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国際革命文庫  9

第四・五回世界大会テーゼ
国際革命文庫編集委員会訳

5

電子化:TAMO2

「スターリニズムの衰退と没落」
――第四インターナショナル第5回大会テーゼ――

はしがき

 第四インターナショナルの第四回世界大会によって採択されたテーゼ=「スターリン主義の抬頭と衰退」は、第四インターがその第三回世界大会の際に行われた世界情勢の再評価からひきだした一般的結論をソヴィエト社会の動態分析に適用したものである。
 ソ連官僚の独裁、ソ連プロレタリア権力の纂奪および粉砕は、反動勢力を前にして革命勢力が世界的に後退した結果であった。さらに、それらは、ソ連邦自体のプロレタリアートにとってはなはだ不利な経済的・社会的力関係から生じたものであった。
 一九四三年以来、とりわけ中国革命の勝利以来の革命勢力の世界的抬頭およびソ連邦を世界第二の大工業国たらしめた計画経済のめざましい成功によって特徴づけられる国際情勢ならびにソ連の国内情勢における根本的な変化は、ソ連官僚の権威と権力の客観的基礎をうちこわした。
 国際的な力関係が反資本家階層に有利に進展したのに併行して、ソ連邦内部の力関係も、プロレタリアートには有利に、官僚には不利な方向に進展した。この進展によって官僚独裁に対して大衆の圧力は着実に増大し、最初はただ経済の領域において、次にしだいに政治の領域において、官僚主義的独裁は、大衆に重大な譲歩をすることをよぎなくされたのである。
 このように、われわれはクレムリンの「ニューコース」を、官僚の自己改革運動としてではなく、その自己防衛運動とみなした。ところがこの「ニューコース」が、その客観的結果として、ことにそれによって官僚位階制の上から下まで生じた分裂のために、大衆運動の目覚めを助け促しさえしている間に、それは官僚制に対する大衆の政治革命の代用物ではないが、むしろその予備的局面として考えられるに至ったのである。
 第四回世界大会以来、ソ連自体や人民民主々義諸国、資本主義諸国の共産党の中にあいついで起ったますます劇的な諸条件は、この分析の正しさを完全かつみごとに確証している。その分析の正しさによって、我々の運動は国際労働運動の中で、スターリン主義の世界的危機の進展を予見し正しく説明することのできる唯一の勢力となったのである。
 チトーの復活、ソ連共産党第二〇回大会のめざましい諸決議、フルシチョフ報告のセンセーショナルな暴露、いくつかの人民民主々義諸国における「加速的民主化」の爆発、イタリア、イギリス、アメリカ合衆国などの共産党の「批判的」進展、ポズナンの叛乱、ポーランド、ハンガリーにおける政治革命、これらはスターリニズムの着実な衰退とその没落の始まりをあらわす一連の道標である。これらはテーゼ「スターリニズムの抬頭と衰退」が詳細に分析した過程の一連の大躍進である。
 第四インターナショナル第五回世界大会――つい昨日までソ連官僚に支配されていた全分野において明瞭に始まったこの過程の最終局面にぶつかって行われた――は、とりわけスターリニズムの没落の正確な諸条件(崩れつつある独裁制の廃嘘の上に革命的プロレタリアートが反乱し勝利するための諸条件)を明らかにすることに関心を払うものである。
 だからこそ今回のテーゼは、テーゼ「スターリニズムの抬頭と衰退」が行った歴史的解明や構造分析および規定を再びとりあげることはしない。今回のテーゼは「スターリニズムの抬頭と衰退」の代用物でも修正でもなく、その自然的延長かつ不可欠な一部分なのである。


スターリニズムの衰退と没落

――第四インターナショナル第五回世界大会テーゼ――

第一章 ソ連におけるスターリニズムの衰退と没落

1 一九五三年以来ソ連工業は、もっとも進んだ資本主義諸国の成長のリズムをはるかに上回る成長率をもって躍進し続けてきた。多くの分野(燃料とくに石油、機械組立、オートメーション、核エネルギーの工業的利用)において、ソ連経済はスターリン時代末期の立遅れと不均衡を克服し、未曽有の発達をとげることに成功した。一九五三年にはじめて重工業を若干の耐久消費財(時計、自転車、テレビ、ミシン、洗濯機など)に重点を移した部分的転換によって、以前あまりにも無視されていたこの分野においても、アメリカ合衆国を除くどの資本主義諸国の生産をもほんの二、三年で凌駕し、労働者大衆の生活水準を著しく向上させることが可能になった。
 同時にソ連経済は、スターリン時代からうけついだ主たる二つの不均衡(すなわち、一方では重工業と軽工業間の不均衡、他方では工業と農業間の不均衡)に悩まされ続けている。主としてこれらの不均衡のために、近年の大衆の生活水準を向上させた疑うべからざる成功にもかかわらず、ソ連の工業プロレタリアートに相対的に匹敵するプロレタリアートを有する資本主義諸国の消費よりもいまなお、ソ連が非常に低くとどまっている。このことは、高級食料品(肉、酪農品、輸入果物)、耐久消費財(家具、スクーター、ラジオ、自動車など)および半耐久消費財(衣類と靴)の品質についてとくにあてはまる。住宅危機が原因で労働人口の間にかってなく殆んど全面的に不満が拡がっている。
 経済の一般的なブームと比較して農業が遅れているのは、現在の官僚指導者が主として心配しているものである。彼らは、コルホーズ農民を無視(いわゆる「処女地」政策)したり農民の私的利潤を刺激(たとえば、じゃがいも価格の引上げ調整)したり、あるいは私的開墾の最後の痕跡までも払拭させようと農民を威しつけること(私有菜園および家畜にたいする攻撃)によって自らの心配の種をとりのぞこうと努めた。しかし、正しくかつ首尾一貫した包括的政策を欠くために、これらの様々の努力は断片的でしばしば矛盾しあうような諸結果を生じ、農業危機そのものは解決できなかった。
 過度の官僚的中央集権化の害悪は、はじめておずおずと行った工業管理の地方分権化の諸方策にもかかわらず、依然としてソ連経済を圧迫し続けている。それは、ソ連の労働者総数中に占める生産的労働者の公認された比率に要約されているが、その比率たるや三十五パーセント以下にすぎないのである。
 これらの矛盾と不均衡の総体が、ソ連における生産力の発展にたいする強いブレーキ役を演じている。官僚主義的管理を民主主義的な労働者管理におきかえ、大衆の支配の下に計画の準備・採択・実施を行えば、労働生産性を高め、雑費や浪費を減少し、そして経済成長率を減退させることなしに労働者階級と勤労農民の生活水準向上を保証し得るだろう。

2 一九五三年および一九五四年においてことに著しかった大衆の生活水準改良とともに、異った社会層の経済的社会的要求は減少するどころか、ますます明確かつ公然と表明されるようになった。彼らの要求は、直接的要求――食糧供給の改善、工業生産物の品質改良、労働者住宅の改善、国家買上価格の値上げ、自由取引の拡大、農民向け工業生産物の値下げ――の段階を超えて、ソ連社会を構成する異った階級ないし階層の社会的論理を表現した要求の段階にまで達した。このように、マレンコフの没落後一時的に阻止されていた大衆的圧力への譲歩政策は、第二〇回大会の準備期、開催中および大会後に再び進み始めたのである。
 根本的に対立し合う二つの一般的潮流がソ連社会で登場し、並行した発展をとげつつある。それらは次のように自己の要求を掲げはじめている。
 (a) ますます工場管理の問題を提起する方向にある労働者階級の最も積極的で意識的な部分の潮流。この労働者は第二〇回大会の際に重大な譲歩(低給料の値上げ、年金の平等化など)をかちとった。彼らは巧妙に「個人崇拝にたいする闘争」を利用して、工場内における「単一指令」の原則(すなわち監督者の恣意的全能)と闘った。彼らはまた労働法――世界中で最も苛酷なものである!――を改正しなくてはならないという原則的承認をもかちとった。スタハノフ英雄制度の行過ぎと累進的ノルマ達成報償金制度にたいする闘争という口実の下に、実際には最も熟練した労働者の全給与を切下げたところの給料制度を改正しようとする企ては、成功裡に闘われた。このプロレタリア的潮流は、ポーランドとハンガリー労働組合の実例に鼓吹されて、組合がその純粋に歴史的な機能、すなわち労働者の特殊利益を必要ならば行政や官僚主義的に堕落した国家に対抗して)擁護する機能に復帰することを要求するだろう。
 (b) 官僚のうちの最も特権的な層(トラストと工場の支配人、技師長、将軍ら)のもっとも意識的な代表者の潮流。彼らは大衆の圧力とその行動開始によって、特権がますます論議の対象にされているので、彼らの特権のための特別合法的保証を得ようと求めている。この潮流はとくに一九五五年中にモスクワ工業会議において点をかせいだ(支配人のための標準身分の要求と獲得、工場内における管理職の特権の増大)。しかし労働法の改正をめざす労働者の圧迫によってこれらの利益の一部は破壊されそうになっている。官僚は二〇回大会において管理職に有利にボーナス・システムを拡大することを要求して獲得した。彼らは経済問題における刑法の「自由化」を求めつつあり、とくに各工業企業が特定の生産品を販売する権利を獲得しつつある。それはこれらの商品の闇市場を拡大し(また合法化し)、計画の中に混乱の要因をもち込むものである。
 農民は、どのような長期の社会的要求をも明確に定式化する機会をもたなかった。しかしながら、農民はとりわけ頑強にわずかばかりの私有地に縋りつく傾向がある。この私有地の上に彼らの労働のかなりの部分を集中し、私有地から不釣合に高い比率の収入を得ていると想像できる。
 かくして「ニューコース」の継続は、プロレタリアートと特権官僚層との間の対決を無慈悲に準備する。この対決によって主として工場の管理が問題の対象にされ、不可避的に経済と労働者国家の構造と支配のあらゆる問題が提出されるであろう。

3 二〇回大会の準備以来、ソ連における知的労働者の戦線において反乱がわきおこりつつあったことは明白になっていた。次から次へと、映画・演劇・文学・美術・建築・科学・哲学の諸作品が蒙った毒々しく、かつうまい理由を並べたてた批判によって、ジュダーノフ主義のあわれむべき誤謬があらわになり、また無方針で無知で彼らの科学・芸術・文化の仕事の真実の急務と不調和な「指令」から解放されたいという新しい世代の芸術家、著述家、学者の熱情的な要望が表面化した。ソ連の知識青年は批判・思想・創造の自由を追求した。彼らの要求は、やむなく若干のまじめな譲歩を与えなければならなかった程やかましかった。
 しかし、市民とりわけ労働者に許されない政治や経済学における批判の自由を芸術や学者に許すことは、芸術的創造と科学的研究を社会批判の避けられない道具となすことである。このように批判が広汎に拡大したこと――官僚の手先であった芸術家(エレンブルグがそうだ!)からも批判が出された――は官僚の最上層部を驚かし悩ませた。――そこから流れを妨げ押しもどそうとする努力、もっと「まじめな」「社会主義リアリズム」を回復する努力、「党の正しい一般方針を尊敬する」人々の批判のみを許そうという努力が生じた。ソ連の歴史記述が以下のようにジグザグをたどった。二〇回大会の前夜までは多数のスターリン主義伝説にしがみつき、つぎにはそれを破りすてたかにみえながら、ふたたび官僚主義的統制のむちの下に後退したにすぎなかった。モロトフが統制しようと、もっと偏狭な役人が統制しようとも同じことだ。このジグザグは明らかに知識人による批判の自由の要求に直面した官僚のジグザグを特徴づけるものである。
 しかし官僚の死物狂いの抵抗にもかかわらず、あれこれの分野で後退、遅滞、反動があったにもかかわらず、ソ連における思想の自由のための闘争は二〇回大会において、巨大な勝利を獲得し、それは消すことのできない影響を及ぼした。動揺しつつある独裁の中に開かれた割れ目と間隙を容赦なく通り抜けて、批判精神、反逆精神が政治的領域に入り込み、政治革命の火柱をあげるであろう。

4 二〇回大会は、スターリンの死以来、ソ連官僚のボナパルチスト首脳部を揺がしつつある危機の頂点を画した。そしてこの危機はその自身プロレタリアートと官僚との間の力関係における根本的変化の反映である。大衆の圧力、政治的な様相をとりはじめていた不平の圧力のもとに、官僚主義の指導的な中核は種々の傾向に分裂した。つまり大衆に対する大巾な譲歩にくみする傾向(マレンコフ=ミコヤン?)、独裁を硬化させる傾向(カガノヴィチ=モロトフ?)「中間主義」的傾向(フルシチョフ=ブルガーニン)などに分裂した。スターリンにたいする大衆の嫌悪を利用してこの死んだ独裁者の権威をはじめて公然と攻撃しようとした「自由派」の試みに直面して、フルシチョフは彼の秘密報告書でスターリンにたいするはるかに激しい攻撃を自ら行うことによって、この「自由派」の策略を中和しようとした。このようにして、官僚は、自分たちの共同の罪悪をすべてべリヤに背負わせようとする空しい試みを行ってみずからの首脳〔スターリン〕を主要な犠牲にして、政治的反対に直面するまでの短い猶予を得たのである。
 真に歴史的広がりをもったこの巨大なマヌーバーは、最初から焦燥とろうばいの徴候を示した。いかなる瞬間においても、官僚指導者たちは、自らこのように解き放った力を統制することも予見することもできなかった。彼らは、一方では、反スターリニズム的反対派がソ連共産党内に出現するのをおくらせ、おそらく一時的には若干の知識人集団や官僚の下層部における同情をかちえつつ、同時に彼らは自己を粉砕するところに行きつくはずの雪だるま式にふくらむ運動にのり出したのである。
 官僚主義的独裁の権化たるスターリンの権威を徹底して破壊することによって彼らは、官僚支配の権威と士気をあらゆる水準において決定的に堀りくずした。スターリンの途方もない罪悪を冷笑のうちに示しながら(とはいっても彼らはそれと結びついていたのだが)、彼らは、自分たちの指導にたいする共産党の闘士の盲従を決定的にうちこわし、同時に自らを不信でおおうに至ったのである。このように暴露された恐るべきことを「個人崇拝」によって説明しても何人も満足させず、ソ連社会とその官僚的腐敗にたいするマルクス主義の批判的分析への途を開くだけだった。
 二〇回大会はこのようにして、すでにいくつかの国々、とくに大衆が蜂起寸前にあった「人民民主主義諸国」においてひろがっていたスターリニズムの危機を発作にまでたかめた。政治革命の勃発を加速化する運動に対する束縛をとくことによって、二〇回大会はプロレタリアートと官僚主義間の闘争の重心を一時ソ連の国境外に移した。このようにして自由になった革命勢力の広範さに驚いて、官僚主義は後退して非スターリン化をチェックしようと試みたが空しかった(一九五六年夏)。これらの後退は、大衆とくにポーランドおよびハンガリーにおける大衆をさらに一層怒らせる結果になり、ついにクレムリンは、武力でもってこれらの諸国の大衆的革命運動を再び弾圧する必要に直面した。この強力な革命運動と結びついたソ連兵士を通じて、政治革命の波は「衛星圏」からソ連自身に還流し、かくして追いつめられた官僚主義に死刑を宣告するであろう。
 さらに言うと、ポーランドとハンガリーの革命の反響はまずクレムリンの指導部の中枢部そのものの内部の分派闘争の激化にあらわれた。フルシチョフは、マレンコフ派とモロトフ=カガノヴィチ派が自分に敵対して、一時的ブロックを結んで政治局(最高閣僚会議)で多数をとるおそれがあったので、政治局の頭ごしに直接中央委員会によびかけ、自己の敵を「集団指導部」から排除して、かろうじて自己の権力を維持し得た。フルシチョフは、このために古典的なスターリン主義的手段(中傷、ごたまぜ、歴史の偽造)を用いて、ますます批判的になった下級官僚とプロレタリアートのあいだでいっそう信用を落した。彼はこの論争の解決に一部の党カードルをひきいれ、彼なりのやりかたで大衆の政治化をうながし、次の段階で大会や下部党員に訴えて彼に反対しても構わないという前例を開いた。

5 かくして、革命の主体的・客観的前提条件は、ソ連において急速に成熟しつつある。全知の後光を失ったのちに、こんどはクレムリンは全能の後光をも失ってしまった。独裁のマントを放棄してしまったので、官僚はいまや見せかけの啓蒙的自由主義のマスクをも失いつつある。歴史は前代未聞の速度でスターリンの後継者達に、すべてのカードを投げだして、いわば素手で大衆の攻撃に直面することを強制していいるのである。
 人民の圧力が増大すればするほど、いっそう首脳部の離間が促進されるであろう。ネオ・スターリニズム派は、すでに譲歩を与えたことに大衆の圧力の原因があると見て、「自由化」に終止符を打つよう努め、一九五三年以来なされた譲歩さえ疑問視するであろう。反対に「自由派」は、もし独裁が人民の渇望を少なくとも部分的にでも認めないならば、下からの突上げが一層増大して、おそらく二〇回大会よりもセンセーショナルな新しい「非スターリン化」の波を準備することを理解するであろう。しかしながら、両派とも、官僚全体の特権を保護し防衛しようと試みているにすぎない。両派とも、彼等の衝突を仲裁するため警察の廃止後に残る鎮圧の唯一の効果的な抑圧道具たる軍隊に訴えるようになるであろう。
 マレンコフとモロトフ=カガノヴィチの一時的追放はこの派閥闘争に終止符を打つどころか、かえって激しくするだろう。ソ連内の力関係が官僚にとって不利に展開しつつあり、対立し合う社会的潮流は指導的中核内に間接的表現をとる現情況のもとでは、官僚のボナパルチスト的首脳部がふたたびスーパー調停者の鉄の支配を受け入れることはありえない。
 指導的スタッフがいがみ合い、急転換をくりかえして大衆の信頼を失いつづけているかたわらで、軍はますます調停者の役割を手にするだろう。また党や労働組合、そしてとくに青年の中級下級カードルのあいだにソヴィエト民主主義の再建を目ざす半プロレタリア的傾向がはじめて具体化するだろう。大衆が直接に行動に入るときはじめて、壮大な社会的潮流はいくつかの対立しあう政治グループとなって自らの政治的表現をとるであろう。
 大衆と官僚との間に、官僚内の異った派閥の間に、そして軍隊の兵士の苦悩と彼らに割当てられる鎮圧の役割(ハンガリーを見よ!)の間に増大する緊張――これらの緊張はすべて激しい爆発点に近づきつつある。官僚主義的指導部内の一派を大衆に訴えるように導け。大衆に、街頭に出て彼らの気持に身近かな経済・社会・政治の問題を解決させよ。青年、労働者階級(あるいは軍隊さえも)の内部の前衛派に、自発的に政治的要求の綱領を定式化することをはじめさせよ。あるいは、以上のさまざまの勢力間の相互作用や結合を実現せよ。――そうすれば、政治革命の論理は、独裁の基本的制度(単一政党の官僚機構、国家に奉仕する労働組合、全能の支配人、形式主義的な代議制度、大きな格差のある収入)を維持することを望む勢力と、国家と経済の民主的管理を企てようと望む大衆との間に、公然たる衝突が日程に上るであろう。このように大衆の圧力が大衆の直接行動に転化すれば、それは政治革命がソ連において開始する合図となるだろう。


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