ニクソン訪中とアジア革命の展望
酒井与七
ニクソン訪中は、アメリカ帝国主義の世界史的衰退を告白している
七月一六日、中米双方の政府は、周恩来首相と米大統領補佐官キッシンジャーとのあいだに会談がもたれ、ニクソン米大統領が来年五月までに中国を訪れることに合意をみたと発表した。そして、中国政府による公式の発表文によれば、この中米の頂上会談つまり「中国の指導者と米国の指導者の会談は、米中関係の正常化をさぐり、双方に関心のある問題について意見を交換するためである」とされている。だが、このニクソン大統領の訪中と中米会談の決定は、何よりもまず第一にアメリカ帝国主義が、今日、全世界的に、またとりわけアジアにおいていかに絶望的な窮地においこまれているかを劇的に示すものである。アメリカ帝国主義のニクソン政府は、この帝国主義にとって一九五〇年代以来最大の政治的仇敵であったはずの中国国家に、アジアにおける政治的救済の可能性を探り見いだそうというのである。
ニクソンの訪中決定と米中会談は、極東ならびに東南アジア全体にまたかけるアメリカ帝国主義の中国革命にたいする軍事的包囲と圧迫にもとつく反革命的な積極的封じ込めの体制と路線が戦略的大後退をいやおうなしに強制されているということ。
このことをアメリカ合衆国政府自身が全世界にむかって公然と告白するものであった。このことは、第二次世界戦争後、アメリカ帝国主義を卓絶した絶対的主導者として組織され形成されてきた攻勢的な世界反革命体制が最後的な後退と退潮と崩壊の局面に突入しているということをしめしているのである。帝国主義の世界的権力体系は、ベトナムにたいする公然たる反革命軍事干渉を世界反革命の歴史的頂点とし、ここにおいてベトナム人民がこのアメリカ帝国主義の強大なる反革命軍事力に抗しぬき、これを自己の武装解放闘争によってついに打ちやぶったとき、世界史的な退潮にむかって流れを開始したのである。ニクソン米大統領の訪中決定と米中会談は、かくして何よりもまずベトナム人民を中心とする今日のインドシナ革命の巨大さ、この革命が帝国主義的世界権力体制の卓絶した基軸たるアメリカ帝国主義の心臓部にいかに決定的な打撃をあたえたかということをこそしめしている。ニクソンを北京に走らせるのは、ベトナム人民であり、インドシナ三国人民の武装解放革命である。
第二次世界戦争における主要な勝利者は、労働者国家ソ連邦と革命中国と帝国主義のアメリカ合衆国だった。すなわち、ナチス・ドイツの反革命的軍事侵略に耐えぬき、ついには軍事的反攻に転じてドイツを軍事的にたたきのめした主力としての労働者国家ソ連邦、――旧日本帝国主義の中国にたいする軍事的侵略にたいする抗日武装闘争を築きあげ、旧日本帝国主義がついに壊滅したとき強力な革命的権力を樹立した新中国、――そして対ドイツ・対日本の二正面戦争を展開して帝国主義的世界にたいする圧倒的な主導権と支配力を確立したアメリカ合衆国であった。そして、第二次世界戦争にひきつづいて直ちに展開されていった全世界的闘争において主軸をなしたのは、まさにソ連邦・革命の新生中国・資本主義的世界のすべてを主導し統制せんとする史上最強の帝国主義世界国家としてのアメリカ合衆国にあった。アメリカ帝国主義は、第二次世界戦争後ただちにヨーロッパにおける反共反革命の軍事的障壁と封じ込めの体制を築いていった。それは、ソ連邦の東欧ならびにバルカン諸国にたいする政治軍事的覇権の確立ならびにこの地域の諸国における資本主義的生産関係の廃止。そしてギリシャ・イタリー・フランスにおける階級闘争の激化、という情勢に対抗して、西ヨーロッパ諸国を資本主義体制のもとに確保し、資本主義世界にたいするアメリカ合衆国の主導権と支配力をソ連邦が承認するよう軍事的に圧力をかけ、あわよくばソ連邦の東欧にたいする支配に危機をつくりだそうとするものであった。かくして、アメリカ帝国主義の主導下に西ヨーロッパにおける反ソ反革命の軍事体制がNATOとしてつくられていった。アジアにおけるアメリカ合衆国の反革命軍事体制は、中国革命を決定的な主目標とし、中国国家を軍事的に包囲し、中国革命の極東ならびにインドシナ半島におけるアジア革命としての発展を封じこめんとするものであった。アメリカ合衆国のアジアにおける反共反革命軍事体制は、もちろん朝鮮戦争を契機にして決定的に確立されていった。そして、この中国を中心的な敵対目標とするアジア反革命の軍事帝国主義体制が東アジアにおける政治情勢の基調を決定したのであり、これら地域における一切の諸国家と諸政府の性格を決め、またその根本的な土台ともなったのである。
ヨーロッパにおいては、ソ連邦における工業的経済の再建とその一層の発展・他方西ヨーロッパ諸国における資本主義的経済の回復発展と階級関係の相対的な緩和を基礎として、ソ連邦とアメリカ合衆国とのあいだに互いに現状維持を認めあう「和解」と「相互接近」が発展し、米ソを中心とする東西の平和共存体制がつくられていった。ヨーロッパにおいては、東西間の直接的な政治軍事的な緊張は相対的な緩和にむかった。ヨーロッパにおいて、東西両陣営は基本的に互いの現状を認めあった。もちろん、ソ連邦とアメリカ合衆国の核ミサイル兵器の分野においてまでも全面的な合意が成立したわけではない。だが、ヨーロッパは、アメリカ帝国主義にとって政治軍事的な反革命的努力の直接の中心地点ではなくなった。
そして、一九六〇年代にはいって、アメリカ帝国主義が政治軍事的な直接の反革命的努力を集中していったのは植民地の世界においてであった。キューバ革命とアルジェリア武装解放闘争を中心とする植民地諸人民の反帝国主義諸闘争の高揚にたいする全面的な世界的反撃にアメリカ帝国主義は乗りだしていったし、コンゴ、インドネシア、ブラジルにおける反革命とクーデターの勝利はそのさいたるものであった。アメリカ帝国主義のこのような全世界的な植民地反革命への努力は、当然にも中国革命を中心とする東アジアにとりわけ集中せざるをえなかった。そして、この期におけるアメリカ帝国主義の対アジア政策・対中国政策の性格は、アジアにおけるアメリカ合衆国の優勢な軍事帝国主義体制をもって、中国国家を米ソの世界的共存体制に屈服させようとすることであった。つまり全世界的な植民地反革命の完遂とこの力関係を中国国家に承認させ、アジアにおけるアメリカ的世界を認めさせることであった。また、この点において、ソ連邦がアメリカ帝国主義にたいして政治的に協力したことは明らかであった。そして、この全世界的な植民地反革命の完遂の最後の環ならびに中国国家に米ソ平和共存体制を迫るカナメとして、ベトナムにたいするアメリカ帝国主義の反革命軍事干渉の急速な深まりと拡大はあったといわなければならない。沖縄労農大衆の抵抗闘争によって、政治的にうち破られたとはいえケネディ政府はキァラウエー施政によって沖縄軍事植民地体制の再編強化を企図した。また軍事クーデター後、この朴軍事政体と日本ブルジョアジーを結びつける日韓条約締結が強行された。アメリカ帝国主義は、中ソの分裂と対立においてソ連邦をも利用しつつ、まさに強硬な「力の政策」をもって米ソ共存体制という現状への中国国家の屈服を迫ろうとしたのであった。この闘いの焦点は、まさにベトナムを中心とするインドシナ半島において展開された。革命と反革命の死闘にあった。
だが、全世界的植民地革命の完成と中国国家を米ソ平和共存体制下に封じこめ屈服させようとするアメリカ帝国主義の全面的な反革命軍事干渉にたいするベトナム人民の強力な抵抗闘争の貫徹ならびにこのベトナム人民の武装解放闘争の全インドシナ化する勝利的前進によっておしとどめられ、ついには決定的に粉砕されてしまった。ベトナム革命の全インドシナ化する武装解放闘争の圧倒的な勝利的前進が、中国革命を中心とする東アジアにおいて展開されたアメリカ帝国主義の世界反革命の努力を集中点においてうち破り、粉砕したのであり、中国革命とその国家にとってベトナム革命のあの英雄的な武装抵抗闘争こそがアメリカ帝国主義の強硬な軍事的圧力にたいする革命的な障壁とついたての役割をはたしたのである。ベトナム人民が自己を血弾と化してアメリカ帝国主義の巨大な反革命軍事干渉の最前面にたって抗しぬき、この軍事反革命をベトナムのジャングルと農村地帯において永久的に消耗させ、その力を吸いとっていったがゆえに、中国共産党の毛沢東指導部はまさにこの重大な時期に中国国家を上から下までの大分裂と全般的麻痺状態にたたきこむことができたのである。この時期において、毛沢東一派は、中国革命とその国家を重大な危機においこんだのであって、にもかかわらず中国革命とその国家をアメリカ帝国主義の政治軍事的重圧からもっともよく防衛したのは、ベトナム人民とその全インドシナ化する反米武装解放闘争だったのである。毛沢東一派は、ベトナムにたいするアメリカ帝国主義の全面的な軍事反革命にたいして、中国労農人民と中国国家を総力をあげて動員するために闘おうとは決してしなかった。毛沢東一派は、ベトナム人民の苦難にみちた血まみれの犠牲のうえに「文化革命」における勝利を達成したのであり、中国国家の毛沢東指導部はベトナム人民にたいして土下座して許しをこうべきである。われわれが中国「文化大革命」をはかる絶対的基準は、以上の意味において、アメリカ帝国主義の公然たる軍事反革命と最先端において断固として闘いぬいたベトナム人民の武装解放革命でなければならない。だからまた、巨大な幻想と後光にいろどられた今日の毛沢東主義は、ベトナム革命の鏡に照して、断罪されなければならないのである。
ベトナム革命は、アメリカ帝国主義の公然たる軍事反革命に抗して自己の解放闘争にかんして勝利をおさめんとしつつあるだけではない。ベトナム革命が自己の勝利を達成する過程は、アメリカ帝国主義の核ミサイル兵器をのぞく全力を傾注した軍事反革命にたいする抵抗と勝利としてあった。それゆえに、ベトナム人民の武装解放闘争の勝利は、アメリカ帝国主義の政治軍事的反革命予備力を徹底的に放出、消耗させ、この帝国主義の上限を決定的に突破し、この帝国主義世界権力を世界革命との関係において決定的に戦略的守勢、すなわち帝国主義世界権力の決定的な戦略的退潮と衰退においこんだのである。ベトナム革命の永久的な全インドシナ化とその確実な勝利的前進は、同時に、アメリカ帝国主義の側にまさに世界史的な戦略的大後退をいやおうなしに余儀なくさせる程の大打撃をこの帝国主義世界権力にあたえたのである。アメリカ帝国主義は、東アジアにおいて中国国家を中心とするアジア革命を有無をいわせぬ軍事的圧迫と封じ込めによって屈服させるという路線そのもの、そのための力そのものをベトナム革命によってついにうち破られ粉砕されたのである。
ベトナムとインドシナにおいてもてる予備力の一切を傾注してしまった軍事反革命の破産と敗北は、反革命世界権力としてのアメリカ帝国主義の背骨に絶対に回復不可能な亀裂を深く刻みこんだのである。この反革命世界権力は、もはやアジア革命を軍事的に封圧し、中国国家を封じ込める力を決定的に失ったのである。であるがゆえに、アメリカ帝国主義の最高首脳者たる米大統領が北京にとんで、何とかそこから救いを引きだそうと企図せざるをえないのである。
アメリカ帝国主義の世界史的な没落がはじまった。アメリカ帝国主義の危機は、全世界の人々によってあまねく認められているように政治軍事的ならびに経済的に二重にあらわれている。最近においては、マルク危機をつうじてこのうえなく明らかに現象したドルの国際的危機、つまりアメリカ帝国主義経済の国際的危機について、ここでは直接にたちいらないことにする。ここではただ次のことを確認することにとどめておこう。
一九三〇年代の大経済恐慌によって一度深刻な危機におちいったアメリカ帝国主義は、一九三九〜四一年にかけて勃発していった第二次世界戦争を決定的な契機にして、西ヨーロッパならびにアジアにたいして軍事政治的大膨脹をとげていった。アメリカ合衆国は、大西洋と太平洋という二つの大洋の彼方の世界にむけて強大無比、世界史上最大最強の世界帝国を築きあげていった。世界戦争後の情勢において、この世界帝国は強大なソ連邦と中国の両国家と政治軍事的に対抗し、ヨーロッパとアジアの革命を世界憲兵として絞殺し、抑圧し、資本主義的世界の全体を自己の全一的な支配と統制のもとに一時的には獲得することに成功した。この世界帝国はあらゆる植民地諸国をかけめぐって反革命の罪業をはてしなくつみあげた。世界帝国としてのアメリカ合衆国――これはまさに世界史上における最大無比の悪魔的存在であり、デーモンのようであった。この世界帝国は一九四〇〜一九五〇〜一九六〇年代とまさに三〇年間にもわたって大膨脹をとげ、悪業のかぎりをつくしてきた。だが、この悪魔の世界帝国は、まさにそれが全地球的に力をのばし、それが歴史的に擁していた力の限りに伸びきってしまったまさにその瞬間において、ベトナム人民によって決定的な痛打をその体内にぶちこまれたのである。この世界帝国は、それが伸びきってしまった瞬間に、しかももてる力のすべてを動員しつくしたところで深刻な打撃をこうむったがゆえに、いったん拡大しつくした反革命の世界体系ともはや力の限界を絶対的に画され決定的な衰退にむかう自己の内的力のあいだの不均衡によっていまやさいなまれることになった。ニクソンが北京にとぶことによって中国国家に支援をもとめようとするのは、今後、不可避的に拡大するこの不均衡とそれがアジアを中心とする旧来の帝国主義柚民地体制にもたらす危機の深化に何とか対処せんがためにである。この帝国はまさに三〇年間をつうじてもてる予備力と潜在力のすべてを支出し、使いはたしてしまったのである。世界帝国としてのアメリカ合衆国は、もはや自己を建てなおすべき予備力と潜在力をもっていない。この世界帝国はもはやただ絶対的に衰退する以外にない。そして、アメリカ合衆国にかわって、帝国主義世界権力を担うべき別個の予備的帝国主義はもはやこの地球上に存在していないがゆえに、この帝国の没落は、一九世紀以降の歴史をつうじて形成された帝国主義的世界体制そのものの最後的な終焉の始り以外の何ものでもないのである。第二次世界戦争後の世界に築かれた新しい世界革命が、ベトナム革命を最前衛として勝利への大行進をもはや確実に開始したこと、ニクソンの訪中と中米会談はこのことをわれわれに告げしらせている。現代の世界革命はアジアを最初の主戦場とし、アジア革命を最先端としてもはや開始されている。
中国を中心とするアジアは、アメリカ帝国主義の世界的反革命努力の集中点であり、その最先端における軸点であった。そして、ベトナム・インドシナ革命によって決定的打撃をこうむったアメリカ帝国主義は、まさにこのアジアにおいてもっとも重大な戦略的大後退をいまやいやおうなしにせまられている。この政治的強制がいかに強力に作用しつつあるかをニクソンの訪中決定がおしえている。だが東アジアにおける旧来の植民地主義的ならびに帝国主義的な諸国家と諸体制は、アメリカ合衆国のアジアにおける軍事帝国主義体制が中国国家を強力な軍事的包囲によって封じ込め、アジア諸人民の武装反乱を軍事的に封圧するということを根幹にして成立していたのである。われわれはこの点について次のように主張してきた。
……東アジアの革命とアメリカ合衆国の帝国主義的反革命とが互いにガッブリと四つに組みあった……軍事政治的対抗関係こそが、一九五〇年代以降歴史的に確定された東アジア政治情勢の根本性格であった。
反帝国主義革命と帝国主義反革命のこのような徹底的に緊張した軍事政治的関係が、東アジアにおける民族的あるいは恣意的な境界線によって形成されている諸々の国家の性格と国際的基礎を決定的に支配している。ここでは、すべての国家は、アメリカ合衆国の東アジア軍事帝国主義体制とこれに対抗する中国革命を中心とする東アジア革命との軍事政治的対抗関係のいずれか一方に基礎をおくか、まさしくその中間で綱渡りするしかなかった。
かくして、東アジアにおける諸々の国家と国家関係あるいは国家構造を一元的かつ根本的に支配しているのは、反帝国主義革命と帝国主義反革命の軍事政治関係が具体的に形成している一全体としての東アジア政治情勢であり、国家もまたここでは東アジアの規模において一元的であり、一体である。帝国主義・植民地側の諸国家の一元的かつ一体的な基礎は、東アジア全体に直接にまたがるアメリカ合衆国の軍事帝国主義能力とその体制であり、このアメリカの軍事帝国主義を基本的かつ一元的土台にすることによって諸々の国家が複合的にむすびつき、一元性のうちに関係しあっている。そして、反帝国主義の側は、その一元性と一体性を中国革命を中心とする東アジア革命の客観的な一体的存在に基礎をおいており、一九五五〜六五年において具体的には中国国家に相対的な物質的根拠をおいていた。かくしてまた、「国家と革命」、つまり「国家」と「革命」は、それぞれ個別の民族的国境の枠内においてとりあげられるべきではなく、少なくとも東アジアという直接的な一元性と一体性(もちろん複合的な)において根本的にとらえねばならない。複合的一体性としての東アジア反帝国主義革命、そして同じく複合的一体性としての東アジア帝国主義植民地国家構造、――このようにして国家と革命の闘争は、少くとも東アジア規模の複合的(あるいは有機的)一元性としてとらえられねばならない。
旧日本帝国主義の「大東亜共栄圏」とする強行的軍事帝国主義の冒険によって確立した東アジアの一体性は、今日、東アジアにおける国家の根本軸たるアメリカ軍事帝国主義体制の全面的解体と放逐として東アジア革命を成立させ、完成させる。東アジア革命とは、この地域におけるアメリカ合衆国の軍事帝国主義主義を解体し打倒する闘争であり、そのような複合的永久革命である。
(『第四インターナショナル』誌、一九七〇年五月、第七号、一四一〜二頁)
すなわち、極東ならびに東南アジアにおける植民地主義的ならびに帝国主義的諸国家とその政治体制の根幹かつ土台をなしていたのは、アメリカ合衆国のアジア反革命の軍事帝国主義体制であった。そして、この世界帝国はアジアにおける自己の軍事反革命の体制をもはや戦略的に大後退させなければならないのである。アメリか合衆国のアジアにおける反革命軍事帝国主義体制の衰退と後退は、極東ならびに東南アジアの帝国主義国家と植民地主義的諸国家の土台そのものをほり崩すことによって、これらの諸国家すべてを決定的な政治会議においこまずにはおかない。極東ならびに東南アジアにおける抑圧された諸大衆と抑圧的諸国家との力関係は、まさにアメリカの軍事帝国主義体制の重大な衰退そのものの直接的な結果として、アジアの被抑圧諸人民にとって圧倒的に有利に展開しはじめる。
いまや明らかとなったアメリカ帝国主のアジアにおける反革命軍事帝国主義体制の戦略的後退という絶対的趨勢は、東アジアにおける旧来の帝国主義国家と植民地主義諸国家の全般的危機と諸大衆にたいする政治的支配力を深くほり崩し、これら諸国家にたいする被抑圧諸大衆の強力なエネルギーを解放せずにはおかない。かくして、ニクソンの訪中決定は、ベトナム革命のアメリカ帝国主義にたいする勝利的闘争の展開が全般的なアジア革命に今日ついに転化したことをおしえている。第三次アジア革命の完成を直接にめざす全アジア諸人民の全般的闘争の局面がついに開始されたのである。アメリカ合衆国の反革命軍事帝国主義体制の完全なる解体と打倒をめざす断固たる全アジア的追撃戦と、アジアにおける帝国主義国家と植民地主義諸国家の解体打倒をめざす第三次アジア革命の全般的総攻勢の時はついに到来したのである。かくしてまた被抑圧アジア諸人民の民族自決権にもとづく真に民主主義的な社会主義アジア社会主義合衆国樹立というスローガンは、もはや今日以降大衆運動におけるアジアの宣伝スローガンの実践的な最中心にこなければならない。ニクソン訪中と中米会談にたいして、被抑圧アジア諸人民の民族自決権にもとづく真に民主主義的な社会主義アジア合衆国樹立というスローガンをわれわれは対置する。
ニクソンの訪中決定と中米会談というアジア情勢の展開は、吉田―岸―池田―佐藤(―福田)という自民党本流体制のもとに一貫して追求されてきた新日本帝国主義のアジアにおける展望にたいして壊滅的な打撃をあたえる。であるがゆえにまた、一九五〇年代後半以降全面的に確立されてきた自民党本流主導下の日本国家の旧政治構造は、その根底において破壊的な打撃をこうむり、全般的危機と決定的崩壊にむかう。台湾、南部朝鮮、沖縄の政治体制もまた尖鋭な危機に急速においこまれるだろうことは絶対にまちがいない。
蒋介石の国民党政府にとって、台湾の国際的な位置ならびに展望は完全に宙にういてしまって、何らの政策も確定しえない。台湾の蒋政権は事実上政治的麻痺状態にはいってしまった。この外交的、国際的危機は、内部的な政治体制の危機へと不可避的に発展する。
南部朝鮮においてはその労農大衆の朴軍事警察支配体制にたいする闘争は絶対に強化され、朴の反共軍事体制と日帝の政治経済的浸透の拡大にたいする諸闘争もまた確実に強化される。南部朝鮮の米日帝国主義からの完全独立と南北朝鮮の統一を要求する大衆の政治意識は飛躍的に強化されるだろうし、またそれゆえ南部朝鮮を米日帝国主義にむすびつける国家体制たる朴軍事政権にたいする南部朝鮮労農兵士大衆の(四・一九革命にひきつづく)第二政治革命の情勢は確実に切迫する。
来るべき南部朝鮮第二政治革命において、朴の軍隊のかくされた内部分裂が必ずや暴露されるであろう。沖縄において、在沖米軍事基地とこれを沖縄労農人民に強制せんとする日本国家権力にたいする攻撃的な大衆抵抗闘争はますます力を増大する。ニクソン訪中と中米会談というアジア情勢の展開は、在中米軍事基地が労農大衆によってその機能を全面的に麻痺される時期をただますます近つけるだけである。
かくして、南部朝鮮と沖縄の労農大衆は新日本帝国主義にたいする政治的包囲環を確実にせはめ、新日本帝国主義にたいする政治的攻勢の位置を獲得していくだろう。台湾、南部朝鮮、沖縄における以上のような情勢の可能性は、それ自体において、新日本帝国主義の展望にたいする深刻きわまりない脅威である。
そして、ニクソンの訪中決定は、佐藤―福田路線として描いていた新日本帝国主義それ自体の綱領――アメリカ帝国主義のアジアにおける反革命軍事体制に依拠し、これにたいする部分的補完を発展させつつ、極東・東南アジアを政治経済的に組織するという展望に壊滅的打撃をあたえるものである。ニクソンの訪中決定は、アジアにおいてアメリカ帝国主義が戦略的後退を余儀なくされているということを率直に告白するものであり、新日本帝国主義は今日到達している力によってアメリカの戦略的後退を政治軍事的に埋めることができない、――ここに決定的なギャップ、絶対に橋をわたすことのできないギャップが存在している。新日本帝国主義の旧来の綱領は、アメリカ帝国主義のアジアにおける後退か戦術的なものにとどまり、これを新日本帝国主義が埋めるものでなければならないという前提のうえにたてられていた。つまりアメリカの後退と日本の前進とはたがいにギャップを埋めあうことによって、一本の直線と連続していなければならないというものであった。だが、ベトナム革命がアメリカ帝国主義にあたえた打撃は、新日本帝国主義の綱領からするときあまりにも巨大すぎたのである。新日本帝国主義の危機の本質はここにあり、新日本帝国主義はまさに建設の中途半端にして死の苦悶に突入することをいまや余儀なくされたのである。ブルジョアジー内部と自民党の「本流」そのものにおいて深刻な内部分化が発展するだろう。
そして、全大衆的には先の統一地方選挙にみられた政治的流動と大衆的攻勢は全人民的に強力な力をもって前進するだろう。当面、既存の国家と政治体制の頂点において発展するのは、社―公(―共)のブルジョア中道主義の流れであり、他方、公害、地域住民、経営の労働者は自己の直接的大衆闘争の戦線を強力に前進させようとするだろう。
一九五五〜六五年にかけて形成された旧来のブルジョア政治構造は根底的な流動と崩壊にむかって一路つき進む以外にない。そして、自民党本流の政治支配体制は、それ自体において内部分化を進行させつつ、必死の防戦体制をとってみようとするだろう。とりわけ急進主義大衆諸闘争とその諸組織にたいして警察権力は徹底的に狂暴化しておそいかかってくるだろう。
ここ極東アジアの地においてついに全面的な、まさに根底的な大衆的諸闘争の情勢がはじまったこと、――このことをわれわれは絶対に確信しなければならない。政治危機はまさに極東アジアの規模全体において直接的であり、急迫している。われわれは、ブルジョア中道主義路線に断固として抗し、極東解放革命の総路線をいまこそ確固として防衛しなければならない。
中国政府の外交官標とその政治的性格
中国革命の国家は一九五〇年代にはいって中ソ両国家の同盟のもとに明白な一国社会主義、そして帝国主義との共存の路線を定着してゆく。中国農村の膨大な貧農大衆と都市労働者大衆の巨大な政治的自発性は官僚的操作のもとで中国国家の決定的な基礎たりつづけてきたが、その進歩的な反帝国主義的自発性は民主主義的な全国的表現を抑圧されてきた。中国第二次革命(一九二五〜二七)敗北後の中国労働者階級のあいだでの政治的伝統の弱さは、国家と国民経済における官僚の力をたかめる方向で作用した。極東および東南アジアにおける大衆的革命諸闘争の壊滅と決定的な沈滞、そしてまた中国革命を包囲するアメリカ合衆国の軍事帝国主義体制の巨大な圧迫は、中国革命内部において国家官僚の強化に力をあたえた。一九五〇年代末以降たしかに中ソ両国家の公然たる対立が発展し、それは国家関係の事実上の断絶状態にまでいたった。だが、この中ソ両国家の対立の発展は、中国国家における一国社会主義の放棄として発展したのではない。それは、相対的に工業化された経済を土台とし、西ヨーロッパ帝国主義工業経済社会を国際関係の中心とする官僚的労働者国家と、他方いまだそれ自体の経済が植民地的過去によって支配されており、植民地アジアによって包囲されている一国社会主義の労働者国家とのあいだの利害にもとづくものであった。そして、もちろんわれわれはこの対立において中国労働者国家を基本的に防衛する立場をとった。毛沢東の軍事「文化革命」にもかかわらず、今日、中国国家の基本路線はモスクワとの関係において相対的に急進的で戦闘的な一国社会主義官僚の手中にある。この(中国国家が)モスクワと比較して、中国をとりまくアジア革命の力に相対的により多く依拠しようとするのは当然である。だが、そのことはアジアのブルジョア諸勢力をよりブルジョア左翼にむけて引きうけるためにであり、そしてアジアにおけるブルジョアジーの最大のものはアメリカ・ブルジョアジーと日本ブルジョアジーなのである。
(前記『第四インターナショナル』誌第七号、一四七頁)
そして同志織田は「世界革命」紙第二三九号(一九七一年六月二一日発行)の論文「中国外交政策批判――毛沢東の道とゲバラの道」において次のようにのべている――
毛派官僚の外交攻勢が、現に闘っている全世界人民の革命闘争の前進のためにではなく、国家としての中国を軸にとりむすばれる平和共存体制のために押し進められていることは明らかである。彼らがめざしているこの“新しい”平和共存を、六〇年代前半までの世界を支配した米ソ共存体制と区別して、“米中共存”とわれわれは呼ぶ。
六〇年代後半までは、中国をふくめて米ソ共存構造の傘のなかにすっぽりと包みこまれていた。台湾―朝鮮―ベトナムにかこまれた中国にとって、米ソ共存体制に従属させられる自己の位置は極めて不安定である。実際、一九六四〜六五年に、米中間の緊張はその極に達した。
ソ連官僚の指導権を認めるかぎり、中国労働者国家はその官僚をふくめて米ソ共存体制の将棋の駒である。人民公社・大躍進運動の失敗という内的困難にくわえて、ベトナム革命を契機とする対米緊張激化の外圧をいかに打開するかをめぐって、官僚内部のはげしい権力闘争が展開された。……
……文化大革命は、中国全土の支配権を毛沢東官僚のもとへ一元化した。いまや毛派官僚に、自己の戦略路線たる“米中共存”の独自の構築のため、その権力と生産手段を思うがままに利用する番がまわってきたのだ。
中国革命の現段階におけるボナパルチスト的国家体制の国際的目標は、米ソから政治的に独立した独自の世界的権力としてアジアを中心に影響力を確立し、これを米ソに承認させ、自己の国際的安全をボナパルチスト的国際外交によって確保しようとするところにある。それは今日次のように展開されようとしているし、現に展開されつつある。
第一に、何よりもまずベトナム革命がつくりだしたアメリカ帝国主義の深刻な危機を徹底的に利用して、中国国家のアジアにおける位置をアメリカ合衆国に承認させ、ソ連邦と対抗する独自の世界権力として国際政治に公然と登場のためにアメリカを利用しようとすることである。このことは、アメリカ帝国主義の中国にたいする軍事政治的圧力を弱め後退させようとすることと基本的に結びつけて遂行されようとする。アメリカ帝国主義の世界的ヘゲモニーを弱め後退させるためには、一切のブルジョア的諸勢力を利用する。そして、中国のアメリカにたいする要求の当面する中心は、アメリカ帝国主義に台湾を政治的に放棄させようとすることにある。
第二に、新日本帝国主義が極東から東南アジアにかけた主導的政治勢力として形成され、その軍事的武装が強化されることを妨げようとすることであり、つまり新日本帝国主義を徹底的に平和主義化しようとするものである。周恩来が公明党にあたえた日中関係のための「五原則」はまさにそのことを意味しており、当面、公明党・社会党のブロックに依拠して日本大ブルジョアジーに政治的攻勢をかけ、大ブルジョアジー内部に中国国家に有利な政治的分化を形成しようとしている。毛沢東・周恩来の中国政府は同時に、日本ブルジョアジーとソ連邦との政治的接近の可能性について、これを断とうとして最大の努力を展開する。日本ブルジョアジーのソ連邦にたいする「北方領土要求」への毛沢東・周恩来の積極的支持、また日本共産党にたいする現中国政府ならびに党の拒否的態度はあきらかにソ連邦国家との政治的対抗を意味している。毛沢東・周恩来指導部は、日本共産党を日本内部における親ソ連派の政治勢力として位置づけている。
第三に、ソ連邦との国際的対抗である。まず少くとも、対米関係においてソ連邦の軍事政治的へゲモニーから完全に脱出した独立的世界権力としてソ連邦に承認させることであり、ソ連邦と対抗する国際的独自性の確立のためには、各国ブルジョアジーとその諸国家をすら徹底的に動員し、利用しようとしている。これは、かつてソ連邦が中国にたいしてアメリカ帝国主義の軍事政治的圧力を無慈悲に利用した対中国政策を中国の対ソ連政策としてそのまま裏がえしにしたものにすぎず、ここにまた中国国家の毛沢東・周恩来ボナパルチスト指導部のブルジョア民族主義にたいする最悪の屈服の一つがみられる。中国政府のEC(欧州共同体)への支持は、アメリカのへゲモニーにたいする対抗と同時にソ連邦にたいする牽制のためになのである。この点において、北ベトナムの「社会主義陣営の統一」に関する主張の正当性があル、アメリカ帝国主義による「社会主義陣営の個別分裂政策」にたいする批判と警告の正しさがある。北ベトナムは、ソ連邦と中国のブルジョア民族主義への完全なる屈服を徹底的に批判しているのである。
以上の路線の遂行にさいして中国が採用する路線は、各国ブルジョアジーを自己に有利に戦術的に引きつけるという「新平和共存」と「中立主義」の路線(「中間地帯」論)である。パキスタン・セイロン・EC、そして日本にたいする公明党の五原則にみられるように、中国に有利なブルジョア諸国家との関係をつくりだすということにあくまでも限定されており、これをはみ出す労働者農民の諸闘争にたいする「親中」ブルジョア諸国家の弾圧を支持する。かくして、中国の毛沢東・周恩来路線はアメリカ、日本、ソ連邦のアジアにおける孤立化と後退をめざし、アジアを中心とする中国のブルジョア民族主義的国際ヘゲモニーの形成をめざしているにすぎないといわなければならない。
毛沢東・周恩来のブルジョア民族主義外交は、ソ連邦の軍事政治的ヘゲモニーにたいする東欧諸国の独立化の傾向をまさにブルジョア的に支持し、モスクワにたいして独立的な東欧諸国家内部における労農大衆の官僚体制にたいする反抗の鎮圧を支持するだろう。――ルーマニアにおいて労働者農民大衆が公然たる反官僚闘争をおしすすめるとき、中国の現政府はパキスタンとセイロンにたいして同じく、ルーマニア官僚体制を無条件に支持するであろうことはまったく明白である。モスクワに忠誠な東欧諸国家において、チェコスロバキアにたいする中国の態度にみられるように、モスクワの全面的な統制下にある東欧諸国においては、この統制を動揺させほり崩す大衆の反官僚運動を支持しさえするが、一たび中間的な独立的政府が形成されるならばより以上の大衆の反官僚闘争に中国は反対するだろう。
以上の点からして、また中国は、アジアの労働者国家(北ベトナムと北部朝鮮)が中国から独立した外交的立場をとることと不可避的に対立する。たとえば、中国は、北部朝鮮がヤヒア・カーンのパキスタン政府に反対して、バングラ・デシュの運動に外交的承認をあたえる権利をみとめるだろうか! このことはきわめて現実的な問題なのである。――たとえば、本年春のセイロンにおけるパンダラナイケ人民戦線政府が「人民解放運動」に結集する広範な青年・学生大衆の大弾圧にのりだしたとき、この政府は北部朝鮮の大使館員を「挑発者」であるとして追放した。このとき、中国政府は、パンダラナイケ政府の青年・学生弾圧を全面的に支持した。そして、中国の立場からするとき、北部朝鮮の政府と党は、セイロンの「人民解放運動」の青年たちに政治的連帯を表明する権利があるのだろうか! 毛沢東・周恩来のブルジョア民族主義的ボナパルチスト外交は、アジアを中心とする国際政治情勢にたいする南北ベトナムと北部朝鮮の政府による判断と外交政策の決定権を統制しようとせざるをえないし、これらの権利を自己の手中に独占しようとせざるをえない。周恩来の「新しいジュネーブ会議」という構想にたいする南北ベトナム人民の政府ならびに党の反対意志の表明は、まさに毛沢東・周恩来のブルジョア民族主義国際外交路線にたいする闘い以外の何物でもない。われわれはもちろんこの闘争において無条件に南北ベトナム人民の政府と党を支持する。
毛沢東・周恩来政府はブルジョア民族主義に決定的に屈服している。中国国家のこのボナパルチスト的ブルジョア民族主義路線は、中国内部における労農大衆にたいするボナパルチスト的統制、中国内の少数民族の民族自決権の制限と抑圧としてあり、ソ連邦における政治革命にたいする反動的圧力としてある。中国の二段階国際外交にたいするアジアの労農人民の永久革命のための闘いは、中国のブルジョア民族主義にたいするプロレタリア国際主義と真の民族自決権のための闘争としてある。帝国主義的、植民地主義的諸体制の完全なる打倒をめざす永久革命の闘い、労働者国家におけるボナパルチスト的官僚支配にたいする政治革命のための闘いは、被抑圧諸人民の完全なる真の民族自決権のために闘うことなしにはありえないのである。被抑圧諸人民の民族自決権にもとづくアジア社会主義合衆国――これが毛沢東主義への屈服に対置するわれわれの綱領的スローガンである。そして、この綱領的路線だけがソ連邦における諸人民の反官僚政治革命の前進に寄与することができるのである。
そして問題の第二点は、「親中国」的なブルジョア国家ならびに労働者国家において労農人民の闘争が毛沢東・周恩来の意志に反して勝利への道を現実にきりひらいてゆくとき、中国国家はこの人民の闘争にたいしてどのような態度をとるのか、ということである。今日、毛沢東・周恩来路線は、ヤヒア・カーンのパキスタン政府を全面的に支持し、バングラデシュの運動に反対している。だが、バングラ・デシュの運動はベトナム人民に見ならって自己の武装解放闘争にむかって断固としてつき進みつつある。ヤヒア・カーンの西パキスタン政府が、東ベンガルの労農人民を屈服させえないことは完全にあきらかである。バンクラ・テシュの運動は、労農人民のあいだに深く根をおろすことによって不敗の労農永久革命としてたちあがるだろうし、西パキスタン政府の支配を必ずや解体打倒しぬくだろう。そのとき、毛 的偉業を、いまわれわれに示しつつあるのだ。この革命は満 gの社会主義的統一のために闘おう!
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