“労働者と農民の政府”のスローガンについての討論
レオン・トロツキー
以下はトロツキーとの会話の大まかな草稿であり、討論の参加者の補正を受けていない。――速記者――
質問 “労働者の政府”と“労働者と農民の政府”という二つのスローガンのうち、どちらが好ましいでしょうか?
トロツキー “労働者と農民の政府”のかわりに、“労働者の政府”の公式を受け入れたのは、私は非常に重要な誤りであると思う。この誤りは半分はセクト的な誤解に基づいていると私は思う。“労働者と農民の政府”に反対するときと同じ論拠を用いて、“労働者の政府”のスローガンに反対することもできる。なぜなら、ルイス(ジョン・L・ルイス―AFL〔アメリカ労働総同盟〕に反対して、一九三五年にCIO〔産業別労働組合会議〕を組織した―訳注)と手を組んだグリーン(ウィリアム・グリーン―一九二四年AFL議長、一九三五〜三七年ILO〔国際労働機構〕委員―訳注)――それはわれわれの政府ではない――も“労働者の政府”と言えるからだ。また、われわれは、グリーン、プラス、ルイス、プラス、プチブルジョアと農民の代表としてのラフォレット――これもわれわれの政府ではない――もそう言うことができる。その意味で、われわれは、“労働者の政府”をというスローガンを十分に明確でないと非難することができる。われわれは“労働者と農民の政府”を非難するのと全く同じように、これを非難することができるのである。もしわれわれが“労働者の政府”のスローガンを受け入れるならば、われわれの他のスローガンのすべて、われわれの戦略戦術の全体は、そのスローガンに具体的な意味を与えるであろう。このスローガンは非常に大衆的に、そして明確になるであろう。あなた方労働者が権力をとらなければならない、と。そのとき、われわれは、グリーンとルイスの権力を排除した――われわれの見地から、われわれが受け入れ、支持することができる権力としては排除した――この綱領を与える。しかし、そのときにはまた、「それは諸君の政府でもあるだろう」と貧農に言う可能性がわれわれから奪われているのである。
農民は合衆国において非常に重要な役割を果たしている。イギリスでは、労働者が圧倒的多数であるので、これはそう重要な問題ではない。合衆国では“労働者と農民の政府”の問題は非常に重要である。われわれが農村地区で、「この政府は諸君の政府となるであろう」「それは進歩を基盤にした運動である。農民諸君、諸君は何で反対するのか。諸君の提案は何だ。」などと言う可能性を、なぜわれわれから奪うのか。
質問 このような誤解あるいは誤りは、過渡的綱領の誤解からも生じているとは思いませんか。このスローガンを制約している背後にある思想は、農民は労働者と同じ利害を持っていない、農民は労働者と対立するであろう、という考えです。
トロツキー もちろん、労働者と農民、労働者一般と農民一般は同一の利害を持っていない。農民は一つの階級ではなく、一連の諸階層、半プロレタリアート的分子から搾取者、大農などに至る一連の社会階層である。われわれのいう「労働者と農民の政府」のスローガンは、全体としての農民または農業経営者を含むものではない。われわれは、われわれのスローガンによって、われわれは富農に反対して貧農の側にたち、両者の間に政治的境界を設けるであろう、ということを意味しているのである。ブルジョア民主主義者もファシストも、農民をひとまとめにしたて、完全なブルジョアである農民の上層を通じて下層を支配下におくことに関心をいだいている。
これに反して、われわれは両者の間にくさびを打ち込み、上層を切り捨て、下層をわれわれにひきつけることに関心を持っている。われわれがわれわれのプロパガンダにおいて“労働者と農民の政府”と言うとき、われわれはいつも付け加えなければならない。われわれが言っているのは搾取されている農民のことであり、搾取者のことではない、農業労働者を雇っている農民のことではない、彼らはわれわれの同盟者ではない、と。この意味で、われわれは、われわれが成功すればするほど、労働者と下層農民との同盟はより緊密になるであろう、と言うことができる。
いくつかの問題について、われわれが中農の支持さえをも受けるだろうということも大いにありうる。われわれは上層の一部ともうまくやることができるとさえ言える。しかし、われわれがとる手段が急進化するとともに、とりわけ権力獲得の過程で、彼らは拒否されるであろう。しかし、われわれの権力掌握以前、そしてとりわけ権力掌握以後において、われわれの活動が急進化する過程で、農民の中農部分もまた一定期間拒否されることがありうる。なぜならば、農民の動揺は実に激しいからである――彼らは労働者に対して、非常にしばしば敵対する。そしてこの動揺を通じてのみ、われわれは農民の中の搾取されている多数を、社会主義社会の建設のための労働者との同盟に明確に獲得することができるのである。この意味で、われわれはこのスローガンを、一定の階級との不確定な期間の協定としてではなく、ダイナミックな展望の中で理解すべきである。
重要なことは、農民、搾取されている農民は、労働者と農民の政府以外によっては完全な荒廃、没落、堕落から救われることができないということ、そしてこれがまさにプロレタリアートの独裁なのであるということ、これが労働者と農民の政府の唯一の可能な形態なのであるということを、われわれ自身が理解し、また他の人々にも理解させることである。われわれは、農業労働者と半プロレタリア的農民に、このことを、すなわち、彼ら自身の政府はラフォレットや他のブルジョアによっては指導されえず、ただ革命的労働者によってのみ指導されうるのだということをやがて理解させなければならない。
農民それ自体は自分自身の政府を作り出すことはまったくできない。このことは中世以降の全歴史によって検証されている。いつでも彼らはブルジョア、急進的ブルジョアによって指導される。農民が運動を始めたときには、それは地方的運動であった。ただブルジョアのみが宗教改革に全国的性格を与えたのであって、農民はすべて地方的宗派のままにとどまった。同じことは農民の政府についても政治的にあてはまる――封建制度はフランスではジャコパンの指導のもとではじめて打破されたが、このジャコパンは都市の小ブルジョアなのであった。ロシアでもそうであった。勝利は労働者によってのみ保証された。ドイツでもそうであった。ヒトラーは小ブルジョア知識人を使って農民の支持を獲得することに成功した。農民自身は救済を待ち望んでいて、ファシストでも共産主義者でもその指導に従おうとしていたが、ヒトラーのほうが成功を収めた。しかしヒトラーの運動は都市の運動として始まった。もちろんそれは金融資本の示唆によって終わった。
われわれは、農民は中世の生産様式の遺物を経済的に表現しており、政治における指導的役割を果たすことはけっしてできないということを十分に理解しなければならない。彼らは都市を通じてのみ決断することができる。彼らを指導しうるのは労働者だけであるといった方がもっとよいだろう。しかし、このスローガンを農民自身の前に提起することが必要である。われわれは言わねばならない。諸君はブルジョアを諸君の同盟者に選んではならない、諸君の兄弟である労働者を選ばなければならない、と。そしてこの政府は労働者と貧農――全農民ではなく貧農――の、諸君の政府となるだろう、と。
質問 合衆国の所与の状況のもとでは、国有化に無償という概念の結びついている“収用”という用語よりも国有化という用語を使うほうが適当ではないか、という問題が出されています。“国有化”という用語はよく使われているものであって、労働者運動によって強調されてきました。たとえば、鉱山労働者は彼らの綱領に“鉱山の国有化”を掲げています。鉄道労働者は彼らの綱領に“鉄道の国有化”を掲げています。“無償国有化”に彼らの支持を求めたほうがよいのではないでしょうか?
トロツキー 〔過渡的〕綱領の中の“収用”というスローガンは有償を除外しているわけではない。この意味でわれわれはしばしば収用と補償を対置している。没収は有償を含まないが、収用は有償を含むこともありうる。どの程度の補償をするかは、また別の問題である。たとえば、アジテーションをしているときに、われわれは、君たちは今何をしようとしているのか、所有者や権力の担い手を浮浪者にしてしまおうというのか、と尋ねられるかもしれない。否、われわれは彼ら、つまり老年の世代が働くことができないかぎり、彼らに生活のために必要なだけの適当な補償を与えるだろう。ロシア人のまねをする必要はない。彼らは非常に多くの資本主義国から干渉を受けた。それは彼らから補償の可能性を奪った。合衆国のわれわれは豊かな国民であり、われわれが権力についたら、われわれは年長の世代に補償を与えるだろう。この意味で、無償没収を宣言することは好ましくない。没収よりも収用を用いた方がよい。収用は没収と等しくもなりうるし、一定の補償を含むこともできるからである。
われわれは復讐心の強い人間ではないことを示すべきである。問題は物質的可能性の問題であって、われわれは資本家階級を個人的に粉砕しようとするものではないということを示すことは、合衆国において非常に重要である。収用と国有化――私は両者とも用いることができると思う。収用は非常に重要である。それは革命的意志の行動を意味しているからだ。彼らは、共同体に属すべきはずの諸手段の所有者である。それらを収用することが必要である。国有化とは、イギリスにおける鉱山、フランスにおける軍事産業の場合のように、所有者と政府との自発的協定を意味することもありうる。所有者は国有化された財産の参与者となり、そして彼らの多くは、たとえばフランスでは、破産から救われたために前よりも金持ちになったのである。
われわれはアジテーションの中で収用と国有化のどちらの言葉をも用いることができるが、収用という言葉のほうに力点を置くのは以上の理由からであると私は考える。われわれは鉱山労働者に言うことができる、諸君は国有化を望んでいる。よろしい、それはわれわれのスローガンだ。それは条件の問題にすぎない。もし国有財産が旧所有者への過重な債務の負担を負うならば、諸君の条件はいまよりも悪くなるかも知れない。いっさいの手続きの基礎を所有者と国家の自由な協定に置くことは、労働者の破滅を意味する。いまや諸君は国家の中に諸君自身の政府を組織し、彼らを収用しなければならない。よろしい。われわれは彼らに貧困状態を運命づけはしないだろう。われわれは彼らに何か生活のためのものを与えよう、等と。
一九三八年七月二九日
(社会主義労働者党・内部通報b 一九三八年八月第七号に発表)
産業国有化と労働者管理
レオン・トロツキー
一九三八年、メキシコのカルデナス政権は英米帝国主義者の石油産業を没収した。そのとき、ニューヨークの『ディリー・ニューズ』のような新聞は、この没収を当時メキシコに亡命中のレオン・トロツキーの影響を受けたせいだとした。むろんこれは嘘であった。
トロツキーは慎重に熟慮したすえ、避難所を与えてもらったかわりに、メキシコの政治に介入しないという協定を結んだ。そのためやむなく、彼はこの接収についても一般的に自分の見解を述べることにとどめた。彼はこの接収を支持して、一九三八年六月五日付の論文を書いたが、それは同年六月二五日号の『ソシアリスト・アピール』紙(アメリカの社会主義労働者党の現在の『ミリタント』紙の前身)に発表された。この接収の持つもう一つの側面――メキシコ政府が石油産業を労働者管理の下に置くこと――について、すでにトロツキーがよりくわしく書いていたことは当時知られていなかった。
一九四六年八月に、前にレオン・トロツキーの秘書をしていたジョセフ・ハンセンはナターリャ・トロツキーを訪問したことがあった。また彼はトロツキーの友人たちをも訪ねた。この友人たちの一人にこの接収を研究している人かいた。この人によると、トロツキーと彼は、資本主義国で接収した産業の労働者管理の特性について午後いっぱいをかけて語り合ったことがあった。
トロツキーは、この主題についてより完全に考えたいと約束した。三日ほどしてからトロツキーのフランス人の秘書が電話でトロツキーは小論文を書き終えたと知らせてきた。
このすばらしい論文はどこにも印刷されなかった。同志ハンセンはこの草稿を検討した。それはフランス語でタイプされ日付はなかったが、補筆や文体上の修正はインクでもってトロツキーが手書きして施してあった。文体やなかんずく分析方法や革命的結論は疑いもなくトロツキーのものだった。同志ハンセンはただちにタイプで写し、それをナターリャのところに持って行った。彼女はこの論文の真憑性に確認を与えた。執筆時期はたぶん一九三八年五月か六月であろう。
『フォース・インターナショナル』誌編集部
工業が遅れた国々では外国資本は決定的役割を持っている。だから、民族プロレタリアートに比べて民族ブルジョアジーは相対的に弱体である。この結果特殊な国家権力が生じる。政府は外国資本と国内資本との間、弱体な民族ブルジョアジーと相対的に強力なプロレタリアートとの間を綱渡りする。かくして政府はきわだった特性を持った独特のボナパルチスト的性格を帯びる。政府はいわば階級のうえにたつ。実際にはこうした政府が統治できるのは、外国資本の道具になり下って、プロレタリアートを警察独裁のくびきで縛りつけることによってか、それともプロレタリアートに対してマヌーバーを使い、譲歩し、それによって外国資本に対して一定の自由な行動範囲を得ることによってか、いずれかしかない。〔メキシコ政府の――英訳者〕現在の政策は第二段階にある。その最大の成果は鉄道と石油業の接収である。
これらの措置は完全に国内資本主義の枠内にある。しかしながら、半植民地国において国家資本主義は民間外国資本とその諸政府の重圧の下におかれるし、労働者の積極的支持なしには自己を維持しえない。それゆえ、この国家資本主義は、真の権力を手ばなすことなく、国有産業部門における生産の進行についての責任をかなりの程度まで労働者諸組織にゆだねるのである。
この場合、労働者党の政策はいかにあるべきか。社会主義への道は、プロレタリア革命ではなく、ブルジョア国家による種々の産業部門の国有化とその労働者諸組織の手中への移行をつうじて進むと主張するならは、それはもちろん決定的な誤ちであり、むきだしのペテンである。だが、このことが問題なのではない。ブルジョア政府は、自ら国有化を遂行し、国有産業の管理に労働者の参加をもとめるよう余儀なくされた。もちろん、人は次のような事実をひきあいにだしてこの問題を避けることができる――プロレタリアートが権力を掌握することなしには、国家資本主義企業の管理への労働組合の参加は社会主義的成果をもたらしえない、と。しかしながら、革命的翼からするこのような否定的な政策は大衆によって理解されないだろうし、日和見主義の足場を強化するだろう。マルクス主義者にとって問題なのは、ブルジョアジーの手によって社会主義を築くことではなくて、国家資本主義内に生起する情勢を利用し、労働者の革命的運動を前進させることである。
ブルジョア議会への参加はもはや重要な積極的成果をもたらさないし、一定の条件のもとでは、それは労働者議員の士気沮喪すら導く。だが、このことは革命家にとって、反議会主義を支持する論拠とはなり得ないのである。
国有産業の管理への労働者参加の政策を、ブルジョア政府への社会主義者の参加(われわれはこれを入閣主義という)と同一視するのは正しくない。政府のすべての閣僚は連帯のきずなによってたがいにしばられている。入閣している一政党は、政府総体のすべての政策に対して責任がある。これに比べて、産業のある部門の管理への参加は、政治的反対の全面的な可能性をゆるす。管理機構で労働者代表が少数派である場合には、彼らは、多数派によって拒まれた自らの提案を言明し公表し、労働者に知らせる等々のあらゆる可能性をもっている。
国有産業の管理への労働組合の参加は、地方自治体政府への参加と比較することができるだろう。ブルジョアジーが依然として国家に対する支配権を握っており、ブルジョア的財産法かつづいているにもかかわらず、地方自治体において社会主義者はときには多数になるし、重要な地方自治体経済を指導しなければならなくなる。地方自治体における改良主義者はブルジョア体制に消極的に順応する。革命家は、この地方自治体の分野において労働者の利益にそって可能なすべてのことを行なうが、同時に国家権力の獲得なしには地方自治体政策がいかに無力であるかということを、その活動の一歩ごとに労働者に教える。
相違は確かに次のことのうちにある。すなわち、地方自治体政府の分野では、労働者は民主主義的選挙によって一定の地歩を獲得する。他方、国有産業の領域においては、政府が労働者を一定のポストに招くのである。だが、この相違はただ形式的性格のものでしかない。いずれの場合においても、ブルジョアジーは労働者に対して一定の活動領域を与えることを余儀なくされるのである。労働者は、自己自身の利益のためにこれらの活動領域を利用する。
労働組合が国有産業において指導的役割を果たすような情勢から出てくる危険性について目をつぶるとすれば、それは軽率であるだろう。この危険性の基礎は、労働組合の頂点の指導部と国家機構と結びつくことや、プロレタリアートの代表がブルジョア国家の人質になることにある。だが、この危険性がいかに大きいものであるとしても、それは一般的危険性、より正確には全般的病弊――つまり帝国主義時代における帝国主義本国のみならず植民地諸国においてもみられる労働組合役員のブルジョア的堕落――の一部にしかすぎない。労働組合指導者の圧倒的多数はブルジョアジーとその国家の手先である。国有産業において、彼らは直接的な行政的代理人になることができるし、またすでにそうなりつつある。これに対しては、一般に労働組合の独立のために闘う以外に道はないし、またとりわけ、労働組合の統一を維持しつつ同時に階級的政策ならびに指導的機関の革命的構成のために闘う能力をそなえた強固な革命的中核を労働組合内に形成する以外にはない。
他の種類の危険性がある。それは国有産業部門が経済的に依存している銀行や他の資本主義企業が、労働者管理を妨害し、その信用をおとしめ、災難においこむために、サボタージュの特別の方法を用いるかもしれないということである。改良主義的指導者たちは、資本主義的供給者たちとことに銀行の要求に卑屈に順応することによって、この危険を避けようとするだろう。革命的指導者たちは、その反対に、銀行によるサボタージュから次の結論をひきだすだろう――すなわち、諸々の銀行を収用し単一の国有銀行(それは全経済の計算センターになるであろう)をうちたてる必要がある、と。もちろん、この問題は、労働者階級による権力獲得の問題とわかちがたく結びつけられねばならない。
内外の種々様々な資本主義的企業は、国有産業の労働者管理に障害物を置くために、国家の諸機関と組んだ陰謀をめぐらすだろう。他方、様々な国有産業部門を管理している労働者諸組織は、その経験を交換しあい、相互に経済的援助を行ない、信用の条件等々について政府に対してともに力を合わせてあたらなければならない。もちろん、国有化産業の労働者管理のこのような中央センターは、労働組合と最も密接な接触をもたねばならない。
要するに、この新しい活動分野はその内部に最大の可能性と最も重大な危険性をともに内包しているということができるだろう。この危険性は、国家資本主義が統制された労働組合を介して労働者を抑え、無慈悲に搾取し、彼らの抵抗を麻痺させることができるという点にある。また逆に革命的可能性は、きわだって重要な産業部門に地歩を得た労働者が、資本の全勢力とブルジョア国家に対する攻撃を導くかも知れないという点にある。この二つの可能性のうちいずれが勝ちをしめるだろうか。またどれくらいの期間内にか。もちろん予見することはむずかしい。それは労働者自身の経験、労働者階級内部の相異なる諸傾向の間の闘争と国際情勢に完全に依存している。いずれにしても、労働貴族と労働官僚のためにではなく、労働階級の利益にそってこの新しい活動形態を利用するためには、ただ一つの条件が必要である。すなわち、労働者階級のあらゆる活動形態を注意深く研究し、あらゆる偏向を批判し、労働者を教育し組織し、労働組合内部で影響力を獲得し、そして国有産業において労働者の革命的代表を確保する革命的マルクス主義党の存在である。
(『フォース・インターナショナル』誌一九四六年八月号に発表)
帝国主義の衰退期における労働組合
レオン・トロツキー
全世界を通じて近代的労働組合組織の発展、あるいはより正確にはその堕落に一つの共通の特徴がある――つまり、労働組合の国家権力への接近と、それとあいたずさえて進行する肥大化である。この過程は中立系、社会民主主義系、共産主義系、アナキスト系のすべての労働組合に一様に特徴的である。この事実だけからしても、国家権力と“あいたずさえて肥大化する”傾向はあれこれの教義に内在しているのではなく、すべての組合に共通する社会的諸条件に起因するものであることがわかる。
独占資本主義は、競争とか自由な私的イニシアチブにではなく、中史集権化された支配力に基づいている。強大なトラスト、シンジケート、銀行連合等々の頂点に位置する資本家の徒党は、国家権力とまったく同一の高みから経済生活をながめる。そして彼らは、歩みを進めるごとに、国家権力の協力をもとめる。他方、最も重要な産業諸部門の労働組合は、異なる企業間の競争から利益を引き出す可能性を奪われることになる。労働組合は、集権化され国家権力と緊密に結びついた資本家を敵として立ち向かわねばならない。こうして労働組合は、改良主義の立場、つまり私的所有に順応しようとするかぎり、自己を資本主義国家に順応させ、それとの協力をめぐって競わなければならなくなる。労働組合運動の官僚の見地からするとき、その主要な任務は、国家を資本主義の枠から“解放する”こと、国家のトラストへの依存を弱めること、国家を労働組合の側にひきつけることなどにある。この立場は、労働貴族や労働官僚の社会的立場と完全に合致する。というのも、彼らは帝国主義的資本主義の超過利潤のわずかな分けまえを求めて闘うのであるから。労働官僚は言行に全力を尽して、平和時および、ことに戦時に、自らがいかに頼りがいがあり、また不可欠であるかということを“民主主義”的国家に証明しようとする。ファシズムが、労働組合を国家機関に転化するのは、なんらファシズムの新しい発明なのではない。ファシズムは帝国主義に内在する諸傾向を、究極の結論にまでおし進めたにすぎない。
植民地や半植民地諸国は、自国の資本主義ではなく、外国の帝国主義の支配下にある。しかし、だからといって、資本主義の大立物と、それに本質的に従属している植民地あるいは半植民地諸国の政府とのあいだの直接かつ実際的な日常的結びつきが弱まるのではない。逆に強められるのである。帝国主義的資本主義が植民地ならびに半植民地諸国に労働貴族と労働官僚層を作り出すかぎりにおいて、これらの労働貴族と労働官僚層は、植民地あるいは半植民地の政府を保護者、パトロン、またときには調停者としてその支持を求める。その結果、一般に植民地および後進諸国における政府のボナパルチスト的あるいは半ボナパルチスト的な性格は、その最も重要な社会的基礎を得るのであり、同様にしてまた、改良主義的組合の国家に対する依存の基礎を得るのである。
メキシコで労働組合は準国家的機構に変形され、当然ながら、なかば全体主義的な性格をおびている。労働組合の国家化は、立法者たちの考えによれば、政府の活動と経済活動に対する労働者の影響力を確保するため、労働者の利益にそって導入されたのである。だが、外国の帝国主義的資本主義が当該の民族国家を支配することができ、また当該国内の反動的諸勢力の助けを得て不安定な民主主義を打倒し、公然たるファシスト独裁によって取って替えることができるその程度だけ、労働組合に関する法律は帝国主義的独裁の武器に容易に転化し得るのである。
以上のことから、帝国主義時代においては、労働組合は労働組合であることをやめると結論することは一見容易であるようにみえる。経済の領域で自由な商業が支配していた旧き良き時代において、労働者組織の内部生活を構成していた労働者民主主義の余地は、今やほとんど残っていない。労働者民主主義が欠けているとき、労働組合のメンバーに対する影響力のための自由な闘いはありえない。そしてこのために労働組合内における革命家の主要な活動分野は消滅するというわけである。しかしながら、このような立場は徹頭徹尾誤っている。われわれは自己の好みにあわせて活動の分野と条件を選択することはできない。全体主義的ないしは準全体主義的国家では、労働者階級に対する影響力拡大をめざす闘いは、民主主義的国家におけるよりもはるかに困難きわまりないものである。まったく同様のことが、資本主義国家の運命の変化に左右される労働組合についてもまたあてはまる。全体主義体制がわれわれの活動を極度に困難にしているというだけで、ドイツにおいて労働者に対する影響力拡大のための闘いを断念するわけにはいかない。まったく同様に、われわれはファシズムが作りだした強制加入制の労働者組織内の闘いを放棄するわけにはいかない。ましてや、労働組合が直接あるいは間接に労働者国家に依存しているというだけで、あるいは官僚がこれらの労働組合内における自由な活動の余地を革命家たちから奪いさっているというだけで、全体主義的あるいは準全体主義型の労働組合内での組織活動をあきらめるわけにはいかない。労働者階級の誤らやその指導者たちの犯罪をふくむ先行する諸々の発展によって生みだされたこれらの具体的諸条件のもとで、闘争は遂行されねばならないのである。ファシスト的あるいは準ファシスト的な諸国においては、地下活動的で、非合法的で、陰謀的でないような革命運動の遂行は不可能である。全体主義的あるいは準全体主義的な労働組合内においては、陰謀的ではないいかなる活動の遂行もまったく、あるいはほとんど不可能である。ブルジョアジーに対してのみならず、労働組合それ自身の全体主義体制やこのような労働組合体制を実現している指導者たちに対して、大衆を動員するために、われわれは各国の労働組合に存在している具体的諸条件に適応しなければならない。この闘争のための第一のスローガンは、“資本主義国家との関係における労働組合の完全かつ無条件の独立”である。このスローガンは、労働組合を労働貴族の機関ではなく、広範な被搾取大衆の機関にするための闘争を意味するのである。
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第二のスローガンは、“労働組合民主主義”である。この第二のスローガンは第一のスローガンから直接に引き出されてくるものであり、その実現は、帝国主義国家あるいは植民地国家からの労働組合の完全な自由を前提とする。
言い替えるならば、現代における労働組合は、自由な資本主義の時代におけるような民主主義の機関ではありえないし、また政治的に中立であることも、もはや不可能である。つまり、労働組合は、労働者階級の日常的必要に役立つということに自らを限定することができないのである。労働組合はもはや無政府主義的であることはできない。人民と諸階級の生活に対する国家の決定的な影響を無視しえないのである。労働組合はもはや改良主義的であることができない。なぜなら、客観的諸条件にはいかなる重要かつ持続的な改良のための余地も存在しないからである。われわれの時代の労働組合は、労働者を従属させ労働者を規律の枠におしこみ、そして革命を妨害するための、帝国主義的資本主義の補助的手段としての役割を果たすか、あるいはその反対にプロレタリアートの革命運動の手段になるか、このいずれかである。
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労働組合の中立性は、もはやまったく後もどりできない過去のことである。それは、自由なブルジョア民主主義とともにすぎ去ってしまったのである。
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以上述べたことから、明らかに次のように結論づけることができる。すなわち、労働組合の深まりゆく堕落と帝国主義国家とあいたずさえての肥大化にもかかわらず、あらゆる革命党にとって、労働組合内活動はその重要性を失わないばかりか、以前と同様、またある意味では以前にもまして、重要な活動である。問題の本質的な中心は労働者階級に対する影響力を獲得するための闘いにある。単に嫌悪感に基づいて労働組合に対して最後通牒主義の立場をとること、つまり労働者階級に対して本質的に背をむけることを認めるすべての組織、すべての党、すべての分派――これらすべては死滅する運命にある。また、そのような組織は死滅にあたいすると言うべきである。
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後進的諸国においては、民族的資本主義ではなく、帝国主義的資本主義が主要な役割を果たしているのであり、そのかぎりにおいて、民族ブルジョアジーが占める社会的位置は、それ自身の産業発展の度合いと比較し、はるかに小さいものである。外国資本が労働者を輸入せずに原住民をプロレタリア化するかぎりにおいて、短時日のうちに民族プロレタリアートは当該国の生活において最も重要な役割りを果たすようになる。このような条件のものでは、民族政府が外国資本に抵抗しようとする度合に応じて、この政府は多かれ少なかれプロレタリアートに依拠することを余儀なくされる。他方、外国資本との緊急な結合が不可避であると考えたり、それが自らの利益になると考える後進国政府は、労働者組織を破壊し、多かれ少なかれ全体主義的な体制を形成する。こうして、民族ブルジョアジーの弱さや、都市の自治の伝統の欠如、外国資本の圧力、プロレタリアートの相対的に急速な成長は、いかなる種類の安定した民主主義体制の基盤をも奪いさっている。後進的な、つまり植民地ないしは半植民地的諸国の政府は、一般にボナパルチスト的ないしは半ボナパルチスト的性格をおびる。相違の存在は、一方が労働者、農民の支持を求めて民主主義的な方向をとり、他は軍事警察独裁を採用することによる。この相違が労働組合の運命を決定する。労働組合は国家から特別の保護を受けるか、それとも苛酷な迫害をこうむるか、どちらかである。国家からの庇護は、この国家が直面する二つの課題に規定されている。――第一は、労働者階級をひきつけ帝国主義の側からする過度の要求に対する抵抗にむけて、その支持を引き出そうとする課題であり、――そして第二に、労働者を官僚の支配下に置くことによって、労働者自身を規律によって統制しようとする課題である。
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独占資本主義は、労働組合の独立をますます許容しがたくなっている。独占資本主義は、そのパン屑を拾いあさる改良主義官僚と労働貴族に対して、彼らが労働者階級の眼前で独占資本主義の政治警察に転化することを要求する。もしこれが実現しなければ、労働官僚は放逐され、ファシストに置き換えられる。ついでながら、帝国主義に奉仕する労働貴族は、いかに努力しようとも、結局のところ破滅せざるをえないだろう。
各国における階級矛盾が激化し、各国間の対立が激化すると、帝国主義的資本主義が(ある時期まで)改良主義的な官僚の存在を許容しうるには、その官僚層が、世界的および国内的な帝国主義的計画や戦略などの帝国主義の策謀について、積極的な小株主として行動するときだけである。社会改良主義はその延命のためには社会帝国主義に転化しなければならない。だが、それはただ延命するだけであって、それ以上ではない。なぜなら、この方向をとった場合、一般に出口がないからである。
ということは、帝国主義時代においては、一般に、独立した労働組合は不可能であるということなのだろうか。問題をこのように提出することは、基本的に誤っている。不可能なのは、改良主義的組合が独立ないし、半独立的であることである。帝国主義政策の株主でないばかりか、資本主義支配の打倒を直接の任務とする革命的労働組合さえも、完全に可能である。帝国主義衰退の時代において労働組合が真に独立的でありうるのは、それが行動においてプロレタリア革命の機関であることを意識しているときだけである。この意味で、第四インターナショナルの最近の大会で採択された過渡的諸要求の綱領は、党活動の綱領であるだけでなく、またその基本的性格において労働組合活動の綱領でもある。
* * *
後進的諸国の発展は、その複合的性格を特徴とする。言い替えれば、帝国主義の最新の技術、経済、政治は、これら諸国において伝統の後進性と原始性とに結びついている。この法則は、非常に種々多様な植民地、半植民地諸国の発展様式のうちに観察しうるし、また労働組合運動にも観察されるものである。そこでは、帝国主義的資本主義はその最も厚顔無知かつむき出しの形態で姿を現わしている。帝国主義的資本主義は、その暴虐な支配のもっとも完成された方法を処女地に持ち込むのである。
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全世界の労働組合運動において、近来、右翼への転換とその内部民主主義の抑圧がみとめられる。イギリスにおいて、労働組合における“少数派運動”が(モスクワの援助もあって)粉砕されてしまった。労働組合運動の指導者たちは今日では、特に外交政策の分野において、保守党の忠実な手先である。フランスでは、スターリニスト労働組合の独立的存在の余地がなかったため、彼らはジュオーの指導するいわゆるサンディカリスト労働組合と統一した。その結果、労働組合運動は、全般的に左翼へではなく右翼へ転換したのである。CGT指導部は、フランスの帝国主義的資本主義の最も直接かつ公然たる手先である。
アメリカ合衆国においては、近年、労働組合運動は最も波乱にみちた歴史を経験してきた。CIOの抬頭は、労働者大衆内部における革命的諸傾向のあらそう余地ない証明である。だが明示的で留意すべきことは、この新しい“左翼的”労働組合組織が形成されるやいなや、それが帝国主義国家にがんじがらめにだきこまれてしまったという事実である。旧い労働組合全国組織と新しい労働組合全国組織の頂点どうしの闘争は、おおよそのところ、ルーズヴェルトとその内閣の支持と支援を求める闘いであるといってよいだろう。
ちがった意味でだが、スペインにおける労働運動の発展もしくはその堕落は、右におとらず典型的である。社会党労働組合において、労働組合運動の独立性をいくらかでも表現していた指導的分子は、すべて押しのけられてしまった。アナルコ・サンジカリストの組合についていえば、これらの組合はブルジョア共和主義の道具に転化し、その指導者たちは保守的ブルジョア大臣におさまった。この変化が内乱という条件下で生起したからといってその意味は弱まりはしない。戦争は、一つの政策の継続である。戦争は事態の過程をはやめ、その基本的性格を暴露し、腐ったもの、欺瞞的なもの、曖昧なものを破壊し、本質的なものをすべてさらけだす。労働組合の右翼転換は、階級的、国際的諸矛盾の尖鋭化によるものであった。労働組合運動 れが数的にいかに強 蛛Aいかにして第四インターナショナルが組織され、労働階級 G団ウivウz゚~"|コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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