つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


第三章 社会党はどこへ行くのか

 戦闘性、左翼性を生みだした基盤の崩壊

 “社会党の左翼バネ”として、清水慎三は戦前からの社民左派、労農派マルクス主義、民同グループ、青年部の四つのファクターをあげ、この四つの要素が情勢の転回のなかで社会党が右へブレるのを押しもどし、左へと反撥させる力であると分析している。この分析はまず大前提に社会党の左翼バネのインパクトが党を構成する主体に内在していることをアプリオリに認めている。まずこれが誤っている。
 戦前派の社民左派(鈴木茂三郎や佐々木更三に代表される)は本質的に社民であって戦闘性、左翼性はただ大衆の圧力に対して柔軟であるときに表現されるのである。
 労農派マルクス主義の日和見主義的本質はあきらかであり、本書槙論文によってこのグループの社民的本質が暴露されている。いまや、労農派グループの唯一の組織的結集体となった協会派は社会党がもっている大衆の圧力に対する“脆弱さ”をスターリニスト的官僚の専制によって除去しようとその先頭に立っている。協会派の社会党内におけるヘゲモニーの確立は、社会党を化石のようにしてこの党に残された唯一の“美徳”である「大衆の圧力に柔軟である」特質を奪い去ってしまうであろう。向坂派はもうひとつの合法共産党をつくろうとしているのである。
 民同グループが社会党の左翼バネでないことはいまでは三才の童児でもよく理解されるところである。左派社会党の成長期に果した民同の左翼バネ機能は春闘方式の破産とともに喪失しているのである。民同は今では右へのバネとなっている。
 青年部はどうか。社青同結成によって青年部はなくなったので、青年の力による社会党への左翼バネの機能は社青同に移行したものとしてとりあげなければならないが歴史的な事実として、協会派がヘゲモニーを社青同において掌握する以前は社会党青年部、社青同は絶えず社会党の最左派の行動隊として右派を糾弾し、戦闘的大衆闘争のエネルギーはまず青年部や社青同に反映し、ここをパイプとして社会党に押し流され、文字通り左翼バネとして機能してきた。しかし社民からするとこの青年のエネルギーを伝える組織は党に活力を与えはするが、いつ“暴発”して党に打撃を与えるかも知れない社民にとって危険な存在でもあった。反戦パージによって作られた協会派社青同は“暴発”する危険はないので党は安心していられる。しかしこの社青同は青年の活力をもたず、青年の力を党へ伝える能力ももたず、へ理屈ばかりこねてひねこびており、小ボス、小官僚が組織を牛耳っているのが実態である。いまや協会派社青同は社会党の左翼バネではなくて社民路線の優等生となっている。
 清水のあげた左翼バネ要素はもはや歴史的に失なわれてしまっている。かれがあげた左翼バネは左派社会党を形成し、統一後に左派のヘゲモニーを形成する過程を通じるなかで機能してきたのである。しかもまごうかたなく左派社会党こそが国民平和主義そのものであったのであり、日本帝国主義の左の柱を背負ったのである。

 戦闘的改良主義の終り

 社会党を構成する主体に戦闘性と左翼性があったのではなく社会党が存立した基盤が戦闘的改良主義を許容したのである。それは先に述べたように、第一に高度成長であり、第二に一国的国民平和主義である。高度成長は労働者に絶えざる賃上欲求の力を拡大持続させ、春闘方式は改良の闘いではあるが大衆のエネルギーを動員して戦闘的に展開されてきた。アメリカ帝国主義の傘の下にあって温室としての国民平和主義の構造のなかで、社会党は反戦平和、反原爆の国民意識の政治的代表者たりえてきた。
 社会党を論評する人びとが多く指摘するこの党の戦闘性と左翼性とは、そのほんとうの中味は戦闘的改良主義であったと、われわれはまず訂正しなければならないだろう。そして次に、この戦闘的改良主義を成立可能ならしめてきた基本構造とはとりもなおさず戦後日本帝国主義を復活・強化してきた基本構造そのものであったことを指摘しなければならない。そしていまやこの基本構造は解体過程に決定的に突入したのである。解体過程をもたらした歴史的な力学は、
 日本資本主義の危機の深化
 第三次アジア革命のはじまり
この内と外のふたつの衝撃が、社会党を存立させてきた国民平和主義的政治構造を分解させ、この党を激動のなかに押しやったのである。
 日本資本主義経済が危機的過程に入り、高度成長が終りを告げ、高度成長期に蓄積された矛盾が社会の表面に噴出してくるようになると社会党、総評ブロックの春闘方式を軸とした改良主義が「国民春闘」として手直しされたとしてももはや根本的に情勢に対応できなくなったということは多言を要する問題ではないだろう。

 非武装中立の社民路線はアジア革命の前に破産

 現実には日米軍事同盟を結び、自衛隊を持ちながらこれらを観念の上で否定することによって国民平和主義がつづいた。この観念を“政策”にしたのが社会党の非武装中立である。非武装中立路線はアメリカ帝国主義がアジアに労働者国家と植民地革命を軍事的に包囲する戦略を選択して、日本の沖縄から北海道にいたる全島に軍事基地をつくりあげ、国内の階級闘争の鎮圧と、米軍への戦術支援を任務とする軍隊の創設を容認し、かつ育成した過程においては、これに反撥する日本の大衆の平和的意識を表現する立場として、現実の根拠をもっていた。
 しかし、現実に存在するものを観念のうえで否定するしかない社会党の非武装中立の路線は、是非善悪はどうあれ大衆が現実に存在する自衛隊を“認め”ていく過程がすすむことによって、この根拠は崩れていったのである。非武装方針による自衛隊の否定と米軍駐留の否定は当初のラジカルな立場から、改良の立場へ移行して、自衛隊の存在を前提して、その性格や機能に対して平和主義的、改良主義的圧力をかけるところへまで屈服し、つとめて自衛隊の問題を労働者・人民の前からはずそうと努めたのであり、これは国民平和主義の意識のカべによって思うようには自衛隊を強化できない自民党の思惑に合致して、軍事問題を禁忌とする政治環境が持続されてきた。
 帝国主義の武装解除、労働者、人民の武装、兵士を労農人民の側に獲得する、という労働者階級が帝国主義軍隊に対してとるべき原則に、社民は決して立つことはできないし、共産党も現在では基本的に社会党の立場に接近し、帝国主義の軍事力に対する労働者階級の意識を武装解除しているのである。
 日本帝国主義が離陸して、アジア革命との対決の局面に入ったときから、基本的に外交路線は、――
 日本帝国主義に対する革命的敗北主義か
 日本帝国主義への祖国防衛主義か
の二者択一をすべての左翼に迫っているが、社、共両党は日本帝国主義の敗北をのぞまずに、日本帝国主義の祖国を防衛する立場に立っているのである。金大中事件をはじめ韓国との関係でみられる社、共の振舞いは国権論であって、祖国防衛主義そのものである。かれらは、アジア革命から日本帝国主義が打倒されぬようまず防衛して、しかるのち、この帝国主義をよくしよう、という改良の運動をすすめるのである。
 日韓闘争を社、共、総評が闘いえなかったことは、この闘争があった六五年の時点では未だ顕現されていなかったが、すでに祖国防衛主義の社民的本質が潜在していたからであるといえよう。安保では“平和と民主主義”の意識を動員できたが、日韓では反帝国主義の意識を動員できなかったし、かれらが反帝国主義でもなかったのである。
 中立路線は日米軍事同盟=アジア革命への敵対という自民党路線に対する日和見主義的外交方針であり抜本的に帝国主義政策と対決することはできない立場である。自民党がアメリカ帝国主義の手を借りて維持してきた日米軍事同盟の路線はベトナム革命の前進によるアメリカの戦略的後退によって危機を迎えたが、中国ボナパルチスト官僚の外交路線に助けられて、自民党は日中共存体制をもってこの危機を回避した。
 かくて、日米軍事同盟と日中共存は見せかけの“中立”をしめしており、この外交路線が自民党、ブルジョアジーのヘゲモニーによって貫徹されたため、社会党をはじめ、すべての議会内反対党の中立方針は自民党の帝国主義外交と対決できなくなったばかりか、その補完物になり下ったのである。
 ベトナムを先頭とするアジア革命が左から日本外交の社会的立場を解体したので、社、共はより右へ移行した。いまや、中立方針は何の“反体制”的性格を爪の垢ほどももってはいない。
 社会党の「党是」が全面的に解体されたのである。

 派閥の再編・社共路線と社公民路線

 若手議員を集めて「新しい流れの会」が結成されたが、このグループは市民主義的性格をもち、構改派が没落した後では、このグループが大衆の意識の変化にもっとも敏感に反応している。来るべき次の大衆の急進化においては、非協会系左派グループとこの新しい流れの会のグループが急進的エネルギーの圧力に対応しようとするであろう。しかし、新しい流れの会は都市市民の民主主義的意識を平和的に表現しており、その基盤はプロレタリア的ではない。その性格はネオ右派ともいうべきもので、階級闘争の諸原則とは遠くはなれた存在である。自民党政治が強権化、反動化に向うとき、このグループは民主主義防衛をもって一定の戦闘性を発揮するかも知れない。しかし、このグループは戦略的な位置をもつことは決してないであろう。
 左派の分解はこれまで、
○片山政府のときの労農党グループと主流との分裂
○構改路線による江田派の分裂(これは以後も山本、楢崎、大柴らの分裂としてつづく)
○中ソ論争による中国派の分裂
の三つの大きな分解があったが、六五年以降の左派分解の中心は社研派(左派の主流)が協会派と非協会派に公然と分裂していく状況であろう。
 協会派はそれまで党内分派でなしに理論グループとして労農派マルクス主義の学者、旧日無系の議員、民同官僚指導層、党官僚などの横断的組織として、きわめてルーズなサロンのような性質をもって活動してきたのである。山川が死んで協会の指導権を向坂が握ると、向坂は協会派をもって党内の分派闘争に介入し、協会派を社会党の分派に転化していったのである。左派は党内分派として社研派をもっていたので社研という分派の論理と協会派という分派の論理が衝突するのは必然であった。
 向坂イズムは政治的には社民であり、組織的にはスターリニズムであり、協会派は社会党を共産党的組織体質をもって支配しようとするセクトである。いま、向坂派は社会党と社青同において“拡大”している。われわれはこれをどう受けとるべきか。
 結論的にいえば、協会派は社民の“寄生物”であって、決して自己を本体にまで転化することはできないであろう。もし、協会派が社会党で多数を占め、その恐怖政治を社会党においてふるうとするならば、これはもうひとつの右翼的共産党が生まれたことを意味しており、協会派支配下の社会党は共産党との血みどろの抗争に突入する。一国に二つのスターリニスト党は並びたつことは神(=スターリン)の許さぬ行為なのだから。
 むしろ、協会化された社会党は大衆の圧力によって、組織として分解されてしまうであろう。これは、国民平和主義の“連合戦線党”的性格をもっていた社会党を自らの手で壊すこととなり、向坂は「恩師・山川」の教義を自ら裏切ることとなる。
 協会派はこれから激しく左に右にジグザグを絶え間なくえがくであろう社会党・総評ブロックの寄生物となって、ジグザグしないためには向坂大先生の「科学的社会主義」を信じなさい、ということを布教する宗派集団でありつづけよう。かれらが多数をとると、それは自殺行為となるにちがいない。
 いま、社会党は政治路線として社共共闘か社公民路線かで混乱している。七五年統一地方選を契機として大きな政治的再編がこの党を襲うであろう。激しい分解過程についていまあらかじめ占うことはあまり意味のあることではない。

 階級的力関係を反映する党としての社会党

 いま社会党の前に提起されている政治路線は、人民戦線、中道左派路線、中道右派路線である。どれをこの党はえらぶのか。それはこの党が主体的にはえらべないことである。ひとつだけはっきりしていることがある。まだこの党の前に提起されている路線は、いずれも日本帝国主義を左からささえる路線であって、まだ「革命への脱出口」となるべき路線は提起されていないことである。にもかかわらず、来るべき大衆の圧力はこの党をして激しく左右への動揺のなかへ押しやるであろう。この党はブルジョアジーの力、プロレタリアートの力のぶつかり合う階級闘争の力学を歪少化してはいるが反映させる党として存在しつづけよう。それがまた、この党の最後に残された“美点”である。

 プロレタリア統一戦線へ

 革命への脱出口をつくるのは、われわれしかいないのである。社民やスターリニストがあれこれ経験的行為をくりかえして、革命への脱出口をさぐりあてることはできないし、かれらはむしろそうするよりブルジョアジーに投降するであろう。スターリニストは自らがブルジョアジーに投降するのをいんぺいするために社民にあらん限りの悪罵を投げつけ、自己の正当性を守ろうとする。「社会ファシズム論」や「社民主要打撃論」がそれである。これは階級闘争と革命運動に致命的打撃を与える誤ったやり方であることは歴史が幾度も教えてくれたところである。
 社民に対する統一戦線は、革命への脱出口を求めてジグザグを示す労働者階級の闘争を革命の勝利への扉へ向かわせる革命的左派の任務であり、社会党批判の実践とは、プロレタリアートの統一戦線を構築する闘争と同義であることを、いまわれわれは部落解放闘争をめぐるきびしい情勢の中で銘記すべきであろう。
      (一九七五年二月二〇日)


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる