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第七章 世界情勢の転換(1968年)

 一九六五年一二月に開かれた大会の構成には各支部を再び活性化させた青年の流入が反映されていた。つづく数年間この現象が強くなっていったことにより、かなり多くの新しい問題が提起されることになった。われわれはわれわれの歴史が現実の政治に合体する地点へと到達したのである。
 表面的な無関心、ヨーロッパの政治的停滞、労働者国家における“非スターリン化”につづいて成立した改良主義の底辺で熟しつつあった世界情勢の転換に、もっとも最後的かつ決定的に貢献したのは、ベトナムにおける戦争であった。マルクスがいったように、革命というこの老モグラは容赦なく掘りつづけているので、ある晴れた日に、掘り崩された大地が突然陥没するかもしれないのである。
 他の現象もまた、情勢の転換に同じく有利な方向へむけて働いた。例えば、中国の“文化革命”は、しばしばそれがとったとっぴな形態にもかかわらず、一つの例であった。中国共産党九全大会の声明からみると、“文化革命”は基本的に官僚的に保守化した党を別の党、官僚的であることは同じだが、より活発な別の党によって置きかえようとするものであった。この行動が実行されたやり方の一つは、旧機構にたいする大衆動員であった。しかし、資本主義諸国の何と多くの人間が、ただこの動員だけをみて、革命的行動をやろうと勇気づけられたことだろうか。
 資本主義諸国で学生が活性化したという国際的現象は、世界情勢のこの転換の前兆であった。その当時まで、ただ後進諸国の学生だけが大衆闘争に参加していた。植民地革命において、学生が常に重要な役割を果してきたことはまったく驚くべきことではない。だが、先進資本主義諸国で学生が政治の領域にはいるという現象は新しいものであった。これは歴史上前例がない――ブルジョア革命においてさえそうした例はない。各国での特定の状況がこの現象のなかでそれぞれの役割を果したが、この現象は規模において国際的であったため、共通の客観的基礎をもっていたはずであった。はじめて――そして、この多かれ少なかれ豊かな時期において――学生たちが、ほんの少数ではなく広汎な大衆として、既成指導部とは独自に大学機構を攻撃しさらに資本主義社会の社会機構そのものへの攻撃へと移ったのである。さまざまな徴候はまた、労働者階級の青年が、既成労働指導部の統制の外部で同じく自己の独自の道を見つけようと目覚めてきたこと(たとえ今の所、学生層よりも明確ではないとはいえ)を示していた。最後に、はるかに予期せざる目新しい現象が現われた――高校の青年たちの政治的覚醒である。インターナショナルは、青年層におけるこれらの発展の異例の重要性をただちに把握した。
 各支部は急速にベトナム革命を支持する宣伝、煽動にたずさわっていった。この活動の目的は、平和運動のはてしない請願やおくびょうな手段とは真向から区別される、真の影響をもち本当に効果的な巨大なデモを組織することであった。これは、“交渉せよ”という要求(モスクワの平和共存政策の道具として作られた)と、解放民族戦線の勝利、ベトナムの勝利を目的とする革命的政策との相違をはっきりと確立することによってのみ実践することができる。
 中国とその支持者たちが従った政策――多くの面でそれは混乱していたにはちがいないが――も、クレムリンの衛星諸党を超えてベトナム革命を支援するのに有利に作用した。
 革命的傾向を押し進めるのにもっとも貴重な貢献をしたのは、チェ・ゲバラの有名なスローガン、“二つ、三つ、さらに多くのベトナムを”だった。彼はこのスローガンを現実のものとし、帝国主義勢力を別の戦線に引きつけるため、命をかけた。
 トロッキスト活動家は、ベトナム問題での大衆行動を支持するあらゆる者を単一の広汎な統一戦線に糾合するため、各国で――まずアメリカと日本で、つぎに西ヨーロッパのいくつかの国で――組織された特別グループの最先頭に常にあった。西ヨーロッパで初めてのベトナム・デモの背後には、トロツキスト活動家がいた(一九六六年一〇月一五日リエージュ、一九六七年一〇月チェ・ゲバラの死に際してのデモ、一九六八年二月二一日のベルリン・デモ)。彼らはバークレーでの闘いの最中におり、アメリカのあらゆる反戦行動の最先頭にいた。イギリスにおいて、一九六八年一〇月二七日ロンドンの街頭を一〇万のデモ隊で埋めたあのキャンペーンの統一を維持してきたのは、彼らであった(註)。
 ベトナム防衛のためのこれらの行動とともに各トロツキスト組織は、革命的政治綱領を求めて徐々に、十月革命やレーニン、トロツキーの思想、そしてトロツキズム運動の真実を知り始めていた広汎な青年層と結合した。各国トロツキスト組織(特に長くかつ困難な衰弱の時期を送ってきた西ヨーロッパ諸国およびアメリカ組織)は若返り、かつて経験したことがないほど多くのメンバーを獲得するという成果を手に入れた。
 このような現象が、労働者ではなく学生が獲得されているといったかたちのセクト的批判を引き起すのは不可避的であった。トロツキスト運動のような前衛組織が、労働者階級運動にとって欠くことのできない、貴重な知的勢力を見いだせる一社会層のなかで、活発に行動し、メンバーを獲得していけないという理由は何もない。しかしこの事実とは別に、先進資本主義諸国で全般化した学生の急進化は、これまで存在したのとは異なる新しい社会情勢に特有のものであるため、分析に値した。
 技術の進歩、経済の必要、科学の新しい発展――これらすべては、大学人口を文字通り爆発する火薬庫にかえた。学生の数があまりにも増大したので、その社会的重要性に質的変化が生じた。同時に、これら学生のため社会のなかで準備されている地位は、もはやかつてのようにはいかなかった。大学に入学するとき――そして、もっと早く高校にいるときでさえ――彼らは資本主義社会の矛盾に極度に関心をもつようになった。彼らは、新資本主義社会の新しい矛盾に気付く最初の層でさえある。この現象はアメリカにおいて特に広汎な形をとったが、同じ傾向は他の所でも現われた。帝国主義の砦アメリカには約六〇〇万の学生がいることになり、これは人口中に農民が占める割合とくらべてさほど少なくはないのである。
 この学生人口は、大学都市に集中している。彼らが勉強しても、以前ほとんどの大学生がそうであったように、父親のあととりになったり、資本家、工業家、商人、ブチ・ブルジョア専門家(医師、弁護士等等)という兄の地位と同じ所につくことはできなくなっている。かつてあれほど多くの技術者がやったように、大工業プラントで重要かつ高給の地位を見つけるという希望は、失なわれてしまった。新しい学生たちは、大企業ないし国家に搾取され、生活のために働く人間になるよう定められている。中産階級の一部として、これらの学生たちは、労働者とまったく同じように、失業に脅かされている。そして、この学生人口の数多い社会各層部分は、社会の他の多様な矛盾に特に敏感である。
 (註) SLLが“プチ・ブル”グループとの共同行動に加わるのを拒否したときほど彼らのセクト主義が哀れにみえたことはない。現状では、このSLLの立場はSLLをしてその活動を単に第四インターナショナルとその支持者に対する攻撃と、改良主義的スターリニスト的指導部に対する純粋に口先だけの非難の水準へと下げてしまった。またその立場は巨大な大衆運動からの全面的な孤立へ導いた。こうして彼らは、一九六六年十月一五日第四インターナショナルを非難する目的で数百人のイギリス青年をリージュに送ってからというものは、一九六八年十月二七日のロンドンのデモ――おそらく第二次世界大戦以後イギリスで行なわれた最大のデモ――に参加することすらしなくなった。このデモはその効果という点でウィルソン政府の政策を全体として左からゆさぶるものであったが、SLLはこれをプチ・ブルの集会として位置づけ、“欺瞞”と呼んだ。

 資本主義による高等教育の利用(自然科学では、例えば、核エネルギーを軍事目的に利用するとか、また社会科学では人間による人間の搾取といった社会的に破壊的な目的のため教育を利用するとか)、もっとも抑圧された層(植民地大衆、黒人その他)に対して資本主義社会がとるひどいやり方、これらすべては学生たちを、疎外の機能をより良く充たすためにだけ“改良”されてきた教育制度の批判を超えてつき進ませた。彼らは、学生たち自身をも犠牲者にしている悪の根源を批判することにまで進んだ。
 インターナショナルが新しい世界大会の準備を始めたばかりのとき(この大会では、世界情勢の基調のほかに、中国“文化革命”といったきわめて重要な特定の問題が検討されるはずだった)、国際情勢の転換が起った――実際これは、第二次大戦後最大の転換であった。
 ベトナムのテト攻勢によるアメリカの痛烈な敗北によってはじまった一九六八年は、社会主義革命の歴史において確実に一つの標識となるだろう。二つの事件がきわだっている。まず何よりも、フランスにおける一九六八年五月である。学生革命によって爆発した一、〇〇〇万労働者のゼネラル・ストライキは、つづいて小ブルジョアジーの大多数を国家の権威と生産手段の私有制度や、他の多くの資本主義的機構にたいするかってない挑戦にみちびいた。これに、チェコスロバキアにおける革命的高揚がつづいた。その高揚は、ソヴィエトの軍事占領の最初の一週間をつうじて、労働者国家においてかってない規模と強さをしめした。
 この二つの事件の重要性は筆舌につくしがたい。そして、規模においてこれに劣るが、同じ方向をさししめしている他のいくつかの事件をあげなければならない。
 (a) 大統領選挙においてしめされたアメリカ帝国主義の二大政党制とその指導部の危機(ジョンソンの退陣とニクソンならびにハンフリーにたいする熱意の全般的欠如、ニクソンにもハンフリーにもいかなる政治的権威もかけていた)。
 (b) 国際共産主義運動の危機、モスクワは長期にわたる一枚岩的で極度に位階制的な国際運動での「指導者」としての権威を決定的に失なった。
 (c) イギリス労働党政府のみじめな破産。イギリス労働党は国際社会民主主義勢力の最大のものであったし、国際社会民主主義はこの労働党政府に非常なる期待をかけていた。
 (d) ラテン・アメリカの都市大衆が、数年間にわたる相対的な受動性の後に、活発化した。このことはそのブルジョアジーによってラテン・アメリカ型の革命にたいして免疫性があるとみなされてきたメキシコにもあらわれた。
 すでにその前兆が二年来明白であったこれらの高揚、とりわけ新しい世代が古い官僚の統制の外部にあるということは、第四インターナショナルのヨーロッパ諸支部にたいしてその戦術の転換という問題を提起した。これらの現象があらわれるやいなや、トロツキスト運動は一定の戦術的調整をおこなった。このことは、アルジェリア戦争時のフランスにおいて、この戦争にたいする労働者階級の党の立場の結果、ことにそうであった。だが、それは部分的な調整にすぎなかった。以上にのべた現象の規模と広がりは、いくつかの諸国の政治的舞台において一つの要因になるにたる程に強力な潮流が共産党の左翼に形成されるための土台をあたえた。かくして、一九六七年にヨーロッパの各国支部は、加入戦術修正の見解をともなう戦術にかんする論争を開始した。この点にかんする公然たる討論は戦術の転換にむけられていた。加入戦術は、旧い指導部のヘゲモニーと他方において宣伝グループの段階を現実にのりこえることができない前衛グループとのあいだに存在していた不均衡ゆえに支払われねばならなかった代価であった。いまや次の可能性が存在していた、――すなわち、いまだ圧倒的な少数派であるにもかかわらず、ある部門において全国規模の重要性を獲得するに十分な力を行使しうるような組織をつくる可能性がである。さらにまた加入戦術はほぼ一五年以前に以下のような展望にもとづいて定められたものだったのである、――すなわち、当時の力関係にもとづいて、旧指導部の危機はこれら旧指導部それ自身の内部における左翼潮流の発展をつうじて発展するだろうというものであった(本書 九四頁参照)長期的繁栄ゆえに、伝統的諸組織内部の左翼は、大衆的な労働者階級の運動が全体として経過したと同じような右傾化を全般的にとげた。ほんの極小数の場合に、反対のことがおきたにすぎなかった。われわれにとって、これら極少数の事例が旧い戦術を正当化しただけだった。
 「加入戦術」を非難しつづけたものたちがセクト主義へと衰弱しはててしまったとき、一九六八年のフランスの五月は、共産主義学生連合(UEC、共産党の学生組織)内部にたいする加入戦術の適用の結果として革命的共産主義青年(JCR)が形成されたということをしめした。革命的共産主義青年(JCR)は、フランスの五月にたいするトロツキズムのもっとも価値ある貢献であった(註)。また、ドイツにおけるドイツ社会主義学生同盟(SDS)が、この国における大衆組織である社会民主主義から発生してきたということを忘れないようにしよう。
 (註) 一九六八年のフランスの五月は、国際共産主義組織(OCI、ランベール派)の方針の評価をも可能とする。加入戦術にたいするこの大いなる反対者は、キューバとベトナムの問題にかんしてイギリスの社会主義労働者同盟(SLL、ヒーリー派)と同じ路線をとった。第二次世界戦争以後のヨーロッパ階級闘争の歴史における最大の事件において、「革命家」という称号を自分自身のメンバーだけにしか許そうとしないこのグループによる日々の告発は、ブルジョア国家の力との対決を回避するところまでいってしまった。国際共産主義組織(OCI)は、「虐殺」にひきづりこまれないようにと、いつも警鐘をならし、後退を擁護した。この点については、ダニエル・ベンセイド、アンリ・ヴェべ著『一九六八年五月、一つの総稽古』(Daniel Bensaid, Henri Weber; "Mai 68, une repetition generale", Paris, Maspero, 1968)を参照していただきたい。この本の著者たちは、国際共産主義組織(OCI)のセクト主義が決定的瞬間において何故にどのようにして積極的な日和見主義に変化し、また高揚がひいてしまうときセクト主義にまいもどるのかということを見事にえがきだしている。
 一九六八年の転換は政治的無関心の時期に終止符をうった。先進資本主義諸国において第二次世界戦争後しばらくしてはじまった政治的停退は終った。労働者諸国家における「非スターリン化」の最初の数年にひきつづく改良主義的時期は終った。この転換は、世界革命がほとんどもっぱら植民地革命によって前進させられた時期に終止符をうった。世界革命がほとんどもっぱら植民地革命によって前進させられるという事実は、世界革命の過程をかなりの程度にゆがめ、改良主義的もしくは革命的な様々の理論を多くうみだした。これらの理論は一つの点において共適していた、すなわち、プロレタリアートは、ことに先進資本主義諸国のプロレタリアートは革命的役割をはたしえないというものであった、ラテン・アメリカの大都市におけるデモンストレーションはもちろんのこととして、フランス、ならびにチェコスロバキアにおける労働者階級の大衆的活性化は、これらの理論すべてにたいして致命的打撃をあたえた。世界革命の過程が二〇年間にもわたって余儀なくされてきた歪みは消滅にむかった。
 以上のような理論的にも政治的にも大いに有利な諸条件のもとで、インターナショナルは一九六九年の世界大会の準備をおこなった。一九六九年四月に開催されたこの世界大会に、三〇ヶ国から九八名の各国支部代議員、兄弟組織代表、オブザーバーが参加した。
 この世界大会が採択した主要な文書は以下のとおりである。
 (a) 同志エルネスト・マンデルによる世界革命の新しい上昇にかんするテーゼと報告。二票の反対をのぞいて、満場一致で採択された。
 (b) ラテン・アメリカ革命にかんする決議。同志ロカによって提案され、三分の二の多数で採択された。
 (c) 中国における「文化革命」にかんする決議と同志リヴィオ・マイタンの提案報告。圧倒的多数で採択された。
 (d) インターナショナルの当面する活動を急進化しつつある青年層にむけ、そのことによって提起される諸問題にかんする討論を開始することについての決議。この討論は、同志アルバートによって提案された文書をもってなされた。
 大会はまた、同志マンデルによってなされた統一書記局の活動報告、インターナショナルの財政にかんする報告、ドイツ、アルゼンチン、セイロン、イギリスの運動の情勢にかんする諸決議を満場一致で採択した。公式に支部が存在していなかったイギリスについて、国際マルクス主義者グループ(IMG)を第四インターナショナル・イギリス支部として承認した。
 大会に提起された世界革命の新しい上昇にかんするテーゼは、一九六八年に生起した世界情勢における転換を以下の六点に要約した。
 1.キューバ革命勝利の後にアメリカ帝国主義によって開始された帝国主義的反撃は、ブラジル、インドネシア、多くのアフリカ諸国において一時的な成功をおさめたが、テト攻勢(一九六八年)によって軍事的イニシァテイブをとりもどした英雄的なべトナム大衆によって行詰まりをむかえた。
 2.ベトナム人民の勝利的な抵抗は、帝国主義諸国における経済成長の全般的緩慢化と一致し、この後者は多くの帝国主義諸国において社会的矛盾を尖鋭化させ、階級闘争を激化させた。
 3.一九六八年のフランスの五月は、ヨーロッパにおける革命的高揚をふたたび活性化した。
 4.ベトナム革命の勝利的防衛といくつかの帝国主義諸国における革命的闘争の復活は、植民地革命にたいして、それまでの局面における障害をのりこえ、ふたたび推進力を獲得する可能性をあたえた。
 5.官僚的に堕落した、あるいは不具化された労働者国家における政治革命のための条件の成熟は、ベトナム革命とフランスの五月という革命的危機に刺激されて、チェコスロバキアとユーゴスラビアにおいて広範な大衆の動員をすでにもたらしたし、またソ連そのものにもおしよせつつある。
 6.伝統的大衆諸組織から独立した新しい若い前衛の全世界規模における登場は、われわれの時代の中心的任務、すなわち世界プロレタリアートの新しい革命的指導部を創出するという任務の解決に有利に作用する。
 活動報告は第四インターナショナルの闘士たちがはたした重要な――しばしば決定的な――役割について正当にも言及している。それは次のような運動においてであった。ベトナム革命とキューバ革命防衛の運動。ブルジョアジーによって迫害される闘士たち(ウーゴ、ブランコ、ペルーの革命家たち、メキシコの学生)、労働者国家の官僚によって迫害される闘士たち(ポーランドの同志クーロンとモジェレフスキー)の防衛。社会主義アラブ革命支持の運動、等々。活動報告はまた、全世界におけるトロツキストの新聞その他の出版物の面における前進、多くの言語といまだ発表されたことのない言語によるトロツキーの著作の巨大な発行と再発行について指摘している。
 とりわけ重要なことは、一九六八年のフランスの五月の事態にたいするトロツキスト運動の参加にかんする報告である。この参加は世界大会そのものにおいて頂点にたっした。それは、第四インターナショナル・フランス支部が共産主義者同盟によってとってかわられたということである。共産主義者同盟は、一九六八年五月以前のトロツキスト組織の一〇倍も大きく、はるかに大きな影響力をもっていたし、これ以降共産主義者同盟がインターナショナルのフランス支部になった。
 このきわだった前進とともに、世界大会の各参加者はあらゆるところでなされた前進について報告した。インターナショナルの指導機関と各国支部は、世界社会主義革命の隊列における新しい世代の深い可能性を表現する若いカードルによってあたえられる新鮮な血が自らの血管をかけめぐるのを感じた。
 世界情勢の転換はトロツキスト運動の構成と前進によって表現されただけではない。この転換はたんに一般的に確認されるだけではなく、トロツキスト運動それ自身の伝統にもとづく深い分析方法のもとで注意ぶかく検討された。討論は、全般的任務を一般的にあきらかにするにとどまることなく、この世界情勢の転換の主要な結論、すなわち、インターナショナルの活動を新しい情勢が要求するより高い新しい水準にまで高めるべきことを強調した。組織は自らのスローガンをもって大衆闘争に参加することだけにもはや満足することができない。組織は、すくなくともいくつかの諸国やいくつかの闘争分野において、指導的役割をはたすという目標をかかげて介入するだろう。かくして、トロツキスト運動が行動をつうじていくつかの地点において決定的な突破口をきりひらくという問題が、きわめて生々と展開された世界大会討論の中心軸であった。
 世界大会に提起されたそれぞれの主要文書の討論過程において、トロツキスト運動が(幾年にもわたってスターリニストの流れに抗しようと企図し、官僚的桎梏をうちやぶることができなかった革命的高揚を目撃した後に)その歴史においてはじめて、もはやたんに理論的のみならず行動においてもまた自己の綱領の有効性を――いまだ限られた階級闘争の戦線においてではあるが――証明することによって自己の運動の突破口をきりひらく可能性をもったということが明らかとなった。世界大会は、この新しい情勢、それが意味するもの、また革命的マルクス主義にもとづく大衆的インターナショナル建設にたいしてそれが提起する展望を十分に自覚していた。このような転換が大会においてたんに賛否の投票をすること この投票がいかに重要であるとしても――だけによって実現されえないということは明白である。現在の時期は、インターナショナル、その各国支部あるいは政治的にむすびつく諸組織にたいして、われわれの運動内部におけるすべての党のあいだの結合をつよめると同時に、この転換を現実のものにするための持続的な日々の活動を要求している。
 世界大会直後に、共産主義者同盟は、その大統領候補である同志アラン・クリヴィーヌの重大な選挙運動をつうじて、トロツキスト運動にたいして大きな成果をもたらした。この選挙運動は、フランス国境をはるかにこえて、全ヨーロッパの広範な諸層にたいしてインターナショナルを知らしめたのであった。それ以降、共産主義者同盟はフランスにおける階級闘争の前衛としての地位をまもりつづけており、そのメンバー数と影響力は拡大しつづけている。
 第四インターナショナルの各国支部の多くとアメリカ合衆国の社会主義労働者党(SWP)は、第九回世界大会以降、国によって様々のテンポをもってだが、非常なる拡大をしめした(いくつかの支部は十倍にもなった)。この同じ期間に、第四インターナショナルが以前存在していなかった多くの諸国において支部凖備組織がつくられた(スウェーデン、ルクセンブルグ、アイルランド)。また支部が崩壊していた国(スペイン)や数的に弱体化した諸国(スイス、メキシコその他)において、支部が再建された。このような現象は日本、オーストラリア、ニュージランドのような諸国にもひろがっている。アルゼンチンにおいては、労働者革命党(PRT、Ejercito Revollucionario del Puebio)は人民革命軍(ERP、Partido Revolucionario del Trabajadores)の政治的指導部として武装闘争を開始しており、その作戦のいくつかは労働者革命党の名声と権威を全ラテン・アメリカをつうじて高めた。ボリヴィアにおいては、同志ウーゴ・ゴンザレス・モスコソに導かれた革命的労働党(POR、Partido Obrero Revolucionario)は武装闘争の準備をおこなっていた。(ボリヴィア軍部の)バンセルのクーデターにたいする抵抗闘争において、革命的労働党中央委員たる同志トマス・チャンビをふくむ約四〇人の同志が戦闘において殺害された。その他多数の同志が負傷し、投獄された。第四インターナショナルは、ベトナムにおける戦争にたいする闘争の最前線にたっており、全世界の階級闘争においてますます活動的に介入している。
 トロツキストであると自称しながらも第四インターナショナルに敵対する諸グループ(パブロ派、ポサダス派その他)はセクトのままにとどまっている。若干の組織規模をもっているたったの二つのグループたるフランスの国際共産主義組織(OCI)=「社会主義のための青年連盟(AJS、Alliance des Jeunes pour le Socialisme)」とイギリスの社会主義労働者同盟(SLL)は、第四インターナショナル「再建」のための「国際委員会(IC)」をつくっていたが、一九七一年一〇月に分裂した。
 第四インターナショナルの前進は、一九七〇年と一九七一年の二つの大きなデモンストレーションによって具体的にしめされた。一九七〇年一一月、インターナショナルは、欧州共同市場(EEC)の本部所在地たるベルギーのブラッセルにおいて国際会議を組織した。インターナショナルは、このブラッセル会議において、多国籍企業のヨーロッパにたいして「赤色ヨーロッパ」のスローガンを対置した。「赤色ヨーロッパ」、すなわち社会主義ヨーロッパだけがこの旧大陸における東西の分裂を克服することができるのである。ヨーロッパのすべての諸国からやってきた三、五〇〇以上の熱狂的な人々――その大多数は青年であった――がこのブラッセル会議に参加したのであった。
 第四インターナショナルは、パリ・コミューン百年を記念し、世界コミューン、すなわち世界社会主義革命をめざすデモンストレーションを一九七一年五月パリにおいて組織するよう呼びかけた。三〇、〇〇〇以上の人々がベルヴィユとメニルモンタン地区を一杯にし、一八七一年コミューンの最後の闘士たちが死んでいったベール・ラシエーズ共同墓地のミユール・デ・フエデレを行進した。ぎょうてんしてしまったブルジョア・ジャーナリズムは、このデモンストレーションを「ほとんど青年であり」「熱気にみちていた」と報じた。ブルジョア・ジャーナリズムはまた、社会党、統一社会党その他によっていくつも組織されたデモのうちで、――約六〇、〇〇〇人が参加した共産党のデモを別にすれば――このデモンストレーションが最大のものであったということを認めなければならなかった。
 第四インターナショナルが創設された目標、すなわち世界社会主義革命の勝利を保証することができる大衆的で国際的な革命的なマルクス主義的指導部と大衆的革命党を建設するという目標に到達するためには、いまだ長い道のりがある。トロツキストは長期にわたってこの目標を追求してきた。――それはただ歴史的必要、労働者階級が歴史をつうじて示してきた革命的能力、革命的マルクス主義とその分析の正しさにたいする深い確信にもっぱら依拠してのことであった。トロツキストにとって大衆的規模の行動に介入する可能性は、その間、まったく最小限のものでしかなかった。今日、旧い指導部は道をふさぎ、労働者階級の意識を毒しつづけている。だが、今日以降、トロツキストの活動の背後にあるのは理論的確信以上のものである。
 資本主義の矛盾のもとに生きている新しい青年の世代は反資本主義的解決をもとめており、その前衛は思考と行動において革命的マルクス主義を再発見しはじめている。トロツキスト運動の道程とこの青年前衛の道程は一点に集中しはじめているのである。


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