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国際革命文庫 14

織田 進
2

電子化:TAMO2
●参考文献
全国社青同1969〜71
滝口著作集の栞

「三多摩社青同闘争史」
――ひとつの急進的青年運動の総括――

第二章 創生

 A 社青同三多摩支部誕生

 六〇年のくれから六一年にかけて、われわれは、各地区社会党の青年部員を社青向に加盟させる努力をつづけながら、他方で、社青同の宣伝活動の中心は、争議組合にたいする「歌唱指導」であった。アコーディオンと歌集をもって、どんな組合にも、どんな山奥にもはいりこんだ。「歌唱指導」は無料であり、交通費ももらわなかった。技術の面だけで言えば、共産党の中央合唱団とくらべものにはならなかったがその清潔さが好感を呼んで、多くの組合から招待されるようになった。
 歌唱指導は、いくらつづけても、それによって社青同がつくられるということはなかった。だが、社青同の名前は広かった。親切でけっして恐しくない活動家集団として。
 同時にそれは、民青の活動舞台をうばうことに成功した。民青の組織づくりは、歌唱指導から地域サークルにつなげていくという方法を中心にしていたのである。
 六一年四月、社青同三多摩支部か結成された。同盟員数六〇名。つちム分の一は学中で、他のほとんどは社会党系の労組活動家であった。
 われわれは六〇年に社会党、労働組合活動家の信任を得、六一年にその全ての青年部活動家と親密になった。社会党に合体するという視点から言えば、もうやることはなかった。社会党系青年運動というものはまったく存在しなかった。社会党の青年というのは、世間の常識からいえばもう壮年なのだが、社会党のなかでは一番若手だというにすぎない。この点で民青とはまったくちがっている。だから彼らは、若々しいエネルギーにみち活動と遊びがまじり合った民青活動にせんぼうをかくし切れなかった。
 だが、若干の例外があった。それは、安保闘争で戦闘化した青年労働者のもっとも極左的部分である。彼らは、民青を「軟弱」であるという理由で嫌い、社青同に参加した。彼らは暴力的な闘争やデモが好きで、それを社青同に期待した。彼らは、やがてわれわれが獲得することになる三多摩青年労働者の戦闘的大衆の前兆であった。
 だが、いずれにせよわれわれが支部を結成したとき、そこにはまだ運動はなかった。二年前に学民協をはじめたときと同じ矛盾にわれわれは直面した。われわれは青年運動を通じて社会党に食い入ろうとしたのだが、青年運動自身が社会党に存在せず、われわれの手で最初からはじめなければならなかったのである。
 当時われわれが唯一とりくんだたたかいは日鋼武蔵工場の一一四五名の首切り反対闘争であった。このたたかいは、もしそれが米軍特需工場で労働者の大多数が高年令だという事情がなく、組合が徹底抗戦をさけんでいたなら全東京を揺り動かす大闘争になっていたかもしれない。これだけ大量の首切りというのは当時でも珍しかった。だが、たたかいをさけんだのは社青同だけだった。社会党はもちろん、日共、民青も一切手出しをせず、たたかいはあっけなく敗北した。
 だがこのたたかいはTという一人の戦闘的な活動家を生んだ。
 「社青同は当時、日鋼に四名いた。首切りを出された日から連日にわたってビラ入れを行ない、職場の中では、組合員に闘うことを呼びかけ、職場集会や全員集会には積極的に発言し、一生懸命闘った。
 しかし社青同は、日鋼班全員が最後まで闘ったわけではない。四名のうち二人は、社青同として恥ずべき行動をとり、あげくの果に脱退してしまった。
 会社側の悪とい弾圧に屈してしまったのだ。
 A君の場合、父と兄が日鋼に働いていた。会社はA君に対しお前がこれ以上社青同活動を続けるなら父と兄の首は保障しない、だから考えなおせ、とこんな具合だ。
 残念ながらA君は考えなおしてしまった。
 またS君の場合は、完全な裏切りだ。いまさら社青同の汚点をさらしたくはないが、あえてS君のひきょうな行動を公けにし、当時のまだ弱く、小さかった社青同の姿を知ってもらおう。
 社青同日鋼班四名の活動は、労組内に於ても、又、府中市に於ても、ちょっと光った存在だった。
 春闘や政暴法デモには、いつもその先頭でスクラムを組んだものだ。
 しかし、首切りが出て、組合の運命、労働者の運命を決する大切な闘いに、S君は、同志を売って、自分の首をつないだのだ。
 社青同の組織、活動計画……そうしたものを会社に売ってしまった。
 言いかえれば二四〇〇組合員の中のわずか四人の社青同の活動が常に正しく、会社とそれをとりまくやつらにとってケムタイ存在であり、恐しいものだったにちがいない。だからこそ、S君の売込みに会社は応じたのだ、と思う。
 社青同がなんにもやらないで、民青のように(当時日鋼に一名)おとなしくしていたら、首は大丈夫だったのだけれど、それではまちかいだからな……。
 あの闘争をふりかえれば、社青同にもS君のような奴がいたけれど、最初から最後まで闘い抜いたのは、社青同だけだったろう。全三多摩の仲間が、連日早朝から、旗をかついでビラまきに来たし、とにかく、社青同だけが、三井独占に抵抗したのだ。
 ついこの間、何年ぶりかでS君に逢った。
 顔を見るのもイヤだったが、少しはなしをした。
 その中でS君は、『心配するな、俺はまた、社会党支持だから』と言った。
 俺は、コンチキショウ、と思ったから、おもむろに、ごく落ちついた声で言ってやった。
 『社会党はなあ、おめえみてえな奴に、支持してもらわなくてもいいんだ』」(『夜明け』三号――T)
 これが、その頃の社青同であった。

 B 統一労組運動はじまる

 YやKの社青同指導部は、政治的緊張の全般的低下のなかで、既成の労働組合にはいり込み、学習や機関紙活動、デモ参加などを通じて、社青同を上から、すこしずつ広げていく方針をとっていた。この方針に反発したのはIであった。
 Iは三多摩労協の書記として、たたかう場所を求めて西多摩地区労にはいり込んだ。西多摩地区は、東京の後進地帯三多摩の、そのまた後進地帯である。
 ここには合同労組が存在していたが、事実上壊滅していた。Iは、西多摩地区労からその再建を依頼された。
 彼は、YやKの既成労組へのはいり込み路線ではなく、自らの手で新たな労働運動を構築することをはかった。それを中小企業の未組織労働者を組織するたたかいとしてやろうとした。西多摩地区労はその機会を提供した。
 西多摩合同労組は、それまで、繊維産業の零細企業労働者の助け合い機関にすぎなかった。地区労がIに要求したのも、そのようなどの既成労組もとり上げられないもっとも貧しくしいたげられた可哀そうな労働者を助けるという視点からの合同労組づくりだった。
 Iはこれにたいし、組織対象を電気、金属の成長産業の中小企業に設定することを主張した。このような設定は、従来の地区労運動の常識からすれば、単産の縄張りを地区労が荒すことになる。地区労は反対した。
 だがIは強引に既成事実をつくっていった。
 六一年八月、「西多摩一般合同労働組合」が結成された。参加者は四名である。Iと地区労議長のN1、そして地区労副委員長で合同労組委員長のN2、富岡光学労組員で社青同メンバーのK2である。すなわち、獲得すべき未組織労働者は一名も参加せず、まず執行部だけができ上ったのである。こうして既成事実として「西多摩一般合同労組」はでき上った。
 「今の所、組合員よりも先に、執行部の方が出来ている。
 そしてその執行部が学習中なのだ。自分の組合というものを知るために。
 全く変な話だ。」(『夜明け』三号―A2)
 九月、古里精機に第一分会が三三名で組織された。古里精機は西多摩でも最辺境部に属する。こののち全三多摩に吹き上げる統一労組運動の第一歩が、三多摩の最奥地で、人目をしのんでこっそりと進められ単産の目が光り出さないうちに旗上げされたことからはじまった事実は記憶に値する。
 だが、ひとたび第一分会が公然化すると、それは爆発的な波及力をもった。十月には、第二組合が生まれた。会社の第一組合攻撃にたいして、地区労の各組合に支援要請がとんだ。若い組合活動家達は、終業と同時に電車に三〇分ものって古里精機にかけつけ、組合員の訴えに耳を傾けた。つぎつぎと出される難問の解決のために心血を注いだ。彼らは自分自身、経験の豊かな訓練された組合活動家ではなかった。彼らは古里精機の組合員に与えるべき助言や方針を多く持っていたわけではなかった。組合員の話に聞き入り、喜び、怒り、涙を共にすることで精一杯であった。だが、その興奮と感動が彼らによってそれぞれの職場へ持ち帰られ、生々と語り広げられていった時、この若いオルグ達は、西多摩労働運動とたたかう古里精機――第一分会を結ぶ太いパイプになり得たのである。
 つづいて、武陽製作所に第二分会が組織された。組合員六名の第二分会に直面して、会社は偽装倒産をもってこたえた。組合員は年末をむかえて、ボーナスも出ないままで放り出された。合同労組執行部は直ちに西多摩地区労全組合員にボーナス・カンパを訴えた。一人一〇円のこのカンパのために、Iやオルグ達、そして第二分会員は、たたかいの正当性と会社の不当性、そして彼らの境遇と決意を説いてまわった。それは西多摩地区労はじめての経験であった。そこには労働者を支えるのは労働者であるという真理が、そしてたたかう者だけが知る団結のあたたかさがあった。官僚的に上部から下部に伝達されるカンパとはちがって、たたかいの熱風がそのまま吹きつけてくるようなカンパ・オルグであった。一人一〇円の少額であっても、出す方は「少なくて申し訳ない」と言い,受けとる方は「団結ありがとう」と受けとるカンパなのである。われわれはこうして、金の使い道というものを知ったのである。
 このようなたたかいの広かりのなかで、地区労各組合の活動家が、合同労組オルグ団に志願した。第三分会、第四分会……と、つぎつぎに組織化が進んだ。とりわけ、西多摩地区のもっとも進んだ中企業である八幡電子とパネルックが組織されたことによって、西多摩一般合同労組は西多摩地区労の完全な支持を獲得した。単に支持を獲得しただけではない。既成組合の体質そのものに迫るものとなったのである。
 合同労組運動は、西多摩地区の民間、官公労組台の若手活動家の戦闘的エネルギーを発掘し、吸収し開花させた。組合機関の担い手である壮―中年のベテラン活動家は、青年達のこの運動に未来への期待を見出して感動し、支援した。西多摩教組は、自分の教え子達が、生活をかけで勇敢に経営者とたたかう成長した姿にもっとも深く揺り動かされ、組合事務所を合同労組に開放した。数十名の、ときには百名をこえる、西多摩地区のあらゆる組合からかけつけた青年活動家達によって西教組事務所は連日深夜まで占拠された。西教組が、自分の会議をひらくために合同労組の許可を求めるといる情景がみられることもあった。さして多くない青梅の喫茶店と大衆呑み屋では、いつでも討論に熱中する活動家たちを見ることができた。
 合同労組がこのようにさまざまの組合活動家を魅きつけていったのは、それが既存の労働運動にたいしてひとつの根底的な問を投げかけることに成功したためであった。合同労組の活動家たちは「企業組合主義反対、労働者の企業意識粉砕」という共通のスローガンをかかげた。事実合同労組は、組織された未組織労働者がそのまま企業組合化して堕落していくのではなく、自分自身が新しいオルガナイザーとなって新しい仲間の獲得におもむいていく運動であった。そこには、労使のなれ合いがはいり込むよゆうはなく経営と組合の苛酷な対決の日常があった。労働運動の本質的な非妥協性が、目で見、手でふれることのできるなまなましさでそこにあった。だからそれは、企業内組合として、あるいは「親方日の丸」で動かしがたい安定的な秩序のレールに沿って運営されている既存の組合のなかでは、ありあまるエネルギーを行動の情熱に結晶させることのできない青年達を、熱狂的に魅きつけたのである。
 中学を出たばかりの合同労組組合員が、ベテランの活動家を問いつめる。
 「君達企業内組合のたたかわない労働運動は、われわれ中小企業下請労働者の犠牲のうえに成り立ってきたのだ。君たちはそれを良いことに、自分たちの労使協調路線をつづけてきた。だがわれわれは立ち上っている。われわれは首をかけて君たちと腕を組もうとしている。君たちはどうするべきなのか?」
 それはちょうど、植民地革命が帝国主義本土のプロレタリアートにつきつけたものに似たものを、既存の労働組合活動家につきつけたのであった。
 合同労組運動は、こうして西多摩労働運動の渦になった。三池争議の指導者の一人であった総評KオルグとIが、この総体を牽引した。Iはとくに、その強烈な個性で青年たちを魅了した。彼は「鬼」とアダ名され、「鬼のIちゃん」のうたがはやった。活動家たちは成長した。彼らは「革命」を口にするようになり、労働者の本当の解放が社会主義革命にあることを学んだ。合同労組の学習スケジュールはかならず革命の問題まで射程にいれていた。冨岡光学労組のN2は、この運動のなかでもっともすばらしい歩みをしるした。またケミカル・コンデンサー労組は、この運動に参加した若手活動家たちによって、御用組合指導部からの奪権が成功して、戦闘的な組合に生まれかわった。合同労組のなかからも新しいすぐれた活動家が生まれた。こうして西多摩労働運動のなかに、数十名の新しい前衛的労働者の一群がつくり出された。彼らは社青同に加盟した。
 六三年五月、第一分会(古里精機)は解散した。第二組合と経営者の攻撃とたたかって半年、彼らはそのエネルギーを使い果した。会社もまた重大な打撃を受けた。第一分会の旗はたたまれたが、その名は三多摩統一労組がブルジョア階級にこころみた数多い挑戦の最初の矢としてのこりつづける。彼らは自分の旗に「古里精機分会」ではなく、「第一分会Lと書いたままで彼らの歴史を閉じた。彼らの誕生のとき、彼らだけが西多摩合同労組の全てであった。ここには、無数の新たな企業へむかって永久的に発展させられるべき未組織の組織化運動こそが、個々の組合員がそのもとに結集するこの運動自体の目的であるという思想が表現されていた。
 「こうして出来た第一分会もやがて苦難の道を半年間歩んで、ついに第二組合ができてしめ出されるという運命をむかえるのであるが、ここで学んだ貴重な経験にもとづいて、我々はさらにオルグをすすめた。
 第一分会の仲間達と、私達は深く人間関係をむすんで行った。盆も正月も、お祭りもピクニックも、私達は全ての行為を彼らと共にして行った。その中から、私達は、未組織の中に生きる労働者の、たくましい根性を知った。
 ふまれようと、けられようと、ニャリと笑って、また明日も生きてゆく、たくましい人民大衆のいぶきを、青年の力を、私達は深い感動のうちにとらえざるを得なかった。」(『夜明け』第三号――A)

 C 合流

 西多摩合同労組運動は、新しい社青同をつくり上げた。そこには、われわれが六〇年に社会党青年部や民同学校の青年将校のなかに見出した「青年」たちとはまるで違った、素朴で戦闘的で革命の理論を乾いた砂のように吸収する若い活動家かいた。
 Iはこのつくり上げた事実をもって、YやKに新しい視点から社青同づくりをはじめることを提案した。社青同運動の土台に未組織労働者の組織化をすえることを要求した。Iは運動のなかで組織者として成長した。彼はこの運動が大衆運動として発展する可能性については確信をもっていた。だが、彼の目的はYやKと同じく社青同を組織することであり、それを通じて革命の党の建設に前進することであった。Tは党の立場から、したがって当面は社青同の立場から合同労組運動を位置づけなければならず、このためにYやKの力で政治的定式化を得る必要があった。
 Iは書いた。
 「同盟の力が、増大した時に、現象的に現われる停滞を、連続性の中にある一定の意味を持ちつつあるのを教宣すると同時に、その力を、動く活動を通してそこに関連性をもたせ維持させ、高揚時にそなえるためには、一貫した理論的にも正しい、又現情においては労働運動に根ざしたところの長期的闘いが組織論的に、必要とされてくる。
 まさにそれが、未組織中小企業の組織化であると思うのである。
 この活動は、一年中休みなく運動せねばならぬことを余儀なくされ、又資本主義のもっとも集中的矛盾を露骨に見せつけられそれ故、好むと好まざるとに関係なく、つらいという理由で、活動を放棄せぬかぎり政治的訓練はいやおうなく強要され、学習不足を認識させられ、指導性の欠如を自己が認めざるを得なくなり、そこより、情勢を的確に判断したもとにおける大胆さと、勇気が生まれてくる要因を多く含んでいるのである。
 同盟員の質の向上は、量を拡大する前提であるならば、これも又、その闘いの中で可能であることも理解されうると思う。」
 「このたよりが、君に、そして貴女に読まれる好運にめぐりあえる機会を得たときには、一〇〇名の同盟員が(西多摩支部で)財産を一〇万円持って、政治的闘いとして憲法改悪反対、反未組織の組織化という短期的闘いに結集し、その力は春闘においてまだまだ微力といえども、単組の、そして分会の生産点での闘いに、以前よりも主体的にとりくんでいることであろう。
 我々の戦線の強化と、社青同の力を強めるために今こそ、全力投入のもとに、未組織の仲間の組合づくりに、君も、そして貴女もわれわれと共に、とりくもうではないか!」(『夜明け』第二号――I)YとKは、Iの提起を全面的に受け入れて方針化した。
 すでに三多摩の他の地区でも、新しい青年たちが社青同に入りはじめていた。立川のリッカーミシンや八王子の日本針布、そして武蔵野三鷹地区活動家、立川や三鷹の市役所などの労働者たちは、民青より「左」で戦闘的な社青同をもとめてその旗をにないはじめていた。彼らのうちには安保闘争の経験者がいた。また昨日までは街の暴力団の手下であって、経営者の悪質さに憤慨して突然活動家になったような若者も少なくなかった。彼らに共通して、当時中小企業労働者だけが持つことのできるような荒々しい戦闘性が生きていた。
 われわれは社青同をまずこのような骨っぽい素材でかためることからつくりはじめなければならないと決断した。Iの提起を実践することは、まさにそのような必要を満すことになるのである。たがわれわれはさらに日本革命の戦略のなかでこの運動を位置づけようとした。太田の理論のうちのいくつかか、ここで役に立った。
 われわれはそれを次の三点に定式化した。
 @ 民同労働運動への対決の視点と方法。
 民同運動の改良主義、組合主義は、単にその指導部の社民的思想にあるのではない。むしろ社民的指導部が指導権をとりえている運動の基盤が問題である。
 日本の労働運動は、大企業の本土労働者の特権的運動としての限界を有しており、これが企業内組合主義として表現されている。全労働者の三分の二をこえる膨大な中小零細企業の未組織労働者の存在が、労働運動の日和見主義的堕落の圧力源となっており、この部分の存在によって労働者階級の階級としての革命的団結が妨げられている。二重構造の底辺部分としての、この未組織労働者の組織化とその抑圧された意識とエネルギーの解放こそ、労働運動革命化の戦略的手段であり、それによってはじめて、大企業本工労働者の特権防衛運動にすぎない民同運動を下からつきくずすことができる。
 A 社青同運動の統一的基盤。
 社青同は革命党建設のための組織であり、それは日本社会党に結集しその影響下にある労働者階級の圧倒的多数部分の革命的獲得のための運動である。だが、日本社会党内の単なる党内闘争によっては、この根本的課題を解決することができないのは、丁度総評内での単なる反民同闘争によっては民同を打倒できないことと同じである。すなわち、労働運動における新たな、独自の運動を自らつくり出して、その力でこれまで政治的には不活発な存在であった圧倒的に多数の労働者を革命的に、政治的に活性化させ、その力によってはじめて上層労働者の特権的議会代表部としての日本社会党に衝撃と分解をつくり出し、社会党に盲目的に従っている労働者を獲得して革命党建設の基盤をつくり出しうるのである。したがって社青同運動は合同労組−統一労組運動を自らの日常的な柱とし、それがつくり出す下層労働者の運動を政治的基盤として確立し、そこへ戦闘的な青年労働者を結集して独自の政治勢力として自らを登場させ、それによってはじめて社会党の日和見主義的部分と対抗しうる力を獲得しなければならない。
 B 世界革命の戦略との関係。
 以上の統一労組=社青同運動は世界革命の現在の段階において基本的な法則性を体現している。ヨーロッパ、アメリカの特権的プロレタリアートの運動は、植民地人民への抑圧とその犠牲にあぐらをかいて物質的改良の成果におばれる“歌を忘れたカナリヤ”である。だが、植民地革命の高揚が、このような先進国労働運動の腐敗と堕落に鉄槌を下し、その下層部分と結合して新しい発展をつくり出すであろう。日本帝国主義は、植民地を奪われた帝国主義として、その矛盾を国内にかかえこんでおり、まさにその表現が経済の二重構造である。したがって、われわれが開始せんとする統一労働運動こそは日本国内における植民地革命なのであり、世界革命へむかうわれわれの任務なのである。
 社青同三多摩支部は、六一年末、東京地本分室となり、各地区に支部をつくりはじめていた。その最先頭を、合同労組運動にとりくむ西多摩支部が駆けていたことはいうまでもない。六二年五月、社青同三多摩分室は第二回大会をひらいた。大会は、西多摩ではじまった合同労組運動を全三多摩にひろげ、三多摩一般合同労組をつくり出すことを方針の中心にかかげた。西多摩合同労組の成果は三多摩労協をゆり動かし、三労もまた運動方針のなかで未組織の組織化――三多摩一般の結成をうたった。そしてこの五月には八王子と立川で合同労組づくりがはじまった。派遣された専従オルグはすべて社青同同盟員であり、各単組から「供出」されたオルグ団も急速に社青同に組織されていった。
 こうして、合同労組運動は社青同運動に合流した――社青同は、合同労組のにない手になったのである。
 三多摩の合同労組運動のもっとも大きな独自性はこの点にある。合同労組や統一労組の形態で、中小企業労働者の組織化がすすめられるという事実そのものは、各地にある。だがそれが、一つの政治組織とここまで深い結合をきずいた例は、戦争直後の共産党と産別の場合を別としては、戦後労働運動全体の歴史のなかでも例外に属するであろう。
 合同労組の活動家は一人のこらず社青同の同盟員になった。会社との団体交渉(合同労組は集団交渉を原則とした)の席上、社青同の同盟旗を背景に全員同盟の腕章をまいているというような情景も見られるほどだった。
 社青同運動はいまや、新しい段階にはいった。自分自身の独自の運動、大衆を組織する独自の形態を統一してもつにいたった。

 D 憲法闘争へ

 合同労組運動に結集したエネルギーは政治的表現を求めた。
 三多摩社青同の政治的立場は、加入活動への配慮と「根拠地の理論」から、全国的政治課題にたいしてそれまでは消極的なものであった。
 六二年、日本原水協はソ連核実験をめぐって混乱した。「社会主義国の核実験支持」を主張する共産党系と、「すべての国の核実験反対L を固執する社会党、総評系とのあいだで非妥協的な対立がつくり出された。
 共産党がかねがね「はじめに実験を再開する国にたいして断固抗議する」と宣言していたという事情があり、その無原則的な宣言が「はじめにソ連が実験を再開する」事態のなかで窮地に追いつめられたという点について共産党が批判されるべきであるのはいうまでもないが、社会党系の主張は明らかに江田派の主導下での右旋回をしめしていた。トロツキストたるものがこれにたいし、「ソ連核実験支持」でなければならなかったのはいうまでもない。
 だが三多摩社青同指導部が現実にとった路線は、社会党路線を支持することであり、三多摩で反共産党の行動的先兵の役割を果すことであった。三多摩原水協の分裂への歩みのなかで、社青同は、もっとも熱心に共産党、民青を攻撃した。ささいな口実をつかって、原水協総会の席上で共産党三多摩地区委員長を暴力的に脅迫し、机の上に立たせて自己批判させるなどということまでやった。だが、こうした行動はきわめて歯切れの悪いものであった。それはただ、加入活動の防衛という視点から出たものだったからである。われわれは本心では「ソ連核実験支持」なのであったから、理由を説明することが非常に苦しかったのである。
 「いかなる核実験にも反対という、原水協基本原則を支持してきた共産党、民青が、手のひらをかえすようにソ連核実験支持をしかも国民的規模の大会に押しつけて来るという、大衆運動の原則をまるで知らないやり方に対し、俺達はいきどおりをもって抗議した。」(第三回分室大会議案)
 注意ぶかく読む人には、この表現が、なににたいして抗議しているのかがわからなくなるはずである。
 だが、合同労組運動がもたらした戦闘的なエネルギーの流入が、政治闘争にたいするあいまいな消極性を吹きとばした。六二年八月の合宿で、三多摩社青同は「総力をあげて憲法公聴会阻止闘争(九月二七〜八日)をたたからこと」を確認した。
 九月二七日から二八日にかけて、三多摩社青同は一二〇名の泊り込み部隊を動員した。それは大多数が労働者であり、東京地本全体で二五〇にみたなかった、しかも多くは学生や地区オルグだけの都内の部隊と際立った対照を示した。三多摩部隊はしかも、行動隊として編成されていた。それはもっとも戦闘的な部隊であった。同時に、大多数の参加者がはじめてのデモ経験でもあった。参加した当時一六才の女子同盟員N3(やがて彼女は三多摩社青同の婦人部長に成長する)はつぎのように語っている。
 「注意をきき、これからいよいよ闘いだ。はじめはゆっくり、歌を唄いながら歩いたが、次第に警官の姿が多くなってくると、スクラムをガッチリ組んで走る。
 警官と衝突した時は物すごかった。生きたここちがしなかった。足が地につかないで、おぼれている様だった。
 警官があんなに憎らしいと思ったことは初めてだった。
 ビルの窓から多勢の人がみていた。あの人達も一緒にデモってもらいたかった。
 “平和憲法守れ”“憲法改悪反対”とさけんでもらいたかった。
 我等の同志が二人逮捕された。私の腕にもァザが出来ていた。スクラムを強く組んだ時のアザだろう。
 でも私はそれを誇りと思った。
 元気に闘った、はじめてのデモの時の傷。これからも平和憲法の為、最後まで、同志達と共にやろうと思った。」(『夜明け』創刊号――N3)
 憲法中央公聴会阻止闘争は、三多摩社青同が政治的に登場する出発点であった。合同労組運動とそのエネルギーの政治的動員、これが三多摩社青同の基本的なパターンとして形成されたのである。未組織労働者を組織しなければ労働運動全体を強くすることができない。労働運動全体を強くすることによって、憲法改悪を阻止しなければ、社会主義革命の条件をつくり出すことができない。そしてその全体を結びつけるものが社青同なのだ。
 このようにして、誰にでも解る.単純な戦略がつくりあげられた。高尚な理論闘争よりも、実践すること、動くことが必要なのだ。なんのために動くか? 「未組織の組織化」「憲法改悪阻止」これで十分だ!
 六二年の末に、三多摩社青同の政治的同質性はこのようにつくり上げられた。敵と目標があきらかで、その手段が明解であれば、大衆運動としては出発できるのである。六〇年安保闘争の敗北の後、ブントは崩壊し、学生運動は陰惨な内部対立にあけくれ、大衆は改良主義運動の魅力にひき込まれていた全国情勢のなかで、ひとり三多摩社青同が急進的大衆運動として出発を開始したのである。Kは当時書いた。
 「民青には、まがりなりにも若さがあり、ゥズマキがある。うかうかしていれば皆な民青に持っていかれるだろう。
 すでに、新宿支部で、そういう傾向があるとかきく(この文章で解放派が怒った)。
 世の中はきびしい勝負の連続だ。
 革命論争をぶち合って、アラ探しや、きめつけを楽しんでいる間に、気がついてみたら、まわりには青年大衆はいず、将来の区会議員を夢見るチョビヒゲや、いろいろとくわしい本部書記や、虎の威をかる狐によく似た代議士先生の秘書と、昨日覚えたばかりの資本論にコーフンしている、学生諸君だけたった……。
 てなことに、なりかねない。
 すなわち、父っちゃん小僧の同盟である。
A君。
 父っちゃん小僧にはなるまい。俺達の同盟を、父っちゃん小僧同盟にはするまい。
 コツコツ、バリバリ動いて動いて、動く中で学んで、闘う青年の根性ある集団、運命共同体をつくろう。
 そして『……派』だとか『……グループ』だとか、解りもしない言葉の論争屋を、同盟の中からなくしていこう。
 近頃俺達が思っていること、これで解ってもらえただろう。
 憲法改悪の動きが深まっている。
 君も体を大切にして、決戦にそなえてくれ、俺達は三多摩から、数千名の根性ある若者を同盟の旗の下に引きつれて、国会に押し寄せていく。
 その時まで、お互にがんばろう。」(『夜明け』第三号――K)


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