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国際革命文庫  9

第四・五回世界大会テーゼ
国際革命文庫編集委員会訳

6

電子化:TAMO2

「スターリニズムの衰退と没落」
――第四インターナショナル第5回大会テーゼ――

第二章「人民民主主義諸国」におけるスターリニズムの衰退と没落

6 「人民民主主義諸国」の経済・社会・政治の発展は近年ソ連のそれに及ばなかった。ソ連邦では、過去八年間にわたって生産も生産性も人民の実質賃金や生活水準も、不均等ではあるが着実に増加してきた。それに反して、ソ連の「衛星諸国」の経済発展はより矛盾したものだった。この理由はとりわけ、官僚がこれらの国に採り入れた特殊な搾取形態(賠償、ソ連系会社、合弁会社、および一方的特恵待遇をきめた貿易協定など)にある。この搾取は「人民民主主義諸国」の経済の重荷となり、部分的にはこれらの国がかって絶対的にもっていた工業化の優位を相殺してしまった。一九五三年六月一七日のベルリン暴動以後はこの搾取のうち最もえげつない形態のものは消えたが、この政策がのこした影響は今まで存在してきた。とくに貿易政策においてそれがいちじるしい。
 いわゆる「人民民主主義諸国」にスターリン主義的工業化計画(重工業絶対優先プラスアウタルキー)を適用しようとすることは、とくに東ドイツ、チェコスロヴァキア、ポーランドのような国にもっとも不幸な影響をもたらした。これらの国は以前に深く世界市場にくみこまれていて、部分的には朝鮮戦争が始まり、帝国主義が「封鎖」に訴えるに至るまでずっとそうであった。「衛星諸国」経済を全体として協同化する試みや共同計画でさえも、きわめてぐずぐずして、臆病で、多少自給自足的な国民経済を「完成」しようという思想に特色づけられていた。そこには「衛星」諸国民の共通利害をもとにした共同計画という精神などみじんもなかった。
 ロシアに比べて、労働者(とくにドイツとチェコスロヴァキア、部分的にポーランドとハンガリーの)がかって高い生活水準に慣れ親しんでいたこと、古い伝統をもつ農民が、ロシアより激しく小経営に執着していること、都市の中産階級の人数がはるかに多く、より強固な政治的社会的伝統をもっていたこと、さいごに、これらの国では実質上カトリック教会の権力が「民主主義」体制への小ブルジョア的およびブルジョア的反対の主たる結集点として働いていたこと――これらの要因によって「人民民王主義諸国」の社会は最初からソ連に比べてはるかに大きな社会的不安定をかかえている。
 さらにこれに加えて以下の事実がある。野党をすべて解散してからまだほんの七、八年しか経っていない。労働者は労働組合の伝統を保持しているため、作業ノルマの行きすぎた引上げに対して、消極的抵抗や作業の遅れあるいは公然たるストライキに訴えて反対している。「衛星」諸国全体にわたって、農業では農民経営と民間企業が支配的である。だから、ソ連邦に比べ官僚主義的計画はいっそう危険な緊張に直面せねばならず、官僚主義的計画そのものから部分的に発生する困難にあうと、その計画が崩壊することさえときどきあった。
 かくして工業生産はけいれん性のぎくしゃくしたリズムをたどったし、ある数年には停滞が起り、特定部門では景気後退さえ起った。労働者の実収所得は、あるとき(ポーランドで一九五一―五二年、ハンガリーと東独では一九五二―五三年、チェコスロヴァキアでは一九五三年)には下落さえ示し、多くの場合停滞してきた。ポーランドとハンガリーでは一九五五年の生活水準は一九四九年の水準をほとんど上回っておらず、少なくとも労働者については、うたがいもなく一九三八年の水準に劣っていた。チェコスロヴァキアでは近年生活水準が上っているが、一九四七年や一九三六年のそれをほとんど上回っていない。東ドイツも一九四九年来おおいに上昇を示したが、一九三六年の水準を下回り、西ドイツの生活水準をとくに下回っている。ルーマニアとブルガリアでは戦前のレベルを大巾に越えたけれども、それは部分的には食糧供給の不足という犠牲の上に達成されたものであった。食糧不足はかってヨーロッパの穀倉であったこれらの国々のすべてに共適しているが、それはスターリン主義的農業政策の完全な破産を示している。

7 ソ連邦とはきわめて異った客観的条件にもとづいて、勤労大衆とスターリニスト与党とのあいだの関係は大衆と国家との関係とおなじく、ソ連よりはるかに分裂と対立にあふれている。かくしてソ連共産党はもはや社会学的用語としての労働者党とはみなしがたい(この党は、一九回党大会、二〇回党大会に際して発表された統計から確証されるように、おおかた官僚から構成されている)。それに反して「衛星諸国」ではそんな事実はない。というのはここでは先進的労働者の大多数が依然として積極的に活動しているからである(とくにチェコスロバキアと東ドイツ、ブルガリア、それに反して一九五六年まではポーランドとハンガリーではややそれに劣っていた)。これらの諸国の労働組合は依然として矛盾した性格をもっている。官僚は労働組合を自分たちの道具とみなしているが、応々にして労働者は労働組合をもう一度自己の目的のために使うことができる希望を保持しつづけている――このことの正しさはとくに一九五二年六月一七日の東ドイツ、それからポズナン、ハンガリーで証明された。
 以上の理由から、これらの党では分派闘争はソ連共産党の場合よりずっと容易に起りやすく、とりわけこの分派闘争は労働者階級の下部大衆、もっとも先進的な層のあいだにかなり広汎な反響をおこすことができる。かれらの客観的生活条件はソ連の労働者階級よりはるかに悪化しているので、分派闘争は大衆行動の予備的段階となっている。全面的な客観的情勢は、国家と党の官僚機構が相対的にきわめて弱いことと相まって、派閥闘争の発生(あらゆる社会的矛盾の圧力をうけて生じる)と大衆の政治革命の開始との時間的ズレをかなり相殺する。
 そのうえ、「人民民主主義諸国」では社会総体からの官僚機構の孤立はソ連よりはるかに大きい。外国から注入されたこの官僚機構は、依然として生き生きとした自律的階級勢力と敵対している。この機構はまだぶ厚い労働貴族層にとりまかれて守られるところまでに至っていない。官僚機構が自由にできる物理的手段はごくごく限られている。一九四八―一九五三年のうちつづく粛清によって、この官僚機構は無力と化している。このために、人民の反対に対する恐怖におそわれた官僚機構は、公然たる弾圧以外に自己を防ぐ手だてをもたず、「ソ連邦との友好」(クレムリンへの従属)や「一枚岩の党規律」に死にものぐるいで固執しているが、それらによっては少しでも割れ目が生じたら最後、もちこたえることが出来ず権力を失うだろう。
 こうして「非スターリン化」の最初の衝動がソ連からもたらされたという矛盾が生じたのである。ソ連では官僚の地位は相対的により強固であり、それに反してこの「非スターリン化」の最も革命的な効果は「人民民主主義諸国」で感じられ、そこでは「非スターリン化」は政治革命の直接の出発点だったのである。
 最後に、民族問題がますます激烈に「衛星諸国」において発生していることに注意しなければならない。そこでは、スターリニスト党の指導者は一般に外国によって強制された敵への内通者とみなされる。共産党内の反対派は民族感情を利用する。かくして、そこでは、「社会主義への民族的な道」のための闘争は西側の共産党におけるそれとは反対に、高度に進歩的で革命的な価値をもつのである。西側の共産党においては、この「民族的な道」は一般的に、こちこちの右翼日和見主義への転向をおおいかくすものなのである。ポーランドのゴムルカ、ハンガリーのナジ、そしておそらく今後は東ドイツのへルンシュタットやアッカーマンも大衆に民族解放闘争のシンボルとみなされ、そのため、(たとえ「民族的」傾向をもっているとしても)共産党の人気を更新するのに有利な条件がつくられ、民族感情を有利に動員する反対派共産主義指導者の下での政治革命が有利になっている。これはことにポーランドにおいて典型的な形で生じている。

8 一九四八年におけるユーゴスラビア共産党のクレムリンに対する反抗こそは、スターリニズムの国際的危機の第一段階であり、「非スターリン化」の遠因であった。それは「衛星諸国」とソ連との関係ならびにこれらの諸国における国内的進展に影響し続けてきた。しかしながら、最近このユーゴスラビア事件の影響はきわめて矛盾した性格をあらわに示した。それ自身はユーゴスラヴィア共産党の矛盾した性格――スターリニズムと革命的マルクス主義との中間、日和見主義とプラグマティズムの路線に止っている中間主義政党――を表現している。
 大衆の圧力のもとで自己防衛の運動としてソ連官僚がはじめた「非スターリン化」の過程で、共産党指導部は、早晩ユーゴスラヴィア共産党の事件をふたたびとりあげることを余儀なくされた。フルシチョフの注目すべきベルグラード訪問とチトー復活、「裏切者べリヤの陰謀」をもってソ連――ユーゴスラヴィア間の危機のいいわけにしたばかさ加減――これらは新しい官僚主義指導部がよぎなくスターリンの独裁に加えた最初の一撃であり、返す一撃で自らの権威や共産主義運動内の一切の官僚主義的権威に攻撃を加えねばならなかった。ユーゴスラヴィア共産党員自身は、分裂の真実の責任はベリヤではなくて、スターリン、さらにはスターリン時代にソ連を支配した全政治体制に求められなければならないと主張した。ユーゴスラヴィア共産党員はソ連共産党二〇回大会を準備する決定的期間全体にわたって、再び国際共産主義運動に対して高度に進歩的な役割を演じたのであった。
 同時に「裏切者チトー」は名誉を回復し、彼は急にチェルグエンコフ、ラコシ、ビエルート、ウルブリヒトなどの従僕より決定的により丁重に取扱われたので、すでに二〇回大会以前にも、スターリン時代に甘受させられまた打ち立ててきた各国共産党や労働者国家間の相互関係に重大な危機をもたらした。すべての共産党とすべての労働者国家の間の基本的平等の思想、「社会主義陣営内でのソ連の指導的役割」というプチブルジョア的民族主義的概念は修正されなければならないという思想、ソ連においてソ連官僚が犯した行き過ぎや誤謬を踏襲するのは他の労働者諸国にとって致命的であるという思想、それらは「衛星諸国」の共産党にしみわたり、このことが「民族」「解放」の反対派の急速な発展をたすけた。フルシチョフ報告の影響はチトー復活の影響と結びつき、この二つの転換がさらに不可分に結び合いこのような傾向は高度に進歩的で、かつ客観的には革命的な役割を各共産党内に果した。
 しかし、首脳部の分裂が下部大衆内により一層激しい動きを開始させ、大衆自身が政治闘争に介入しはじめるやいなや、ユーゴースラヴィア共産党自身が人民の反作用の広がりをおそれ、そして「非スターリン化」の推進力であるどころか逆にブレーキになって、指導者の交代(ブルガリア)、もしくは権力の座にいた指導者が「犯された誤謬」を単に確認すること(ルーマニア)に「非スターリン化」を制限しようと試みた。「衛星諸国」における政治革命の準備にはたすユーゴスラヴィア共産党の役割のこの変化の動機は第一回および第二回目のチトーのソ連旅行におくことができる。
 このユーゴ共産党は主観的にも客観的にも東ヨーロッパにおける革命勢力の十分にして完全な展開にとって障害となった。工場の労働者管理に関するユーゴスラヴィアの実験は偏狭な官僚主義体制が維持されているすべてのばあいに対して進歩的な刺激であるが、ユーゴスラヴィアの国家と共産党に正しい政治的民主主義が欠けていることは、労働者運動の完全な民主化を求めている衛星諸国の共産党とくにポーランド共産党における左翼反対派を深く失望させた。たしかに、民主的な労働者国家の生き生きとした輝しい例をもたないことは、革命の成熟を遅滞させ、とくにハンガリーの場合には十月二三日の人民蜂起によってつくりだされた危機の急速な革命的解決を妨げるのに貢献した。
 反対にソ連官僚がハンガリー事件以後「非スターリン化」を引きもどす大きな運動をはじめたときには、そして東欧の共産党における大なり小なり独立的な傾向を一切禁じようと試みたときには、ユーゴスラヴィア共産党は、自分がねらわれているものと考えて(それは十分根拠があるのだが)、スターリン主義とソ連官僚主義にたいする反対を再び明らかにし推進することを余儀なくされた。彼らはハンガリー、アルバニア、ルーマニアなどで再現している警察のテロにたいして激しい攻撃をむけた。はじめはおずおずと(チトーのプーラにおける演説)、次には明瞭に元気よく(ユーゴスラヴィア全国大会を前にしたカルデリの演説)、ハンガリー革命をソ連の干渉に対して擁護し、無条件の支持をポーランド革命にあたえた。ユーゴスラヴィア共産党は「すべての権力を労働者評議会に」というスローガンをハンガリーに対して(事件後ではあったけれども)とりあげた。以上のことはこの方向に対して巨大な意義をもち、また共産党内の分化に対して理論的原動力の役割をはたす位置をふたたびユーゴスラヴィア共産党が占めることを許すのである。
 ユーゴスラヴィア共産党のスターリニズムの指令に対する反抗によって演じられた進歩的役割は、今までのところは疑問の余地はない。しかしこの役割はすでに歴史に属するものである。歴史はまた、ユーゴスラヴィアの例によって、過ぎ去りつつある成功をその日その単位で積み重ねる実用主義的で日和見主義的政策は、大衆の革命的な蜂起が違った種類の大胆さをもち、原則と一致した決定を要求するや、急速に、歴史的に否定的な要因となりうることを示したのである。それは、まず最初に、朝鮮戦争のときに示された。二回目には、ポーランドとハンガリーの革命の決定的な数週間に示された。

9 ポーランドの政治革命は、単に官僚主義的独裁のあらゆる客観的条件に根ざし、クレムリンがこの国に導入した民族的抑圧の要素に根ざしているだけではなくて、それは、いわば半世紀にわたってたえまなく続いてきたポーランド労働運動のまじめな革命的伝統にも根ざしているのである。ポーランド共産党がついに吸収することがなかったスターリニズム思想やドグマ――その党はこの理由のために一九三八年にスターリンによって解散されたのであるが――の鉄のくびきを急速に打ちこわすことによって、ポーランドの政治革命は、ボリシェヴィズムの伝統の外に並ぶもののない伝統と再び結びついた。ここからポーランドの労働者には古い世代も新しい世代も例外的に高い水準の意識が存在するのであり、その意識のおかげで政治革命は最初の段階から、ユーゴスラヴィア共産党の最良の言動をも上回るまでにいたったのである。正しく言えば、ユーゴスラヴィア共産党がいわゆるスターリニズムを克服したのと同じ程度にそうなのである。
 ソ連共産党二〇回大会から最初の刺激をうけ、またその二〇回大会と時機が一致して起きた指導者の危機(ビエルートの死)によって助けられて、共産主義者の意識は覚醒した。その覚醒は権力を握っているスターリニストによっておかされた例外的に大きな経済的失策によってはぐくまれていたのであるが、急速に諸流派の党主導権をめざす闘争をひきおこし、それに並行してゴムルカを指導者に復帰させる闘争が発展したのである。
 思想と批判の自由が労働者の組織内で激しく爆発して、労働者の不満が公然と表出するのをたすけた。もし大衆の圧力が「民主化」を意味するならば、「民主化」はその圧力を大衆の直接行動に転化する基盤を準備した。このようにして、ポズナンのストライキが発生した。それは労働者の最も直接的な利益を無視した無神経な経済・社会政策にたいするプロレタリアートの回答であった。
 ポズナンの蜂起はただちに党の指導権の闘争の問題を提起した。弾圧と、とりわけストライキを行った者にたいして用いられた中傷とは、人民全体の反対の嵐を呼び起した。スターリニスト一味がそのストライキを「民主化」制限の産物と考え、そしてクレムリンの援助によって、労働運動内の政治的自由の「ゆきすぎ」を制限しようと試みたあいだに、左翼反対派が結成され、すべての社会生活の民主化の運動において断固として指導性をもつことによって労働者階級との共同と統一を再びつくり上げることを決定した。ポーランド共産党第七回中央委員会総会(一九五六年八月)は、この反対派の圧力のもとに重要な改革を採用したが、クレムリンの圧力によって第七回総会の路線の実施を事実上まひさせるような指導部をつくることをポーランド共産党は強制させられた。
 一九五六年の八月から十月まで、第七回総会から第八回総会までの間、潮流間の闘争はすべての労働者組織を通じて全般的に広がり、ますます騒然とした激烈な形をとり、分派闘争に転化していった。そしてこの分派闘争の過程で各分派はプロレタリアートの支持を動員しようと努めた。スターリニストの右派は最悪の反ユダヤ主義と排外主義的本能に訴え、まったくデマゴギー的な要求を提起した。自由主義左派は労働者の階級意識と解放の望みに訴えた。それは労働者を官僚主義に反対して動員しはじめた。
 そのとき大衆運動は長い聞知られなかった新しい水準に達した。工場労働者は自然発生的に工場の労働者管理を要求した。労働者と学生の青年は、政治的民主化と理論分野におけるレーニンへの復帰の運動の先頭に立った。ゴムルカが十月はじめに左翼フラクションに参加したときには、その勝利は完全と思われた。スターリニスト派は最後の方便としてクレムリンに援助を求めた。スターリニスト代表団の第八回総会における残酷な干渉はプロレタリアートの総動員を惹き起し、彼らは工場を占拠し、自らを武装し、評議会を設置した。革命的熱狂の四日間の後に、反対派は党の指導権を握った。ポーランドの政治革命は最初の決定的な段階を勝ちとったのであった。
 激烈な政治闘争の六ヶ月間に深く根を下したプロレタリアートとの多様な結びつきによって、革命的マルクス主義に極めて接近したスターリニズム批判の明確さによって、また、労働者を経済の指導権を握ることに動員する綱領によって、左派は(ポーランド共産党のスターリニスト政権をくつがえす際にはゴムルカの中間主義派と結びついたのであるが)、ことにその前進的な部分たる青年たちは、ポーランド・プロレタリアートの新しく形成しつつある革命的マルクス主義指導部のための中核と見なしうる。この分派とゴムルカとの結合は中間主義派に作用している矛盾した影響力のために不安定である。すなわち、一方には大衆の圧力が常に左へ引き寄せ、他方には、ポーランドの官僚機構とソ連官僚とが周期的に反対の方向に押しやろうとしているために、両者の結合は不安定なままである。社会的力関係とくに左派の大胆さと正しい戦術がこの発展を決定するであろう。労働者の不満と、十月革命の成果たる自由を保持する学生のやり方はさきにあげた結合を破壊するだろう。左派が自己の綱領に忠実でそれを実践に適用し、より緊密にプロレタリアートと結びつく度合にしたがって、そのポーランド労働者階級に対するレーニン主義者の指導の役割を完全に満たしうる能力が決定されるであろう。

10 ハンガリーの政治革命は、ポーランド革命が最初の段階を勝利できた条件よりはるかに不利な条件のもとに勃発した。この不利な諸条件には次のことがらをあげなければならない。
 (a) 労働運動のなかでマルクス主義の伝統がはるかに限られたものであったこと。共産主義運動の伝統的な弱さと内部分裂。
 (b) スターリニスト独裁の一層警察支配的で憎むべき性格(ライク裁判)。
 (c) 全党および労働運動に広範に組織された潮流を欠除していることからくる代りうる指導者の欠除。この事実によって必ずしも全員が共産主義者でないインテリおよび学生のグループ「ペテーフイ・サークル」が「民主化」を指導する役割を演じたのであり、そのためナジとラコシ(ゲレ)との分派闘争は党の指導機関においてもはやかえりみられなくなったのである。
 (d) 「自由」派が、一九五三年に一度権力の座に上りながら、マレンコフの失脚後に失脚し、これによって多くの左派が党から除名されスターリニスト派の強化をもたらした事実。
 (e) ポズナン事件のような危険信号が欠除したこと。これがため広範なナジ派の形成が遅れ、スターリニスト派は大衆に対する実質的な譲歩を最後の瞬間まで拒むことができた(ラコシの辞職の遅滞、ペテーフイ・サイクルに対する干渉など)。
 (f) 強力ではあるがまだ平和的であり、まだ「人民民主主義」の枠を破っていない大衆運動に直面したときにスターリニストが犯したまったく犯罪的な挑戦。ゲレの十月二二日の演説、十月二三日の銃撃、ソ連軍の干渉の要請。
 ソ連共産党二〇回大会からラコシの失脚にいたるまで、まだポーランドにおける革命の第一段階の勝利にいたるまで、ポーランドの高揚と平行して発展していた大衆運動の上昇が、なぜ急により激烈な展開を行い、そして一九五六年十月二三日から官僚独裁にたいするゼネラル・ストライキに蜂起したのかということは先述のいろいろな要因から説明できる。
 このハンガリー政治革命のより自然発生的な性格は、その闘争と組織の手段に古典的なプロレタリア的形態を与えた。すなわち、街頭行進と工場占拠、軍隊の人民側への参加、労働者の総武装、労働者・兵士・学生評議会の全国的結成。
 世界革命運動をより高い水準に高めることができる急速にして輝しい革命の勝利の客観的要因がこのように集中していた。クレムリンを刺激して、逡巡と政策のジグザグのくり返しの後に、ハンガリー革命に対する軍事的干渉に乗出さしめたのは、本質的にはこの革命勝利の危険であって、反革命の危険ではなかったのである。そしてこのハンガリー革命は全「衛星諸国」からソ連自身にまで拡大しようとしていたのである。
 しかし、十月二三日の蜂起の本質的に自然発生的な性格と、プロレタリア諸勢力を急速に調整して、それらを評議会を基礎にした民主的にして独立した共和国の建設へと導く能力のある革命的指導部を欠いたために、国民のあらゆる傾向の自由な発言、プチブルジョア政党やブルジョア政党の再現、そして反革命活動の開始さえも許された。この反革命活動がクレムリンの干渉にみせかけの口実とアリバイを与えたのである。
 武装した革命的人民は、工場と権力を官僚から奪還するために立ち上ったのではあるが、彼らは、旧資本家や地主が権力復帰することには耐えられなかったであろう。人民は反革命のいかなる勝利をも妨げる強さを十分もっていた。しかし人民がその課題のレベルに応じた革命的指導部を持つことが少なければ少ないほど、混沌とした過渡期がより延長され、反動が組織され出現しやすくなった。官僚がその軍隊をハンガリーから撤退させることが遅れれば遅れるほどそして革命にたいして直接干渉すればするほど、民族的感情がいっそう憎悪にみちたものになって、それが大衆の関心の前面に出るようになる。ナジと彼の同僚は、とりわけ運動の指導権を再び掌握しようと切望したあまり、人民の感情の進展にただただ順応して、ソ連官僚の最も「自由派」的な傾向とさえ公然たる衝突に入ってしまった。
 ソ連のハンガリーに対する軍事的干渉は、ソヴィエト連邦および国際共産主義運動に対して大打撃をあたえた犯罪であった。それはハンガリー共産党自身にとっても大きなつまずきであった。いまではこの共産党はその国のプロレタリアートからまったく切り離されてしまった。しかしこの軍事的干渉をもってしても、ハンガリー労働者のすばらしい闘争能力を打ち砕くことはできなかった。彼らは、ただ政治革命の第一ラウンドに敗れただけである。クレムリンによって強制された流血から再び政治革命はおこり、それは征服されることはないであろう。すでにカダール政権は十月二三日の獲得分を維持することを強制された。激しい消極的抵抗とたえまない大衆の圧力に励まされて、革命はふたたび前進を開始するであろうし、十分にして完全なプロレタリア民主主義をともなって、ハンガリーに共産主義の名誉を再建するであろう。

11 ソ連共産党二〇回大会、フルシチョフ報告、そしてポーランドとハンガリーにおける政治革命は、中国をも含めて、すべての労働者国家の共産党に深刻な影響を与えている。中国では、「非スターリン化」がある程度の遅れを示しているが、このことはとりわけこの国の遅れた状態と、中国共産党の指導者が直面しなければならない巨大な客観的な経済的な困難とによって説明できるものである。しかし、「非スターリン化」の流れの圧力の強さに押されて中国共産党の大会は、とくに分派の権利、少数派が自己の考えを党内にあって多数決後においてさえ擁護できる権利、そして労働者国家においていくつかの「民主主義」諸政党を維持することに有利な重要な決定を認めざるを得なかった。これらの政治的民主主義の思想は、中国では実践にふされることはないとしても、多くの共産党(とくにアジアの)共産党内の情勢の動揺をよびおこすであろう。(革命側であれ反革命側であれ)海外および中国内の社会勢力の相矛盾した圧力は、中国共産党指導部内の深刻な分化をもたらしたようである。指導部の一派はハンガリー革命の弾圧を公然と支持しつつ、同時に「非スターリン化」の線に沿って官僚主義的現象の分析をクレムリンが今日までやってきたものより、徹底してやった(「整風」運動と人民内部の「矛盾」に関わる毛沢東の演説)。だが他の一派は一時的に勝利を占めたが、またたく間に弾圧支持に成功した(毛の演説と発行された文書とのくい違い、いくどかにわたる弾圧など)。中国自身が直面する困難、ストライキの波、農業集団化に対する農民の抵抗、学生反乱によって、明らかに官僚指導部の多数派は「ゴムルカのコース」はたちまち大衆的反乱をひきおこすことを確信した。
 動揺は、官僚独裁が直接大衆運動に直面していない国(東独のハーリッヒ派、チェコスロヴァキアの知識人・学生の運動、そしてブルガリアの粛清など)でも現われた。官僚主義的指導者は譲歩(特に経済的な譲歩)を行わなければならず、また同様に民主的政治改革を約束しなければならなかった。ハンガリー事件は、これらの諸国にスターリニスト機構全体とより一層妥協させることによって、これら諸国における大衆運動の勃発を不可避的におくれさせるだろうが、事件の広範な反響によって官僚主義に反対する不可避的な爆発をまったくいっそう激烈で急進的なものとするであろう。
 ハンガリア革命の最も目ざましい成果の一つは十月三〇日のソ連の宣言であった。この声明は、人民民主主義諸国とソ連との関係を新しい基礎の上に打ち立てようと試みたものであるが、暗黙裡にいままでクレムリンが労働者国家間の相互紐帯に民族抑圧の要因を採用していたことを認めたものである。
 クレムリンのハンガリー革命への粗暴な干渉は官僚主義の誓言に対する激しい否定であるけれども、それにもかかわらず、「人民民主主義諸国」の共産党の一派がクレムリンの保護から決定的に自由になろうと努力するたびに、その十月三〇日の宣言をクレムリンに対してつきつけるであろう。こうしてその宣言は、官僚がそれを実現しなければ、共産党間や労働者国家間の従属関係をこなごなに打ち砕く新しい時限爆弾となるであろう。
 ハンガリー革命の直接的な反響に刺激されて、クレムリンの現在支配的な分派は「衛星諸国」に対する態度を再び「硬化」させている。しかし、大衆の圧力はこれらの諸国において必ず増大し続ける。民族的独立の高揚と各国共産党のソ連共産党にたいする独立は、必ずや青年や共産主義闘士そのものの大部分を「分解する」ものである。労働者諸国間の関係、民族的抑圧と経済的搾取の関係を平等互恵の関係に変える過程は、くつがえすことのできないものである。官僚はこの過程の意味を知れば知るほど、これらの国の指導的官僚派との同盟を(例えもろいものであっても)結ぶため、かっての搾取政策を「衛星諸国」に効果的な援助を与える政策に代えることをますます余儀なくされている。ずうずうしく「衛星諸国」を従属させ、経済的搾取のふるい関係にもどそうとする試みは、どんなにクレムリンが避けようとしても、たちまち東欧諸国に反乱をひきおこすだろう。

12 「スターリニズムの抬頭と衰退」に関するテーゼは、スターリンの死と、ソ連官僚の尖鋭な危機が切り拓いた時代を、第四インターナショナルソ連支部の再建に有利な情況が急速に成熟する時代とみた。 ポーランド革命とハンガリー革命の経験はこの予測の正しさを完全に確証した。自己の経験にもとづいて、世界共産主義運動史の生き生きとしたレーニン主義的伝統にふたたびつながり、現地の共産党左翼の中核は自然発生的に第四インターナショナルに近い綱領的立場に到達した。かような中核の形成はソ連でも、すでに起ったというわけではないが、不可避的である。官僚主義的独裁の分析と政治革命の綱領を完全に明確にするよう彼ら中核を助けつつ、大衆との生きたつながりを維持する仕方を示し、クレムリンの支配下にあるすべての国に存在ないし形成中の、多かれ少なかれ中間主義的な広範な共産党内反対派の潮流に合流する方法を彼ら中核に指し示すことによって、第四インターナショナルはこの国々に可能な限り短期間に真実の支部、真正のトロツキスト組織の建設をやり抜こうとするだろう。これこそ、新たなプロレタリアートの革命的指導部が革命の火中で急速にうち鍛えられ、大衆的反乱の途中で混乱した反革命によって一時的にしろ乗取られたりする危険を最小限にする最良の保証である。


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