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第二章 1923年から1929年

    ソ連内のボルシェビキ・レーニン主義フラクション

 われわれの運動の第一の時期は一九二三年から一九二九年にわたっている。この時期のあいだ、ただしくいえば国際的ボルシェビキ・レーニン主義運動は、存在しなかった。外国のグループあるいは個人によって支持されたソ連共産党のボルシェビキ・レーニン主義フラクションが存在したのである。つまりソ連のボルシェビキ・レーニン主義反対派とのグループあるいは個人の連絡は通信にかぎられ、政治思想と行動の真の国際的集団的構造は存在しなかった。
 ソ連のボルシェビキ・レーニン主義フラクションはその形成からわれわれの運動の本質的性格の一つ―国際主義をしめしている。それは一九二三年国際情勢の変化の評価を出発点として形成される。そしてその六年間の主要な闘争はソ連の特殊問題についてとおなじく世界革命の問題のうえに展開される。
 出発点――それは一九二三年一月のドイツ革命敗北後の世界情勢の転換である。ドイツ共産党は、社会民主党が前進しているにもかかわらず、地盤を失っていく。ボルシェビキ党の政治局の多数派(ジノビエフ、カーメネフ、スターリンのトロイカ)に反対してトロツキーは、情勢は国際的にまったく変化した、第一次世界戦争後の革命の波はひいた、いまや資本主義の相対的安定期にはいった、そして共産主義インターナショナルにとっても、その資本主義国の支部にとっても、ソ連の社会主義建設の問題においても、新しい問題が提起されているとした。
 一九二三年から一九二九年までソ連のボルシェビキ・レーニン主義フラクションはつぎの二つの主要問題でたたかうことになる。
 ――ソ連指導部の政策の問題
 ――英露委員会の問題(一九二六年)
 ――中国革命(一九二五年〜一九二七年)

ソ連における政策

 この問題はトロツキーによって「コミンテルン綱領批判」(註)と「裏切られた革命」のなかで徹底的にとりあつかわれた。われわれはここでは若干のおおすじだけにかぎろう。
     (註)「レーニン死後の第三インターナショナル」
 国内戦終結後のネップの設定と労働者運動の退潮は、ソ連の社会関係ならびにボルシェビキ党の内部に非常に重大な結果をもたらした。
 政治的受動性が労働者の内部に発展した。最良の革命分子の一部分が戦場で生命をおとしていた。赤軍のなかで指揮者の地位になっていた他の一部分は国家と経済の指導者の地位に復員し、そのなかへ軍隊でならいおぼえた命令方法をもちこんだ。都市と農村の資本主表的分子はネップの基盤のうえに発展していった。こうして力関係は革命の時期と反対に展開していった。これは国家機構に独立性と権力の強化をもたらす要因となった。レーニンの活動の最後の部分は、この危険を告発することにささげられた。かれはいった。われわれは官僚制的に変形した労働者国家をもっている、と。どのようにかれがこの悪を告発したかを知るためには、ロシアの党の第一一回大会でのかれの報告をよめばよい。
 国家の官僚化はボルシェビキ党の官僚化をともない、それに援助されていた。党は、革命の機関としてはさびてしまった。成上り、かちえた成果にご満悦な層が優位をしめた。この社会層と国家官僚のもっとも十全な政治的表現が「オールド・ボルシェビキ」スターリンの党書記局であった。
 レーニンとトロツキーのあいだの最後の会話は、書記局に反対する闘争を遂行するフラフションの組織化をめぐっておこなわれた。「レーニンの遺書」として知られている中央委員会へのレーニンの最後の二通の手紙は、分裂の危険を警告し、党書記長の地位からのスターリンの排除を提案している(註)。
     (註) このふたつの手紙はソ連では公開されなかった。しかしスターリンはこれが存在することを二度にわたって否定することができなかった。ソ連共産党二〇回大回以来、この二通の手紙の公表、その他のレーニンの著作の刊行、“レーニン秘書の日誌”の公表、などがトロツキーが書いたこと――すなわちレーニンは死の直前、外国貿易の独占を弱体化することに対し闘うと、ムジバニに指導されたグルジア・ボルシェビキの “民族主義”分派に対してスターリンが下した抑圧に反対すること、とくに党の官僚主義、とりわけその政治的スポークスマンであるスターリンに対し、次の党大会で闘うこと、についてトロツキーの支持を要請した、という―をあますところなく証明した。
 一九二三年一〇月、トロツキーは切迫しつつある危険を告発して、党の官僚化に反対する闘争と以下の方策に特徴づけられた“ニュー・コース”を提起した。すなわち、試練をこえてきた若いプロレタリア分子を党に引き入れること、彼らに選挙権を与えること、工業化政策、クラークに反対して貧農を立ち上らせるためのいくつかの方策、がそれである。
 はじめはこの“ニュー・コース”も政治局の多数派によっておおやけには拒絶されなかったが、それを実践するいかなる措置も政治局によってとられなかった。反対にジノビエフ、カーメネフ、スターリン(この時代にはこの順序でひとはかれらの名前をよんだ)により構成された指導部は、事実によっておおくは解決ずみの二〇年まえのレーニンとトロツキ−のふるい対立をひろいあげ、おまけにそれをゆがめたうえで、「トロツキズム」にたいするはげしい闘争を開始した。ずっとのちにジノビエフとカーメネフは、かれらがそのとき「トロツキズム」という言葉を発明したことをみとめている。モスクワの反対派、すなわち“ニュー・コース”をめざす闘争のためにトロツキーによって組織された最初のフラクション、革命と国内戦のミリタントの精華をあつめ、われわれの運動の最初の組織を構成したこのフラクションは、モスクワの諸細胞で若干の成功をおさめはしたが、官僚的な弾圧により見解を党内に拡げることを妨げられた。
 過去の対立をめぐる闘争は、それに参加した若干の人びとすら知らぬうちに、国際主義的革命政策に反対する官僚層の闘争をかくしてしまった。
 こののちボルシェビキ党の指導部によってとられる政策はだんだんと右にかたむきつづけたために、ジノビエフとカーメネフは一九二五年―二六年に、ブハーリン、ルイコフ、トムスキーと同盟したスターリンと決裂した。右派の政策は「社会主義へのクラーク(富農)の編入」に示され、それはブハーリンのいう「亀のあゆみ」で実現されると主張された。工業化はナンセンスであるとして告発された(「農民は蓄音器ではなく、牝牛をほしがっている」と、スターリンはいった)。
 やむをえず和解をよぎなくされたジノビエフ=トロツキーブロックにより一九二六年に構成された反対派は、工業化のプログラムとクラーク・ネップマン・官僚に反対する政策をおこなわせるように闘争した。結局五ヵ年計画は一九二七年、ブハーリン・スターリン指導部によってうけいれられたが、非常に低い水準で計画された年成長率は、この指導部の懐疑主義と反感を表現していた。反対派の圧力によってもっと高い年次目標をもったもう一つの計画が立てられることになった。
 官僚は一九二七年のすえに確信もなく第一次五ヵ年計画に着手した。一九二八年のはじめ――党の統一を破って反対派をシベリアに追放してから三ヵ月たたないうちに――小心になったスターリンはクラークの危険を認識して、ブハーリンの右翼フラクションと決裂して左翼への突然のジグザグを開始し、極左政策をはじめた(五ヵ年計画は四ヵ年で実現されねばならず、農業の集団化は一〇〇%実行されねばならない、等)。それは、法による強制という官僚的方法、いかなる政治的自主性の芽をもつみとる野蛮な方法によって、この国をほとんど破局にまでおいつめてしまった。
 ボルシェビキ党は、左右両反対派の排除ののちは、単に官僚制の政治機構としてのみ存在するにすぎなかった。革命的カードルは追放されるか殺されるかしてしまった。このときから官僚制支配はつよめられ、その政策は一連のジグザグ――もっとも卑俗な日和見主義ともっともハラハラさせる極左コース――によって展開した。しかし最終的にはその一般的方向は強固な日和見主義であった。

英露委員会(1926年)

 英露委員会の問題はスターリン派がソ連の運命と世界革命の運命とをきりはなす政策をとる端緒となった。彼らはソ連の防衛のために、革命闘争を放棄する代償で外国政府に圧力を加える政策をとりはじめた。これはとくに共産主義者がみずから動員できるよりも、広汎な大衆をひきつけるという口実のもとに、革命綱領の一部を放棄する内容をもつ政治計画と遁辞としておこなわれた。
 第一次世界戦争の直後には、世界反動の中心は、すでにはじまった衰退とアメリカ資本主義の矢のよううな上昇にもかかわらず、なおイギリス帝国主義でぁつた。十月革命の実例が「帝国によって抑圧されている植民地人民に非常に魅力的だっただけに、イギリス帝国主義の政治はソ連にたいして敵対的だった。ところでこのころイギリスの労働者運動は政治的に非常に重大な発展を経験していた。一九二四年には選挙で労働党が勝利したが、労働党はたちまち自由党とわけあった権力から排除された。一九二六年ごろにはイギリスの労働組合が左翼へ転換した。ところがイギリス共産党は非常によわかった――今日なおおなじであるが――、そしてそれが労働組合のなかで推進している「少数派運動」もひとしく弱体であった。ソ連をおびやかしているイギリス帝国主義に対抗するために、スターリンはイギリスの労働組合とロシアの労働組合との委員会を、国際的スケールでの労働組合の統一を再建する努力という口実のもとに、構成することをボルシェビキ党政治局に提案した。世界労働組合の統一のためにロシアとイギリスの労働組合の統一戦線は、それがとくに上部での取引きとなり下部からの統制が困難となる危険をはらみながらも、政治的にゆるされるべきものではあった。しかしこの英露委員会の現実の目的はスターリンにとって、それを「帝国主義戦争反対闘争の中心」――ソ運防衛闘争の政治的中心とすることにあった。当時まだ政治局のメンバーであり、これにたいして、プロレタリアートの革命闘争のみを信頼する必要性を強調したトロツキーにこたえて、スターリンは「きみはイギリス共産党の諸君となにをしようとしているのだね?」といった。
 英露委員会の目的についての論争は言葉の問題だけではすまなかった。イギリスでの階級闘争がそれに悲劇的内容をあたえた。イギリス労働者の左傾化は、炭抗国有化となってあらわれて、イギリス労働者階級全体の支持をうけた炭坑夫のストライキをひきおこした。
 一九二六年五月、一〇日間のゼネストがイギリス帝国を震憾させた。これはイギリス資本主義の危機――第二次世界戦争終結後に頂点に達した危機――の最初の発現であった。イギリス資本主義は、なによりもゼネストを停止させ、数カ月間坑夫の闘争を孤立させて放置したイギリス労働組合指導部の裏切りのおかげで、この困難な試練から脱出することに成功した。
 統一戦線についてのレーニン主義の基本概念をもつすべての革命家にとって、この裏切りは、ロシア労働組合の英露委員会からの即時脱退と、イギリスの労働者にその指導部に反対してたちあがるようアッピールすることを要求すべきものであった。しかしスターリンは、英露委員会の本質的目的は「ソ連の防衛」であるとし、大衆の革命闘争とはちがった任務をもっとして、何カ月ものあいだその活動が討論会になりさがっていたこの委員会の存続を支持しつづけたのである。
 共産党と労働組合内部の少数派運動の革命的ミリタントがかれらの労働組合の改良主義指導者を告発したとき、改良主義指導者は「それは全くロシアの意見とちがう。ロシアの同志が改良主義者で裏切者であるとは諸君はいうまい。ごらん、かれらはわれわれとおなじ委員会に統一しているではないか」というに好都合な立場にあった。このような政策はイギリス共産党と少数派運動を武装解除し、志気阻喪させ、後者はその後消滅した。
 ゼネスト後数ヵ月で、この委員会を利用しつくしもう役にたたないとみたイギリスの労働組合指導者は、ロシアの労働組合からスト参加者へよせられた財政援助をかれらの組織の内部生活への干渉として攻撃しこの口実を英露委員会脱退につかった。
 ボルシェビキ・レーニン主義反対派は英露委員会の問題におけるスターリンの政策を告発し、ゼネストの裏切りにあたってこの委員会からの脱退のために非常にはげしい組織的闘争をおこなった。

第二次中国革命(1925年―1928年)

 中国における革命運動は一九二五年―一九二七年に偉大な飛躍をした。その政党として国民党をもつ中国の商業・産業ブルジョアジーは国内のかれらの支配圏拡大をはかって、たがいに戦争をしている軍閥によって個々独立して統治されているいくつかの地方に分裂している中国を統一するために、この革命的高揚を利用しようとこころみた。
 第一次世界戦争につづく数年間に、それまで約十年間中国の革命闘争に参加していた北京大学教授陳独秀を中心として中国共産党が結成された。わかい中国共産党は一切の経験が欠けていたので、コミンテルン指導部がこの時期のその政策に一切の責任をとっていた。スターリンをその政治的表現としてもつソ連官僚は、中国のプロレタリアートと貧農の独自の革命闘争の発展に敵意をもち、それに信頼をおかなかった。その民族主義的要求を理由として、彼らは中国ブルジョアジーとの協力政策に好意をもった。このような階級協調政策を正当化するために、スターリニストは中国のために「四民ブロック」の理論(労働者・農民・知識人・ブルジョアジーの同盟。ブルジョアジーは植民地・半植民地では「進歩的」とかんがえられた)をつくりあげた。かれらは労働者・農民の二階級政党の概念と段階革命、資本主義とプロレタリアートの独裁との中間段階としての「労農民主独裁」の諸理論を発展させた。
 この階級協調政策は実際には中国共産党に国民党への加入を指令するにいたった。こうして中国共産党は独自の政策を放棄し、とりわけ革命の上昇期のあいだ、農業革命の発展において、国民党軍の将校の所有地に手をつけないようにソヴィエトの創設に反対した。コミンテルンとその支部は何ヵ月ものあいだ、国民党の指導者を中国革命の英雄としてたたえ(一九二六年末から二七年はじめの「ユマニテ」をみよ)、国民党軍司令官蒋介石をプロレタリアートの同盟者として、反帝国主義闘争のチャンピオンとして激賞した。国民党軍が北伐の過程で上海に近づいたとき、上海の労働者は蜂起して都市を占領した。かれらの階級的本能は蒋介石軍の上海入城を拒絶したが、コミンテルンの命令で中国共産党は上海の労働者をして蒋介石とその軍隊を中国第一の工業中心地に導入させた。入城するやいなや蕗介石は中国の共産主義運動の虐殺に着手したのである。
 中国共産党はスターリニスト指導部の命令のもとにこのあと国民党の一翼、汪兆銘にひきいられる「国民党左派」との協調政策をとったが、おなじような結果になった。中国共産党書記陳独秀が左翼反対派に移行したとき、かれは、コミンテルン代表ボロディンが「労働者は国民党のクーリーにならなければならない」といっていたことを暴露した。
 ソ連のボルシェビキ・レーニン主義フラクションはこの中国におけるスターリニズム政策に反対し、しだいにはげしく闘争を指揮したが、この闘争の頂点はスターリニストにたいするロシアのボルシェビキ・レーニン主義者の全闘争の頂点と一致した。

永久革命と一国社会主義

 このようなスターリニストにたいするソ連の左翼反対派の闘争を構成する三つの主要問題は、理論の面では唯一のおなじ問題「一国社会主義」理論にたいする永久革命論の闘争、ソ連官僚の反動的な民族主義政策にたいするプロレタリアートの世界革命政策の擁護闘争である、と要約できる。
 一九二三年にはじまったこの闘争は、政治的理解という点であきらかに不感症なひとびとがかんがえるように権力を争奪する個人の問題でも、あるいはブルジョア・ジャーナリストや政治家がかいているように世界に社会主義を建設するための戦略をめぐる二つのちがった革命家の派閥の闘争でも――どちらも無知か悪意からスターリニズムを革命のカガミとしているのであるが――なかったのである。それはなによりも、ちがった社会層を代表する二つの政治組織の闘争であった。
 左翼反対派は意識的に世界プロレタリアートとその歴史的基本的利益を代表した。スターリニスト・フラクションはその特権を安定し、強固にし、さらに拡大することに関心をもっている党と国家の官僚の利益を代表した。このフラクションの指導者はボルシェビキ党からうまれたが、かれらの大多数の転身ははじめは意識的ではなかった。しかしかれらは、かれらがその政治的スポークスマンとなる社会層の囚人となって、数年後にはこのフラクションは労働者運動内部でもっとも意識的で、もっとも危険な反革命勢力となった。
 ソ連における闘争の頂点は、一九二七年一一月、十月革命の一〇周年に起った。このとき、モスクワとレニングラードでは反対派は独自のスローガンのもとにプラカードと旗をたてて、クラーク・ネップマン・官僚に反対する公式デモに参加した。数ヵ月にわたってスターリニスト・フラクションは反対派にたいするでっちあげをかさね、反対派活動を秘密活動に追い込んでいた。それはとくに挑発者をもぐりこませることに努力していた。闇のなかで処刑されてしまわないためには、白日のもとで政治的に行動する必要があったのである。一〇周年記念デモはスターリニスト・フラクションに、党の分裂の完成とボルシェビキ・レーニン主義フラクションのシベリア追放に口実をあたえることとなった〈一〇年後、「モスクワ裁判」進行中に、スターリンははじめて「反乱」のこころみが問題になっていたと弁解した)。

 つづく年もソ連の左翼反対派は組織的に闘争をつづけた。その中央はそのころアルマ・アタに追放中のトロツキーによって構成されていた。これはスターリンにかれをロシアの国外に追放する決心をさせた。
 一九二九年後半、ソ連のトロツキズム反対派――われわれの最初の支部――は、その主要な指導者レオン・トロツキーと切りはなされた。つづいてわれわれの運動の中心も移動した。そのときからスターリニズムの抑圧によってその後壊滅されたわれわれのフラクションについての情報はほとんどきかれなくなった。ただアントン・シリガの著書「おおきな虚妄の国で」のなかで、反対派指導部の中核のヴェクネ・ウラルスク収容所での政治生活について、若干の知識を得ることができる。だが、プチ・ブル自由主義の立場に移行するためにボルシェビズムと決裂したひとに対する場合につねに必要な留保をつけて、この著書をとりあげねばなるまい。
 以上概観をのべた期間のソ連の、ボルシェビキ・レーニン主義フラクションの闘争の主要な文献は、ジノビエフ主義者(かれらはボルシェビキ党第一五回大会後降伏した)と共同で起草された「左翼反対派政綱」(一九二七年)である。
 なおもう一つソ連内のわれわれのフラクションについてのべると、その指導分子はただ単に一〇月革命の指導に参加者としてよく知られていたオールド・ボルシェビキばかりではなく、革命の数年に、国内戦のさなかに非常にゆたかなマルクス主義的資質を身につけ、最後まで降伏しなかった一連のわかいカードルをふくんでいた。かれらとわれわれの切断は、われわれの運動にとっておおきな損失であった。


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