つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


国際革命文庫 14

織田 進
1

電子化:TAMO2
●参考文献
全国社青同1969〜71
滝口著作集の栞

「三多摩社青同闘争史」
――ひとつの急進的青年運動の総括――

目次

はじめに

第一章 前 史
 A 国際主義共産党の結党
 B 学民協とその破産
 C 六〇年安保とICP分裂
 D 三多摩社青同の「受胎」
 E シェーラ・マエストラ

第二章 創 生
 A 社青同三多摩支部誕生
 B 統一労組運動はしまる
 C 合流
 D 憲法闘争へ

第三章 展 開
 A 行動する青年の渦
 B 三多摩統一労組の激突
 C 政治闘争の前線へ
 D 「党」の建設

第四章 激 突
 A 赤化運動の始まり
 B 五・一八事件
 C ケミカル闘争

第五章 分 裂
 A 「党」の分裂
 B 日韓闘争の敗北と分派闘争のはじまり
 C 社青同東京地本の分裂

第六章 終 章
 A 分裂の完了
 B 三多摩社青同の崩壊
 C 総括に代えて


まえがき

 結成二〇周年を記念した同盟の政治集会が開催される機会に、三多摩の同志達の強い要望もあって、急遽本書を刊行する運びになった。
 本書は、「第四インターナショナル」誌の第一〇号(七三年六月)から第一六号(七五年四月)まで、七回にわたって連載されたものである。文庫の一冊にまとめる計画は以前からあったのだが、連載が終ってから日も浅いし、内容の面でも、この文庫に加えるよりは、なにか「青年文庫」というような新しい企画を考えて、その一つにした方が良いのではないか、などとも話されていたのだが、政治集会の資料として使いたいという三多摩の同志の提案ももっとものことであり、また、最近共青向の学習会に出る機会が多く、そのたびに、ここ一〜二年に新しく加盟した若い仲間達が大きい比重を占めていることに驚かされ連載を読んでいない仲間が随分増えていることを知って、この文庫にはそぐわない感がないでもないが、いそいで発行しようということになった。
 このため、まとめるときには、手を加えなければいけない不十分さがかなりあって、時間をかけてもう一度資料の収集や討論を是非やってと思っていたことが、なにもできないままになってしまったのは、本当に残念で、いろいろな批判や指摘を寄せてくれた同志達には、心からおわびしたいと思う。ここでは、ほんのわずかの表現上の訂正以外は、連載の通りになっている。もし本書が青年の読者によって利用され、在庫も尽きた頃に、再刊の必要が出てくるようなことがあれば、そのときにはどうしても、この宿題をすませたい。
 ともあれ、すでに一〇年が過ぎ去ったこのたたかいの小史を、一冊の書物にまとめてくれる機会が与えられたことに、筆者は、望外の幸福と名誉を感じている。この小史が扱っているのは、さまざまの不十分さをもってはいるが、筆者をもふくむ多くの仲間達の共同の経験であり、共有の青春である。そしてわれわれはもっと大きな、はるかに広く激しい闘争の世界に前進していくために、自らの過去から役に立つ全てのものをひきつぎたいと思う。
 若い読者達の真剣な検討と批判が寄せられるなら、われわれは、いつ、どこにでも行って、卒直に語り合うつもりでいる。どうか、よろしく。・・・。

 なお、登場人物の名前の多くが、イニシアルで書かれている点について、読者の了承を求めたい。わがトロツキスト党は、未だブルジョアジーにたいしてはもちろん、既成の労働者党にたいしても、いろいろな面で非合法の存在であり、読者をわずらわすあいまいな表現を余儀なくされる。この配慮は、現在われわれの戦線を去っている仲間達にとっては、とくに必要なのである。
     一九七六年一一月


はじめに

 急進的青年運動が、いくたびも立ち現われては崩壊し、数え切れない挫折を通してくりかえし突き出して来た一つの問題は、「党とは何か?」という問ではなかったろうか。
 同盟第六回大会は、「全人民的急進化」の情勢、すなわち、日本社会のあらゆる領域と地域で、いまや押しとどめがたく燃え広がりはじめた人民の反資本主義的、反国家的直接闘争の情勢を確認し、自らの組織と思想をそこにむけて武装すべきことを提起した。同じ問題意識が、第四インターナショナルの全世界の同志達にも共有されていることを、第一〇回世界大会のために開始された国際討論のなかから知ることができる。そしてその全体を通じてもっとも核心的な課題もまた、「党とは何であり、いかにして建設され、どのような役割を果すのか」である。

 この十数年間に、われわれは少なくとも三つの急進的青年運動の政治的潮流の勃興と挫折を目撃した。一番目は六○年安保闘争を領導したブント――共産主義者同盟の闘いであり、三番目は六七年以降の青年学生運動の全般的急進化を、その強さと弱さの両方をふくめて代表した中核派――革共同全国委員会の闘争であった。
 私はそして、その二番目のものとしてあえて、三多摩社青同運動をあげるのである。
 このような評価は、大方の同意を得られるものではないかもしれない。なぜなら、前二者は少なくともはじめから「党」をめざし、「党」を自称する運動として出発し、一時期の全国政治闘争をどの程度かは別として領導することに成功し、そして敗北していった。だが後者――私自身がその一人の担い手としてあった三多摩社青同運動は、一地方の青年大衆運動としてはじまり、その発展の段階が「党」をめざし全国的指導性に挑戦しはじめるに到った瞬間に、まさに劇的に自壊したのであったから。だから運動の外面的広がりや日本階級闘争史の公認のページにだけ注目する人々の目から見れば、三多摩社青同運動をブントや中核派の教訓と同じ箇所で論ずるには値しないと判断されて当然であるかもしれない。それはそれで良い。
 だが、運動の内的な論理――前衛と大衆と国家権力の相互関係の展開に主として注目しながら、この運動の全過程を主体的に受けとめて見ようと欲する人々にとっては、三多摩社青同運動七年間の闘争史の持つ価値は、ちかった光を当てられる。

 三多摩社青同運動は、たしかに急進的青年運動であった。それは、全国階級闘争が総体として鎮静し、階級対立が相対的に安定している情勢のなかで、いわば自分自身の客観的基盤を欠いたままで、限度いっぱいに急進化し、そして果てたのであった。ここにこの運動の決定的独自性がある。そしてここに、われわれにとっての教訓が、もっとも純粋な形で示される理由がある。情勢の全般的激化、大衆と権力の直接的対決の実例にこと欠かないような情勢にあっては、「党」の果すべき役割がそれだけ増大するのではあるが、同時に「党まがい」のものがあまりにも多数発生して、真に経験を積み政治的成熟をかちえた人々以外のものにとっては、問題のポイントが見分けがたくなってしまうこともまた事実である。背景に雑多な「ピンク」やむらさきがぬりたくられた画面のなかに、一筋の「真紅」を見つけることがそうたやすくはないのとくらべて、たとえ弱々しい炎であっても、一面の夜の闇のなかで燃えたそれを見つけることは決してむづかしいことではない。

 このような理由から、われわれが「党」の課題に挑戦している今日、急進的青年運動の総括をこころみることの一つとして、私は三多摩社青同運動の闘争史をここに提出する。三年ほど以前に、私は同じ課題で小論を発表したことがある。それは「旧ICPの総括」(一九七〇年)と題されていた。
 今回私がそれを全面的に書き直してみることにしたのは、旧稿にたいして多くの批判が寄せられたが、とりわけ二つの点で、どうしても旧稿のままでは不十分であると私自身思わないわけにはいかなくなったからである。その一つは、三多摩社青同運動が現実に何を残したのか、という点である。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」というが、わが三多摩社青同が少なくとも確実にどのような「名」を残したのかを明らかにすることに、旧稿は失敗している。人は前進しようとする場合にだけ真に総括をなす。旧稿のこの点での失敗は、私達自身の「前進」の視点が定まっていなかったことの正直な反映であった。もう一つは、ともにこの運動をになった人々から多く寄せられた批判であるが、旧稿が「生きていない」ということである。運動の骨組みを知るためだけであったなら、旧稿がまるで役に立たないわけではない。だが、そこで生き、たたかった青年達が放ちつづけた光と魅力をも伝えたいと願うのは、運動の参加者達の権利であろう。われわれはそれを、どのような「作家」に依頼するわけにもいかないのであるから、稚筆を省りみず、私自身のもう一つの「欲」としてここで果してみたいと考えるわけである。

 旧稿の最後のページに私は書いた。
 「熱狂の一時期を共に担った戦友の多くは彼ら自身の狭い持場に帰っている。彼らは党を捨て、おそらく革命の現在の戦線そのものから去った。今ある彼らは、ひとりの気骨ある、多くを語ろうとしない労働者の姿であろう。社民の下部にとどまることをいさぎよしとした者は一人もいない。だがかつて燃焼したものの残り火は、彼らの胸のうちに未だ必ずその場所を得ているであろうと、“主観主義者”としての私は確信せざるをえない。革命の熱火が彼らをやくとき、彼らはもう一度自らの存在する現場でそれぞれ真紅の旗をうちふるであろう。われわれは彼らを再び獲得するであろう。私は、そしてわれわれ旧ICPの残党達は今のところ無に近い。旧ICPが私達に残した不動の確信――それは運動はつくることができる、でっちあげることさえ、できる、だが“党”がなければ、あるいは、むしろ“党”をつくりうるものでなければ、運動は無だ、ということである。」
 ただこの一点だけを、私は言いたいのであり、自らにも言い聞かせていきたいと考えている。ただこの点、そしてこの決定的な課題に関して、くりかえし立ちもどるべき私の“原点”として、三多摩社青同運動がのこりつづけていくだろうと思う。
 三多摩社青同運動が私達にのこした宿題が何であったかを、私は自覚している。だがそれを解くことは、これからのことである。

 この小論は、私とあと二人の同志、木村健一と大沢一との共同の討論にもとづいて書かれた。
 同志木村は、三多摩社青同の「組織」をにない、ことに統一労組運動と各種労働争議を指導した。同志大沢は、運動総体の、とりわけ反戦政治闘争の分野での、大衆的アジテーターであり、三多摩社青同のいわば「心臓」を大衆に語りつづけた。私はと言えば、運動の理論的整理と方向づけを行ない、主として教育宣伝活動と政治指導を担当し、特殊には文化運動の責任者であった。
 私達三人は一体であった。私達三人のきわめて未熟なトリオのなかには、しかしながらいかなる大衆運動のなかでも不可欠の三つの要素――党的政治性と、大衆運動のダイナミックな魅力と、強烈な組織力――が、なにほどか表現されていたはずである。
 私達が運動に着手したとき、まことに「西も東もわからない」状態であったのだが、社会党や労働運動のすでに経験を積んだ活動家から学ぶことが、私達の試行錯誤の過程を縮めてくれた。とりわけ、社会党や社青同の中央官僚の反トロ攻撃から一貫して私達を防衛し、はじめから終りまでともに歩んだT氏に、私達は導かれた。「社民反対」の口実のもとに、プロレタリアートの最良の活動家から摂取する多くのものがあることを認めようとしないような子供じみたセクト主義を卒業することができたのは、トロツキズムの原則的立場を私達がそれなりに継承しようとしてきた成果であるとともに、I氏のような素晴しい生きた実例にめぐり合うことができたおかげでもある。政治的立場が今日どれほどへたたっていようとも、プロレタリアートの最も抑圧された最深部に絶えず立とうとするI氏の心臓に流れる血と、私達は同じ血を脈打たせたいと思いつづけている。
 この小論を、三多摩社青同の熱狂を共有したすべての戦友達、とりわけ、I氏にたいしてささげたい。

   一九七三年五月


第一章 前 史

 A 国際主義共産党の結党

 一九五六年三月二〇日、「反逆者」第一号は、内田英世らの群馬政治研究会の手で創刊された。内田は日本共産党の旧国際派として除名され、トロツキズムに接近しなから「反逆者」を発行した。「反逆者」はこの年の二つの大変動――ソ運共産党二〇回大会とポーランド・ハンガリー革命がつくり出した日本の革命的左翼にとってまったく新しい情勢のなかで、全学連の指導的活動家達に徐々に影響を与えていった。同時にそれは、自分自身もトロツキズムへの傾斜を深め、五七年一月一五日・第九号紙上で、「反逆者編集部宣言」を発表し、「第四インターナショナルの旗の下に結集しよう!」と呼びかけた。このときから、「反逆者」は日本トロツキスト連盟機関紙となったのである。
 「反逆者」の立場が第四インターナショナル派に転換したのは、太田竜の働きかけによるところが大きかったのであるが、六全協後の日本共産党内分派闘争の激化のなかで、新たに、関西の西京司のグループと、東京で黒田寛一らが加わったことによって、「反逆者――トロツキスト連盟」の活動範囲は広がっていった。一九五七年九月、太田竜はインターナショナルの第五回世界大会に出席し、ヨーロッパ、セイロンをまわって帰国した。このとき国際書記局は、日本トロツキスト運動が社会党加入活動を採用するように勧告した。
 五七年末、日本トロツキスト連盟は日本革命的共産主義者同盟と改称した。日本革共同は、東京と関西で、全学連活動家グループにたいする働きかけをつよめ、その影響力は広がった。
 だが、学生活動家とのつながりが広がるにつれて、逆に学生活動家の反日本共産党的急進主義が革共同に及ぼす反作用もまた強くなった。
 全学連活動家層は、砂川闘争、「平和擁護闘争」を経験して、日本共産党中央との対立を深めつつあった。この対立は、日本の左翼にたいする日本共産党の思想的支配が全一的であり、ことに学生運動においてはほとんど絶対的な権威をもっていたという事情のために、つみ重ねられた準備が間に合わないうちに、ひとたび始まるやいなやきわめて尖鋭な発展を遂げた。学生活動家達は、一刻も早く日共中央の官僚指導部から訣別したいと願い、間に合わせでも良いから、すこしでも“革命的”な理論を探して放浪した。ロシア革命の全過程と、レーニン、トロツキーの理論の深みの底まで降りて、自らの立場を原則的にきずき上げようとするよりは、いくつかの“公式”にたよって、ともかくも日共中央と対立する立場を原理的に確認しようとしたのである。
 こうした態度は、勤評闘争、警職法闘争と発展した政治闘争の高揚のなかで、理論的な底の浅さを行動における戦闘性でつぐなう“戦術極左主義”によって補完された。この時期の全学連グループのトロツキズムへの接近は、トロツキスト党の建設のためではなくて、自分たちの新しい日共づくりのためという動機がもたらしたものであったことは、その後の歴史が示している。
 このような中間主義的な左傾化に迎合する路線を、革共同内部でもっとも良く代弁したのが黒田寛一であった。彼は、国際書記局の“加入戦術”の指導を受け入れるような辛抱づよさを持ち合わせなかった。彼は、労働者階級の既存の組織や闘争の内部で、一〇年、二〇年かかっても真に前衛的な潮流を経験を通してつくりあげていこうとする加入戦術活動よりは、さまざまの色合いをふつ反日共的活動家をいますぐひとまとめに結集する“反スターリニズム統一戦線”をつくりあげることのほうに魅力を感じた。そして反スターリニスト的諸傾向を統一するという目的から見れば、第四インターナショナルの「労働者国家無条件擁護」の綱領的立場は、なんとも厄介な障害として映ったのである。
 黒田寛一は、こうして二つの点で太田竜と対立するようになった。黒田の要求は、「労働者国家擁護」の原則を降ろして、「反スターリニストの戦略」をかかげることであり、したがってまた「加入戦術」のかわりに「反スタ統一戦線」を組織することであった。ここで革共同の第一次分裂が起った。
 五八年六月、太田竜は革共同書記局を脱退し、翌月、日本トロツキスト同志会を結成した。同志会に参集したメンバーは、太田をふくめてわずか五人であった。太田竜の脱退の直接の動機は、この年の六月、黒田寛一が早稲田大学新聞に発表した論文のなかで、第四インターフランス支部が反ドゴール闘争にさいして「社共統一戦線政府」を提起したことを「ブロ・スターリニスト」とののしり、第四インターナショナルの堕落と破産を公言したことにあった。しかしながらこれは単にその時あらわれた限りの攻撃ではなく、五七年末から、黒田が「弁証法研究会」に自派のグループをあつめ、「探求」誌上でおこなってきた一連の「トロツキー教条主義反対」活動の結論にすぎなかった。革命党建設を、原則的な相違があいまいなままに開始することはできない。黒田と太田の論争(KT・KK論争)が、組織的な分離に行きついたのは当然である。関西の西グループは、関東における事態の急変に効果的に介入することができなかった。黒田の偏向はその後も深まる一方で、「反スタ統一戦線」という無原則な組織路線は、やがて「反スタなら誰でも良い」という路線になり、警察のスパイに協力するような行為を内部から生み出し、そのことが一つの原因となって、五九年に革共同そのものから、今度は黒田が排除されるにいたった。このときの黒田の路線が、今日の革マル派にそっくりそのまま受けつかれていることは、いうまでもない。
 太田がトロツキスト同志会に踏み切ったもう一つの理由は、当時の情勢が、きわめて急速に、日本労働者階級と国家権力の未曾有の激突にむかって熟しつつあるという読みに裏づけられて、「加入戦術」を一刻も早く実践しようとするあせりであった。鉄鋼、国労、日教組と各個撃破して来た資本家階級は、いまや炭労を次の目標に選んで、総攻撃に転じつつあり、労資の激突はこの数年のうちに、一挙に全面的な決戦までのぼりつめるであろう、と太田は予測した。この決戦は社会党――総評を下から大きく揺り動かし官僚機構を通って大衆の戦闘的エネルギーの最初の爆発が起るであろう、このとき、革命的カードルがこの機構の内部から大衆に戦闘目標を正確に示し領導することのできる位置にいるかどうかか事態を左右すると太田は考えたのである。それゆえ、プチブル平和主義の水準で革命的言辞にうつつをぬかす学生活動家のなかで多数派工作をつづけるよりも、もっと大量で、もっと可能性にみちた全労働者的戦線にはいりこみ、間に合うように準備する努力をただちにはじめることこそが、トロツキスト・カードルの比べられないほど重要な任務であり、それか「加入活動」なのである、と太田は言い聞かせた。したがって太田はトロツキスト同志会のすこしの期間の宣伝活動によって、若い活動家を十数名獲得することに成功するとただちに国際主義共産党(ICP)の結党に着手した。加入活動を展開するために必要な、最初のカードル群がいれば、とりあえずは十分なのであり、のこりは、加入活動の発展が、社会党や労働組合のなかから、数百、数千の新しい活動家をもたらすことになるだろう、そのとき学生活動家達も実例の力で真理を知らされて、わが軍門に降るであろう。このために必要な時間は、せいぜい二〜三年にすぎないであろう。情勢はそこまで煮つまっている。このような予測のもとで、太田は結党に着手したのである。
 一九五九年一月一九日、国際主義共産党は結党大会をひらいた。参加者は二〇数名であった。その大部分は東大、東学大の二つの大学の若い活動家であった。
 「さて、この結党大会に参加した同志たちは、三、四名の例外をのぞき、平均年令二一、二才の学生活動家であった。彼らの平均政治活動経歴は二年前後にすぎなかった。
 こうした若い同志たちが、第四インターナショナルの数十年にわたる全経験の総括の上に立ったこの日本革命テーゼ(結党大会で採択されたテーゼ)の内容を真に理解した上で実践活動に入る準備を完了したとは言いえない。我々の採用した特殊な組織戦術(加入戦術)についても、結党大会が満場一致で可決したとはいえ、それが我々の間に十分定着していなかったことは、後日に明らかにされた。」
 太田竜は、六四年にこのようにのべている(ICP第一三回総会議案)。だが、同志たちが若く未経験であったことは、はじめからあまりにも明らかだったのである。情勢の成熟と闘争の経験、そしてなによりも太田自身の適切な指導が、このハンディキャップをのりこえて、大衆的前衛党の基幹部に成長させることを保障するだろうという確固たる自負こそが、この大いそぎの結党を支えていたはずなのである。太田が自らの予測と指導の点検を卒直におこなうのではなく、カードルの水準に責を負わせることによってこの時期の活動の結末を説明しようとするのは、まことに虫の良い話である。

 B 学民協とその破産              ※学民協についての参考資料

 ICPでの太田の位置はきわめて高かった。党員の大多数が学生の若いカードルでほんの二、三の例外をのぞけば、各大学の一活動家にすぎず、全学連や都学運の指導部としての活動経験をもっていなかった。太田は平均年令二一、二才と書いているが、私の記憶では、せいぜい二〇才になったかならないかぐらいであったと思う。
 政治経験と理論活動の蓄積があさいこのような党員のなかで、太田はひときわ高くそびえ立っていた。ICP全体が、太田という思想的“天皇”の赤子であったといっても言い過ぎではなかった。こうしたなかでICPの加入活動の実践の第一段階ははじまったが、すぐにそれは一つの困難に直面した。加入活動の一番最初である社会党への入党は、さしあたりどのような困難もなく実現できた。だが、入党してもやることがないのである。社会党はまるっきり骨だけの議員党であり、その候補者のたまり場であって、肝心のたたかいはその外で、労働組合でやられている。その労働組合にはいっていこうとしても、社会党が労働組合を“指導”するというのはこれまで存在して来なかった習慣であって、その逆が通例だった。社会党は選挙のときだけ大衆に語りかける党なのであって、選挙がなければ党活動もないのである。いくつかの地区でICPの党員は社会党員になった。だがそこには獲得すべき大衆はいなかった。彼らが獲得すべき大衆を社会党とその周囲に見つけることができるようになるのは、六〇年安保闘争ののちに、社会党総体として大衆を組織する党への転換をはかりはじめてからであった。
 他方、勤評、警職法闘争という助走を経て大衆的政治闘争にむかって走りはじめた全学連は、共産主義者同盟――ブントという党派的表現を得ることによって一挙に戦闘化した。学園内の政治討論は共産党とのあいだで緊迫した。学生全体の政治意識が活性化し、街頭闘争は一波、二波、三波とつみ重なってますます大量の学生を結集していった。大学のこのような現実的圧力が、加入活動で気のぬけた社会党支部活動に参加していこうとしていたICP党員の意識を学内に呼びもとす方向に不断に働いた。
 太田は、この状況を解決するために、新しい組織方針を思いついた(まったく思いついたという言葉で表現するのがふさわしいものであった)。それは、社会党の学生運動を組織するという方針である。むろん社会党には伝統的に学生運動がなかった。だからもし社会党の学生運動をわれわれがつくり出すことに成功すれば、たしかにわれわれは歴史上先例のない位置に立つ。この運動はしたかって、はじめからわれわれの――トロツキストの方針で動き出すことが可能であろう。それは学生の圧倒的多数部分である社会党支持層を味方につけることができるであろう。
 こうしてわれわれは、社会党中央に学生であるわれわれをひとまとめにして売りこんでいった。われわれは社会党中央青年部に社会党系学生運動を組織することを提案した。
 当時清水慎三門下に結集し、江田三郎とも関係をもちつつ、組織問題研究会を組織し、反右派社民闘争を精力的に展開していた西風勲や仲井富らの青年部中央官僚は、この申し入れを受けた。彼らに不安がなかったわけではない。この得体の知れないプレゼント(学生運動のもっともラディカルな拠点である東大、東学大などの活動家の一群が、突然あらわれて、社会党の学生運動をつくるから認知せよ、と申し出たのであるからとまどわない方が不思議なのである)は、本当だとすればこれほどうまい話はないのだが、“うますぎる話には裏がある”のではないかという疑念も大きかった。だが、彼らは足がないという弱みをもっていた。議員と労組幹部しかいない社会党は、青年不在の党であり、彼ら青年部中央官僚は、青年大衆にたいするたえざる飢餓感に悩まされていた。この弱点にたいして、われわれの登場は抵抗できない魅力となったのである。さらに彼らをふくめて社会党には、思想的潔癖さが欠如しているという体質がある。
 そこで彼らは、われわれが社会党を名のることを承諾し、社会党本部の建物と一定の資金を使用することを認めた。彼らは、当時全寮連の活動家であった佐々木(彼は解放派の創始者である)を紹介した。
 われわれは佐々木ならびにその影響下にあった早稲田大学の浅沼派門下生のグループ(建設者同盟)を加えて、「学生運動民主化協議会」を組織した。この学民協が、その後一年間足らずのあいだ、われわれの加入活動の大部分を占める活動領域であった。
 学民協は発足当時、トロツキスト多数派と社民的少数派の合体であった。学民協の活動の成果として獲得された新たな学生カードルのほとんどすべてはトロツキストであり、それが解散するまで社会党自身になんらかの影響力が広がったという事実もなかった。だから事実上この学民協は、社会党の名前と、資金で行なわれたICPの独立活動と言うべきものであった。それでも学民協を通じてわれわれは、「社会党とは何であるのか、社会党員はなにを考え、どのように活動しているか」ということ、言いかえれば「社会党がどれ程革命党から遠く、社会党員がいかに常識的な俗物であるか」ということを知るという点で、たしかにその後の加入活動にたいする心がまえをつくり出すことに貢献したということは言えるであろう。
 学民協は、社会党の学生運動、すなわちプロレタリアートの学生運動でなければならなかった。太田はこの理念を、次のような方針として提起した。
 @ 学生層をブルジョアジーとプロレタリアートの未分化な予備軍としてとらえること、学生は小ブルでありプロレタリアの同盟軍となるというブントの「同盟軍規定」に反対すること。
 A 学生のプロレタリア的翼である貧困な層、下層学生に依拠して教育権闘争を展開し、それをプロレタリアートの教育権闘争へと拡大して本隊との結合をきづくこと、ブントの政治闘争中心主義、「先駆性理論」に反対し、大衆的学園闘争を中心にすえること。
 これは奨学金要求、授業料廃止要求、完全就職要求、カリキュラム自主決定権の要求などのスローガンに定式化されてかかげられた。
 B したがって学生自治会も、ブントの領導する先進的活動家集団の構造を脱皮して、スチューデント・ユニオン(学生組合)として大衆組織化すべきであると主張した。
 学民協は、いわば学生運動の「民主化」を方針としたのである。労働運動の「民同」の果した役割に似たものを、この方針は活動家に感じさせた。その「反政治主義・改良闘争中心主義」は、重要な問題意識をはらんでいたとはいえ、あきらかに学生運動の右翼的大衆にたいする迎合の側面を有していた。それはその政治水準において、実に社会党にふさわしいものであった。
 佐々木は、これらの方針に、自分の「長期学園闘争方針」という戦術論を組み込んだ。それは、総評のスケジュール春闘方式を学園闘争にあてはめたしろもので、個別要求のほり起しからはじまって対政府全国学生ゼネストへ至る一年間の闘争スケジュールを全学連が設定せよという提案である。
 これらの方針は全学連第一三回大会で対案として提出され、圧倒的多数で否決された。だが、出発としてはまずまずの出来であり、社会党中央青年部官僚たちは複雑な気持でこれを歓迎した。
 学民協はこの後、独自の機関紙――「学生運動」を発行しながら、全国オルグを展開した。さらに新たにいくつかの大学がその影響下にはいった。学民協は、全学連を下から改革するために、看護学連、教育系自治会、夜学連、私学連、保母学連などへの浸透をはかりつづけた。すなわち「プロレタリア的色彩のつよい部分」にたいする重点的な工作をおこなったのである。
 学民協内部のトロツキスト派と社民派の対立は、トロツキスト派の圧倒的な優位のもとでおしかくされていた。だが、この対立はやがて一挙に表面化し、それとともに学民協路線の破産もまた突然ばくろされた。
 五九年一一月二七日、全学連と一部の労働組合は、国会構内に突入し、占拠して集会をひらいた。ブルジョア新聞が口をそろえて、「日本憲政史上最悪の暴挙」とののしったこの事件は、社会党浅沼書記長自身が先導したものであった。事件は学生運動を興奮と熱狂にひき込んだ。学生活動家は重大な勝利をきりひらいたと叫び、闘争対象はまっすぐに国会に向って鮮明になったと確信した。
 政治的興奮は社会党内にももち込まれた。佐々木を中心とする学民協内社民派は、この闘争に学民協がなんらの役割も果さなかったことをもって、学民協の右翼日和見主義を弾劾した。彼らは、これによって「左」の立場からトロツキストと対立できることをよるこんだ。彼らは学民協の活動が彼ら社民派を強化することになんの効果も果していないことに憤りつづけていたし、理論的なトロツキズムコンプレックスもまた彼らの内に屈折した心理を形成させていた。彼らは学民協発足後半年にして後悔しはじめた。
 一一・二七はこのような彼らの悩みを一挙にはき出し、すでに厄介な荷物になっている学民協を清算する機会を到来させた。彼らは運動の前面に「安保批准阻止」をかかげることを要求し、学民協指導部の自己批判を迫った。
 六〇年はじめの第二回学民協総会は、佐々木派と多数派の全面的対立となり、佐々木派は学民協を脱退した。われわれはこのことを佐々木の追放という形で追認した。だがそれによって学民協は純粋のトロツキスト組織に一夜にして転化した。この総会は喜劇的なことに社会党本部でおこなわれたのである。われわれは加入活動として学民協運動をつくり、それをただ社会党からの訣別にむかってみちびいた。こうしてわが加入活動の第一期は一年たらずで終った。
 この期閭、社会党はついに一度も学民協を公認しなかった。社会党は資金を出し、学民協が社会党を名のることを許したが、それでも彼らは全体としてはブントの指導する全学連との公式の協力関係を尊重した。われわれは社会党の体質の特殊性を思い知らされた。物取り主義的な労働組合の上にのっかっている社会党の活動は、逆にきわめて政治主義的であった。労働者の経済闘争を労働組合にまかせてなんら介入しない社会党のやることは、選挙と安保しかなかったのだ。われわれが安保闘争から背を向けて、労働組合主義的学生運動をやろうとしたそのときに、社会党は労働組合の政治部としてもっはら安保にたずさわっていたのである。学民協が結局加入活動にはならず、加入活動の装いをもったICP独立活動にしかならなかった理由は、このような社会党と労働組合の見事な分業関係を見抜けず、ICPが社会党以上に社会党的な思考を先取りして実践しようとしたために他ならない。社会党の影響力がもっともうすい学生運動のなかで、われわれはそれをこころみた。かくて学民協は、いかなる意味でも必然性をもたなかった。それはただ第四インターナショナルに忠誠を誓い、太田の指導を全生活的に受け入れようとした学生活動家たちを消耗させたにすぎなかった。
 学民協運動の結果、われわれは学生運動における政治的影響のほとんどを失った。大衆は安保に向って走りはじめていた。われわれは安保について語らず、自治会民主主義と学生の生活権について語った。いかにわれわれの主張が熱を込めてくり返されたとしても、当時の政治的高揚の外部にいたのである。われわれが急速に孤立していったのは必然的である。
 学民協結成当初、われわれは東大駒場の自治会委員長を三期つづけてとっていたし、東学大の強力な反主流派を構成した。東大農学部、教育学部、文学部にも支配的な力を保持した。全学連中執では教育対策部長を確保していた。これは、当時の状況のなかでは決して小さな力ではなかった。だが学民協運動の結果、これらの全てが失われた。われわれの孤立は完全なものになった。

 C 六〇年安保とICP分裂

 安保闘争に背を向けた学民協の矛盾に最初に気づいたのは太田自身であった。一一・二七の夜、緊急に開かれた書記局会議で太田は言った。
 「諸君は社会党を全然わかっていない。社会党は国民の左翼的エネルギーを敏感に反映する。いまこそ安保闘争の最{ルVvウz゚~"| コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*HE/契ソS册-オウ?Zラ_bタf C/'3:)}ウ3ィイ)8}tK・ ロZソe^コマ#dGヲクノア抂)鰻クォ゙奪黹# =ヒヒ(J濛ヌ <ノ\ .硯k【"(4!p札疎~罌w`ソケ8h。6屎ノシ0aチ∃ンス:`Y=Oカ壘セヨンホ|ョ#A:塁ネツ=楕I4 ウヘ撤メムZc彝ZU堪メ捌r2ウNッア#)ンナ譚樶サ拯|圈x鵬促 Huミ^ノW-レ此ェウb,rトテu[9(`リ;博ィ= リ噫ア1租晴姉>ムヒ 冢゙-A)レ,$xヤ2?n禎ツュヂー cマク~5w\フセ?s)w1'MCGヒ哺u柢y&宙ツAナ ヤBAヌノPッチ%IネPリ、ExX踝崟掌ケ[ォ魄ササァ奪"7Kヒ J秡I*<ニ^ ナ .$ヒ〔。(|膏セU*Fヘチ|H#bクネcレRメ匯聯nq・JヌンフIモQ#袁&ケ逵|的a 竇W0L(8)ヒ・FIヤ0oT$嬉アヘ7s キsキ_Vー>-ホコ>ThI.リ櫺,i"閔(&+D%丞=奬rョgコ剱掖垉m4。1欺カーヨ歡ンdbn 。温ナゥ・婀ヌョ2x,1-フcョ゙qラハュ賁・RS烏Ei髪牴9Q キ」イラコE]L涓ヨO貝\ヨ禅ヨ如,V.*mルイt2唾。「(地Mホ、Zu・釣ロM痕髫呶JョハrfkゾgSZHオ鎧 ネZ$タ、lnミヒM-=IQテLb3sタタ^鹽」@サQ壤ネ桐(*8タsランヲミ<=レTリ^w豹t?フワ7」~:-帚ラgヌオホモyソtuR<]=BNハ・。モユ%FSO b轣ワ+ゥ凋 オ4ヘAr  ヌW0ュK eユ*}ゥd」!薀ツ=ー ハUヌフクョG刧ヒIナ@ハミ BQ瀑/lA亞bjgUユルォj「]ン*aニ 晦gキ&XB $「dヤ奥4cヒネ矧ミ415{惟}$ニ鮴yUクY奪#8JC,J稘Ha\ / ヒ》$' p鰄レK@)腥潭ミ*ヤ j痾I7マ&ソV ェユオ ム腫・aニ 晦gキYアN,0忠迅、L釖」X曠、V■荷}ワF楢Q&7MハュツネNニメZJ梯_ィ6Z5ヒ%閃ル、・ロ^候2bpUU[`L5=[)Q*ツゥKニミェ)Ni 駈7r?Eワ\Wネ税ンaメVzQAッ搜3'妄ヲ也0uk%+ユekヒャ相^タWU051Z.レJ`ヌ'<ハ瓜ィャ+マミーyハケテQ榠ソ;赱=殀K?c、ナ+ -フキcンF&&ミwBヒKZ腿ンメsg|>ウx\ニaRrヘuヌカ ル コ/)リフロム9、5齋剳 ・ル匳/%ヘロ/6「=脈&簾゙~ア謠ヤUタヒ奪"錚K+B濘ネI=h\ 帆+-)円"邏pハsョ確_hb0`Z&チDフォ゚59_スロウq]?<# \>|H9クカyK?フイト斐ッレク{WngCヨ&カZノ0ヨ、ゥ2ヒツ}ル)腫モ5ヘdXc(タp 斌急jv@ァムCスOヲвIE9+LTQ!ィ3!^X鮒7|$<イB蝗Lョョ懿Iハコ貢カモRN詳゚gワSッ検~フ{v埼(t 4Qセpニェルヌq[ロKs A_゚r#、コ6Fa。w贋ΩPゥホI黯イG1絅yコihネ;;テサ_/Q7UtDL殼Gンソuニノヌ〇`ヤ・サスケ_wス觸+@$)テeF  Iキ甲鬯祓イSシ穃_"6ォjゥ~ーC ]ヘソリト*i[fモ=モサrV奪#48JC)b濺I9<ィ^K+,・+永'p!qe酲 1o暎・Yz|・cG;゙em+@qF、Lh4ォヘu~kU3Eシキ}鴿ャラso=H觝。奪驍# 8ヒcb濛H = \ テ) -堰m!'u!pf 69ツ8"ケル牀]チキ楫U!"テケカ$コj-\エタヘfヲ4考y喃イ#3TyオZ汎ク迩=;Gロヲ裂テ痒ム肩#ワ9Q苣]FYKJ鬧p鋺Y毬/Vsマ婬!<;馼ーY_tAカaQ'イアレj|{ヘ+,-ラ}箏z茜c越c[ヲキ冷椡螯ユル剩ibマTRsハエぞ.ツネQ+ワH8qヲソVg゚+6>ロが'{V tルヲ]ァ 8カ# 硯8V偕d゙ト%、Xァ}嬌k{ラJロL情>[ケばセ$硯餌罠s対ア顳6&JCマLフ#ek 8ノーZワU雍」ンワ萢-X鰺Cソt:Jオ輟+PレョR"Vb山偬jナKンKvmォl/奪#8ハヒ(b濟g ゙= \L4゚) ・求~ ァx!pЛ({賃ユWOP$PヌIシタvヨ5Ty噴(蓆キE-(aw92繻ャt蝪゚コpレJオ輟+Pレョ.、Eャナ・1ユ,傅渟キャ=ウ<セviスン袖゚?夬1M*セPミ@ェT5。リヲ革ペ棺ヤ賞[コ'gマz4欽Iヒ連J捉テdニ欝CBケシハik椌リィ妛Pレム#o゚爛「$1ナ餅徳7b\クォ房 妓>ャVホ>;ル芝坑笈cEムX 碎fフヤ}リ耗&カォD」 rソ5Q^憐?ャャvX給コh8 u hRコ`リLヲbホG、C?9:;」mF 弍職ャーロ+渫7ヌハRムm"ヌミ耆哮ヨス[*ZSゥX{2&猩ソ轉ハソ9咄シ2,カゥ織#8ハロb瀉(9フ= \Kャヒ)l%+’#'t。q「ノエ睡ソ、フタDヌ G芍_俳.副「Zy帰セzY頡@EP N<hロワフ~サ'S緝 G -ニQTそォ@ホ負uc謬伽%包P葯ヌィ*好蛍哮8Wm2R@ゥ0ィ隲^ネ槽 e}]e$ン薄Aス瀕Bンせ+残8ス 損ユ崋dv6ns-ヘFTュェ、M,ッz&j 喝#Q#c叡 ヲ]ウKH&":*ライ$aC_Wde$ン薄Aス瀕B銘\壁"ニ_Eワ/4+%8鰈D5t6o姙BQHヂォC゙リ7I"Mo( IXェムB6ハ0sフニn3e~gミ(+Zネ)O短ト梼ロッラkワ奪驛#2ノテ)J濛gヘ=\ x゚(!+÷&%qm纃ャ]ァh:ヲJュ]*モ(d)ワd今コcB4Nョ " *呶ラ6嶐; 2ル巡專^9ッtケyfッルセKナ$ォy ヘDナK.V0セP賛JS開フレYP曹X;=$マャクエ'@アeX8ィNp|ョ#ェO爬%} イ蜍コ瓢戟循*クテ佝moM麾奪閹c1ノC b濬ヌケス=\Kp&ャ%+fー・qY(ラnレA憎xウ,エZァ゚#%ウ害呶ケハъe#g、。ァラャクァ碍:ェX吃XuJヲ%コM==zj庖2>ンZRn゚カg>3スルMヌ・ヘu7hDェワフ「WV免テrY RJdテイ棯ヘAシ{vヤソユ%{サ <&ニオ3iWk{ヘ#黨j降セ搖クオ>mッシヨユヨ?・\< キ゚n9b_ オ〕ンHメ圦フ$AZノ}bョャA2MbwhヤQR・Bg$禧゚;bサw、ンママ邑マsヌモNmz3O盲ァ^6&樛v゙xフiワロョ齲: ホ^@。モ幣ィwRダチNョ骨B@rロF簀[qセヒEOe&ュ゚攻tエ 3Kノレ-奪#"7ノB b濺ヌルャ=,\ 0' %《$'<-pロ?膠 ケ7C_テM9o{ラiO>ecn"凡ウ!.メ r`セ#XD潤 ー2aR゙焉ツ(Rl鰒必tョ}!ヘキイメウエタヤ4IJクfホ<_尠ヤ讚 讌ユ\\8^&sh.個ケ値17"鰾)・ュツ%_9 クケュエノゥ゚5njラyキエ 肆=>oュ17mルォCP"w袋ソフ イ ー茱ge。Dkヘ-\dクテ9 繧C28D`\ニ覈ー「.)斃フニr僻uキrko垤5kシロ竡゚1淇o>&シIュgロメレQ)|ュケ}V≧Vハ蚰ケl侶3@17B 0:Yンンムy。ユ>ハセKW ミ米>ユ、心ホyオ](L9ロ搓ヤヒシu d奪鼇"0ノテb`[ネ河<ネ\ L% %$&ー=qヒワю!フ 0牝カ.x痢Rセテッ ミアッVフラヘオ愬$5UテBゥEァsレウル」!揚(ヒォQC杵ホョキセヲ~ニニ閘+,k|イ"キ$e╋ティ6+RLイ匍煉@キ菖リ CVオ)H! ャゥJ゙ー(&0レヌW&)ム:ャャユ必ロPア。鄙&ッ>\ェサzxRm 3ncs `%*2@゙Q6ナキル.|ェ 暝B∬」堽・平IhP mcウ握ROワホスヨViハォロPア」oマ~Rシ%\ェアケヒユgルヒ/X决ム)e`X"侈ェリュ猷リQ>ホ`ヲI諡ク崛 FpW雇bマh)]Z碚ウ,−u、ーEC[vェュX~]0x苟・4]ワ&ナ8ヘQ囹/Sba鑠オJ/74qッ五c ;ヘ炙uュツナヨ]$Pヌ|コ届'オリネeC*゙cトス ,rFヨゥTライ「 岔填!フI`aPセ韵{<>櫚トリV(誂ウイコ;ト措Nb幣坦レ。EJP}s0i オ!*#ケトノ゙クおテ鎬灼b5q麁 ]フ。0=タ#ムゐ>]侈タ汀ホSヤ 4{ビフ鮨ミ攤ム芫'Bナ:eモ蓑ト%9[ウオ~ソ=ワ+FフラョシIPコ巧ェKチェ$レydウaノ"$,\慌2ト%Пeモ$Fンゥ唳群V訶喰ンハ蝎]J ;Qテ奪r;Hォ b濛i =(\ モ ュ求sfPト!p゚「ュD{ィヲf;Hu;ワ~ユ刳.Eカ係3^ユ*S%Kソ晩Kー]IR#$# 」TLイ娃"6Lユ佛x?羯~y蚌フッU*マQxォヨ蝨 }Kf~g;|オlロfマ]Sンq磊l^OR-bXトqxラ]キイ+=_E沸ュア懿Q」*ヘ・i巴モbjュY゙蚋†KIー#6 ^フェyナヒ5!p9ォTケサ2^少仔xi9ゥト荻h~Aユト鰐mヲpモk圸悗x劃痃ニ椶{。ル、ヨユ'ケ-gQ [cョ!uヒカ9奴 2瑙~ネォ9|・タPPP)o1ゥuゥuン`ャモ硲'M_{ +リョsヲテト4薊緒。Q\続h冉ユ#\セ(シン争兵ニmx裼ュレ奪# :H+ J濺H)=噂Kソ# 1驕$&エ-p晦エ披 Ωカ エ、>昇コ澗・B樞エ渦廸派リ蘇勳PN-゙&リェ?x泉qテE井燧P2:%!アリh=xァuサ綱jb)把ワヘyIコヌ*  e |25/voDJョッ.ケル[,ワ6>・O"ユメ}ャ舊゙ー+iC ォAヒ ]4ャM-Z.dテ瓷テ孰ュハRiニ゙{cш ゙苺カs咆率`タ n{rゥsノノュ゚枩ナ6鍵eGタp」MB;l:ハホ存pu(=Yハq 4m巽衡ユJ)ム$ヘ[ワ"qr汀]豪粲f瞑クケ慇?N)DタxaY゚番゙鴪滸キ鬟橄ユ群g畊8ェ昂%B'@X.断C&2DヨD。8$B7R.泝アVXミーゥY. リ]ヌ#&奪閭c7ネ」 J濔ネIャ=\L゚#ア求q、&エト。p鱸よrQァ+VHF。レ悉4X_モサYョ鍔サ*」テj($J!#鏖=ヲCヨ@sыr)抵181#oナホアソ5晉2登ロ1ルキFV*アメノウKケヨオルフコs邪ナカ マ年哇!ヲ迄ヨ張hン侖省拒}フ#ァタ!%ニソ馬]「W萪゙キ T子$o;5遮ベjコッ\ ェYCオス?ZサRメ伺偉^(V穎:゚モVツIコ胖ェヌ"|塞W4笙謌D柿`wィ_=゚8ム6o?]e{「綬゙|ホテ0ハ┌k・%_jP@5s)iw縋[ovqQLヒ9蹕リ派テkワ-L?ヲトヘ hBwェウPh訣 リ*.ODアJAHi嶝ァプ'ヤ・Zヒュャクヌ孀奪38H+ J濬HYュ=\ 鞦 %求w"&浅%qp%_F`-蘋ニガ笋僊穆ホ撞%蕨{7 bヲ7dャラ*+aゥ.rQ#ィフツミ$8ュgXニCdM.徨5ロゥ渓ェ!靈y禽uK6<眛(w I,fョ漿セ6ン'ムdrIb齋7Fル「ヒ4(ヤヲ脛ロレ1皺ェヲニp,ュrキ猷[疚熔「mxム>シ|゙70Qナvヤmチ%O(.ラg O{鴣u、4 讃翹Q齋7FノヌUY$" ミLュBネモ$#SO?$モSイmM*ц3cコユg励コク襃彩MV餘トuスコBオユ$h6キョア]2・=C)腰驤fd{ネ昂BD5y屬ィd鰆cレ誕坪El餓荒レ}ォヒ&鳫xョ蘰ァ弩Sワオュ母襌c$A奪b7ネゥ饕瀋ヌ%+\ \゚"ゥ-×樊0ュq!5ツ+O.D 堂h*lrソモ?ォルュョチy「G~|゙Pチァウ r續P慴XTh"テ-*Lf禺{8;Iハd>髫!ic、x9GL+タヘ#アヲsHg1ッV輳ホェヲpA\>ケタ」博煩xB亨N」兄ォラ姶'謔ァメ+vッ$CサQオ}ウm闇不5鉉゙9~ノ」/tーJル>喜゚G府A(!ヌノx7e wヘルUK瘡W迎臀ムスTレ ; サー鰭スFラ。F`iオフ^「s妙サ嬖ハワ->ヌフソイマ{W痛$<@&オア゚ヲ m虐ノ簇g*麺ヌ'モル適/RTォDイq5HbmW0オGe%8#lクH」ネカKォ:9E/rアヒヤナカャnヒア~褪拘奪38H)饕濘h奥$ネ\ 4! 求y覬%pgャdヒッesメu斌$タノb・クレd嚠施ヤ|ロ祇>鬚げヲ=0iテC4r(荏4KPミ@h=\GQニ モj#クК&K-屁W0イ_ ソ#ュ,ノ盧裹屎マヤ2b/S}ホ[Sケk゙5ュ怛戸+0>?OBz._カ」磴LUb`ーT=hエ7Xル @Q炭怱n、ハ戎m繙;ルs~[f澂 t3ユ漱%「梅!トヨ6`\ェr"%ヤ6チZ P\QQツ`#-aムG兇 qLUウーpウウgユ}WS(メnD2.( EナKo U~ーム壻>ュェ」~ンォCU=*u戍8`D4隨魂8J&!P┣ %徴ナ$醫q飯_ イーオFヘRトロチ舒ーク。テp奪驥# 8ヌゥ饕濘ノ !\ T ャ%+』fpテ!pwエヒ '・'H$7ォコ<% }zホJヌiンネ駕Y NG/DロdСM#什テトヲ醒UЁdェ逞A゙+sby」 垂my5ソd&T.9ッ14t:ウマ20[、# %DNヒ茄シエ巌G'ミニS#79\2チュP築テフレ3L」╋@〜蓼(A採ハLリMメ詰ヘoE4Iモシケd.ト。盲(.\8ユ+[ォロtウ ェ:ケウ桝Y舐zフe26+ ,ユ 'ャ<ヘ」4ハ8KDf 'チ@ツ4nfW]gfツn膿フヨY」D?杆,Q8\% カ咒ハテmιr:績{夛サオc゚kXウ 虧氏璋蝉狡 $\ル*愴婁fニF+臨a聰ツハVゥ「dT)Q班eミーイチfXi8セロ]ン髯耿(ィmJフ奪 #2ヌォ J濮9= \ X%+−e、ト・qWソヨセ(Eスxコd襃ュ網sZ゚ 繰Dydヨ@靖Jカ4ニlリネナrーxイハ]v欧「!ト)]クo5ァ/mョフル鯔ュr愈チウ^ヨ<.瀲'嚮n-L/a[R筈モEBツwッム5qLU\タ診xミ閑>!.ヲロヨ迭リニBGSQラァ ィT・ミTrーチAs!QツB枡Xpチ:;レ)「hU"Eヌハ九轂[謨#哽蒟;璃6ヤk>OOユ P9"ZAゥ\4躙イロエw詑z0鮒祢ラ=Bヘ[,&@8囘:%i) 2H:ルイhヌ2イ5Smチクツシ゚/^?$エ,{奪27ヌ∬b濮ネYy0フ\L斐 1求w「f!p室膕ャイFF,YEク鵠ホッK贄j;ト*MPナ"MgB銃r!@o4ヌクモF爲Iゥウ+*リ G」$ ' ニ$lトW+fツナム:R t+p)ケュ:ゥツハネヤァ奪驪"8GェKJ濘ィ|-\ タ゚ャ1求鴨虱アp|c滌ヘsル^ヲェ硅2ElUュヨマソハテ2ェケv6ハ刋゚霽Po‘&ノVョ$v"&.4ZE,ミ、w\┌ッ 」Ы号 里v黨ュJワ7<ォ,oY5sツユ奪驥38ヌ)J濛ィii\ ヌァ・+”eミウ%qu暘%b出ォ 瞥キ9カTヘM] ,、ル*メa炒ミd柴Dナムf稀ウe狩勢kツh#s 毛;F黨ュ゙ァワ7<ォ竦ウ *MN,($危 (カTS哲ネ&oM。cリセャF歎ヒ緩!モヨ $テ嘯播lTッ5a緇ツX%%_柴AD|レh HSJ侃 ツヤjS=Nゥ)@倏)Vシ)「'sq3エ./[窺?殱c;[M);沺,Dコ<ぉロ0ょエ徽;g蒹g廟刪飲サ@ )、я(蒭欠ミョi1bIQォiB、ネ$畄.蒡f鰹$O価!ヒツ5オスOW8Tjmサ/テ<. トDナ*)ヤネャ[fー Kユwq=bYカレ+=-゙摎マ奪齒#7ヌ飩濬ヲ|$ノ\L衣 %求滋edト・qマ8@mソ$オゥA-gモ,オ、JD粐オ粮&}9IWッ/8;+トУム!0ュ喊ォ闡ヤマ4sラ街E8v試]゙bv否トU従ッg#  FヨcWP$埠蕭旒ロ 痒9ts恐モ麦襁N +++オネ@NkVヘ/Ub4ヤマQ゙ル逢ス」」流メwゥキ距ケ-禹シイCh4yモE4廨・孺LQ(@@7ムヲニエチAョ絅>ィwフ/H?落,クヲ .xエレ4夜ョキ靺禁テ墹ニ甑ァ?+Hs訌[a奪 "7ヌib濔f|=\ ゚ャ%求w%dアqリp ケ% 2゚」PZ!d聞スaショ、ッK6 QHPヨo「#>3Mユ絞繧ゾニ}P?H?落,クセ .xエロO4夜ョキ靺-ョk?6ッヌ4珱ュ!マ凵oイT`AsEヅEAス筅mpャSィB*Ad室0ヲa%オヤ6ミ4b9ノチノ",%+ geク <カ:6ャs=eキvョケロI2.9織髀r8ニIb瀉GH=,\Kー゚ %求t帛ヤ1pKY、ナyカ A、Q?マMユ隨^*Fk!メ!"bノ&鞨jkーカ規防ンjテ Xヤ\夏 ル。ワヒ」[~ロjア匳オッ_k哭ケタ %ャメbョマァHRォメ]k:カコマSイf迪X:W84R4叭ルート<З走モe&、} }ヤp2ャ゙イk段3モトム゙h4Fヌハ ,YfD 6ト\ケNマG ,ョ゙ー゙搓ケァヲ徙W5tPF$ Fヨh楊ニ閉N4B$」ヘヲヘ7#ンG*ヘ&ケ&#=x;ヘア2サ粒^ェk&ミ6トク[J6z*5ネ帽ソkルヌ受吼ホXP&ソァ* Cs、」,芭q]|(k・i。ェk#詔賁ァネJi居 ホ?・>&=ヌ.[VDェ躋ヨスRw Hミメ>ーi奪髀r8F b濱' H5,\ 仗 5)《$璞・p゙ン>]Go「ヘ裝MnHフqk 紗フホqAレー9@c 7R]qロCz]P嵳ネ撫J硴桧ELxシ脣%虐.Zh.2ャ-略GAワラ8OGUw腋マ泝。v(|'ゥサクキ:Mチ(スーcチ:"Lqィエ2`咾!「ォメ*ネ(<イヲ:`Tg侯V鶸〆 e貨邁娶ーヤォヘNeCB「逍tェサi、AカNiHKgqo:tォア'、+殊ムAニ「ミ4FrU]$"$ハ噫驛ヒ脳Q3┻モゥN ネK,グヒマ蒂スユye⊆R樛賭ソ+dU h廣Uヘaワ唹ワヨpホR篭h1i$ c鈔s磽藪悒KP伸K"8U^ヘ豫Iネ4:o)G=4{イm拿ッQ珮 &'奪#1ナ b秬)8=,LKワ・+±$櫨qh8獏ケzT{" 。滓1ャaロgOワヨh@g餃*エエ池挧ヌ マト9トハ妣F戞RA=.灰W瓱v 1a'"ゥSyM9鬟ン塙zスGウキ「5$セP滑#k=エハタSh踰悗GSォ佑_nh「tセ裁$:。アsークホムb6ワyコ^アヌヘーzァ%樶oコラリf;шニ|]Oリホマb4_@ァ7ヤモ+Mネoォ倭ツタ遑ッキ4QLセ裁6I$t!碵sークフム維qメTフ3ン-Z ヌp繊タ1・"ユbXホ`ロ3ヌV{殼=H2ヒKャヘD笶億 <ソ飩ァョy]ZM~マp、港-;イヨ~\スjFW+[/@\゙Tェ ホヨiアヌ5ルオ-泓ス8レ、奪35ELb濱F(=圭 俎 求_壻晩1p揚キイマ顱霤.)zタ宮癜辱、e_B;<W$♪イ-騁ェz衙n5、ユY HヨツモソZタヒ溜H瓶コ.lェUgk~エ+v%俯]娚ヨシ5僑#i{' ミs駈2シス蒹U仏ァクGrヘ晦唄S+ゥIレ_+ ル[メテタxqYP棘Yu肯ヤNオzb革_スrk5スコf8hI炭_ 1 「トm/ウヘケ\g~イエニリ、仍]JH.モーxサハ羞ヒヒ薔卯フ/ォユッェャkuDW、。ムァfヨfウ[ロッVGCミ!卑鵯@I袙Uヅニ"eチ_,サチ゜k.+$ルB#ィM,ムy<クYс、ィ(r,ーQ2&ア2KL「J9;鵑}E><カ*ユッ6{S;キ奪3-=D,b瀋=,\ hラ ・求g壻`アpメfDh゙エwナ。fy傲愡ヌ72&K霰*レN豹C==荏畷眺64+<_エeq ノォ$/Uユ%eワ恙ー'$hソye#ワfb冩喙;゙ヒ5d、 Aq秕xтミ|ナリナン兩コ゚セウ啓=Nリ韻hヘヒ+y'Z諮エ|ャシZlネアВp``「B^ムム,,W。 +!+ゥロ;-コ溜bハ。rM;?H.Гyン }V。uキヨ8bワ';\%1巛+幣勅桾アUッJラ檳A((>- ! 2チロ褄\P册齔譎エキ釉?゚ュ垤チwt ueネ\キ*"V<囮ウ{ナmヘ歉'ムq゙3D ( 4サハ喘(メ<臺ィ辞HY;QC煦bqッ(ヤ2 V[;Xコ*|ゥロ鼕゚セ,壙sユ`LB英奪俊8ナ J濺踪=圭 ワ ア+×帑1rィ6!~@TcンーK・ヌ!ア>コ>"OQbsD $、サネMeK9Aユi &j(ク"很ハ5 yJヒr羞且SNィロナ3_憙ネタィ依榛f%・wホ9・Eサ.αレ技(iメ"[β鞴C%’#「,3)zル裨B} ?盃&蜆Yケカ。mメCィ_ラ7齬スFナオOァイ團ナョ珪ウIuオ/tOf5<ナ彬s 9j牴UミPツsィMカミa'ヨ]オンテニwィJスb。レ|9ト机9\X町F^メ「q官ャ%ッキh Gz=奪峻5ト饕濱ゥ1,\ 。k±」タヤスp゙コ:F裨ウソ6iヲ-徨rノヘヒャ傅2Cq・iカ %qH6R戴゙pケツpタ ワYqBOョh写ッz兆夙Wル垰\」Lクホ~チMケ`ーヨ欲G-eemユ袵uWシ厮オ=r0 杓ュ嗚苦ニホーC-q) 9ツpP蒋4lチ`1lム・18ロ1{./ヲマ-顛傍Wァ[ー 伝Q2 ,ナ[/ロセ゚ゥオP w5Iコ欲g>ヤ0vホヲコj苦Gホ2チ 亰ト1= ノI[K頃&&-曄サヒL`メハニサ1|.+ヘ杣gルQ^挈P.ッマiマ]タニ迪Rjt択ケャメ8 1wェt"?ハ-侶ネ_vリ綱ウマB%ユタ)チ Xqイナラ皙tテ3s鋤哺堯`3ンil晤イ-!9ミ3奪rミ7ト∬J瀋g倨1圭 リ %求n耿ヤアp '`゚_gTO l;ッ常Y袞7メ ≧=龜"dG發ホ4スョIC5ェヒ!uX 恤 @#漉/ヒォCゥ}「ロ彁|フ7ェ{ヌPフッォ侭゙ス-鼠8^リl ァwWコ_Tム嘆シクネ1・5コキ:尉ツ}!~$エ\B50チ漑訝e厄マZミヨsLA]ヲEz&ソ3ン、鷂B蛇9菌「コヤ :コヤ軫=ヌ゙CチjオVx7渮捉+ Rア怺挈戛%h 奪qIヤ,Hn\オK,キ~Uk6フロ經3晋{「スoIシヒ岱魏耽ェ。oロ*Iリス.テスンoュケ癇$サ0# '?ミQツn>Bネ-\U陀佗Eノい麪黻kn6玉$3ユHe マツ>ャ_QBヤq些0奪';D)b濱辷=,\K鞳 !求u彡ヤアp_R豁M0キ 3({スr)「L琅ト 布HトヒT産!+';ymj'シZI塊-リ猩ッアしモj賓vJカ鬟7KO/ルノセ^gbェモメ_$(苻坦~ー蓙wv柁d9倨=メ%R「。(eY.$襟2!ェ'Pp,od 嗄}:強N0m5ヌ}ィヤv袒Iハロラ リ ャZィカム;$ョ朞zyヤチゥ 湟ョ,Aォァ]kd*ツロチ ]+Ouaラョe教ハ瓸堂m+;ik・eレ、ホシセユャ荵{ユ」ー5ヒゥ゚」~タP<浜巍ヲ-Wワ2iマー5ク5ニ 「トq。ツ%庚佐゚dウPDIZ([Vqィ綽蛤z% 筅サヤ;奪7トJ濕ァ謂=,\ H !+◎槭1pユマX3ヨ興!ケ気*pヤ1貪陏産ャFムス>eュナ&mよ・gQ,エE「! z:Fルルツッヨ"闖猿c .ヲシト1ヘYスm^G[亅搏 フ9 8テ\"|」ォナNmホ+jニ^\rソ閑ロァュ筬H 覬淒X|ソノU'黌裘dKt7?qS.馬イノ惇リ*iハ6cH?>ヤレvユセゥホt-ォ Rヲ職:Λj_ソサ}`ヤヘニ1mヒヒフォ「l;O[ヲムq燉2Юb9C}lエォ4謔sナ>QJ6Eヲラァ゙ル'nk#bヤ)ア <$゙痣f「゚:カ4皹蜃rチFヤ鬪^yR ニ惨クオiッ^マ,B$ =コァZUアQエ冤Bーノbッ,「ァ┏ェgFf、イHサァ=シア殍Y&マk 拠陲bヌ奪闖ス8トJ濮ァ(ミ5,\ D・求#@┸pk/ソソキ0ヲッコ錦麕rV゚リ蹐MUy >゙H,L,"奸チR Th>liァ剖Ba^チ桀jK$M#ラ=ク$fセncソ惓Cニ9K Oキリフ囃-砒ソ'アケB擢キ゚d 1Dーー[hヤlュ6「cネ 裾&XA6VID替 '^キ O%乍ュK赧軫igル、5[*Aロ鱗ヲt(LンフJ_qIマレ゚~fヤ鯆チムテチ羽ミyオル^推~*メB\天_!D5NョkヘYQ@9ノy3zz庇奪9C←J濟ァhミ-)\ (・+±c@カ1pム苓R2フU7ゥnwfキIール9]礑I J]Iヲ埃H武]U l6x4ュLlゥ0\コホム ナ゙_`レ。+灘SEミ^ロ2vロ灑ツ#$,6隆梛Qマ樗y^アャヌス3oヌ唾紋ユwF8!ェ}+i%陲売i加(| W\「q"j?O3Lxホx忿オ)FPM漿p)n2、h冕ュセッ[ ャウsィメ晰M徇i F \\')dオxクコ 紿アヨ 蚊E#`bオ ン:UY権9m$'ォfW薫?撩=I゙ョEsティs剥キU +1/異冫~鉾vユ マ驍ルシ1+薙Iホ#ヒe)?テiq8ゥ5mr怏[」ロ=i#;エリ、メ^イ{ヲy1 アPL」Qk%ホUォ餮奪4テ∬J瀋ィタ1,\ 舌。+≧枋1pmゥツW裴Wヒx驪\*ア3ォ燔<9堋ネ ZRモフタレG袰モモDン'/トe駭d沸゙,ヌ6殉5ッハ*レゥ曖フキィ棋fn罵0=U35ヌ|サrGカセ @ィ%8糺9セュr鉉"t#rノカy 1ニZシQ7OvVセタ;Sオ;ソウWホソラ^m=\ョY゙ノZi-ネu。1ク僧登{:(ウャ!ソチYゥテD+*qォ*ャoX"B/∬憶rMBoA幹レ」ッァコS弼語LKミ'SwヒFウWホ學兎ラ怐B悵Uォ;゚ケ=kNse幄、粽rUpァヨc幣キ^癪>茂ミ口5e怜2ミqエ*Qアシq-銃ヒS腦Fッ.カネq詁ミキ「ネヲ楫ヲfe)34}ヘッk2セ幣ンャI奪齒レ5C飩濱ヌタ1l\Lt ・求n撻エアp-屐jアDj樸j>ユ址ァ(ノマ・コ杆ス`@D脊Zъエ 6蜑ョAQtDwシ{ャ裝A6?ナ-!ヌ芯劑ョ,・ウ4ハfS&eワfスー宣4タmレX$ぷョ・YKlw1i}_A@メ犢$ォネ┳ルケdOG0]3RW4f鼓嘯、iヨ[ァマ^ソ調緑ェマオ筅@ーeIZニ+アフpキZsy゙ン。モYK 似止[レ\$笈逝0cd+9N46X<屯思a「Zイ7.B~ェI淘メモl/=zレ雄將゙lM+LSォ.q萍Ez"幕シgN?vnラYル9カウB 厩慢1ェ蒭」aムZィ找,班竺zャメセ% コ朸ヒ刊フぱ,yツFヲf/ゥワ奪 ;テ饕濘ァhタ-,\ xロ 。求n#t1pキ8ンメ拭DMレウ*ョP懌5Tイノ゙$戚Xロ蠖」キ゚傴(bt゙^o$<ァXZc十ネrヒ彝9メコl嶇9ニ{ニ-f;ミラエ[/ds=戦gzルルIャrニィx竓 1ムユサケセス+モw蒜&32 I!\ォ゙+*XNr&eヒソo3J朶ア<コ檀レ飢椡ロS~'tVZlモt$u0罟rネ枚壌コKeシ2ラ酲>ス38ォi@dUWWハ*[゙ホ,TMオ\9ホ. 2U。fチ22G.JンT21V2軼]P=゙{メ゚l=蜈セマdz酌」Zuヨ-q ユ^ェ腮ΖLン{瘢モ桝街m*ユ,U*゙ヘフゥミCユォ圦 $ュ喀フャ鐘S゚ャKO:ヲ]モツユォZ|]-ェレ;FO゙}コホオ SEYSUPモmル ウ旨ョツG8訖z灑娠 Eタ愽 E[aTj欽0zgW>ムヘl ロ9Qレコ~`讒オ"何~ラ奪浄9CィJ濛(ー-l\ ミ 。級~昶タエ=q=u3B┃u`エト^藜ioc| 涅K'エtL fA<。ΝR48ク珞捉/Dナ畝ナャケア.溏L次/vg=iV[へロKV、ホnLoC魅ト輕JBk>コフ oVCカナ$ヘ.ノ~1'xS6エャ棲タLFдモTオ、シ4ーDメ#&>ツネWIヤ。wl\{ ]0ク大IウAシj顆*墮>要モ~トス_ユS[ム;_サリ浸g亘=ワFサ梯剖rアV笙エユノE澂Vエ}-*ネ%=!#+qコニ視-。#「ゥV[凹EEZムA゙[跚籵b. E6漏&ネン崛ェ 夫-7sfソ_オd,jヨwウIリナ 汽Xュ、XV:レw渓、$$ィuQレ菊R&23Jヲ俸蹂ワ'ヌ疳ィ|{ーAノ頗*,オ Uc冓4奪齒レ;ツ※B澪xー-,\ ャヌ+奄窶エアpu1岑Yoオ妁 烹7^犢Uイt`チ。カニミシ蜚!,}FzOfエ釘ミDウ9'npュa*%薄6;Jマ瘻キ|ソFrモ4Vy@Ma叢」ト。ソナ?峭ヨbヒ適鰊セEー*ヌ老2 X1!長aVァト廬%ハ%フOハ ナハfサ$ ネニノ*槧コマルフ~.ノ{^qヘフキセ,シ*リ祁エャ8Gュ/Kヤ&[8禁@aザuレ。ユvソWm庫-鴪ヤヨiヌカ2Dニ「ッTA5、Eナ$ナ羹hク、z<~ヒィ)テテカz<'hレs)駕ウンンェX椁nハ?ケライUx。トXYフ%Yレ+'ツ*ヤマ~哇チヌz゚8可Gャ{J!ワリvi鰍8リコ1Cゥ陜р>yモィF隼オIUヒ鉉ヤ+霑 <ヒ耳ミ肋I4ム、EL2+奪8BヲJ濺g1,\ +≦"@エアpエQom檻Aス$壅綉脚43kC≒ 夏。Ez[ゥ碣I籏R裴``rBト枚ナ"ワ泯Q ss袢) MGキゥfk;ケ[~5 ロf荘4Rケ4閤オ=[6VRノウ%2eF3;Iヨxケ艙$ ・ユ0「+x「APゥ芥ウミ゙ャ諡魄Pンi陀jヤッ5^T餞ァィU SMミミム5aD .キ/ョヨセ艸8ンT娟ロ!~。. X$R。隷チロ(0xヨ聞0*_(KW Y筈ィUロフ+ ィ・」^5ハ-ィソyェ@1qロフZnエォワオラnト|踴jhx+ュスvヘFkォ糧サレ|コ履アフ┣HlT68k:eg-CーTPp>Q彖ィテe2ケゥ>ュヲ↓T1弟kュィt>ナツ恥EG階 '加ウォ[奪8ツfB濱x! \ L °擇@エ=pカ筵,*>Eェョカメヌ^筌メgミー娠」Dツ)*セ~Tヲ@hツヨvヘ雙ョ86橄~琉ム5"ャト+゙沈渡ロCサ-5Kヌ^ャiヒチs舗J"ム C-I4゙c/ m55ヘJ・饉,ヨソヲ-タ;モ%<ワ6ラVc^ユ 6カ!レgワVlュi絶 bョ >K *} @タ Mィ!#hI70ミソpロユシW|r轍ヒ、ハア*ゥ;オV琿}奪状Iチ8ヌY $犢H<^覗毟ルォh腔゚]-・ス ▲Cユヌ」トハ~'|{ソif奘ヨXト幄#}O#ミdg朮ヲ躪崩鞣^2肖9uXZa-V゙盜゙>Tp;ヤ〆ロ7^カW短鳩マ_O_ノッ[躾 遅申萩=荀[ルソサメヘMメMS葎剽トソカ窮忍<オgIワ)b弭ツ-舂搦\ゥ(3懈PAラチ コl'┗M2y ヒSン燦sHjdf茣r蛔゚%ス>薜?ヒ慚{ユ;料y*奪Aチ‘B禮辷 \ ク 疫┳pテ替(椦%クン怖ルケ恷塘寔#Ul{ァ/シZコ.ケユツAPヒMB\Fメ9;wマv丸e*ユ#楞3;;ョヌ`圻A4逢QB壽縦UC*u・ョォメ呻Jvk^td四ニオクEル褻クF。ッFsロイZ憔ユ fG'セ+GN@ォV。WXシウロwホ5Xク{緻7ジ ゙槍ョX~蝙ッI ヤス゚Uユ^ュ。アdjヨQノニ"フ#ルQL高ゲヒYU(0径隗堪Y-ネlンエ憤;儺事hマ2V枚\ zj慚糎 栩 w.?5」ヷJuk奪浄bチhpf逖p-,\ Y 衛b=p^Jセー蒄mfフッ}]|スXヘV彿BュR=1゙yrヤ:ォsヤキYLd;メヘF?$サ級ア疉ィサZ ナKレ涸墓コ5rモゃニE・檸。Wルk訟ヌ%vシホモ[ト~坎繪Hxd UTuI]鐙d mA「サ「]hYュ蓄6ョ'拵|_2キ境r゚ワ羶li節a磔フ3幼 nQ?キソ0袰トV颶コ崘3田ン'Pd >剴傷化`ヘ&Dヒxモ冽ヒ$クユfl мY/-ヤミヨokマラrアOホロ\ロ}-0テニ創ミD疑F興s7k刑m鹽キ3@f、E窘8リ07ィホc"トAァリXoVェRカョ・捗汢}ク首wィ姙Jケョ奪齒I@B_`-,\ ナ ヒ掩aオアpオ"\悋_nM」?ォキァcノ兼XiKヒ@vー碇jキjテFコロケqu-ウェ倆ロmレホチャポwmマ|ト筵亭メJ2.ラCク変R/烈ヘャ わ~.}トユマホ_wmU?)レFッル艮ーeシテ莢ケ|1_」"b:?Qh淮爽]ノウ号(jンチワレァ=qI扇飢MuCイ寅Hフyld淇シ60茅イォV刳キ枴hhムヨ`ノDto u襦U}ヲァaGァ蜈#2XfgdヘO2オjwe+ソ剿キnル'惇ャvエjメUクT:ニ・4 X。B'ヲ,史戲当7h戝Lef99フ紹5Wヒ1mW析G(テ(D|ホヨN!F)゙:ェ┻ヘ「Cナ-ー↑サナM!マ,イZン;ヒ宋ン戸逢CウF 鯉3<織齒濳@B`ヌx`,フ\ 1 ノ懸a@エ1pヘM∬ル/cpQィクB軫ナzjmマ゙|、Dン踉吹ヤオ ケe「UTネョÅ9s徽8ァR4スェヨ:ヌbHヨ E_ 穃Z"メ槐゙Pス^褓マxgロcVf:゚,4ヤLヲujE V缶コ3q(Ibrト"セォ゚dフヨpケt鈑V;クr ャゥ-u俟=豼ヌラ昧iンテ笘イhmト倅xtKA;「9X8ル、穐&{6'マnQ、!ニ俥゚コ トイル楫3`ワムフ潜オ杳ι&nホW,_據 ォソァ0椎TUmーU・d_(ウ;響イ、*0l! uoz斌$Yq皖綮愁ャェeWsF佰j眼F($62R ッリツeリуスタ′CV曖E祐cびス諛tsb0C^奪髀 BソB秣%P,フLL ヒ盈!@」-p斂X衂W-9゙ヌ^U~;ヲノモ2スヒソヲキjcEN゚永_%)キT(親緝lo、f茂ャメ岷村ヌoェェカrセL5頷ィ{。廉^@aナ「!q蹟セキ・」$Qt 姚.,゙$kiムタワ ナ  Tミ早 ァネSトコ攤hEi・メ睨&R,P`チ截:ロ%ァ2.(ウ崙セZ'キセg Baサ妣ツミワ蕋鎧FエV~沱 轗}メト楮q・]派Z.熊 hg @ィ四%MヨT龝8渇{0ツ*T* :MFf・冑:メKk/Eリハ)跿ヲチI:d& S`0ヌャn&Hm0豌)UツPJjNォテ、ネワ 魂v搶`ァKOメラハ8q襤KHユz1カYァ珮イカd\ネノT汐オ iヘS奪MセfZG@,ノ\ A,渓ノsタウ!p%ェキテ&P゙8炳5゚D暗ィ4p1茖d禹匸N"ィrZリム] ,$ャ6ノM=跡ヘヨム|ソwD{j^&ウ"笆&64痛鬻,b`rィa9アツ災カタレヌアネ$。ユF^イAチク,∇ヲW3#K做ナ:チネ洸ル任pキ屍Fネ-!LX嬌[] 9HAミ歎 c|S"#阡ヒÅ徃Pアクヲ!ャテ'J傳=B&ユ倔イ「prミル「_ヒ珱f石Aセ=%xV74ァ^フメ窯n5韻剞Jメdワ'ト檮rn9 霰!co%]ァ(レョxCセ。茴ハ-壊タ柄4ヒ。lLヘミヤ) yワ?FOUトラッTヘマラlウトRマノ'16簪K wKALヨ8゙:イ{ルzハ=Eや-橡#;lIb:奪]> `a(0・-卑T2タFzリDbレ.qLカ<蒔嬢ネ4i劉[エシコLm)戴jラ゚。サォTキ0,`ウハンdHユサwソm~^c6bsリq゙ュメ壹ャ゙ゥzi」゙・&fオレ゚暹壤m蛍ォアユh`Yz稿^コ?滷%Z<fС・u&|iPY-笄!ー4GCm- HソH掘%鰭 Gヨ0%勉^Z.ネ`DF@ エルA Rソ{カ ;ひ遇尖ュュー"勁ナ ヘソヤ:WLケ<<滌ウ ゙)]、?" Nnァ#ホ縻J|Jr:ョヘニNナ゙ル、X勦]9VヲT廚┫NT。5ヲゥミJyャ=ヒ」=2碣謎フ3 ┝KF貍J1MコI27ワフKCQlセ顆nゥ {fT繆ルセ誉 Mェ゚I)ィヲeヌハェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ フヤシW#PQカB)並 LモW\%20ノ旭.8B 碩 )旭ハ繖m$Eーy1ナ2ク)! 「」鎹讌・篋ー頼粤┬W QB、Pー#ツ、2毀b+)旭ハ繖ヲW p桝& Q毀b+ xョ,)奪ソiSjgc^@、エ-ツ形ヌ Lョ8Jdモテ< ー%Zノxョ/&"クイ岩ヘヌ Lョ8JeqツS$n@+4龍Bユ[T、ソ)旭/&"クシ頼糘b+去兔p般繖ヲW&弟Mノ底l/ャイ]ム゚)旭,ヲ"クシ岩b+近麁qツS+兔p般繖ヲDモBイ:.Gtミャ視唾]4+#「舊WM ネ雹モBイ:.Gtミャ視唾]4+#「舊WM ネ雹モBイ:.Gtミャ視唾]4+#「%15フク獺ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪ilヲ昔`、AU0ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェLAME3.86ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ奪条i 、4ェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ゚テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<4<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<4<<テテテテテテテテ<<<<<<<8テテテテテテテテ<<<テ<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテεテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテCテ<<<<<<4<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテツテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテシ<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテシ<<<<<<<テテテテテテテテ<<|<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテ翕テテ<<<<<<<<テテテテヒテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテヒテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテヌテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<><<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<|<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<|<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテヌテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<テ<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テ@@@<<@<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<テ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ|<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテヒテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテモ<テテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<><<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテヌテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<テ<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテヌテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテ<<@テ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<=<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテ<テテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<|<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテ<テテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<シ<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<゚テテテテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<チテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<4<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテツテテテ<<<<,<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテε<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<8<<<テテテテテテ<テ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテチテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテCテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテテテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<テ<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテ<テテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ<<<<<<<<テテテテテテテテ゚<<テテ<左派として登場することが加入活動のカギである。諸君はこの一年間社会党のなかで何を学んで来たのか。私は諸君の度しがたい頭の悪さかがまんできない!」
 太田自身の自己批判は一言もなかった。一一・二七の歴史的重みの前で、忠実な学民協活動家達はただ首をうなだれるだけだった。太田は、直ちに行動方針を提起した。
 「反戦行動委員会」という名の社会党系の組織を直ちにつくること。はじめはICPメンバーだけでも良い、問題は行動を開始することだ。国会デモ中心の議会主義に流れている闘争を批判して、安保の実体である米軍隊と自衛隊、ならびに軍事工場や防衛庁、アメリカ大使館などに、直接攻撃をかけること。これが攻勢的反戦闘争だ。こういう行動を開始すれば、大衆は敵がどこにいるかを知り、われわれに合流する。そこから加入活動の新しい段階かはじまる。
 このような一連の提案が出された。さらには突撃隊をつくって防衛庁に侵入し、屋上に赤旗を立てろ、というようなことまで提案された。
 われわれは学民協とならんで、各大学に反戦行動委員会の支部をつくった。だが今度は学民協の場合とちがって、社会党本部の了解を得ることはやらなかった。結局たいしたこともできなかったこの新しい組織は、加入活動にもならず、独立活動でもない、中途はんぱな短命の運動として消滅してしまった。六〇年安保闘争は、大衆の平和主義の未曾有の広がりとして、最後まで国会周辺でたたかわれた。ICPの個個のメンバーは、学生自治会の大衆的デモの波にのみこまれ、方向感覚を失ってしまった。一人一人が誠実で、戦闘的なデモ隊員として十数次にわたる国会デモに加わっていくことしかできなかったのである。
 学民協路線の右翼偏向と、反戦行動委員会への突然の極左的ジグザグのなかで、孤立を完成したICP学生党員は、ついに、太田の指導に反逆した。
 六〇年三月ICP六回総会において、東大のほとんど全メンバーを中心とする多数派が形成された。多数派は学生運動における独立活動の優先を主張し、太田は敗れた。そしてこれ以降、ICPは二つの分派によってそれぞれ別個に進んでいった。
 太田は直ちに自らの分派をひきい、学生カードルを学生運動からひき上げて、社会党地区活動に移すように指導した。多数派の独立活動にたいして太田は、終始非協力の態度をとり、この太田のセクト主義が多数派の学生党員を激怒させた。活動経験の浅い多数派がこの孤立のなかで党活動を継続することは極めて困難であった。しかし太田は、彼らの努力を援助しようとはせず、嘲笑した。多数派の消耗は深まった彼らは、革共同関西派との合同によってこの困難を突破する方向にかたむいていった。
 劇的な分裂が六・一五闘争の直後にやってきた。
 六月一五日、全学連は国会構内に突入し、樺美智子(共産主義者同盟員――彼女は典型的な急進主義者であり、エネルギッシュな活動家であった)が殺された。ショックが安保闘争全体を襲った。人々は早朝から国会につめかけ、包囲し、期限切れ間近い国会周辺からもはや帰ろうとしなかった。一八日深夜までつづいたこの包囲のなかで、国会周辺は解放区に転化した。構内を守るのは一にぎりの機動隊だけであった。たしかに、もし誰かが、どんな党派でも、数百の部隊をもって再突入を試みていたなら、数万の大衆がただちに後に従っていたかもしれない。人々は情熱に燃え、突破口を探していたのだ。欠けていたのは確信に満ちた指導だった。
 太田は、こうした情勢の中で個人的なビラをつくり、そして社会党の腕章をつけて、デモ隊に撒いた。
 「国会に再突入し、占拠せよ。
 警視庁、防衛庁、アメリカ大使館、主要官庁を占拠し、政府高官を逮捕せよ。
 労働者の武装行動隊をつくり、ゼネストと呼応して、機動隊を武装解除し、安保国民会議に責任を負う革新三党政府をつくれ。
 安保闘争を暴動に転化せよ!」
 ICP多数派は憤激した。彼らは、これは「悪質な挑発である」とわめいた。「CIAの手先ならやりそうなことだ」とささやいた。
 たしかに、このビラによる暴動の呼びかけは非現実的であった。だがそれは、多数派の諸君が言うほどには非現実的ではなく、すくなくともその内容の一部は、必要なリアルさをもっていた。非現実的であったのは、この呼びかけが責任ある主体をともなっていない、という点にあった。そもそもこの発想は、まったく太田個人から発したもので、太田を支持する少数派の誰一人も相談にあずかってはいなかった。だから、占拠せよ! 逮捕せよ! と叫んでみても、本当に大衆がそれに従って来た場合、ヘゲモニーをとる用意が誰にできているわけではなく、文字通りの暴動で終ってしまう運命にあった。少数派の拠点は東学大であったが、突然このビラをわたされ学内に配布するように指令された東学大グループは、内密の相談で全て破棄してしまった。
 六月二三日、多数派は太田の追放を決意した。謀略をもって太田を拉致した多数派は、査問会議をひらいて糾弾した。若干のテロ(今日の水準から見ればテロというよりもこずく程度のものだが)も加えられた。変らぬ忠誠心を抱いて太田を支持して来た少数派の若干のメンバーは、事態の急変に気づき、必死の探索の結果会場をつきとめ駆け込んだ。太田は、
 「僕は、理不尽な暴力を加えられた……」と、泣声で訴えた。
 多数派による査問会議は、ただちに臨時総会に切りかえられた。臨時総会は太田の除名を多数で決定した。少数派は退場し、分裂が完了した。
 太田はこのことについて六四年に次のようにのべた。
 「多数派は六月二三日、同志Oを暴力的に監禁し、その個人的声明を理由に彼を除名した。
 少数派は直ちに国際主義共産党の再建に立ち上った。」
 「暴動を呼びかける」六月一七日のピラは結局「個人的声明」であったと、彼自身が認めたわけである。だが、安保闘争の最大のピークであった六月一五も一八日の局面に、党の書記長が、党の名前で、個人的声明を発して大衆に暴動を訴えるなどということがあってよいものだろうか。太田の組織感覚の度はずれた「非凡さ」には、誰でも驚かないわけにはいかない。多数派の諸君の憤激もまたもっともであった。
 分裂したあと多数派は、六〇年一一月に革共同と統一したが、やがてそこからも離脱し、若干の人々をのぞいては、ふたたび革命の前線に立たなかった。このことについて多数派の同志達を責めることは容易である。事実太田は、多数派の挫折の原因が、「職業革命家になることを死ぬほど恐れたからだ」と説明してののしっている。だが彼らは、きわめてすぐれた頭脳と献身性で、他党派から注目された人達であった。ブントの島がかつて「太田竜は、彼と心中できる党員をもっているから幸せだ。ブントは数は多いが腹の中で何を考えているかわからない奴ばかりだ」と言ったことがあった。ICPの党員は、孤立に耐えていた。大衆闘争が未曾有の高揚を示しているなかでの孤立であった。多数派の諸君もまた第四インターナショナルにたいする献身を行動で示しつづけたのである。このようなすぐれた素材を台無しにした責任を、彼らだけに負わせて良いとは思えない。そこにはやはり、党の指導責任が指摘されなければならない。他の誰よりも太田自身の指導者としての質が問われるべきだったのである。太田はこのことを、結局認めようとしなかった。だから、同じことがそのあともくりかえされることになった。そしていまではこの不幸なドン・キホーテは、すべてのサンチョ・パンサから見捨てられてしまった。

 D 三多摩社青同の「受胎」

 一連の対立、分派闘争、そして分裂の消耗な過程の外に、ただ一人、黙々として加入活動をつづけている男かいた。それがYである。Yは、もと黒田寛一の右腕と呼ばれた理論家であったが、太田に加入活動を説かれ、一夜で転進してICPにはいった。彼はその動機を、「黒田には政治がない。われわれが権力をとってから、マルクス大学の哲学講義を担当してもらえば良いのだ」というように説明した。
 Yは五九年に三多摩で加入活動をはじめ、社会党三多摩支部協の青年部長をやっていた。五九年末から六〇年にかけて、社会党は民社党との分裂をなしとげ、その青年部は青年同盟建設にのり出した。日本社会主義青年同盟の名称で、今日にいたるまで社会党系の青年同盟として存続しているこの組織は、六〇年安保闘争の渦中から生れ出たのである。Yは、社青同建設の三多摩における責任者になった。
 当時、三多摩の社会党が青年運動にたいしてもっていた影響は、実に微々たるものであった。五つの地区に一三名の活動家、しかもその大部分が労組幹部で年令も三〇才前後、これが社会党の青年部の全てだった。
 「今でも時おり思い出すが、一九五九年のメーデーの時は、M君と二人で、青年部の旗をかついで立川競輪場へ行った。
 ところが、いざデモという時、青年部だけでは二人しかいないので――他の数人は組合参加――隊列を組めず、どこへ行ってよいのかわからないので仕方なく、小西六労組の後にくっついて、二人でしょんぼりと歩かなければならなかった。
 私は今でも、この時のさびしさを忘れることができない。大衆運動をもたない政治組織というものは、いかにさびしいものであり、無意味なものであるかということを。」
 われわれは決意した。石にかじりついても、この三多摩で強大な青年組織をつくりあげることを。」(社青同三多摩分室機関誌『夜明け』第三号から――Y)
 学民協の破産ののち、ICP少数派は、それぞれ地区活動に進んでいった。意識的な配置というよりも、学生運動における孤立の完成と、それぞれのメンバーの挫折感がそうさせたという要素が大きかった。Mは三池闘争へ、S1とCは新島闘争へ、それぞれ現地オルグ団として飛んだ。三多摩にはKが来た。
 Kは東学大に転校し、Yと連絡をとりながら三多摩地区の安保闘争に参加した。
 六・四、六・二二ストは、新潟闘争敗北後の再生をかけた国労ストが中心であった。YとKは、このストに国労八王子支部の要請のもとで行動隊派遣にとりくんだ。国鉄職員の制服を着て、公安と対決しながら運転士を確保して旅館に送りこむ国労組合員を防衛する任務である。東学大の学生を中心にしてのべ二百名の行動隊が組織された。党派を問わず、現実の国労ストに参加できるというよるこびで、学生達は行動隊に志願した。
 この行動隊の内実は、YとK以外は実は雑多な学生達であったが、社会党、労働組合の指導部は「これが社青同か!」と感嘆した。国労八王子支部は労組活動の常識に従って多額の動員費を支給した。むろんその大部分は、社青同がビンハネして活動資金になった。学生達はストに参加できてそのうえ金までもらえるなどとは思っても見なかったのである。
 このたたかいは同時に、われわれの活動家獲得に貴重な成果をもたらした。I、A、Sらは、東学大の学生である。ことにIやAは、心情的にも行動的にも最極左であって、ブントのシンパであったのだが、彼らが他の学生とちがっていたのは、生活の歴史や思考方法がきわめて労働者的で、さらに彼ら自身「死ぬまで革命運動をたたかう」決意がかたまっていたことである。
 彼らの周囲にさらに数名があつまり、われわれは社青同東学大班準備会をつくった。ここに結集した活動家は、なんのためらいもなく「労働運動のなかで働く」ことを受け入れた。Yしかいなかった「トロツキスト派」が、一挙に五名〜一〇名の集団にふくれ上った。三多摩社青同の第一次活動家群が形成されたのである。だがYとKは、新たに結集した彼らを、ICPに獲得しようとはしなかった。太田を中心にまだ集まりつづけていたICP (少数派)は、学民協、反戦行動委員会、そして分裂へとうちつづく破産のなかで、加入活動の開けはじめた魅力的な沃野に足を踏み入れたYやKを引きつける指導性を、すこしも発揮できなくなっていた。彼らはすでにICP=太田の指導力に疑いをいだきはじめた。新しい活動家を太田に会わせるのはやめよらと申し合わせた。
 安保につづいて、三池闘争にとりくんだ社青同学生グループは、そこにもうひとつの歴史的裏切りを目撃した。七月、三池三川鉱のホッパ−前は、数千の労働者軍団によって蟻の這い出るスキマもない程固く防衛されていた。労働者は全て部隊化され、一発の花火の合図でどんな遠い社宅からも五分でかけつけ整列を終える体制ができていた。全ての労働者がヘルメットと大い棍捧で武装していた。どの労働者もほとんどしゃべらず、目だけがギョロギョロした真っ黒な顔をしていたが、不思議と陽気で明るかった。どの顔も勝利を確信していた。この頃幾千となく“三池オルグ団”が組織され、現地へ行ったが、例外なく“オルグされて”帰って来た。
 KとIが三池に行き、帰京して“三池守る会”をつくった。Kや1は現地で、決意している労働者に出会った。格別に変った様子もない、ふつうの労働者が現地では例外なく語った。
 「決戦では二桁の死者がでるでしょう。そうしてわしらが勝ちます。」
 またわれわれに向ってこう言った。
 「機動隊が来たらあなた方はさがって下さい。あぶないですから。たたかいはわしらがやります。あなた方は東京へ帰ってたたかいを広げて下さい。」
 この団結は不動である、とわれわれは確信した。三池は必ず勝つ、と。
 だが三池は敗北した。裏切りによって。
 われわれは千代田公会堂で開かれた中労委斡旋受諾を決める炭労大会に出かけた。三池組合員が、他の全炭労の仲間に斡旋拒否を呼びかけるのを見た。宮川組合長が徹底抗戦を泣いて訴えるのも目撃した。だが結局、闘争はねじふせられた。三池組合員は組織を守って敗北した。
 六・四スト、六・二二ストにつづくこの三池の経験はわれわれが深く労働運動に参加していかなければならないという決意をいっそう固めさせた。三池闘争の真実は、今日隠蔽されている。その革命的真相は労働者大衆の目から隠されている。民同は三池の質が、その荒々しさをもって再び登場することを恐れてかくしつづけている。三池闘争に学ぶという課題は、今日も生きているとわれわれは考える。
 六○年秋、岸の退陣と池田新内閥発足のもとで総選挙がおこなわれた。社青同東学大グループは社会党山花選挙の行動隊を引きうけた。ニヶ月にわたって事務所に泊り込み、最終段階では四名の逮捕者を出した社青同の行動は、社会党の幹部活動家をおおいに感激させた。選挙は組織の実用性を試すというのが、社会党の変らぬ基準である。この基準に三多摩社青同の新しい活動家群は合格したのである。逮捕者の口がかたく、官憲の追及が社会党にのびることを阻んだ点は、ことに高く評価された。
 Y、K、1らの「トロツキスト派」は、三多摩社青同の担い手としての公民権を獲得し、労働組合や社会党の青年活動家のもとへ自由に出入りし、オルグする白紙委任状を交付された。YとKは社会党三多摩支部協の書記になり、Iは三多摩労協の書記になった。三多摩社青同が「受胎」した。

 E シエーラ・マエストラ

 六一年二月、YとKはICPを「脱党」した。直接の理由はごく単純であった。太田を信用できない、信用すべきでない、ということであった。
 「太田は理論的には正しい。だが実践的にはメチャクチャだ」
 この一言でわれわれは「党」を捨てた。それというのも、実はわれわれの方が「党」をつくるだろうという確信があったからである。
 太田はあせっていた。われわれの活動が前進している証拠は確実にあった。だがそうなればなるほど、われわれは太田に近づかなくなった。ICPの会議は細々とつづいていた。だが、そこには生気がなかった。太田は破局を恐れ、機関紙(「労働者の声」)をわれわれが出勤する国労の事務所にまで送りつけてくるようになった。事務所の幹部がそれをわざわざわれわれに見せてくれるのである。これでは加入活動どころではない。
 「われわれ三名は、今日をもってICPを脱党する。われわれは今後いかなる連絡も絶つ。太田との個人的関係も絶つ。文書等の送付も一切やめるよう要求する」
 そして、YとK、およびF(この三名が三多摩のICPメンバーの全てであった)が署名した文書を郵送した。理由は説明されていなかった。説明しても納得しないことはあきらかだったからだ。
 突然のこの離縁状に太田はガクゼンとした。そして怒り、ひがんだ。彼の返事は、「貸してある本を返せ」というものだった。党にとどまれとの説得は何もなかった。それでわれわれの方もさっばりと忘れた。

 六〇年安保闘争の敗北、三池闘争の敗北、池田新内関の登場、「所得倍増」のかけ声。情勢は新しい局面にうつった。大衆の高揚は引き潮に転換した。総選挙の後、共産党、社会党は組織活動に重点をうつした。社会党では江田派が主導権をとり、構造改革論が台頭した。闘争は大組合では沈静し、中小企業争議に重点がうつった。政治的気分は、ことに青年のあいだに安保の余韻をのこしていたとはいえ、すでに高度成長政策にたいする改良主義的順応がはじまっていた。労働者は賃上げ闘争の魅力にとりつかれはじめた。三池は見殺しにされた。
 こうした新しい情勢のなかで、われわれはICPをはなれた。全国的視野、党的展望をわれわれは失った。だが、われわれは党建設を放棄したのではなかった。われわれはそれを「根拠地の理論」に集約したのである。
 「党の建設はそれを生み出す基本的なカードル=指導者群の政治的同質性を運動においてつくり出すことからはじめられる。政治的同質性はイデオロギー的なものであるばかりではない。それは運動の中での組織的経験を共有することによって保証される人間的結合をも必要とする。歴史的事例を求めれば、中国共産党の延安根拠地、キューバ革命のシェーラ・マエストラ等をあげることができる。帝国主義と改良主義労働運動の全面的支配の中で、極少数の革命派は、最初から全戦線にわたる挑戦を試みるわけにはいかず、自らの総力を敵の支配の弱い環に集中し、その拠点の中で自らの思想を体現する運動をつくり出し、党の原型−−指導部と大衆の結合を実現すべきである。このような努力を通じて平時に確保されてきたえられていく運動拠点は将来の全国的革命党建設の根拠地として自己を準備し、情勢の急激な展開のもとでは全国へ自己を解放し、党建設のイニシァチブをとるであろう。三多摩地区は、社民=民同の相対的な弱さと運動の可能性の双方の条件においてかかる意味での根拠地たりうる展望が大である。我々は革命的カードルの総力を“三多摩根拠地建設”へ集中させなければならない。」(『旧稿』)
 運動の全国性において改良主義が支配的であろうとも、「根拠地」においてはその水準をこえた運動をつくりだすことができる。われわれは三多摩でそれを試みるだろう。
 これが当時、ICPをはなれたわれわれの党建設論であった。そのあとは、経験によって学ぶしかない。
 三多摩をシェーラ・マエストラに!
 このひそかなスローガンかわれわれをとらえていた。ICPの本流はここに築かれるであろう。
 すでに黒田寛一をマルクス大学の講師に片付けたことのあるYにとって、太田をやがて日本社会主義共和国の人民委員会議長にむかえるまで“亡命”させておくことはむずかしいことではなかった。学民協運動でいやというほど太田とっさ合ったKにとってもこの構想に異論はなかった。
 こうしてわれわれはいったんICPを葬り去った。
 自立がはじまった。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる