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第八章 トロツキストの大長征

 第四インターナショナルの運動は、今まで長期にわたって多くの試練と苦難を経てきたし前途に大きな展望と活動舞台を持っているとはいえ最后の勝利までなお多くの障害をこえねばならない。われわれはこの第四インターナショナルのトロツキストの大長征の歴史について断定的なことをいえるとは思わない。
 われわれの最后の結論は結局のところ、多くのトロツキズムに引きつけられた人々が、その思想を擁護する組織である第四インターナショナルの量的弱さにおどろき、いだいた疑問にこたえることであるだろう。それは同時にすべてのトロツキストが幾度となく自己自身に問うた疑問にこたえることであろう。すなわち、第四インターナショナルは歴史的正当性を持つのだろうか?“トロツキーが第四インターナショナルを創立したのは正しかったのか”“トロツキーが第四インターナショナルの創立のためになしたことは――一九一七年よりも、第一次世界大戦の終了時よりも――より重要な任務であり、“言葉の真の意味で”かけがえがなかったと主張したのは、正しかったのか? このような疑問に、答えることであるだろう(註)。
 (註) 亡命日記よりの引用。アイザック・ドイッチャーの注目すべきトロツキー伝の第三巻(一九二九―四〇)は、事実の記述は正しいにしても、この時期のトロツキーの仕事と活動、とくに第四インターナショナルの建設にささげられた最後の六年間のそれについて十分に述べていない。ドイッチャーはトロツキーの考え方に基本的に賛成したものの、トロッキーはより「ロシア革命史」 のような仕事をすべきだと考えた。しかしトロツキーは、ドイツチャーが、「時間の無駄づかいである」とかんじたトロツキスト運動の困難と危機との闘いにその生涯をかけた。マルクスは経済学の研究を数年間断念して、第一インターナショナルとその内部の困難(それはしばしば第四インターナショナルの場合と似ている)にその活動を集中させた。トロツキーはマルクスと同じように最初から最后まで革命的闘士であった。そしてトロツキーはとくに党の問題について、レーニンと比較して、一九一七年以前の自己のあやまりを深く教訓化していた。トロツキーにとって第四インターナショナルの創設の闘いは世界的規模における党のためのレーニン主義的闘争の継続であった。

 しかし、第四インターナショナルの困難性のみを強調して、それでよしとする人々、第四インターナショナルの政治的強さと生命力を無視する人々、皮相な水準で問題をたてたがる人々、等々の第四インターナショナルに対する中傷については一切こたえる必要があるとは思わない。
 歴史的見地――これのみがこのような問題に関する唯一有効な立場である――からして、第四インターナショナルのトロツキストの運動は、それ自身として歴史的正しさを客観的に証明した。資本主義体制の分解の開始と労働者国家の出現という最近五〇年間の国際的労働者階級運動の歴史はいかなるものであったのか?
 マルクス主義の伝統をもった労働者階級の運動が長い歴史をもつすべての国において、ただつぎのことだけが事実であった。数十年間の戦争に革命と反革命の激突、ファシズムとスターリン主義という状況の中で、幾多の組織が真のマルクス主義組織として労働者階級の立場に立つと主張してきた。しかし、長年の経過から、危機と分裂、弾圧、前進と後退のくりかえし、にもかかわもずつづいた組織は、第二インターナショナルにつながったものか、第三インターナショナルのメンバーであったものか、第四インターナショナル、のみであった。数十年間の試練に耐えたこのような真実は、偶然や特殊な活動家の資質に帰することはできない。全ての組織が多かれ、少なかれ政治的、組織的能力を持った献身的なカードルを有していた。このような現象はただ客観的原因、深い歴史的要因によってのみ説明される、ここではへーゲルの思想――「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」――が完全にあてはまる。この真実の底に横たわる要因は長年の間作動しつづけており、国際的な正当性をもつだろう。これはわれわれがのちに見るとおりである。
 この文章においてこれまでいくども第四インターナショナルが客観的情勢ゆえに直面した困難について説明した。とりわけ一九世紀最后の三十年の上昇する資本主義の時代とは大きく異なり、世界情勢は突然の変動と遠心力をともなったすさまじい性格をもっていた。この時期において、この新しい情勢は、以前のように労働者階級全体を組織し、前衛を広く配置しその結果として巨大な党をつくるというやり方をゆるさなかった。十月革命の勝利を軸として形成された革命的インターナショナルの中核であるボルシェビキ党を破壊したスターリニズムの発生があった。ソヴィエト官僚の政治的ジグザグとその残酷性は一度ならず重要な革命勢力の方向をあやまらせ、それをまったくの袋小路へと追いやった。
 資本主義の上昇期はベルンシュタインやそれ以上に陰険なカウツキー主義という修正主義を生みだしたが、最初の労働者国家の孤立という恐るべき歴史は、途方もない外見を示す革命を見誤ったところの数々の“修正主義”(ソ連邦国家資本主義論とか、官僚は新しい搾取階級であるとかの議論)を生み出した。最後に、数億の植民地の人民は、歴史の人質たることをやめ、数世紀の断絶を埋めんとして、一連の飛躍――場合によっては一度かぎりの飛躍を試みた。このため彼らの革命はしばしば奇妙な形状を示した。
 国際階級闘争の舞台はこの状況にもかかわらず、いや、むしろ正確にはそれゆえにこそ、古い構造の中に押しとどめられた――労働者大衆は組織の解体を許すことができなかったからである。何も生み出さない歴史というものは存在しない。古い組織の途方もない危機は新しい革命的指導部を生みださずにはおかなかった。もしマルクス主義が歴史の自己意識だとするならば、このような状況下において、この自己意織は大変な困難ののちにはじめて形成されるし、大変な努力によってやっと生れうるだろう。
 この長い歴史を生き抜き試練に耐えた組織は、まさにこの五〇年間の世界の現実に深く強く根をおろしていたが故にそれが可能だったといえよう。
 第二インターナショナルは古いヨーロッパ諸国で、一方では、日々の労働者の利益を守ることに成功したかぎりで労働者階級全体とその歴史の点で結合している。しかし他方それは、労働者階級の改良の要求を受け入れるかぎりにおいて続く資本主義体制と結びついている(註)。
 (註) 次のような問題が起ってこよフ。すなわち、もし社会民主主義の存在が資本主義の存在とわかちがたく結びついているとすれば、労働者国家におけるその消滅はスターリニズムのテロルとは別の理由で説明されるのではないか、「一党独裁」という理論はこうして正当化されるのではないか。この疑問は全面的で深い研究を必要とするし、この本の範囲内で説明しきるのは困難である。ここでは次の点にふれるだけで十分であろう。
 (a) 革命の高揚と勝利は歴史的には、必ずしも消滅するとはいわないまでも、改良主義と中間主義のかなりの弱体化を意味していた。
 (b) 資本主義と社会主義の間の過渡期社会において、その全期間中、労働者階級は種々の組織を持つことになるであろう。日々の要求と長期的利益の関係において種々の異なった展望を持って幾つかの組織が存在するであろう。過渡期社会において異なった党――より改良主義的な党と、より革命的な党――の存在する余地がのこりつづけるであろう。しかしこれは未来の問題であり、今日われわれが理論的に解決するよりは、その時になって人々が自身でよりよく解決するだろう

 公認共産党はその強固さの基本を十月革命とソヴィエト連邦のまわりにつくられその全世界への拡大として自己が出現したようにみえるという事実から得ている。ソヴィエト連邦は最初の、そして長い間唯一の、労働者国家であったため資本主義社会を新しい社会へ転覆させる必要に目ざめた全ての労働者の注目の的でありつづけた。トロツキストはしばしば次のように指摘してきた。すなわち広範な大衆――とりわけ後進国の大衆――にとって、官僚支配下における労働者民主主義の破壊ということよりもソヴィエト国家の経済的発展の方が無限に重要性をもつ。なぜなら、これらの大衆はブルジョア民主主義のささやかな利点など全く知らないからである、と。これらの国の闘士たちにとってどんなにわずかであれソヴィエト連邦の物質的援助は欠かせられないものであり、しばしば裏切るクレムリンの政策的マヌーバーよりも信頼できた。
 資本主義国においても、党の政策について不安と失望をもったとはいえ、しかし他の所属すべき組織を見いだしえなかったがゆえに、いかに多くの真摯な革命的闘士たちが共産党の党員たりつづけたことか!
 ソ連の他に労働者国家が成立し、そして労働者国家間の深刻な対立が発生して、はじめて非常に政治的な活動家の層以上に広い層が労働者国家とその一時的な指導部とのちがいを明確に認識しえたのであり、スターリン主義が社会主義世界革命を犠牲にして帝国主義と和解していることを理解しえたのであった。
 この結果、もはやモスクワの官僚指導部は労働者の“導きの星”でも注目の的でもなくなり、またこうして深い危機が各国の共産党をおそった。労働者国家においても労働者階級を指導する党は社会的危機に直面させられている。資本主義諸国の党の改良主義的腐敗はおそかれはやかれ党を壊滅させるだろう。各国の闘士達はおおっぴらに公認された改良主義か新しい革命的道かのいずれかを選択せざるをえないだろう(註)。
 (註) トロツキーは、スターリン時代の初期において、もしスターリン主義が克服されないならばスターリン主義は共産主義と改良主義の中間地点にまで共産党をひきづっていくだろう。 しかし、そのような立場は長くは続かないだろうと指摘した。トロツキーの予言以上の期間スターリン主義はつづいたわけだが、トロッキーはこの基本的趨勢を非常な鋭さで予見したのであった。

 第四インターナショナルが資本家共と何一つつながりを持たなかったことは明らかである。
 最初の労働者国家――その存続はいかなるときでも防衛されねばならない――のなかで、資本主義世界に対する政治の分野とすべての改良主義的潮流に対する理論闘争の分野で、第四インターナショナルはまさに一種の改良主義であるスターリン主義により資本主義によってかけられた以上のむごたらしい迫害を受けた(註)。
 (註) スターリン主義が、ボルシェピズムの正統な子孫であることを証明する多くの論文が書かれたが無駄であった。スターリニズムと第一次大戦以后急速に出てきた左翼社民とはその政治的概念において多くの類似性を持っていることをホすのは、簡単である。メンシェビズム、オーストリアマルクス主義、イタリアマルクス主義、SFIOのブレイク、ジロムスキーの傾向等等。

 しかしながら第四インターナショナルは、この年月に唯一世界プロレタリアートの根本的、歴史的利益を代表してきたが故に、生きつづけ成長することができた。そこには何等、神秘的な密教的な理由は仔在しない。第四インターナショナルはその根本土台として、トロツキーと国際左翼反対派を通して、ボルシェビキ党と、第三インターナショナルの遺産を直接に継承した。第四インターナショナルはこの歴史的遺産を防衛し維持しつづける正統の後継者である。スターリニズムに屈服した各国共産党とスターリニズムによって変質・容解させられたインターナショナルはもはや革命の簒奪者以外の何者でもない。
 インターナショナルとして存在したという事実そのものによって第四インターナショナルは常にプロレタリアートの利益を体現しつづけてきた。
 第四インターナショナルは、プロレタリアートの勝利をそれがどのようなものであれ拒否はしなかったが、国際的規模での革命の勝利を前にしてそのひとつに特別の位置を認めることを拒否した。社会主義者であると称しながら一因的存在でしかなく国際組織の不可分のひとつとはいえないすべての組織は、この間消え去るか、重大な政治問題の衝撃により揺ぎ没落の運命を甘受せざるをえなかった。
 このインターナショナルな視点――この重要性については歴史はむじひな判定を下している――こそ、社会主義の世界的勝利を真に求めようとする闘士は一瞬たりとも放棄すべきではない。なぜなら、世界は今までのどの時代よりも強く――より複雑な形態で――一体化されているからである。
 「共産党宣言」の九十周年記念のための序文で、トロツキーはマルクスの「団結した行動(最小限、先進国における)こそプロレタリアートの解放の第一条件である」という言葉につけ加えて「資本主義の一層の発展の結果、わが惑星のすべての部分は“文明国”も“未開発国”も緊密に結び合わされ、社会主義革命の問題は完全にかつ決定的に世界性に依拠するようになった。ソヴィエト官僚はこの根本問題において完全に『共産党宣言』を清算しようとしている。ソヴィエト国家のボナパルチスト的堕落は『一国社会主義論』という虚偽をあますところなく説明している」とのべている。
 この文章が書かれてから三十年後の今日、「一国社会主義論」「革命への各国の道」(これは孤立の時期につくられた一国社会主義論を“社会主義陣営”という状況に適用したものである)の支持者の意見に反して、社会主義革命の国際的性格はますます明らかになっている。ベトナムの闘争は、革命的運動が帝国主義にたいして世界戦略をもたねばならないことを雄弁にものがたっている。さらに、チェコスロバキアへの軍事侵攻は社会主義という言葉が官僚の一国的利害によっていかに侵犯されているかをなににもまして証明した。
 国際主義者としての行動は機関紙によってだけ世界政治をフォローするのでは決定的に不充分である。国際的政治方針は全世界の階級闘争を実践的に結合して闘うという困難な努力によってのみ明らかにされる。
 自己の官僚的利害を良く知り、無駄とみえる闘いはやろうとしないソ連、中国の指導者たちにあれほどおそれられる第四インターナショナル、数的には少ないにもかかわらず比較対象のない政治的力をもつ第四インターナショナル、その力は各メンバーの行動によってゲリラ闘争、ラテン・アメリカの貧農の反乱、アメリカの黒人、南アフリカの闘士達、ブラックアフリカ、北アフリカの人々、中近東の革命的闘士達、多くのアジア諸国の闘士達、東欧とソ連邦の労働者国家の前衛、西ヨーロッパの若き前衛等々を結合することから来る。
 帝国主義者とスターリン主義者の第四インターナショナルに対する反革命的宣伝において、第四インターナショナルはそれが果していない役割を果したといわれ、もっていない影響を与えたと、とされる。とはいえ、第四インターナショナルの闘士は過去行なわれた、あるいは現在行なわれている大きな闘争にすべて参加している。第四インターナショナルの戦士の参加からえた教訓は世界階級闘争の政治的、理論的分析の重要な部分となる。行動からはなれた正しい知識というものは存在しない。第四インターナショナルのみが、各国の階級闘争の教訓を統合、結合する唯一の組織である。これ故にこそ第四インターナショナルの分析が、その国際的立場が――完全に誤ったことはないといわないにしても――ほとんどいつの場合もいかに知的で社会主義と革命にシンバシーをもっていたとしても個人やグループが行なう分析よりもすぐれているのである。
 この問題において、インターナショナルのイミテーションがどんなものがキューバ指導部が良い例を示している。キューバ指導部はラテン・アメリカ全体として社会主義を実現するために闘争の組織化の援助をこころみることによって、他の全ての労働者国家の中できわだった国際主義者であることを証明した。しかしながら、一九六八年、フランスの五月に対する沈黙とチェコスロバキアへの軍事侵攻についての立場により多くの支持者、同調者を落胆させた。植民地革命についての図抜けた理解を考えて見るに、このような政治的怠慢はなにゆえにもたらされたのか? その政治的欠陥はキューバの視野がラテン・アメリカ大陸と、植民地諸国に限定されていたことによって生み出されたものである。ヨーロッパ労働者階級の運動、東ヨーロッパ労働者国家とソ連邦の労働者階級の闘争は、その視野からはずれている。なぜならばキューバの視野は水平線を広げこれらの諸問題をグローバルに把握する国際的構造をもっていなかったからである。
 一九三三年以来、第四インターナショナル建設に関する議論が続けられてきた。たとえば「われわれは各国規模で大衆的、革命的組織を建設することからはじめねばならない」、「このようなプロセスを通してのみ第四インターナショナルは成功的に建設される」。これ等の主張は家の建設にたとえれば屋根(インターナショナル)をつけるまえに壁(各国の党)がつくられねばならないという主張になる。この種の考え方は二十世紀の今日におけるインターナショナルと各国の党の関係についての根本的思いちがいを露呈している。今日までどんな組織も一国的規模では革命の必要性に完全にこたえる綱領を獲得することができなかったことを思いおこす必要がある。「一国社会主義」とか「革命への各国の道」等というものは存在しないが故に、世界革命の道具は唯一世界党のみである。この世界党は、世界革命の不均等発展故にすべての国で同じテンポでつくられるとはいえない。大衆的、革命的インターナショナルの創造と各国革命党の建設は時間をおいてわかれたふたつの仕事ではない。この二つの任務はインターナショナルと各国支部のたえることのない相互作用が示す一つのプロセスなのである。この問題の重要性を理解するために最後にブルジョアジーが彼ら自身の歴史的経験を通してインターナショナルの存在を非常におそれていることを知るのは無駄ではあるまい。
 このインターナショナルの問題は、世界革命の発展が植民地革命を通じてのみ発展し、東西ヨーロッパが改良主義によって支配されているという時代的象徴のなかで一時後景にかくれていた。しかし一九六八年の情勢の転換は、先進的マルクス主義組織の中でインターナショナルの必要性を緊急の課題に押しあげたからには、その状況は長くばつづかないだろう。インターナショナルという思想は百年以上も前にヨーロッパで生まれた。インターナショナルという思想が幾度となく現実性をおびたのはヨーロッパにおいてであった。数十年というスターリン主義の影響も、この伝統を破壊しきることは出来なかった。
 ヨーロッパは世界の生産力の最も強固に集中している地域であり、ヨーロッバはどこの地域よりも生産力が国家の障壁と衝突している。生産力の発展と腐朽した民族国家の矛盾は二度の世界大戦の根本原因であった。ヨーロッパ社会主義合衆国へと発展すべき社会主義革命は不成功に終ったために、われわれは一方のEECと他方のコメコン(相互経済援助体制)という二つのマンガ的「統一」をともなうドイツの分割によるヨーロッパの社会的、地理的二分状況を見てこなければならなかった。ヨーロッパにおける革命の再度の高揚はヨーロッパの社会主義的「再統一」を必ず議題にのせるだろう。その結果、再びプロレタリアの革命的インターナショナルが日程にのぼるであろう。
 未来のインターナショナルの革命的組織は現在の第四インターナショナルを構成するカードル組織の単線的発展上にあるのか、それとも他の方法によってなしとげられるのか、このように問題を提出することは好むと好まざるとにかかわらず問題を今日ある状況からはぐらかすものでしかない。アテネがゼウスの頭から生まれるように革命的マルクス主義組織が突然に、奇蹟的に大衆的、革命的インターナショナルをつくれるなどと誰も主張しないだろう。
 組織は今日ある組織であり、状況をかえうるためには、われわれは現状をひとつの出発点として活用して闘わねばならない。
 われわれは長い時期において第四インターナショナルが大衆的闘争を形成し、指導することについて、あまりにも非力であったことをまず残念におもう。しかし過去においてあやまりがあったことを否定しないにしても、それは重要な基本的問題に関してではなかったと考える。それゆえ、もしいくらかの点で失敗とあやまりをさけえたとしても第四インターナショナルと労働者大衆の闘争との本質的関係に変化はおこらなかったであろう。
 私はこの四十年間、もしインターナショナルのための客観的基盤が存在しつづけたとするならば、なぜ大衆的、革命的マルクス主義指導部建設の問題を解決しうる勢力がつくられなかったのか、その理由を想像することは困難である――非常に多くの試みがなされたのだ。第四インターナショナルに対する多くの批判者の中で、われわれより良い方法を示したり、実際によりよい行動を起しえた人々を見たことはない。その反対に、ヨーロッパの各国で社会主義革命が前進しはじめた時、第四インターナショナルは闘争の最前線に位置していたし、各国で大衆闘争を活性化させたのも第四インターナショナルのメンバーであった。
 第四インターナショナルはあれや、これやのセクトの中のひとつではない。その歴史は社会主義革命の最大の激動期における革命的マルクス主義のインターナショナルの歴史そのものである。
 資本主義社会のわく組みのなかで闘争する組織をこえて発展する労働者階級の闘いは――それは資本主義体制を否定する国家の出現に結果するが――複合的発展という巨大な現象を現出せしめた。実際には、この発展は長年革命的マルクス主義者のかなりの組織的な後退とも結びついていた。政治行動に関するかぎりは、われわれはその基盤を失なわざるをえないときもあった。しかヒ、第四インターナショナルは一瞬たりとも、一インチとも理論的にはゆずらなかった。加えるに、このことは若い世代に多くの疑問をとくための豊かな理論的、政治的貢献をすることになる。労働者階級組織の官僚の問題、労働者国家の官僚の問題、スターリニズム、政治革命、植民地革命の永久的発展、ファシズムとボナパルチズム強権国家に関する理論、等々。第四インターナショナルに参加してきた人々は、この歴史をほこりに思う正当な権利がある。前衛的カードル組織として第四インターナショナルがかくとくしてきた政治的、理論的成果は長い間、それがとおってこなければならなかった段階をこえて第四インターナショナルが前進することを可能にするであろう。
 今日、第四インターナショナルに参加することは、全ての大陸と多くの国々で闘われている戦闘の一員になることを意味する。そして資本主義に対する巨大な戦略を発展させ、他の第四インターナショナルの同志とともに、ありとあらゆるところでこの戦略を適用して闘うことを意味する。そして年月をこえて再び、十月革命、ボルシェビズム、第三インターナショナルの旗をたかくかかげ、今日の階級闘争の勝利まで、それをひきつぐことを意味する。


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