機関の開催はまのびしたテンポでしかひらかれず、機関紙活動は停止した。
 この時期の唯一の機関活動は、東京地本分裂問題に対処するために強制された。
 一〇月には二度の中執がひらかれ、東京地本分裂にどう対処するかをめぐって激論がかわされた。東京の社青同部分は、単独でも東京地本を名のり、再登録を拒否する姿勢を確立して動揺する解放派を突き上げていくことを主張した。これにたいして、関西の代表はこの事件そのものが極左小児病の端的な破産であり、その結果としての全国社青同からの孤立であるから、単独でも(解放派と手を切っても)自己批判し、屈伏すべきであると提案した。
 東京と関西とでは、事件にたいする見方が根本的にちかっていた。東京は、解放派による集団暴行にたいしては批判していたが、事件の全体については協会派のセクト主義的な“左派排除”の陰謀としてとらえ、協会派との全面対決を基本方針においた。関西は、内ゲバ事件というところに焦点をおき、また協会派にたいする明確な政治的評価は持っていなかった。
 この両方とちかって、東北は、「屈伏でない再登録」の路線を提起した。東北の主張は結果として解放派の路線と似通ったものであったが、加入活動の継続を前提に置けば当然の方針であった。再登録を単独で拒否する方針は、事実上加入活動の放棄にしかならない。たから、中執がほんとうに討論し、決断を下さなければならなかったのは加入活動をつづけるのかどうか、という点だったのである。東京でも、社通派の傾向は東北に近かった。これにたいして東京の社青同グループは、「全面的加入活動」からの撤退を検討しはじめていた。それは、主として社青同運動では加入活動をやめて、独立した青年運動に移行していく、だが社会党内の加入活動は継続するという二方面活動路線であった。
 中執の討論は一致した結論に達しなかった。一〇月二三日の拡大中執は、社青同グループの強硬な態度をあきらめとともに受け入れ、当面の処置を次のようにきめた。
 「第一に、東京のメンバーの全体的な意志統一のための関東臨時全同盟員会議をひらく。
 第二に、学生運動で解放派への攻勢を強める。
 第三に、必要とされる四つの戦線、拒否活動の先頭に立つ者、独立活動の強化に専念する者、社会党内で次の闘争にそなえる者、再建されるであろう協会派東京地本のきりくずしに従事する者を、可能なかぎり具体的に配置すること。
 第四に、独立活動と加入活動の関係を中心とする全体的な総括と展望の討論の強化をはかること。
 第五に、独立活動の強化の具体的な努力をはじめること。」
 こうした結論は、妥協の産物以上のものではなかった。加入活動をどうするのか、やめるのか、部分的にだけつづけるのか、全面的につづけていくのか、肝心な点でなにひとつ結論が出ないまま、また本格な論争にも着手しないままで、社青同グループの単独拒否闘争方針を追認し、その実行をいくつかの点でやわらげるという性格の方針にすぎなかったのである。事態が先にすすみ、JRはそのあとをたどっていくという、みじめな状態が、まさにこの時期であった。
 一〇月二九日にひらかれた関東臨時総会でも、討論はすれちがったままであった。加入活動からの事実上の撤退という事態は、すぐ目前にせまっていた。もしそうなったとしたら、残存している三多摩社青同の約二〇〇の部隊(BL派の約一〇〇はのぞいたとして)はどうすれば良いのか、彼らにどのような組織的、政治的立場を与えるのか、こうした重要な具体的方針は、なにひとつ提起されないままで、時間は経過していった。
 われわれは、党建設の展望を加入活動のうえに立ててきた。JRの分裂ど東京地本の分裂がほぼ同時に発生したことによって、党建設の展望に重大な転換が要求されたにもかかわらず、“党”は新しい展望をうち出す用意ができていなかった。“党”自身の分裂の痛手から、われわれはとうぶん立ち直れそうになかった。

 三多摩社青同の指導部をになってきたK、I、Sらは、この時期にML研(マルクス・レーニン主義研究会)を組織した。ML研は、JR内分派ではなく、社青同内の分派的学習会組織であったが、JR内論争においても一つの傾向を代表したため、BL派が去ったあとのJRは、関東ではこのML研と社通派、そして後にのべる関東社研派の三傾向によって一時期構成されることになった。
 三多摩社青同の急速な衰退はすでにあきらかになっていた。一番直接的な不幸は、三多摩社青同に方針を提起し、活動家の政治的な訓練をひきうける位置にあったJRの分裂が不可逆的に進行し、とりわけ社青同指導部は、こうした分裂のなかで積極的な立場を喪失してしまった部分によってになわれていたことであった。
 ML研の関心は、運動のこうした現状に規定されて、主として“総括”にむけられた。“なぜこうなってしまったのか“を、ようやく太田理論から自立しはじめた自らの頭脳に問い、理論的な解答を見つけ出すことで、衰退の趨勢をまき返す足がかりを得ようとしたのである。
 ML研の活動――総括討論は、約一年間つづいた。どうにか、一定の結論らしいものにたどりついたころには、三多摩社青同の分解と解体は、ほば終りに近づいていた。一人、また一人、一班、また一班と、親しかった仲間、果敢にたたかった組織が運動を去り、そのうちのあるものは、BL派の理論に獲得されて大衆運動から召還して行く状況を見つめながら、ML研の総括討論はつづいた。
 こうした作業のなかで到達した一定の結論の、主要な内容を「旧槁」を引用してここに記そう。それ自体、十分に体系化されたものではないし、世界革命の構造と第四インターナショナルの位置を総体的にとらえようとする問題意識に欠けているが、大衆運動と革命、大衆組織と党の関係に一歩踏み込もうと試みている視点において、今日でもある意義はもっていると考えられる。
 「六七年ML研は、旧ICPとしての、また三多摩社青同としての自己の運動の総括を、来るべき再度の攻勢に向けて開始した。その主要な点をここにあげよう。
 @ 長期全面加入活動が、社会民主主義諸党にたいする基本方針としてパブロによって提起され、太田によって日本に持ち込まれ、旧JRは安保闘争後にその方針を採用した。
 だがわれわれは、党建設は本質的に独立活動であるとしなければならない、すなわち、社会民主主義党もスターリニズム諸党も、それ自体の内部からではなく、革命党の動員する革命的大衆闘争の力によってだけ破壊されるのであり、この意味において革命党の建設が一時的に加入活動の形をとるにしても、概念と歴史の展開において、革命党の形成は改良主義諸党の解体の結果ではなく原因である。革命党の加入活動は、革命党の絶体的孤立という条件のもとで改良主義党と取り結ぶ統一戦線戦術の特殊な形態であるべきである。パブロの長期全面加入活動の方針は、この点をあいまいにして修正主義に転落した。それは強固な独立の本体を、少なくともその党的意識の世界から欠落させた。わがICPもまた六五年までそのようであった。
 A 諸闘争の戦略的深化を、われわれは戦術的極左化によって代行させてきた。しかしながらこのことは、われわれの運動をカンパニア主義の自転車操業におとしこんだ。
 われわれは、闘争の発展を権力関係に踏み込んでいく闘争へと深化させねばならない。過渡的綱領の指し示す道はこのことである。権力闘争、自己自身の権力樹立への萌芽を闘争の諸局面に限りなく追求しつつ、敵権力との対抗的関係をつくり出す闘争を、われわれは単なる改良闘争の徹底化ではなく、革命的権力闘争への過渡的闘争として規定する。当面する労働運動の領域においてこれは“合理化絶対阻止を通じて労働者管理へ、闘争委員会を通じて工場委員会へ”と表現されるべきであり、反戦政治闘争の領域では、“帝国主義の武装解除と労働者の武装へ”と向けられねばならない。重要なことはこれらの過渡的闘争において、“要求の永続革命と組織の永続革命”の相互関係を把握し実現することである。
 B 学習と実践の相互関係の問題が重要である。われわれは学習を一方通行的にしか組織し得なかった。学習がマルクスやへーゲルの言う“想起”として把握されていなかったことになる。学習の原点を組織の闘争の体験そのものに求めねばならない。“学ぶ”ということの真の意味は“自立”である。それは自らの闘争に自らが学びうるときに本物になるのであり、そのようなもの達の闘争における共同の体験が原点となって“共に学ぶ”ことが保証されるのである。
 C 労働者国家擁護のスローガンを再検討せねばならない。このスローガンは、世界的二重権力スローガンとして普遍化されねばならず、言葉の狭い意味でのこのスローガンは、革命の防衛のスローガンである。だが、われわれがいまたたかっているこの世界において革命は攻勢である。したがって一般スローガンとしてわれわれは“世界社会主義合衆国樹立”をこのスローガンに置きかえねばならない。こうしたスローガンの深化は、“党”=第四インターナショナルを、歴史関係における特定の物質的な位置の問題として提起する。
 以上は、マル研派(太田派)やその他の諸傾向との論争を通じて、われわれが六七年から六八年に確認してきたいくつかの総括点のうちの主要なものである。だが、ここでも明らかなように、われわれは自己の運動の破産を歴史的運動の一サイクルとして見る位置には未だ立っていなかった。だからわれわれの総括もまた、理論的自己批判にすぎず、運動のエネルギーの生成と消滅のサイクルそのものを解き明かしうるものではなかった。しかし、“党”の問題の真の解明は、その基盤としての運動のエネルギーの波動のサイクルを観測することなしには究極的にはなされない。
 六七年にわれわれのなした総括は、依然として“もっと賢明であればとり得たいくつかの方針”にすぎず、核心の問題――“党”を解明するものではなかったのである。」(『旧稿』)

 このころ(六六年〜六七年)、JR内部にもう一つの傾向が流入してきた。東京の学生運動カードルによって構成される、社青同国際主義派――関東社研である。
 横国大、中大、東学大、東洋大などの活動家によってつくられたこの集団は、はじめのうちはBL派にひきつけられたが、やがてそこからはなれ、JR多数派の一翼を占めた。
 関東社研が、社通派やML研と決定的に異なっていたのは、第一に、ほとんど加入活動を経験していないこと、第二に、ベトナム革命にもっとも深く、また直接的に影響されていたことである。彼らは一時、社青同国際主義派を名のりはしたが、都学連――全学連内の諸分派との分派闘争における“標札”としてだけであって、実際に社青同運動に根づいたわけではなかった。そしてまた彼らの理論と感性は、きわめて政治的、国際主義的であって、当時の学生運動の諸分派のなかでも、きわだって極左的な位置にいた。
 関東社研は、東京のJRのなかで唯一エネルギーに満ちた、上り坂にある傾向であり、二つのくたびれた“分派”――社通派、ML研をつき上げ、“党“の再建にむかわせた牽引力であった。
 未だ深く加入活動を続行している社通派、すでに加入活動からひき上げつつあったML研、そして名目はともかく事実上独立活動にいる関東社研、この三つの傾向で東京のJRは構成された。そして六七年砂川、羽田以降の急進的青年運動の嵐にむけて、関東社研だけが感性的にも準備されていたのである。
 六七年八月、機能のマヒしているJRをどうにかしようという意図のもとで、全国代表者会議がひらかれ、各地方、各県の指導部と、諸傾向が久しぶりに顔を合わせた。この会議では、関東社研と東北各県の積極的な提起によって、東京のJRを再建するために、社通派、ML研、関東社研の三者の代表で“三者協議会”を開催すること、“三者協議会”は、中央機関紙の再刊と、関東ビューローの再建にとりくむことが決められた。
 この年一二月、八月全国代決定具体化の第一歩が踏み出された。三者協議会は、長い間の沈黙を破って、ようやく、全都のJRメンバーにむけた呼びかけを発した。佐藤訪べト、訪米阻止をかかげ、一名の死者を出した六七年一〇・八羽田闘争の二ヶ月後であった。
 「三者協議会は、関東の党組織の再建が、今日緊急の課題であるばかりでなく、一定の限界内では全く可能でもあると考えるものである。六七年は、日本の反戦闘争の特殊な一時期を画するものとなった。砂川、羽田、三里塚へとつながる『実力』反戦闘争の巨大な前進こそ、日韓闘争の敗北の教訓を受けとめた若い世代が、いまや七〇年闘争にむかっての新たな前進を、不死鳥のように試みはじめたことを示している。
 この青年学生の前進が、六〇年代安保闘争のプチブル的水準の枠内での戦闘性と、基本的に異質であることは、すでに明白である。砂川、羽田、三里塚、そして七〇年安保の最重要課題である沖縄の闘争が、活動家と大衆の意識において、ベトナム、中南米、アメリカ人民の革命闘争と直接に結合して登場して来たというこの一事をとってみても、基本的に中立主義の立場に厳密に押さえこまれていた六〇年安保闘争からの巨大な距離を実証するに十分である。
 だが、それ故に六〇年安保闘争を自己の出生地として持ち、成長の養分をそこから取り出して来た新左翼が、その幼児期を終え、六七年反戦闘争を主体的に担うなかで再び思想的混沌の中に自らを投げ込み、流動的な分派闘争を経ることによって七〇年へむけての展望を見出さねばならない巣立ちの羽ばたきをはじめていることもまた、必然的である。
 わが党は、池田から佐藤への、所得倍増から日韓への重要な転換を主導的に突破することに失敗し、その『世界的前衛』の名の重みを自らの足で支えることに耐え切れずに崩壊した。この自壊作用を、最も徹底させたのは、関東の組織であった。そこでは、自ら進んで精神病院に合宿することによって、大衆の正気の圧力から身を遠ざけ、自分だけの安住の地をつくりあげたBL派(太田派)という変質者(ママ)の群をのぞけば、最後の結合の根拠を自己のどうしても裏切ることのできない運動そのもののなかに見出したいくつかのグループ、または個人が残るまでとなった。こうした諸グループは、それぞれ独自に理論的追求を試み、多くの理想的成果を獲得しては来たが運動の場の違いがそのままそれらの諸グループ間の真にかみあった分派闘争の発展を妨げる壁となって立ちふさがるという限界を、この二年間、ついに突破し得ずに来たのである。
 だが、六七年反戦闘争の高揚は、関東の党再建を妨げて来たかかる内的要因の突破を外から強力に呼びかける圧力としていまわれわれに働いている。この外的圧力は、その反作用としての『党のための闘争』への集中力をわが関東の大多数のメンバーとグループに生み出している。かかる意志的集中力が、それだけではこの『壁』を突破するに不十分であることは言うまでもないが、その過程の出発の原動力をあたえるには十分であろう。
 かくして、三者協議会は、関東党組織再建の事業を、遠慮ない分派闘争と、緊密な連帯の中で、全開東の同志の自発的協力で達成すべく、行動を開始するものである。この事業の成功は、党中央の、したがって党そのものの再建の途の半ばを切り開くものとなろう。(後略)
     …………六七年、一二月四日」

 B 三多摩社青同の崩壕

 六五年日韓闘争の総括をなし得ないままに三多摩社青同の分派闘争は、六六年に急激に公然化した。BL派は、JR内部の論争に勝利し、指導権を早く獲得するためには、対立を大衆運動のなかへ広げ、大衆的な力関係を変革することがもっとも効果的な方法であると判断したのである。この判断には、対立を公然化することによって、JR多数派の加入活動の基盤がくずれ、多数派の中心部分である社会党オルグ団は、その立場の制約のために十分な反撃をおこなえず、社青同の戦闘的な活動家の目には、“裏切り分子”“日和見主義者”とうつるだろうとの予測があった。
 六六年の前半は、日韓闘争の敗北がもたらした政治的な沈滞の気分が大衆開争をおおっていた。三多摩社青同はこのなかで、労働組合のいくつかの拠点闘争(統一労組三和電気、トリコット労組)に取りくんでいた。
 三和電気の闘争は、会社の組合否認、工場閉鎖にたいして、一年をこえる工場占拠、寮占拠をたたかいぬいて、最終的には“金で解決”したたたかいであったが、統一労組と中小企業労働運動にたいして“労働者管理”の問題意識を提起した点で新しい意味をもっていた。BL派は、この争議のなかへも分派闘争をもち込み、やがて統一労組三和電気分会は、彼らの分派的拠点となった。
 BL派の分派拡大工作は、六五年以降に加盟した若い同盟員のなかに、次第に成果を広げていった。この層は、中小企業労働者が多く、過去の三多摩社青同のたたかいの伝統から切断されていた。直接的な戦闘性という点では、未だ挫折を知らずエネルギーに満ちた不満分子としてのかれらは、他の同盟員よりもはるかに強かった。
 BL派の分派工作は、だんだんとエゲツなくなって、個人にたいする打撃主義の方向に変っていった。一〇歳近くも年若い、つい一〜二ヶ月前に入ったばかりの新同盟員が、ゾッとするような冷笑をうかべなから、IやSに「おい、Iよ、お前は社民なんだってなあ」「Sさんは、日和見主義者ですね」などとあざける場面が見られるようになった。「なんだと。何故だ?」と聞きかえしてみても「だって、社会党から金もらってるじゃないか」「民同の気にいるようなことしかやらないんでしょう」などという類いの、幼稚な独断しか返って来ない。IやSは、馬鹿馬鹿しくて、だまって聞きながしているよりほかになかった。そうしたお調子者は、BL派の会合では得々とその場面を報告し、CやMらの指導者におだてられているにちがいなかった。意識していたかいないかはわからないが、心理作戦としてはきわめて有効な手段であった。一枚岩の同志的関係のなかで育ち、そうした素朴な信頼が前提となっていたIやSにとって、“言葉の通じない想い”を味あわされることは、なによりもつらいことであった。
 IやSの分室指導部は、BL派に対抗する分派工作を積極的に展開しようとはしなかった。自らの路線喪失を自分の頭で克服する以外に、BL派の攻撃を斥そげ、運動の停滞を克服する道はすでになかった。
 六六年七月二三日〜二四日にかけて、第六回分室大会がひらかれた。大会にむけてIは、議案作成の任を負い、一ヶ月間にわたって自宅に閉じ込もった。もともと文章活動の得意でなかったIが、一五〇枚の議案書を一人で書きあげたことは、Iを知る人にとって真に驚くべきことなのだが、Iはこの作業を太田の諸論文との格闘を通してやりとげようとした。だが、出来上ったものは、太田路線に強く影響されていた。
 「現代我々は、二つの意味で重大な危機に直面していると考える。
 一つはベトナムを中心とした反帝植民地革命を直接的契機とする、米帝対労働者国家中国との公然たる武力衝突の危機であり、従って、米、英、仏、日、独を主力軍とする世界白色反革命軍対中ソを主力軍とする労働者国家と植民地人民との同盟による赤色革命軍との、全面的武力衝突の現実的可能性の深化の危機である。
 一つは、この激動する東南アジアにその地の利を置き、重化学工業を基幹産業とする先進国の日本は、その勝敗の決定的イニシアをになわされているにもかかわらず、日本のプロレタリアートが、いまだこの歴史的英雄的使命を充分自覚していないという危機である。
 我々が今、自己の内に前衛的プロレタリァートたらんとする誇りがあるならば、まさにこの二つの危機を直視し、有機的関係の中で実践のための理解を深めることである。」
 「一九五九年から六〇年を時期的中心として『反日共、反民同』の旗をかかげた新たな労働者党(?)の建設を目的とする組織が多く出現し、現在にその影響を及ぼしていることを省りみれは、いかに労働者大衆が、民同指導部を中心とする既存の指導部との決別を意識しているかが理解されるであろう。
 社青同は、このような客観的主体的必然性、即ち日本帝国主義下における新たな革命的世代として、日本共産党を支持しえずまた、社会党、民同を批判しても全面的に否定する意識には致っていない労働者大衆の期待を満身に受け、そして生れ育ち、今日に致っているのである。……このように歴史的に客観的主体的要求を根底に持つ社青同の戦略的任務が、真の革命党建設にあり、帝国主義復活という情勢下にあって新たな革命的指導層として我が世代に与えられていることをこれ以上述べる必要はないであろう。」
 「社青同の当面の戦術的任務は……歴史上すでにその任務を終了している民同指導部にとってかわることであり、従ってこの指導権への不断の挑戦にある。……合理化を認めるか拒否するかのこの課題こそもっともするどく改良主義的集団なのか、さもなくば革命を明確に意識する集団なのかを選別している。我々は自らを革命的集団たらんとしていることを認めるとき、現在我々に与えられている戦術的任務が、この改良主義を根底にもつ一切の政治路線への断乎たる挑戦であり、とりわけ労働者大衆の大部分をその指導下に依然としておさめている民同に対して集中されねばならないじ

 <闘いの基調>
 「一、改憲阻止、安保条約破棄、日本帝国主義打倒、社共民社を中心とする反戦反帝社会主義統一戦線政府を樹立しよう!
 一、米帝打倒、義勇軍派遣を頂点とするベトナム革命支援の行動を強力に展開しよう。
 一、合理化阻止! 企業倒産には労働者の工場管理で対決しよう。」
 「<反合闘争方針>
 @ 職場の自主的管理と権利拡大を目的とする『平常能率運動』の統一的実践活動を展開しよう!
 A 物価上昇には、賃金の自動調整制度の確立要求で応戦し、政府のインフレ政策に対決しよう。
 B 倒産の危機にある工場は、積極的に我々のイニシアで倒産させ、工場の『労働者管理』へと発展させよう。
 C 同盟会議、ないしそれに準ずる御用組合に、革命的第二組合の結成をもって反撃しよう。
 D 交渉権、スト権、妥結権を下部大衆組織に移譲させる職場要求を起し、組合の官僚制度を粉砕しよう。
 E 地区労を動員し、電機、金属を中心とする中小企業を組織し、下請けを共闘させると共に、公労協、民間大企業への断乎たる系統的介入をさらに押し進めよう。
 F 闘争の拠点を目的意識的に設定し、(一企業内に於ては、一職場の場合もある)典型的闘争を展開し、遅れた他の企業(職場)に働きかける原動力としての根拠地をつくりだそう。」

 このような議案書をつくり上げながら、一方でIとSは、分室指導部からの辞任を考えていた。いくらもがいても、太田路線の迷路から脱出出来ず、その間にもBL派の個人批判は、IとSに集中していた。こうしたなかでIとSは、大会の組織過程で、総辞職を表明し、「一人の同盟員としてはじめからやり直す」決意をかためていた。
 だが、ML研グループの討論は、こうした方向に反対し、分室をBL派に明けわたすことはできないこと、また議案書が多くの点で極左主義の誤まりにおちこんでいることを指摘し、IとSも最終的に自己批判した。大会前夜のフラクション会議の結論にもとづいて、IとSは方向を転換した。
 ML研の討議は、加入活動をつづけるのかいなか、という前提から出発した。Iの議案書のなかには、重要な結論がいくつかあるとはいえ、根本的に加入活動を継続していく立場に立っていない。それは、社会党、民同との決別を主張し、社青同を“党”化しようとしている、これは基本的な誤まりであるとされたのである。
 社通派のYは、この議案書が配布されたときにおどろきあわて、ML研グループにたいして「この議案書は社会党で問題になっているぞ、君らは加入活動をやめるつもりなのか」と警告した。ML研の前夜フラクションの一つのきっかけは、このYの警告であった。
 こうして開かれた第六回大会は、二つの点で奇妙なものになった。一つには、議案の提案説明が、議案の内容とまったく異なってしまったことである。IとSによる口答報告は議案否定の立場表明といえるものとなった。二つめは、大会当日になってIとSが再度分室指導部に立候補すると宣言したことである。
 BL派は、当然のこととしてIとSのこの方向転換をするどく衝いた。かれらはTとSが執行部辞任を表明したときには「逃亡」を責め、再度の立候補宣言にたいしては「社民官僚の助けをかりて立候補する気になったのだ」と非難したのである。弁明に窮したIは、「われわれの立場は日々変るのだ」と居直った。この発言には、代議員の多数を占める分室(I・S)支持派も、開いた口がふさがらなくなった。
 大会に出席した一〇〇名の代議員は、満場一致、流会を決定した。九月一七・一八日に再開し、それにむけて分室指導部(I・S)原案と、BL派による対案を整理して再提出し、全同盟員が参加する論争を組織することが確認された。
 対案提出グループは、直ちに意見書をつくって配布した。
 「三多摩社青同の旧来の指導部―K・S・Iの三同志によって代表される―の政治路線、それは改良主義的社民官僚への屈服と服従に他ならなかった。……労働運動において、三多摩社青同は、民同官僚の忠実な番犬としての役割を果して来た事実に恐れることなくメスを入れなければならない。そしてまさに右にあげた三同志こそ、三多摩民同の青年運動における主要な番犬としての役割を長期にわたって果してきたのである。
 なるほど彼らは、時にはこっそりと民同のかげで批判する。しかし、彼らは未だかつて社青同の政治路線として、民同打倒の旗をかかげたことはなかったのだ。」
 「我々は今迄、このような分室指導部に、多大の不満と疑惑を持ちつつも、かれらの表面的な左翼身振りにごまかされ、その巧みなことばの魔術のペテンに幻惑されて、共に闘ってきた。
 だが我々は、このように一つ一つの闘いを総括するとき、今日の危機の形成に我々自身あまりある重大な責任を負っていることを痛感せざるを得ない。我々は昨年以来これら同志達に政策の再検討と自己批判を要求してきた。しかし大会で同志達が目撃したように、これらの同志たちは、このように総括することを拒否したのだ。これらの同志達にこれが不可能だとしたら、我々がその責任を負わなければならない。」(「三多摩社青同の革命的再建の出発にあたって」西多摩支部書記長、S・S)
 これにたいして、I・Sは反論を提出した。
 「同盟員たけがひとり闘うのではなくて同盟員が仲間の先頭に立って仲間をひきい、職場で、階級内部で闘うこと――この簡単なようでむずかしく、かつわれわれの運動のすべての根底にある重大なこと、このことを軽視するならば闘いは必ず崩壊敗北する。職場の仲間の意識は、階級分裂の資本主義社会の中にあって常に分裂し、矛盾し二重的である。……われわれが思想闘争、大衆運動をまき起していくとき、このような矛盾的意識をもった仲間を組織し部隊化し、力をもって進まねばならないのだ。それが欠落するとき、分派の主張は“犬の遠ぼえ”に終り、大衆とは関係のないひとりよがりの分派闘争にならざるを得ない。……対案提出者の諸君の“主体性論”の中には、主体的立場と主観主義を混同し、五・一八闘争総括においてみられるように『主体的に分派闘争をおしすすめなかったことが最大の誤りである』といった発想が一貫しており、過去の大衆操作主義的立場が何ら反省されていない点をわれわれは指摘しなければならない。」(「過去の誤った路線を正しく自己批判総括し、新たな闘う路線を全同盟員でうちたてよう。極左主義反対!」分室委員長S、書記長I)

 続開大会までのあいだに、東京地本の分裂が起ったことは、すでにのべたとおりである。分裂と中央委員会の組織解散処分に関してとるべき態度については、両派は一致していた。しかし、その一致は、対立をやわらげるものにはならなかった。すでにBL派は、三多摩社青同の指導権を全面的に奪取する決意でかたまっていた。6屎ノシ0aチ∃ンス:`Y=Oカ壘セヨンホ|ョ#A:塁ネツ=楕I4 ウヘ撤メムZc彝ZU堪メ捌r2ウNッア#)ンナ譚樶サ拯|圈x鵬促 Huミ^ノW-レ此ェウb,rトテu[9(`リ;博ィ= リ噫ア1租晴姉>ムヒ 冢゙-A)レ,$xヤ2?n禎ツュヂー cマク~5w\フセ?s)w1'MCGヒ哺u柢y&宙ツAナ ヤBAヌノPッチ%IネPリ、ExX踝崟掌ケ[ォ魄ササァ奪"7Kヒ J秡I*<ニ^ ナ .$ヒ〔。(|膏セU*Fヘチ|H#bクネcレRメ匯聯nq・JヌンフIモQ#袁&ケ逵|的a 竇W0L(8)ヒ・FIヤ0oT$嬉アヘ7s キsキ_Vー>-ホコ>ThI.リ櫺,i"閔(&+D%丞=奬rョgコ剱掖垉m4。1欺カーヨ歡ンdbn 。温ナゥ・婀ヌョ2x,1-フcョ゙qラハュ賁・RS烏Ei髪牴9Q キ」イラコE]L涓ヨO貝\ヨ禅ヨ如,V.*mルイt2唾。「(地Mホ、Zu・釣ロM痕髫呶JョハrfkゾgSZHオ鎧 ネZ$タ、lnミヒM-=IQテLb3sタタ^鹽」@サQ壤ネ桐(*8タsランヲミ<=レTリ^w豹t?フワ7」~:-帚ラgヌオホモyソtuR<]=BNハ・。モユ%FSO b轣ワ+ゥ凋 オ4ヘAr  ヌW0ュK eユ*}ゥd」!薀ツ=ー ハUヌフクョG刧ヒIナ@ハミ BQ瀑/lA亞bjgUユルォj「]ン*aニ 晦gキ&XB $「dヤ奥4cヒネ矧ミ415{惟}$ニ鮴yUクY奪#8JC,J稘Ha\ / ヒ》$' p鰄レK@)腥潭ミ*ヤ j痾I7マ&ソV ェユオ ム腫・aニ 晦gキYアN,0忠迅、L釖」X曠、V■荷}ワF楢Q&7MハュツネNニメZJ梯_ィ6Z5ヒ%閃ル、・ロ^候2bpUU[`L5=[)Q*ツゥKニミェ)Ni 駈7r?Eワ\Wネ税ンaメVzQAッ搜3'妄ヲ也0uk%+ユekヒャ相^タWU051Z.レJ`ヌ'<ハ瓜ィャ+マミーyハケテQ榠ソ;赱=殀K?c、ナ+ -フキcンF&&ミwBヒKZ腿ンメsg|>ウx\ニaRrヘuヌカ ル コ/)リフロム9、5齋剳 ・ル匳/%ヘロ/6「=脈&簾゙~ア謠ヤUタヒ奪"錚K+B濘ネI=h\ 帆+-)円"邏pハsョ確_hb0`Z&チDフォ゚59_スロウq]?<# \>|H9クカyK?フイト斐ッレク{WngCヨ&カZノ0ヨ、ゥ2ヒツ}ル)腫モ5ヘdXc(タp 斌急jv@ァムCスOヲвIE9+LTQ!ィ3!^X鮒7|$<イB蝗Lョョ懿Iハコ貢カモRN詳゚gワSッ検~フ{v埼(t 4Qセpニェルヌq[ロKs A_゚r#、コ6Fa。w贋ΩPゥホI黯イG1絅yコihネ;;テサ_/Q7UtDL殼Gンソuニノヌ〇`ヤ・サスケ_wス觸+@$)テeF  Iキ甲鬯祓イSシ穃_"6ォjゥ~ーC ]ヘソリト*i[fモ=モサrV奪#48JC)b濺I9<ィ^K+,・+永'p!qe酲 1o暎・Yz|・cG;゙em+@qF、Lh4ォヘu~kU3Eシキ}鴿ャラso=H觝。奪驍# 8ヒcb濛H = \ テ) -堰m!'u!pf 69ツ8"ケル牀]チキ楫U!"テケカ$コj-\エタヘfヲ4考y喃イ#3TyオZ汎ク迩=;Gロヲ裂テ痒ム肩#ワ9Q苣]FYKJ鬧p鋺Y毬/Vsマ婬!<;馼ーY_tAカaQ'イアレj|{ヘ+,-ラ}箏z茜c越c[ヲキ冷椡螯ユル剩ibマTRsハエぞ.ツネQ+ワH8qヲソVg゚+6>ロが'{V tルヲ]ァ 8カ# 硯8V偕d゙ト%、Xァ}嬌k{ラJロL情>[ケばセ$硯餌罠s対ア顳6&JCマLフ#ek 8ノーZワU雍」ンワ萢-X鰺Cソt:Jオ輟+PレョR"Vb山偬jナKンKvmォl/奪#8ハヒ(b濟g ゙= \L4゚) ・求~ ァx!pЛ({賃ユWOP$PヌIシタvヨ5Ty噴(蓆キE-(aw92繻ャt蝪゚コpレJオ輟+Pレョ.、Eャナ・1ユ,傅渟キャ=ウ<セviスン袖゚?夬1M*セPミ@ェT5。リヲ革ペ棺ヤ賞[コ'gマz4欽Iヒ連J捉テdニ欝CBケシハik椌リィ妛Pレム#o゚爛「$1ナ餅徳7b\クォ房 妓>ャVホ>;ル芝坑笈cEムX 碎fフヤ}リ耗&カォD」 rソ5Q^憐?ャャvX給コh8 u hRコ`リLヲbホG、C?9:;」mF 弍職ャーロ+渫7ヌハRムm"ヌミ耆哮ヨス[*ZSゥX{2&猩ソ轉ハソ9咄シ2,カゥ織#8ハロb瀉(9フ= \Kャヒ)l%+’#'t。q「ノエ睡ソ、フタDヌ G芍_俳.副「Zy帰セzY頡@EP N<hロワフ~サ'S緝 G -ニQTそォ@ホ負uc謬伽%包P葯ヌィ*好蛍哮8Wm2R@ゥ0ィ隲^ネ槽 e}]e$ン薄Aス瀕Bンせ+残8ス 損ユ崋dv6ns-ヘFTュェ、M,ッz&j 喝#Q#c叡 ヲ]ウKH&":*ライ$aC_Wde$ン薄Aス瀕B銘\壁"ニ_Eワ/4+%8鰈D5t6o姙BQHヂォC゙リ7I"Mo( IXェムB6ハ0sフニn3e~gミ(+Zネ)O短ト梼ロッラkワ奪驛#2ノテ)J濛gヘ=\ x゚(!+÷&%qm纃ャ]ァh:ヲJュ]*モ(d)ワd今コcB4Nョ " *呶ラ6嶐; 2ル巡專^9ッtケyfッルセKナ$ォy ヘDナK.V0セP賛JS開フレYP曹X;=$マャクエ'@アeX8ィNp|ョ#ェO爬%} イ蜍コ瓢戟循*クテ佝moM麾奪閹c1ノC b濬ヌケス=\Kp&ャ%+fー・qY(ラnレA憎xウ,エZァ゚#%ウ害呶ケハъe#g、。ァラャクァ碍:ェX吃XuJヲ%コM==zj庖2>ンZRn゚カg>3スルMヌ・ヘu7hDェワフ「WV免テrY RJdテイ棯ヘAシ{vヤソユ%{サ <&ニオ3iWk{ヘ#黨j降セ搖クオ>mッシヨユヨ?・\< キ゚n9b_ オ〕ンHメ圦フ$AZノ}bョャA2MbwhヤQR・Bg$禧゚;bサw、ンママ邑マsヌモNmz3O盲ァ^6&樛v゙xフiワロョ齲: ホ^@。モ幣ィwRダチNョ骨B@rロF簀[qセヒEOe&ュ゚攻tエ 3Kノレ-奪#"7ノB b濺ヌルャ=,\ 0' %《$'<-pロ?膠 ケ7C_テM9o{ラiO>ecn"凡ウ!.メ r`セ#XD潤 ー2aR゙焉ツ(Rl鰒必tョ}!ヘキイメウエタヤ4IJクfホ<_尠ヤ讚 讌ユ\\8^&sh.個ケ値17"鰾)・ュツ%_9 クケュエノゥ゚5njラyキエ 肆=>oュ17mルォCP"w袋ソフ イ ー茱ge。Dkヘ-\dクテ9 繧C28D`\ニ覈ー「.)斃フニr僻uキrko垤5kシロ竡゚1淇o>&シIュgロメレQ)|ュケ}V≧Vハ蚰ケl侶3@17B 0:Yンンムy。ユ>ハセKW ミ米>ユ、心ホyオ](L9ロ搓ヤヒシu d奪鼇"0ノテb`[ネ河<ネ\ L% %$&ー=qヒワю!フ 0牝カ.x痢Rセテッ ミアッVフラヘオ愬$5UテBゥEァsレウル」!揚(ヒォQC杵ホョキセヲ~ニニ閘+,k|イ"キ$e╋ティ6+RLイ匍煉@キ菖リ CVオ)H! ャゥJ゙ー(&0レヌW&)ム:ャャユ必ロPア。鄙&ッ>\ェサzxRm 3ncs `%*2@゙Q6ナキル.|ェ 暝B∬」堽・平IhP mcウ握ROワホスヨViハォロPア」oマ~Rシ%\ェアケヒユgルヒ/X决ム)e`X"侈ェリュ猷リQ>ホ`ヲI諡ク崛 FpW雇bマh)]Z碚ウ,−u、ーEC[vェュX~]0x苟・4]ワ&ナ8ヘQ囹/Sba鑠オJ/74qッ五c ;ヘ炙uュツナヨ]$Pヌ|コ届'オリネeC*゙cトス ,rFヨゥTライ「 岔填!フI`aPセ韵{<>櫚トリV(誂ウイコ;ト措Nb幣坦レ。EJP}s0i オ!*#ケトノ゙クおテ鎬灼b5q麁 ]フ。0=タ#ムゐ>]侈タ汀ホSヤ 4{ビフ鮨ミ攤ム芫'Bナ:eモ蓑ト%9[ウオ~ソ=ワ+FフラョシIPコ巧ェKチェ$レydウaノ"$,\慌2ト%Пeモ$Fンゥ唳群V訶喰ンハ蝎]J ;Qテ奪r;Hォ b濛i =(\ モ ュ求sfPト!p゚「ュD{ィヲf;Hu;ワ~ユ刳.Eカ係3^ユ*S%Kソ晩Kー]IR#$# 」TLイ娃"6Lユ佛x?羯~y蚌フッU*マQxォヨ蝨 }Kf~g;|オlロfマ]Sンq磊l^OR-bXトqxラ]キイ+=_E沸ュア懿Q」*ヘ・i巴モbjュY゙蚋†KIー#6 ^フェyナヒ5!p9ォTケサ2^少仔xi9ゥト荻h~Aユト鰐mヲpモk圸悗x劃痃ニ椶{。ル、ヨユ'ケ-gQ [cョ!uヒカ9奴 2瑙~ネォ9|・タPPP)o1ゥuゥuン`ャモ硲'M_{ +リョsヲテト4薊緒。Q\続h冉ユ#\セ(シン争兵ニmx裼ュレ奪# :H+ J濺H)=噂Kソ# 1驕$&エ-p晦エ披 Ωカ エ、>昇コ澗・B樞エ渦廸派リ蘇勳PN-゙&リェ?x泉qテE井燧P2:%!アリh=xァuサ綱jb)把ワヘyIコヌ*  e |25/voDJョッ.ケル[,ワ6>・O"ユメ}ャ舊゙ー+iC ォAヒ ]4ャM-Z.dテ瓷テ孰ュハRiニ゙{cш ゙苺カs咆率`タ n{rゥsノノュ゚枩ナ6鍵eGタp」MB;l:ハホ存pu(=Yハq 4m巽衡ユJ)ム$ヘ[ワ"qr汀]豪粲f瞑クケ慇?N)DタxaY゚番゙鴪滸キ鬟橄ユ群g畊8ェ昂%B'@X.断C&2DヨD。8$B7R.泝アVXミーゥY. リ]ヌ#&奪閭c7ネ」 J濔ネIャ=\L゚#ア求q、&エト。p鱸よrQァ+VHF。レ悉4X_モサYョ鍔サ*」テj($J!#鏖=ヲCヨ@sыr)抵181#oナホアソ5晉2登ロ1ルキFV*アメノウKケヨオルフコs邪ナカ マ年哇!ヲ迄ヨ張hン侖省拒}フ#ァタ!%ニソ馬]「W萪゙キ T子$o;5遮ベjコッ\ ェYCオス?ZサRメ伺偉^(V穎:゚モVツIコ胖ェヌ"|塞W4笙謌D柿`wィ_=゚8ム6o?]e{「綬゙|ホテ0ハ┌k・%_jP@5s)iw縋[ovqQLヒ9蹕リ派テkワ-L?ヲトヘ hBwェウPh訣 リ*.ODアJAHi嶝ァプ'ヤ・Zヒュャクヌ孀奪38H+ J濬HYュ=\ 鞦 %求w"&浅%qp%_F`-蘋ニガ笋僊穆ホ撞%蕨{7 bヲ7dャラ*+aゥ.rQ#ィフツミ$8ュgXニCdM.徨5ロゥ渓ェ!靈y禽uK6<眛(w I,fョ漿セ6ン'ムdrIb齋7Fル「ヒ4(ヤヲ脛ロレ1皺ェヲニp,ュrキ猷[疚熔「mxム>シ|゙70Qナvヤmチ%O(.ラg O{鴣u、4 讃翹Q齋7FノヌUY$" ミLュBネモ$#SO?$モSイmM*ц3cコユg励コク襃彩MV餘トuスコBオユ$h6キョア]2・=C)腰驤fd{ネ昂BD5y屬ィd鰆cレ誕坪El餓荒レ}ォヒ&鳫xョ蘰ァ弩Sワオュ母襌c$A奪b7ネゥ饕瀋ヌ%+\ \゚"ゥ-×樊0ュq!5ツ+O.D 堂h*lrソモ?ォルュョチy「G~|゙Pチァウ r續P慴XTh"テ-*Lf禺{8;Iハd>髫!ic、x9GL+タヘ#アヲsHg1ッV輳ホェヲpA\>ケタ」博煩xB亨N」兄ォラ姶'謔ァメ+vッ$CサQオ}ウm闇不5鉉゙9~ノ」/tーJル>喜゚G府A(!ヌノx7e wヘルUK瘡W迎臀ムスTレ ; サー鰭スFラ。F`iオフ^「s妙サ嬖ハワ->ヌフソイマ{W痛$<@&オア゚ヲ m虐ノ簇g*麺ヌ'モル適/RTォDイq5HbmW0オGe%8#lクH」ネカKォ:9E/rアヒヤナカャnヒア~褪拘奪38H)饕濘h奥$ネ\ 4! 求y覬%pgャdヒッesメu斌$タノb・クレd嚠施ヤ|ロ祇>鬚げヲ=0iテC4r(荏4KPミ@h=\GQニ モj#クК&K-屁W0イ_ ソ#ュ,ノ盧裹屎マヤ2b/S}ホ[Sケk゙5ュ怛戸+0>?OBz._カ」磴LUb`ーT=hエ7Xル @Q炭怱n、ハ戎m繙;ルs~[f澂 t3ユ漱%「梅!トヨ6`\ェr"%ヤ6チZ P\QQツ`#-aムG兇 qLUウーpウウgユ}WS(メnD2.( EナKo U~ーム壻>ュェ」~ンォCU=*u戍8`D4隨魂8J&!P┣ %徴ナ$醫q飯_ イーオFヘRトロチ舒ーク。テp奪驥# 8ヌゥ饕濘ノ !\ T ャ%+』fpテ!pwエヒ '・'H$7ォコ<% }zホJヌiンネ駕Y NG/DロdСM#什テトヲ醒UЁdェ逞A゙+sby」 垂my5ソd&T.9ッ14t:ウマ20[、# %DNヒ茄シエ巌G'ミニS#79\2チュP築テフレ3L」╋@〜蓼(A採ハLリMメ詰ヘoE4Iモシケd.ト。盲(.\8ユ+[ォロtウ ェ:ケウ桝Y舐zフe26+ ,ユ 'ャ<ヘ」4ハ8KDf 'チ@ツ4nfW]gfツn膿フヨY」D?杆,Q8\% カ咒ハテmιr:績{夛サオc゚kXウ 虧氏璋蝉狡 $\ル*愴婁fニF+臨a聰ツハVゥ「dT)Q班eミーイチfXi8セロ]ン髯耿(ィmJフ奪 #2ヌォ J濮9= \ X%+−e、ト・qWソヨセ(Eスxコd襃ュ網sZ゚ 繰Dydヨ@靖Jカ4ニlリネナrーxイハ]v欧「!ト)]クo5ァ/mョフル鯔ュr愈チウ^ヨ<.瀲'嚮n-L/a[R筈モEBツwッム5qLU\タ診xミ閑>!.ヲロヨ迭リニBGSQラァ ィT・ミTrーチAs!QツB枡Xpチ:;レ)「hU"Eヌハ九轂[謨#哽蒟;璃6ヤk>OOユ P9"ZAゥ\4躙イロエw詑z0鮒祢ラ=Bヘ[,&@8囘:%i) 2H:ルイhヌ2イ5Smチクツシ゚/^?$エ,{奪27ヌ∬b濮ネYy0フ\L斐 1求w「f!p室膕ャイFF,YEク鵠ホッK贄j;ト*MPナ"MgB銃r!@o4ヌクモF爲Iゥウ+*リ G」$ ' ニ$lトW+fツナム:R t+p)ケュ:ゥツハネヤァ奪驪"8GェKJ濘ィ|-\ タ゚ャ1求鴨虱アp|c滌ヘsル^ヲェ硅2ElUュヨマソハテ2ェケv6ハ刋゚霽Po‘&ノVョ$v"&.4ZE,ミ、w\┌ッ 」Ы号 里v黨ュJワ7<ォ,oY5sツユ奪驥38ヌ)J濛ィii\ ヌァ・+”eミウ%qu暘%b出ォ 瞥キ9カTヘM] ,、ル*メa炒ミd柴Dナムf稀ウe狩勢kツh#s 毛;F黨ュ゙ァワ7<ォ竦ウ *MN,($危 (カTS哲ネ&oM。cリセャF歎ヒ緩!モヨ $テ嘯播lTッ5a緇ツX%%_柴AD|レh HSJ侃 ツヤjS=Nゥ)@倏)Vシ)「'sq3エ./[窺?殱c;[M);沺,Dコ<ぉロ0ょエ徽;g蒹g廟刪飲サ@ )、я(蒭欠ミョi1bIQォiB、ネ$畄.蒡f鰹$O価!ヒツ5オスOW8Tjmサ/テ<. トDナ*)ヤネャ[fー Kユwq=bYカレ+=-゙摎マ奪齒#7ヌ飩濬ヲ|$ノ\L衣 %求滋edト・qマ8@mソ$オゥA-gモ,オ、JD粐オ粮&}9IWッ/8;+トУム!0ュ喊ォ闡ヤマ4sラ街E8v試]゙bv否トU従ッg#  FヨcWP$埠蕭旒ロ 痒9ts恐モ麦襁N +++オネ@NkVヘ/Ub4ヤマQ゙ル逢ス」」流メwゥキ距ケ-禹シイCh4yモE4廨・孺LQ(@@7ムヲニエチAョ絅>ィwフ/H?落,クヲ .xエレ4夜ョキ靺禁テ墹ニ甑ァ?+Hs訌[a奪 "7ヌib濔f|=\ ゚ャ%求w%dアqリp ケ% 2゚」PZ!d聞スaショ、ッK6 QHPヨo「#>3Mユ絞繧ゾニ}P?H?落,クセ .xエロO4夜ョキ靺-ョk?6ッヌ4珱ュ!マ凵oイT`AsEヅEAス筅mpャSィB*Ad室0ヲa%オヤ6ミ4b9ノチノ",%+ geク <カ:6ャs=eキvョケロI2.9織髀r8ニIb瀉GH=,\Kー゚ %求t帛ヤ1pKY、ナyカ A、Q?マMユ隨^*Fk!メ!"bノ&鞨jkーカ規防ンjテ Xヤ\夏 ル。ワヒ」[~ロjア匳オッ_k哭ケタ %ャメbョマァHRォメ]k:カコマSイf迪X:W84R4叭ルート<З走モe&、} }ヤp2ャ゙イk段3モトム゙h4Fヌハ ,YfD 6ト\ケNマG ,ョ゙ー゙搓ケァヲ徙W5tPF$ Fヨh楊ニ閉N4B$」ヘヲヘ7#ンG*ヘ&ケ&#=x;ヘア2サ粒^ェk&ミ6トク[J6z*5ネ帽ソkルヌ受吼ホXP&ソァ* Cs、」,芭q]|(k・i。ェk#詔賁ァネJi居 ホ?・>&=ヌ.[VDェ躋ヨスRw Hミメ>ーi奪髀r8F b濱' H5,\ 仗 5)《$璞・p゙ン>]Go「ヘ裝MnHフqk 紗フホqAレー9@c 7R]qロCz]P嵳ネ撫J硴桧ELxシ脣%虐.Zh.2ャ-略GAワラ8OGUw腋マ泝。v(|'ゥサクキ:Mチ(スーcチ:"Lqィエ2`咾!「ォメ*ネ(<イヲ:`Tg侯V鶸〆 e貨邁娶ーヤォヘNeCB「逍tェサi、AカNiHKgqo:tォア'、+殊ムAニ「ミ4FrU]$"$ハ噫驛ヒ脳Q3┻モゥN ネK,グヒマ蒂スユye⊆R樛賭ソ+dU h廣Uヘaワ唹ワヨpホR篭h1i$ c鈔s磽藪悒KP伸K"8U^ヘ豫Iネ4:o)G=4{イm拿ッQ珮 &'奪#1ナ b秬)8=,LKワ・+±$櫨qh8獏ケzT{" 。滓1ャaロgOワヨh@g餃*エエ池挧ヌ マト9トハ妣F戞RA=.灰W瓱v 1a'"ゥSyM9鬟ン塙zスGウキ「5$セP滑#k=エハタSh踰悗GSォ佑_nh「tセ裁$:。アsークホムb6ワyコ^アヌヘーzァ%樶oコラリf;шニ|]Oリホマb4_@ァ7ヤモ+Mネoォ倭ツタ遑ッキ4QLセ裁6I$t!碵sークフム維qメTフ3ン-Z ヌp繊タ1・"ユbXホ`ロ3ヌV{殼=H2ヒKャヘD笶億 <ソ飩ァョy]ZM~マp、港-;イヨ~\スjFW+[/@\゙Tェ ホヨiアヌ5ルオ-泓ス8レ、奪35ELb濱F(=圭 俎 求_壻晩1p揚キイマ顱霤.)zタ宮癜辱、e_B;<W$♪イ-騁ェz衙n5、ユY HヨツモソZタヒ溜H瓶コ.lェUgk~エ+v%俯]娚ヨシ5僑#i{' ミs駈2シス蒹U仏ァクGrヘ晦唄S+ゥIレ_+ ル[メテタxqYP棘Yu肯ヤNオzb革_スrk5スコf8hI炭_ 1 「トm/ウヘケ\g~イエニリ、仍]JH.モーxサハ羞ヒヒ薔卯フ/ォユッェャkuDW、。ムァfヨfウ[ロッVGCミ!卑鵯@I袙Uヅニ"eチ_,サチ゜k.+$ルB#ィM,ムy<クYс、ィ(r,ーQ2&ア2KL「J9;鵑}E><カ*ユッ6{S;キ奪3-=D,b瀋=,\ hラ ・求g壻`アpメfDh゙エwナ。fy傲愡ヌ72&K霰*レN豹C==荏畷眺64+<_エeq ノォ$/Uユ%eワ恙ー'$hソye#ワfb冩喙;゙ヒ5d、 Aq秕xтミ|ナリナン兩コ゚セウ啓=Nリ韻hヘヒ+y'Z諮エ|ャシZlネアВp``「B^ムム,,W。 +!+ゥロ;-コ溜bハ。rM;?H.Гyン }V。uキヨ8bワ';\%1巛+幣勅桾アUッJラ檳A((>- ! 2チロ褄\P册齔譎エキ釉?゚ュ垤チwt ueネ\キ*"V<囮ウ{ナmヘ歉'ムq゙3D ( 4サハ喘(メ<臺ィ辞HY;QC煦bqッ(ヤ2 V[;Xコ*|ゥロ鼕゚セ,壙sユ`LB英奪俊8ナ J濺踪=圭 ワ ア+×帑1rィ6!~@TcンーK・ヌ!ア>コ>"OQbsD $、サネMeK9Aユi &j(ク"很ハ5 yJヒr羞且SNィロナ3_憙ネタィ依榛f%・wホ9・Eサ.αレ技(iメ"[β鞴C%’#「,3)zル裨B} ?盃&蜆Yケカ。mメCィ_ラ7齬スFナオOァイ團ナョ珪ウIuオ/tOf5<ナ彬s 9j牴UミPツsィMカミa'ヨ]オンテニwィJスb。レ|9ト机9\X町F^メ「q官ャ%ッキh Gz=奪峻5ト饕濱ゥ1,\ 。k±」タヤスp゙コ:F裨ウソ6iヲ-徨rノヘヒャ傅2Cq・iカ %qH6R戴゙pケツpタ ワYqBOョh写ッz兆夙Wル垰\」Lクホ~チMケ`ーヨ欲G-eemユ袵uWシ厮オ=r0 杓ュ嗚苦ニホーC-q) 9ツpP蒋4lチ`1lム・18ロ1{./ヲマ-顛傍Wァ[ー 伝Q2 ,ナ[/ロセ゚ゥオP w5Iコ欲g>ヤ0vホヲコj苦Gホ2チ 亰ト1= ノI[K頃&&-曄サヒL`メハニサ1|.+ヘ杣gルQ^挈P.ッマiマ]タニ迪Rjt択ケャメ8 1wェt"?ハ-侶ネ_vリ綱ウマB%ユタ)チ Xqイナラ皙tテ3s鋤哺堯`3ンil晤イ-!9ミ3奪rミ7ト∬J瀋g倨1圭 リ %求n耿ヤアp '`゚_gTO l;ッ常Y袞7メ ≧=龜"dG發ホ4スョIC5ェヒ!uX 恤 @#漉/ヒォCゥ}「ロ彁|フ7ェ{ヌPフッォ侭゙ス-鼠8^リl ァwWコ_Tム嘆シクネ1・5コキ:尉ツ}!~$エ\B50チ漑訝e厄マZミヨsLA]ヲEz&ソ3ン、鷂B蛇9菌「コヤ :コヤ軫=ヌ゙CチjオVx7渮捉+ Rア怺挈戛%h 奪qIヤ,Hn\オK,キ~Uk6フロ經3晋{「スoIシヒ岱魏耽ェ。oロ*Iリス.テスンoュケ癇$サ0# '?ミQツn>Bネ-\U陀佗Eノい麪黻kn6玉$3ユHe マツ>ャ_QBヤq些0奪';D)b濱辷=,\K鞳 !求u彡ヤアp_R豁M0キ 3({スr)「L琅ト 布HトヒT産!+';ymj'シZI塊-リ猩ッアしモj賓vJカ鬟7KO/ルノセ^gbェモメ_$(苻坦~ー蓙wv柁d9倨=メ%R「。(eY.$襟2!ェ'Pp,od 嗄}:強N0m5ヌ}ィヤv袒Iハロラ リ ャZィカム;$ョ朞zyヤチゥ 湟ョ,Aォァ]kd*ツロチ ]+Ouaラョe教ハ瓸堂m+;ik・eレ、ホシセユャ荵{ユ」ー5ヒゥ゚」~タP<浜巍ヲ-Wワ2iマー5ク5ニ 「トq。ツ%庚佐゚dウPDIZ([Vqィ綽蛤z% 筅サヤ;奪7トJ濕ァ謂=,\ H !+◎槭1pユマX3ヨ興!ケ気*pヤ1貪陏産ャFムス>eュナ&mよ・gQ,エE「! z:Fルルツッヨ"闖猿c .ヲシト1ヘYスm^G[亅搏 フ9 8テ\"|」ォナNmホ+jニ^\rソ閑ロァュ筬H 覬淒X|ソノU'黌裘dKt7?qS.馬イノ惇リ*iハ6cH?>ヤレvユセゥホt-ォ Rヲ職:Λj_ソサ}`ヤヘニ1mヒヒフォ「l;O[ヲムq燉2Юb9C}lエォ4謔sナ>QJ6Eヲラァ゙ル'nk#bヤ)ア <$゙痣f「゚:カ4皹蜃rチFヤ鬪^yR ニ惨クオiッ^マ,B$ =コァZUアQエ冤Bーノbッ,「ァ┏ェgFf、イHサァ=シア殍Y&マk 拠陲bヌ奪闖ス8トJ濮ァ(ミ5,\ D・求#@┸pk/ソソキ0ヲッコ錦麕rV゚リ蹐MUy >゙H,L,"奸チR Th>liァ剖Ba^チ桀jK$M#ラ=ク$fセncソ惓Cニ9K Oキリフ囃-砒ソ'アケB擢キ゚d 1Dーー[hヤlュ6「cネ 裾&XA6VID替 '^キ O%乍ュK赧軫igル、5[*Aロ鱗ヲt(LンフJ_qIマレ゚~fヤ鯆チムテチ羽ミyオル^推~*メB\天_!D5NョkヘYQ@9ノy3zz庇奪9C←J濟ァhミ-)\ (・+±c@カ1pム苓R2フU7ゥnwfキIール9]礑I J]Iヲ埃H武]U l6x4ュLlゥ0\コホム ナ゙_`レ。+灘SEミ^ロ2vロ灑ツ#$,6隆梛Qマ樗y^アャヌス3oヌ唾紋ユwF8!ェ}+i%陲売i加(| W\「q"j?O3Lxホx忿オ)FPM漿p)n2、h冕ュセッ[ ャウsィメ晰M徇i F \\')dオxクコ 紿アヨ 蚊E#`bオ ン:UY権9m$'ォfW薫?撩=I゙ョEsティs剥キU +1/異冫~鉾vユ マ驍ルシ1+薙Iホ#ヒe)?テiq8ゥ5mr怏[」ロ=i#;エリ、メ^イ{ヲy1 アPL」Qk%ホUォ餮奪4テ∬J瀋ィタ1,\ 舌。+≧枋1pmゥツW裴Wヒx驪\*ア3ォ燔<9堋ネ ZRモフタレG袰モモDン'/トe駭d沸゙,ヌ6殉5ッハ*レゥ曖フキィ棋fn罵0=U35ヌ|サrGカセ @ィ%8糺9セュr鉉"t#rノカy 1ニZシQ7OvVセタ;Sオ;ソウWホソラ^m=\ョY゙ノZi-ネu。1ク僧登{:(ウャ!ソチYゥテD+*qォ*ャoX"B/∬憶rMBoA幹レ」ッァコS弼語LKミ'SwヒFウWホ學兎ラ怐B悵Uォ;゚ケ=kNse幄、粽rUpァヨc幣キ^癪>茂ミ口5e怜2ミqエ*Qアシq-銃ヒS腦Fッ.カネq詁ミキ「ネヲ楫ヲfe)34}ヘッk2セ幣ンャI奪齒レ5C飩濱ヌタ1l\Lt ・求n撻エアp-屐jアDj樸j>ユ址ァ(ノマ・コ杆ス`@D脊Zъエ 6蜑ョAQtDwシ{ャ裝A6?ナ-!ヌ芯劑ョ,・ウ4ハfS&eワfスー宣4タmレX$ぷョ・YKlw1i}_A@メ犢$ォネ┳ルケdOG0]3RW4f鼓嘯、iヨ[ァマ^ソ調緑ェマオ筅@ーeIZニ+アフpキZsy゙ン。モYK 似止[レ\$笈逝0cd+9N46X<屯思a「Zイ7.B~ェI淘メモl/=zレ雄將゙lM+LSォ.q萍Ez"幕シgN?vnラYル9カウB 厩慢1ェ蒭」aムZィ找,班竺zャメセ% コ朸ヒ刊フぱ,yツFヲf/ゥワ奪 ;テ饕濘ァhタ-,\ xロ 。求n#t1pキ8ンメ拭DMレウ*ョP懌5Tイノ゙$戚Xロ蠖」キ゚傴(bt゙^o$<ァXZc十ネrヒ彝9メコl嶇9ニ{ニ-f;ミラエ[/ds=戦gzルルIャrニィx竓 1ムユサケセス+モw蒜&32 I!\ォ゙+*XNr&eヒソo3J朶ア<コ檀レ飢椡ロS~'tVZlモt$u0罟rネ枚壌コKeシ2ラ酲>ス38ォi@dUWWハ*[゙ホ,TMオ\9ホ. 2U。fチ22G.JンT21V2軼]P=゙{メ゚l=蜈セマdz酌」Zuヨ-q ユ^ェ腮ΖLン{瘢モ桝街m*ユ,U*゙ヘフゥミCユォ圦 $ュ喀フャ鐘S゚ャKO:ヲ]モツユォZ|]-ェレ;FO゙}コホオ SEYSUPモmル ウ旨ョツG8訖z灑娠 Eタ愽 E[aTj欽0zgW>ムヘl ロ9Qレコ~`讒オ"何~ラ奪浄9CィJ濛(ー-l\ ミ 。級~昶タエ=q=u3B┃u`エト^藜ioc| 涅K'エtL fA<。ΝR48ク珞捉/Dナ畝ナャケア.溏L次/vg=iV[へロKV、ホnLoC魅ト輕JBk>コフ oVCカナ$ヘ.ノ~1'xS6エャ棲タLFдモTオ、シ4ーDメ#&>ツネWIヤ。wl\{ ]0ク大IウAシj顆*墮>要モ~トス_ユS[ム;_サリ浸g亘=ワFサ梯剖rアV笙エユノE澂Vエ}-*ネ%=!#+qコニ視-。#「ゥV[凹EEZムA゙[跚籵b. E6漏&ネン崛ェ 夫-7sfソ_オd,jヨwウIリナ 汽Xュ、XV:レw渓、$$ィuQレ菊R&23Jヲ俸蹂ワ'ヌ疳ィ|{ーAノ頗*,オ Uc冓4奪齒レ;ツ※B澪xー-,\ ャヌ+奄窶エアpu1岑Yoオ妁 烹7^犢Uイt`チ。カニミシ蜚!,}FzOfエ釘ミDウ9'npュa*%薄6;Jマ瘻キ|ソFrモ4Vy@Ma叢」ト。ソナ?峭ヨbヒ適鰊セEー*ヌ老2 X1!長aVァト廬%ハ%フOハ ナハfサ$ ネニノ*槧コマルフ~.ノ{^qヘフキセ,シ*リ祁エャ8Gュ/Kヤ&[8禁@aザuレ。ユvソWm庫-鴪ヤヨiヌカ2Dニ「ッTA5、Eナ$ナ羹hク、z<~ヒィ)テテカz<'hレs)駕ウンンェX椁nハ?ケライUx。トXYフ%Yレ+'ツ*ヤマ~哇チヌz゚8可Gャ{J!ワリvi鰍8リコ1Cゥ陜р>yモィF隼オIUヒ鉉ヤ+霑 <ヒ耳ミ肋I4ム、EL2+奪8BヲJ濺g1,\ +≦"@エアpエQom檻Aス$壅綉脚43kC≒ 夏。Ez[ゥ碣I籏R裴``rBト枚ナ"ワ泯Q ss袢) MGキゥfk;ケ[~5 ロf荘4Rケ4閤オ=[6VRノウ%2eF3;Iヨxケ艙$ ・ユ0「+x「APゥ芥ウミ゙ャ諡魄Pンi陀jヤッ5^T餞ァィU SMミミム5aD .キ/ョヨセ艸8ンT娟ロ!~。. X$R。隷チロ(0xヨ聞0*_(KW Y筈ィUロフ+ ィ・」^5ハ-ィソyェ@1qロフZnエォワオラnト|踴jhx+ュスvヘFkォ糧サレ|コ履アフ┣HlT68k:eg-CーTPp>Q彖ィテe2ケゥ>ュヲ↓T1弟kュィt>ナツ恥EG階 '加ウォ[奪8ツfB濱x! \ L °擇@エ=pカ筵,*>Eェョカメヌ^筌メgミー娠」Dツ)*セ~Tヲ@hツヨvヘ雙ョ86橄~琉ム5"ャト+゙沈渡ロCサ-5Kヌ^ャiヒチs舗J"ム C-I4゙c/ m55ヘJ・饉,ヨソヲ-タ;モ%<ワ6ラVc^ユ 6カ!レgワVlュi絶 bョ >K *} @タ Mィ!#hI70ミソpロユシW|r轍ヒ、ハア*ゥ;オV琿}奪状Iチ8ヌY $犢H<^覗毟ルォh腔゚]-・ス ▲Cユヌ」トハ~'|{ソif奘ヨXト幄#}O#ミdg朮ヲ躪崩鞣^2肖9uXZa-V゙盜゙>Tp;ヤ〆ロ7^カW短鳩マ_O_ノッ[躾 遅申萩=荀[ルソサメヘMメMS葎剽トソカ窮忍<オgIワ)b弭ツ-舂搦\ゥ(3懈PAラチ コl'┗M2y ヒSン燦sHjdf茣r蛔゚%ス>薜?ヒ慚{ユ;料y*奪Aチ‘B禮辷 \ ク 疫┳pテ替(椦%クン怖ルケ恷塘寔#Ul{ァ/シZコ.ケユツAPヒMB\Fメ9;wマv丸e*ユ#楞3;;ョヌ`圻A4逢QB壽縦UC*u・ョォメ呻Jvk^td四ニオクEル褻クF。ッFsロイZ憔ユ fG'セ+GN@ォV。WXシウロwホ5Xク{緻7ジ ゙槍ョX~蝙ッI ヤス゚Uユ^ュ。アdjヨQノニ"フ#ルQL高ゲヒYU(0径隗堪Y-ネlンエ憤;儺事hマ2V枚\ zj慚糎 栩 w.?5」ヷJuk奪浄bチhpf逖p-,\ Y 衛b=p^Jセー蒄mfフッ}]|スXヘV彿BュR=1゙yrヤ:ォsヤキYLd;メヘF?$サ級ア疉ィサZ ナKレ涸墓コ5rモゃニE・檸。Wルk訟ヌ%vシホモ[ト~坎繪Hxd UTuI]鐙d mA「サ「]hYュ蓄6ョ'拵|_2キ境r゚ワ羶li節a磔フ3幼 nQ?キソ0袰トV颶コ崘3田ン'Pd >剴傷化`ヘ&Dヒxモ冽ヒ$クユfl мY/-ヤミヨokマラrアOホロ\ロ}-0テニ創ミD疑F興s7k刑m鹽キ3@f、E窘8リ07ィホc"トAァリXoVェRカョ・捗汢}ク首wィ姙Jケョ奪齒I@B_`-,\ ナ ヒ掩aオアpオ"\悋_nM」?ォキァcノ兼XiKヒ@vー碇jキjテFコロケqu-ウェ倆ロmレホチャポwmマ|ト筵亭メJ2.ラCク変R/烈ヘャ わ~.}トユマホ_wmU?)レFッル艮ーeシテ莢ケ|1_」"b:?Qh淮爽]ノウ号(jンチワレァ=qI扇飢MuCイ寅Hフyld淇シ60茅イォV刳キ枴hhムヨ`ノDto u襦U}ヲァaGァ蜈#2XfgdヘO2オjwe+ソ剿キnル'惇ャvエjメUクT:ニ・4 X。B'ヲ,史戲当7h戝Lef99フ紹5Wヒ1mW析G(テ(D|ホヨN!F)゙:ェ┻ヘ「Cナ-ー↑サナM!マ,イZン;ヒ宋ン戸逢CウF 鯉3<織齒濳@B`ヌx`,フ\ 1 ノ懸a@エ1pヘM∬ル/cpQィクB軫ナzjmマ゙|、Dン踉吹ヤオ ケe「UTネョÅ9s徽8ァR4スェヨ:ヌbHヨ E_ 穃Z"メ槐゙Pス^褓マxgロcVf:゚,4ヤLヲujE V缶コ3q(Ibrト"セォ゚dフヨpケt鈑V;クr ャゥ-u俟=豼ヌラ昧iンテ笘イhmト倅xtKA;「9X8ル、穐&{6'マnQ、!ニ俥゚コ トイル楫3`ワムフ潜オ杳ι&nホW,_據 ォソァ0椎TUmーU・d_(ウ;響イ、*0l! uoz斌$Yq皖綮愁ャェeWsF佰j眼F($62R ッリツeリуスタ′CV曖E祐cびス諛tsb0C^奪髀 BソB秣%P,フLL ヒ盈!@」-p斂X衂W-9゙ヌ^U~;ヲノモ2スヒソヲキjcEN゚永_%)キT(親緝lo、f茂ャメ岷村ヌoェェカrセL5頷ィ{。廉^@aナ「!q蹟セキ・」$Qt 姚.,゙$kiムタワ ナ  Tミ早 ァネSトコ攤hEi・メ睨&R,P`チ截:ロ%ァ2.(ウ崙セZ'キセg Baサ妣ツミワ蕋鎧FエV~沱 轗}メト楮q・]派Z.熊 hg @ィ四%MヨT龝8渇{0ツ*T* :MFf・冑:メKk/Eリハ)跿ヲチI:d& S`0ヌャn&Hm0豌)UツPJjNォテ、ネワ 魂v搶`ァKOメラハ8q襤KHユz1カYァ珮イカd\ネノT汐オ iヘS奪MセfZG@,ノ\ A,渓ノsタウ!p%ェキテ&P゙8炳5゚D暗ィ4p1茖d禹匸N"ィrZリム] ,$ャ6ノM=跡ヘヨム|ソwD{j^&ウ"笆&64痛鬻,b`rィa9アツ災カタレヌアネ$。ユF^イAチク,∇ヲW3#K做ナ:チネ洸ル任pキ屍Fネ-!LX嬌[] 9HAミ歎 c|S"#阡ヒÅ徃Pアクヲ!ャテ'J傳=B&ユ倔イ「prミル「_ヒ珱f石Aセ=%xV74ァ^フメ窯n5韻剞Jメdワ'ト檮rn9 霰!co%]ァ(レョxCセ。茴ハ-壊タ柄4ヒ。lLヘミヤ) yワ?FOUトラッTヘマラlウトRマノ'16簪K wKALヨ8゙:イ{ルzハ=Eや-橡#;lIb:奪]> `a(0・-卑T2タFzリDbレ.qLカ<蒔嬢ネ4i劉[エシコLm)戴jラ゚。サォTキ0,`ウハンdHユサwソm~^c6bsリq゙ュメ壹ャ゙ゥzi」゙・&fオレ゚暹壤m蛍ォアユh`Yz稿^コ?滷%Z<fС・u&|iPY-笄!ー4GCm- HソH掘%鰭 Gヨ0%勉^Z.ネ`DF@ エルA Rソ{カ ;ひ遇尖ュュー"勁ナ ヘソヤ:WLケ<<滌ウ ゙)]、?" Nnァ#ホ縻J|Jr:ョヘニNナ゙ル、X勦]9VヲT廚┫NT。5ヲゥミJyャ=ヒ」=2碣謎フ3 ┝KF貍J1MコI27ワフKCQlセ顆nゥ {fT繆ルセ誉 Mェ゚I)ィヲeヌハェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ フヤシW#PQカB)並 LモW\%20ノ旭.8B 碩 )旭ハ繖m$Eーy1ナ2ク)! 「」鎹讌・篋ー頼粤┬W QB、Pー#ツ、2毀b+)旭ハ繖ヲW p桝& Q毀b+ xョ,)奪ソiSjgc^@、エ-ツ形ヌ Lョ8Jdモテ< ー%Zノxョ/&"クイ岩ヘヌ Lョ8JeqツS$n@+4龍Bユ[T、ソ)旭/&"クシ頼糘b+去兔p般繖ヲW&弟Mノ底l/ャイ]ム゚)旭,ヲ"クシ岩b+近麁qツS+兔p般繖ヲDモBイ:.Gtミャ視唾]4+#「舊WM ネ雹モBイ:.Gtミャ視唾]4+#「舊WM ネ雹モBイ:.Gtミャ視唾]4+#「%15フク獺ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪ilヲ昔`、AU0ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ゚テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<4<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<4<<テテテテテテテテ<<<<<<<8テテテテテテテテ<<<テ<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテεテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテCテ<<<<<<4<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテツテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテシ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテシ<<<<<<<テテテテテテテテ<<|<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテ翕テテ<<<<<<<<テテテテヒテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテヒテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテヌテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<><<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<|<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<|<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテヌテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<テ<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テ@@@<<@<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<テ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ|<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテヒテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテモ<テテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<><<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテヌテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<テ<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテヌテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテ<<@テ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<=<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテ<テテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<|<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテ<テテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<゚テテテテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<チテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<4<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテツテテテ<<<<,<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテε<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<8<<<テテテテテテ<テ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテチテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテCテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテテテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<テ<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテ<テテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ゚<<テテ<>  ML派の共同作業で書き直された原案は、Iが執筆したはじめの議案書から大きく変っていた。社会党、民同にたいする批判はずっと控え目になり、太田路線の特徴である「積極倒産方針」や「革命的第二組合主義」などは否定されていた。
 「一部の人々は、過去の同盟活動は、社会党、民同との分派闘争をやって来なかったから、本質的に誤っており、全て誤っていると言っている。
 だが、このような立場は、全く事実に反しているし、考え方としても間違っている。“誰に反対しなかったか”ではなく、“自分が何をやったか”が大切なのだ。」
 「だが、たしかに大切なことは、党(社会党)にとって社青同が必要なのであって、社青同が、それ自体で革命をやりうるのではないということである。社青同の中で育っていく優秀な活動家を、革命のイデオロギーで教育して、党の中に迎え入れ、党の脱皮を追求しなければ、いくら社青同が強化し発展しても(実はこの二つのことは相互関係にある)なんにもならない。」
 第二次原案のこうした考え方(もちろんそれは、これまでの加入活動の基本的な考え方にもとづくものであるが)にたいして、対案は次のように見解を表明した。
 「日韓闘争における敗北の重要な責任は、親帝国主義的潮流との断乎たる闘争をなし得ない社会党左派にある。鉄鋼労運大会でのIMF・JC条件付加盟や、全逓の共産党との共闘拒否、更に総評機関の恒常的社共共闘の拒否、反戦、日韓闘争のサボタージュに対して、社会党左翼が真に対決し得なかったところにある。社会党、総評は、初戦から終盤戦まで決定的に立ち遅れ完敗した。特にこの闘いを終る中で、社会党左派主流が情勢の進展にまったくついていけない改良主義集団であることがバクロされた。……いよいよ公然と帝国主義的野望を政治路線、労働戦線で明らかにしている政府独占にたいして、われわれがこれを左から支える社会党、総評の路線の枠内にとどまるのか、これを突破するのかは、ますます重要性を加えてわれわれの原則的立場をせまっている。」
 「われわれは社会党内で一部の人々が主張するように親帝国主義労働運動には反帝労働運動で対抗し、社会党右派に対しては左派一般を強めることに中心を置くのではなく、革命的左派を強化、結集していくことによってのみ対抗できると考える。したがって現在の中心課題は、社会党内、社青同にあって、反帝、社会主義革命を基調とする左派を如何に結集し、強化していくのかというところに存在する。それは、社会党の佐々木派を、この立場から、内部から批判し、バクロしていく思想闘争の形態を当面はとりながら、より左の部分を結集していく事である。われわれは一切の焦点がここにあると考える。
 旧来の三多摩社青同の指導部は、自らの危機の総括と新情勢下における路線の確定をめぐって三つに分化した。その焦点はいうまでもなく、いま述べた立場をどこまで貫くのかというところにあった。
 即ち、旧来の『孤立した根拠地』路線が現実に破産した事態に直面して、基本的には右翼反主流(佐々木社研路線)と、左翼反主流(マル研派―革命的社研路線)に分化を遂げ、旧来の主流をなしてきたK、S、Iの同志達は道を明らかにせずこの両極の間にあって動揺の極にある」。
 続開大会のもう一つの中心的対立点は、五・一八闘争(六五年)をめぐるものである。
 原案は、
 「闘いは内部から崩れ挫折した。……挫折の原因は闘いの出発点においてふくんでいた。その第一は、主体の側の分析である。大衆は先進的部隊がいないからこそ決起しないんだという指導部の独断があったのではないか。第二には、闘いの組織過程において実力闘争を決める政治討論に下部同盟員は参加させられず、結論としての行動隊に参加させられてしまうという、大衆を独断にもとづいて上から操作するというやり方が必然的に出てきたのではないか。
 敵に打ちかつ力は敵にまさる政治的確信と組織的実力である。方針をうちたてる出発点から政治討論を大衆的に行なわず、内から湧き上ってくる政治的確信をもっていないが故に、瞬時に挫折してしまったのである。」
 「情勢のつかみ方に一面的な、あるいは主観的なものはなかったか。……“世界核絶滅戦争か武装叛乱か”といった二者択一的な考え方が硬直してしまい、現実に戦争を阻止している中国人民、ベトナム人民、日本人民、なかでもアメリカ、ヨーロッパの新たな反戦闘争の力を過少評価していたのではないか。
…………
 『少々の犠牲があったとしても、この闘いの政治的意義は大きく、闘いの政治的蓄積と闘いの連続的発展により克服されるであろう』としたわれわれ指導部の主観的願望は、そんな無責任な方針は受けつけない大衆自身の力の前にくずれ去ったのである。日常的な反合職場闘争を基本としたねばり強い反権力闘争の中で、自分達自身の組織を強め仲間を結集するという組織強化の闘いなしに、“イニシアをとれ!“という方針がいかに誤っているかという教訓をわれわれはしっかりとうけとめなければならない。」と主張した。これにたいして対案は、
 「五・一八は西多摩地区の行動隊及び地区労を先頭に、数千の労働者がタブーとされていた基地正門前のイエローラインを自分達の力で突破した闘いである。……イエローラインを突破するか否かは、ササイな問題ではなくて、日米安保条約、公安条例等の合法の枠を、われわれが実力で粉砕していくのか、合法主義者としてふるまうのか、という意味でも、重要な内容をもっていた。社会党左派の限界内の合法主義者は絶対にこのような闘いのイニシアティブはとらないし、必ずこれに抵抗をしはじめる。わが同盟指導部内での対立が、この闘いを契機に顕在化しはじめたことは、その対立の真の意味がどこにあるかを雄弁に物語るものとして重要である。」
 「われわれは不十分であり、不徹底であったとしても、基本的に五・一八闘争を擁護し、社会党、三労、共産党などからあびせられる批判と断乎闘うのでなければならないと考える。擁護して断乎闘うのか、あいまいな態度をとるのか、あるいは、誤りであるとして批判するかの一線は、『行動左翼』であったわれわれが、思想的、行動的に自立するのか、それとも既成の枠内に屈服するのかという分岐点を示している。」
と反論した。
 こうして、両派の対立が全面的な路線対立であることが明らかにされるなかで、続開大会はひらかれた。
 九月一七、一八日の両日、約三〇〇名の同盟員を代表する代議員一〇七名(出席率九九%)が出席してひらかれたこの大会は、三多摩社青同最後の大会となった。発言者は三〇名にのぼり、激昂した議論のやりとりの末、対案は37・・65・・5で否決、原案が60・・38・・9で可決された。役員選挙では、太田派は三役全部に対立候補をたてたが、同様の比率で原案派が当選し、分室委員長S、書記長Iの体制が維持された。BL派は少数派にとどまったのである。
 六回大会の論争の結末は、ML研グループの基本方針のもとで、三多摩社青同がふたたび歩きはじめることを意味したのであろうか。そうではなかった。ML研派をとりまく状況は、八方ふさがりであった。
 大会後、BL派は事実上三多摩社青同から離脱した。八王子支部と統一労組を拠点にして、独自の立場から運動を展開し、分室機関活動には急速に消極的になっていった。やがて彼らは、財政的義務も果さなくなった。
 東京地本分裂問題もまた、分室の矛盾を深めた。東京地本の分裂は、BL派にとってはむしろ喜ばしいことであった。彼らはこの事件を“社民からの訣別”の契機としてとらえたのである。第一地本死守、協会派粉砕、この二つのスローガンだけで、彼らには十分であった。たとえそれがどのような政治的結末をもたらしたとしても、すでに事実上の加入活動の放棄を決めていた彼らにとっては、考慮の外であった。
 ML派も基本的にはそのスローガンのもとに立っていた。だが、それはけっしてすっきりしたものではなかった。第一地本としてがんばることが、活動家の気分からは必然であったとしても、加入活動そのものの放棄につながっていくことは目に見えていた。ML研は加入活動の再検討を余儀なくされた。その結果ML研は、新しい結論に到達した。
 「われわれがこれまで党建設を全面加入活動としてきたことは誤りであった。加入活動は部分的でなければならない。われわれは独立の青年同盟を建設し、加入部分はそのもとで非公然の組織活動を行う。東京地本間題では、社会党に残る部分をのぞいては全員第一地本でたたかい、それを基礎として独立の青年同盟を組織していく。」
 だが、加入活動の再検討と、独立した青年同盟建設の課題は、全国的な方針としてだけ現実性をもっている。JRの全国指導部は解体し、ML研にもそれを代行する力はなかった。JR内の各派、各地方は、異った見解に分れていた。
 社通派は“屈服”して、第一地本を放棄するように主張した。第一地本としての抵抗には展望がなく、加入活動の成果を台無しにする。このようなところで、社民―民同との自然発生的な衝突をおこなうのではなく、将来の危機的状勢にそなえて、活動家大衆に全国的政治展望とイデオロギー的な武装を保証する力をもったイスクラ活動こそが重要である、と彼等は主張した。
 東北・関西の同志達の見解は、すでにのべた通りである。こうして、ML研は孤立した。三多摩社青同のもっともエネルギーにみちた部分をBL派がひきつれて出ていったあとに、動揺をくりかえす解放派とおつき合いしながら、ML研は、JR内でも孤立し、社会党、社青同内でも孤立した。
 六六年末には、三多摩社青同は、文字通り分解し、風化していた。六国大会に結集した三〇〇名の同盟員のうち、一〇〇名はBL派がつれ去った。五〇名はもとからの解放派と、新たにそこにひきつけられた部分であり、さらに三〇名は、関東社研とともに学生運動を展開していた。約二〇名が、ML研に結集し、三多摩社青同を最後までになった。そして残りは、ML研にたいするシンパシーを表明しながらも、政治活動としての社青同運動から身を退け、職場に閉じ込もった。風化していったこの一〇〇名こそ、三多摩社青同の基本カードルであった。西多摩地区のケミカル、富光、統一労組、立川地区の市職、全金日本電子に代表される旧来からの拠点班は、この部分にふくまれている。
 かれらの政治的感性は、BL派とML派との対立のなかで、BL派の側にむしろ獲得されていたのである。BL派が社会党との訣別を説く限り、そこに唯一展望らしいものを戦じとった。だが、心情としてBL派にひかれたとしても、BL派を指導部として信頼することはできなかった。
 極左的言辞にもかかわらず、BL派は統一労組運動、憲法―原潜闘争、そして五・一八闘争においてすら、決して第一バイオリンを弾いたわけでなかった。逆に彼らが批判する主流派指導部こそ、こうした諸闘争の一貫した担い手だったのであり、三多摩社青同の基本カードルにとって、その闘争的青春はI、S、KらのML研グループと分ちがたく一体であった。一年前後の活動経験しかもたない新しい同盟員をのぞいて、三多摩社青同の基幹部活動家にとって、このことはあまりにも鮮明な事実であった。彼らは、BL派の展望に心情的な共感を抱いたとしても、指導部として信頼することができず、他方ML研グループに指導部としての信頼を保ちつつも、政治的行きづまりを打開する新しい道を示す光は、そこからは射さなかった。ML研は、結論として現状維持をのべるだけであった。こうして大半の活動家が、労働者が壁にぶつかったときに多く採用する方法、つまり冬を迎える熊の穴ごもりの方法で、自分の穴ぐらに帰っていったのである。彼らは青年期の短くない一時期、全生活をかけて社青同運動のなかにエネルギーを注ぎ込んだ。活動がはげしかっただけ、後退も早かった。彼らを目覚めさせつづけるためには、すでに戦術的な方針提起では不十分であり、まさに“党”の戦略が、“党”の展望がうち出されなければならなかった。ML研には、その力がなかった。
 こうして六七年には、三多摩社青同の基本カードルはそれぞれの職場に散っていき、せいぜい二〇名前後が、わずかに三多摩分室のもとで行動するのみとなった。他方、加入活動を事実上放棄したBL派は、中国紅衛兵運動に連帯する“善隣会館”闘争などに独自の取り組みを行い、社青同運動からも召還していったが、やがてわれわれの予言通りに太田との対立が内部に発生し、太田を追放したあと、公然活動から姿を消した。今日、彼らがどこで何をやっているのか、すでにわれわれは知らない。
 六七年以降開始された急進的青年運動の高揚の第一段階で重要な役割を果した砂川闘争を現地で準備し、急進的諸派の活動の舞台をつくっていったのは、ML研――三多摩社青同によって主として担われた三多摩地区反戦青年委員会であり、この活動が、三多摩社青同の最後の活動となった。 それは、自らの党派的利害を滅却して、ひたすら急進派総体に活動の場を提供しつづけることであった。六七年前半の砂川闘争は、その後の急進的青年運動の全面展開にはずみをつけた出発点としてきわめて大きな意義を有するものであったが、この闘争のなかで、現地反対同盟を急進派の側に獲得し、共産党の敵対や妨害をはね返す工作をすすめ、三労、社会党をまき込み、急進的諸派の対立の調整役を果していったML研、ことにS、Tの活動に負うところが大きい。Tは、砂川反戦ザンゴーの指導者として活動しながら、全国の急進的活動家にむけて鮮明な呼びかけを発した。
 「砂川のきびしい自然と、それに挑戦し自らのものとして支配せんためにクワを打ち続けた三五〇年の歴史は、この十二年の巨大な権力との闘いに堪えぬく土根性を砂川農民に与えた。第四次砂川闘争もこの砂川の地底から湧き上る農民のエネルギーと別のところでは断じてあり得ない。砂川の大地にドッシリ根を下した闘いなくして、われわれの闘いは押しかけ団体としての意味しか持ち得ない。
 しかし、根底において、農民のこうしたエネルギーを含みながらも、第四次砂川闘争の主役は、労働者階級である。農民の、『オレの土地は売らねえし、誰も入れさせねえ。だけんと、やつらの土地はどうしようとやつらの勝手だ』という意識は、すでに買収された五分の四の『国有地』と土地収容法による強制収容という合法手段でいどんで来る権力の攻撃に抗し得ない。労働者階級の砂川における第一の任務は、このプチブル性を突き破り、基地内も含めて、砂川はわれわれ人民のものであり、血を流して獲得してきたものだということを一つ一つの闘いによって示すことである。この闘いは一切の合法主義者共を放逐するであろう。
 権力が、機動隊とブルドーザーを砂川に入れるのは、今年七、八月であろう。われわれはその決戦に向けて、旗の争奪戦、バラ戦張り阻止の闘い等の現地における具体的闘いと、各職場における春闘、反合闘争を通じて、大衆を内側からとらえ、組織し、限りなく準備する。
 六七年、六八年と闘われる第四次砂川闘争は、七〇年安保を闘う労働者階級の思想的源流を形成するであろう。二・二六青年総決起集会に、既成指導部の無思想性を脱皮せんとする十に及ぶ政治セクトが結集したことは決して偶然ではない。第四次砂川闘争は階級闘争の歴史の中で、それ等を押しつつむ、限りない深さと重みを持っているのだ。
 スターリン以後、全世界の階級闘争を裏切り続けつつ、しかもなお、労働者階級の唯一の指導部然としていた既成共産主義の流れが、ベトナム戦争をよそに、中ソ国境でお互いに銃口を向け合って対峙しているという歴史的必然と悲劇の中で混乱と分裂を続けている労働者階級は、第四次砂川闘争を契機として、新たな出口をつくり出すであろう。かかる意味において、第四次砂川闘争は、われわれも含めて、全ての労働者階級とその指導部にとって革命的戦略の学校である。この学校で、真に革命的な戦略を学び、大衆を根底からつかみ得たもののみが、七〇年闘争に指導的に登場し得るであろう。
 われわれは、大衆の組織化の過程を無視して、闘いの飛躍的発展に期待するにとどまるバクチク屋、命令主義者とは断乎一線を画さねばならない、闘いはつくられるものなのである。
 準備せよ! 限りなく準備せよ!
 砂川勝利と、革命の勝利のために!」
 (『レーニン主義』第二号「第四次砂川闘争の発展のために」―T)
 Tによって予言された通りに、六七年砂川闘争から、多くの急進派が人民のたたかいのなかに巣立ち、羽田、佐世保、王子、そして三里塚へと、急進的なたたかいの嵐は湧き上っていった。
 だが、かかる意義をもつ砂川闘争の前面に押し立てられるべき“社青同三多摩分室”の旗を担う部隊はもはやなかった。そこにあったのは社青同(これ自体現実に存在する全国社青同とのつながりを何一つもたないものになってしまっていたが)の名を冠した裸のML研の裸の苦闘であった。
 急進主義運動の最初の高揚の中で、三多摩社青同はML研グループだけを残してもはや消滅していった。六七年一〇・八闘争、一一・一二闘争には、こういう時にだけ駆けつけてくる数十名の活動家が、ボロボロになりすっかり色のあせた「社青同三多摩分室」の旗のもとで羽田でたたかった。大衆闘争のなかにこの歴戦の旗が登場した最後であった。六八年一月佐世保闘争では、未だ「社青同東京地本副委員長」の肩書きのついたSが、一人の「手兵」もなしに、解放派だけの東京社青同部隊の行動隊長として果敢にたたかった。三月三里塚闘争では、中核派と解放派だけの三多摩反戦部隊を責任者として、SとTがひきつれた。
 六八年四月、三多摩社青同の事実上の消滅を確認したML研は、七年にわたった三多摩社青同の歴史を閉じることを決めた。この決定にあたって、機関の会議は必要ではなかった。すでにすべての機関は、その参加者を失なっていたからである。SとIが、解放派にその旨を告げ、Sは東京地本副委員長、Kは同組織部長の職を辞し、「われわれは新しい、独立した青年同盟をつくるために活動をはじめる」と宣言した。解放派の諸君は残念がった。
 それとともに、Sは三多摩反戦の事務局長の位置からも退いた。極少派であるML研が事務局長をつづけることは個人としてのSの役割がどれだけ重要であっても、“党”をつくろうとするものの立場において堪えがたい不均衡であった。Sの辞任の後、三多摩反戦は多数派である中核派と、少数派としての解放派に分裂して、やがて消滅した。
 ここに、三多摩社青同の、その名のもとでのたたかいの幕は降りたのである。

 C 総括に代えて

 この連載を書きはじめたのは、七三年の六月であった。それから二年間が、ちょうど過ぎ去ったことになる。これほどの長い時間をかけるつもりはなかったし、まして、この連載を書き終えるときが、ベトナム革命の完全勝利を目撃する瞬間に重なろうなととは、思いもしなかった。その点に関するかぎり、実にうれしい誤算である。
 うれしい誤算は、他にも二つある。一つは、七五年一月に結成された日本共産青年同盟が、力強い躍進を続けていることであり、二つは、三多摩地区の新しい運動の発展かはじまっていることである。どちらも私は、それを準備するための一助として、この連載を提供するつもりであったのだ。現実が先行してしまったわけである。
 とりわけ、ベトナム革命の完全勝利のしらせは、底深い喜びとともに、ほんとうに一つの時代が終ったのだという実感を与える。六四年〜六五年、「ベトナム戦争反対」でも「ベトナムに平和を」でもなく、「ベトナム革命勝利」の旗をはっきりとかかげ、自らのたたかいをアジア革命の一翼と位置づけ、なかなかとどかない想いを抱きながら、立ちふさがる機動隊の壁をベトナムに介入するアメリカ反革命軍に見立てて突撃していったただ一つの大衆運動として、われわれの、三多摩社青同のたたかいがあったのだということを、いま想起せざるを得ないのである。
 この連載が、予想外に多くの人々に読まれていたことを発見したときは、驚きであった。われわれとは直接のかかわりが少なかった社会党の活動家のなかでも、いくらか読まれているようである。この人達にとって、あの三多摩社青同の突然の登場と退場の謎は、おそらくこの連載によってはじめて解けたのではなかろうか。そこであえて付記しておくわけだが、ここには基本的な偽りはなにも書かれていない。こまかい記憶違いは散見されるかもしれないけれども、おおすじは間違っていない。この人達が“四トロ”に抱いていたかもしれない、“陰謀団体”的な気味悪さが、この正直な事実の経過を知ることで多少ともぬぐわれるとすれば、幸いである。
 書きすすめてきたなかで、もっとも手痛い批判は、ともにたたかったN氏の「もっと泥臭かったよなあ、おれたちの運動は」という言葉であった。そうなのだ。ほんとうは私も、そこのところを伝えたかったのだ。諸文書の散逸という事情を割引いたとしても、私の筆の非力を謝すほかにない。運動をになった数十、数百の仲間達の、一人一人ことなった、輝やく個性と魅力を、ほんとうにすばらしく陽気な「人間」を、私は書くことができなかった!
 ともあれ、この連載は本号が最終回となった。私に残された最後の課題は、総括を提起することである。むろん運動の真の総括は、たずさわった人々のその後のたたかいの姿によって示されるはずであるのだから、私のここでのべようとしている“総括”は、一つの角度からの中間的“試論“にすぎないものではあるが。

 そのまえに、本文中ではふれなかった二つの事実を補足しておこう。
 (1) 三多摩社青同の組織構成。
 六四年九月の資料にもとづくと、次のようになっている。
 全同盟員数五二〇名。
 民間労働者 五八%
  うち、統一労組 一五%
     他は、化学同盟、全国金属、電機労連等まで、四三%
 官公労働者 二四%
  うち、自治労 一二%
     国労   八%
     全逓   三%
     電通   一%
 学生    五%
 地域(専従活動家と未組織労働者、自営業者)  一三%
 この構成比を見ると、三多摩社青同は、民閭の組織労働者、ことに中小企業労働者の比重がきわめて大きかったことがわかる。この傾向は、はじめからのものではない。初期は国労を中心とする官公労働者の比重が大きかったが、運動の発展とともに、民間労働者の流入が始まったのである。そしてこのことが、三多摩社青同の独特な体質の基盤になり、全国社青同の一般的な傾向とは異なった戦闘性を与えたのである。同時にまたここに、三多摩社青同のもろさの基盤も存在していた。
 (2) 他党派との関係
 三多摩社青同には、二名の中核派のメンバーかいた。この二名は、われわれが当時の革共同全国委員会に要請して、派遣してもらったメンバーである。当時、新しく生れた社会党の地区専従のポストに充当する人材を確保することがむずかしくなっていたわれわれは、“共産党より左”であることを条件に、他のセクトとの加入活動上の統一戦線を組んだのであった。
 かれらは、実に献身的に活動したが最後には訣別した。六五年に、かれらがマル青労同の組織拡大を三多摩社青同内部でこころみたときである。われわれはこれを禁止し、かれらを社青同から除名してしまった。このとき、かれらのビラまきを実力で阻止したことがあった。このことについては、すぐに組織内で討論され、“内ゲバ”の問題として、われわれの基本的原則を再確認し、自己批判した。われわれの自己批判はかれらに伝えられ、以後、かれらのビラまきや政治活動は自由であること、われわれは正々堂々と反論していくこと、暴力的禁止のような手段はとらないことを明らかにした。
 三多摩社青同の分解とともに、多くのセクトが三多摩で活動を開始したが、中核派の影響力は非常に早く浸透した。だが、三多摩社青同のなかから中核派にうつった活動家は、ほとんどいない。われわれとともに加入活動の経験をつんだ二人のメンバーの指導力が、大きな役割を果したのであろうと思われる。

 さて、われわれは三多摩社青同の運動展開を追ってきた。ここであらためて、われわれは問われている。このたたかいは、いったい何を残したのか。今日のたたかいに引きつがれる、どのような遺産を残したのか、ということである。この問にこたえることこそ、この連載をはじめたときに、私が自分に課した任務の一つであった。
 だか、そのためには、あらためてもう一つの問を出さなければならない。
 三多摩社青同は、なぜ崩壊したのか。
 私はこの設問に、一語で答えることができる。すなわち、“党”がなかったからである……と。
 もちろんこのような答は、全てを意味しているようで何も意味していないと言うこともできる。それでは、もうすこし具体的に説いてみよう。
 三多摩社青同は、ML研の召還主義によってつぶれたのだ、と主張する人々がいた。ML研の指導部が、社青同活動家をおきざりにして自分達だけで加入活動から引き上げた、という批判である。だが、それは間違っている。事実に反している。ML研は最後まで社青同に踏みとどまった。踏みとどまりすぎて最後には自分達だけになってしまった。同族を全て葬ったあとに、自分の墓を自分で掘らなければならなくなった部族の最後の戦士のように……。
 なぜこういうことが起ったのか――。
 三多摩社青同は、ある意味で遅すぎ、ある意味では早すぎた急進主義運動であった。それは、六〇年闘争の裏切りと敗北のなかから巣立ったわけではなかったし、六七年以降の未曾有の急進的青年運動の高揚まで生きのびることもできなかった。それは、時期はずれの急進主義であったために、ほんものの急進主義が花開いたときには、すでに“あつもの”にこりていたのである。
 それでは、三多摩社青同運動を、少くともその基幹部を、六七年以降の急進主義の高揚の時期まで生きのびさせることは、本当にできなかったであろうか?
 私は、ただ次の条件さえととのえば、それは十分に可能であったと考える。
 六五年以降の諸闘争で、われわれは三多摩社青同の突出をできるだけ抑制すべきであったのだ。無理を避け、弾圧を避け、組織の維持にっとめ、比較的ゆるやかな多様な大衆運動を強化し、力を超えるたたかいは回避すべきであった。だが、実際にはその逆の道をえらんだ。われわれは六四年に十分に突出した。その打撃から回復しないうちに、次々と重荷を背負い、ついには背骨がへし折れてしまった。組織建設の方法として、これは拙劣であった。今日の中核派を見ていると、かつての三多摩社青同の歩んだ失敗が、むろんくらべられないほど大規模にではあるが、くりかえされているように感じられる。六五年以降、われわれは自制して次の高揚局面まで準備をつづけるべきであったのだ。
 一方、大衆運動におけるこうした自制のかわりに、活動家の政治的、イデオロギー的強化という点では、逆にはるかに大胆に攻勢にでるべきであった。社会党にたいする不信が三多摩社青同の全体をとらえはじめていた六五年以降、その問題意識に公然とこたえ、トロンキズムで武装し、社会民主主義との分派闘争にそなえ、やがて必然的に訪れる訣別の時期に、整然と、少くとも基幹部を一人ものこさず引きつれて社会党、社青同から引き上げる準備をすすめるべきであった。
 こうした活動は、三多摩社青同にとって、戦略的展望とともに自分自身の再生産の時間を得ることを意味したであろう。それは戦術左翼、行動左翼から党的な主体に成長する道を集団的に歩むことを保証したであろう。それは六七年以降の全国闘争の渦中に、強力な独自の共産主義者の登場を可能にさせ、急進主義左翼の分化を促進させて第四インター派への大衆的な結晶を実現させる役割を果したであろう。
 こうした立場は、BL派とわれわれとの対立においてBL派が相対的に正しかったことを意味するであろうか。或る意味では然りであるが、全体としては決定的に否である。
 BL派が主張したのは「革命的加入戦術」であった。しかもその実践は、すぐさま加入戦術の放棄を意味した。それは、社会民主主義との戦術的対決にすぎなかった。
 加入活動によってつくり出された運動が社会民主主義の枠と和解しがたい衝突を開始した時点で、意識を集中しなければならなかったのは、この壁にますます強く頭をぶつけようとすることではなく、それを超える新しい運動、つまり加入活動の停止と独立した党建設にむけての本質的な準備をはじめることであったのだ。たとえ加入活動そのものはつづけていくにせよ、いつでも訣別できるだけの強固な“党内党”をつくり出していくことに全力をかたむけるべきであった。六四年の突出と六五年以降の諸経験は、大衆のそうした方向にむかう総括の作業を保証するに十分な素材を提供していたのである。
 だが、そうした方向を選択することができるためには、六五年を革命前的情勢ととらえたような視点をもたず、六七年以降の急進的大衆運動の高揚を基本的に予測する能力が必要であったろう。こうした先見の明は、成熟した危機の時期を少くとも一つないしそれ以上通過してテストされた革命党のみが獲得できる資質である。われわれはそうした“党”をもってはいなかった。私が、最初に「党がなかった」とのべたのは、こういう意味においてなのである。
 われわれは、“党”たり得なかった。大衆運動から背を向けて主観的に存在するか、さもなければ大衆運動の単なる指令部にとどまった。大衆運動からはっきりと身を引きはなし、その勝利や敗北をいつも冷たく客観的に評価し、自分自身についてさえ絶対の信頼をもつことを拒否できる徹底した“客観主義者”であること、これが党の一面であり、しかも同時にもう一面で、自分の全力を大衆運動に注ぎ込み、その生き生きとした司令部になり切り、そのあらゆる躍動をどん欲に自分のエネルギーとして取り込むことができる“主観主義者”であること、党はこの二つの側面を合わせもつ存在でなければならない。この文字通り背反する二面の共存を、どのような関係として実現するのかは、おそらくきわめて困難な課題であり、解決のためには理論の力と同じ程度に経験が必要である。だから党が党となるためには、一ないしそれ以上の危機によってテストされなければならないのである。
 われわれは、こうした課題を“根拠地の理論”によって解決しようと試みた。突出した典型を根拠地としてきづき、そこに党と大衆運動の本質的な関係をうちたて、根拠地の波及を通じて全国党の建設を展望しようとした。それが三多摩社青同であり、その統一労組運動であった。たしかに、三多摩社青同は、“党”と大衆運動のしっかりした結合の場にはなった。だが、もう一つの側面で、われわれは自らの“根拠地”をはなれ、“根拠地”そのものの位置と運命を客観的に予測する全国的な視野、すなわち“客観主義者”の目を持つにはいたらなかった。太田龍の札つきの“主観主義”に責任をなすりつけることはやめておこう。われわれが“党”をもとめて、太田龍に復縁をせまった事実そのものにおいて、“党”たらんとする意志と責任を無自覚なままで放棄していたのは、われわれ自身だったのであるから。
 われわれは一〇〇〇名をこえる青年労働者を組織し、その九八%を失った。こうした事実にてらして、多くの賢明な読者諸氏がわれわれの力の足りなさを批判する権利を行使することは、もちろん諸氏の自由である。だがわれわれは、いま現実に生き、ともにたたかおうと決意しているものであり、自らのたたかいの経験を歴史の博物館の片すみに陳列するつもりは毛頭ない。たたかいの経験が与えてくれる豊富な教訓は、今日の現実に武器として継承されることを要求している。新しい旗のもとで、われわれはこの要求に精一杯こたえなければならない。
 三多摩社青同闘争史は、結論として何を残したか。
 私は確信をもち、誇りをもって次のように言い切ろうと思う。
 それは、全体を獲得しようとするどん欲な意志である、と。そしてわれわれは、もっとも下層のもっとも抑圧された人々のところから出発することによって、この意志をつらぬこうとした。
 “根拠地の理論”といい、統一労組運動といい、さらに一見珍奇な印象を与える“赤化運動論”をもつらぬいているのは、この意志である。今日、われわれが奮闘しようとするたたかいの基底にすえなければならないのも、この意志なのではなかろうか。
 三多摩社青同のたたかいを担いぬいて、今日のはじまりつつある激動のなかに立とうとしている十数名の同志達が、現に残っており、直接的にはこの同志達のなかに、三多摩社青同の遺産は息づいているはずである。私も、もちろんその一人であり、さらにほんとうにうれしいことには、未だ少数ではあるがわれわれの戦列にふたたび参加しようとしているもとの仲間達も最近登場してきているのだ。全力をつくして敗北したたたかい、限界までのぼりつめてみたたたかいの総括には、ほんとうはなにも弁明はいらないし、先に立ち上ったものが今起き上ろうとしている仲間と肩を組んで、「よし、またやろうや」と笑い合えば十分なのである。われわれには今日があり、明日があるのだから。
 長いあいだ、この連載を読んでいただいた読者諸君。ありがとう。
 筆を措くにあたって、六〇年安保闘争の敗北の直後、三多摩社青同の創始者の一人であった国鉄労働者が、機関車乗務のかたわら創作し口ずさんだ詩を、諸君に伝える。

闘いぬくために

     なかの なおはる

 闘争は
つたかずらのように
しがみつかねばならん!

 闘争は
ふんずけられても
けられても
石がきにしがみつく
つたかずらのように
しがみつかねばならん!

 闘争は
うでの一本
足の一本折られても
なお前向きの姿勢で
石がきにしがみつく
つたかずらのように
しがみつかねばならん!

 闘争は
女房や子供をふりすてて
餓死寸前になろうとも
闘いのたいまつをかかげて
石がきにしがみつく
つたかずらのように
しがみつかねばならん!

 闘争は
たとえ無残に殺されても
魂をうばわれても
なお魂をうはい返して
闘い抜かねばならん!

 闘争は・闘争は・闘争は
石がきにしがみつく
つたかずらのように
しがみつかねばならん!

   一九六〇年 七月

          (了)


「国際革命文庫」総目次にもどる