<あとがきにかえて>
革マル派の反動的な目的
われわれはまだ、一つの点で、読者諸君の問題意識にこたえていないのではないかと懸念する。すなわち、何故このような腐敗が、普遍化しているのか、ということである。
われわれは、「新」左翼の内ゲバ主義の元凶は、革マル派であると考えている。それゆえ、その問題意識にこたえるためには、なによりもまず、何故革マル派がこのような政治的行為を自らの日常性として今日実行するに至ったのかという点を解明することが必要であると考えるのである。われわれはここで、あとがきにかえて、その点を若干明らかにしてみたいと思う。
革マル派の政治的実践の性格をどのように規定すべきであろうか。彼らの「綱領」は、彼ら自身をどのような階級的位置に立たせているのだろうか。そしてその結果として彼らは、今日の大衆運動の発展のなかで、どのような矛盾をかかえこみ、どこへ向って押し流されようとしているのだろうか。
革マル派の政治的位置は、民同反対派である。彼らは、たしかに「反帝・反スターリン主義」の綱領をかかげている。たしかに、日本共産党に反対するセクトではある。しかし、彼らが「反帝・反スターリン主義」をかかげることによって日本共産党に反対するということは、けっして、日本共産党の活動家と大衆を獲得して解体するためではない。彼らの「綱領」は純化された最後通牒主義であって、日本共産党の内部と政治的実践に食いつき、その矛盾を促進し、その崩壊をもたらすためにはなんの力ももっていない。「反帝・反スターリン主義」の綱領が、日本共産党の今日の政策とその歴史的裏切りを説得力をもって暴露するという方向のためにいかなる役割も果し得ないのは、三〇年代のドイツ共産党が「社会民主党はファシズムの穏健な、したがってより危険な翼である」として主要打撃を社民党へと規定したことが、危機を増大させていたドイツ社民党を崩壊させる点ではなんの役割も果さず、かえってドイツ労働者階級の分裂を決定的なものとして、ヒットラーの奪権に貢献していったことと同じである。
われわれはここで、読者諸君の注目を促したいのは、この立場が、歴史的な民同左派とその議会的表現たる旧左派社会党の綱領的性格と同じものであるということにある。
旧左社の思想的源流たる山川均は、第三勢力論を提起して、旧革同の「平和勢力論」に対抗した。旧革同の「平和勢力論」は、世界を二重権力としてとらえ、自らを反帝勢力に位置づけたのであるが、山川均は、「社会主義への日本の道」を提起して、自らを、帝国主義と労働者国家の対決の谷間に置こうとしたのである。日本の「反帝・反スターリン主義」の元祖は、普通に言われているように黒田寛一ではなくて、実に山川均その人だったのである。
こうして革マル派は、民同の左翼(?)反対派として自己を成長させようとする一貫した政治的実践が網領的に位置づけられる。人が他人の力を奪うためには、同じ土俵を設定しなければならない。革マル派は民同の土俵にはいりこむことによって、そこからしか力を吸収できない位置に、自らを置いたのである。
ところで今日、民同は総体として大衆の急進化から置き去りにされつつあり、大衆と民同の溝は深まりつつある。そのもっとも端緒的な表現が、六七年〜七〇年の青年の急進化であり、第二の表現が三里塚を先頭とした列島改造、公害、基地に反対する全国住民・農漁民闘争の高揚であり、第三の表現が今日はじまりつつある組合労働者の下からの叛乱の拡大である。このどれひとつにたいしても、民同は弱まりつつある権威を防衛するための官僚的統制手段以外の何物ももってはいない。こうして民同と大衆との関係は、前者が右に、後者が左に大きくずれてしまっている。この矛盾に依拠してその「躍進」をかりとってきたのが日本共産党であった。共産党は民主連合政府を提起して、急進化する大衆の共通の問題意識である政府・権力への怒りと、新たな政府への希求を右から組織した。
だが、民同とその政治的代弁者たる社会党は、一貫した、説得力のある政府展望を提起することができない。このため、この党とこの勢力は、労働組合運動においても共産党の急速な浸触をうけているのである。
ところでわが革マル派は、この点において民同よりも断固とした民同派である。彼らは政府の問題などははるか彼岸にある問題だと考えている。そしてもっぱら民同の力を弱めそこから自分の勢力を拡大し補給する活動だけに努力を集中している。
こうして、わが革マル派もろとも民同総体が大衆の右翼に位置するという状況がつくり出されるに至ったのである。革マル派の現在の最良の競争相手は社会主義協会である。社会主義協会は最後の民同として登場しており、それ故に民同派全体から頼りにされて援助を受け、それなりに勢力を拡大しているのだが、彼らと革マル派のちがいがどこにあるかといえば、彼らが労働者を「社会主義の魂」で組織していこうとするのにたいして、革マル派が「プロレタリア的人間の論理――魂」で組織していこうとするという「区別」があるだけである。そして両者とも、今日実際に労働者・人民が、現実の問題意識の核心に据えている政府・権力問題については、こうした「魂の組織化」が終ってからの話だと考える点では、まったく同一である。
革マル派が協会派との分派闘争に必死になり、独特の民同内部抗争に血道をあげているあいだに、たたかう大衆は全体としてこれらの全てを超えていこうとしている。労働者大衆のそのような急進化、自主的で多様な戦闘化の傾向は、革マル派を解決のできない矛盾のなかにひきずり込んでしまう。革マル派は民同勢力との共通の土俵を持つ。そこでは彼らは、目標――民同型ヘゲモニー――は手のとどくところにあるように見える。だが他方で大衆が、こうした民同型ヘゲモニー自体を見捨てようとしている現実は、彼らの「目標」が無意味なものに終る危険性を感じさせる。これは、重大な危険である。革マル派はこうした大衆の左傾化、戦闘化をつなぎとめ、引きとめることができない。なぜなら、革マル派は広汎な、全人民的な急進的なたたかいにおいてほとんどなにひとつ共有する闘争の場を持ち得ず、いくつかの公労協労働組合のなかにしか彼らの闘争の拠点をきずいて来なかったのであり、民同との共通の土俵は持っていても、急進化する人民大衆との共通の土俵を持ってはいないからである。
かくて革マル派は、人民の急進化を反映し、あるいは領導していると彼らが考える傾向・党派にたいして、「直接の解体」=すなわち内ゲバの暴力を向けることになる。中核派にたいし、早大の諸党派にたいし、解放派にたいして、彼らは「目的意識的・組織的」な暴力をふりむける。このようにして彼らは、彼らが多数派として、指導部として労働者大衆の頭上に登場するその日まで、大衆の一切の戦闘化、左傾化があってはならないという彼らの願望を表明しているのである。
したがってわれわれは、はっきりと次のように断定することができる。
革マル派の内ゲバは、大衆の戦闘化、急進化を阻止しようとする反動的目的につらぬかれており、スターリニズムのゲー・ペー・ウーとまったく同じ政治的意図に導かれており、ただこの点においてのみ「目的意識的」なのである、と。
革マル派のこのような目的は、しかしかならず失敗する。なぜなら彼らは、ひとつの根本的な誤解「党派が大衆の政治性を決定する」という観念論的な誤謬にもとづいて彼らの目的を立てているからである。
中核派その他の諸セクトをいくら攻撃したからといって、大衆の戦闘化、左傾化を阻止することはできないのである。だが、中核派やその他の諸セクトが、革マル派の内ゲバの「論理」にひきずり込まれ、同じ論理と同じ土俵のなかでたたかおうとしているかぎりにおいて、これらの近視眼的諸セクトを、急進的人民大衆からきりはなすことには成功するかもしれない。そして、その結果、いくつかのセクトがつぶれていくかもしれない。大衆はこのようなセクト、革マル派との内ゲバの抗争で己れの真の任務を忘却していくようなひよわなセクトを見捨てるだろう。革マル派の反動的な目的が達成されないことは確実である。そして革マル派との内ゲバの抗争に明けくれして、階級闘争の本来の任務を放棄するような諸セクトが衰退することもまた確実である。大衆と共に真の勝利に到達できる党派は、今日の全人民的な急進的諸闘争の先頭に立って、そこに労働者権力樹立へ向けた拠点と戦線をきづきあげることに組織的・政治的任務を集中させながら、その成果に依拠して原則的な党派闘争を遂行することができるような党派だけである。第四インターナショナルは、まさにこのような党派としての自己を鍛えようとするものである。
この論文集は、われわれのそのような目的のために発行された。
一九七三年一〇月
日本革命的共産主義者同盟第四インターナショナル日本支部
中央政治局
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