つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


第五章 1938年から1948年

    第四インターナショナルの創立から第二回世界大会まで

 国際協議会は一九三八年、戦争とファシズムが世界のうえにのしかかっていたときに招集された。このときミュンヘンで資本主義的妥協の幕間があった。トロツキーはふたたび第四インターナショナルの創立をもちだし、今日までずっと第四インターナショナルの活動の基礎となるはずの「過渡的綱領」をこの協議会へ提出した。協議会ではさらに「極東における階級闘争と戦争」という決議を採択し、中日戦争を民族解放戦争として位置づけ中国を支援することを明らかにした。
 この協議会でもまたまた第四インターナショナルの宣言はまだはやすぎるという意見、これは大衆に理解されないだろうという意見、すなわち一九三六年の厄介な決定をもたらした議論が聞かれた。
 なぜトロツキーはこの提案を巨大な精力をつかって主張したのであろうか? なぜ「過渡的綱領」の最後の章に第四インターナショナルを宣言することに反対するひとびとにたいする徹底的な反論をみいだすほどそうしなければならなかったのか?(註) それは第一にこのことが、かれにとっては党員の数の問題でも、多数にしろ少数にしろ労働者大衆によるわれわれのスローガンの理解の問題でもなく、なによりも政治的展望と政治的連続性の問題だったからである。トロツキーは労働者運動全体は、とくにわれわれの運動は、極端に困難な時期に入り、階級敵のおそろしい圧力と重大な遠心力がわれわれのうえにはたらくようになるというはっきりした自覚をもっていた。これらの圧力はわれわれのような数的に小さな組織を分散させ解体させるに十分であった。その後に戦争中にわれわれの運動でおこったことを検討してみると、第四インターナショナルが宣言されることなく戦争へはいったとすれば、外部からの一切の圧力と一切の遠心力が百倍も千倍もはげしくはたらいただろうと考えることができる。一国的孤立と秘密活動からくる困難をまえにして、あらゆる種類の圧力にさらされたどれほど多数のミリタントが、戦争をまえにしてさだめられた組織と綱領をもたなかったとすれば自らを維持し得たであろうか。どれだけのものが独自に新しい綱領に到達しえたであろうか、とんでもないものしか、できなかったはずである。われわれはこのパンフレットのはじめで革命運動の歴史的連続性の重要性に言及した。第四インターナショナルを宣言することによってトロツキーは、危険にみちたこの時期における連続性を確保することを本質的に企図したのである。第四インターナショナルが一九三八年の協議会で宣言されたことは、「はやすぎる」どころではなく、時間的にはやっとまに合ったというべきである。この決定は、労働者運動にはかりしれない貢献をしたのである。
 (註) しかし懐疑家はだまっていない“第四インターナショナルの誕生を公表するときが本当に来たのだろうか?”“第四インターナショナル”こそがわれわれの回答だ。それは“公表”される必要などない。それは現に存在し闘っている。――LT
 ところで「過渡的綱領」の重要性はしばしば強調されてきた。どうして四〇年まえから討論されつくした危機の、世界戦争のとめどもない混沌の悪夢から人類を脱出させることができるのであろうか? どのようにして社会主義への過渡期を獲得できるであろうか?
 「過渡的綱領」 は、権力獲得の闘争に労働者を組織する目的をもっと同時に、権力をとった直後に実施に移すべきプログラムを明らかにするものである。十九世紀末、二十世紀はじめは資本主義はまだ繁栄しており、ここでは社会民主党はふたつの網領――いつか将来建設されるべき社会主義社会を要求する最大限綱領と当面の要求、権力の獲得をめざしているわけではない改良の要求である最小限綱領――をもった。共産主義インターナショナルは早くも第三回大会で過渡的綱領の考え方を発展させていた。「改良主義者、中間主義者の最小限綱領にかわって、共産主義インターナショナルはプロレタリアートの確固たる要求、全体としてプロレタリアートを団結させプロレタリア独裁をめざす闘争の段階を構成する一連の要求、のために闘う。これらの要求は広範な大衆の緊急の必要を表現しており、それはこれら大衆がまだ意識的にはプロレタリア独裁の立場に立っていないとしても必要な要求なのである。」(戦術に関するテーゼ)
 「過渡的綱領」は第四インターナショナルの基本綱領と呼ばれるべきものではない。基本綱領は、労働者階級の運動がはじまって以来の社会主義をめざす闘争の教訓のすべてからつくられている。この綱領は一個の印刷された文書として存在しているのではなく、いくつかの基礎的な文献(マルクス主義の古典、共産主義インターナショナルの最初の四大会、左翼反対派と第四インターナショナルの基本文献)によって構成される。この歴史的文脈からいうと、「過渡的綱領」はその最重要なものの一部であり、基礎的な教訓から出発して大衆をそのときの階級意識の水凖にそって大衆行動へと組織し、彼らを指導しつつ大衆が自身の行動を通じてより高い水準へと教育されるよう導き――権力の獲得に至るプログラムを明らかにしたものである。
 この綱領は、苦しんでいる大衆の中広い層の欲求と階級闘争の発展論理にそった一連の民主主義的、過渡的要求のスローガンによって構成されている。この綱領の中心環は「労働者政府」のスローガンである。共産主義インターナショナルの第三回、第四回大会のときがそうであったように、このスローガンは「過渡的綱領」のなかではプロレタリア独裁と同義には使われておらず、過渡的政府の問題――大衆組織の状況とそのときの階級意識の水準に見合ったもの――として提起されている。反資本主義的手段をとる労働者政府の展望を欠いた綱領は、過渡的な綱領とはいえない。
 「過渡的綱領」が書かれてから以降、その有効性はとくに戦後初期に例証されており、この時期には情勢のしからしめるところ伝統的組織といえども、もちろん反資本主義的スローガンに近づくことと労働者政府を要求することは注意深く遂げたものの、いくつかのスローガンについては前へ進まざるをえなかった。最近の数年においても、「過渡的綱領」の考え方が、それを去勢する目的とはいえ、改良主義者と中間主義者によってとりあげられていることにその有効性を示すもうひとつの証拠がある。彼らは大衆に対しいわゆる新しい道――資本主義から社会主義への移行は革命的高揚なしにありうるという本質的に改良主義者の考え――を提起するとき「過渡的綱領」を使う。その本質からして「過渡的綱領」は聖なる文書と考えられるべきではない。しかし、それが立脚している基礎――すなわち権力に向けて大衆を組織する原理、複合的要求のプログラム――は不変である。ただし要求とその性格は時と場合により個別的な条件によって変らねばならない。
 一九三八年という時期に「過渡的綱領」は早くも戦後社会主義革命の波が発展するだろう三つの地域の特徴を描き出した。すなわち、先進資本主義諸国、植民地および半植民地諸国、労働者国家(このときはまだソ連一国のみであった)である。

世界戦争の試練

 戦争のすこしまえ国際書記局はアメリカへ移動した。
 戦争はわれわれの運動にいちじるしい損失をひきおこした。まずトロツキーが特別協議会(一九四〇年五月)の「宣言」を起草してから数週間後暗殺された。
 ヨーロッパでも一連の虐殺がおこなわれた。数人の指導的同志の名をあげると、フランスではマルセル・イックとイタリア共産党の前政治局員ブラスコ、ベルギーではレオン・ルゾアルとA・レオン、ギリシァではプリオプロス、ドイツではヴィデリンなどを失った。われわれの仲間でいく百ものひとが第二次世界戦争中にころされたのである。
 かれかれのヨーロッパの支部は、大部分根底から更新され、その指導部はほとんど全部わかい分子によってとってかわられることとなった。
 これにブルジョア国家によってとられた手段(検閲・旅行禁止)からうまれた組織的分散をつけくわえなければならない。それはわれわれの支部のおおくを、かぎられた一国的生活に、巨大な反動的政治的圧力とかぎられた情報に、正常な活動を可能にする国際的中央の欠除した状況にとじこめた。
 アメリカの国際書記局は連合国のいくつかの国との連絡しかたもつことができなかった。そしてドイツに占領された国の支部のあいだでヨーロッパ書記局を建設するまでに、いく年かがすぎさった。この非常におおきな困難にもかかわらずわれわれは、一九四六年国際的連絡が回復されたとき、大多数の支部は国境と戦線をこえて本質的問題で同一の基本路線にしたがっていたことを確認することができた。
 しかしこれはおおくのトロツキスト組織に多数の危機がうまれたことを否定するものではない。その危機の主要なものはつぎのとおりである。
 (一) 合衆国では、戦争のはじめからシャハトマンとバーナムが独ソ条約に憤慨したプチ・ブル的世論の圧力のもとに、ソ連にたいするわれわれの立場を問題にした。討論はこの問題ではじまり、七ヵ月つづき、マルクス主義哲学からプロレタリア党の建設まであらゆる問題を包含した。シャハトマンを中心にあつまった一切のプチ・ブル的潮流は社会主義労働者党(SWP)と決裂して別組織をつくり、だんだんとわれわれからとおざかり、ついには消滅してしまった。この討論のすべては二つの重要な著書――トロツキーの「マルクス主義の擁護」、もう一つはキャノン「プロレタリア党のための闘争」――にあつめられている。
 この分裂につづいて、特別国際協議会が一九四〇年五月アメリカでひらかれた。これは分裂主義者の政策と活動を断罪し、トロツキー起草の宣言「プロレタリア革命と第二次帝国主義戦争」を採択した。
 (二) ドイツ支部――より正確にはこの支部を指導する在外委員会のばあいには、われわれはいく年もの亡命生活により志気阻喪したグループのまことに悲劇的な堕落に遭遇した。この堕落をあらわにする最初の文書は、「三つのテーゼ」(一九四一年)の名前のもとにしられている。この文書の基本的思想は、ファシズムは帝国主義につづくあたらしい歴史的時期を構成し、そのなかでは人類ははるかうしろに後退して世界戦争とプロレタリア革命の時期ではなく、民族解放戦争と一八四八年のタイプの民主主義革命の時期になげかえされた! というのである。
 (三) フランスでは二つのトロツキスト・グループ、POIとCCIが敵階級の圧力のもとに、どちらも(ちがった意味ではあるが)脱線をはじめた。各グループ内での政治闘争の結果、それぞれの誤りが克服され、一九四四年はじめ(第四インターナショナル・フランス支部)国際主義共産党(PCI)の創立によって統一がなしとげられた。
 「革命の世界党の諸問題と第四インターナショナルの再建」と題された一九六六年二月二八日付のパンフレットで、「労働者の声」グループは、戦争中あるトロツキスト・グループが愛国主義的態度をとり、当時の第四インターナショナルはフランスの運動の再統一と一九四四年のPCIの結成のさいごの態度を批判しようとしなかったという理由で、第四インターナショナルを非難した。このパンフレットはいう。
 「一九四四年はじめに相異なるトロツキストグループ(POI、CCI、十月グループ)の再統一がなされた。一九四〇年のショービニスト的政策はあっさりと看過され、すべては許され忘れ去られ、さらに彼らは常に正しかったとされたのだ。」
 「……そして戦後第四インターナショナルがフランス支部の政策を公認したとき、その政策は再び明らかに日和見主義的であった。」
 これらの同志には気の毒だが、その意見は正しくない。一九四四年二月、ドイツ占領下にあって第四インターナショナル、ヨーロッパ協議会がもたれた。議題のひとつはフランスの再統一とPCIの結成であった。この協議会では以前とられた方針を“あっさりと見過す”どころではなく深刻に批判した。このヨーロッパ協議会で明らかにされた立場はフランスの再統一の基礎となった。この文書は“カトリエーム・アンテルナチオナーレ”の内部号として発行されている。その第十六項「労働者階級の運動と第四インターナショナル発展の展望について」はこの問題を扱って当時なにが起ったか望むべく最大の完全さをもって明らかにしている。これらの同志が意見を公表する前に裏づけを行なわをかったことは残念だ。
 「十六、とりわけこの戦争は第四インターナショナルの運動に非常に困難できびしい試錬を課した。一方では、われわれは、当初大衆の間に熱病のように拡がった民族主義的、愛国主義的気分にとらわれる危険から国際主義者の原則を守る観点でわれわれ自身を防衛しなければならなかったし、他方、ブルジョアのテロから防衛しなければならなかった。
 「フランス帝国主義の敗北後、フランスおよびその他の地域で生じた情勢の圧力のもとで、いくつかの支部で国際主義者としての態度にもとる行動があらわれてきた。まずフランス支部で、その日常政策はしばしば、その帝国主義者の主人の敗北に檄高したプチブル大衆からの民族主義的影響に支配された。」
 「民族問題についてとられたフランス支部の態度は、当時例外的にフランスの同志により運営されていたヨーロッパ書記局名の文書に示されているが、第四インターナショナルの綱領と基本思想と相入れないものとして絶対に公然と非難されてしかるべきである。」
 「敗北したブルジョアの民族主義(それは帝国主義者の利害の表現である)と大衆の“民族主義”(それは帝国主義的占領者の搾取に対する反応と反抗の表現を意味するにすぎない)を区別することなく、POI指導部はブルジョアの民族主義を進歩的とみなし、最初から民族主義とゴーリズムを区別せず、ゴーリズムを”革命的”用語でかざることで満足した。POI指導部は、フランス・ブルジョアジー――敗北した帝国主義強国――を植民地諸国のブルジョアジーと同列に置くことによって民族問題について完全に誤った考えをもってしまったのである。これは民族主義者組織の性格についての危険な幻想を広めたが、そうした組織は革命的プロレタリアートの仮説的な“同盟者”の役割を果すどころか、帝国主義の反革命的前衛となることがのちに明らかになるだろう。」
 「同様にPOI指導部は、革命党は大衆闘争に介入し民族主義の悪影響から労働者階級の多数を獲得すべきであるというまったく正しい前提から出発しながら、危険なイデオロギー的、戦術的妥協に溺れこんでしまった。この指導部は、大衆を獲得するためもっとも重要なことは、社会愛国主義の混乱した欺瞞的な言葉とは反対に、明確な革命的な言葉で語ることにあるのを、理解しなかった。」
 「しかしここでつけ加えねばならないことは、この右翼的中間主義的偏向が非難されねばならないのと同様に、例えばCCIの民族問題に関する方針にみられたようなセクト的“極左”偏向をも第四インターナショナルは強く非難しなければならない。CCIはマルクス・レーニン主義の伝統を守るという口実のもとに、ブルジョア民族主義と大衆のレジスタンス運動との間に区別をもうけることを頑強にこばんだ。」
 「プロレタリアートとプチブル大衆が日々の利害を守るため帝国主義占領者に対しプチブルのスローガンを使って闘争を行なうとき、セクト主義はそれを“反動的で民族主義的”と断罪し、民族主義イデオロギーと闘う革命的努力を無視し、その結果自己を大衆闘争から孤立させるのである。」
 「しかしながら、社会愛国主義的偏向は最初からフランス支部の革命的大衆と第四インターナショナルの他の支部からの健全な反対を強く受けた。」(カトリエーム・アンテルナチオナーレNo.6―7 一九四四年四―五月号)

第二回世界大会

 国際的連絡の回復いらいアメリカの国際書記局と、ヨーロッパ書記局は共同で国際協議会を組織した。これは一九四六年の春ひらかれた。一二の支部がこれに参加した。この協議会はあたらしい国際執行委員会と国際書記局を選出した。それは政治方針をさだめ、あたらしい指導機関の任務を世界大会の準備とした。この決定は協議会に出席できなかった支部にも承認された。世界のあたらしい情勢にたいしてさだめられたあたらしい方針は、そのときまでブロバガンダ・グループであったわれわれの諸支部を大衆と結びついた支部へ、それを指導する党へと転換することを任務とした。
 第二回世界大会の準備はほぼ二年を必要とした。それはわれわれの基本的立場、とくにソ連の問題についてのわれわれの位置を修正しようとする分派との非常に活発な闘争をふくんでいた。第二回世界大会は一九ヵ国の二二組織の代表をあつめた。それは一般的にいって、われわれの運動が、どこかで壁を突破することが可能なほど十分ではなかったにせよ、なんらかの点で戦争のなかからよりつよくなってでてきたことをしめした。それはまた、われわれの運動が極東やラテン・アメリカのように比較的労働者運動のわかい国でとくに重要な可能性をもつことをしめした。
 創立大会に比して組織的に大きな前進を示したことに加えて第二回世界大会は三つの主要問題を議題にかかげた。最初に世界戦争終結につづく三年間の国際情勢が問題となった。大会は、アメリカ合衆国の世界の他の部分にくらべた圧倒的な力、ヨーロッパとソ連における復興の困難さ、そして“冷戦”の開始、に注目した。大会は労働者階級の運動の状況を分析し、第四インターナショナルの各支部に大衆的党建設にむけて自己を強化するよう任務を課した。
 「植民地人民の闘争と世界革命について」は、植民地世界の新たな分割は、アメリカが前の宗主国にとってかわりつつあるが、資本主義諸列強の新たな関係故に、以前と同様な支配力を維持することは不可能である、と指摘した。しかし、多くの植民地諸国で帝国主義国の戦略的な政策は後退しているものの、土着ブルジョワジーの援助により旧い直接支配の形態から新しい間接支配へと変化してきたことをも大会は指摘した。この点、大会はのちに新植民地主義と呼ばれることになる新たな方向をその最初から見抜いていたし、同時に植民地解放戦争がどこで起ろうとその防衛は決定的戦略的重要性をもつ、とした。
 大会は、その実質討議の大部分を「ソ連とスターリニズム」と題された文書の討論にさいた。ドイツ・ファシズムに対する勝利につづくソ連の膨張、いくつかの東ヨーロッパ諸国のソ連軍の占領、これらの国のブルジョア社会構造をかえることなくなされたこの占領の間行なわれに数知れない蛮行と犯罪――これらのことすべてがソ連の性格についての多くの議論をあらゆるところで引き起した。
 大会代議員が可決した文書は、ソ連――堕落した労働者国家というトロツキーの規定を再確認したが、その堕落が到達した段階を明らかにした。それは、ソ連の矛盾は、以前に増して鋭くなっている、と指摘した。またスターリニストの政治路線を解剖して、官僚はますます経済成長の絶対的なしっこくになっていると指摘しつつ、われわれの任務は、もはや戦争が終ったからには官僚体制の転覆である、と結論した。
 この文書のかなりの部分は「ソ連衛星国」――ソ連軍に占領された東ヨーロッパ諸国――の分析にむけられ、結論的にこれらの国はブルジョア国家の構造と機能を残したままであるとした。共産党の問題を扱った文書の数ページは、それらは戦前期以上に急速に改良主義におちこむだろう、とした。結論からいうと、この文書は、ソ連の問題をめぐる国際的討論の意味を検討し、「資本主義国家」論、「官僚的集産主義」論に回答を与えた。
 ふりかえってみると、第二回大会の主要な役割は、戦中、戦後にあらわれたさまざまな遠心的傾向に反対してトロツキズムの原則を再確認することにあった。それは欠くことのできない仕事であったが、大会がなしえたのはそこまでであった。来るべき諸事件がインターナショナルをこの大会ではふれえなかった諸問題と諸任務に直面させることになったのである。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる