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国際革命文庫  9

第四・五回世界大会テーゼ
国際革命文庫編集委員会訳

9

電子化:TAMO2

「スターリニズム」資料
――東ドイツの暴動――

東ドイツの暴動
――『フォース・インターナショナル』論説――

 東ドイツの大衆が独立した社会主義の勢力として世界の政治舞台に登場したことは、世界資本主義の外交高官や東ドイツのかいらい支配者やクレムリン当局をびっくり仰天させた。すべての情報機関で――ウルブリヒトの秘密警察は別として、帝国主義側もクレムリン側も――事態を予め感じとっていた者はひとりもなかった。この無知を象徴しているのは、建設労働者の第一次デモが全体として見落とされていたという事実である。このデモは公式の検閲のもとに行なわれ、政府当局が自己の目的に利用するためにデッち上げたものだとみなされていた。警察当局というものは、革命的大衆が登場するまでつねに難攻不落で全能の所有者であるかのように思われがちである。
 東ドイツ労働者の運動は、いろいろな町で発生した多くの短命な、分散したストライキから始まって、新段階に進み、六月一六、一七両日ベルリンで巨大なストライキとデモが起こり、その後全国的規模のゼネストや反乱が爆発した。このドイツ労働者の政治的反乱によって、労働者大衆と寄生的スターリニスト官僚のあいだに調和しえない対立が存在することが明らかになった。東ドイツの事件を生んだ諸関係や条件は東ドイツに限られない。それは衛生諸国全体にわたって、そしてソ連自体にもある。こうして東ドイツは、スターリニストが支配する国々で将来起こる革命的発展と闘争を予示しているのである。
 労働者階級の激動、不満、反対の決起があったというかつてのいろいろな報告は、チェコスロヴァキアやその他の東欧諸国からも入ってきた。スターリニスト支配下のドイツの労働者は最も進み、行動はもっとも広範囲で鋭く表現されている。これは主として、彼らがヨーロッパで最も進んだ労働者であり、社会主義の伝統、組織、戦闘性においてもっとも豊富であるからである。彼らの行動が示したものは、レオン・トロツキーが数年前に予測した、スターリニスト支配にたいする政治革命の必要である。
 トロツキーの予測の基礎は、特権的少数者としてのスターリニスト官僚の性格の分析にある。スターリニスト官僚は政治的にソ連労働者をさん奪し、国民所得から獅子の分け前を消費・浪費し、不平等を保守し、全体主義的テロルによってしか自己を守れないのである。この体制は大衆の要求、利害、熱望とまっこうから衝突する。労働者は最大限の広い民主主義を必要とする。さもなければ、彼らは自分の利害を擁護し、社会主義にむかって前進することができないのである。労働者は経済運営や経済計画、国民所得配分に決定的発言を必要としている。
 この非妥協的対立はスターリニストの支配の拡大的出現と共にソ連から衛生諸国に広がった。いまやはじめて東ドイツで公然たる姿をとって燃え上っている。これこそ歴史年表に記録される東ドイツ事件の本質的意味である。

 運動のひろがり

 まず最初にこの運動の広がり工合を理解することが必要である。ドイツの革命的社会主義の定期刊行物『プロ・アンド・コントラ』が報じたように、闘争に加わったのは東ベルリンの労働者ばかりでなく、全土の圧倒的部分の労働者であった。東ベルリンで闘争がすでに衰えたときにも、他の工業中心地の労働者が表面に出た。「はやくも六月一七日の早朝に革命の焔は中部ドイツの工業中心地に燃え広がり、この高揚した地域で爆発しはじめた」と『プロ・アンド・コントラ』誌一九五三年七月七日号は述べている。大工業都市は全部加わっていた。ハレ、メルゼベルグ、マグデブルグ、エルフルト、ゲラ、ライブツィヒ、ドレスデン、イエナ、ヘムニッツがそうであった。こうした都市から「中小工業都市」 へと運動は広がった。
 「労働者階級は自己に内在する巨大な潜在力を感じていた……。これほど権力樹立に近づいた労働者階級の行動は、一九二三年以来一度もなかった。小ブルジョアジーも農民もこの反乱に基本的役割をもって加わることはできない。」『プロ・アンド・コントラ』誌はこう結論している。以上は否定しがたい事実である。
 この運動が広がったすばやさといい、運動の力といい団結といい、すばらしいものであったが、それはただ労働者階級全体が、支配者スターリニスト党にはじまる体制とその手先にたいして非妥協的に反対しているからである。この反対は当初は徐々に分子運動のようにすすんでいたが、合図を待っていたかのように、東ベルリンの労働者がイニシャティヴをとるや、一斉に爆発的に表面に躍り出た。
 これは「初歩的な」運動ではさらさらない。たしかに経済的要求(生産ノルマ一〇%つり上げ撤回、物価引下げの要求など)からそれははじまったが、決して経済的要求に限られなかった。実際には労働者は最初から政治的要求(最も憎悪されていた官僚の解任、自由選挙、民主的労働組合、東西両ドイツの労働者の共同行動による祖国統一など)をかかげていた。これらの要求はその全面性において、官僚や官僚制を改良する運動をはるかに越えたものを代表していた。たとえば、一定条件のもとの自由選挙の要求は、普通なら改良の要求の城を出ないものかもしれない。ところが、スターリニスト体制のもとでは、これは他の要求と同じく、警察国家にたいする革命的挑戦となった。大衆は官僚制の打倒に勝利して、労働者民主主義を代りに樹立することによってはじめて自分たちの要求を実現できるはずだった。体制の性格によって闘争の性格がきまる。大衆は政治革命をやった。他方クレムリンの支配者どもは反革命をやった。
 闘争の途中で大衆は、行動において官僚の体制・党・労働組合、要約すれば官僚とその手先を拒絶――そして放逐しようと――した。
 スターリニスト体制、スターリニスト党、官僚制全体をこのように拒絶したことは、数年にわたってドイツでスターリニズムが犯してきた数限りない犯罪のクライマックスであった。かつて共産主義インターナショナルの中で最も強力な党であったものが、いまではロシアの銃剣で支えられた行政機関に堕している。これこそ、ドイツで確立されてきた大衆とスターリニストとの新たな相互関係である。
 反乱する労働者にむかって政府当局が使った次の手段は、あらゆる反革命政権が用いてきた手段の典型である――(a) 軍隊の使用、(b) 議歩の約束、(c) 先進的分子にたいする警察の弾圧、(d) 運動にたいする中傷のキャンペーン。
 革命を鎮圧するために動員された軍隊は恐るべきものであった。機甲部隊を含むロシア軍三〇万の兵力が労働者に敵対して展開された。この軍隊の兵力の規模は反乱の規模と力量を測る独特のものさしであった。軍隊はあまり発砲せず、ある場合には銃先をそらして暴徒の頭より上方に向けて発砲したといわれている。だからといって、これがクレムリンの軍隊の介入を認めることになるとしたら、完全に間違っている。軍隊の司令官というものは労働者の反乱に遭遇したとき、最少限の流血で目的を達する方法を選ぶものである。
 ロシア軍の司令官は、行きすぎた流血を行なえば、武装しなかった大衆をいっそう強固に闘わせるよう挑発するだけだということを知っていた。たとえばペテルブルグの血の日曜日(一九〇五年一月二二日)の結果を彼らはよく知っていた。あのとき、ツァーの軍隊は非武装の労働者に銃火を浴びせ、革命を全土に広がらせることになった。クレムリンの軍隊の反革命的役割は、武装しない労働者階級にたいして圧倒的な武力を誇示することであった。これによって、打ち砕かれた政権が決定的敗北をこうむるのを防いだ。こうして革命は妨げられ、政治的舞台に登場した労働者は後退を余儀なくされた。
 譲歩の約束は同様な条件のもとに他の反革命的政権が用いるトリックと大して変わらない。ロシアのツァーも、自己改革の幻想をつくるために一九〇五年に譲歩の途方もない妥協を行なった。
 実際にもドイツのスターリニスト政権は大した譲歩もしていない。妥協は生活水準を改善する手段に限られていた。だが民主的権利はいつも絶対に認められなかった。法務大臣フェヒナーは六月三〇日にこう言った。「ストライキ権は法的に認められる。ストライキ委員会のメンバーはストライキ指導者の活動のせいで罰せられることはない。」一週間後フェヒナーは、五万人のストライキ参加者の逮捕を通告したあと、「自由主義」の言辞を吐いたゆえをもって解任・追放された。この事件をひとつ見ても、譲歩や弾圧、粛清のあいだの実際の関係がわかるのである。
 マルクス主義者にとって譲歩の試金石は、それらの譲歩が全体として労働者に政治的に自己主張できる機会を与え、発言力を与え、全体主義体制に裂け目を広がらせるか否かにある。一言で言えば、この譲歩によって労働者の権力獲得の闘争が強められるか否かが判定基準である。東ドイツでは譲歩の妥協の真意は反対であって、政府当局をして労働者の首根っ子をつかむことを維持させるためである。

 典型的方法

 その即時的目的は、革命的陣営を分裂させることにある。反乱に加わる大衆の間に「強硬派」と「柔軟派」とを分断して、「強硬派」、つまりもっとも戦闘的で、決意の固い、階級意識ある分子にたいして、よりすばやく、より効果的に対処することに譲歩の目的がある。こうした譲歩を行なう約束は、東ドイツの新時代の開幕、すなわち全体主義体制の自己改革の開始を告げるどころか、最少限の譲歩に止められ、反革命の手段として軍事的警察的弾圧と結びつけられていた。
 運動を「ファシストの冒険」と中傷したが、それはスターリニストが典型的につかっているやり方である。周知のように資本主義は初歩的要求をもった自然発生的な運動でさえ「共産主義者に吹き込まれた」と非難するが、スターリニストはそれを真似ることはできない。完全にウソであっても、このような非難はほんの部分的なでっち上げにすぎない。それは、どんなに初歩的な要求であっても、大衆のどの闘争も資本主義体制にたいして潜在的に社会主義の挑戦となるからである。はるか昔、プロシアの内務相が語ったように、「どのストライキでも革命という九頭蛇(ヒドラ)の頭をもたげさせる。」
 しかし、東ドイツの暴動をファシストに吹き込まれたものと中傷することは一片の真実もない。それはもっとも下劣なでっち上げである。この運動は徹底して反資本主義的であった。その目標は民主的労働者権力を樹立することであった。この非難に現われているのは、東ドイツの事件によって、自己を「労働者の代表」とふれこむクレムリンの仮面がひきはがされるのではないかという官僚の恐怖である。スターリニスト官僚は権力を要求する東ドイツ労働者階級から公然たる挑戦を受けたとは認めたがらない。スターリニスト官僚は、反乱をファシストを中傷することによって、とりわけデマゴギー的な自己の変装を保持しようとする目的を追求しているのである。
 この中傷によって追求する即時的目標は、さらに行なう弾圧のかくれみのに使おうとすることである。国家がもしかような恐るべき「ファシスト」勢力によって脅かされているとしたら、「地下ファシスト」にたいしてテロルを強化せねばならないというわけである。それは警察国家のいっそうの強大化、弾圧の強化を意味する。グロテヴォールは九月半ばに秘密警察を「強化する」指令を発して、こうした必要を適確に表現した。これが中傷の論理である。
 この場合、ファシズムの非難を労働者階級に向けているけれども、労働者こそファシズムから最も被害を受けた人々であったのである。ドイツ労働者はヒトラーの政権掌握以前から勇敢にナチズムと闘い、もしスターリニストや社会民主主義の指導者の裏切りがなかったら、この闘争に勝利していたであろう。労働者は一二年間もファシストの支配に耐え、その結果ロシアの軍隊が進軍してきたとき、それらを解放者として歓迎した。スターリニストが彼ら労働者に半分でも機会を与えていたなら、彼らはこの政権の忠実な支持者になっていたであろうに。スターリニストの覇権がきびしく非難される点は、彼らの暴政によって、労働者は耐えがたい生活条件・労働条件と民主主義的権利の全面的欠如を強制されていることである。そのため、労働者はスターリニストによる奴隷化のくさりを打ち破るためには革命をやる以外にたよるべきものがない。
 しかしながら、それだけでもないのだ。ファシズムという悪名高い中傷を行なったのは、ドイツ労働者を打ち破る希望をスターリニストが失ったことを意味する。スターリニストは権力を保持するためにもっとひどいテロルにうったえようと主張している。これは東ドイツ官僚の中でハト派的な態度をとろうという部分が追放されているという事実からも確証される。なかんずく、公然たる闘争が沈滞化してから、工場の労働者ミリタントが大量に逮捕されたり銃殺されたりしていることから実証されている。

 分断

 労働者は後退せざるをえなかったけれども、あらゆる徴候からみて労働者はまだ粉砕もされていなければ臆病になってもいない。むしろ逆に、労働者はグロテヴォール政府と力くらべをしたあと、彼らの気分は依然として戦闘的で自信にあふれている。彼らはとくに政治犯の釈放を要求しつづけており、ところによってはその要求を強めるために新しくストライキをうった。
 食糧の小包をとりに数十万の人々が西ベルリンに出かけ、政府当局は公然たる反抗をこうむった。スターリニストの指導者は新たな反乱をおそれ、それに先制的に「予防」措置をとりつつある。弾圧機関をたてなおしつつ、他方で一年以内に配給をやめるというような生活条件の改善を約束している。
 しかしどんな手段をとろうと、反乱を起こす根本的原因はなくならないだろう。労働者はふたたび起ちあがらざるをえなくなるだろう。六月一六日に始まった闘争は、ただスターリニスト独裁の打倒とともに終りを告げるだろう。
 はじめて公然と力の試練を受けたとき、政府当局は大衆の支持の完全なる欠如をばくろした。統一した労働者階級から反対され、ただ外国軍隊の介入によってようやく救われた。たとえこれからも譲歩が行なわれようとも、それで政府が救われることはない。というのは、政府は大衆の要求や熱望から疎遠だからである。

 すべての政治潮流

 反乱に加わったドイツの大衆の政治的多様性について多々とりざたされている。事実は、大衆は政治的構成からみて労働者階級内のあらゆる政治的潮流を含んでいた。社会民主主義者がいたし、多くの共産党員もいたが、かつてドイツ共産党から分裂したSAP党員もいたし、トロツキストもいる。大衆反乱の試金石は行動においてすべて一致したことである。しかし反乱はその目的と傾向においてトロツキストの綱領を表現していたというのは完全に正しい。
 共産党や社会民主党、その他の政党やグループの労働者のメンバーは、実際には以前に従っていた党や綱領と行動においては対立した。官僚にたいする政治革命はトロツキスト党以外の党の綱領には書き込まれていない。スターリニズムの性格を正しく分析し、スターリニズムにたいする闘争手段を念入りに仕上げたのもトロツキストだけである。
 一九三六年にさかのぼるが、レオン・トロツキーはスターリニスト体制にたいする「新しい革命の不可避性」を表明した。一九三八年に採択された第四インターナショナルの基礎的文書たる「過渡的綱領」はこの新たな革命をよびかけている。第四インターナショナルの一九四〇年の宣言――『帝国主義戦争とプロレタリア世界革命』――はこう述べている。「モスクワ支配階層(カースト)を革命的に打倒する準備は、第四インターナショナルの主要な課題である。」このことは一九五一年の第四インターナショナル第三回世界大会で再確認された。東ドイツの事件は、この政治革命が歴史的に必要であり、不可避であることを実証しただけではなく、政治革命のとるべき形態と方法をも示してみせた。
 東ドイツにおける力くらべによって、労働者のいちぢるしい力が示されただけではなく、労働者権力の勝利に導く力が欠けていることも示された。六月事件が切り拓いた革命的展望は、東欧のソ連圏全体にわたる労働者の闘争の広がりに結びついていた。東ドイツは全東欧の大衆的反乱のもっとも進んだ表現である。同時に東ドイツの事件は東西両ドイツの労働者階級の統一の焦眉の問題を新しい次元にのぼせた。
 この事件によって開かれた大きな革命的可能性を実現するために、ドイツ・プロレタリアートの革命政党の組織が必須である。スターリニスト官僚にたいする政治革命が成功する条件を概括して、トロツキーは一九三四年にこう書いた。「まずはじめに、われわれが不変の公準として考えるべきなのは、この課題はただ革命政党によってのみ解決できるということである。」今日このことは前よりいっそう真実である。かような政党のカードルは、六月のゼネスト反乱のるつぼの中ですでに登場し、その能力を発揮した。
 革命的社会主義政党――つまりトロツキスト党――のきびしい必要は、ふたたび歴史的事件によって確証されている。東西両ドイツのドイツ労働者はこの東ドイツの事件から、以上の教訓をひきだすだろうと確信する。

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 さきに述べたことから、『フォース・インターナショナル』三―四月号に載った同志ジョージ・クラークの東ドイツ事件の論文にたいして若干論評しておきたい。彼の陳述は、クレムリンおよびかいらい政権の反革命的役割を無視している。彼は占領軍の隠腱な行動に注目しているけれども、それが労働者の権力を得ようとする努力をくじく反革命的役割を果たしたことを特徴づけて明らかにすることができていない。
 さらに同志クラークの記事は東ドイツの事件の意義と規模を過小評価している。彼はスターリニスト官僚を取り除く大衆反乱の避けがたい必然性を提起することをどこにもしなかった。また、こうした大衆反乱を勝利に導くために革命的社会主義政党の必要を彼は述べなかった。
〔『フォース・インターナショナル』一九五三年五―六月号〕


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