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国際革命文庫 7

日本革命的共産主義者同盟
第四インターナショナル日本支部
中央委員会編

8

電子化:TAMO2(先輩・故福島慎一郎氏の鎮魂のために)

「革命的暴力と内部ゲバルト」
――プロレタリア民主主義の創造をめざして――



相模原における中核・革マルの内ゲバは利敵行為である

 ≪九月四日、ベトナム侵略戦争に動員されるアメリカ軍の戦車と兵員輸送車の搬出を阻止する闘争が展開されている相模原において、中核派と革マル派がゲバルトで衝突した。
 われわれはこの内ゲバをとりあげて徹底的に非難するものである。この内ゲバはいかに強弁しようとも一点の弁解の余地もない利敵行為であり、戦車を阻止する闘争への敵対であり、闘争にはかり知れぬ損失をおよぼす暴挙であるといわなければならない。
 われわれはすでにくりかえしくりかえし、われわれの機関紙『世界革命』紙上で「内ゲバ絶対反対」という原則を主張してきた。このなかで内ゲバにたいする基本的問題点はほとんどすべて論じつくしてきているといえる。しかし事態はいっそう悪化するばかりである。「内ゲバの論理」はますます純化されてしまっている。中核派と革マル派の間の憎悪と恐怖の感情はいっそうたかめられてきている。
 われわれにとっての根本問題は「内ゲバの論理」の純化と両派間の対立関係が大衆闘争に重大な損害をもたらしていることにある。内ゲバのおこす波紋は決して内ゲバをおこなった当事者間のみにとどまるものではない。それは大衆闘争に大きな損失と混乱をもたらさずにはおかない。それゆえ、われわれは、内ゲバをやっている党派に対して内ゲバ反対と説教する立場ではなく、大衆運動を防衛する立場から、くりかえし内ゲバを可惜なく批判しなければならないのである。

●相模原闘争は政治情勢の焦点である

 相模原の内ゲバの反動的性格をバクロするためには、この内ゲバが発生した相模原闘争が現在の政治情勢の中で、どのような政治的意義をもつものであるかを明確にすることからはじめなければならない。なぜなら、内ゲバの論理に対する原則的な批判は多くはくりかえしにすぎなくなるが、現実の政治情勢と大衆闘争の諸関係のなかで具体的に内ゲバの役割りをバクロすることによってわれわれはその本質を生き生きととらえることができる。
 ノースピア、相模原における戦車の搬出入阻止闘争は、アメリカ帝国主義に「不意打ち」をくらわせた。この「不意打ち」はアメリカ帝国主義と日本帝国主義にたいして手痛い、深刻な打撃をあたえた。
 アメリカ帝国主義は戦車と兵員輸送車のストップによって、確実にベトナムの地上戦に損害をこうむっている。
 アメリカ帝国主義が「使い勝手」に使用してきた日本の軍事施設に対して、大衆のたちあがりはその機能を重要な部分においてマヒさせた。これぱあきらかにアメリカ帝国主義にとって予想外の打撃であった。彼らはベトナム侵略戦争の戦術プランに一定の修正を強制されたのである。
 日本帝国主義にとっては相模原闘争はいっそう手痛い打撃であり、それは混乱と困惑と動揺として拡大している。相模原闘争の大衆的もりあがりは、「日中平和共存」「日本列島改造論」を柱として、自民党支配の継続と安定と強化を使命とする田中自民党政府に痛打をあびせたのである。
 ハワイ会談によってニクソンと安保体制の持続を約し「日中平和共存」への安定したヘゲモニーをとろうとした田中政府に対して相模原闘争は足もとからそのヘゲモニーをぐらつかせた。そして田中自民党政府の矛盾をもっともあからさまに、すなわち安保体制の矛盾としてもっともあからさまに全人民のまえにバクロしたのである。
 それゆえノースピア、相模原の大衆の決起は、決してエピソード的なものではない。それはいまおこりつつある政治情勢の転換の本質的で根底的な矛盾の所在をしめすものである。それゆえこのような大衆の決起は情勢の転換の本質に対応するものであり普遍性をかくとくしているのである。
 したがってこのような情勢の焦点として相模原闘争をとらえるならば、われわれのこの闘争における任務は、戦術的イニシャチブと政治的ヘゲモニーの結合された指導性として提起されていることはあきらかであろう。

●内ゲバは革命的少数派のイニシアチブを破壊する

 ノースピア、相模原に戦車の搬出を阻止しようとして結集してきた大衆は戦闘的で急進的である。しかしその圧倒的部分は組織されておらず、規律と統制を保って敵権力への有効で効果的な闘争を集中する力としては弱い。しかしこの戦闘的大衆は、社会党や共産党が自民党と裏でこっそり取引きし妥協することを激しく憎悪し拒否する。すなわち、伝統的政治指導部にたいしてはほとんど期待もしていなければ信頼もしておらず、むしろ、裏切りへの警戒心が支配的である。
 このような状況下にあっては、革命的少数派の任務は大きいと同時に、イニシアチブの発揮も大きな可能性をもっている。すなわち登場した闘う大衆は、社会党、共産党の伝統的指導部の権威にしたがうのではなくて、だれがもっとも終始一貫して、断乎として戦車を阻止する闘争をやるのか、だれがいちばん有効で効果的な戦車阻止の戦術を考え、大衆をそこへ動員するのか、それを注意深くみているのである。すなわちわれわれはここで闘う大衆にテストされるのである。

 国内法に反している戦車の搬出入はみとめない、というところからはじまった大衆の怒りは、M48戦車がベトナム侵略戦争に動員されている兵器であることによって、単なる国内法違反の水準から、安保条約とベトナム侵略反対へと急速にその政治意識はたかめられた。このような発展は、革命的少数派のイニシアチブの範囲をより拡大させずにはおかない。闘う大衆はベトナム侵略反対によっていっそう断乎たる搬出阻止の立場をかためるのである。そして、伝統的指導部が敵権力との対決を回避するのをみてとり、革命的少数派に注目する。
 中核派の革マル派の内ゲバはこの局面において演じられた。闘う大衆の目前において、社会党、共産党を闘わない、裏切る、妥協すると非難していた反対派が、機動隊にむかうときよりもいっそう戦闘的に、憎悪をむきだしにして、内ゲバを展開したのである。
 闘う大衆は「機動隊にむかわないで、なんで仲間同志でケンカするのか」と叫んだ。大衆のこの反応は健康であり、正当である。われわれは、内ゲバを大衆闘争の利益を防衛する立場から全面的に批判しなければならない。

●敵権力は内ゲバを徹底的に利用した

 中核派と革マル派の内ゲバはまるでそのシナリオを敵権力が準備したのではないかと思われるほど敵権力はこの事態を徹底的に利用した。日を追って増大する大衆とその戦闘性のたかまりのうえに、すっかり追いつめられていた敵権力は、内ゲバを利用してまきかえしをはかった。敵権力はまず内ゲバによって消耗した戦闘力をいっそう分散させ、遠心化させるために弾圧をつよめてきた。そして社会党幹部におどしをかけ、政治的妥協工作にひきだした。社会党や共産党は内ゲバを政治的妥協の口実に利用したのである。そしてさらに内ゲバは闘う大衆と戦闘的少数派とのあいだに不信と亀裂をもたらしたのである。

 われわれは相模原闘争のすべてが内ゲバによって左右されたとは考えない。われわれはそのようにデマゴギッシュに問題はたてない。この内ゲバの本質的反動性をあきらかにするためつぎのように問題をたてる。
 内ゲバは戦車を阻止する闘争に利益をもたらしたのか、損害をもたらしたのか。
 内ゲバ以降の客観的情勢の推移は、はっきりと内ゲバの犯罪的な役割りをあまりにもはっきりとかたっている。

●内ゲバによってだれが「得」をし、だれが「損」をしたのか

 今回の中核派と革マル派の内ゲバほど日本の「新」左翼の腐敗と堕落を典型的にしめしたものはない。両派が現在においてこのようにしてしか存在できないということは、救い難い絶望的な袋小路の中に入りこんだことをしめしているとしかいいようがないのである。
 今回の内ゲバによって結局のところだれが得をし、だれが損をしたのであろうか。
 アメリカ帝国主義は内ゲバによって利益を受けた。アメリカ帝国主義は闘う大衆によって直接に包囲されてしまった戦術上の不利な局面から、政治的交渉という場所に事態をうつしかえることによって、不利な局面を転換させたのである。内ゲバはアメリカ帝国主義に息づくヒマを与えたのである。
 日本帝国主義とその田中政府も得をした。闘う大衆によって追いつめられた事態から、社会党との妥協によって、当面の事態を回避しようとする戦術の選択ができるようになったのである。すなわち自民党は一年後よりもっと先に相模原の機能を縮少させる約束によって、今日の危機から脱出しようとするのである。
 ベトナム革命にとって、何百日後の基地機能の縮少が役に立つであろうか。まさにいま戦車をベトナムの戦場へ送り出させないことが決定的なことである。相模原の闘う大衆は自民党と社会党による何百日後かの約束ではなく、いま戦車を搬出させないことを問題にしているのである。
 内ゲバによって損害をこおむったのは、ベトナム、インドシナの人民である。そして、その戦車を阻止する闘争を通じてベトナム、インドシナ人民への支援と連帯を強めようとしている日本の闘う人民の闘争に損害を与えたのである。内ゲバは利敵行為であった。

●中核派と革マル派はほんとうに戦車の搬出を阻止しようとしているか

 われわれのこのような断定は決して中傷やこじつけではない。中核派と革マル派の理論の論理的帰結なのである。すなわち、中核派にとっては「反革命=カクマル」をせん滅することがベトナムへの戦車の搬出を阻止することより優先する任務なのであり、革マル派にとっては「左翼スターリニズム=ブクロ派」を粉砕することがベトナムへの戦車の搬出を阻止することより優先する任務なのである。
 内ゲバのあったあとの中核派の『前進』第六〇〇号を見ればわれわれは具体的にこのことを知ることができる。特大の見出しはすべて「反革命、KK連合、カクマル」に「勝利」したことがならべられているが、ベトナム侵略に動員される戦車を阻止する闘争は背後におしやられている。これはたまたま革マルとの内ゲバがあったことによるものであろうか。そうではない。それは中核派の理論、戦略、路線からみちびかれる当然の政治的傾向によるものである。
 革マル派の機関紙『解放』は内ゲバのあとの号が未だ発行されていないが、われわれはその紙面がどのようなものであるかを想像することは難くない。

●内ゲバは悪無限の袋小路からぬけでられない

 われわれはくりかえし、内ゲバがもたらす、若く戦闘的で献身的な活動家の死や負傷が、革命運動に大きな損失であることを訴えてきた。
 相模原における内ゲバは中核派と革マル派が七〇〇名から八〇〇名という大きな大衆的規模によってなされたがために、一〇〇名以上の負傷者が出たといわれている。これらの負傷したメンバーはいずれも組織の戦闘力を中心的に構成している青年たちであろう。これらのメンバーの負傷は直接に組織の戦闘力を弱めずにはおかないであろう。内ゲバはかならずこのような損失を強制する。そして、即物的で物理的な損失とともに、政治的な損失もともなうのである。
 相模原の闘う大衆は内ゲバをおこしたセクトを信頼するであろうか。ほんとうに戦車を阻止しようと真剣に考える人々ほど、内ゲバを演じたセクトを不信の眼でみるであろう。
 さらに内ゲバは神奈川における労働運動と青年運動のなかで、中核派と革マル派への批判的傾向を強めるであろう。
 このように総体として内ゲバの当事者にとって、内ゲバがもたらした政治的、組織的マイナスはあきらかである。
 しかし、内ゲバの論理からすれば、多大な犠牲をはらってでも、内ゲバは組織にとって「成果」をもたらすものとして、とらえられている。
 内ゲバによって組織への求心力、集中力はたかまり、メンバーの忠誠心はいっそう強くなる。この現象はあたかも組織の力量が増大したかのように錯覚させる。こうして内ゲバの論理はそれ自体が組織を維持していく目的に転化する。
 かくして内ゲバの「成果」はいっそう内ゲバの論理を純化し、いっそう大衆運動から分断孤立することによって、内ゲバの論理のひとり歩きがはじまる。
 内ゲバは「敵対する」セクトの打倒を目的としている。そのために、相手セクトの組織とその構成員に物理的打撃を与え、そのことによって恐怖心をつのらせ、相手セクトの戦闘意志をマヒさせることが追求される。このマヒ状態が続けば内ゲバの論理に支配されているセクトは崩壊解体される。
 したがって内ゲバにはふたつの特性が随伴して表れる。
 ひとつは相手セクトへのデマゴギーのエスカレーションである。
 ふたつは相手セクトの恐怖心をつのらせる戦術のエスカレーションである。
 このふたつのエスカレーションによって内ゲバの論理に支配される党派はお互いに悪無限の敵対関係にたつ。この敵対関係からは悲惨な結果以外になにものもうまれない。

●手段は目的に規定される

 黒田寛一によって「体系化」された「反帝・反スターリニズム」の戦略と組織論は、内ゲバの論理をもっとも意識化させている。それゆえ、革マル組織はもっとも完成された水準において内ゲバの論理を体現した組織である。われわれはこの組織と内ゲバの次元において対抗しようとしたら、かならず「敗北」するのである。
 内ゲバの論理とその実践をマヒさせ、解体する可能性はただ大衆闘争のみがもっている。大衆闘争の昂揚という光をうけたとき、内ゲバというモグラは地中にもぐりこまねばならない。

 相手セクトを日常的に恐怖心で支配するために内ゲバは「汚ない戦術」がエスカレートする。ワナをかけ、奇襲し、多数が少数をなぶる。
 「汚ない戦術」のエスカレートにともなって、目的が手段を合理化する法則を利用して、内ゲバの目的をいっそうデマゴギーでかざりたてねばならない。
 「ものすごい犯罪的なセクト」にたいしては、とちれる手段の制限はなくなる。「反革命」の相手セクトにたいしてはあらゆる手段が正当化されてくる。これは内ゲバの論理の必然的帰結である。
 『前進』六〇〇号によれば九月四日の内ゲバは革マル派による「待ち伏せ襲撃」によってもたらされたそうである。
 ベトナム解放軍はジャングルのなかでアメリカ侵略軍に対して「待ち伏せ襲撃」をして大きな戦果をあげている。このベトナム解放軍の「待ち伏せ」は卑劣で汚ない戦術であろうか? 否である。もし事実であるとすれば革マル派「待ち伏せ襲撃」は卑劣で汚ない戦術であろうか? 然りである。このちがいは闘争の目的によって規定されてくる。内ゲバはどのような手段、戦術であろうとも、決してその正当性はもちえないのである。

 われわれが中核派と革マル派の衝突を内ゲバと呼ぶと、双方ともかならず
「これは内ゲバではない」
という非難をうけるのであるが、このようにいういい方こそ内ゲバの論理の表現にほかならない。
 中核派、革マル派ともが同じ革命的共産主義者同盟という組織名を名のり、同じ「共産主義者」というタイトルの機関誌をもち、同じ「反帝・反スターリニズム」の戦略スローガンをかかげ、十年まえは同一の組織を構成していたふたつの政治グループの対立が内ゲバではなくて、お互いに革命と反革命の対立であるという見解をうけいれることはわれわれにはとうてい不可能なことである。

●内ゲバはスターリニズムそのものである

 一九六三年の中核派と革マル派の分裂以来、相互のセクトは相手セクトへの政治的規定をしだいに強めてきた。そして今日、この相互の相手セクトにたいする基本的規定はきわめて単純化されて定式化されている。
 中核派によれば
 革マル派は反革命であり、反革命の中心に実在しており、したがって敵権力と革マルとの連合勢力にたいしては中核派は内乱的、内戦的な二重の対峙関係にたつのである。
 すなわち中核派は、権力にたいしては内乱を、革マル派にたいしては内戦をもってたたかわねばならないのであり、内乱と内戦を結ぶものが蜂起にほかならない。したがって革マル派との闘争はわれわれがいうように内ゲバではなくて、反革命勢力との内戦的関係になるのである。
 いっぽう革マル派によれば
 中核派は左翼スターリニズムである。スターリニズムは帝国主義と同時に打倒せねばならない戦略上の対象であり、革命を妨害しているスターリニストはまず何よりも先に優先して打倒しなければならないのである。それゆえ中核派は「反帝・反スターリニズム」戦略のなかで最優先に打倒すべき対象となる。

 このような中核派と革マル派による相互の規定にいたる論理はまさにスターリニズムそのものにほかならない。内部ゲバルトの思想は党派闘争におけるスターリニズムである。それは反対派を抹殺し官僚的専制支配を是認する思想である。反対派を抹殺するために、反対派にたいして最上級の極悪のレッテルがはられることとなる。中核派と革マル派がお互いに投げつける悪罵は、党派闘争ではなくて、反対派抹殺の思想から生まれてくる。
 中核派と革マル派にはボルシェビキ・レーニン主義の分派闘争の論理は通用しない。そもそも内ゲバの論理は分派をみとめない。分派の否認はいっさいの反対派の否認にみちびかれる。自己の党派内での分派闘争をみとめない党派がなぜ反対諸党派の存在をみとめることができるであろうか。
 内ゲバの論理、それはスターリニズムの組織論にほかならない。

●われわれは現実から出発する。中核派・革マル派は観念から出発する

 われわれが戦略、戦術、組織を現実の諸関係から出発させて考えるのにたいして、中核派や革マル派は彼らの観念から出発する。われわれは政治的諸潮流のはたしている役割を、その現実的な関係のなかにおいてとらえようとする。中核派や革マル派は彼らの観念の世界にあるものに現実をあてはめていく。彼らにとって重要なことは現実ではなくて、彼らがいだいている観念の世界である。
 われわれは現に全世界で闘われている人民の革命闘争のうえにきたるべき世界を展望する。しかし「反帝・反スターリニズム」派は帝国主義とスターリニズムが世界を分割支配しており、この世界の止揚は、反帝・反スタの「革マル革命」や「中核革命」によってしか不可能であると信じている。現実の人民の闘争はゼロの価値しかなく、ただ、「反帝・反スタ」にしたがうときにのみ価値が付与される。
 ベトナム、インドシナ革命は現実の革命と帝国主義反革命との力関係に大きな転換をもたらす革命的闘争である。しかし、ベトナム革命は中核派や革マル派の観念の世界においては本質的な意義はもっていない。むしろ、ベトナム革命は彼らの観念の世界をおびやかすものである。ベトナム革命の勝利は彼らの不倶戴天の敵、「スターリニズム」を強めてしまうのだから。
 現実から出発することは大衆を信頼することである。観念から出発することは大衆を信じないことである。観念の世界からみれば、大衆は素材にしかすぎない。「反帝・反スタ」の観念王国から見るとき、大衆は絶対に正しいりっぱな闘争をやれるものではない。中核派や革マル派の息のかからない大衆の闘争は一文の値打ちもない。
 ロシア革命の孤立性と後進性のなかでスターリニズムは徹底した大衆への不信にもとづいて、専制的ボナパルチズムの支配をつづけた。黒田寛一の「哲学」はこのスターリニズムを打倒するためにはスターリニズムと同じ方法しかありえないという結論に到達し、これを定式化した。それが一国主義的、小ブル平和主義的に矮小化された日本の「反帝・反スターリニズム」にほかならない。
 もし、ノースピア、相模原に結集した大衆を信頼するならば、内ゲバは避けねばならないし、避けられたであろう。大衆は闘争に損害しかもたらさない「仲間」への襲撃を決して許さないであろう。

●内ゲバを糾弾し、戦車阻止の闘争へ

 相模原闘争は社会党の妥協や、市長の妥協の余地をいっそうせばめ、大衆の怒りはたかまり、敵をおいつめている。
 社会党は闘争をよびかけながら、闘う大衆が本気で戦車を阻止しようとするとき、妥協の路線に転換し、裏切りを「勝利」であるとうそぶいている。
 共産党ははじめから、大衆の急進化を妨害し、戦車を実力で阻止しようとする大衆闘争に敵対している。
 闘う大衆が登場したときのこのような既成指導部の政治的破産とヘゲモニーの喪失にたいして、われわれは闘う大衆のまん中にあって、戦術的イニシアチブをとるとともに政治的ヘゲモニーへ挑戦しなければならないのである。
 それは、戦術的突破によってのみ情勢を展開しようとする戦術急進主義から、われわれを決定的に飛躍させることを意味する。そしてまさに、内ゲバ的次元の党派闘争から、統一戦線戦術による党派闘争の課題がわれわれに提起されているのである。
          一九七二年九月二〇日


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