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第五節 安保・三池闘争・組織改革・構改論の抬頭

 勤評・警職法・安保国民会議
 五九年三月、共産党をオブザーバーにして安保反対国民会議が結成され、第一次統一行動がもたれた。勤評闘争から警職法闘争を闘った大衆闘争は、まだ安保にはその力をあらわさず、第一次統一行動はささやかな集会で、ひとり全学連が突出しようとしていた。
 社会党は五一年の安保締結の時と同じく、再び内部に分裂を孕んでいた。疑獄から復帰した西尾は安保改訂への社会党の反対闘争に対して陰に陽に妨害し、これに対して、青年部を突破口として西尾除名の声が拡大した。五九年一〇月、西尾は旧社民系の自派と河上派の一部をかかえて分裂し、民社党を結成することとなった。西尾分裂は社会党にパニックをもたらしたが、大分裂に到らず、多数はとどまった。しかし、安保闘争に対する右からの攻撃として西尾たちはきわめて有効な打撃を社会党・総評にあたえたのである。
 左からは急進主義的戦術突破主義をもって全学連が社会党・総評をゆさぶった。社会党は右往左往し、総評と共産党が手を組んで全学連を抑圧した。この構図は七〇年の反戦青年委員会をめぐってもういちどくりかえされることとなる。
 東京地評(当時、残り少ない革同が一定の力をもっていた)と結んで全学連は戦術左翼をもって一一・二七から一・二六、六・一五へとつき進んだ。一一・二七国会デモに対して社会党は右へブレた。つづいて一・二六羽田デモは国民会議は動員をとりやめた。こうしてブントのイニシアチブは礎立し、安保闘争は小ブル急進主義の戦術突破のためのカンパニアと、もはや戦闘性から身を遠ざけた国民会議の“お焼香デモ”に分裂し、しかし大衆は澎湃として怒りをたかめて闘争にたちあがったが、政治的有効打にはならず、“民主主義を守れ”に集約された。

 三池闘争―協会派の限界
 安保闘争がたかまりをみせているとき、九州・大牟田でも三池労組の反合理化闘争が決戦をむかえようとしていた。ブルジョアジー・自民党にとって「安保と三池」の結合は恐るべきものであった。安保の小ブル的カンパニア闘争が、組織労働者の武装ピケットの闘争にまで進んだ三池の闘争と結合し合体したら大変なことになるであろうとかれらはふるえあがったのである。しかし現実はこのふたつの大闘争は同じ時期に展開されながら、ほとんど結びつかずに別個に進んで一緒にうたれてしまった、そういう典型のような闘争であった。結論的にはふたつの闘争を結びつける階級的指導部が不在だったのでそる。
 三井三池労組は向坂が手塩にかけて育てた組合であり、職場闘争と学習活動の徹底さとおいては日本のどの組合も三池に及ばぬほどであった。「資本論」に取組む炭鉱労働者が千の単位でいたのである。三池はブルジョアジーの炭鉱合理化を遂行しようとする行手にはだかる大きな巨人であった。
 この三池に対する首切り合理化への労働者の反撃は二組切り崩しもともないつつ、ホッパー決戦にまでつきすすむのである。しかし安保との分断をはかるため、石田博英労相があっせんにのりだし、ホッパー決戦は回避された。決戦の回避は敗北への途となった。
 三池闘争は社会主義協会派の長所も短所もさらけ出した。そしてなによりも協会派の反合闘争論が非政治的な権力の問題をぬきにした労働組合主義にほかならぬことを暴露したのである。

 構改三派の形成と「社会主義のたましい」
 浅沼が暗殺され安保は自民党が強行採決して成立し、岸は倒されたが池田がかわって動揺した自民党支配体制のたてなおしにのりだした。安保闘争の小ブル性やカンパニア的性格から、闘いが終るとみるみる大衆のエネルギーは引いてしまった。
 三池の敗北ののち、江田はこの闘争を否定的に総括して、構改理論をとり入れた石炭政策転換闘争の方針にむかっていく。大黒柱・三池の敗北後の炭労はみるみるうちに資本攻勢の前に後退し、組織そのものの存亡が危うくなるに到った。この時点での政転闘争はまさに改良主義そのもので、何ら国家とブルジョアジーに迫る闘いではなかった。
 安保と三池は日本共産党の「前衛の神話」を崩したといわれているが、この闘争がテストしたのはひとり共産党だけでなく、社会党も闘争の中心指導部であるがゆえの決定的テストを受けたのである。まさに安保と三池は社会党が政治路線で無能であり、組織力で無能であることをあきらかにしたのである。
 テストに対して社会党から二つの回答が提出された。ひとつは向坂翁が雲の上の仙人が舞いおりてきてお告げをいうように、「社会主義者のたましい」論を再び三度びおごそかに語ったのである。向坂イズム信者は感泣し、ふるいたち、忠誠を新たにした。
 もうひとつは、協会派の最大限綱領と最小限綱領の穴を埋めてくれそうな構改路線にとびつくことであった。向坂仙人のお告げにうんざりし、シラけた左派の一部が江田を筆頭にして構改派を形成する。そしてこの左派から分裂した江田派に和田派、河上派が同調して構改三派がつくられ、安保後の党内主導権をつくりあげるのである。

 組織改革―政治新聞、青年同盟
 江田は組織局長であった五九年に機構改革案をまとめた。この案は議員と労働官僚のよせ集めという本質的な実態からぬけ出すことのできなかった社会党を“近代的”組織政党へ転換させる意図をもっていた。
 国会議員が自動的に大会代議員になることはやめる、県連組織(地域組織の連合を意味していた)から県本部―総支部―支部の機構へ転換させる、非議員中執を設ける、オルグ制度を設置する、党学校をつくる、機関紙を有料にする、という内容が骨格であった。
 構改派のイニシアチブで機関紙活動に力が注がれるとともに、安保、三池に発現された大衆の力を組織し、共産党の民青や婦人組織に対抗するために社会主義青年同盟の結成と日本婦人会議の結成が決定された。この五九年から六〇年にかけての社会党の組織改革は社会党の歴史のうえでは大きなエポックをなしている。
 社会党は議員の集団であり、議会の党であり、大衆への工作は総評という組織を利用しておこなう、というのが伝来の社会党組織論であった。これを直接に大衆を党や青年同盟に組織するという方針に転換したのである。これは画期的なことであった。社会党はこの方針をこころみたわけであるが、「百万人の党建設」というメインスローガンをはじめほとんどは失敗してしまう。
 ただひとつ、社青同だけは他の組織改革の失敗とはことなって民青の左へ進出して戦闘的青年運動の歴史を経験することに成功するのである。(社青同については本書の織田論文を参照)

 動揺常なく―ジグザグを描して衰退へ
 ケネディが六一年一月に大統領に就任し、情勢は新しい段階を迎えた。社会党では構改路線がヘゲモニーをとって組織改革をすすめるが、この大衆を組織する活動は共産党と公明党という二大競争相手を向うにまわさねばならなかった。結局、社・共・公の大衆組織レースは共・公が勝ち、社会党は何馬身もひきはなされて敗北することとなる。
 江田は構造改革論をいっそう改良主義的に“改革”して江田ビジョンをつくりあげ、日本社会党を新型の社民へと脱皮させようとした。このこころみには労働組合の右派攻勢とが重なりあって、江田路線はいっそう右に傾いていった。
 六二年一月の二一回大会は左派がまず反撃した。大会は江田ビジョンを否決した。江田は書記長を代って江田と同じ構改派の成田が書記長となった。このときから、六五年の佐々木更三の委員長就任に到る期間、社会党は右派と左派の分派闘争がつづいた。
 六四年一月の成田論文は「議員党体質、労組依存、日常活動不足」の“三悪”をあげてこれが根深く残っていることを指摘した。
 高度成長のなかで春闘方式で賃上げをかちとる組織労働者は、ことさらに社会党に入る必要はなかった。そしてむしろ高度成長のヒズミのところで抑圧されている大衆を、共産党と公明党が現世利益をスローガンにして改良主義の路線で組織していき、選挙における票も急速に伸ばしていったのである。社会党の危機は足もとにしのびよっていたのである。

第六節 歴史的衰退のはじまり

 原水禁分裂・中ソ論争
 安保国民会議は事実上解体して社共共闘の場は失なわれた。唯一、原水禁大会が最後の共闘組織として残ったがこれも六三年八月に分裂し、共産党は社会党をケネディ・ライシャワー路線の手先として攻撃し社会党は共産党を中国の核実験に反対しないとして攻撃した。中ソ対立が日本の社共両党に波及した。共産党は中ソ論争の公然化した六三年から宮本訪中団が毛沢東と決裂した六六年までは中国派であった。これに対して社会党は左派の一部を除いてソ連派が主流であった。
 向坂派は中ソ論争の当初においてはあいまいであったが、ソ連派にかたまり、いまでは日本でもっとも忠実なソ連ボナパルチスト官僚のスポークスマンの任を受けもっている。すでに向坂は五六年のハンガリー革命において、ソ連の軍事介入を支持したし、この立場は六八年のチェコ八月革命においても貴かれ、ソ連軍介入を向坂は支持したのである。共産党がソ連ボナパルチスト官僚のエージェントとさらに日本ブルジョアジーのエージェントに業務を拡大したのに対抗して、社会主義協会は日本ブルジョアジーのエージジェントからソ連ボナパルチスト官僚のエージェントへと業務を拡大してきており、この両者は同じ商品を扱っているライバル会社のようなもので、それだけに相手に対する敵意だけは溢れんばかりにいっぱいなのである。
 共産党が自主独立路線にたてこもって中ソともに正式の関係を断絶したことから、中ソ対立が社共対立から、社会党の内部にそれぞれソ連と中国の分派がつくられて社会党に反映するようになった。ソ連派は構改派と協会派で、中国派は左派のうちの非協会派社研グループと安打同(安保体制打破同志会)グループによってつくられた。
 当初、中国派(毛派)は植民地革命の戦闘性と急進性を代表して、社会党が反戦と並んで六〇年代末の戦闘的大衆の圧力を受けたもうひとつの政治傾向であった。青年急進化の流れは党内にあっては解放派と構改系から左傾化した流れと中国派の三つがあった。反戦が“逆流”以降党を離れていったのに対して中国派は反戦“後”の党内最左派に位置していたのである。
 しかし、アジア革命の高揚を間接的に歪曲して反映していた社会党毛沢東派は中国ボナパルチスト官僚そのものが米中平和共存の路線に軌道を定めるや、急速に政治分解していったのである。毛派はニクソン訪中以降はほとんど左のイニシアチブを失い、国際的に毛派の分解と混乱が演じられたが、日本でも同じで社会党内でも毛派の力は低下した。そして中国官僚と結び、その利害を表現するところに堕落し、佐々木更三は田中訪中の露払いの役割を果して、日中平和共存のブルジョアヘゲモニーの確立に奉仕するようになるのである。
 最近とみに、毛派の衰退に乗じて、ソ連官僚の忠実な番犬ぶりを発揮しているのが協会派である。かれらは、自分たちがいかに共産党よりもクレムリンに忠誠であるかをかれらの雑誌で宣伝している。このひとつをとってみても協会派が反急進主義であり、植民地革命に否定的態度をもちスターリニズムの右翼路線を貫徹させているかが立証されるのである。

 日韓条約―日本帝国主義の離陸
 一九六五年の日韓条約の締結は日本帝国主義がアジアに向って本格的に離陸することを知らせるものであった。そして同時に日本の帝国主義化は従来の政治構造が破産していくはじまりでもあったのである。“日本型”の社会民主主義の存立基盤が解体されはじめたのである。
 議席の上でも社会党は日韓条約を境として長期低滯に突入していく。日韓条約に表現される日本の帝国主義化は社会党に歴史的な転機をもたらしたのである。
 “日本型”社民が“日本型”としての特殊性=戦闘性、左翼性を保持しえたのが日本の政治的経済構造であることは先に触れたが、日本帝国主義がもっとも至近の南部朝鮮を植民地経済をもって支配することに全面的に突入したことにより、日本は唯一の原爆被災国であるとか、平和憲法をもつ国であるとかという第二次大戦での敗北がもたらした事項をもって無害の平和国家であるという神話は崩れ去って、帝国主義の論理にたちむかわなければならなくなったのである。
 帝国主義は歴史的なものであるから日本ブルジョアジーは戦後の国民平和主義を経過しても、帝国主義的本能は決して失ってはいないが、戦後の社会党は平和主義の所産であって、第二次大戦で敗北した日本帝国主義のその敗北をひきつぐ存在であったがために、日本帝国主義が復活拡大し、帝国主義的本能をあらわにしたとき、とうていこれに対抗する能力はもちあわせていない。
 一九六五年を画期として社会党には政治的安定性はなくなって、ジグザグを描く時代に入るのである。目まぐるしい指導部の交替、しかも決して安定不可能な指導部の選出、その日暮しの政治方針、ブルジョアジーと手を結ぶ分派もあり、それでいて戦闘的革命的闘争の圧力を他のどの既成政党よりも敏感にうける体質も残っており、分派の離合集散はめまぐるしい。そういう時代に社会党は突入したのである。

 北爆―アジアの革命と反革命
 六五年二月、アメリカ帝国主義の北ベトナム爆撃はベトナム侵略をエスカレートさせたが、この北爆はアメリカの戦略的敗北につながる第一歩となった。そしてベトナム革命へのアメリカの全面的な反革命軍事介入が局地限定戦争の枠を破り、全世界的に帝国主義と労働者、人民大衆との対決の戦線を構築したのである。
 五月の社会党二五回大会は左派の佐々木吏三が委員長となり、右派=江田派は敗北した。二六回大会で再び右派がもりかえすが二八回大会では左派が勝利する。安保後、IMFJC派や総評内右派をバックに構改論で右派攻勢のヘゲモニーを掌握していた江田派は北爆を端初として開始するアジアの革命と反革命の激突の局面において、右翼的路線が破産して構改論は力を失っていく。
 北爆がもたらした激動の情勢は日本の一国主義的国民平和主義の政治情勢に一撃を与え、さらに日本帝国主義のアジア侵略への策動が公然化することと結びついて、歴史的な転換点をもたらした。ベトナム戦争のエスカレートは社会党を左へむけた。江田にかわって左派の佐々木が委員長に勝利して、佐々木はこれまでの江田による反共産党路線を修正して高山談話で共産党との共闘の道を開いた。
 構改派の反共産党セクト路線はいっぽうでIMFJC派への社会党の屈服を意味していたが、構改派の退潮ははっきりと社会党と労働戦線内の流れを変えたのである。共産党との共闘に社会党が窓を開けたことはあきらかに左への圧力を受けたからであり、アジア革命の圧力がこの党に反映したことを意味していた。右派のヘゲモニー下で進められた労働戦線統一運動は壁にぶつかった。
 日韓・原潜・ベトナム反戦の闘いを通じて鎮静化していた大衆闘争は上昇を開始し、とくに青年の急進化が急速にすすんだ。社会党はこの高揚する大衆闘争の波に乗ろうとしたのである。

 急進的闘争の高揚と党の衰退
 さてわれわれはここで社会党が急進的大衆闘争の圧力を受けて左へと押しやられながらも、本質的には決して大衆の圧力が社会党を党として強化はしていないことをみておかねばならない。
 六五年七月の参院選で社会党は若干の伸びを示し、同じとき行なわれた都議選では自民党の汚職という敵失もあって第一党に進出したが、六七年一月の衆院選挙はふるわず議席は後退した。しかし四月の地方選では美濃部が勝利する。六八年の安保、沖縄を争点とする参院選では後退をつづけ、六九年十二月の衆院選は一挙に五〇議席を失って大敗北を喫するのである。
 七二年の年末衆院選では五〇の失った議席の半分をとりもどすが、(一一八議席)この選挙では共産党の進出が著るしく、共産党は三八名になり、社会党の“回復”はむしろ共産党の進出の陰にかくれてしまった。
 この六五年からはじまる社会党のブルジョア議会内における力の衰退はジグザグを描きつつも確実に進行している。国民平和主義のフレームで形成されたブルジョア議会制支配は日本帝国主義の内在的矛盾の激化と、アジア革命の力の上昇の局面に入るや衰退と解体の過程に入りこんだが、この衰退のまずはじめの影響は社会党に集中してあらわれたのである。共産、公明両党の伸びはブルジョア議会制支配の安定性や生命力がいまだに持続していることを証明したのではなくて、この両党の伸びは自民党や社会党では及ぼせない政治的影響力を共産、公明が集約したのであり、とくに共産党は社会党に代替する機能を果しているにすぎない。すなわち共産、公明両党はプロレタリアートと小ブルジョアジーの自民、社会ではすくいきれない部分をブルジョア議会制に組織し動員する任務を果しているのである。この任務は衰退するブルジョア議会制支配を左から解体するのではなくて、逆にこれをささえ防衛することを意味する。
 社会党はブルジョア議会内で共産、公明の狭撃をうけつつその力を弱化し、さらにこれらの全体の党が依存している議会制政治そのものが衰弱しているのである。
 したがって、六七年から開始された急進的大衆闘争が高揚したさなかでも、あるいは大衆が左傾化したからこそ、社会党は大衆の左への趨勢を全面的に受けとめることはできなくなっており、かつての社会党総評ブロックが大衆の戦闘的改良のエネルギーを吸収した機能がもはや失なわれており、情勢のなかで絶えざるジグザグをくりかえすのである。

 “革新自治体”による改良の路線
 六七年四月の地方選挙で美濃部が東京都知事に当選したことは政治情勢が転機を迎えたことを示した。ブルジョア議会制の危機のはじまりがまず社会党に表現されたが、美濃部の勝利は自民党の危機のはじまりをはっきりとしるしたのである。
 労働者、人民は都市に集積した資本主義の矛盾の激化に直面してまず手近かの地方自治体に戦闘的改良主義のエネルギーをあらわした。
 地方政治は自民党権力にとっては弱い環であり、とくに都市の小ブルジョアジーを組織できていないかれらにとって、大都市の大衆は自民党政治の統制のもっとも弱い部分であったがために、高度成長の矛盾が表面化し、それが大衆の生活をおびやかすことがはっきりしてくると、都市においては自民党政治が解体を早めていったのである。
 社会党の江田派をはじめとする構改派はベトナムの一撃でかれらの路線が破産するや、新しい改良主義の脱出口をこの革新自治体に求めようとした。その後、構改路線による革新自治体の「戦略的位置づけ」は社会党の主調となるが、これはまた共産党が構改路線と同じ立場から革新自治体を民主連合政府のヒナ型として位置づけたため、革新自治体は人民戦線路線のテストケースとして社・共両党からもてはやされ革新自治体の拡大が革命そのものであるかの概を呈した。
 しかし、革新自治体は労働者、人民が要求する問題の解決に無力であるばかりか日本資本主義経済が危機に突入するや逆に労働者、人民の既得権を奪いとり、労働者、人民の闘争を鎮静化して、ブルジョア議会制秩序を大衆の闘いから防衛する役割を受け持つようになるのである。

 反戦青年委員会と社会党
 急進的大衆闘争と社会党との関係をひとつの典型としてしめしたのが反戦青年委員会をめぐってであった。
 一九六七年から六八年にかけて拡大した学園闘争に対して、共産党は“トロツキストの暴力主義”として全面的に否定し、これを警察権力の弾圧の対象として認め、ブルジョア支配に反抗して立ち上がった学生への警察権力による鎮圧を積極的に擁護したのである。
 これに対して社会党は六八年一月の第三〇回大会において学生の闘争を認め、学生運動を“同盟軍”として位置づけたのである。
 六八年はベトナムにおける二月のテト攻勢、五月のフランス革命、チェコスロバキアにおける八月革命と世界の政治情勢が激動し、革命と反革命の力関係が逆転して平和共存体制が歴史的に解体にむかい、全世界的に青年の急進化がひろがって、反帝国主義の闘争は急進的青年によってラジカルにすすめられた。日本での青年の急進化は反戦青年委員会と全国全共闘の運動によって表現された。
 八月には反戦青年委員会が正式に結成され社会党はこの反戦を通じて急進的青年運動のエネルギーを党に吸収しようと試みるのである。
 六九年五月の社会党青年問題委員会の報告は次のように青年の急進化に対する方針を確認した。
 「党の総力をあげて反戦青年委を青年労働者のすべてのエネルギーをくみつくしうるものとして全国的に強化する。さきに党大会で決定した全国反戦委の強化再開、各県反戦委の拡大、さらにその基礎としての職場反戦の建設は、まさに青年、学生戦線が内包している弱点を労働者的たたかいによって克服しようとするものであり、七〇年闘争勝利のため緊急の課題となっている。」
 共産党と社会党が示した全国反戦と全国全共闘に対する対応のちがいが先に引用したトロツキーの分析にぴったりであることをわれわれはすぐ気付くであろう。
 改良主義が解体されて生まれた社会党の中間主義的ジグザグは、大衆とブルジョア権力との衝突の狭間にあって、絶えることなく動揺し、大衆が革命への突破口を探して行うジグザグを“反映”し“表現”しているのである。共産党は強固な官僚的装置をもち、かれらの強固にうち堅められた政治路線をこの官僚体制を通じて大衆に押しつけ、かれらの路線からはみでようとする大衆を抑圧するのである。
 学生の闘争と全国反戦に対して示された社会党の寛容さは、改良主義が大衆の急進化で左から解体されていくプロセスにおいて社民が何らの防衛手段を持ち合わせていないことの表現であり、これはブルジョア議会制政治がそうであることを社会党が代表して示したともいえよう。
 青年の急進化を容認しながら、六八年七月の参院選で社会党は後退する。青年の急進化はこの改良の党、議会主義の党を何ら強めるのではなくて、逆に左からつきあげつつ、解体を促進する作用として働いたのである。
 社会党が急進的青年運動を容認したことに対して、総評は労働官僚の立場から、共産党はかれらの政治路線から非難をはじめる。
 総評の民同官僚は学生の急進化がやがては全国反戦というルートを通じて青年労働者の多数が急進化の流れに合流する危険性を感じとった。青年労働者の急進化はまさに総評民同の基本構造を急速に崩壊させる恐るべき力をひめていると察知した民同は、官僚支配を防衛するために“反戦育成”から“反戦弾圧”に転換する。
 全国反戦による青年労働者の政治闘争への参加が目立ちはじめるや、総評は六九年八月の大会で社会党の学生や反戦に対する“甘さ”を批判して、全国反戦からの新左翼の排除を決定する。共産党は総評の方針を支持し社会党を難詰した。六九年末の衆院選での社会党の敗北はこの総評、共産党の傾向に助勢してついに社会党は右へ舵をきる。流れは一転して反戦切り捨ての逆流となるのである。
 七〇年四月、成田はまず反戦にも“よい反戦”と“悪い反戦”があると言及し、“悪い反戦”を排除し共闘に入れないことを指示した。かくて七〇年後半から“反戦パージ”が進み、七〇年党大会は機動隊の動員をたのんで反戦派を排除した。青年労働者の急進化に対して労働官僚、社民、スターリニストの共働による抑圧が加えられ反戦に参加した青年は孤立、分断させられて多くは職場から追放された。反戦パージによって民同の支配はからくも守られた。ブルジョア権力の暴力装置による街頭での徹底した弾圧と反戦派がパージによって労働者階級の本隊から切断されたことによって孤立を余儀なくされた急進的青年運動は急速に分解をはじめ、この運動を基盤にしていた「新左翼」諸党派は解体と堕落の過程に入り込むのである。
 社会党の中から発生した中間主義の解放派や主体と変革派は“逆流”前の社会党の“左傾化”に大いなる幻想を抱き、社会党を革命党に変化させるつもりでいたが、“逆流”によってかれらは排斥されるか、自ら社民への幻想を打ち消して、右傾化した社会党と別れなければならなくなった。
 成田が認めた“よい反戦”とは協会派系であり、これは反戦のなかでは無能・無力・日和見のもっとも質の悪い反戦で、たんに協会派が青年の急進化のなかで必死に自己防衛するためのカモフラージュにすぎなかった。不肖な息子ほど親は可愛いいのであろうか。
 反戦への“逆流”のイニシアチブをとったのは協会派であった。本質的に反急進主義である協会派は社会党を共産党と同じ組織体質に作りあげ、官僚的統制と支配を大衆に及ぼそうとする意図をもちつづけており、かれらの反急進主義と官僚主義が結びついて、協会派は反戦パージのイニシアチブをとったのである。陰険な反戦パージのテルミドールは社会党中央本部や東京都本部の急進派を党から追放することとなり、社青同を協会派の私物とする手がかりをつかんだのである。
 協会派は党内の急進分子を追放して、クーデター的に社青同を手に入れて、社会党内へ本格的な分派として進出しはじめるが、協会派の手に落ちた社青同はもはや青年の凝刺としたエネルギーを代表する機関ではなくなってしまった。
 唯一青年の力が綱領も理論も組織も金もない社会党を左へ向かわせる衝撃力であったが、この最後の綱が断ち切られたのである。


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