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第二章 日本社会党の歴史

第一節 前史―社会民主主義の歴史的継承

 明治からの社会民主主義の流れ
 日本の社会主義運動は大きくふたつの源流をもっていた。ひとつはキリスト教社会主義の潮流であり、この流れが明治期の社会主義運動の多数派を形成し、この流れのなかから、労使協調、資本主義発達を支持する右翼社会民主主義の流れが生まれた。また片山潜のようにキリスト教社会主義のなかから左へと分化してマルクス主義に到達し、第二インターナショナルから第三インターナショナルにつながる流れも生まれたのである。
 もうひとつの源流は自由民権運動というブルジョア急進民主主義の運動からの潮流である。幸徳秋水を代表としてこの最左派の民主主義者たちはマルクス主義に結びついて、キリスト教社会主義の流れの左の部分と合流して、明治期の社会主義運動が展開されたのである。
 日本社会党のひとつの大きな要素である社会民主主義右派の流れは明治期において幸徳や片山らに対立していた社会主義運動、労働運動の右派の流れを起源としている。これはのちに日本共産党に対抗して合法無産政党を結成して離合集散をくりかえしつつも、一九四〇年に最後的に弾圧されるまで、労働運動、農民運動における改良的翼を表現するのである。

 戦前の社民三派が社会党をつくる
 戦後に結成された社会党であるが、その政治的伝統は戦前の合法無産政党=社民三派がになってきたのである。
 一九二〇年代後半から三〇年代にかけて社民系の無産政党はさまざまな分裂と合同のくりかえしを経てきたが、基本的には社会民主主義は三つの政治的潮流に分化した。それは右派、中間派、左派である。そしてこの分派的流れが、ほぼそのまま戦後の社会党の分派を構成するのである。
 右派=社会民衆党(社民派)この党は伝統的に右翼社民の立場で、指導者には安部磯雄、松岡駒吉、片山哲、西尾末広らがいて、大衆組織は日本労働総同盟、日本農民総同盟をもっていた。このグループは、戦争中は産業報国会、大政翼賛会に参加して、帝国主義の走狗となり、そして戦後の社会党結成のヘゲモニーがこのグループによってとられるのである。さらに六〇年安保からはこのグループが民社党をつくることとなる。
 中間派=日本労農党(日労派)河上丈太郎、河野密、浅沼稲次郎らが指導者で、日本労働組合同盟、全日本農民組合をもっていた。このグループは社民派とともに社会党の右派を形成し、西尾たちが民社党を右へ分裂させたとき、日労派は西尾についていった部分と社会党に残った部分とに分裂した。西尾の去ったのちの社会党の右派はこの日労派グループが占めることとなる。
 左派=日本無産党(日無派)鈴木茂三郎、加藤勘十、黒田寿男、高野実らがこのグループをつくり、社民左派を形成していた。このグループは社会党の左派をなしてくるが、片山政府のときには日無派の一部が労農党を結成して分裂し、その後も民同と革同への分裂、構改派の分裂など、左派内の再編がつづいてきている。
 以上の社民三派が戦後の社会党の政治的骨格を構成するのである。

 共産党の結成
 戦後の日本社会党が先にあげた社民三派の政治的寄り合い世帯として結成されたことはその通りであるが、しかし、これだけでは正しい社会党の前史とはいえない。すなわち、戦後の社会党にはもうひとつの重要な政治潮流が流れ込むのである。それは、日本共産党の合法主義的右翼反対派ともいうべき山川イズムであり、山川イズムを起源とする労農派マルクス主義派 社会主義協会派と連らなる日本マルクス主義運動の右派がひとつの歴史的な流れを形成し、この潮流は戦前においては合法無産政党の社民三派の最左翼に、そして日本共産党の右に位置していたが、戦後の社会党の結党に参加して、社会党の左派の支柱を形成するのである。
 労農派、協会派は人脈的には先にあげた社民三派のうちの左派=日無系と重なり合っているが、思想的な起源や政治的起源は日本共産党を結成した山川均らのなかに求められ、西欧社民とはことなった“日本的な”歴史的成立の事情をもっている。
 一九二二年に日本共産党が結成された。結成されたときは数十名の小グループにすぎず、その政治的力は小さかったが、日本共産党の成立は歴史的には画期的な事件であった。共産党は第三インターナショナル日本支部として結成されたのであり、はじめて、日本の階級闘争と世界の階級闘争を結ぶ前衛党の建設の第一歩がしるされたのである。すでに、日本の社会主義運動は第二インターナショナルの運動に参加してきているが世界党の支部として共産党が結成されたことは、第二インターナショナルとの関係とはまったくことなった飛躍を意味していた。
 レーニンとトロツキーは第二インターナショナルとその各国の社会民主党が第一次帝国主義戦争において帝国主義にひざまづき祖国防衛主義に転落してしまったことに対して第二インターナショナルの内部で激しい分派闘争をすすめたが、一九一七年のロシア革命の勝利を突破口として、帝国主義打倒・世界革命を闘うためには、第二インターナショナルと社会民主党では絶対に闘いえないし、勝利しえないと断定し第三インターナショナルの結成と各国社会民主党の最左派を結集して共産党をつくる方針を実践したのである。
 東アジアにおいては中国、朝鮮、日本の三国に共産党を結成することが方針としてたてられ、オルグ工作がすすめられた。
 そのときの日本の社会主義運動の状況は、右翼社民に対して左派がひとつの潮流に結集していたがその内部には幸徳の直接行動主義と片山・田添らの議会主義との対立を孕んでおり、さらに支配体制を完成させた明治天皇制国家権力の弾圧がすさまじい勢いで運動をおさえこんでいた。それでもなお、明治社会主義運動の成長は天皇制権力の恐怖するところとなり、一九一〇年に大逆事件の大弾圧がくわえられ、社会主義運動は一挙に崩壊させられてしまった。
 堺利彦、山川均、荒畑寒村らは「冬の時代」といわれる一九一〇年代を窮乏のなかで送るが、第一次帝国主義戦争にみられる帝国主義体制の世界的危機は日本でも同じく、明治天皇制体制の衰弱が進み、一九一八年の米騒動は「冬の時代」として凍てついていた厚い氷をぶち被って、大衆闘争の爆発的昂揚の突破口をひらいた。米騒動にきびすを接して、労働者のストライキ、農民の小作争議が頻発し政治的にはブルジョア民主主義運動である大正デモクラシー運動をはじめ、アナキストの抬頭、急進的民主主義運動の抬頭がつづいたのである。
 コミンターンの工作と国内の大衆闘争の高揚という条件のなかで、日本共産党が結成されるが、「冬の時代」を生きのびた堺や山川らは共産党結成に消極的であり、むしろ反対していた。山川が反対した理由はその後の山川の政治的立場が明らかにすることとなるが、かれら指導的人物の反対も、国際的、国内的階級闘争の圧力の前には抗し難くついに一九二二年に共産党の結党が実現するのである。そして共産党の結党によって、日本の社会主義運動はそれ以前とことなった党派的編成の時期をむかえるのである。

 労農派の形成
 コミンターン第三回大会は「大衆の中へ!」をメインスローガンとして、一九一七年からつづくプロレタリア階級の攻勢が、帝国主義戦争後に訪れた資本主義体制の一時的安定の前に、一直線には革命の勝利にまで到達することは困難であり、まず、革命的前衛が大衆の中に入って、労働者大衆の多数を獲得して次にくるであろう革命的危機にそなえなければならない、という戦略的展望からみちびかれた方針を提起した。レーニンの「共産主義における『左翼小児病』批判」も同じ趣旨から執筆されている。
 山川均は共産党結党とともに、コミンターンの「大衆の中へ」という方針を我田引水風に利用して共産党を解党して、少数の社会主義者は大衆組織の中へ入っていくべきであることを主張する。共産党結成は一九二二年七月であるが、八月の「前衛」誌上に山川は「無産階級運動の方向転換」でかれの真意を発表するのである。
 山川イズム――労農派マルクス主義、社会主義協会派――と呼称される独自の政治的内容はまさにこの共産党を否定し、前衛を大衆組織の中へ解消する山川の「方向転換」のなかに示されているのである。レーニンやトロツキーの「大衆の中へ」という方針は解党主義とはもとより無縁であり、革命的前衛政党の防衛は、どのような客観的に不利な条件のもとであれ、無条件的に追求されるべき第一の任務であったのである。これに対して、山川の方針は天皇制権力の苛酷な弾圧に対して敗北主義の立場であり、合法的右翼社会民主主義との無原則的野合であり、なによりも「何をなすべきか」に集約されているボルシェヴィズムの組織論と敵対する立場に他ならなかったのである。
 山川の方針に沿って日本共産党は一九二四年に解党を決議する。この解党決議によってそれ以後、山川らは二度と再び共産党の“再建”には参加することなく、結局、組織上は合法社民の左派へと自己を次第に変化させていくのであるc 山川イズムは党建設論では「連合戦線」党の立場として特徴づけられるが、この連合戦線党は山川の意図に反して、その後の階級闘争のなかでついに実現することはなかった。山川は自らの理論に忠実たらんとして、無産政党組織の離合集散には“超越”した態度をとろうとしたが、それがますます組織論上の山川の日和見主義をあきらかにしただけであって、戦後の山川は調停的立場にまで転落していく。山川イズムの党派的実践的不能性に対して、山川が死んでのち、社会主義協会派のヘゲモニーを手中に納めた向坂逸郎が、協会派を宗派的セクトに固めて、このセクト主義で社会党のヘゲモニーをにぎろうとするのである。向坂イズムは山川イズムの現実への実践的不能性への自己否定、反措定の面とにもっている。
 山川の「方向転換」論は共産党を否定してのちなお自らはマルクス・レーニン主義、コミンターンの正統的継承者であるという奇妙かつ法外な政治主張をもった潮流の出発点となるのである。共産主義運動の党は世界党とその各国支部としてのみ成立しうるという、マルクスの第一インターナショナル以来の歴史的公理を真向うから否定して、山川イズムは純粋一国王義の枠内で合法共産党を作ろうとするものであった。これはもともと誤りであり実践上も絶対に成功することはできない日和見主義的組織方針であった。
 山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建される。これはそのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである。
 「方向転挨」に示された山川の組織論の立場は「労農派」の政治的起源をなした。一九三〇年代に入ってスターリニズムに支配されたコミンターンが日本共産党にいくつかの「テーゼ」をしめすが、このテーゼをめぐって論争が展開され、共産党の「講座派」と共産党に否定的な「労農派」とが大きく対立し、明治維新の評価から日本資本主義分析、日本革命の規定にいたる全面的政治対立がつくられるが、労農派マルクス主義はこの論争を通じて自己の理論を体系化していく。(この論争については本書・槙論文参照)
 第二次大戦への日本帝国主義の危機のなかで共産党も社民各派も徹底的な弾圧をうけ運動としては潰滅し、社民の一部が公然とファシズム化したり、大政翼賛会に参加していき、社会主義運動としては日本帝国主義の敗北まで中断を余儀なくされてしまう。

第二節 結党・人民戦線・片山政府

 天皇万才・国体護持でスタート
 第二次帝国主義戦争において日本帝国主義が敗北しアメリカ軍が占領統治を行うなかで、一九四五年十一月に日本社会党は結成された。結成のヘゲモニーは右翼社民が握り、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らが指導権をとっていた。労農派を含む左派は少数派として結党に参加した。
 結党大会では、賀川豊彦が国体の護持を訴え、浅沼稲次郎が閉会で“天皇陛下万才”三唱の音頭をとった。結党時の社会党はそういう党であり、そういう状況を反映する党であった。共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と規定したことは、その後の左翼運動で物笑いのタネになったが、社会党は権力の規定とも縁のない存在なのであったから、誤ることもなかったわけである。社会党は共産党を笑えないのである。しかし、共産党が徳田以下、GHQの前で「解放軍万才!」を叫び、社会党の方が結党大会の閉会で「天皇陛下万才!」を叫んだという歴史のエピソードはいまでこそ笑いながら語れるが、当時の労働者、人民にとっては生死をかけた闘争にかかわることであったのである。こういう指導部のもとでは日本の労働者、人民は救われないのも当然であろう。
 結党のとき社会党は「政治上は民主主義、経済上は社会主義、外交上は平和主義」という法三章にもならぬ御都合主義の語呂合せを「綱領」にして、敗戦後の革命的激動のなかに船出するのであるが、結党のいきさつをみると「綱領が党をつくる」という党建設論の対極にたったきわめてブルジョア的結集であったことをわれわれは忘れてはなるまい。

 人民戦線の気運
 大衆の前に歴史上はじめて公然と姿をあらわした日本共産党は、まず、社会党に人民戦線の結成を申し入れるとともに、当面の任務はGHQが遂行する日本帝国主義の非軍事化と民主主義改革をおしすすめることであるとした。 そして、このGHQと共同してすすめる“氏主主義革命”の政治的内容での共産党としての独自性は「天皇制打倒」であった。戦後初の第四国大会において志賀義雄は作られるべき人民戦線は「反天皇制の人民戦線」でなければならないと社会党に対する最後通告的内容を表明した。右派のヘゲモニー下にある社会党は共産党の人民戦線結成の中し入れを拒否する。この右翼社民の反共主義と、さらに共産党の「社会ファシズム論」とが相乗して、人民戦線の最初のこころみはまず挫折した、
 いっぽう一九四六年に入るや労働者階級の攻勢はいちだんと高まり、日本帝国主義はもはや労働者に対しても何の抵抗も不可能なほど解体的危機にあった。GHQがこの解体を最後の一線で防衛していた。
 四六年一月朝日新聞が社説で「人民戦線の結成を急げ」と主張するほど情勢は危機的であった。隠とんから復帰した山川均の人民戦線結成の提唱も朝日社説の直後、四六年一月のことで、かくて人民戦線への気運が急速に高揚した。この状況のなかに野坂参三が中国から帰国したので野坂の歓迎大会は実際上は人民戦線結成へのステップとみられた。
 しかし社会党は西尾をはじめブルジョアジーとの連立を画策した。かれらは何とかブルジョア内閣の一角に社会党大臣を実現しようと、醜悪な裏工作をつづけていたので、人民戦線へのゆさぶりを阻止しようと、社会党中執は組織としても個人としても人民戦線への参加を禁止する決定をくだしたのである。
 山川の提唱した人民戦線はその実質は人民戦線の機能も内容ももたぬまま小規模な共闘組織のようにして発足したが、共産党が引き上げ、社会党は不参加なまま、労農派系の学者が個人的に参加するだけの惨胆たるもので破産した。
 アメリカ帝国主義の占領下で人民戦線を結成する方針は、危機に瀕した日本帝国主義の資本制支配の骨格をその最終的段階において防衛し、大衆が革命へ向おうとするのを、民主主義的改革の枠内にとじこめることを意味していた。労働者の闘争は生産管理闘争を中心として、すでに、企業内では資本主義体制そのものに手をつけはじめていた。しかし、企業の外では、社会党はブルジョアとの連立に血道をあげ、共産党は占領政策の枠内で、日本資本主義を人民戦線の方針で最終的崩壊から救ってやる立場に立っていた。この指導部からは革命への突破口をしめす方針は出てこなかった。労働者の経験的闘争がアメリカ帝国主義の意図した“ニューディールによる日本資本主義の再建”と衝突するようになると二・一ゼネストの禁止のようにマッカーサーは弾圧にのりだした。
 社会党、共産党のGHQとの共同による“民主主義革命”の甘い幻想はすぐに破産したが、社・共両党はそれに気付くまでにまだ時間がかかったのであり、そのために労働者階級は政治的武装もし得ぬまま、敗北を余儀なくされるのである。

 片山中道連立政府
 二・一ゼネストは禁止されたが労働者の力はまだ消耗されず、戦闘力を保持し四月の選挙では社会党を第一党におしあげた。右派指導部は組閣工作に入り、自由党、民主党、国民協同党のブルジョア三党を連立の対象とした。連立三条件は極左・極右に反対する、重要機密はもらさない、社会不安を招く行動に反対する、という内容でこれはブルジョア政党からの要求を社会党が呑んだのである。さらに自由党は連立したいなら社会党左派を切り捨てろと右派に迫ったが、左派の党員を入閣させないことで妥協が成立した。
 左派は連立を認め、鈴木茂三郎、加藤勘十の二人の左派指導部は共産党との絶縁を声明して、片山政府は中道連立政府として成立するのである。
 片山政府は労働者の攻勢をかわし、不満を鎮静させ、日本資本主義を拡大再生産過程にみちびくための政府としてGHQお気に入りの政府であった。片山政府は物価と賃金を凍結してインフレを抑止しようと貸金を一八〇〇円ベースに釘づけしたが、インフレは止らず、労働者の生活を破綻に直面させた。さらに国家財政を石炭、鉄鋼部門に重点的に投入する傾斜生産方式を採用し、資本主義のたてなおしをはかったのである。片山政府の唯一の“社会主義的”政策といわれた「炭鉱国家管理」はブルジョア政党からまったく骨抜きにされ、“社会主義”の痕跡も残さぬ代物になり果てたのである。
 結局、片山政府は二・一ストの挫折の代替として労働者の希望を担って登場したが連立の性格がまったくのブルジョア中道政策の枠内であり、労働者を裏切って、労働者を犠牲にして日本資本主義を再建の途につかせる任にあたったのである。
 しかし労働者は一八〇〇円ベース釘付けを打破する闘争に立ちあがり、片山政府の賃上分を公共料金値上げで補てんする予算案に左派が党内野党化を宣言して反対したため、片山政府は辞職に追い込まれた。
 片山のあとを継いだのは芦田であるが、この芦田政府も片山政府と同じブルジョア中道路線の政府で、芦田政府の任務は資本主義の再建のため、外資導入や賃金抑止をすすめるところにあった。GHQは労働攻勢の主力をなしていた官公労労働者のスト権を奪うことによって労働攻勢を抑圧しようと意図して、芦田政府に政令二〇一号の公布を命じたのである。これを担当したのは社会党左派で芦田内閣に参加した加藤勘十労相であった。GHQ内のキレン労働課長はニューディラーとして政令二〇一号に反対して抗議の辞職をしたが、加藤労相は一言の反対すら表明することなくこの政令を公布し、官公労のスト権は剥奪された。
 日本資本主義はようやく拡大再生産過程に入り政策転換したGHQの抑止力で労働攻勢を押えてもらった日本ブルジョアジーは敗戦処理から生産再建の過程で自信をとりもどし政治的には中道路線をお払い箱にしてブルジョア政権の“純化”をはかろうと中道政府を倒すことを決定した。そのために疑獄事件のワナが仕掛けられ、いとも簡単に芦田政府は崩壊し、社会党は致命的打撃をうけた。書記長・西尾が逮捕れた社会党はまさに存亡の危機に直面した。


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