目次
はじめに
第一章 前 史
A 国際主義共産党の結党
B 学民協とその破産
C 六〇年安保とICP分裂
D 三多摩社青同の「受胎」
E シェーラ・マエストラ
第二章 創 生
A 社青同三多摩支部誕生
B 統一労組運動はしまる
C 合流
D 憲法闘争へ
第三章 展 開
A 行動する青年の渦
B 三多摩統一労組の激突
C 政治闘争の前線へ
D 「党」の建設
第四章 激 突
A 赤化運動の始まり
B 五・一八事件
C ケミカル闘争
第五章 分 裂
A 「党」の分裂
B 日韓闘争の敗北と分派闘争のはじまり
C 社青同東京地本の分裂
第六章 終 章
A 分裂の完了
B 三多摩社青同の崩壊
C 総括に代えて
まえがき
結成二〇周年を記念した同盟の政治集会が開催される機会に、三多摩の同志達の強い要望もあって、急遽本書を刊行する運びになった。
本書は、「第四インターナショナル」誌の第一〇号(七三年六月)から第一六号(七五年四月)まで、七回にわたって連載されたものである。文庫の一冊にまとめる計画は以前からあったのだが、連載が終ってから日も浅いし、内容の面でも、この文庫に加えるよりは、なにか「青年文庫」というような新しい企画を考えて、その一つにした方が良いのではないか、などとも話されていたのだが、政治集会の資料として使いたいという三多摩の同志の提案ももっとものことであり、また、最近共青向の学習会に出る機会が多く、そのたびに、ここ一〜二年に新しく加盟した若い仲間達が大きい比重を占めていることに驚かされ連載を読んでいない仲間が随分増えていることを知って、この文庫にはそぐわない感がないでもないが、いそいで発行しようということになった。
このため、まとめるときには、手を加えなければいけない不十分さがかなりあって、時間をかけてもう一度資料の収集や討論を是非やってと思っていたことが、なにもできないままになってしまったのは、本当に残念で、いろいろな批判や指摘を寄せてくれた同志達には、心からおわびしたいと思う。ここでは、ほんのわずかの表現上の訂正以外は、連載の通りになっている。もし本書が青年の読者によって利用され、在庫も尽きた頃に、再刊の必要が出てくるようなことがあれば、そのときにはどうしても、この宿題をすませたい。
ともあれ、すでに一〇年が過ぎ去ったこのたたかいの小史を、一冊の書物にまとめてくれる機会が与えられたことに、筆者は、望外の幸福と名誉を感じている。この小史が扱っているのは、さまざまの不十分さをもってはいるが、筆者をもふくむ多くの仲間達の共同の経験であり、共有の青春である。そしてわれわれはもっと大きな、はるかに広く激しい闘争の世界に前進していくために、自らの過去から役に立つ全てのものをひきつぎたいと思う。
若い読者達の真剣な検討と批判が寄せられるなら、われわれは、いつ、どこにでも行って、卒直に語り合うつもりでいる。どうか、よろしく。・・・。
なお、登場人物の名前の多くが、イニシアルで書かれている点について、読者の了承を求めたい。わがトロツキスト党は、未だブルジョアジーにたいしてはもちろん、既成の労働者党にたいしても、いろいろな面で非合法の存在であり、読者をわずらわすあいまいな表現を余儀なくされる。この配慮は、現在われわれの戦線を去っている仲間達にとっては、とくに必要なのである。
一九七六年一一月
はじめに
急進的青年運動が、いくたびも立ち現われては崩壊し、数え切れない挫折を通してくりかえし突き出して来た一つの問題は、「党とは何か?」という問ではなかったろうか。
同盟第六回大会は、「全人民的急進化」の情勢、すなわち、日本社会のあらゆる領域と地域で、いまや押しとどめがたく燃え広がりはじめた人民の反資本主義的、反国家的直接闘争の情勢を確認し、自らの組織と思想をそこにむけて武装すべきことを提起した。同じ問題意識が、第四インターナショナルの全世界の同志達にも共有されていることを、第一〇回世界大会のために開始された国際討論のなかから知ることができる。そしてその全体を通じてもっとも核心的な課題もまた、「党とは何であり、いかにして建設され、どのような役割を果すのか」である。
この十数年間に、われわれは少なくとも三つの急進的青年運動の政治的潮流の勃興と挫折を目撃した。一番目は六○年安保闘争を領導したブント――共産主義者同盟の闘いであり、三番目は六七年以降の青年学生運動の全般的急進化を、その強さと弱さの両方をふくめて代表した中核派――革共同全国委員会の闘争であった。
私はそして、その二番目のものとしてあえて、三多摩社青同運動をあげるのである。
このような評価は、大方の同意を得られるものではないかもしれない。なぜなら、前二者は少なくともはじめから「党」をめざし、「党」を自称する運動として出発し、一時期の全国政治闘争をどの程度かは別として領導することに成功し、そして敗北していった。だが後者――私自身がその一人の担い手としてあった三多摩社青同運動は、一地方の青年大衆運動としてはじまり、その発展の段階が「党」をめざし全国的指導性に挑戦しはじめるに到った瞬間に、まさに劇的に自壊したのであったから。だから運動の外面的広がりや日本階級闘争史の公認のページにだけ注目する人々の目から見れば、三多摩社青同運動をブントや中核派の教訓と同じ箇所で論ずるには値しないと判断されて当然であるかもしれない。それはそれで良い。
だが、運動の内的な論理――前衛と大衆と国家権力の相互関係の展開に主として注目しながら、この運動の全過程を主体的に受けとめて見ようと欲する人々にとっては、三多摩社青同運動七年間の闘争史の持つ価値は、ちかった光を当てられる。
三多摩社青同運動は、たしかに急進的青年運動であった。それは、全国階級闘争が総体として鎮静し、階級対立が相対的に安定している情勢のなかで、いわば自分自身の客観的基盤を欠いたままで、限度いっぱいに急進化し、そして果てたのであった。ここにこの運動の決定的独自性がある。そしてここに、われわれにとっての教訓が、もっとも純粋な形で示される理由がある。情勢の全般的激化、大衆と権力の直接的対決の実例にこと欠かないような情勢にあっては、「党」の果すべき役割がそれだけ増大するのではあるが、同時に「党まがい」のものがあまりにも多数発生して、真に経験を積み政治的成熟をかちえた人々以外のものにとっては、問題のポイントが見分けがたくなってしまうこともまた事実である。背景に雑多な「ピンク」やむらさきがぬりたくられた画面のなかに、一筋の「真紅」を見つけることがそうたやすくはないのとくらべて、たとえ弱々しい炎であっても、一面の夜の闇のなかで燃えたそれを見つけることは決してむづかしいことではない。
このような理由から、われわれが「党」の課題に挑戦している今日、急進的青年運動の総括をこころみることの一つとして、私は三多摩社青同運動の闘争史をここに提出する。三年ほど以前に、私は同じ課題で小論を発表したことがある。それは「旧ICPの総括」(一九七〇年)と題されていた。
今回私がそれを全面的に書き直してみることにしたのは、旧稿にたいして多くの批判が寄せられたが、とりわけ二つの点で、どうしても旧稿のままでは不十分であると私自身思わないわけにはいかなくなったからである。その一つは、三多摩社青同運動が現実に何を残したのか、という点である。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」というが、わが三多摩社青同が少なくとも確実にどのような「名」を残したのかを明らかにすることに、旧稿は失敗している。人は前進しようとする場合にだけ真に総括をなす。旧稿のこの点での失敗は、私達自身の「前進」の視点が定まっていなかったことの正直な反映であった。もう一つは、ともにこの運動をになった人々から多く寄せられた批判であるが、旧稿が「生きていない」ということである。運動の骨組みを知るためだけであったなら、旧稿がまるで役に立たないわけではない。だが、そこで生き、たたかった青年達が放ちつづけた光と魅力をも伝えたいと願うのは、運動の参加者達の権利であろう。われわれはそれを、どのような「作家」に依頼するわけにもいかないのであるから、稚筆を省りみず、私自身のもう一つの「欲」としてここで果してみたいと考えるわけである。
旧稿の最後のページに私は書いた。
「熱狂の一時期を共に担った戦友の多くは彼ら自身の狭い持場に帰っている。彼らは党を捨て、おそらく革命の現在の戦線そのものから去った。今ある彼らは、ひとりの気骨ある、多くを語ろうとしない労働者の姿であろう。社民の下部にとどまることをいさぎよしとした者は一人もいない。だがかつて燃焼したものの残り火は、彼らの胸のうちに未だ必ずその場所を得ているであろうと、“主観主義者”としての私は確信せざるをえない。革命の熱火が彼らをやくとき、彼らはもう一度自らの存在する現場でそれぞれ真紅の旗をうちふるであろう。われわれは彼らを再び獲得するであろう。私は、そしてわれわれ旧ICPの残党達は今のところ無に近い。旧ICPが私達に残した不動の確信――それは運動はつくることができる、でっちあげることさえ、できる、だが“党”がなければ、あるいは、むしろ“党”をつくりうるものでなければ、運動は無だ、ということである。」
ただこの一点だけを、私は言いたいのであり、自らにも言い聞かせていきたいと考えている。ただこの点、そしてこの決定的な課題に関して、くりかえし立ちもどるべき私の“原点”として、三多摩社青同運動がのこりつづけていくだろうと思う。
三多摩社青同運動が私達にのこした宿題が何であったかを、私は自覚している。だがそれを解くことは、これからのことである。
この小論は、私とあと二人の同志、木村健一と大沢一との共同の討論にもとづいて書かれた。
同志木村は、三多摩社青同の「組織」をにない、ことに統一労組運動と各種労働争議を指導した。同志大沢は、運動総体の、とりわけ反戦政治闘争の分野での、大衆的アジテーターであり、三多摩社青同のいわば「心臓」を大衆に語りつづけた。私はと言えば、運動の理論的整理と方向づけを行ない、主として教育宣伝活動と政治指導を担当し、特殊には文化運動の責任者であった。
私達三人は一体であった。私達三人のきわめて未熟なトリオのなかには、しかしながらいかなる大衆運動のなかでも不可欠の三つの要素――党的政治性と、大衆運動のダイナミックな魅力と、強烈な組織力――が、なにほどか表現されていたはずである。
私達が運動に着手したとき、まことに「西も東もわからない」状態であったのだが、社会党や労働運動のすでに経験を積んだ活動家から学ぶことが、私達の試行錯誤の過程を縮めてくれた。とりわけ、社会党や社青同の中央官僚の反トロ攻撃から一貫して私達を防衛し、はじめから終りまでともに歩んだT氏に、私達は導かれた。「社民反対」の口実のもとに、プロレタリアートの最良の活動家から摂取する多くのものがあることを認めようとしないような子供じみたセクト主義を卒業することができたのは、トロツキズムの原則的立場を私達がそれなりに継承しようとしてきた成果であるとともに、I氏のような素晴しい生きた実例にめぐり合うことができたおかげでもある。政治的立場が今日どれほどへたたっていようとも、プロレタリアートの最も抑圧された最深部に絶えず立とうとするI氏の心臓に流れる血と、私達は同じ血を脈打たせたいと思いつづけている。
この小論を、三多摩社青同の熱狂を共有したすべての戦友達、とりわけ、I氏にたいしてささげたい。
一九七三年五月
第一章 前 史
A 国際主義共産党の結党
一九五六年三月二〇日、「反逆者」第一号は、内田英世らの群馬政治研究会の手で創刊された。内田は日本共産党の旧国際派として除名され、トロツキズムに接近しなから「反逆者」を発行した。「反逆者」はこの年の二つの大変動――ソ運共産党二〇回大会とポーランド・ハンガリー革命がつくり出した日本の革命的左翼にとってまったく新しい情勢のなかで、全学連の指導的活動家達に徐々に影響を与えていった。同時にそれは、自分自身もトロツキズムへの傾斜を深め、五七年一月一五日・第九号紙上で、「反逆者編集部宣言」を発表し、「第四インターナショナルの旗の下に結集しよう!」と呼びかけた。このときから、「反逆者」は日本トロツキスト連盟機関紙となったのである。
「反逆者」の立場が第四インターナショナル派に転換したのは、太田竜の働きかけによるところが大きかったのであるが、六全協後の日本共産党内分派闘争の激化のなかで、新たに、関西の西京司のグループと、東京で黒田寛一らが加わったことによって、「反逆者――トロツキスト連盟」の活動範囲は広がっていった。一九五七年九月、太田竜はインターナショナルの第五回世界大会に出席し、ヨーロッパ、セイロンをまわって帰国した。このとき国際書記局は、日本トロツキスト運動が社会党加入活動を採用するように勧告した。
五七年末、日本トロツキスト連盟は日本革命的共産主義者同盟と改称した。日本革共同は、東京と関西で、全学連活動家グループにたいする働きかけをつよめ、その影響力は広がった。
だが、学生活動家とのつながりが広がるにつれて、逆に学生活動家の反日本共産党的急進主義が革共同に及ぼす反作用もまた強くなった。
全学連活動家層は、砂川闘争、「平和擁護闘争」を経験して、日本共産党中央との対立を深めつつあった。この対立は、日本の左翼にたいする日本共産党の思想的支配が全一的であり、ことに学生運動においてはほとんど絶対的な権威をもっていたという事情のために、つみ重ねられた準備が間に合わないうちに、ひとたび始まるやいなやきわめて尖鋭な発展を遂げた。学生活動家達は、一刻も早く日共中央の官僚指導部から訣別したいと願い、間に合わせでも良いから、すこしでも“革命的”な理論を探して放浪した。ロシア革命の全過程と、レーニン、トロツキーの理論の深みの底まで降りて、自らの立場を原則的にきずき上げようとするよりは、いくつかの“公式”にたよって、ともかくも日共中央と対立する立場を原理的に確認しようとしたのである。
こうした態度は、勤評闘争、警職法闘争と発展した政治闘争の高揚のなかで、理論的な底の浅さを行動における戦闘性でつぐなう“戦術極左主義”によって補完された。この時期の全学連グループのトロツキズムへの接近は、トロツキスト党の建設のためではなくて、自分たちの新しい日共づくりのためという動機がもたらしたものであったことは、その後の歴史が示している。
このような中間主義的な左傾化に迎合する路線を、革共同内部でもっとも良く代弁したのが黒田寛一であった。彼は、国際書記局の“加入戦術”の指導を受け入れるような辛抱づよさを持ち合わせなかった。彼は、労働者階級の既存の組織や闘争の内部で、一〇年、二〇年かかっても真に前衛的な潮流を経験を通してつくりあげていこうとする加入戦術活動よりは、さまざまの色合いをふつ反日共的活動家をいますぐひとまとめに結集する“反スターリニズム統一戦線”をつくりあげることのほうに魅力を感じた。そして反スターリニスト的諸傾向を統一するという目的から見れば、第四インターナショナルの「労働者国家無条件擁護」の綱領的立場は、なんとも厄介な障害として映ったのである。
黒田寛一は、こうして二つの点で太田竜と対立するようになった。黒田の要求は、「労働者国家擁護」の原則を降ろして、「反スターリニストの戦略」をかかげることであり、したがってまた「加入戦術」のかわりに「反スタ統一戦線」を組織することであった。ここで革共同の第一次分裂が起った。
五八年六月、太田竜は革共同書記局を脱退し、翌月、日本トロツキスト同志会を結成した。同志会に参集したメンバーは、太田をふくめてわずか五人であった。太田竜の脱退の直接の動機は、この年の六月、黒田寛一が早稲田大学新聞に発表した論文のなかで、第四インターフランス支部が反ドゴール闘争にさいして「社共統一戦線政府」を提起したことを「ブロ・スターリニスト」とののしり、第四インターナショナルの堕落と破産を公言したことにあった。しかしながらこれは単にその時あらわれた限りの攻撃ではなく、五七年末から、黒田が「弁証法研究会」に自派のグループをあつめ、「探求」誌上でおこなってきた一連の「トロツキー教条主義反対」活動の結論にすぎなかった。革命党建設を、原則的な相違があいまいなままに開始することはできない。黒田と太田の論争(KT・KK論争)が、組織的な分離に行きついたのは当然である。関西の西グループは、関東における事態の急変に効果的に介入することができなかった。黒田の偏向はその後も深まる一方で、「反スタ統一戦線」という無原則な組織路線は、やがて「反スタなら誰でも良い」という路線になり、警察のスパイに協力するような行為を内部から生み出し、そのことが一つの原因となって、五九年に革共同そのものから、今度は黒田が排除されるにいたった。このときの黒田の路線が、今日の革マル派にそっくりそのまま受けつかれていることは、いうまでもない。
太田がトロツキスト同志会に踏み切ったもう一つの理由は、当時の情勢が、きわめて急速に、日本労働者階級と国家権力の未曾有の激突にむかって熟しつつあるという読みに裏づけられて、「加入戦術」を一刻も早く実践しようとするあせりであった。鉄鋼、国労、日教組と各個撃破して来た資本家階級は、いまや炭労を次の目標に選んで、総攻撃に転じつつあり、労資の激突はこの数年のうちに、一挙に全面的な決戦までのぼりつめるであろう、と太田は予測した。この決戦は社会党――総評を下から大きく揺り動かし官僚機構を通って大衆の戦闘的エネルギーの最初の爆発が起るであろう、このとき、革命的カードルがこの機構の内部から大衆に戦闘目標を正確に示し領導することのできる位置にいるかどうかか事態を左右すると太田は考えたのである。それゆえ、プチブル平和主義の水準で革命的言辞にうつつをぬかす学生活動家のなかで多数派工作をつづけるよりも、もっと大量で、もっと可能性にみちた全労働者的戦線にはいりこみ、間に合うように準備する努力をただちにはじめることこそが、トロツキスト・カードルの比べられないほど重要な任務であり、それか「加入活動」なのである、と太田は言い聞かせた。したがって太田はトロツキスト同志会のすこしの期間の宣伝活動によって、若い活動家を十数名獲得することに成功するとただちに国際主義共産党(ICP)の結党に着手した。加入活動を展開するために必要な、最初のカードル群がいれば、とりあえずは十分なのであり、のこりは、加入活動の発展が、社会党や労働組合のなかから、数百、数千の新しい活動家をもたらすことになるだろう、そのとき学生活動家達も実例の力で真理を知らされて、わが軍門に降るであろう。このために必要な時間は、せいぜい二〜三年にすぎないであろう。情勢はそこまで煮つまっている。このような予測のもとで、太田は結党に着手したのである。
一九五九年一月一九日、国際主義共産党は結党大会をひらいた。参加者は二〇数名であった。その大部分は東大、東学大の二つの大学の若い活動家であった。
「さて、この結党大会に参加した同志たちは、三、四名の例外をのぞき、平均年令二一、二才の学生活動家であった。彼らの平均政治活動経歴は二年前後にすぎなかった。
こうした若い同志たちが、第四インターナショナルの数十年にわたる全経験の総括の上に立ったこの日本革命テーゼ(結党大会で採択されたテーゼ)の内容を真に理解した上で実践活動に入る準備を完了したとは言いえない。我々の採用した特殊な組織戦術(加入戦術)についても、結党大会が満場一致で可決したとはいえ、それが我々の間に十分定着していなかったことは、後日に明らかにされた。」
太田竜は、六四年にこのようにのべている(ICP第一三回総会議案)。だが、同志たちが若く未経験であったことは、はじめからあまりにも明らかだったのである。情勢の成熟と闘争の経験、そしてなによりも太田自身の適切な指導が、このハンディキャップをのりこえて、大衆的前衛党の基幹部に成長させることを保障するだろうという確固たる自負こそが、この大いそぎの結党を支えていたはずなのである。太田が自らの予測と指導の点検を卒直におこなうのではなく、カードルの水準に責を負わせることによってこの時期の活動の結末を説明しようとするのは、まことに虫の良い話である。
B 学民協とその破産 ※学民協についての参考資料
ICPでの太田の位置はきわめて高かった。党員の大多数が学生の若いカードルでほんの二、三の例外をのぞけば、各大学の一活動家にすぎず、全学連や都学運の指導部としての活動経験をもっていなかった。太田は平均年令二一、二才と書いているが、私の記憶では、せいぜい二〇才になったかならないかぐらいであったと思う。
政治経験と理論活動の蓄積があさいこのような党員のなかで、太田はひときわ高くそびえ立っていた。ICP全体が、太田という思想的“天皇”の赤子であったといっても言い過ぎではなかった。こうしたなかでICPの加入活動の実践の第一段階ははじまったが、すぐにそれは一つの困難に直面した。加入活動の一番最初である社会党への入党は、さしあたりどのような困難もなく実現できた。だが、入党してもやることがないのである。社会党はまるっきり骨だけの議員党であり、その候補者のたまり場であって、肝心のたたかいはその外で、労働組合でやられている。その労働組合にはいっていこうとしても、社会党が労働組合を“指導”するというのはこれまで存在して来なかった習慣であって、その逆が通例だった。社会党は選挙のときだけ大衆に語りかける党なのであって、選挙がなければ党活動もないのである。いくつかの地区でICPの党員は社会党員になった。だがそこには獲得すべき大衆はいなかった。彼らが獲得すべき大衆を社会党とその周囲に見つけることができるようになるのは、六〇年安保闘争ののちに、社会党総体として大衆を組織する党への転換をはかりはじめてからであった。
他方、勤評、警職法闘争という助走を経て大衆的政治闘争にむかって走りはじめた全学連は、共産主義者同盟――ブントという党派的表現を得ることによって一挙に戦闘化した。学園内の政治討論は共産党とのあいだで緊迫した。学生全体の政治意識が活性化し、街頭闘争は一波、二波、三波とつみ重なってますます大量の学生を結集していった。大学のこのような現実的圧力が、加入活動で気のぬけた社会党支部活動に参加していこうとしていたICP党員の意識を学内に呼びもとす方向に不断に働いた。
太田は、この状況を解決するために、新しい組織方針を思いついた(まったく思いついたという言葉で表現するのがふさわしいものであった)。それは、社会党の学生運動を組織するという方針である。むろん社会党には伝統的に学生運動がなかった。だからもし社会党の学生運動をわれわれがつくり出すことに成功すれば、たしかにわれわれは歴史上先例のない位置に立つ。この運動はしたかって、はじめからわれわれの――トロツキストの方針で動き出すことが可能であろう。それは学生の圧倒的多数部分である社会党支持層を味方につけることができるであろう。
こうしてわれわれは、社会党中央に学生であるわれわれをひとまとめにして売りこんでいった。われわれは社会党中央青年部に社会党系学生運動を組織することを提案した。
当時清水慎三門下に結集し、江田三郎とも関係をもちつつ、組織問題研究会を組織し、反右派社民闘争を精力的に展開していた西風勲や仲井富らの青年部中央官僚は、この申し入れを受けた。彼らに不安がなかったわけではない。この得体の知れないプレゼント(学生運動のもっともラディカルな拠点である東大、東学大などの活動家の一群が、突然あらわれて、社会党の学生運動をつくるから認知せよ、と申し出たのであるからとまどわない方が不思議なのである)は、本当だとすればこれほどうまい話はないのだが、“うますぎる話には裏がある”のではないかという疑念も大きかった。だが、彼らは足がないという弱みをもっていた。議員と労組幹部しかいない社会党は、青年不在の党であり、彼ら青年部中央官僚は、青年大衆にたいするたえざる飢餓感に悩まされていた。この弱点にたいして、われわれの登場は抵抗できない魅力となったのである。さらに彼らをふくめて社会党には、思想的潔癖さが欠如しているという体質がある。
そこで彼らは、われわれが社会党を名のることを承諾し、社会党本部の建物と一定の資金を使用することを認めた。彼らは、当時全寮連の活動家であった佐々木(彼は解放派の創始者である)を紹介した。
われわれは佐々木ならびにその影響下にあった早稲田大学の浅沼派門下生のグループ(建設者同盟)を加えて、「学生運動民主化協議会」を組織した。この学民協が、その後一年間足らずのあいだ、われわれの加入活動の大部分を占める活動領域であった。
学民協は発足当時、トロツキスト多数派と社民的少数派の合体であった。学民協の活動の成果として獲得された新たな学生カードルのほとんどすべてはトロツキストであり、それが解散するまで社会党自身になんらかの影響力が広がったという事実もなかった。だから事実上この学民協は、社会党の名前と、資金で行なわれたICPの独立活動と言うべきものであった。それでも学民協を通じてわれわれは、「社会党とは何であるのか、社会党員はなにを考え、どのように活動しているか」ということ、言いかえれば「社会党がどれ程革命党から遠く、社会党員がいかに常識的な俗物であるか」ということを知るという点で、たしかにその後の加入活動にたいする心がまえをつくり出すことに貢献したということは言えるであろう。
学民協は、社会党の学生運動、すなわちプロレタリアートの学生運動でなければならなかった。太田はこの理念を、次のような方針として提起した。
@ 学生層をブルジョアジーとプロレタリアートの未分化な予備軍としてとらえること、学生は小ブルでありプロレタリアの同盟軍となるというブントの「同盟軍規定」に反対すること。
A 学生のプロレタリア的翼である貧困な層、下層学生に依拠して教育権闘争を展開し、それをプロレタリアートの教育権闘争へと拡大して本隊との結合をきづくこと、ブントの政治闘争中心主義、「先駆性理論」に反対し、大衆的学園闘争を中心にすえること。
これは奨学金要求、授業料廃止要求、完全就職要求、カリキュラム自主決定権の要求などのスローガンに定式化されてかかげられた。
B したがって学生自治会も、ブントの領導する先進的活動家集団の構造を脱皮して、スチューデント・ユニオン(学生組合)として大衆組織化すべきであると主張した。
学民協は、いわば学生運動の「民主化」を方針としたのである。労働運動の「民同」の果した役割に似たものを、この方針は活動家に感じさせた。その「反政治主義・改良闘争中心主義」は、重要な問題意識をはらんでいたとはいえ、あきらかに学生運動の右翼的大衆にたいする迎合の側面を有していた。それはその政治水準において、実に社会党にふさわしいものであった。
佐々木は、これらの方針に、自分の「長期学園闘争方針」という戦術論を組み込んだ。それは、総評のスケジュール春闘方式を学園闘争にあてはめたしろもので、個別要求のほり起しからはじまって対政府全国学生ゼネストへ至る一年間の闘争スケジュールを全学連が設定せよという提案である。
これらの方針は全学連第一三回大会で対案として提出され、圧倒的多数で否決された。だが、出発としてはまずまずの出来であり、社会党中央青年部官僚たちは複雑な気持でこれを歓迎した。
学民協はこの後、独自の機関紙――「学生運動」を発行しながら、全国オルグを展開した。さらに新たにいくつかの大学がその影響下にはいった。学民協は、全学連を下から改革するために、看護学連、教育系自治会、夜学連、私学連、保母学連などへの浸透をはかりつづけた。すなわち「プロレタリア的色彩のつよい部分」にたいする重点的な工作をおこなったのである。
学民協内部のトロツキスト派と社民派の対立は、トロツキスト派の圧倒的な優位のもとでおしかくされていた。だが、この対立はやがて一挙に表面化し、それとともに学民協路線の破産もまた突然ばくろされた。
五九年一一月二七日、全学連と一部の労働組合は、国会構内に突入し、占拠して集会をひらいた。ブルジョア新聞が口をそろえて、「日本憲政史上最悪の暴挙」とののしったこの事件は、社会党浅沼書記長自身が先導したものであった。事件は学生運動を興奮と熱狂にひき込んだ。学生活動家は重大な勝利をきりひらいたと叫び、闘争対象はまっすぐに国会に向って鮮明になったと確信した。
政治的興奮は社会党内にももち込まれた。佐々木を中心とする学民協内社民派は、この闘争に学民協がなんらの役割も果さなかったことをもって、学民協の右翼日和見主義を弾劾した。彼らは、これによって「左」の立場からトロツキストと対立できることをよるこんだ。彼らは学民協の活動が彼ら社民派を強化することになんの効果も果していないことに憤りつづけていたし、理論的なトロツキズムコンプレックスもまた彼らの内に屈折した心理を形成させていた。彼らは学民協発足後半年にして後悔しはじめた。
一一・二七はこのような彼らの悩みを一挙にはき出し、すでに厄介な荷物になっている学民協を清算する機会を到来させた。彼らは運動の前面に「安保批准阻止」をかかげることを要求し、学民協指導部の自己批判を迫った。
六〇年はじめの第二回学民協総会は、佐々木派と多数派の全面的対立となり、佐々木派は学民協を脱退した。われわれはこのことを佐々木の追放という形で追認した。だがそれによって学民協は純粋のトロツキスト組織に一夜にして転化した。この総会は喜劇的なことに社会党本部でおこなわれたのである。われわれは加入活動として学民協運動をつくり、それをただ社会党からの訣別にむかってみちびいた。こうしてわが加入活動の第一期は一年たらずで終った。
この期閭、社会党はついに一度も学民協を公認しなかった。社会党は資金を出し、学民協が社会党を名のることを許したが、それでも彼らは全体としてはブントの指導する全学連との公式の協力関係を尊重した。われわれは社会党の体質の特殊性を思い知らされた。物取り主義的な労働組合の上にのっかっている社会党の活動は、逆にきわめて政治主義的であった。労働者の経済闘争を労働組合にまかせてなんら介入しない社会党のやることは、選挙と安保しかなかったのだ。われわれが安保闘争から背を向けて、労働組合主義的学生運動をやろうとしたそのときに、社会党は労働組合の政治部としてもっはら安保にたずさわっていたのである。学民協が結局加入活動にはならず、加入活動の装いをもったICP独立活動にしかならなかった理由は、このような社会党と労働組合の見事な分業関係を見抜けず、ICPが社会党以上に社会党的な思考を先取りして実践しようとしたために他ならない。社会党の影響力がもっともうすい学生運動のなかで、われわれはそれをこころみた。かくて学民協は、いかなる意味でも必然性をもたなかった。それはただ第四インターナショナルに忠誠を誓い、太田の指導を全生活的に受け入れようとした学生活動家たちを消耗させたにすぎなかった。
学民協運動の結果、われわれは学生運動における政治的影響のほとんどを失った。大衆は安保に向って走りはじめていた。われわれは安保について語らず、自治会民主主義と学生の生活権について語った。いかにわれわれの主張が熱を込めてくり返されたとしても、当時の政治的高揚の外部にいたのである。われわれが急速に孤立していったのは必然的である。
学民協結成当初、われわれは東大駒場の自治会委員長を三期つづけてとっていたし、東学大の強力な反主流派を構成した。東大農学部、教育学部、文学部にも支配的な力を保持した。全学連中執では教育対策部長を確保していた。これは、当時の状況のなかでは決して小さな力ではなかった。だが学民協運動の結果、これらの全てが失われた。われわれの孤立は完全なものになった。
C 六〇年安保とICP分裂
安保闘争に背を向けた学民協の矛盾に最初に気づいたのは太田自身であった。一一・二七の夜、緊急に開かれた書記局会議で太田は言った。
「諸君は社会党を全然わかっていない。社会党は国民の左翼的エネルギーを敏感に反映する。いまこそ安保闘争の最 {ル Vvウz゚~"|コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
C/'3:)}ウ3ィイ)8}tK・
ロZソe^コマ#dGヲクノア抂)鰻クォ゙奪黹# =ヒヒ(J濛ヌ <ノ\.硯k【"(4!p札疎~罌w`ソケ8 h。6屎ノシ0aチ∃ンス : `Y=Oカ壘セヨンホ|ョ#A:塁ネツ=楕I4
ウヘ撤メムZc彝ZU堪 メ捌r2ウNッア#)ンナ譚樶サ拯|圈x鵬促 Hu ミ^ノW-レ此ェウb,rトテu[9(`リ;博ィ=リ噫ア1租晴姉>ムヒ冢゙-A)レ,$xヤ2?n禎ツ ュヂー cマク~5w\フセ?s)w1'MCGヒ哺u柢y&宙ツAナ
ヤBAヌノPッチ%IネPリ、ExX踝崟掌ケ[ォ魄ササァ奪"7Kヒ J秡I*<ニ^ナ .$ヒ〔。(|膏セU*Fヘチ|H # bクネcレRメ匯聯nq・JヌンフIモQ#袁&ケ逵|的a 竇W0L(8)ヒ・FIヤ0oT$嬉アヘ7s
キsキ_Vー>-ホコ>ThI.リ櫺 ,i "閔(&+D%丞=奬rョgコ剱掖垉m4。1欺カーヨ歡ンdbn
。温ナゥ・婀ヌョ2x,1-フcョ゙qラハュ賁・RS烏Ei髪牴9Q キ」イラコE]L涓ヨO貝\ヨ禅ヨ如,V.*mルイt2唾。「(地Mホ、Zu |