第六章 1948年から1968年
T 第二回世界大会から国際トロツキスト運動の分裂まで
一九四八年四―五月に第二回世界大会が持たれたとき、いくつかの支部、とりわけヨーロッパの諸支部は一新され強化されて戦争からぬけだしたばかりであった。いくつかの場合、これらの支部はそれぞれの国の政治的舞台で重要な役割を演じはじめていた。また、古い諸政党、とくに共産党が当時しめしていた拡大にもかかわらず、大会は第四インターナショナル諸支部のよりいっそうの発展という展望を採択し、「大衆的トロツキスト党建設にむかって前進せよ!」というスローガンをかかげた。
しかし情勢はまったく予想外の方向にむかって進展しつつあった。
この事態の進展のいくつかの兆候は、それを正しく評価し、情勢がどこにむかって進んでいるのかを予感するためには、大会時点ではまだあまりにも微弱にしかあらわれていなかった。西ヨーロッパの戦後の革命的昂揚は一時的に停滞しているかにみえたが、実際には、引潮はすでにはじまっていた。「冷戦」ははじまったばかりだった。ソ連による西ベルリンの封鎖は、数週間後に開始されようとしていた。「プラハのクーデター」、すなわち、チェコスロバキア共産党による権力掌握から、数週間しかたっていなかった。いわゆる「人民民主々義」国家内部の社会変革はわずかに漠然と示されたばかりであった。それから二ヵ月後に起った、ユーゴスラビアとソ連との断交を予見させるなにものもなかった。
第二回大会の直後およびそれにつづく数年の間にまったく意外な事件と事態の展開があった。世界は、もっとも傑出した眼力の先見の明あるマルクス主義者さえそれまでけっして考察し想像したこともなかったような形をとったがゆえに、それらの諸事件の結果は子見しえないものであった。これらの激動は極度に複雑な理論的政治的諸問題を提起した。そのうえ、われわれは、それ自身において判断できるただ一つの事件に直面していたのではなく、数年にわたって一定の間隔を置いて並びながら、かならずしも相互に結びつけられていない多くの事件に直面していたのである。これらの諸事件は結局数年のうちに、第一次大戦と十月革命以後人々が見ていたのとまったく違った世界の概観を与えることになった。マルクス主義の獲得物は、状況のある面においてはその根拠を問い直されるかに見えた。それはマルクス主義の破産を宣言する数多くの判断と理論の発生へと結果した。これらの議論に対し既成思想を純粋に直截的にくり返すことによって答えること、またマルクス主義と根本思想を時間と空間から独立したものとしてとりあつかうことは、マルクス主義者にとってふさわしい態度ではなかったであろう。
第四インターナショナルの第一の任務は革命的マルクス主義の根本思想を新しい情勢に直面させ、情勢を再定義し、展望と任務を再評価することであった。こうした任務を放棄することは、共産党の擁護者、すなわち数限りない左と右の日和見主義者に思うがままに行動する余地を与えることであった。
説明の明瞭を期すために、ここでは時間的順序を追うことはせずに、数年後に現出した全体的眺望の概観をえるため、発生した主要な変化を示すことにしよう。この方法で、提起された理論的諸問題、解決されなければならなかった諸困難が浮び上るだろう。こうした背景の中でのみ第四インターナショナルの行動を記すことができるし、またその行動に客観的判断を与えることが可能となるのである。
戦後の激動
まず最初に一九四七―八年からほぼ一九六〇年までに起った主要な事件と本質的な変化を要約しよう。
一九四七年に「冷い戦争」が開始される。一九四九年、アメリカの原子力独占状態が崩壊した直後から、アメリカとソ連による核兵器の開発と核武装競争が始まる。
この時点から世界戦争の問題は、社会的平面においてではなく、いわゆる通常兵器とはまったく違った規模の破壊的武器の使用の可能性という新しい意味をもって提起されることになる。
一九四七年は共産党情報局(コミンフォルム)創設の年である。同時に「冷戦」はソ連をその軍隊が戦争中に入っていた東欧の衛星国防衛のためこれらの国の軍事的官僚的手段による社会変革へ導いていく。ソ連軍はドイツに協力した一部の所有階級のメンバーにたいする若干の措置をのぞいては、これらの諸国のブルジョア的な社会構造を無傷なまま残していた。「冷戦」はクレムリンをして、これらの国の資本主義的基礎を清算し、これらの国々を労働者国家に改造する方向に押しやった。
一九四八年にソ連とユーゴスラビアの断交という形でスターリン主義の最初の大きな危機が発生する。ユーゴ共産党はコミンフォルムから追放され、同党に投げかけられた告発「ファシスト、スパイ」などは戦争前の「モスクワ裁判」をおもいおこさせるものであった。しかし労働者国家と諸国共産党の全体にたいするクレムリンのヘゲモニーはここではじめて挑戦されたのである。それは戦争中武装闘争を指導し、スターリンの意志に反してその闘争を労働者国家創設まで続行した党によって行われた。スターリンはユーゴスラビア的分離の拡大を避けるために東ヨーロッパ労働者国家における弾圧を強化する。しかしユーゴスラビア事件は、ソ連がヒットラーの軍隊にたいする戦争中の抵抗と勝利によってえた栄光の頂点にあったとき起った最初の大きな後退であった。
一九四九年十月中国革命が勝利する。これもまた蒋介石との協力を中国共産党指導部に要求したスターリンの意見に反して行われたものであった。崩壊した国民党体制は台湾に避難地を見出し、それ以降は唯一アメリカの軍事援助のおかげで生きのびることになる。中国革命の勝利は年月の経過とともに増大する巨大な結果をもたらした。それらはつぎのように要約することができる。
(a) 国際的スケールにおける全体的力関係が社会主義にとっていちじるしく有利に転移したこと。
(b) 植民地化された大陸から大陸へとその後拡大する植民地革命に巨大な推進力を与えたこと―一九五〇年の朝鮮戦争の勃発―まずフランス帝国主義、その後アメリカ帝国主義にたいするベトナム革命の続行―ラテンアメリカへの植民地革命の拡大と一九五九年のキューバ革命の勝利―一九五〇年代における植民地革命の中近東および北アフリカへの拡大――一九六〇年代のブラックアフリカへの拡大。
(c) スターリン主義の危機の拡大。
戦後、経済的に発展した資本主義諸国、植民地的構造の資本主義諸国、労働者諸国家にも巨大な激動がおこった。それらを検討してみよう。
非常に多くの植民地諸国において帝国主義の側からの――主要に英帝国主義、またより劣った形ではあるが他の帝国主義からも――植民地諸国にたいする経済的支配を維持しながらもこれらの国々に形式的政治的独立を与えるという弾力ある退却が行われるのが見られた。これらの新しい―間接的な―支配形態は、新植民地主義(ネオ・コロニアリズム)と呼ばれたものを構成する。多くの場合、植民帝国主義はその経済的支配の機能においてアメリカ帝国主義に取って代られた。特殊なタイプの土着ブルジョアジーの指導部があらわれた(ペロン主義、ナセル主義、スカルノ主義等)。これらの指導部は時折大衆運動とともにすすむという危険な賭を行った。キューバの場合には革命の勝利は、労働運動からとりわけ公式共産主義運動から出たのではないにもかかわらず革命に社会主義的解決を与えた指導部のもとに遂行された。現在でも植民地運動のなかには西と東の間の揺椅子の役割を演じようと努めたり、また労働者国家へと社会的変革を行なわずに、一定期間労働者国家のまわりに引きつけられたりするいくつかの指導部が存在する。
植民地の革命的運動は不撓不屈に発展した。しかしそれは、キューバの場合をのぞいて、本国の労働運動からの充分な連帯をも、また労働者国家の側からの正しい政治路線の援助をも受けることができず、これら諸国の経済的社会的後進性によって課せられている問題をわずかの犠牲で解決することを許す政治方針を見出すことは非常に難しかった。
一九一七年から続いたソ連の孤立は、西でも(東ヨーロッパの人民民主主義諸国)東でも(中国とベトナム、朝鮮の民主共和国)打ち破られた。またアメリカ大陸においても社会主義キューバが生れた。ソ連に加えて、チェコスロバキアと東ドイツをのぞけば、最初の労働者国家よりも経済的に後進的な労働者国家が生れた。「一国社会主義」という自身の概念に忠実にスターリン主義が恥知らずにも隣国を略奪した戦後の苛酷な再建期の後、ソ連は自己を世界第二の経済強国とするにいたる巨大な前進を経験した。東ヨーロッパの新しい労働者諸国家においてもまた、新しい所有形態は、一般的にいって大きな経済的進歩をもたらした。しかしそれは大衆の生活水準の改善にほとんど役立てられなかった。最初の期間、これらの国家はスターリン下のソ連と同じ国内体制をもった。しかし新しい生産関係の拡張はスターリン主義の拡張をそのまま結果しなかった。前者は後者と両立しないことが暴露された。こうしてスターリン主義の危機はいくつかの要因の影響のもとに明らかに現われ始めた―すなわちソ連経済の成長にとってますますブレーキになる警察国家体制、他の労働者諸国家の要求とクレムリンの政策の間の矛盾、世界における革命の高まりなどである。名国共産党は自動的に常にモスクワに歩調を合せなくなった。中国はこのスターリン主義の危機のなかできわめて重要な役割を演じることになる。
西ヨーロッパにおいては、戦争の終りに一般的に勢力を増大させた共産党は、フランス、イタリアなどをのぞいては、労働者階級の中に根をおろすにはいたらなかった。社会民主諸党が労働者階級の多数党としての地位を維持するかないしはその地位を再獲得した。
すでに述べたように、スターリニズムの危機は一九四八年のユーゴスラビア事件を契機としてはじまった。この危機はそれ以後事実上とどまることなく発展し続けた(一九五三年のスターリンの死以後の「非スターリン化」、一九五三年六月の東ベルリン事件、二十回大会と一九五六年におけるポーランドおよびハンガリーの事件、中ソ対立、チェコスロバキア事件……)。
先進的諸国における勝利的革命の不在は一定期間「非スターリン化」に影響を与えざるをえなかった。すなわち、このため「非スターリン化」の過程は長期化し、それは概して官僚の統制下に進展するという事実をもたらした。「社会主義陣営」は大部分モスクワのヘゲモニーのもとにとどまった。中国はその決裂によって共産主義世界におけるクレムリンの権威を大きくゆるがしたが、革命的マルクス主義を決定的に前進させるという点では貢献しなかった。
先進資本主義諸国においては極度に驚くべき現象が発生していた。ブルジョア・エコノミストか労働運動活動家か、またマルクス主義者か否かを問わず、一般にエコノミストの間では、再生と再建の戦後の一時期に続いて経済は深刻な危機におびやかされるであろうという見通しで一致していた。マルクス主義は主に帝国主義にかんするレーニンの概念に依拠しながら、植民地の喪失は本国の崩壊をもたらすであろうと考えていた。しかし資本主義世界は崩壊するどころか、十五年間にわたるブームと、恐慌によってではなく、常に限定され期間と規模の「不況」によってのみ中断される史上前例のない経済的繁栄を経験した。マルクスが分析した資本主義とは表面的にはもはや一致しないような「消費社会」とか「ネオ・キャピタリズム」とか呼ばれるものが問題となってきたのである。この比類のない繁栄のなかで、もっとも古く組織され、長いマルクス的伝統をもったヨーロッパの労働運動は停滞したばかりでなく、明らかな政治的後退を経験した。すなわち社会民主主義政党は「国民党」になるために名前ばかりの社会主義さえ放棄する傾向を示し、共産党は「社会民主主義化」し、社会民主主義の左翼は解体し、革命的前衛は悲惨に収縮してしまった。ヨーロッパに生れ、百年をこえる歴史をもち、世界の他の部分の経済政治社会的発展に先がけてヨーロッパで社会主義革命を達成する展望のもとに建設された社会主義運動は、昔日の面影をもうもっていなかった。
第一次世界戦争中とロシア革命の最初の数年間、レーニンとトロツキーはヨーロッパの勝利と並行した植民地諸国における社会主義革命の勝利の可能性を予見していた。しかし一九四八年以来、資本主義の周辺では革命が高揚しているのに対し、帝国主義本国において労働運動はその歴史上かってないほど低い水凖にあったか、もしくはそうであるように見えた。そして最後に資本主義がすでに打倒された国々においては、官僚はその支配を強め労働者階級は受動的にその支配を受け入れているかに見えた。
資本主義は植民地を失ったがかってなく繁栄をつづけている。労働者階級は政治的闘志を失いもっぱら生活水準にのみ心を奪われている。労働者国家では労働者の活性化はなく、官僚的支配がつづくなかで新しい生産関係の拡大がみられる。植民地諸国では主に農民に依拠した革命的高揚がある――これらすべては、マルクスが示したプロレタリアートの歴史的任務―古典的資本主義国においても植民地諸国においても労働者国家においても―を様々な形で否定する理論の花ざかりをよく説明する(労働者国家の階級的性格についてもまた多数の理論が生み出された)。この過程の総体をただちに把握することは不可能であった。世界全体およびまた不可避にトロツキスト運動の上に加えられた巨大な圧力のなかで、その遅延は避けがたかった。
トロツキスト運動の危機
これらの矛盾する事実を否定し、プロレタリアートの革命的任務などにかんする革命的マルクス主義の古典の引用に頼って説明を行なうことは不可能であった。諸理論のゆがみに答え行動するためには、革命的マルクス主義を援用して情勢を検討し、この新しい情勢を説明する鍵を探し、また革命的マルクス主義の調整、訂正、豊富化を行なうことが必要であった。それは同時に闘争に参加し、諸判断を闘争の火のもとで新しい情勢に対決させることによってのみ可能であった。それこそ第四インターナショナルが、今までいかなる革命的潮流も経験したことがない政治的諸条件に働きかけねばならないという極度に困難な状況のなかで、なしとげようと努めたことである。ここに素描した極めて複雑な世界の眺望のほかに、インターナショナルは革命的潮流と戦うためにしか生気を取りもどさない古い組織された二つの労働運動という障害と出会わなければならなかった。一九一七年以来労働運動に新しい次元を導入し、また長い年月スターリン主義という形で労働運動を動かしてきた、「労働者国家」というファクターは、世界の後進地帯に生れた数ヵ国の労働者国家の存在とともにさらにより複雑な影響をおよぼすことになった。第四インターナショナルが直面した問題と任務を理解し、変化の起った年月の間に第四インターナショナルがとった態度を評価し、その活動を可能なかぎり客観的に判断するためには、第二次大戦後の世界に発生した変化の幅と規模を充分に把握する必要がある。第四インターナショナルの経験した諸困難、とりわけその危機と分裂にマルクス主義的説明を与えるためには、物事の置かれていた状況をはっきり把握しておく必要がある。
第四インターナショナルの詳細な歴史はかならず個々の危機と分裂を分析し、いろいろな段階、様々な人々にとって主要とされ、あるときには複次的とされた、さまざまな立場、各人の役割などの研究をおろそかにしないだろう。しかしこうした歴史的研究はマルクス主義的な全体的視野のなかで、危機や分裂の一般的原因、個々にとられた立場は別にしてお互に対立した主要な諸方針の正確な評価にもとづいて行われてのみ価値をもつことができる。それこそわれわれが不可欠の予備的な仕事としてここで検討しようとする、危機の哲学とでも呼んでもよい、作業である。我々の敵の多くは、それができないがゆえに、この危機と分裂の時期を記述するさい、うつろなゴシップで自己をかぎったばかげた虚像として自己を描き出している。
ある意味で重要な一つの問題点から始めよう。トロツキスト運動が経験した危機について、今までひとつのばかさわぎがなされてきたし、いまもなされている。“なに!また危機だと!また分裂だと!”という調子で、その意味を検討するよりもこうした言葉で第四インターナショナルと戦うことにより満足を見出している人々が存在する。われわれは、われわれの運動の危機がしばしば苦痛の多い性格をもったことを否定する必要はまったくない。しかしながら、長い間トロツキスト運動だけに特有のものであるかにみえ、また大きな組織の高みから嘲笑的に眺めて乗られたこの特徴は、今日では大小のすべての種類の組織に共通するものとなっている。事実、労働運動のなかで真に異常であったのは一枚岩主義であり、世界でもっとも批判的な思想であるはずのマルクス主義を標榜する組織内での、いっさいの独立的政治思想の窒息によって達成されたこの「団結」であった。労働運動の歴史はしばしば政治的理論的に背反する潮流や傾向の戦いで充満しているのである。理論と立場と方針のたえまなき現実との対比による検証なしには革命的思想と行動の進歩などありえないとすれば、それは当然のことであった。もっとも大きな理由は、「新しい事態」が日に日に登場する果しない激動の世界に運動が直面していることにある。とはいえ意見の相違が発生することは正常であるが、しかし相違にかんする議論が必然的にまたたびたび分裂に終らなければならないということを意味しない。したがって事態をこうした状況にいたらしめた客観的主体的理由を探究しなければならない。トロツキスト運動の歴史においては、それを説明する客観的主体的理由が存在した。
客観的には、多くの分裂は、革命党建設のための分析と方針にかんする意見の相違が、組織が数的に弱く大衆のなかにすこししか根をはっていなかったという事実によって、きわめて鋭い形をとったということを原因としていた。しばしば、まさにこうした状況をどう突破するかという戦術をめぐって意見の対立が煮つまった。世界全体はかつてないほど、ただ単に小さな前衛だけではなくブルジョア勢力、プチブルジョア・グループ、また労働者大衆組織まで引き裂く巨大な力の意のままになっている(人は容易にその印象的な光景を描写することができるだろう)。国際的トロツキスト運動の基礎理論は対立する諸力が生み出す四分五裂傾向に抵抗するための非常に重要な武器である。しかし一つの理論的基礎はそれがどれほど強力なものであっても、限界をもたざるをえない。とりわけ、ある時期に、いくつかの国ないしは諸国家のグループにおいて、いちじるしいスケールをもちうる物質的な力を前にしている時はなおさらである。これから見るように、個々の危機と分裂のなかでいかなるファクターが、与えられた状況においてある闘士の集団に、インターナショナルから出ることをきめさせるほどの価値をもったかを発見するのはかなり容易である。
主体的には、多くの場合、状況は組織が非常に小さいという事実によって加重された。あるものにとってこの事実は二義的な要素でありあまり重要視すべきでないとみなされた。
とりわけ、急速な発展を可能にする革命的方針を見出したと考えた者にとっては、組織を二つに割るという数的な問題はたいしたことでないと考えられた。こうした感情は、情勢の客観的に革命的な性格、それが提起する広範な任務と、一方、われわれが所有する明らかに不十分な力と手段との間の不均衡がわれわれの運動の上に重くのしかかっていると意識するときますます強いものになった。こうした感情は、広範な大衆に責任をもち、組織自身が保持している任務を自覚している闘士が、組織内部に重大な意見の相違が発生した場合でさえ、分裂をおこすことを躊躇(ちゅうちょ)するところの大衆組織に存在する感情とはまるで正反・対のものである。
われわれは分裂と危機が上記した諸契機からのみ説明されるとは言わない。例えば個人的性格というファクターなども役割を演じた。しかし、その歴史の明晰な理解のためには、それなしには他のファクターがそれほど重要さをもちえなかったはずのもっと一般的なファクターを前面に押し出す必要がある。約十五年間に歴史上重要な変化が起った。主要な革命勢力がいぜん改良主義者かスターリニストの支配下にあるにもかかわらず、資本主義から社会主義の過渡を構成する諸変化が起った。そしてこれらの諸変化は世界の経済的先進国ではなく主にもっとも後進的な国に作用した。こうした状況はマルクス主義の有効性を否定する多くの理論の誕生をうながした。またそれはトロツキスト運動内に、ある程度歪んだ情勢認識をもち、情勢のあれこれの見方に頼ることができると信じ、第四インターナショナルの組織それ自体でき上った政治勢力としての価値を与える必要があると信じない傾向や潮流を誕生させた。おきまりのように、分裂していったものは彼ら自身がのめりこんだ過程についても、それが彼らをどこに導いているのかもまったく気づいていなかった。
かなりまれな例外をのぞいて、第四インターナショナルから分裂していき、一九六三年の統一に参加しなかった者は、その自惚にもかかわらず、また彼らが出発点の時もっていた勢力にもかかわらず、政治的に消滅しないまでも急速に勢力を減退させてしまったことを指摘するのは意味のないことではない。われわれはそれを偶然の産物とみなしてはならない。この現象の原因を追求しなければならない――なぜならそれは個人の資質の問題ではなかった。関係した人の間での個人的な意志や能力が欠けていたわけではなかった。こうした状況の理由はつぎの点に帰せられるべきである。彼らが、政治的に誤った道に、ふみこんでしまったこと。まさにその国際的性格自体によって、世界にくわえられる巨大な力に抵抗し、自分たちに誤りが生じた時はそれを是正する能力をもっている国際運動から彼らが離れてしまったこと。
インターナショナルは聖なる偶像ではない、それは奇跡を生み出さない。しかし数的な弱少さにかかわらず、中央集権化され、同時に民主的なその組織性格は、民族的歪曲をもっともよく避けさせ、あらゆる種類の勢力(国家権力、あらゆる性格の指導部の大衆運動など)が世界全体におよぼす圧力にもっともよく抵抗する力となるのである。
第三回世界大会(1951年)
前記したように、第二回世回大会の直後、クレムリンとユーゴスラビア指導部との間の断交が発生した。この指導部を解体し、ユーゴスラビアにチトーに対抗できる反対者を見出し、この指導部にたいしてクーデターさえ試みようとした、クレムリンのすべての努力は無駄であった。一九五六年のソ連共産党第二十回大会にたいする有名な報告のなかで、フルシチョフは、チトーの追放を公然と宣言することを決意したときのスターリンの精神状態をつぎのように述べている。
「私はソ連とユーゴスラビアの間の衝突が人為的に拡大されはじめた頃の最初の日々を憶いだす。ある日私はキエフからモスクワへ行きスターリンに会った。スターリンはチトーに最近送った手紙のコピーを私に見せ、『君はもう読んだかい』とたずねた。私の答えを待つことなく、彼は付言した。『私が小指を動かすだけでチトーのようなものはいなくなるだろう。彼は失墜するだろう。』」
諸共産党のすべての政治的潮流を取り除いて以後、その権威の絶頂にあったスターリンはここではじめて失敗し、一つの共産党と一つの労働者国家が自分に反抗して立ちあがるのを見たのである。
この断交が公表されるとすぐ、第四インターナショナルの指導部は、これ以後スターリン主義の国際的危機はあからさまになり、クレムリンと生きた一つの革命との間の非和解性が明らかになった、スターリン主義の攻撃に抵抗するユーゴスラビアを援助する必要があり、ユーゴスラビア事件は遅かれ早かれ各国共産党と労働者国家に大きな反響をもたらし、それは新しい革命的指導部の建設のために利用されなければならないことを理解した。
きわめてすみやかにトロツキスト諸組織はモスクワと各国共産党の中傷の雨に答え、ユーゴスラビア革命を支援するために動員を開始した。多くの国でキャンペーンが展開された。ビラ、パンフレット、集会などがスターリン主義との戦いに役立った。いくつかの国において、第四インターナショナルの諸組織は、ユーゴスラビアに行くための青年旅行団、ユーゴ革命のための調査、支援、労働を行う旅行団結成の起点となった。これらの旅行団は比較的に成功し、数千人の青年が応募した。ユーゴスラビア事件はスターリン主義にとって決していやされることのない傷痕となった。
短期間、第四インターナショナルの諸支部は、ユーゴスラビア危機を利用し強化された。しかしこの過程は朝鮮戦争が勃発した一九五〇年に中断された。それまで内政面(自主管理など)とスターリン主義的過去の一部の批判においていくつかの進歩をなしとげたユーゴスラビア指導部は、国際舞台で破廉恥な態度をとった。すなわち国連総会で北朝鮮にたいする国連の軍事干渉に賛成投票したのである。この態度は、多くのユーゴスラビア支持者の間に失望感をもたらした。こうしてソ連―ユーゴ紛争においてより広汎な革命的前衛を糾合する希望は破壊されてしまい、スターリン主義の危機が他の場所で爆発するのを待たねばならなくなった。
ユーゴスラビアとクレムリンの危機がこうした形をとっている間、中国革命の勝利は状況の再検討を行うことを義務づける国際的な契機になりつつあった。この勝利がユーゴスラビア事件よりもずっと大きなスターリン主義の危機をほぼ同じ理由で不可避的にもたらすであろうと言明することはできたが、この危機の勃発がただちに起こると予想できる理由はなかった。
中国は大陸における蒋介石体制から自らを解放したばかりであった。しかしアメリカ帝国主義が台湾を新共和国に対する要塞と化しつつ、朝鮮国境を威嚇していた。新中国は一定期間ソ連の援助なしにやっていくことができなかった。「冷戦」、朝鮮戦争、ユーゴスラビアの国際政策、中ソ協調、これらすべての出来事は第二回世界大会の展望が不十分なものであることを証言していた。情勢の再評価が必要であった。その上、各国支部は戦後強化されず、困難は累積されていた。これもまたわれわれの活動方針の再検討を要求していた。
一九五〇年十一月にもたれた国際執行委員会は第三回世界大会の召集を決定し、結局それは一九五一年八月に行われた。執行委員会はこの大会にむけての討議のために第四インターナショナルの国際的展望にかんするテーゼを採択した。このテーゼはフランス支部の多数派の反対以外には、大きな異議なく採択された。
第三回世界大会には二十五ヵ国から七十四名が出席した。
大会で賛成三十九票、反対三票、棄権一票で採択された主要な文書は「第四インターナショナルの国際的展望と方針に関するテーゼ」であった。
これらのテーゼは中国革命の勝利によって全体的力関係が世界資本主義に不利へ、社会主義に有利へと進展した国際情勢の検討を行っている。テーゼは当時、多くの形態をとって(軍事同盟の創出とその拡大、「冷戦」、軍事競争など)遂行されていた新しい世界大戦の準備について強調することからはじまっている。
テーゼはとくにクレムリンの保守的政策が原因となって合衆国とソ連との一時的妥協が行なわれる可能性を否定はしなかったが、かなり近い時期における世界戦争を展望として打ち出していた。またテーゼはこの戦争はその性格からいって帝国主義の勝利が疑問視される「革命か戦争か」となるであろうと付言している。戦争にかんするこの展望は、軍備経済が経済情勢にとって破局的な結果(インフレ、労働者の生活水準の低下など)をもたらすだろうとする見解と結びついていた。
一方、これらのテーゼは戦後の再建期を完了した後、ソ連といわゆる「人民民主主義」諸国家にあらわれはじめていた経済的発展を強調した。またテーゼは、経済的発展にもかかわらずいかなるスターリン主義の伸長をも予見せず、スターリン主義すなわちソヴィエト官僚のいっさいの歴史的未来をも否定した。ユーゴスラビアと中国に発生した事実から、テーゼは、共産党はたとえそれが改良主義的政策をもっていたとしても、古典的な改良主義政党とは完全に同一ではなく、いかなる状況においてもクレムリンの単なる道具であるわけではなく、例外的な大衆運動の条件においてはクレムリンの政策に応えた方針をこえて自らの厳密に改良主義的目標を乗りこえる場合を示すことがあるという結論を引き出した。これらのテーゼは大衆、共産党、ソヴィエト官僚の間に存在する具体的矛盾的関係を非常に強調し、トロツキストはこれらの矛盾を利用しなければならないとし、そのためには特に共産党が大衆組織であるようなところで大衆の現実的運動に合流する必要があると宣言した。
これらのテーゼとそれを直接的情況へ適用した政治決議のほかに、第三回大会は非常に重要な他の三つの決議を採択した。その一つは「人民民主主義」についてであった。一九四九年にもたれた国際執行委員会の一会議で採択されたテキストにもとづき、それは東ヨーロッパの諸国家を「官僚的に変形された労働者国家」と規定した。プロレタリア革命から創出されながら官僚的に堕落した、労働者国家・ソ連と違って、これらの国家は、官僚的な限定された大衆動員に支援されたとはいえ、本質的にはクレムリンの軍事的官僚的介入の産物であった。それらの国家は決して真の革命を経験しなかったし、生れながらにして官僚的に変形されていた。
真の革命を通過した特殊ケースたるユーゴスラビアについては、ゲリラ戦以来の革命の様々な段階を跡づけた特別の決議が採択された。この決議は、この国の多くの点における進歩的発展と右翼的国際政策との間の矛盾を指摘した。―それはこうした政策が資本主義復興勢力を利するということをふくめ、内政面に起りうる危険を告発した。しかし同時にこうした資本主義の再帰は決して激動なしに“静かに”行われることはないであろうことを指摘した。
一九五一年のこの決議はユーゴスラビア、チェコスロバキアなどにおける「資本主義の復興」についての中国とキューバの告発にたいして第四インターナショナルが最近与えてきた返答がその場だけのものではないことを示している。
最後にラテン・アメリカにかんする決議は、ペロン型政府の性格に関するマルキストが与えた最初の説明だった。第二次世界大戦のおかげで、これら”民族ブルジョア”政府は―外国の帝国主義の特殊な譲歩と寡頭制(地主、買弁ブルジョアジー)に犠牲を強いて―労働者階級の大部分を(国によってこの最小限の譲歩によって労働者の引きつけられる度合は異なったが)この民族ブルジョアジーの指導下の反帝闘争にひきこんだ。
革命党建設における戦術転換
第三回世界大会によって示された分析と展望を補足して、その後の国際執行委員会(一九五二年二月)は、いくつかの社会党と大衆的共産党にたいする「加入戦術」の概念をはじめて一般化し拡大した革命的マルクス主義党建設の戦術にかんする決議を採択した。
この新しい加入戦術は、一八四八年ドイツ革命およびその後の第一インターナショナルの創成にさいしてマルクスの採った路線を忘れることなく、レーニンとトロツキーによって鼓吹された実例ないし戦術にその手がかりを見出していた。
「共産主義の左翼小児病」のなかでレーニンは十分な与件が不足しているため明瞭な言明をさげているが「労働党に加盟すべきか?」との質問にたいして「共産党はその教義の純粋さと、改良主義からのがれなき独立を保持すべきだ」といった原則から出発したひとつおぼえの返答を警戒している。彼はこの部面では一般的、基本的な共産主義の原則を適用するためには各国の特殊性を《学び、発見し、判断する》必要があると述べた。
前章で説明したようにトロツキーは一九三四年に、完全に独立して行動し労働者階級を行動に動員することができる革命党の建設は、少数であるため宣伝グループにとどまっている組織が一定期間改良主義的ないしは中間主義的組織に加盟し、適宜な活動を通じ、左に向って前進しつつある潮流の経験を助けることによってそのなかで力を獲得する必要があることを理解させていた。戦前の加入戦術は長距離耐久競走に似ていた。
戦後インターナショナルは、戦前実行されたSFIOやベルギーの労働党、合衆国の社会党などにたいする加入戦術と違った、イギリスのトロツキストの労働党(レーバー・パーティ)への加入を支持した。この戦術はこの国の労働運動の構造、とりわけ政党と労働組合の間に緊密な結びつきが存在し、そのため労働者階級にとって、労働党は彼らの党であり、保守党は雇用者の党であり、その指導者と政策に合意できない場合にも労働党に忠実であるという特殊な構造に依拠していた。
新しい加入戦術は長期の展望と短期の展望の双方に依っていた。
第三回世界大会がもたれた時、数年の労働党政権をへて、党内にべバンの左翼反対派が形成されていた。国際国内情勢は当時イギリスにおいて左へ向う大衆の中間主義的潮流の形成と発展を有利にしていた。状況的な考慮は第三回世界大会の一般テーゼに由来していた。われわれは、新しい世界戦争と資本主義にとって増大する経済的困難の展望は、国際的スケールにおいて社会民主主義内部のべバン型反対派の成長と、また共産党内の左翼反対派の創成を助長するはずであると考えていた。したがってこれらの潮流が経験を積み、当時はまだ予見できない局面をへて革命的マルクス主義党の形成へとむかうことを助ける必要があった。
長期展望については、第一次世界戦争後古い改良主義労働者党が頑強に存続し、例外をのぞいて共産党の成長が困難をきわめたというヨーロッパ労働運動に関する事実確認に基礎がある。この確認からわれわれは労働者階級とこれらの党との間の結びつきは綱領や政策によるのではなく、労働者にとってこれらの党が多かれ少なかれ媒介物でありすくなくとも資本主義社会において日常的に使用しうるものであることからくる、これらの党の労働者大衆への長期のくい込みによるものであり、労働者はいまだ行動においてテストされていない新しい組織のためにこれらの党を離れる用意はできてないと推論することができた。ヨーロッパ諸国における労働者階級のこうした組織的慣性は革命期においてもより少ない度合いではあれ作用していた。すなわち、政治面での階級の進歩は組織面での進歩よりもすみやかであった。ヨーロッパの一国におけるいかなる大きな社会的危機も、その国の大衆的労働者党の危機をともなわずにはおかなかった。したがって大衆諸党とりわけ各国の主要な大衆党のなかでの長期の活動が日程に上ったのである。
加入戦術において、インターナショナルは、相対的な内部民主主義が異なる傾向の存在を許す社会党と最少限の意見の差違の表明も許さない共産党(当時はそうであった)での戦術とを区別した。
前者では加入戦術は全面的でなければならないとされたのにたいし、レーニンが反動的改良主義的大衆組合組織にとどまることに関連して勧告したように、必然的に「策略を用い、嘘をつく」必要のあった後者では、戦術は第四インターナショナルの立場の全体を公然と表明する独立した部分の維持を予定していた。
第三回世界大会の批判
第三回世界大会のテーゼと決議は、前章に述べたような戦後激動とうち続く激動によって提起された問題にたいする最初の返答の試みであった。したがってこれらのテーゼのうちなにが正しさを証明されたか、なにが弱点を露呈したかを見ることは無意味でない。当をえた判断を行うためには、分析の時点では社会諸勢力の闘争のなかから生れた諸傾向はまだ充分発展していず、あらゆる分析には欠陥と誤謬が不可避であることを忘れてはならない。重要なことは、分析から発した行動方針が全体としてその時の状況に有効であったかどうか、分析のなかに誤りがあれば正すことはいうまでもないとして、組織が新しい要素と新しい傾向の出現を配慮しながら情勢の変化に対応しつつ諸事件に正しく反応したかどうかである。
この著作の枠は限られているので、ここでは大筋において正しかったこと、また本質的に誤謬であることが露呈されたことのみに照明をあてよう。< |