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第三章 1929年から1933年

    国際左翼反対派の形成

 一九二九年はじめソ連からトロツキーを追放して、スターリンはその「一国社会主義」の概念にしたがって、その生涯で一度ならず追放されたこの男から、決定的に解放されたとおもった。しかしこのときですらスターリンはもっと完全にトロツキーから解放される方法があったはずだ。そしてそうしなかったため、実際にジノビエフとカーメネフがトロイカがこわれたあと宣言したように、スターリンは暗殺をおそれねばならなかった。彼の立場は安定というにはほど遠く、他方、ソ連内でのトロツキーの権威はなおいちじるしかった。ソ連ですら、トロツキーは決してその活動をやめていなかった。かれはスターリンがかれに要求した約束に署名することを拒絶した。この拒絶によってスターリンにはただ一つの解決――トロツキーとソ連との一切の連絡、一切の接触の禁止しかのこされていなかった。トロツキーの追放はまさにこの目的でなされた。過去においてスターリンは一九一七年いぜんの革命家の亡命をどうでもいいことと考えていたこと、このことをわすれてはいけない。のちにスターリンはトロツキーを追放したのはあやまちだったと告白した。おそらくそのときからかれはトロツキーの暗殺を準備しはじめたのである。
 トルコ到着後トロツキーは、革命運動の解体に反対するために、ボルシェビキ・レーニン主義者の国際的フラクションの創設をその任務とさだめた。
 一九二四年以後遠心的潮流がコミンテルンとその大部分の支部にあらわれたが、実際にはソ連以外には独自の政治組織、完成した綱領をもつグループは存在しなかった(イタリアのボルテイガ主義者を例外として)。反対に一九二四―二九年の期間中、労働者階級と真の結合をもたず、かれらのあいだで論争はするが、現実の政治的団結のない一連の数的にちいさなグループがうまれていた。これは、共産党が労働者運動のなかの非常にちがった出身をもつ潮流から構成され、それが堕落をはじめるまえにこれら諸党をボルシェビズムの理論的・政治的.組織的成果を基礎として再教育し団結させる時間がなかったという事実によって説明される。革命運動の退潮があきらかになると、またボルシェビキ党の堕落がコミンテルンにしみこむと、スターリニズムの腐敗に身をまかせなかったひとびとのあいだに反動がやってきた。こうしてフランスでは一九二四―二九年のあいだに半ダースものちがった反対派がうまれ、おのおのが、まったく異質であった。
 トロツキーはトルコに到着するやただちにスターリニズム政策に反対しているとかんがえているあらゆるグループと個人に手紙をおくった。グーロフと署名したこの手紙は、国際的再結集を提案して、三つの本質的問題――ソ連、英露委員会、中国革命――についてのかれらの立場を問うた。この手紙、ならびにつづいて出された他の手紙でトロッキ−は、その周囲に各種グループがおおかれすくなかれむすびつき、むすびつくであろうコミンテルン内部の三つの基本的潮流を分類している。
 (a) 左翼反対派――ソ連内のボルシェビキ・レーニン主義派によって主張されたレーニン主義の基本的政治的・組織的立場を擁護する。
 (b) 右翼反対派――ボルシェビキ党右翼(ブハーリン)に端を発し、スターリニズムに、その基本的政策によってでなく、その「一国社会主義」の問題にたいしてでなく、とくにその「極左的」誤りに反対するグループによって構成される。ドイツのブランドラーがもっとも重要であるこのグループは、どれもおのおのの独自の一国的政策をもつことを努力するが、その結果は左翼社会民主主義にちかづく途中にあるにすぎなかった。
 (c) 中央に、スターリニスト・フラクション――クレムリンに奉仕する官僚的一翼。
 これらの手紙のどれのなかでもトロツキーは、党の内部体制の問題はそれがいかに重要なものであれ基本的政治問題に従属しなければならないこと、そしておなじく党の体制を批判するからといって右翼(ブランドラー主義者)とむすびつくことは問題にならないこと、をとくにのべている。なぜなら、右翼とわれわれは本質的政治問題については完全に敵対しているからである。
 われわれの国際的運動の一九二九―三三年の時期は、本質的に根本的自己限定(つまり、原則上の問題で他の反対派とわれわれを分つもの)とカードル養成の時期であった。この期間にわれわれの支部の大部分が形成され、こういう表現がゆるされるとするならば、われわれは「トロツキスト的にかたる」ことをまなんだのであった。
 この期間にフランスでは「ラ・ヴェリテ」(真実)を発行するグループがつくられ(一九二九年九月)、一九三〇年には共産主義者同盟がつくられる。一九三〇年四月には、またパリでボルシェビキ・レーニン主義者の国際協議会が招集され、そのとき非常に弱体ではあったが国際的センターが誕生し、それはのちに国際書記局となる。われわれの運動は一九三二年にコペンハーゲン協議会(トロツキーも参加した)となり、一九三三年にはわれわれの基本綱領を凝縮した「一一カ条」を採択した協議会がひらかれた。
 この時期にわれわれの運動が直面した主要問題をみてみよう。

ソ連の防衛

 東支鉄道をめぐって一九二九年夏おこった事件をきっかけとして、一九二九年からソ連の防衛の問題がスターリニズムに反対するひとたちのなかにおこった。このころシベリア鉄道はその一部が中国領内を通っていた(その後ソ連領内だけを通る線がつくられた)。
 中国領内のこの鉄道の管理については、ソ連と中国のあいだの「不平等条約」の一つであったツァーリズムによってむすばれた全条件をレーニンの政府が自発的に破棄したのちに、両国のあいだで平等の立場からむすばれていた。中国における反革命の勝利後、蒋介石は鉄道のこの部分の管理を確保していたソ連職員を実力で追放しようとした。戦略的見地からこれはソ連にとっておおきな危険であった。なぜなら、このことによって大平洋岸の港とウラディオストックは全シベリアから切断されてしまうのである。蒋介石にたいしてソ連政府はソ連国家の利権を尊重させるよう赤軍に介入させた。このときスターリニズムに反対するあらゆる反対派のあいだで「ソ連帝国主義」の告発と、その他その後われわれの聞かされた議論がきこえてきた。ほぼこのころ、一九二三年のハンブルグ蜂起の指導者ウルバンズが、ソ連における「国家資本主義」についての理論を仕上げはじめた(註)。このときトロツキーはパンフレット「ソ連の防衛と左翼反対派」をかいて、そのときいらい、いくたびもむしかえされねばならなかったこの問題についての最初の完全な説明をする。
 (註) 「国家資本主義」の理論は別に新しいものではない。この理論は十月革命のあとオットー・バウワー、カール・カウツキーら社会民主主義者によって創設された。
 トロツキーはソ連国家の階級的本質を十月革命の成果と確認している。ソ連にたいする戦争目的は警察体制ではなく社会的基礎(生産手段の集団的所有……)の破壊であろう。ソ連の敗北はこの国の帝国主義による植民地化――それにより帝国主義はその延命をはかることになるだろう――をひきおこすだろう。この敗北は全世界の大衆を深刻に志気阻喪させるだろう。しかしソ連の防衛とはスターリンの政策の承認と支持ということでは全然ない。反対にスターリンの政策はソ連をおびやかしている最大の危険の一つである。なぜならスターリンは世界革命の損失を代償に世界に同盟国をもとめているからである。この政策は戦争のさいにすら、はげしく告発されねばならない。「つねにソビエト連邦を防衛せよ。絶対にスターリンの道を否定せよ。」ソ連の唯一の真実の防衛は、世界的紛争のさいのソ連防衛の真の道は、ソ連の同盟国であろうとなかろうとあらゆる資本主義国での国際プロレタリアートの革命闘争である。

ヒットラーの危険にたいする統一戦線

 一九三〇年から左翼反対派が自らを賭けた主要な闘争はファシズムの台頭に反対するドイツの統一戦線のための闘争であった。われわれは、根本的に「第三期」というスターリニズムの政策に反対していた。「第三期」とは次のように要約できよう。すなわち、資本主義は最終的危機の時期にはいった。だから(スターリニズムの論理では)一切のブルジョアジーはファシスト化し、それとともに労働者階級内部のブルジョア的党――社会民主主義党も社会ファシスト党となる。したがって、ソ連に対する戦争がさしせまっており、だから結局、武装蜂起をめざすゼネ・ストと革命の決行を日程にのぼらせる大衆の急進化が存在する。この「社会ファシズム論」の「論理」の政治的結果は、社会ファシスト党との統一戦線など問題にならないということであった。それどころか、そのうしろにかくれているところの「社会ファシズムの双生児」たるブルジョアジーとファシズムに打撃をくわえるために、この社会ファシズム党とたたかわなければならないのである。
 このスターリニズムの国際的政策は、労働者階級がヒットラーのギャングどもに直面しながらも分裂しているドイツでもっともおそるべき表現と結果をもった。もっとわるいことに、あるばあい(プロシャの人民投票において)スターリニストは、ナチスと同盟して社会民主主義者をたおすために投票したのである。もう一つ、一九二九年メーデーでベルリンの労働者三〇名を社会民主党の警視総監ツェルギーベル指揮下の警察が虐殺したとき、共産党は一切の社会民主党員は打倒されるべきツェルギーベルの徒党であると宣言した。おかげで社会民主党員の子供はツェルギーベルの子供となり、共産党の児童組織は学校で社会民主党員の子供をなぐるよう指令した。ヒットラーの権力獲得すこしまえ、ドイツ共産党員とナチス党員とは社会民主党の市当局に管理されていたベルリンの公営交通、運輸労働者のストライキに共同してピケをはったのである。このような「第三期」の政策は社会民主党系労働者と共産党系労働者のあいだに溝をほるだけであったし、ナチの台頭に直面したドイツプロレタリアートを救われない立場においた。
 ヒットラーの道をさえぎるために左翼反対派はドイツで「社会ファシズム」論による政策に反対し、統一戦線のための国際的闘争を指導した。この国際的闘争はトロツキーの一連のパンフレット「唯一の道」「ドイツ共産党労働者への手紙」「国際情勢の鍵・ドイツ」「次はなにか」に基礎をおいている。
 情勢の発展とわれわれの介入は、問題をごまかそうとしたスターリニストをヒットラーの危険に決定的態度をとるようみちびいた。フランスでは、共産党指導部はパリ地方で報告会をひらいて、当時の書記セマールはドイツ問題を「トロツキストの道楽」とののしった。ビュリエ・ホールでの大衆集会ではスターリニストとトロツキストのあいだで激しいなぐり合いが起った。
 のちにヒットラーの脅威をまえにした労働者の不安にこたえることをよぎなくされ、そしてまた民主主義国とヒットラー・ドイツのあいだのクレムリンの外交的マヌーバーに奉仕するため、コミンテルンは反ファシスト闘争のために「アムステルダム委員会」を組織した。この委員会はスターリニストにより統制される「大衆組織」としてははじめての実験であった。われわれの組織はそれが逃げ口上であることを暴露するためにアムステルダムとパリ(プレイエル・ホール)でひらかれた会議に参加した。それは多くの点でまさに逃げ口上であった。スターリニストは反戦・反ファシズム闘争を権力獲得のための革命闘争からきりはなそうとした(註)。こうして彼らは資本主義制度のワクのなかでファシズムの発展をさまたげ、帝国主義戦争への道をたちきることができるという思想をまきちらした。
 (註) 革命党がファシズムと帝国主姿戦争に反対してキャンペーンと行動を起すべきことは明らかである。しかしそれらは反資本主義的性格をもたねばならぬこともまた当然である。
 すでにこの時期に「平和共存」政策がとられていた。それはフルシチョフの発明ではない。フルシチョフはただ戦後の新しい条件にそれを適用しただけだった。
 このようにしてスターリニストは、ふたたびレーニン主義と十月革命の旗のもとに社会民主主義的日和見主義の観念をみちびきいれた。「反ファシスト的」ブルジョアジーや「平和の友」との協調の門がひらかれた。このようにしてクレムリンはフランスとスペインの人民戦線へ、ついで国民戦線へみちびく道の第一歩をふみだしたのであった。
 結局これらの戦線は、スターリニズム指導者がこの大衆的組織手段によって統一戦線をつくろうと主張したのではあるが、逃げ口上いじょうのものではなかった。なぜなら、それらは前もってスターリニストの指導をうけいれようとしたひとびとだけしか組織しなかったからである。かれらはこのように革命的労働者と大衆のなかで労働者階級組織間の統一戦線という概念をねじまげたのである。

共産主義インターナショナルのたてなおしのための闘争

 すでにのべたように、われわれの支部の大部分はこの時期に出発したが、このころ、おおくの内部危機にみまわれた。大多数の国ではおおきな労働者の闘争がなかったし、またわれわれの運動が大衆と結びつくことがなかったので、われわれの内部討論は非常にしばしばその個人的側面が法外な重大性をおびるのがみられた。しかも内部闘争の個人的要素が、あまり明瞭でなかった政治・組織問題に発展した。これら一切の危機は大衆との結合を確立するための闘争、革命的指導部を建設するための闘争の一局面だった。ただ俗物や中間主義者だけがそれを理解しようとつとめるかわりに、それを冷笑することができる。この時期に、同一国際組織内でボルティガ主義者と協力しようとするかなり長期にわたるま試みがなされたが、むだに終った。コペンハーゲン協議会はそのときの状況のなかで同一組織内でたたかうことが不可能であることを明らかにした。
 この時期のあいだ、われわれの政策はあたらしいインターナショナルとあたらしい革命党の建設に反対であった。共産主義インターナショナルとその支部のたてなおしの闘争がわれわれの路線の主軸をなしていた。われわれは除名されても、われわれをコミンテルンのフラクション、各国共産党のフラクション、これらの組織にただしい革命的政策をとりかえすためのフラクションとみなした。
 われわれはこの時期に、コミンテルンとその支部はもはやどうしようもないといって、あたらしいインターナショナルを形成しようとするいくつかの潮流にぶつかった。これにたいして、われわれは、労働者組織にたいするわれわれの態度はわれわれの除名といった主観的理由、あるいはまたこれら組織の指導部の政策によってだけ、影響されてはならない、とこたえた。革命党・革命的インターナショナルの存在と創造は歴史的情勢――ペンによって恣意的に抹殺できない客観的条件に対応するのである。コミンテルンとその支部はその形成、そのロシア革命との結合、労働者階級のなかでの闘争の数年から来る歴史的資本をもっていた。これらの組織は大衆と深くむすびついていた。スターリニズムは第三インターナショナルの歴史的資本を浪費したが、われわれの改革への参加にもかかわらず、おおきな歴史的事件だけがいかにそれが、革命の観点からみると決定的に消費しつくされ、反動に化したのかをしめすことができるはずであった。
 一九二三年から革命的高揚があるたびに、われわれは共産党内に左翼反対派が発展するのをみた。しかし党の官僚化がすでにとりかえしがつかない段階に来ているという根拠はまだなにもなかった。この時期の共産党は、すでにスターリニストによって指導されていたとはいえ、今日の政治機構とはちがったものであったことをわすれてはいけない。結局ドイツ問題についてのわれわれの闘争で、われわれは、ドイツ・プロレタリアートの敗北とヒットラーの勝利はコミンテルンにたいするわれわれの方針の変更をせまる可能性をふくんだ歴史的事件であると警告した。われわれは当時の情勢をこころしておかねばならない。ヨーロッパ労働者階級が世界労働者階級の多数を占めていた。植民地の運動はまだはじまったばかりにすぎなかった。
 のちにわれわれが第四インターナショナルとあたらしい革命党の建設にむかって転進していたとき、かってコミンテルン改革のためのわれわれの政策を攻撃し、われわれに反対して第四インターナショナルの創造を主張したひとびとが実際にこの任務でわれわれに合流しなかったという事実は、一言しておく価値がある。かれらの大多数は「極左」グループを形成しつづけた。このことは、そのときわれわれを批判したひとびととわれわれのあいだにはコミンテルンの改革の諸問題いじょうにずっと深刻な対立が存在したことを証明する。この対立は、党と労働者階級の関係についてまったくことなった概念をたがいに持っていることによるものであった。


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