分裂と再組織化(第六回世界大会)
一九五三年の分裂の結果、とりわけ北アメリカの運動はインターナショナルと対立するようになった。このため組織内では危険な不均衡が生じた。すなわち、アジアの代表の参加が制限され、のちに明らかになるようにセイロン支部の堕落がはじまり、ヨーロッパの各支部は好ましからざる条件――ますます増大する政治的無関心――のもとで活動せざるをえなくなった。もちろんヨーロッパの各支部は活動の大きな部分をアルジェリア革命の支援に捧げた。しかしこの活動は非常に重要な活動だったとはいえ、それはかぎられた(しばしば非プロレタリアートの)グループをまきこんだだけであり、これらのグループは植民地革命には同情的であったが、先進資本主義国における社会主義革命については敗北主義的感情をもつものが多かった。植民地諸国で起りつつあることとヨーロッパの完全な政治的停滞との間には鋭いコントラストがあった。植民地諸国では、大衆運動が敗北をこうむったときでも、急速に力の回復があった。一九六〇年の黒人アフリカの革命は勝利した。帝国主義ののどもとのキューバで社会主義革命にむかっての勝利の前進がつづいた。他方ヨーロッパでは、一九五八年ドゴールが権力の座につき、プロレタリアートは第二次大戦後もっともきびしい敗北をこうむりつつあった。
もうひとつ重要な現象は、中ソ論争が与えたトロツキスト運動への反響であった。
この出来事は第四インターナショナルだけでなく国際委員会に再結果したトロツキスト運動の一部にも影響を与えた。ここでもさまざまな意見の違いが起った。こうして、意見の違いと再グループ化を含むプロセスがインターナショナルの再統一を準備した。しかし他方、第六回大会の直前にインターナショナルの重大な危機が熟しつつあった。
インターナショナル指導部の内部で、意見の対立が明確になってきた。まず第一に、植民地革命の支援に活動の大部分をさいてきたヨーロッパの各支部の戦術問題についてである。つまり、ヨーロッパ各支部がそれぞれの国の問題にとりくむことはほとんど、あるいはまったく、無価値であると考える傾向があらわれてきた。この傾向は、ヨーロッパ諸国の労働者階級についてすべての希望を失ってしまうというわれわれの運動のなかにある潮流を反映したものであった。この傾向はとくにフランスでドゴールが権力をにぎることによって非常に強められた。フランス共産党は一九五八年の後半に、それまでの得票のうち百五十万をドゴールに奪われ、はじめて選挙戦における大きな敗北をこうむった。一定部分にとっては、植民地革命への援助の重要性は当面する政治情勢によってきまるようなものではなく、むしろ唯一の可能性というべきであり、ヨーロッパのプロレタリア革命は非常に先の――永久に先というわけではないにしても――目標になってしまった、ということになる。
当時インターナショナル指導部の内部で、パブロとボサダスの間に一種の協定が結ばれた。二人は“ヨーロッパ人”、および、一般的に非常に低い戦闘性しか示していないようなヨーロッパの大衆運動内部における政治活動を放棄しようとしないインターナショナル指導部のメンバーに対してブロックを結んだ。この傾向の端緒的なあらわれは一九五九年暮国際執行委員会が次回世界大会の招集を決定しようとしたとき明確になった。大会文書が準備されつつあるとき、同志パブロとサンテンがアムステルダムで投獄されアルジェリア革命の支援活動が告発された。この逮捕に対し組織は反撃を加えメンバーの防衛のため大規模なキャンペーン――アルジェリア革命の防衛につながったキャンペーン――を敷いた。
この逮捕は、ポサダスが国際指導部の多数派メンバーに対する乱暴な分派闘争をしかける機会を与えた。ポサダスは大会で多数を制するため全力をあげてラテン・アメリカの自派を動員した。ポサダスはあたかもパブロのスポークスマンのようにふるまい、このときから彼の立場と発言はますます法外なものになりはじめていた。彼の大会における態度があまりにも極端であったため、パブロの傾向の先達者であった小グループの同志たちは、ポサダスの主張に同情を寄せるどころか逆にポサダスと緑を切った。大会で敗れたボサダスは数ヵ月はインターナショナル内部での闘争を追求したが、パブロが釈放される直前、突然に彼の力が及ぶラテンアメリカの組織で公然とパブロを攻撃し、インターナショナルから脱退した。
一九六一年はじめに開かれた第六回大会は約三○の国から一〇〇名の代表の参加をえた。ポサダス派から仕かけられた激しくきびしい――しかし政治的には不毛な――闘争のため、大会討論の結果はインターナショナルの思想を真に発展させるものではなかった。いくつかのケースでは、恒常的で連続的な革命の上昇と資本主義がもはや――革命的蜂起が最終的に必然的であるという一般論ではなく――しばらくの間ですらそれを押ええない、といった単純な発言を論ぱくしなければならない状況であった。しかし大会が承認した諸文書が重要でなかったというわけではない。
国際経済情勢に関する文書は労働者国家の経済成長、とくに中国が工業国として国際舞台に登場してきたことに注目した。同時にこの文書は、当時広く信じられていたフルシチョフの主張――ソ連は経済の分野で急速にアメリカをりょうがする――を効果的に論破した。資本主義諸国については文書は一連の“ブーム”に関してすでに行ってきた説明を更度説明するとともに、この説明をとくに技術革新の自己増殖的効果に関して応用した。この文書はさらに当時動きはじめていたヨーロッパ共同市場の可能性と限界を指摘した。植民地国家に関しては、直線的な後退ではないにしても経済的な停滞を強調し、それが資本主義国からのものであれ労働者国家からのものであれ経済援助はこの状況を改善するにまったく不十分であり、したがってそれは植民地革命への強力な推進力となる客観的な誘因を除去しうるものではない、と主張した。
植民地革命に関する文書は、いくつかの植民地地域もしくは植民地諸国家についての特別の情勢分析を行った。またアルジェリア革命について、独立の勝利がすでに水平線上に展望できるところにきている情勢を含めて、大きなスペースをさいた。キューバについて特別決議が行なわれたが、それは革命の過程をあとづけ、ほんのしばらく前に自己を西半球はじめての労働者国家へと押しあげた、と評価するものであった。
スターリニズムに関する文書は、一九五三―五七年の不安定期につづく時期の“改良主義的”性格に注目し、労働者国家内で形づくられつつある新たな矛盾を指摘した。またこの文書は共産党が支配されている新たな矛盾を分析した。また数週間前の八一ヵ国共産党・労働者党モスクワ会議で採択された文書に示される中国とソ連の指導部の妥協を指摘し、その妥協が長つづきするものではなく、中ソのさげ目は不可避的に再び爆発させざるをえない、と結論づけた。
この大会は一九四八年につづいて二度目にランカ・サマ・サマジャ党(第四インターナショナル・セイロン支部LSSP)の出席を欠いた大会であり、同党の欠席は大会の大きな関心をひいた。LSSPは、一九六〇年三月の選挙で敗北し、それまで描いていた楽観的な展望をくだかれてしまったが、それはインターナショナルに責任を感じさせる出来事であった。インターナショナルがLSSPにあてた内部文書で行っているようにこうした誤った分析と展望を立てた原因を徹底的に調べようとする態度ではなく、LSSPの指導部はインターナショナルが決して賛成することのできない明らかに日和見主義的方法で事態に対処しようとした。国際書記局は公式声明でLSSPの方針と無関係であることを明らかにした。第六回大会は、LSSPが選挙で敗退したあととった政策に不賛成であることを公にした決議を採択した。決議は、LSSPがスリランカ自由党のブルジョア政府の予算案に賛成投票したことを特に非難し、セイロンの党にその方針を改めるよう呼びかけた。
ポサダスと彼の分派(分解しつつあるとはいえラテンアメリカに勢力をもっていた)は声高にパブロを支持すると声明し、彼らの分派がパプロ派と分裂しパブロ派と異なることさえ否定した。しかし大会後、パブロが牢獄から釈放される約二ヵ月前、突然、ポサダスはラテン・アメリカでパブロへの公然たる攻撃を開始した。なぜこのような予期せざる攻撃――当時パブロ自身驚いていた――が生じたのか? それはまもなく明らかになった。すなわち二人は彼らがいうところの“ヨーロッパ人”――エルネスト・マンデル、リビオ・マイタン、ピエール・フランクなどを意味し、次いで“北アメリカ人”を意味する――に反対する点で合意していたとしても、二人は中ソ論争問題においてまったく正反対であったのだ。中ソ論争は、労働者階級と大衆運動全体に大きな影響を与えただけでなく、トロツキスト運動にも同様にかなりの影響をおよぼした。
一九五九―六〇年、中ソの紛争が二つの党の間の政治的見解の相違がかかっている論争として明らかになったとき、インターナショナルはほとんど満場一致で中国に批判的支持を与える反応を示した。中国の立場は、いくつかの基本問題(植民地革命、社会主義への平和的・議会的道、平和共存)でソ連指導部の立場よりも進歩的であった。第六回大会は、八十一ヵ国共産党・労働者党会議で中国とソ連の指導部が妥協に達した直後にもたれたが、そこでは中ソ論争の分析についてインターナショナルは完全に一致していた。牢獄の中から大会にあてた手紙でパブロは次のように書いた――
“この危機――中ソ論争――の不可避な高まりと緩和、相違点の可能な調整、があるにもかかわらず、正確に性格づけを行なうとすれば、この日和見主義右派(ソ連指導部)と中間主義的傾向をもつ翼(中国)の分裂は非常に深く長期につづくと考えられる”。
しかし一九六一年のなかばにかけて、中ソ論争に関する意見の違いがインターナショナル内部に表面化してきた。インターナショナルから分裂したのち、ポサダスは自己の立場をほとんど完全に中国の立場と同調させただけでなく、中国を勇気づけたのは自分だと主張しさえした。モスクワが毛沢東の発言の一部をとらえて、毛沢東が核戦争を欲しているとの欺瞞的な告発に全力をあげていることは広く知られていることだった。しかしポサダスはなんの疑いももたず問題を極端な背理にまで発展させ、世界革命の勝利のためにはソ連は防衛的核戦争をしかけねばならない、と主張するまでに至った。同様にポサダスは中国のカストロ非難に同調し、それに唱和しさえした(註)。しかしインターナショナルの多数がその立場を堅持している間に、パブロはその見解を完全に逆転させた。パブロは中国の立場をスターリニズムだとし、フルシチョフ、とくにユーゴに対し、ほとんど無批判の支持を与えた。
(註) われわれはここではポサダスの署名のある彼の文章に明らかにされた政治的立場を分析するにとどめよう。第四インターナショナルからの分裂以降、ポサダスは自分の宗義を――とてつもないおごそかさでもって――ほめたたえている。こんなことを彼ぐらいうまくやったものは他にいない。
国際委員会
もちろん第四インターナショナルの歴史は国際委員会を構成した諸組織と国際委員会そのものの歴史を含むものでなければならない。この点については、短い記述をなす以外たいしたことはできないことを読者にあやまらねばならない。中心的な困難さは、国際委員会が中央集権的な組織として機能していたのではなくて、むしろメンバー間のゆるい結合にもとづいた分派であったという事実にもとづく。国際委員会に参加していた同志によってもたらされた情報によると、この委員会では国際会議はまれにしか行なわれず、その政治的立場はしばしばメンバー間の意見の交換ののち一国の支部の文書として明らかにされたにすぎない。したがってここでは、そのもとで国際委員会がつくられたところの、すでに述べた状況を、もう一度ざっとみたのち、再統一に至った事情を記すことにする。
最初に、とくに“非スターリン化”がはじまったときその意義をどう評価するかをめぐって、政治的な意見のちがいが存在したとすでに述べた。それとともに、一九五三年アメリカのSWPが分裂の危機に陥ったとき、いったい国際センターはどんな役割を果してくれるのだろうかという疑問が生れていた。いろいろな理由からこの問題は解明されることがなかった。数年間、この疑問はとくにパブロにむけられ、和解への深刻な障害となった。しかし一九五六年はじめには、二〇回党大会と中ソ論争の開始が、スターリニズムの危機の問題についてふたつの国際組織の立場を近づけることになった。
さらに、植民地革命の問題について、国際委員会のメンバーと同調者、とくに北アメリカとラテン・アメリカのそれは、キューバ革命の経験を総括し、それが多くの点でアルジェリア革命に関する第四インターナショナルの経験に似通っていることを確認した。
国際委員会においてもまた、多数派はインターナショナルの多数派と同じ政治的立場をとったが、ここでも異なった明確に対立する立場をとる少数派が存在した。この少数派は再統一がなされたとき国際委員会から分裂した。イギリスとフランスの国際委員会のグループ――SLLとOCI(国際共産主義組織)――はすべての問題についてはっきりした立場をとることがなかったが、上記の見解に立つことを拒否し、極左派の立場に移行した。
このとき以来植民地革命は起っていない。植民地国家は資本主義国家であり――これは事実だ――したがって真のプロレタリアのイニシァティヴ、さらには革命的マルクス主義なしには、これらの国では社会主義革命は達成されず、大衆運動に対する裏切りがくりかえされるだけである。SLLとOCIはこれらの国における農民について不十分にしか理解しておらず、西ヨーロッパの比較的裕福な農民と区別することができなかった。キューバで革命が勝利したとき、彼らはそれを認めることを拒否した。SLL全国委員会の声明は、キューバでは“ブルジョア階級のひとつの層から他の層へ権力が移行する政治革命が行なわれたのであり……かくしてわれわれはケマル・アタチェク、蒋介石、ナセル、ネルー、カルデナス、ペロン、ベン・ベラに加えてカストロを知るのである”“カストロ体制は”、バチスタ体制と質的に異なる“新しいタイプの国家を創り出していない”、と述べた。現時点に至るもなお、SLLはキューバをブルジョア国家とみなし、カストロをバチスタや蒋介石の同類とみなしている!
非スターリン化については、これらのグループはスターリンの死後ソ連で起っているプロセスをほとんど完全に否定した。彼らは自由化が存在すると認めることはスターリン主義への“降服”を意味すると考えた。彼らは“自由化”は一定程度行なわれたが“民主主義化”はまったく存在しなかった、というこの両者の違いを区別することができなかった。
事実、彼らの目には、第四インターナショナルが創設され過渡的綱領がかかげられた一九三八年以来世界にはなんら重大な変化は起っていないのであった。彼らは過渡的綱領を非常に硬直したやり方でまったく字句通り護持し、現在の新たな情勢を理解しようとし、それに対する革命的マルクス主義の政策を明らかにしようと試みるトロツキストたちを投降者と非難したのであった。
V インターナショナルの再統一
危機と分裂の相対的に長期にわたる一時期が、再統一の序曲をなすものであることがあきらかである。この時期における全ての大きな諸事件――“非スターリン化”、中ソ対立、植民地革命――は、トロツキストに対立をもたらしただけではなく、一九五三―五四年の最も深刻な分裂を克服させる点でも寄与したのであった。
第四インターナショナル多数派と国際委員会(IC)多数派との間における“非スターリン化”、植民地革命――キューバとアルジェリアにおける経験の類似性――といった重要な諸問題における政治的相違の減少、これら全ては再統一の課題を提起せざるをえなかった。トロツキズムの復活が世界的に現われはじめていた当時、両者ともに、運動の分裂が第四インターナショナルの前途に横たわる展望をきわめて暗くするものであることを良く知っていた。一九六一―六二年において、接触が開始された。討論の過程において、各々の発行物において識別できる立場の類似性は実に本質的なものであり、再統一の方向において何ら主要な政治的障害が存在しないことが明らかになった。
第四インターナショナルと国際委員会との間におけるパリティ・コミッティ(同数委員会)が共同の会議による再統一を準備するものとして確立された。国際委員会内部とおなじく、第四インターナショナル内部においても、再統一に反対し、その政治的方向づけに反対するもの(一方のパブロ派、他方でのSLLとOCI)は、再統一に関する討論を一九五三年の分裂に関する討論、すなわち、何が分裂をもたらし、責任はどこにあるのか、に従属させようとした。双方の多数派は、このような提案の承認を拒否した。かかる討論の価値を否定するものはひとりもいなかった,――もし、それが建設的な結果をもたらすであろう方向のもとでなされるならば。もし、五三年の分裂が原則的諸問題にもとづいていたものであれば、それらは一九六〇年代において、この間の政治的諸問題に関連して、あれやこれやの形態で表面にあらわれ続けたであろう。もし分裂が本質的にわれわれが考えたように一時期的なもの(分析や展望の謀ち)や組織的原因によるものであるならば、それらは再統一の障害とはならない。分裂の原因と誰に責任あるかという点の探究は、教育的な性格をもつものであるべきであって、かくして相互の一致によって、この問題は再統一に際しては提起せずに、再統一が強化された後に研究されることが決定された。かくして、組織の活動をさまたげることなく、また分裂の間に存在した意見の分岐にそうことなく、討論が開始された。再統一を望むものにとって、少数派の要求の背後に潜在するものが、とりわけこの討論を再統一を進行させるためではなく、さらに分裂を正当化し、なお悪いことに分裂を永久化しようとすることであることは明らかであった。
再統一大会(今日の世界革命の力学)
第四インターナショナルが第七回大会を準備し、同時に国際委員会派がその会議を準備している間に、パリティ・コミッションは再統一の話し合いをつづけた。再統一は前記二つの会議直後の共同会議でおこなわれた。パリティ・コミッションは、なにが共同に討議されるべきかを基礎づける文書を準備した。
かくして、一九六三年六月、インターナショナルの大会と国際委員会の会議が終った後再統一大会がおこなわれ、二六ヵ国の代表が結集した。統一会議に招請されたものの中でポサダス派は返答せず、SLLとOCIは参加を拒否した、二つの会議がおこなわれ、つづいて共同会議は再統一を宣言し、二つの各々の会議で承認された諸文書を公式に採択し、新たな統一指導部を選出した。パブロに率いられた少数派は、国際情勢と第四インターナショナルの任務に関して反対決議を提案した。この少数派は指導機関における席が与えられた。
大会はウーゴ・ブランコ釈放のためのキャンペーンを開始することを決定した。彼はその間近に逮捕され、死刑判決を宣告されようとしていた。
この時、セイロン支部が世界大会に出席していたが、しかし、われわれはセイロン支部が悪い状態にあり、その代議員が指導部内の少数派をのみ代表していることを知った。この支部に何が起こったのかは、後述する。
大会はパブロが報告したアルジェリア問題の討議に丸一日を費やした。大会はキューバで起こったように、アルジェリア革命の社会主義革命への発展の重要な可能性を満場一致で確認し、アルジェリア革命支持のためにインターナショナルとその各支部を全力を挙げて動員することを決定した。
再統一の基礎として、大会はトロツキズムの基本的立場を簡潔にまとめた一六項からなる宣言を採択した。この宣言は、合衆国の社会主義労働者党によって前に採択されたものである。SWPはかかる方法で再統一への完全な支持を表明しようとしたのである。SWPは”民主的”なアメリカの制限法のため組織としては、再統一に形式的には参加できなかったのである。
国際政治情勢の決議に加えて、大会は二つの重要な政治的文書を採択した。一つは中ソ対立とソ連その他の労働者諸国家における情勢を扱っており、もう一つは、今日の世界革命の力学にあてられていた。
スターリニズムに関する文書は、この間におけるその分解の全体像を与えるものである。それは中ソ対立の表面にあらわれたいくつかの相違を詳細に扱い、両者の立場にたいするくわしい批判を加えていた。それはまた、他の共産党内に現われた分化についても検証した。文書はその一つとして、キューバ指導部を分析し、その展望がラテン・アメリカの諸問題に限定されているという否定面は別としてその全体的に進歩的な立場を強調した。文書はまた労働者国家における情勢の詳細な分析を提起していた。そこでは、新たな諸矛盾――反対派的エネルギーをもった傾向も含めて――が表面化しつつあった。ユーゴスラビアは特殊なケースとして分析された。いくつかの重要な点でユーゴスラビアの方向は、他の労働者国家に比較してより正しいものであるが、極端まで押し進められたその非中央集権化、および市場法則の全面的貫徹の承認は、深刻な危険を含むものとして指摘された。最後に、この文書は労働者国家のための行動綱領を再定式化し、スターリニズムの危機に介入し、労働者国家内に支持者を見出すことをトロツキスト運動に可能ならしめようとした。
大会の中心的文書は“今日の世界革命の力学”であった。それは戦後の巨大な昂揚の結果として、全世界をつうじてトロツキストのまさに大多数が到達した諸結論を具体化したものであった。
このテキストは、世界革命がソ連から植民地革命へと発展したが、長年望まれていたように経済的に発展した資本主義諸国家までにはいまだ拡大していないという事実の指摘から始まっている。この文書は、この過程すなわち、革命が資本主義体制の中心部に到達する前に、まず周辺で起こったというこの過程が、決して不可避的なものではなく、本質的に、伝統的な労働者階級指導部たる社会民主主義とスターリニストの裏切りによるものだということを示している。
文書は次に、われわれの時代においては、世界革命は三つの戦線で前進しており、それぞれが特殊な性格――プロレタリア的あるいは古典的な先進資本主義革命における革命、永久革命の道をあゆむ後進資本主義国における植民地革命、労働者国家における政治革命、反官僚革命――をもっていることを述べている。この文書は、三つのセクターを単純に合算することは問題にならないと強調している。というのは、世界革命は相互に影響しあうさまざまな部分によって全体が形成されているからである。そして、テキストの大部分は、これら三セクターの各々と相互関連の分析にあてられている。
しかし、この文書は世界革命の“客観的”諸条件の検証だけに限定されてはおらず、客観的条件におけるのと全く同様に完壁な方法で“主体的”諸条件を扱っている。革命的指導部の必要性を再吟味しつつ(かかる指導部の建設は第四インターナショナルがまさにその創設時に自身に課した任務であった)、第四インターナショナルにたいする意識的な敵対をもたず民主集中制の党の必要性にも反対しない広汎な活動家によって提起されている質問に答えている。その質問とは、何故、第四インターナショナルは大衆的な組織へ発展しなかったのか? 何故一九二三―四三までの革命の引潮期が終ったあとにそのような発展を実現しえなかったのか?
文書はこの質問を避けようとしない。それは、ソ連軍が大きな役割を果したところのナチズムの敗北が、スターリニスト指導部を直接的にいかに強化したかを指摘する。第一次大戦終結時の労働者階級の戦士たちは、帝国主義戦争において彼らを互いに殺し合わせた第二インターナショナルの背信に憤激し、そして、彼らは第三インターナショナルのアピールにこたえた。第二次大戦において、その帝国主義戦争とヒトラーからのソ連防衛の戦争との結合は、大戦終了時において、ミックスした感情と政治的混乱を生み出した。文書はまた、スターリニズムの危機が極端に複雑な諸条件下で発展したが、他方、最も大きなマルクス主義の伝統をもつ諸国家において、労働者階級の側が政治的不活発の段階を経過しつつあったために、第四インターナショナルが発展するためには前進途上に横たわる無数の本質的な障害物につきあたらざるをえなかった、ということを示した。にもかかわらず、確かに伝統的指導部はこれら障害物に侵食されたが、第四インターナショナルは確固たる前進をとげるのをさまたげられなかった。
この文書は、今日の第四インターナショナルが明日の大衆的な第四インターナショナルを建設する闘争の必要性の根拠づけをより強力におこなって終っている。われわれの知るかぎりにおいて、だれもこの文書を批判しようとしたものはいないし、あるいは、部分的であれ、間接的であれ、それにこたえたものもいない。
再統一したインターナショナルにたいする攻撃(分裂者たち)
再統一大会はインターナショナルに遠心力を作用させていたモメントをもたらしていた組織状況に終止符をうった。しかしこれらの力は再統一によって消滅したのでもなく、またこの分野における諸困難が克服されたわけではなかった。
再統一したインターナショナルに共に結集した両組織の多数派はその相互関係においては、ほんの小さなものですら困難らしい困難にでくわさなかった。反対に、彼らは、再統一を望まないものにたいしてインターナショナルを防衛しなければならなかった。数ヵ月にわたって、内部におけるパブロに率いられる分派にたいしても。後者にとって、再統一は、結局は彼らの存在を脅やかす一階程であり、彼らにとってはインターナショナルがいまだ弱体な間にそれを解体すべきであった。
大会はトロツキスト勢力のまさに大多数を再統一した。ポサダス派はまもなくアルゼンチンにおいてわずかな重要性しかもたない一グループへと衰退した。アルゼンチン以外では、個人的に成立していただけである。パブロ派がインターナショナルと公然と分裂したのは、大会の約一年後であったが、この派もまた、数的には非常に弱体となった。インターナショナルの外部で多少でも大きさが問題になったグループはただイギリスのSLL、フランスのOCIのみが存在した。しかし、インターナショナルの内部からは極めて明白にみえることであっても、世界全体にとってはそれほど明白ではない。というのはこの二つのグループは、インターナショナル攻撃を集中した発行物によってのみ自身の存在を知られているからであった。
われわれは既にヒーリーとランベールグループのセクト的立場を示したし、ここで再びかなりにわたって彼らを取り上げる必要はない。極めて奇妙なことであるが、パブロがインターナショナルから分裂した以後も数年間にわたって彼らは“パブロ主義的”インターナショナルに攻撃を集中し、そして彼らの攻撃はパブロ自身にたいしては、より少ない程度でおこなわれ、パブロの脱退後は彼を無視した。彼ら二つのグループを悩ませたのは、パブロ自身でもなく、彼らの思考でもなく、むしろまさしくインターナショナルとその諸支部の存在と活動そのものであった。ヒーリーとランベールのグループは、第四インターナショナルの“再建”を目的とした彼らの“委員会”の国際会議を一九六六年四月におこなうと大騒ぎをした。この会議は完全に失敗に終り、オブザーバーとして参加したものたちとの決裂を引き起こした。
ポサダスグルーブは特にラテン・アメリカにおけるインターナショナルにとって有害であった。そこでは、殊にキューバにとって、ボサダス派が(悪い意味で)トロツキズムと第四インターナショナルを代表していた。カストロの一九六六年一月におけるハバナで開催された三大陸会議での第四インターナショナルにたいする攻撃は、他の革命的諸傾向にたいするものと同様に、ポサダスグループのとった完全に誤った立場によるものであった。キューバ革命防衛の活動を一瞬たりとも弱めることなく、第四インターナショナルは節度をもって、しかし確固としてカストロの反トロツキスト宣言に挑戦した。この点にかんする成果は、翌年の三大陸会議の記念日のラジオ、ハバナのカストロ演説が第四インターナショナルおよび他の革命的諸傾向に向けられた部分がなかったことで確認することができる。
パブロとその分派が大会直後開始した闘争は、数ヵ月続き、その間彼らは一つの問題から他の問題へとしばしば論争のテーマを変えていった。フランス労働者階級がド・ゴールの権力への復帰の結果味わった敗北とともに、バプロの思考に重く影響したものは、独立達成に先立つ数年間とその直後におけるアルジェリア革命の発展であった。彼はキューバ革命の発展過程とアルジェリア革命のそれとの間における類似性を正しく見、したがって、アルジェリアにおける社会主義革命の勝利を期待した。この点にかんしてはパブロとの相違は存在しなかった。一方ではますます第四インターナショナルとの接触を失ない、他方ではアルジェリア運動のトップレベルにたいする彼の個人的干渉能力に誤った希望をもつことによって、日和見的であれ、セクト的であれ彼が考えた国際路線を発展させるというよりは、むしろ、現状のように民主集中制の基礎の上に機能するインターナショナルの必要性そのものを否定したのである(当時、パブロには印象主義的やり方で方針を採用し、しばしば非常に短期間のうち足もとから頭のテッペンに至るまでそれを変更した)(註)。彼は第四インターナショナルにたいする考え方を、彼が以前に激しく非難したもの、すなわち、各々が独立した分派の連合体であり、各々が一致できる問題において共同行動をとるというものにまで押し進めた。この分裂後、彼は基本的に諸事件にコメントを与えることに集中し、それゆえ、彼は大衆運動を新たな革命党を建設するためよりもそれがあるがままの形で利用することを好んだ。
(註) パブロの印象主義的立場が強くあらわれた例を二、三あげよう。彼は一九六五年のはじめ、べトナムからの帝国主義の撤退が早く行なわれるものとあてにしていたが、それは彼の“平和共存”に関する信念を証するものだった。また、彼は、ランコビッチが粛清されたときユーゴスラビアの“政治革命”を読みとった。彼は中国問題について突然態度をかえソ連指導部を好意的に評価した。セイロンについては一連の政治的ジグザグを行なった、など。
セイロン支部の堕落
統一指導部が直面していた最も苦痛に満ちた課題の一つは、セイロン支部の問題であった。ここでその問題を全体的に取扱おう。
ランカ・サマ・サマジャ党(LSSP)は、他の全ての支部に比較して、その起源、構成、セイロン国家における機能と影響において非常に特殊な性格をもった第四インターナショナルの支部であった。このことの大部分は、セイロンそれ自体における政治ならびに社会状況の特色から生まれたのであった。インドの隣国であったにもかかわらず、この島においてはインドと異なって独立を求めるブルジョアジーの運動は存在しなかった。インドにおいては、会議派は第二次大戦中というイギリス植民地主義の最も困難な日々にイギリス植民地主義にたいする蜂起すら組織しようとした。
セイロン独立闘争は、ブルジョア出身の若い知識人たちによって開始された。彼らは一九三〇年代にイギリスの大学に留学中に、共産主義思想を獲得した。さらに、これらの青年のすぐれたものの大部分は、第二次中国革命の敗北に衝撃を受け、敗北の理由を追求するなかでトロツキーの中国革命における立場を知り、永久革命の理論的立場をとるようになった。セイロンに帰国し、彼らはLSSPを創造し、労働者を労働組合に組織しはじめた。戦争の間、LSSPはソ連・イギリス帝国主義同盟のために反植民地主義闘争を拒否したセイロンスターリニストを排除した。
弾圧の結果投獄されたが、これらの青年トロツキストはなんとかインドに逃亡し、そこでその国における闘争に参加し、第四インターナショナル・インド支部建設を援助した。戦後、セイロンに帰国した彼らは、戦時中における彼らのとった態度のために労働者階級の間に多大な支持を得た。セイロン・ブルジョアジー、より正確にはイギリス資本主義に強く癒着した買弁層は、イギリス資本主義の後退から利益を得、そのために全く闘うことなしに一九四八年のインドの目ざめとともに独立を得た。この買弁ブルジョアジーの政党(UNP―統一民族党)が権力の座についた。LSSPは島内第二の党として躍進した――労働者の党として。
このように、スターリニスト的翼を除去したこの党は、第四インターナショナルに参加したわけだが、労働者階級運動内部の危機から生れたわけでもなく、第四インターナショナルの他の支部がそうしたように古い指導部と闘争することによって生れたわけでもなかった。セイロン支部はむしろ、最初にセイロン労働者階級を組織し、イギリス帝国主義からの独立を要求した一群の青年、革命的知識人の勇気ある行動の成果であった。
党を指導したものは、コルビン・R・デ・シルバ、レズリ・グナワルジン、ベルナルド・ソイサ、ドリック・デ・ソウザ、エドモンド・サマラコディらの非常に知的かつ闘争心にあふれたものらが大部分をなしていた集団であった。指導部内には他の要素、N・M・ペレラのように理論的諸問題に精通せず、日和見的性格をもち、その権威はただ彼の体系的な労組活動によってもたらされたようなものもいた。これらの要素は、指導部の核をなす部分によって抑制された。党の隊列は非常に戦闘的な労働者、階級に全てを捧げたものによって構成された。
しかし、客観的諸条件のために、そのスタート時から指導部の政治的水準と党の隊列とのそれとの間にはかなりのギャップが存在していた。労働者の圧倒的多数は英語を知らなかった。彼らの教育のためのシンハリ語やあるいはタミール語による適切な資料が存在しなかったため、労働者はマルクス主義の諸原則、トロツキーと第四インターナショナルの理論の初歩の概念しかもたなかった。党の大衆という点ではLSSPはその始源から本当のトロツキストであったわけではなかった。
党はまた内部闘争をおこない、ブチ・ブルジョア分子と闘い、LSSP指導部は彼らを追放した。この指導部は数年間、真に革命的指導部として行動し、その組織をトロツキズムにむけて前進させようとした。ゼネストがこの国をマヒさせた一九五三年八月一二日におけるその態度は、注目すべきものであったし、のちには、当時セイロンの民族の一つを他に対抗させた地方自治主義潮流に最も断固として反対した。
その知的質の高さにもかかわらず、この指導部メンバーが弱さをもたなかったわけではない。この党は真のボルシェビキ的組織構造をもってはいなかった。その大会は、現実には大衆集会であり、そこではしばしば健全な政治論議よりも雄弁術が重きをなした。組織が選挙において進歩をとげた間には、政治教育は表面的な行動主義に有利なように歪曲され、党内における議会主義的傾向の成長がみてとれた。これらの傾向の存在を知っていながら指導部は断固とした十分な闘争をおこなわず、時には自身が感染した。
最後に、この党は労働者階級には固い基盤をもっていたが、全島住氏の多数を占める農村住民にはほとんど足がかりをもっていなかった。党は彼らのための綱領をほとんどもっていなかった。そして、これがこの党の政治的亙解に導く重要なファクターとなった。長期にわたってこの党は、シンハリ族系労働者(港湾都市コロンボの労働者、輸送労働者、事務労働者)の間にのみ基礎をもっていた。この党が困難をともないつつも接近したセイロン労働者の最大部分たるプランテーション労働者は、かなり前にイギリスによって輸入されたインド人からなっており、この労働者たちは、セイロンあるいはインドどちらの市民権もいまだもっていない。
インターナショナルはLSSP指導部に、この弱点に注意を喚起し、それを克服するようしばしばよびかけた。しかし、インターナショナルの訴えは、英語を理解しうるメンバーに限定され、これらの条件下では、このことは最も先進的な、すなわち党の指導部に限定されたことを意味した。
多年にわたって、セイロンにおいては全国レベルで対立する二つの政党のみがすなわちUNPとLSSPが存在していただけであった。しかしながら、一九五○年代に、スリランカ自由党(SLFP)がUNPの分裂によって出現した。LSSP指導部 照明をあてよう。< |