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第四章 1933年から1938年

    第四インターナシ∃ナルの準備

 一九二九年の経済危機は、一九三二―三三年からの巨大な政治的影響をもたらしはじめた。
 一九三二年にフランクリン・ルーズヴェルトは合衆国大統領となり、経済を振興するためにニュー・ディールを推進した。その結果の一つは合衆国における労働組合運動の発展であった――それまでプロレタリアートはクラフト・ユニオニズムの支配下におかれており、大工場の労働者は組織されていなかった(CIOの台頭はこの事情によるところが大きい)。しかしこの転換は合衆国のそとには直接的影響をおよぼさなかった。それに政治面でのアメリカ・プロレタリアートの巨大な前進はその後にのこされている。それはようやく合衆国のつぎの大危機の結果として起ったのである。
 一九三三年はじめヒットラーは、改良主義とスターリニズムの二つの労働者指導部の政策の相乗作用によって権力をにぎった。この両者はどちらも、ちがった理由とちがった手段で労働者の統一に反対していた。ちがった道をゆくこの両者はどちらも、ヒットラーの運動の成長をまえにしてドイツ・プロレタリアート全体の無気力・受動性・政治的放心状態を助長した。この両者はどちらも商店の競争のようにふるまい、派閥としての自己の利益を、自分たちが代表していると称する労働者階級全体の利益のうえにおいた。ヒットラーの権力奪取とともにわれわれの全体的路線は転換した。われわれは第三インターナショナルの改革の闘争という路線を放棄して、第四インターナショナルとあたらしい革命党の建設に向う進路をとった。
 この決定は、いちどきになされたものではなかった。一九三三年のはじめにドイツ共産党の改革の闘争を断念しはじめた。なぜならこのように重大な情勢で謀りをおかした党には、歴史的にその根拠が存在したことが明白だからである(トロツキーの「ドイツ労働者は再起するであろうが、ドイツ共産党は駄目だ」をみよ)。われわれは他の共産党とコミンテルンでの反響を知ろうとした。だが反響は稀薄だった。コミンテルンの執行委員会は、ドイツでおこなわれた一切のスターリニズム的政策を承認するへッカートの報告を全員一致で採択した。良心の奥では、大多数の共産党指導者がこれに反対であったにもかかわらず……。スターリニズムは決定的にコミンテルンを征服した。コミンテルンはプロレタリアートの革命的インターナショナルとしては死んだ。
 このコミンテルン執行委員会の決定につづいて、一九三三年夏のわれわれの運動の国際総会は、おなじく全員一致でわれわれの国際路線の転換を決定した。
 これまでわれわれは、コミンテルンの改革を、ボルシェビキ党の改革を、ソヴィエト国家の改革を、われわれの言葉では、いつもはっきりと区別することなしにかたってきた。あたらしい革命党――当然にソ連内のあたらしい党――建設の方針は、われわれのソヴィエト国家にたいする立場の明確化を要求した。そのときわれわれは、こんごボルシェビキ党の改革は不可能であるが、いぜんプロレタリア国家であるソ連の改革はなお可能であることを、非常にはっきり区別した。のちに(一九三五年)われわれの見地はこの問題について発展して、ソ連・堕落した労働者国家における政治革命の必要性を確認するにいたった。
 社会的革命ではなく政治的革命である。なぜならば、必要とされているものはソ連社会の生産関係の根本的変革ではなく、専制的官僚の打倒と労働者民主主義の再建であるからだ。
 もしわれわれの歴史の前期がとくに原則の堅固さで性格づけられるとすれば、ひらかれたあたらしい時期は組織形態の柔軟性に特徴をもつといえる。第三インターナショナル改革の闘争のときに、われわれは改革の問題点について多少ともあいまいな態度をとる一切の潮流とみずからを頑強に区別してきた。しかし第三インターナショナルがもはや改革不可能であるという確認は、革命的主体の巨大な後退を確認することを意味し、あたらしいインターナショナル、あたらしい革命党、そしていかなる道がその形成に通じるかをまだ鮮明に語ることはできなかった。たしかにわれわれはわれわれの綱領を、そのときまでのプロレタリアートの経験のもっとも完全な表現として大衆に浸透させたいとはおもっていた。しかしわれわれは、いかにして目標に到達するか、つまりいかなる道筋を通して革命党が建設されうるか、を明らかにすることはまだできなかったし、他の労働者階級内の革命諸潮流とわれわれとの関係がどのように発展するかを予見することもまだできなかった。
 この点についてはこの時期にふたつの経験――ひとつは限られた展望しかなかったがもうひとつはもっと大きな意味をもっていた――がある。

「四者宣言」

 一九三三年の七―八月、イギリスの独立労働党がひとつの会議を呼びかけたとき、この革命勢力の再結集の問題が、はっきりした形でわれわれの前に提起された、この会議は、ナチの勝利という事態をむかえて世界情勢と労働運動の情勢を検討するため、第二、第三インターナショナル外部のすべての組織に呼びかけられたものだった。われわれは、われわれの立場を周知させ、世界の労働者のまえに第四インターナショナルの必要性を公然と認めようとするあらゆる組織に結集をよびかけるため、この会議に参加することを決定した。この介入はツィンメルワルトとキーンタールへのボルシェビキの立場と同一である。協議会は「四者宣言」を採択した。これはわれわれの国際組織(国際主義共産主義者同盟)、ドイツの社会主義労働者党(SAP)、それに二つのオランダの組織・革命社会党(RSP)と独立社会党(OSP)によって署名された。
 SAPはドイツ社会民主党の改良主義を批判して、一九三一―三二年それと分裂した左翼社会民主主義者の若干から成っていた。ヒットラーの権力獲得すこしまえにはその党の指導部は、SAPに入党するため脱党した共産党の右翼反対派(ブランドラー主義者)のもとの指導者ワルヘルとフレーリッヒの手にうつっていた。オランダのOSPは発生的にSAPに対応するオランダの組織であった。
 RSPはふるくからの共産党指導者のスネーフリートによって指導されていた。かれはオランダの労働組合政策をめぐってコミンテルンと決裂していた。かれは共産主義者と了ナルコ・サンジカリストが同居していた全国労働組合(NAS)を指導していたが、このアナルコ・サンジカリストとたたかうためにスネーフリートはかれの労働組合内フラクションを党に組織したのである。
 「四者宣言」は、あたらしいインターナショナル・あたらしい革命党の必要性を宣言し、その建設のさいもとづかねばならない原則をさだめた。これは全体としてのわれわれの綱領を明らかにしたものではなかったが、その本質はこの宣言のなかにふくまれていた。
 「四者宣言」の効果は世界的にはちいさかった。しかしオランダでは二つの組織が合同集会をもち、合同して革命社会主義労働者党(RSAP)をつくった。これはのちにわれわれの運動に参加したが、スペイン革命のときマルクス主義統一労働者党(POUM)を支持してわれわれと決裂した。この政策にたいするRSAPの反対派は、サル・サンテンに指導される青年層に基礎をもっていた。戦争中に第四インターナショナル・オランダ支部を組織したのはこのわかいひとびとである。RSAPをひきいスペイン戦争のさい第四インターナショナルをめざす運動から分裂したスネーフリートは、それにもかかわらずわれわれと非常に近い関係にあった。彼は戦争中ナチによって銃殺され、英雄的な死をとげた。
 亡命中のSAPの指導者については、かれらはいやしがたい中間主義者に転落した。彼らは「四者宣言」に署名するとすぐトロツキズムのもっとも執念ぶかい反対者となり、第二次世界戦争にさきだつ時期に前衛のなかにいいつくしえない混乱をまきちらしたあらゆる中間主義組織(ロンドン・ビューローその他)の結集の根源となった。戦後、ワルヘルは東独政府の役人になったが、フレーリッヒはわれわれの運動のシンパとなった。

過渡的綱領第一次草案

 革命党建設においてもっとも重要な第二の経験にすすむまえにわれわれはヒットラーの権力獲得の結果うまれた政治情勢について数語をついやさねばならない。
 ナチズムの勝利とともに一切の革命的展望はドイツではずっととおざかってしまった。反動の高揚はヨーロッパの他の国でもおこったが、それには抵抗がなかったわけではなかった。
 労働者階級が全体として社民党の影響下にあったオーストリアでは、一九三四年二月、ドルフスに指導される宗教的反動勢力が労働者を挑発して、一週間のあいだ武器をとってたたかうようおいつめた。ドルフスによるオーストリア・プロレタリアートの粉砕は、オーストリアにおけるナチへの道を準備し、ナナはドルフスを暗殺したのち権力をにぎりドルフスの党を追放した。
 ヨーロッパの労働者運動の中心は一九三三年以後フランスにうつった。ヒットラーの勝利は一九一八年ヴェルサイユ条約がうちたてたヨーロッパの均衡の破壊をうみだし、それはフランスがかって経験したことのないような猛烈な体制の危機をもたらした。はじめてフランスがもはや第一級の強国ではないことが白日にさらされた。その地位を再建するために、あるいは維持するために、フランス資本主義は大衆の生活水準切り下げ以外の解決策をもたず、それは「つよい国家」をうちたてることによってのみ可能であった。フランス資本主義は、一九三四年二月六日、反動的クーデターによって、議会制度を厄介ばらいしようとこころみた。しかし、ブルジョアの見地からすると、事件は未熟のうちにおこなわれた。フランス労働者階級は文字通りこの攻撃によって鞭うたれたのだ。労働者階級はファシズムの脅威にめきめた。そしてその結果非常におおきな政治的緊張がこの国にうまれた。
 増大するファシズムの危険に抗してわれわれは、フランスで労働者階級の統一戦線をおおいに宣伝した。しかしこれを実現するためには、資本主義が労働者大衆を支配し、抑圧している構造からの脱出のためにかれらを動員することを可能にする行動綱領をもたなければならなかった。こうして(一九三四年春)トロツキーの協力をえてボルシェビキ・レーニン主義者の最初の行動綱領が起草された。この文書は、とくに過渡的綱領の最初の粗描をつくりあげた点に意義が存在する。翌年ベルギーのわれわれの同志は(かれらの国の法令に反対する)同様な綱領を起草し、他の国の同志たちも同様な作業をおこなった。このように一九三八年インターナショナル創立大会で採択された「過渡的綱領」は即興的なものではなく、インターナショナルの各国支部のそれに先立つおおくの経験の成果なのである。
 フランスのトロツキズム組織「共産主義者同盟」はすでにのべた統一戦線のための組織的な大衆的闘争をおこない、一月六日の翌週に社会党セーヌ県連合会――それはマルソー・ピヴェールの影響下にあった――との統一戦線を実現した。
 行動の統一をもとめる大衆の圧力は一九三四年二月からつよまった。同年七月に二つの指導部――社会党とスターリニスト党――は下部の圧力により行動統一の協定に署名せざるをえなくなった。この協定は具体的な革命的政策にもとづいていなかった。しかし、なが年の間はげしくたたかってきた二つの指導部が反動グループにたいし統一戦線で対抗するよう労働者階級にうったえた事実は、労働者大衆の巨大な熱狂をよびおこした。
 この協定はわれわれに関係あるもう一つの結果をうみだした。共産党、社会党の統一戦線をもとめるわれわれのカンパニアがある程度成功したとき、それは皮肉にもわれわれの組織に非常に不利な結果を生み出した。われわれが一部分は共産党に、大部分は(そのおおくはプロレタリア出身の、ふるい共産党のミリタントの入党者をむかえていた)社会党にみいだした一定の同調は、われわれからそれてしまった。これは敵意によるものではなく、革命党の概念と必要性――とくに統一戦線での――についてのはっきりした政治的理解の不足に、そして社会党・共産党の統一戦線の非常につよい魅力に、その原因があった。
 われわれの集会やデモは参加者がすくなくなり、われわれの組織は以前と同じような孤立におちこんでしまった。不可避的に組織的危機が発展した。いかにしてこの孤立から脱出するか? いかにして毎日成長するゆたかさをもつ大衆運動――フランスではそれまでこの当時に匹敵する高揚はなかった――と接触結合すべきか? いかにして大衆の参加する経験のなかで大衆とともにあるか、をさがしもとめた。

「加入戦術」

 ここに革命党建設についてのわれわれの第二のおおきな組織的経験がうまれた。よりつよい組織への移行は、トロツキスト・グループが大衆的労働者党に加入して、その組織的独立をすてる一段階をとおしてこころみられた。トロツキー自身が、共産主義者同盟の社会党(SFIO)への加入の問題を提起した。提案は一九三四年九―一〇月に決定をみた。このいわゆる「加入戦術」はその後他の国にもひろげられた。最初それはわれわれの国際組織内部で大変な議論を呼び、分裂の原因にすらなった。一九三四年一〇月の国際総会は非常におおきな困難を経てやっとSFIOへのフランス・トロツキストの加入政策を承認した。このときからこの政策は大多数の組織によってみとめられた。
 その最初の時期においてはSFIO内部のボルシェビキ・レーニン主義グループ(社会党入党後のフランス・トロツキストの名称)は注目すべき政治的明瞭さをもって行動した。これは多くの青年、とくに社青同全体を魅きつけ、「革命的社会主義青年同盟」の結成にこぎつけ、その結果新しいメンバーを獲得することができた。
 しかし、他方、人民戦線がひきつづき組織されているという不利な情勢のもとでSFIOから脱退するという決定がされたとき起ったボルシェビキ・レーニン主義者の分裂は、われわれが加入活動から得た利益の一部を失なわせることになった。
 他の国、とくにベルギーと合衆国では加入戦術はよりよい結果をもたらした。ベルギーでは、シャルルロア盆地に労働者の基盤をもっていたが、ホリナージュでつよい労働者の基盤を獲得した。合衆国では社会党との決裂後、社会党はその打撃によってもはや再起できなかった(J・P・キャノン「アメリカ・トロツキズムの歴史」をみよ)。
 これにたいして、スペインでは、フランス・トロツキストのSFIO加入に反対したニンとアドラーデが、あやまった綱領を基礎にしてカタロニアの「労農ブロック」との統一をいそぎPOUMをつくったが、スペイン革命中もその後も中間主義のワクからでることがどうしてもできなかった。

ファシズムと戦争の進展

 この時期はずっと、労働者の闘争の偉大な前進、とくにフランスの一九三六年六月の運動、その他の国の運動、スペインの内戦にもかかわらず、世界的スケールでのファシズムの高揚、あたらしい帝国主義戦争の接近によって支配されていた。
 この時期にはつぎの三つのおおきな闘争がわれわれの国際的運動の主軸をなす。
 (一) 人民戦線政策への反対闘争。とくにスペインとフランスで、われわれの組織は絶望的はげしさでもって、スターリニストと社会民主主義者――こんどは両者は統一していて、分裂していない――がそれによって労働者運動の最悪の破局を用意している階級協調政策とたたかった。人民戦線はスターリニストにとって階級協調政策の最初のおおきな時期を構成した。しかしこのときスターリニストはスペイン以外では入閣しなかった。この入閣という方針はスターリニストの階級協調のもう一つの時期、第二次世界戦争終結の時期に一般化した。
 (二) 中間主義への反対闘争。
 この闘争はロンドン・ビューロー、スペインのPOUM、イギリスのILP、ドイツのSAP、ノルウェーのNAP(ノルウェー労働党・大衆政党だったこの党はのちにロンドン・ビューローからはなれ、伝統的社会民主主義の役割をはたした)といった中間主義組織の告発によって、とくに性格づけられる。中間主義者反対闘争はまたPSOP(労農社会党・人民戦線解体のさいブルムに除名されたSFIO内部の「革命的左翼」派により構成された党。党指導者マルソー・ピヴェールはのち、もとのさやにおさまり、以降はげしい反トロツキストであることをしめしつづけた)への加入の経験をふくんでいた。これは(当時のフランスのトロツキズム運動の崩壊状態のため)不幸な結果に終った。
 マルクス主義用語では中間主義者とは、革命的マルクス主義と改良主義とのあいだで動揺するあらゆる潮流・グループをいう。したがってこの名称のなかに非常に多様な組織が含められる。大衆的中間主義組織のなかには、たとえばドイツの独立社会民主党(USPD)がある。これは第一次世界戦争中に社会民主党と決裂し、その一部は一九二〇年ドイツ共産党の建設に参加した。
 しかし労働者運動のなかには伝統的に先天的中間主義が存在する。第二次世界戦争にさきだつ時期にこのグループはあたらしい革命的インターナショナル(彼らによれば、これがトロツキストの「セクト主義」なのである)の基礎ときりはなせない綱領を発展させることなしに、大衆をふるい党から切り離そうとした。もちろんかれらはあきらかに目的を達しなかった。しかし彼らの活動の本質は、ふるい党に嫌悪を感じ、労働者運動の恐るべき凋落に方向を見失ってしまった前衛的ミリタントのあいだで、理論的・政治的前進にたいするあらゆる種類の障害をととのえることにあり、その点では成功した。
 世界戦争のあいだロンドン・ビューローは生存の徴しをしめさなかった。この点SAPも同様であった。イギリスではILPはもはや思い出にすぎなかった。
 (三) モスクワ裁判への反対闘争。これは肉体防衛のための闘争、ただしくいえばわれわれの運動の生存のための闘争、ロシアいがいの一連の国のトロツキスト・ミリタント(フランスではレオン・セドフとR・クレメント・スペインではエルウィン・ウルフとマウリン、スイスではイグナス・ライス)にたいするスターリニストの誣告、挑発、暴行、犯罪の堆積にたいする闘争であった。
 一九三六年から一九三八年まで三つのおおきな裁判が行なわれた。そのなかで検事の役は戦後外務大臣になった前メンシェビキのヴィシンスキーによって演じられた。第一の裁判では被告(ジノピエフ・カーメネフ・I・N・スミルノフ)は権力への渇望に上りスターリンにたいし陰謀をくわだてたと「自白した」。第二の裁判では被告(ピヤタコフ、第一の裁判の組織者ヤゴダ)は、かれらと前栽判の被告は、ソ連における資本主義の再建を計画したと「自白した」。第三の裁判では被告(ブハーリン・ラコフフスキー)は、かれらすべてが他の裁判で死刑執行人にひきわたされたひとびとをふくめて、ながいあいだ、ゲシュタポのスパイ・イギリス情報局・天皇の情報官であったと「自白した」。このほか赤軍のもっとも重要な指導者(トハチェフスキー・ガマルニク・ブトナ……)がひとしく陰謀を口実に処刑された。どの裁判でも主要な被告はトロッキーとそのむすこレオン・セドフだった。トロッキーは記憶できないむかしから反革命の手先にされてしまった。この裁判はトロツキーとレオン・セドフの暗殺準備と、地平線によこがおをあらわした戦争の困難のなかでスターリン・フラクションにたいする革命的反対派の中心となったかもしれないオールド・ボルシェビキの清算に役立った。われわれの激しい闘争にもかかわらず、またこの裁判がけがらわしい政治的陰謀であるというデューイ委員会でおこなわれた否定できない証明にもかかわらず、スターリンはディヴィス大使のようなアメリカ大資本の代表の証明をもらってその目的を達した。
 一九三六年に第四インターナショナルの国際協議会がおこなわれた。トロツキーはこのとき第四インターナショナルが宣言されるのをのぞんだが、その提案はこの協議会にうけいれられなかった。それはただ「第四インターナショナルをめざした運動」と称しただけであった。


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