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第二章 日本社会党の歴史

第三節 再建.左右分裂・総評とのブロック形成

 選挙で一挙に転落
 芦田政府が疑獄で倒れると第二次吉田政府が組織され、この政府がブルジョア支配体制の再建を担う吉田長期政権の出発となるのである。
 社会党は疑獄で西尾を逮捕され解体の危機を迎えた。左派の一部は労農党を結成して分裂し、山川も新党結成の動きをはじめた。しかし結局、山川ら協会派は社会党左派に自己の組織路線を定着させる道を選ぶのである。
 四九年一月の選挙で社会党は一四三名から一挙に四八名に転落した。共産党は三五議席を得て逆にこの党は一挙に拡大した。共産党は五回大会(四六・二)、六回大会(四七・一二)、一四中委(四九・二)といずれも占領下における民主主義革命を平和革命としてすすめる方針を確認し、ことに一四中委は三五名の当選者をだした直後だけに議会主義と平和革命論がはっきりと貫徹された。この共産党の路線に対して翌五〇年の年頭にコミンフォルム批判がなされ、共産党は分裂と地下活動と火炎ビン闘争の時期に突入するが、四九年はまさに共産党の議会主義と平和主義の最盛期であった。
 社会党は四月に再建大会を開くが、この大会は「森戸=稲村論争」が展開され社会党に歴史的転機を印す大会となった。右派の森戸と左派の稲村を代表にしたこの論争は、党がマルクス主義を受け入れるか排斥するか、国民政党か階級政党かをめぐる観念的論議であった。この論争は左右の対立をあらわした論争であったが、社会党左派の理論上のヘゲモニーを労農派が掌握したことにわれわれは注目すべきであろう。さらにこの大会には民同が五〇名近い代議員を送りこんで左派と結びつき、右派と対決したことも注目すべきことであった。
 すなわち、四九年の再建大会は労農派の主流が社会党左派として流れこみ、さらに総評民同(当時は産別民同)が共産党=産別ブロックに対抗して、自己の政治的表現を社会党左派に求めてこれと結合し、かくて、社会党左派と労農派マルクス主義と民同とがブロックとして形成される端初となった大会であった。
 森戸=稲村論争は社会党における右派の圧倒的ヘゲモニーが解体し、左派が上昇して左右対立が本格化することを告げ知らせる大会でもあった。労農派マルクス主義の理論によって左派と民同がブロックをつくり、衰退する右派に攻勢をかけたが、四九年十二月の中執会議は左派のイニシアチブで平和三原則(全面講和、中立、基地反対)が決定した。この三原則はその後再軍備反対が加えられて平和四原則となるがこの“原則”こそ“日本型”戦後社民の全政治内容を集約したものといえよう。社会党は日本帝国主義が離陸する一九六〇年代中葉の時期まで、この原則にのっとって、一国的国民平和主義の政治構造そのものとなるのである。さらにこの原則は講和条約をめぐる左右対立から分裂への“引き金”ともなった。

 アジア革命の前進と“戦後革命”の敗北
 片山政府が成立した四七年五月に先立って出されたアメリカ大統領年頭教書はトルーマンドクトリンと呼ばれて、大戦後の帝国主義と労働者国家の対立構造をつくりだした“冷戦”の開始を告げた。四八年六月にはマーシャルプランが発表され、西ヨーロッパはアメリカのドルによって資本主義的再建に着手する。
 アメリカの対日占領政策の転換はアメリカがまず西ヨーロッパにテコ入れしてのち、少しの時差をもってアジア革命の波の高まりに対応して急ピッチでなされた。四九年にはドッジ、シャウプの勧告が出されて、日本資本主義を経済と財政の大合理化によって再建する方途が確定され、政治的・軍事的にも“極東の工場”に対応して沖縄を中心に“不沈母艦”たらしめるべき軍事基地化がめざされた。
 四八年九月には朝鮮人民共和国が成立し、つづいて四九年九月には中国革命の勝利が実現した。アジア全域で反帝武装闘争が展開され、アジアは革命的激動の時代をむかえていた。アメリカはアジア政策の手なおしをせまられた。日本を要塞化し、これを北端として南へと下る対労働者国家とアジア革命への軍事包囲網をアメリカは形成するのである。
 昂揚するアジア革命とアメリカ帝国主義の対決は一九五〇年に朝鮮において激突し、朝鮮戦争が勃発した。
 GHQは朝鮮戦争の遂行体制を日本において築くべく、次々と手を打ってきた。共産党の中央委員を追放し、「赤旗」を停刊させ、産別に代って総評をかれらの肝いりで結成した。労働組合にはレッドパージが相次ぎ、四五年以来の労働者階級の攻勢もアメリカ帝国主義の占領政策の転換によって抑圧され、ここにおいて“戦後民主主義革命”は一敗地にまみれた。
 共産党はブルジョア議会内でこそ多数派を社会党に譲ったが、産別を通じての労働者階級の闘争においては、社会党のとうてい及ばぬ力を保持していたが、二・一ストの禁止からようやく公然化した党と産別フラクとの対立から、共産党はいっそう組合のひきまわしに走り、右からのきり崩しの基盤を提供した。GHQは下山、松川、三鷹事件というフレームアップをつくりあげて産別の主力に打撃をくわえ、さらに産別内からも民同が発生し、共産党=産別ブロックは急速にヘゲモニーを喪失していったのである。五〇年初頭のコミンフオルム批判は共産党を分裂に追い込み、五〇年を転機に共産党は以後一五年近い期間、大衆闘争と議会での多数派を完全に社会党にゆずるのである。

 ニワトリからアヒルへ
 一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発するや七月に総評が結成され、「国連軍支持、北朝鮮侵略非難」の立場を表明する。しかしこのあからさまなアメリカ帝国主義寄りの政治的立場は社会党左派の立場とも対立するものであった。すでに社会党は五〇年一月に左右の分裂を経験しているが、四月の六回大会では統一してもとにもどっている。しかし、この分裂は来るべき五一年の分裂の前触れに他ならなかった。
 五一年の七回大会は左派のヘゲモニーのもとで平和四原則の路線が確立された大会であるが、この大会の政治的影響は結成後、一年にもみたぬところで開催された三月の総評大会に波及して、総評は社会党の平和四原則を確認するのである。これは“ニワトリからアヒルへ”の変身であった。平和四原則の確認をめぐって民同は左右に分裂し、民同の右翼は反共愛国主義に純化して、右翼社氏と結びのち同盟・民社へと移るのである。早くも総評は社民右派の路線から社民左派のヘゲモニーが確立して、民同左派が多数派を形成したのである。この“ニワトリからアヒルへ”の転換ののち、総評は五一年の社会党左右分裂において左派社会党と結び社会党=総評ブロックを形成するのである。

 左右分裂・社会党=総評ブロックの形成
 労働者国家と植民地革命を包囲する反共軍事体制をつくりあげるため、アメリカは日本を占領統治から日米軍事同盟による包囲網への組み込みの方針を決定した。日米両国は講和条約の方針を帝国主義国も労働者国家も含めた全面講和とせずに、帝国主義国家とその支持国のみを相手とする単独講和として締結することを決定し、ダレスと吉田は早期締結を準備しはじめた。
 社会党右派はアメリカの単独講和の方針を知るや平利四原則を攻撃し、この破棄を求め単独講和支持を表明しだした。
 サンフランシスコ講和条約と日米安保条約に対する国会批准を控えて開催された社会党の第八回臨時大会は両条約反対の左派と、講和条約賛成の右派とが激突し、ついに大会は分裂した。両派は別の大会をもって左派社会党と右派社会党としてそれぞれ分裂を組織的に固定してイニシアチブを争う段階に入った。分裂のとき衆院議員は右派三二、左派一六名、参院は右派三二、左派三〇名で右派が議席において上回っていた。左右両派への分裂は労働組合に及び、右派は総同盟と左派は総評と結びつくこととなった。
 両派は五五年の統一に到る四年間、分裂しているがこの間の選挙によって左派は右派を圧倒して統一のヘゲモニーは左派が握るようになるのである。このように左派社会党を押しあげたのは総評の力であった。
 五二年一〇月の衆院選挙ではまず右派五七、左派五四となって両派は接近し、五三年の衆院選挙で右派六六、左派七二名となって完全に逆転した。この力関係で五五年に両派が統一するのである。
 すでに民同は社会党の四回大会(四八年)から明確に社会党左派と結びつき、左右に分裂すると文字通り総評は全組織をあげて左派社会党をバックアップしたのである。右派とつながる総同盟に対して総評は産別なきあとの労働組合運動の主流を担っていたがゆえに左右の力の差ははっきりとしていた。
 政治路線上も左派社会党は有利な位置に立っていた。朝鮮戦争が泥沼に入り込むのを対岸の火事のように見て、戦争はもうまっぴらという日本の大衆の平和主義と戦争反対の消極的気分は平和四原則とぴったりと適合していた。左派社会党は当時の大衆の意識を忠実に反映していた。単独講和に加担した右派に対して左派は政治的にも道義的にも大衆との関係で優位に立っていた。
 さらに左派社会党を有利にしたのは日本共産党の「武装闘争」路線であった。共産党は五〇年初頭のコミンフォルム批判によって大分裂をおこし、朝鮮戦争の勃発とともに中央委員が追放され、地下に潜入した指導部のもとで五一年二月の四全協は「武装闘争」方針を決定し、議会主義と平和革命路線から手のひらを返すような転換をなしたのである。八月にコミンフォルムは四全協方針を支持し、一〇月に五全協は「新綱領」を採択して日本共産党は火炎ビン闘争に表現される大衆から孤立した闘争に入り込むのである。すなわち左派社会党は左からの共産党の“脅威”をうける心配はなく、労働者大衆の戦闘性を平和、中立、改良の枠内において全面的に発揮させることが可能となる条件を与えられた。
 “日本型”あるいは“日本的”社民の戦闘性と左翼性は、まず第一に労働者階級の多数派を組織し、それを自己の政治的影響力のもとにおくことに成功し、第二に左からの批判を受ける心配がほとんどないことによって、その社民的本質をいんぺいすることが可能だったからである。
 しかしより根本的には左派社会党のもとでの大衆闘争が帝国主義体制、資本主義体制の枠内にとじこめられ、戦闘的ではあるが改良主義の限界の内にあったことを指摘しなければならない。この体制の枠とはすなわち日本の一国的枠を意味しており、アジア革命と切断されたところに日本の階級闘争が孤立させられたという限界のことである。

 平和共存体制への移行
 五〇年に勃発した朝鮮戦争ははじめは北朝鮮軍の圧勝で南朝鮮軍と「国連」軍は南端にまで包囲されたが、かれらは反撃に転じて三八度線を北上して逆に北朝鮮を軍事的敗北直前の危機にまでおいつめたが、中国義勇軍が参戦して戦局は転換し、再び労働者国家の軍隊は帝国主義軍隊をおしもどし、戦線は三八度戦で膠着した。この膠着はアメリカ帝国主義が東アジアにおいて革命を決定的に潰滅し、反革命をもたらすことに失敗し、労働者国家の方はアメリカ帝国主義を完全に撃退するまでには勝利しなかったが、革命の基本的成果を防衛するところまでは果すことができた、この状況で両者が対峙していることの表現であった。
 五三年に朝鮮戦争は休戦協定が結ばれ、戦闘は停止した。朝鮮休戦はアジアにおける帝国主義と労働者国家の平和共存への移行の準備をなした。中国は周恩来・ネール会談によって平和共存の原則をうちだし中国革命は帝国主義を追いつめることより、国内的体制整備の路線を選択することとなる。
 アジアにおける平和共存の開始は日本における資本主義の再建、高度成長のための政治的条件をつくり出すこととなった。日本のブルジョアジーは戦略的にはアメリカの反共軍事包囲網に日本を提供し、労働者国家との軍事上の対峙をアメリカ帝国主義にまかせ、自分たちは経済主義的に日本を再建する任務をひきうけたのである。

 左派社会党における綱領論争
 社会党を綱領のうえから分析しても、この党の政治的本質に正しく迫ることができない理由は先に触れたが、向坂派の諸君が「金科玉条」として随喜の涙を流して喜びおしいただいている「左社綱領」についてはいささか立ち寄らねばならないであろう。
 左派社会党は右派と袂を分ってから法三章の結党時の「綱領」ではない、新しい綱領を労農派理論のもとで策定することにした。起草の任には向坂や稲村があたったといわれている。かれらの起草した綱領はプロレタリア独裁を認めている、日本革命は社会主義革命である、平和革命方式による、という特徴をもっていた。一九五四年の時期におけるこの綱領の政治的性格は日本共産党の「新綱領」に対比して評価されるべきであろう。共産党の「新綱領」はアメリカ帝国主義を主敵とし日本を植民地と規定し、革命の性格と任務を民族独立民主革命とし、暴力革命をその手段のうちに容認していた。これに対して左社綱領はアメリカ帝国主義との闘争を回避もしくは軽視し、日本を独立国として規定し、革命を平板な社会主義革命のなかにとらえたものであり、平和革命は労農派マルクス主義の社民的本質を端的にしめしたものであった。もちろん共産党綱領が正しいとはいえない。むしろ誤っている。しかし、その批判者として登場した左社綱領が正しいとはなおさらいえない。より誤っているといえよう。今日からみてみると、左社綱領はその最大限綱領的性格、平和主義・改良主義的性格からして、スターリニスト党の社民化を先どりしているといってよい面をもっている。たしかに、戦前のその発生のときから、スターリニズムの右翼的分派として自己を形成し、その後は社民化を深めてきたのが労農派であり協会派なのであるから、スターリニズム社民化の「国際的先駆者」の栄誉をわれわれはかれらに与えるのにやぶさかであってはならないだろう。その点ではわが協会派はまこと“日本的”社民の優秀なる伝統を今日に伝えているセクトというべきである。
 この左社綱領の策定において党内論争が生じた。主流の向坂ら協会派の原案に対して、協会派からぬけた清水慎三らが「民族独立社会主義革命」の戦略規定を盛りこんだ対案を提起したのである。結局、向坂らの案が部分修正を受けて採択されたが、清水等は共産党により近い立場から協会派の理論を批判する内容をもっていた。すなわち清水案は協会派と共産党の折衷であった。この左社綱領論争も、戦前の「講座派」「労農派」論争も、戦後の日本共産党の綱領論争もすべて日本のマルクス主義は総体としてスターリニズムの段階革命論と一国革命論の枠内での論争を超えることはできなかった。日本共産党は民族独立民主革命から社会主義革命へという二段階革命論であるのに対して、労農派は社会主義革命を「一段階」としてとらえ、永久革命としてはとらえないので、必然的に一国性をもち、双方の対立は世界革命から切断された日本の革命の段階をめぐる訓話解釈におちこんでいったのである。

第四節 一国的国民平和主義における戦闘的改良主義の展開

 左右統一・六全協・保守合同――一九五五年
 アジアと世界における平和共存の傾向が増大し、日本資本主義が戦後再建から高度成長への入口にさしかかったことにより、政治支配体制の転機をなしたのが一九五五年である。
 一九五五年七月に共産党は六全協を開いて極左軍事方針を清算する。六全協は党内における宮本顕治のヘゲモニー確立の出発点をなし、今日の日和見主義路線がスタートしたときでもある。共産党は日本帝国主義にたてつく異端分子ではなくて、この体制の反対派として政治上の市民権を得ようとする党に転化していくのである。まだ五五年の時点では社会党はこの共産党の転換のもつ政治的意味を自覚できなかったが、左派社民の存立の基盤を侵食しこれを危機におとしこむ共産党の社民化の出発点は六全協であった。
 経済的に自信を回復したブルジョアジーは政治の次元で複数のブルジョア政党が争っている状態にいや気がさし、さらに五三年の選挙での左社の躍進に危機感を抱いて、ブルジョア政党の一元化を要求した。保守合同がそれであり、五五年十一月に単一ブルジョア政党・自由民主党が成立するのである。保守合同の気運に押されて左右社会党は統一を決定し、十月には統一大会を開催した。こうして、自民党、社会党が二大支柱となって形成する国民平和主義の政治構造がつくられる。
 これに対応するように総評も高野事務局長体制から太田―岩井ラインに転換して、産別統一闘争の結合による賃上闘争―春闘方式を労働組合運動の基調とする構造となるのである。
 高度成長期に入った日本資本主義にとって春闘方式は適応するものであったがゆえに、日本の階級闘争の主流はこの春闘方式のなかに集約されていったのである。すなわちこの高度成長に見合う範囲内での賃上げを獲得する春闘方式は、この枠内では労働者のエネルギーを目いっぱい解放してもブルジョア政治支配にとって決して危険ではなく、ここに“日本型”社民の戦闘的改良主義の成立する基盤があったのである。
 すなわち“日本型”社民の戦闘性と左翼性は社会党の主体の内的戦闘性や左翼性に由来するのではなくて、日米軍事同盟の枠内における日本の大衆の反戦的・平和的意識や、日本資本主義経済の高度成長に対する改良的要求への大衆の戦闘力の発現として、このエネルギーが社会党総評ブロックに反映されたのである。この反映こそが社会党の「左翼バネ」であって、党の内的主体の本質は厳然たる社民的体質とイデオロギーに支配されていたのである。

 軍事基地反対闘争
 国民的平和主義の構造はその内部に安保をめぐる賛成と反対という境界線が引かれていた。この亀裂は本質的にはアジアにおける革命と反革命の対立の日本における反映ではあったが、国民的平和主義を瓦解させるほどには強力な反撥力をもっていなかった。
 しかし、農民の生活破壊を直接にもたらす米軍事基地の拡張に対しては、反安保、平和擁護の国民的意識と農民の生活防衛の意識とが結合して、国民平和主義の時代にあってほとんど唯一の尖鋭な政治闘争となった。この軍事基地反対闘争の頂点は東京・砂川における闘争であるが、この五六年から五七年に到る闘いには、社会党議員たちはピケット要員の一員として参加し、基地内に突入し、逮捕され、裁判にかけられるところまで戦闘的闘争を展開した。安保闘争前の大衆闘争ではまさにこの軍事基地反対闘争は社会党の戦闘的改良主義の政治におけるもっとも典型的闘争といえる。
 ちなみに、砂川闘争は共産党内に分裂のきっかけをつくり、全学連左傾化の端初となるのである。
 砂川闘争に示された社会党の“戦闘性”はこの闘争の頂点で終りをつげ、右傾と官僚化、議員党の体質を濃くしていく。

 革同の切捨て、民同の右傾化
 階級協調の国民平和主義がスンナリと成立したわけではない。政治闘争においては軍事基地をめぐる対立があったが、労働者の闘争においては共産党・産別なきあとの左派を代表した革同へのブルジョアジーの攻撃が集中するとともに総評内の戦闘的組合をたたく策動がつづけられた。
 国鉄新潟闘争、王子製紙闘争、日教組勤評闘争などはこの攻撃のあらわれである。左派社会党を押しあげてきた民同派の三羽ガラスといわれた岩井(国鉄)宝樹(全逓)平垣(日教組)の連合もこの時期には次第に政治的分解の過程に入り、民同労働運動は全体的に官僚化を深め、右傾しはじめるのである。
 総評内の戦闘的労働組合への攻撃は高度成長の内実を構成していた重化学工業化、技術革新、油主炭従へのエネルギー構造の転換などが労働者へ犠牲を強要する攻撃としてなされた。この高度成長期の前半期に実行された総体としての合理化に対して、総評民同はほとんど階級的反撃を組織しえず、抵抗する組合はすべて孤立のなかで敗北させられていった。
 政治的には国民的平和主義の枠を一歩もこえられず労働運動においては合理化と取り組めず賃上げ闘争しか闘えなかった社会党.総評ブロックの脆弱さは、六〇年安保闘争の水準を規定するとともに、その後の右派攻撃への無防備状況の前提となってくるのである。


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