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第九章 第四インターナショナルのために生涯を捧げた人々

 以上述べてきた文章は、とりわけトロツキスト運動の政治活動、理論活動、巨大な事件がつづいた半世紀における組織活動――これらの事件がすべての国における革命的指導部の建設と革命的マルクス主義政党の建設に対し提起した諸問題――の分析にあてられた。理論と政治の分野における前進がいかに困難であったか、またこの前進が分析と再分析、絶えることのない内部論争と討論によってのみ可能であったということをわれわれは見てきた。しかし第四インターナショナルの思想と綱領と組織はこれに参加した人人によって存続させられ、発展させられてきた。われわれはいままでほんのとびとびに過去において第四インターナショナルのために闘い、死んだトロツキスト運動の戦士の名前をあげただけである。
 このような主題についてどのような本が書かれるべきであろうか。トロツキストのおかれた状況はかって労働者階級がおかれたどのような状況よりも苛酷なものであった。ブルジョアジーの弾圧はつねにきびしかったし、強力な労働者国家に支えられた官僚にだまされた誠実な革命的な労働者からさえ攻撃され、その結果、多くの有能な革命家が自己の能方を十分に発揮する位置にはおかれなかった。
 トロツキーの名前は、ナターリヤという協力者とわかちがたく結びついて、彼のつくった運動に参加した人たちのなかで一きわたかくそびえている。彼の名前は革命の日々の英雄的名声としてよみがえりつつある。しかし、新しい世代に知られることもなく、むしろスターリン主義の中傷によって労働者の眼には汚点としてうつりつづける人々がいかに多いことか! トロツキストの運動は通常、その目的のために闘った人々についてひかえめなものである。歴史は少しづつであれ国際的にすべての国においてその人々について正しい評価を与えるであろう。
 スターリン主義のトロツキストに対する執拗な脅迫の別の結果として、長い期間にわたって多くの人々が混乱させられることになった。このことは前衛が必要とする周辺の人々――シンパサイザーや友人を極端に減じさせた。われわれは、この逆境にあってわれわれの友人であった人たち、第三インターから脱退し、われわれと同じ道は歩まなかったにしても、またわれわれと見解の相違があったにしても、生涯をとじるときまで世界革命に忠実であった革命家たち、をたたえる。
 彼らの名前は次の通りである。

アルフレッド・ロスメル、マルゲリッド・ロスメル夫妻
 第四インターナショナル創立大会が彼らの家で行なわれた。

モーリス・スベクター
 カナダトロツキスト運動の創始者。

H・ストックフイシュ(ヘルシュ・メンデル)
 1905年、1917年革命の闘士、ポーランド・トロツキスト運動の創始者、ドイツチャーをこの組織に獲得した。

アンドレアス・ニン
 スペイン内戦中ゲ・ベー・ウに暗殺される。

パオル・フレーリッヒ、アルカディ・マスロフ、ウーゴ・ウルバーンズ
 彼らはドイツ共産党の元指導者である。

アンドレ・マルティ
 彼はフランス共産党を追放されて後、トロツキストと親密な関係を持ちつづけた。

ジョン・ベアード
 労働党の国会議員、彼は常にわれわれの側にいた。

ロマン・ロスドルスキー
 ぬきんでたウクライナの共産主義者。

ルイ・ポルク
 ベルギー共産党の中央委員、ベルギー左翼反対派結成に献身した。ノイエンガム収容キャンプで死ぬ。

タン・マラッカ
 1914年、スネーフリートと共に、インドネシアで革命的社会主義運動を創設し、大戦後、ゲリラ闘争の戦闘中に行方不明になった。

 次にあげるのはトロツキズムの旗を高くかかげ、そして闘いで死んだ人達の不充分なりストである。

ニコラ・デ・バルトロメオ(フオスコ)
 イタリアの共産主義労働者。
 ファシスト支配下、フランスに追放され、スペイン内戦に参加。フランスに再び帰ったときイタリア官権にひき渡され、収容所にとらえられた。第二次大戦後釈放され、イタリアのトロツキスト組織を再建。1946年、44オで死亡。

アンゲル・アマード・ベンゴチェア
 1940年代、アルゼンチンの最初の学生反乱の指導者、社会主義青年同盟の指導者、ラ・プラタ大学の法学部に在籍、社会党の内部にマルクス主義反対派を組織した。1946年トロツキスト運動に参加。50年代工場で働き、ペロン主義労働組合の指導者となる。1957年6ヶ月間逮捕され収容された。他のラテン・アメリカの国々と運動を結合して1963年、政治軍事組織を形成し、戦闘中に殺された。

へルナンド・ブラボー
 ボリビア教師の指導者、POR(ボリビア革命的労働者党)の代表として第四インターナショナル世界大会に参加、任務に従事中死去。

ジョセフ・フレイ(1882―1957)
 1914年以前、ウィーンの労働者新聞=「アルバイターツァイトゥンク」の編集長、18年革命時ウィーン兵士評議会議長、オットー・バウァー、フリッツ・アドラーらと訣別して共産党に入党、1927年以后、トロツキストであるという理由で追放された。

ホセ・アゲーレ・ガインスボルグ
 チリー共産党の指導者、亡命後ボリビアの革命家として1934年ボリビアPOR(革命的労働者党)を組織し、理論的指導を行なった。長年追放、監禁状態におかれ、34才で死亡。

ジユール・エニン(1882―1964)
 抗夫、1905年以来ベルギー労働者党のメンバー、1919年ベルギーの共産主義者の最初の一人となり、1927年トロツキスト組織をつくった。1932年シャルロワ炭坑夫ストライキ闘争を指導し逮捕された。大戦中、非合法活動を活発に指導した。長い間、第四インターナショナル統制委員会の一員として活躍した。

マルセル・イック
 1933年18才でフランスのトロツキスト運動に参加(国際主義労働者党と青年レーニン主義派)、フランス組織を再建し、一九四〇年八月から「ラ・ヴェリテ」を発行、ナチ占領中はフランス支部の書記を務め、第四インターナショナル・ヨーロッパ書記局会議に参加、1934年逮捕された。ドーラ収容所における彼の勇敢な態度は注目をひいた。彼はそこで死んだ。

ヨセフ・ヤコボヴィツ(1915―1943)
 ヒットラー占領中、オーストリアのグループ「流れに抗して」の指導者、1943年10月軍隊内に不服従闘争を指導し、国家叛逆罪で死刑宣告を受け、処刑された。

ザビス・カランドラー
 共産主義歴史家、1936年、モスクワ裁判を公然と批判した。第四インターナショナル・チェコスロバキア支部書記、1950年、スターリニストによって「スパイ」として逮捕され処刑さる。「プラハの春」において名誉回復された。

ローズ・カースナー(1890―1968)
 18才でアメリカ社会党に参加、1909年 雑誌「民衆」の編集者となる。1921年共産党結成大会に参加、被抑圧者を救うため弁護、救援活動に献身した(有名な、サコとバンゼッティの件等)。1928年米国のトロツキスト運動の創立に参加、彼女は生涯をこの活動に捧げた。

フランツ・力シヤ(1903―1943)
 ヒットラー占領中のオーストリアの「流れに抗して」の指導谷、194年10月軍隊内の不服従闘争を指導し国家叛逆罪にとわれ、死刑判決で処刑された。

ルドルフ・クレメント
 若いドイツ人トロツキスト、トロツキーの秘書、1938年第四インターナショナル創立大会の直前、その準備活動中、ゲ・ペ・ウに暗殺される。

アブラハム・レオン(1918―1944)
 ワルシャワに生まれる。シオニズムと訣別し、「ユダヤ人問題――マルクス主義者の立場」を書いた。第二次大戦の開始後、ベルギー・トロツキスト運動に参加し、その組織者となる。ヨーロッパ書記局の結成に参加、1944年6月逮捕され、同年9月アウシュヴィツ収容所で死亡。

レオン・ルゾワ(1891―1942)
 第一次大戦中、ベルギー軍ロシア派遣部隊の兵士、10月革命後帰国し、ベルギー共産党の創始者の一人となる、1923年同党中央委員となり、「国家防衛」に対する「陰謀」の罪で起訴された。1927年ベルギー・トロツキスト組織を結成。1932年、シャルロワ盆地の炭坑ストライキを指導、第四インターナショナル創立大会にベルギー代表者として参加、1941年逮捕、1942年ノイエンガム収容所で死亡。

セザール・ロラ
 ボリビアのシグロ第20鉱山抗夫の指導者、1965年6月19日、バリエントスの軍隊に暗殺された。

B・マルカリユン・ラオ
 アンドラとボンベイで学生として革命運動に参加、後に組合運動の活動をとなる。インドのマスドールトロツキスト党の創始者の一人、1942年イギリス帝国主義に対する蜂起に参加、地下活動に入る、1944年逮捕され二年の刑を受ける。1947―8年、ハイデラバードの君主がインド合衆国に統合されるまで、彼らに対するゲリラ闘争を闘う、1949年組合指導者に選ばれ、1959年アンドラプラディシュ公務員ストライキ闘争を指導して再び逮捕される、1965年、社会主義方働者党の組織委員会のメンバーとなり、1966年30年以上の行動的戦士として死亡。

シェリー・マンガン(パトリス)
 米国の著作者、ジャーナリスト。1934年以来のトロツキスト。ナチ占領中、フランストロツキスト組織の運動に参加、ペタンによってフランスを追放され、大戦中、地下グループと連絡をとりつづけた。マッカーシズムによって困難な活動状態を余儀なくされ、フランスでアルジェリア革命支援の非合法活動に参加した。長年第四インターナショナルの指導部として活動し、1961年57才で死亡。

ジャン・メシュレ
 1929年「ラ・ヴェリテ」創始者の一人。亡命ドイツ人トロツキストの機関紙「ウンゼル・ヴォルト」の編集長。そのため逮捕され、フランスが占領されている間、人質としてとらえられ、人質として処刑された。45才であった。

アンリー・モリニエ(マルク・ローラン)(1898―1944)
 技術者、「ラ・ヴェリテ」の創始者の一人、慎重な判断で任務をやってのけた。第二次大戦中、POI(フランス国際主義労働者党)の軍事問題の担当者であった。パリ解放闘争の中で戦闘中砲弾をあびて戦死した。

ムーリン
 ドイツ人トロツキスト。スペイン内戦中、ゲ・ペ・ウに殺された。

パンテリス・プーリオプーロス
 1922年、ギリシャ軍隊内の行動に従事し、「資本論」をギリシャ語に翻訳した。第三インターナショナル第五回大会にギリシャ共産党の代表として参加、1925年ギリシャ共産党の書記をしたが1927年トロツキストとして党を追放された。ギリシャ・トロツキスト組織の書記。1936年メタクサスのクーデターのあと地下にもぐる。1939年逮捕され、イタリア人に人質として射殺された。時に43才。その時、イタリヤ人の射撃隊に向かって堂々と演説をした。

アート・プライス(1911―1964)
 アメリカ人トロツキスト。オハイオ大学の学生、後に発禁になった「自由の声」の発起人。1933年トレードにおいて失業者を組織し、失業労働者を労働組合に組織し、CIOトレード評議会の一員となった。1940年以降、「ミリタント」労働問題担当編集者を続け、「労働者の巨大な前進」や1929年から55年までのアメリカ労働組合運動の歴史についてのべた「CIOの20年」を書いた。

イグナス・ライス(ルドヴィヒ)
 ポーランドの共産主義者、ロシア革命の内戦時の英雄、ソ連邦諜報活動の主要な指導者、1936年の最初のモスクワ裁判でスターリニズムと訣別し、今までの勲章を返し、公然と「私はトロツキーと第四インターナショナルに参加する」と宣言した。その数週間後ローザンヌ近郊でゲ・ペ・ウに暗殺された。

ウォルフガング・サルス
 チェコスロバキアの若き共産主義者、1929年18才でこの国のトロツキスト運動の創設に参加、第二次大戦後、チェコスロバキアの組織の再建に貢献し、追放中に死亡。

レオン・セドフ
 トロツキーの息子。1927年ソ連邦を追放される、それ以后、トロツキーの晩年の活動の援助に一生をかけた。全てのモスクワ裁判において、トロツキーと共に被告とされ、死刑判決をされた。パリで不可解な死をとげた。ゲ・ペ・ウに暗殺されたものと思われる。

へンク・スネーフリート(1883―1942)
 オランダ労働者階級の指導者。1914年インドネシア社会主義運動をおこし、1920年インドネシア共産党をつくった。第三インターナショナル第二回大会へのインドネシア共産党の代表者となる。第三インターナショナルを代表して中国共産党へ派遣された。スターリニズムと訣別し、オランダ労働組合連合―NASの指導者となる、1932年海軍の反乱を支持して投獄される。RSAP(オランダの革命的社会主義労働者党)の創始者、大戦中逮捕され1942年4月13日、ナチスによって射殺された。彼の英雄的死はこの国の見本としてたたえられつづけた。

陳独秀(1879―1942)
 北京大学教授。1911年民主主義革命の指導者、中国共産党を創立し1920―27年、書記長となる。トロツキスト左翼反対派に参加、1932年国民党に逮捕され、13年の禁固刑を受け1937年仮釈放され、1942年死亡。彼は今もって中国共産党指導部によって中傷、非難されている。

夕・トウ・タオ
 ベトナムトロツキスト運動の創始者。第一次大戦中サイゴン労働者を指導し、第二次大戦中は逮捕されていた。1946年釈放後、間もなく謎の行方不明、スターリニストに暗殺されたものと思われる。

ピエル・トレッソ(ブラスコ)(1893―1943)
 1925年以来イタリア共産党の中央委員、政治局員、第三インターナショナル世界大会に同党を代表して参加、1930年、トロツキストとして追放され、フランスで亡命者として活動、共産主義者同盟の指導部。1932年コペンハーゲン協議会、38年第四インターナショナル創立大会に参加、マルセーユ軍事裁判で十年間の強制労働の刑を受ける。ピュイ刑務所にうつされ、レジスタンス組織によって他の政治犯と共に釈放された。しかしその後間もなく、他のトロツキストと同じくレジスタンス闘争の最中、行方不明となる、スターリニストの暗殺にあったと思われる。

ジョセフ・バンツラ−(ジョン・G・ライト)
 ハーバード大学化学科の学生、1929年アメリカ・トロツキスト党に参加、トロツキーの著作を数多く翻訳した。1956年52才で死亡。

パオル・ヴエントレイ(ウイデリニ)
 ドイツ人共産主義者。フランスにおいてドイツの占領中「アルバイター・ウント・ゾルダート」(労働者と兵士」の編集長となる。この新聞はドイツ人とフランス人の交流を深める新聞であった。ナチスに逮捕され射殺される。

エルウィン・ヴォルフ(N・ブラウン)
 最初のチェコスロバキアのトロツキスト、ノルウェーでトロツキーの秘書となり、スペイン内戦中、ゲ・ペ・ウに暗殺される。

ヴィセント・レイモンド・ダン(1889―1970)
 17才でIWW(国際産業労働者連合)に参加、1919年アメリカ共産党の創立に参加、1928年トロツキスト運動に加入。1934年、後の巨大な労働組合運動の高揚の先がけとなったミネアポリスチームスターのストライキ闘争を指導した。1938年、第四インターナショナル創立大会のトロツキーとの準備討論に参加、1941年16ヶ月の刑を受けた。

エミール・デクー(1910―1970)
 ベルギーの坑夫、30年間模範的戦士として闘いぬく。1934年社会主義青年防衛隊に入り、そして第四インターナショナルベルギー支部に加盟した。非合法組織の期間中、重要な任務をやりとげた。

リベロ・ビローネ(1913―1970)
 ファシスト体制下、イタリアで非合法共産党活動家となる。1938年モスクワ裁判を批判し党を追放される。1943年逮捕され、ムッソリーニが倒されて後、釈放され、共産党に再加入するが間もなく階級協調路線を批判して追放され、1945年にトロツキスト運動に参加、教師として教員労働組合の多くのポストにつき、長年「バンディエラ・ロッサ」の編集長についた。

ゲオルク・モルトヴェト(1881―1971 )
 オランダ人医者。20世紀に入るまでプチブル政党に属していたが、マルクス主義者になり、知識層向けの定期刊行物を発行した。オランダで反ファシズムドイツ人亡命者を支援し、1943年ナチ占領下コペンハーゲンの北部地方の非合法共産党の指導的活動を行ない、戦後1950年共産党の政府入閣と改良主義に反対して共産党を追放され、1955年第四インターナショナルに加入した。「裏切られた革命」をオランダ語に翻訳し、レーニン、トロツキーの伝記を書いた。しばしばトロツキストの政治展望をラジオで発表した。彼は著名人としてこの国で認められたが、彼は偉大な知識人であった。

シャルル・マリー(1915―1971)
 鉄道労働者。第二次大戦直後、トロツキスト運動に参加、長い間熱心なかつ不屈と闘士として闘う。ルーアンで孤立しつつトロツキズムを防衛して闘い、アルジェリア戦争中、合法・非合法の活動を行なった。彼は運動の再建を行ない、後の「1968年5月」の時、フランス共産主義者同盟の最大地方組織をになうことになる青年を結集した。ルーアンの鉄道労働者細胞は彼の名前を冠している。彼は共産主義者同盟第二回大会の名誉議長になった。

ルイズ・エドワルド・メルリーノ(ニコラウ)(1947―1971)
 ブラジルのジャーナリスト。1971年7月、この国の支配者階級にふって暗殺された。彼の活動はサントス大学の学生時代にはじまり、その後、サンパウロの新聞関係のサークルで、指導と示唆の任務を常につとめ、1968年POC(共産主義労働者党)に加盟、すぐに同党の指導部になった。彼は経験を通じて第四インターナショナルに近づいた。彼はある反対派を形成し、そのために国内、国際問題について論文を書いた。しかし数ヶ月のフランス滞在後、サンパウロに帰るとすぐ逮捕され、拷問にかけられ虐殺された。

トーマス・チャンビ
 POR(革命的労働者党、第四インターナショナル・ボリビア支部)の中央委員。バリエントス・オバンド独裁体制のもとで逮捕され、独裁体制の崩壊後釈放された。バンセルのクーデターに対する闘争で、ラパス地方の貧農軍の指導者として銃弾にたおれた。死体とともに彼の遺言ともいうべきノートが発見された。ここには「私はPORの戦士である。この組織は私に勇気と正しい闘争の道を教えてくれた。革命のために最后の勝利方才」という革命の信念が書かれていた。

ピーター・グラハム(1945―1971)
 アイルランドの若き革命家、「コノリー記念青年団の一員として闘争をはじめた。急速にトロツキズムに接近し、アイルランドの「労働者グループ」に入った。ダブリンにおいて「労働者民主主義と青年社会主義者同盟」に参加し、ロンドンにきて、そこでIMG(第四インターナショナルイギリス支部)に加盟、「レッドモール」の編集活動を行なう。単身、ダブリンに帰り、アイルランド支部結成をはかるが原因不明のまま暗殺された。彼の死に対して、IRAをはじめとして全てのアイルランド社会主義運動組織は深い哀悼の意を表した。

ルイス・プハリス(1942―1971)
 アルゼンチンの若き革命戦士。1961年パラブラの労働者グループに参加、1964年PRT(人民解放軍)の創立者の一人、PRT第二回大会で中央委員に選出され、後に執行委員に選出される。ブエノスアイレス地方の政治・軍事闘争の責任者。1971年9月17日逮捕される。判決によってロザリオに送られ、9月22日ブエノスアイレスに帰されたが、そのとき当局は彼を拘禁していることを否定した。状況からさっして拷問で殺されたらしい。

 トロツキストが受けた犠牲は、そのメンバー数に比して労働者階級の運動の他のすべての潮流が受けたものよりもひどかったことを、以上みてきたわけであるが、この不完全なりストをおえるに当って再度ソヴィエト・トロツキストたちのことを思い起さねばならない。
 彼らは運動を組織し、スターリンが彼らを皆殺しにするその日まで敢然とその迫害にたいしてたちむかった。
 ボルクタにおいて1936年10月から37年4月まで非常な困難の中にもかかわらず132日間3000人以上の政治犯とともにハンガーストライキを闘いぬいた彼等の物語をわれわれはキャンプから帰ってきた人の証言として聞いた(註)。
 (註) カトリエーム・アンテルナチオナーレ1962年12月発行No.17とアイザック・ドイッチャーの「追放された予言者」を参照せよ。

 アレクサンドル・ソルジェニツィンは「煉獄の中で」をかき、彼らの英雄的最后に世界の偉大な文学の中でふさわしい場所を与えた。

 第四インターナショナルのために闘い死んだ同志と、その思い出のためにこの小冊子をささげる。

あとがき

 同志ピエール・フランクは、第四インターナショナル国際執行委員会ならびに統一書記局のメンバーであり、また同時に共産主義者同盟(フランス支部)の政治局メンバーである。同志ピエールは、1906年生まれで、フランス支部において最古参のメンバーであり、また第四インターナショナル統一書記局にあっても最長老のメンバーである。同志ピエールは、現在もなお、現役の指導的メンバーとして積極的に活動をつづけている。
 同志ピエールは、1925年、フランス共産党に入党し、共産主義者としての意識的活動をはじめた。1929年、フランス共産党から除名され、フランス左翼反対派の新聞『ラ・ヴェリテ』紙の刊行に参加した。トロツキーのプリンキポ亡命時代に、秘書としてトロツキーの活動をたすけたことがある。1931年以降、共産主義者同盟(フランス左翼反対派組織)の指導的メンバーの一人となり、それ以降、今日にいたるまでフランスにおけるトロツキスト運動の中心的メンバーの一人として政治活動をつづけてきた。戦後においては、第四インターナショナルの国際書記局の一員として、また1963年の再統一後は統一書記局の一員として国際活動にたずさわってきた。
 同志ピエール・フランクは、1920年代後半から今日にいたるフランスにおける共産主義運動の歴史的連続性をその政治的人格において体現していると同時に、第二次世界戦争後においては第四インターナショナルの国際活動の中心にあってトロツキズムとインターナショナルのために闘いつづけてきた。こうして、本書『第四インターナショナル小史』は、同志ピエールにとって、自ら積極的に参加し闘いつづけてきた同時代史にかんする梗概であり、要綱であるということができるだろう。
 1940年代末から1960年代初めにかけた時期は、トロツキズムとその国際的運動たる第四インターナショナルにとって困難な政治的孤立の時代であった。だが、キューバ革命の勝利とアルジェリア武装独立闘争につづく、ベトナム人民の英雄的反米武装解放闘争の前進は、国際主義の精神の再生にむけて全世界の青年を動員した。この青年の世代は、植民地世界、労働者国家群、帝国主義世界において、帝国主義的資本主義と植民地主義、そして労働者国家の専制的官僚制にたいする自らの国際的解放闘争の戦列をきずきはじめた。同志ピエール・フランクが本書『第四インターナショナル小史』をもって呼びかけているのは、まさしくこの新しい青年の国際主義的世代である。同志ピエール・フランクは、国際スターリニズムを真に克服し、レーニン、トロッキーの伝統をうけつぎ実現する新しい共産主義インターナショナル、すなわちトロツキズムにもとづく第四インターナショナルを建設することをわれわれに呼びかけているのである。世界革命の勝利のために!
 本書は、1969年フランス語版として最初に発表され、昨年英語訳として『インターコンチネンタルプレス』誌に連載された。スペイン語版はヴェネズエラにおいて刊行されている。

  1973年4月  《国際革命文庫》編集委員会


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