第三章 展開
A 行動する青年の渦
六三年三月一日、立川で、三多摩社青同は「春闘を勝ちぬく三多摩青年行動集会」を開催した。
この集会とデモは、合同労組運動がつくり出した成果が、六二年九月の中央憲法公聴会阻止闘争を経て三多摩に根づく青年政治運動へと確立されていく契機になった。約一二〇〇名の青年が、全三多摩から集まった。
集会は「憲法改悪阻止! 三多摩統一労組の結成!」をメイン・スローガンにかかげた。デモは、五名一班に編成し、立川警察署と南口、北口の商店街を頂点に、終始戦闘的なジグザグ行進を展開した。ことに、東京の花火屋から写真撮影用のフライャーを十数本購入して、要所要所でそれをたいた。火は青年を興奮させる。なにごとかとかけつける市民が、人だかりをあちこちでつくり、機動隊は手も足も出なかった。
三・一青年行動集会の成功によって、三多摩社青同の新しいページが開かれた。この集会は、社青同組織の独力によるものであり、組合動員や社会党の組織による動員とはまるで異なる方法と質でなされたのであった。この集会に参加した一二〇〇名という数は、かつて民青が集め得た三多摩の青年達のどれよりも多く、もちろん社会党が、一度として計画したこともない規模であった。この集会以降、創立以来二年の三多摩社青同が、十数年の歴史を持つ民青から青年運動のヘゲモニーを奪ってしまったのである。そして多くの青年達にとって、こうした集会とデモは始めての経験であった。
「……夜のデモなんてはじめてだ。どんなことをするのだろうと、ドキドキしながら、仲間と一緒に会場についた。
歌声が外まであふれていて、何となく活気ある空気が森に流れていた。
入口で、たくさんのビラと一緒に赤いヒモを、『オイ! コレ持ってゆけ!』とわたされた。
コレはどうするのだろうと、思いながら、みんなにおされて中に入ると、中は異様なフンイキだった。
圧倒されるような赤いフンイキだった。歌声がガンガン耳にひびいて知らない歌もいっしょに歌えた。
赤いヒモはハチマキだ。
こんな沢山の仲間が、ハチマキをして集っている! と思うと、涙が出そうになった。……」(「青年の力」より)
六二年のうちに、三多摩社青同はさらに二つの分野の青年運動を開始した。その一つは文化運動でありもう一つは婦人運動である。
文化運動の分野では六二年なかば、三多摩合唱団が結成されたが、六三年のはじめに、そのなかから社青同三多摩分室うたごえ行動隊が生まれた。
三多摩社青同の文化運動は、もっとも有名になったもののひとつだ。当時、労働者のなかでの文化運動ことにうたごえ運動は中央合唱団をもつ共産党、民青の専売特許のようになっていた。労働運動のなかでうたごえは必要不可欠のものであり、反共主義の労働官僚達も、うたごえ運動を通じた民青の浸透工作にだけは、抵抗することができなかった。社会党、社青同もこの点では同じであった。彼らは、自らのうたごえ運動をつくり出す方針を持たず、せいぜい、集会の度に蛮声でインターナショナルをがなる程度のことしかできなかったのである。
こうした貧困な杜青同運動の「文化的水準」のなかに、三多摩社青同のうたごえ運動は誕生した。それははじめから全国社青同の文化運動方針にたいするはっきりした批判をともなって出発した。
「しかし私達は、文化運動を自称するこれらの動きに実際にふれるにつけ、いつも物足りなさ、いらだたしさを感じつづけた。“忘れまい六・一五”で始まり、“がんばろう”で終るきまりきったシュプレヒコール、ただ歌っているとしか言いようのない合唱。そこには聞き手を感動させる迫力も、格調の高さも、美しいハーモニーもない。うたに対する思想が欠けている。うたをうたう努力が見られないのだ。」(「組織者」第五号――K)
文化運動の歴史がまったく欠けている社青同運動のなかに、はじめて、うたごえ運動を根づかせようとしたのであるから、困難は大きかった。だが、三多摩社青同が採用した方針は正しかった。すなわち、もっとも意識的で高度な技術水準を所有する最初の中核をつくり出すこと、ここに努力の第一目標を設定したのである。「うたごえ行動隊」――のちに「うた行」と呼ばれて親しまれた合唱隊は単なるうたごえサークルではなかった。それはいわば文化工作隊であり、ひとつの萌芽的な「専門家集団」であった。しかも中央合唱団のような「専従者集団」ではなく、大多数が職場の労働者活動家でありながら、誰でももっている能力のひとつであるうたごえの能力を意識的に開発して、自らのもっとも中心的な任務をうたごえ運動に設定した工作者集団なのであった。
練習はきびしさをきわめた。
「たった一人でも音がはずれたりすると、その一人に、音が合うまでうたわせる。皆がシーンと黙っている時に、一人でうたわせられるのは、非常に恥しい。顔を真赤にしながら、汗をふきふき歌う。一月の冷い風にも、寒さを感じないきびしい練習だ。どうしても音がつかめなくて泣いてしまった女の子もいた。終電間際まで練習しつづけたこともあった。」(同右)
「これでよしというまで、何度でもくりかえす。ァゴや耳やノドが痛くなって、声がかすれて思うように出なくなるまで、がんばりつづける。そうしているうちにやっと皆のイキが一つになって、歌のこころととけ合って、『今のは、良かったな』と言いあえるときにぶつかる。そんな時、理屈でなしに、『歌うっていうのは、こういうすばらしいことなんだな』と皆が思う」(同右)
うたごえ行動隊は、約三年間つづいた。数多くの集会での文化プロ、政治闘争や労働争議での歌唱指導、たくさんのサークルの指導等に、多忙をきわめた。総評のうたごえ祭典での優秀賞の獲得、平和友好祭中央祭典での努力賞獲得等、社会党、総評等の文化運動のなかでは、最高の水準に技術的にも達した。多くの有能な活動家も生まれた。アコーディオンや歌唱指導のすぐれた技術者を生みだした。そしてこのうた行は、六五年の十二月に、それらの成果を総結集した「三多摩働く若者のサークル協議会」のうたごえ教室に、自らを移行させた。社青同の独自活動としての行動隊から、大衆組織に転化していったのである。だが、まもなく社青同自身が崩壊していくことになる。そしてこの「三サ協」は、三多摩社青同よりももう少し生きのびて、終焉を迎えたのであった。
六三年にはいってから大衆運動としてはじまったもうひとつの分野は、婦人運動であった。それは、「働く婦人の労働講座」から「日本婦人会議三多摩職場支部」へと発展した。ケミカル・コンデンサー労組と統一労組の婦人活動家を中心とする婦人会議西多摩班は、この運動のもっとも大衆的な拠点であった。
婦人会議は、共産党等の新婦人と対抗する社会党系の組織であり、どこも例外なく、婦人議員の後援会組織というのが実態であったが、三多摩社青同は、この組織を労働者婦人活動家の組織としてつくり出そうとし、このため、職場支部としたのであった。したがってその運動も、生理休瑕や母性保護を中心とする婦人労働者の権利要求、賃金やさまざまの婦人差別にたいするたたかいを提起し、理論的に解明して、職場闘争をつくり出していくことを中心とするものであった。
婦人会議の運動は、社青同運動だけでは組織できなかった広い部分を運動にひき入れることに成功した。とりわけその成果は、ケミカル・コンデンサー労組の七六日間のたたかいを支えた婦人活動家達として結実した。
このように、新たに二つの分野を得て、大衆運動の広がりのなかに行動する青年の渦をつくり出した三多摩社青同は、その組織人員も急速に増大した。
六一年で六〇名で出発した組織が、二年後には、約五〇〇名に達し、しかもその構成員の年齢と思想は大きく入れ変った。
六三年六月、三多摩社青同は第三回大会をひらいた。
大会宣言はのべている。
「三多摩に働く若い仲間達!
俺達は三多摩社青同だ。今日俺達は、武蔵野に集まり、分室大会をひらいた。
一年に一回の大会で、今日は三回目の大会だ。
実を云えば俺達は、また満二才なのだ。
俺達は今日の大会で、すばらしい方針をきめた。
この方針のもとに闘えば、憲法改悪だって、合理化だって、日韓会談だって、砂川基地拡張だって、
絶対に阻止できるという確信がわいてきた。
さらに俺達は、組合のない仲間達を、絶対に組合に入れよぅ、と心にさめた。
賃金も低いし、労働条件も悪い、そんな未組織の仲間の苦しみを、だまって見ていられるか!
俺達はそう誓い合った。
そしたら俺達は、心がぐっと明るくなった。やる気になったんだ。勇気とファイトがこみ上げてきたんだ。
見てくれ! 俺達の顔を、ファイトを、根性を!
どうだ!
三多摩に働く若い仲間達!
俺達と一緒にやろう。
憲法改悪という奴は、俺達を兵隊にし、原子爆弾と死の灰の下にさらす。
合理化という奴は、俺達の汗の、血の一滴までもしぼりとって、資本家のふところにしまいこむ。
俺達はこんなことは、絶対にゆるせない。君達だってそうだろう。大人のずるさ、資本家の欲ばり、
社会の汚れと不正に、きっと頭に来てるだろう。
だったらやろう。
三多摩に働く若い仲間達!
社青同に入ろう。俺達は歓迎する。
若い仲間達が集って、力を合せれば、でっかいことができるぞ。社会はよくなるし、くらしはらくになる。
俺達の希望と夢が、本当のものになる時が、きっと来るんだ。
一九六三年六月二三日
社青同三多摩分室第三回定期大会」
B 三多摩統一労組の激突
三多摩社青同の第三回大会は、終了後参加者全員がそのままデモ行進にうつり、途中、整理の警官を袋だたきにし、武蔵野警察署の正面玄関を占拠して集会をひらき、解散地点の三鷹駅前では頭に来た機動隊と追いかけっこをするというようなエピソードに象徴されるように、まさに全体がお祭りにも似た雰囲気の“躍進大会”であった。
この喜々とした青年達の戦闘的で陽気なムードが生まれた最大の要因は、営々としてきずき上げられて来た合同労組運動が、この年の六月二日、ついに三多摩統一労組の結成に実を結んだことであった。
西多摩ではじまった合同労組運動は、八王子地区労、立川地区労に飛び火し、それぞれ八南合同労組、立川合同労組が誕生した。この三合同労組が統一して、この日の三多摩統一労組の結成となったのである。結成大会には、西多摩で七分会五百名、八王子で三分会二三〇名、立川で一分会七〇名の計一一分会八〇〇名が参加した。
大会はその宣言に、
「俺達は火のコとなって、未組織のガソリンタンクを爆発させて歩くのだ!」とうたい、また運動方針では、
「各地区における幾ばくかの実践的経験があるといえども、まだ自信をもって一人立ちはできない。だが、せねばならない。とざされてきた未知の世界に、大たんにおどり込み、闘い、学び、そしてきびしい総括の中から前進のための方向を見いだし、仲間を維持し、仲間をふやし、三多摩統一労組を、これからの一年間にゆるがぬ組織として固定させることこそ、すべてに優先して運動の基調とせねばならない。
来年の春には、三〇〇〇名の仲間を組織しよう!
残業せず、食えて、生きる喜びを味わえる賃金の獲得のため闘おう!
これこそ、われわれの運動の視点だ!」
と提起した。
また大会は、ストライキ権を年間にわたって一括確立し、それを執行部に移譲した。このような形式のスト権確立は、他に類例を見出せないものである。この方式によれば、統一労組の全分会は、企業に属さない専従者が多数を占める執行部の判断で、いつでも、好きなだけストライキに突入させられるのである。しかも統一労組は、ふつうの産業別組織よりも結合力のつよい地域単一であるから、すべてのストライキは統一労組としての争議行為であり、たとえ一〇〇人の企業に五人の組合員しかいなくても、他の分室から数百人の組合員を動員して、完全なピケ体制をつくり出すことができるのである。このため、経営者が分会役員を切りくずしても、その不当労働行為にたいしてはただちに統一労組執行部によるストライキ発令となって、深刻な争議化を避けることができない。
統一労組のこのような闘争方法は、資本力の弱い中小企業に働くものたちの、職場における日頃の抑圧の深さと秘められた戦闘性、また同じような境遇にあるもの達との団結心のかたさに依拠してうちたてられたのであり、結成大会は、全ての議案を満場一致で採決していったのである。事実、このような取り組みのなかで、小規模の企業での組織化では通例となっていた不当労働行為は、統一労組のもとでは減少していった。そしてまれに、悪質な経営者が第二組合づくり、団交拒否、役員切りくずしなどの攻撃を見せた場合、ただちに深刻な争議へと転化していった。勝ち目のうすい場合でも、統一労組は決戦をあえて提起した。たとえ敗北しても、敵に最大の打撃を与え、またごくわずかの不当労働行為であっても、最も強力な闘争を組むというのが、統一労組の原則であった。
結成大会後の統一労組のたたかいは、激烈をきわめた。あらたに府中地区、小金井地区、武蔵野三鷹地区で、支部づくりがこころみられた。これらの地区では、地区労の運動方針として統一労組づくりが決定され、地区労傘下の各組合の青年活動家がオルグ団として登録された。活動資金は、各労組の分担金からなり、地区労にプールされた、すなわちこの期間、全三多摩の地区労運動は、熱に浮かされたように未組織労働者の組織化にとりくんだのである。
だが、経営者の側も迅速に対策を講じた。統一労組に対処するために、経営者間の連絡が緊密になり、統一労組のオルグが組織化に着手した企業では、経営が先手をうって企業組合をつくってしまう事例が増えてきた。また統一労組活動家の顔写真が配布され、ことにIの顔はすぐに経営者仲間で覚えられてしまった。
こうして統一労組の組織づくりは困難になっていった。組織化に成功した場合でも、親企業の組合――
多くは電機労連だったが――の指導のもとで第二組合かつくられることがしばしばあった。親企業組合と結びついた第二組合との闘争を強いられた分会では、苦しい闘いがあいついだ。
結成大会以後最初に直面した長期争議は、中野電機の闘争であった。この闘争では経営者が団交を拒否して逃亡し、その間に三度におよぶ警官隊との衝突がくりかえされた。また親会社労組の電機労連八欧電機支部は、その組合員が職制にひきいられて中野電機ピケ隊に襲いかかるのを放置した。こうした泥沼闘争の結果、中野電機は倒産(後に偽装倒産であったことが判明)した。分会組合員は、本部のあっせんで他の企業に就職し四散したが、そのなかから一人の優秀な活動家を生み出した。
三多摩統一労組最大のたたかいは、大山電機分会の闘争であった。
富士電機の系列にある大山電機は、従業員数五〇〇、うち三〇〇が羽村工場にいた。その多くは、東北出身の婦人労働者であり、経営と労務管理は前近代的で、社長が渡米したときには、朝礼の時にアメリカ大陸の方角にむかって「社長さん、おはようございます」と合唱させるような会社であった。
統一労組西多摩支部は、オルグの主力二〇名を大山電機羽村工場の組織化に投入して、六二年一〇月から調査活動を開始し、六三年一月からオルグ活動をはじめ、四月六日、二一七名の組合員を獲得して分会を結成した。会社は、統一労組のこのようなとりくみにまったく不意を打たれたが、分会公然化後は、団体交渉を一貫して拒否し、その間に富士電機労組との相談を進め、五月一八日、第二組合の結成をはかった。富士電機労組の直接の指揮と、警察権力の公然たる介入のもとで行なわれようとしたこの第二組合結成大会は、統一労組分会員の悲痛な抗議闘争のために流会した。しかし会社側はこの後、分会にたいする弾圧、不当労働行為を強め、とくに職制の仕事を通じた差別と抑圧によって、地方出身の女子組合員は、泣いて日々の労働を耐え忍ばなければならなかったのである。統一労組は、会社のこうした反動攻撃にたいして、八月にストライキをたたかい、一〇〇〇名の西多摩地区労組合員を動員して反撃に転じた。この八月の闘争によってはじめて会社は、分会の権利を認めることを約束した。だが、それによっても弾圧はやまなかった。第二組合づくりは依然としてつづけられ、悪質な職制の卑劣な不当労働行為は、昼夜、工場、寮の区別なくくりかえされた。そのなかで苦しみに耐え切れず、分会員は減少の一途をたどった。統一労組執行部は、政治意識が弱く、地域的つながりもうすい組合員をかかえて、会社の連続的な弾圧とたたかう分会を指導しなければならず、職場闘争では次第に守勢に追い込められてしまった。
こうした状況のなかで統一労組は、弱い分会の劣勢を一気に挽回させるべく、翌年四月一大決戦を企図した。賃上げ、不当労働行為の停止、第二組合主謀者の追放をかかげて、大山電機分会は無期限ストに突入した。そしてこの四月闘争は、きわめて激烈なものとなった。工場を完全に占拠し、強力なバリケードを各門にきずいたうえで、さらに、資材、製品の搬出、搬入を阻止するため、工場全体の周囲に深さ一メートルのザンゴウを掘って、いわば要塞と化した。会社側は下請工場の労働者を組織し、警察にまもられて数次にわたる突入をこころみたが、ことごとく撃退され、また、ゲリラ的に持ち出した製品の搬出も、トラックの車輪の前に寝ころぶ分会員の闘争によって、全て阻止された。
度胆を抜かれた会社は、ついに全面屈伏した。要求はほとんど貫徹した。だが、分会員はこの「勝利」を喜ばなかった。とくに婦人労働者達は、もはやこの会社と職制にたいする憎悪の復讐の念をはらす以外のものに目的を見出すことができなかったのであり、彼らは、闘争の終結に泣いて抗議した。彼らは、会社そのものを再起不能にさせるところまでたたかいぬき、社長と職制の泣き顔を見てやりたいというところまで追いつめられていたのである。もちろんこれは、組合員全員の共通の感情ではなく、最も抑圧された下部の婦人労働者の叫びなのであったが、民同型改良闘争では絶対に組織され得ないこのようなエネルギーが、統一労組の戦闘的な闘争によって前面に登場する機会を得たのである。
われわれはここに、戦闘的改良闘争から生産の秩序と支配そのものへの反逆に飛躍する契機をつかみ得たはずであり、乾いた理論ではなく、生産現場で展開される憎悪と復讐にみちた血みどろの「労働者管理」のたたかいへと大衆を導びき得たはずであった。だが、現実の統一労組とわれわれは、未だ「戦闘的改良闘争」の大枠のなかにしかいなかった。大山電機分会の提起した問題は、やっと六六年になってわれわれの論争のなかに浮び上ってきたのである。闘争は「勝利」し、組合は弱体化する奇妙な傾向が、地方出身者を主力にするという不利な条件があったとはいえ、大山電機分会に顕在化し、趨勢となっていった。そしてこの矛盾のなかに、誕生後二年を経て、統一労組運動がはやくも転機をむかえていたという事情が、当時のわれわれには気付き得なかったのであるが、明確に反映されていたのである。
C 全国政治闘争の前線へ
三多摩統一労組のもっともはげしい実力闘争の前衛をになったのは、つねに、三多摩社青同であった。たたかいのなかで、三多摩社青同の体質は大きくかわった。組織活動の資質のうちで、戦闘性と行動力がもっとも重視され、根性という言葉が愛された。
六三年末には、同盟員数は六〇〇名に達し以後六五年にいたるまで、五〇〇〜六〇〇の水準を維持した。これは、ほとんどつねに東京社青同の三分の一の勢力であり、また、三労組合員の一%に達していた。当時、全国社青同は、都内もふくめて、民同青年運動として、官公労青年労働者が圧倒的な主流であったが三多摩の組織は、六割が民間労働者であり、官公労が二割五分、残りが専従と学生であった。三多摩の社会党や地区労、重要単産の専従、書記のほとんどか、社青同同盟員であり、トロツキストであった。最盛時にはその数は五〇名をこえた。
こうして、民間・官公労の戦闘的青年労働者のエネルギーと、多くは学生出身のトロツキスト的政治指導部の結合がなされ、学生出身カードルは“労働者”を知り、学び、労働者はこれらのカードルから政治と思想を学ぶという作風が確立された。そしてこの両者が、統一労働運動の激突のなかで、ますます戦闘化していったのである。
六三年三月、三・一闘争を一二〇〇の戦闘的デモでたたかった三多摩社青同は、この年の一〇月、同じ立川公民館で二三〇〇名の集会をもった。改憲阻止をかかげた一〇月闘争は、西多摩だけからでもバス一五台、七五〇名を参加させ、しかもそれが社青同の旗のもとで前回をうわまわる戦闘的デモを貫徹するという、三多摩労働運動史上はじめての快挙であった。それはもはや堂々たる一つの政治勢力であった。闘争は完全に統制され、警察の弾圧を許さなかった。社会党の幹部達は、これらの降って湧いたような戦闘的な支持者の群に、夢見心地であった。だが、六三年いっぱいかかってふくれ上った青年の政治的結集はもはや三多摩地域の枠のなかに押しとどまっていることはできなかった。それはもっと広汎な舞台で自らを爆発させるべく、全国政治闘争の前線へ進出していったのである。
六四年にはいると三多摩社青同の政治闘争は、ベトナム革命の前進をうけた反戦闘争の新しい課題、原潜、日韓闘争へ立ちむかっていった。新年にF一〇五横田移駐阻止闘争をたたかい、そのなかで、ベトナム革命との結合の視点を見出していったわれわれは、自らの「植民地革命派」としての確信をますます強めた。
六四年九月、横須賀闘争に三多摩社青同三〇〇のヘルメット部隊が登場した。今日ではデモ隊がヘルメットを着用することは常識になっているが、この当時は、まったく異例のことだったのである。三多摩のヘルメット部隊は、さらに、皮ジャンパー、皮手袋、半長靴、そしてマスクを着用しており、防衛的装備とはいえ、思い切った戦闘武装でかためられていた。またデモ隊員の主力は中小金属工場の労働者であったから、物理的な力の点でも強力であった。このようにして三多摩社青同の部隊こそ、今日の急進主義青年運動の武装闘争の先駆であった。当初は、学生諸君をふくめてわれわれのヘルメット部隊に冷笑があびせられた。彼らはわれわれが、けがを恐れて防備しているのだ、と嘲笑したのである。だが、幾度かの戦闘のなかで、三多摩部隊の戦闘における強さが証明され、学生と警官の衝突のなかで学生を防衛する役割を果していったのちには、彼らは超党派的に「三多摩」を歓迎し、その登場を待ちのぞむようになった。
こうした闘争の経験を通じて、三多摩社青同は、自らの部隊を軍団化することに着手した。同盟員のもっとも戦闘的な部分を、通常の組織活動からきりはなして「行動隊」として組織することを決定したのである。「行動隊」は政治闘争の軍団であり、「党」の「軍隊」であるとされた。それは明確な指揮、指令系統をもつ一〇〇名の部隊であった。休日に演習を行い、自衛隊の操典書をとりよせて研究した。この行動隊が完成して正式に発足するにいたらないうちに、三多摩社青同運動自体の崩壊がはじまり、行動隊の公然化はなされずに終るのだが、その訓練の成果が六四年〜六五年の諸闘争に結実したのである。参考に供するために、ここにその隊則を引用しよう。
特別行動隊行動要綱
第一章 目的
1 日本社会主義青年同盟東京地区本部三多摩分室特別行動隊は、労働者階級の解放と社会主義革命の達成をめざして闘う全同盟員並びに青年労働者大衆を、右翼官憲の暴力から防衛し、秩序と規律ある団体行動によって、全ての革新運動の先頭に立って、戦線強化を闘いとることを目的とする。
第二章 隊員
2 隊員は、第一章に規定された目的を達成するため、最高の努力を尽すことを義務とする。
3 隊員は、強い使命感にささえられ、学習と実践の中で、不断に自己の成長につとめなければならない。
4 隊員は、命令を守らなければならない。
5 隊員は、隊の名誉を重んじ、いかなる場所においても、これを傷つけるような行動を行ってはならない。
6 隊員は、いかなる場合といえども、隊の機密をもらしてはならない。
7 隊員は、隊旗を防衛しなければならない。
第三章 指令系統
8 指令系統は次の通りである。
隊長―中隊長―小隊長―隊員
9 指令内容は作戦会議において審議され決定される。
第四章 訓練
10 訓練の内容は次の通りである。
体育訓練、徒歩訓練、演習、学習
11 訓練の規模は次の通りである。
全員訓練、中隊訓練
12 体育訓練
(1) 目的
体育訓練は、隊員の体力をきたえ、隊員相互の団結心をたかめることを目的とする。
(2) 種目
体育訓練の種目は次の通りである。
徒手体操、格技、球技
13 徒手訓練(略)
14 演習(略)
15 学習(略)
第五章 実践行動
16 実践行動においては、隊員は規律をもって参加し、個人的判断にもとづく行動は一切許されない。
17 動員は左の各号によって行う(略)。
18 隊旗の防衛(略)
19 装備(略)
20 隊歌を次の通り定める。行動参加において、随時これを斉唱し、士気を鼓舞し、団結を誇示する。
特別行動隊々歌 『青年行動隊の歌』
行 進 歌 『この勝利ひびけとどろけ』
かくして自らの「軍隊」をもつにいたった三多摩社青同は、ついに警視庁当局の異例の関心をひくに到った。六四年九月以降、逮捕された同盟員総数は、のべ一〇〇名に近くなり、そのうちの弱い部分にたいするスパイ強要があいつぎ、ことごとく失敗したのであるが、一一月にはいって、警視庁公安の刑事小松某が八王子の喫茶店で一人の同盟員にスパイ勧誘に来たところを、連絡を受けた同盟員数名が包囲「逮捕」し、糾弾するという事件が発生した。警視庁はこの事件を「警察手帳強奪事件」としてヂッチ上げ、六名の指導的同盟員を逮捕し、同時に約一〇〇名の私服公安刑事を一ヵ月にわたって三多摩に投入し、「警視庁の面子にかけて三多摩社青同をつぶす」と激怒したのである。これら私服達は、「三多摩社青同は本当はトロツキストだ」「三多摩社青同は暴力革命の訓練をやっている」と宣伝してあるき、議員や労組幹部、経営者を必死にオルグしてまわった。この弾圧そのものは、三労の大衆的救援闘争に守られて失敗したがはからずも、三多摩社青同が当時どのような位置に立っていたのか、全国政治闘争のどのような前線に自らを配置していたのかを示すことになった。三多摩という一地方に誕生した青年運動はこの時点で、全国的政治潮流としての実体をまったく持たないままで、単独で最先端に立ってしまったのである。単独で官憲との激突に直面していったのである。
かくてようやく、三多摩社青同は自らの「孤立」を問題にしなければならなくなった。地方的運動の例外的に突出したエネルギーが短い時期であったとはいえ一つの時期全体にわたって全国闘争の前衛に立たされ続けたという重みが、この運動自体にはねかえってくるのは、必然であった。この重圧に対抗することを強制された三多摩社青同は、二つの方向に自らの転進を求めていった。その一つは自らを思想的にいっそう「党」化することであり、もう一つは社青同を舞台とする全国分派闘争に介入することであった。
D 「党」の建設
われわれが六〇年の末にICPと絶縁してから、六二年いっぱいをわれわれは「党」なしにすごした。このことは、われわれがICPと太田竜の路線を棄て去ったことを意味するものではない。当面どうしても通過しなければならない加入戦術の段階において、太田竜の「戦術指導」のために事態をめちゃくちゃにされたくない、というのが絶縁の理由であった。革命党としての第四インターナショナルと、日本革命路線としての太田竜の諸テーゼをわれわれはけっして否定したことはなかったし、むしろわれわれこそが変則的ではあれ、その唯一の実践者であると任じていたのである。
社青同運動の発展は、必然的に全国的視野と指導を必要とし、カードルの政治教育と党の立場へ獲得することを日程にのせた。六三年になるとわれわれのフラクションは「党」の問題を議題に上げた。そして当然のこととしてわれわれは、「ICPへの復帰」の結論を出したのである。すでにこのころ、太田竜の実践的口出しによってめちゃくちゃにはされないだけのわれわれの運動基盤はきずき得ているという自信があり、他方で統一労働運動を通じて得た「植民地革命派」としての確信によって、綱領としての太田路線にたいする信頼は強まっていたのであった。
六三年の半ば、われわれはフラクション代表数名によって太田の私宅を深夜訪れた。訪れたというよりも「襲った」というはるか適切であろう。二年半にわたって音信が一方的に断ち切られていたかっての同志が、隣近所もすべて寝静まった深夜、突然に、ヘルメットとマスクを着用し、なぐりこみにでも行くような雰囲気で、暗がりからぬっと集団で出現したのである。太田は一瞬おびえた。昔の報復がやって来たか、とうたがったのであろう。
われわれはそこで、「ICPへの復帰」の意志と太田との接触の再開を一方的に通告した。太田のおびえは、驚きにかわった。一方的に離れ去ったかつての教え子達が、運動の大きな成果をたずさえて、突然名のり出たのである。
「われわれはお前を実践的には信用できなかったからかつては離れた。いまわれわれは強くなり、お前の誤りにかきまわされる心配がなくなったからお前のところにもどる。よろしく指導せよ!」
われわれは太田自身が加入活動からはなれ独立活動の指導部として活動することを要求した。丁度そのころ、太田の加入活動は破産して社会党から除名された。こうして、われわれの要求にこたえる以外には太田の政治活動の基盤はなくなってしまったのである。太田はためらい、受け入れた。
それでもわれわれは、全面的に太田を信用したわけではなかった。太田の提起する路線にもとづき、われわれは政治情勢を分析し、方針化した。たがわれわれの運動がつくり出した成果としての社青同の革命的カードルとは、太田を接触させなかった、わがフラクションの代表と太田との個人的会談のみをおこない、三多摩における細胞建設と運営は、すべてわれわれの手のみでおこなった。こういう期間が約一年つづいた。
われわれは、三多摩社青同運動のなかにICPを組織した。民同、社会党とのつながりか弱く、戦闘的で献身的な労働者であること、組織の決定にもとづいてどのような任務につく用意もあること、会議への出席と党費の支払いにたいしてどのような苛酷な要求にもこたえられること、この三つがわれわれがオルグするための基準であった。オルグはきわめて簡単であった。
「じつはわれわれは、ICPといって、第四インターナショナルのトロツキストだ。お前も社会党で革命ができるとは思わないだろう。入れよ!」
命令に近かった。加入活動の条件のもとで主体を明かす以上は、相手をもその立場に獲得するのでなければ、きわめて大きな危険にさらされることを意味する。だが、すでに三年の苦しいたたかいをともにして来た仲間達の反応は、例外なく二つの言葉に表現された。
「やっばりな! 入るよ」
こうして、のべ八〇名にのほるICP党員が三多摩に組織された。その組織原則は「非合法、非民主的中央集権制」であった。細胞の横の連絡は許されず、たがいの本名も知らされず、決定はつねに上から下へ流されるだけであった。加入戦術は二重の秘密活動である。官憲にたいして秘密であるだけではなく、社会党にたいしても秘密である。
だが、こうした活動は六四年の半ばをすぎて終止符をうった。原潜闘争をバネとする全国分派闘争への公然たる登場のなかで、党的政治意識の強化をもっと大胆にはからなければならなくなったのである。三多摩の指導部は、太田を全ての細胞に出席させることを決定し、間接指導から直接指導に移行した。城は無条件で明けわたされた。そして太田は、まさにこの瞬間を待っていたのである。
三多摩社青同グループの全面的指導にのり出したときの太田の立場は次のようなものであった。第一に日本革命の戦略的主力を「予備軍労働者の組織化」(未組織労働者の組織化)とすることによって、三多摩統一労組運動を確認し理論化した。第二に、主要な活動領域を社会党内闘争へ移すことを提起し、この点における三多摩グループの日和見主義を批判した。第三に、三多摩の成果に依拠して旧JR関西派との統一をなしとげ、第四インターナショナル日本支部の公式のイニシアティブをとろうとした。
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