過渡的綱領についての討論
レオン・トロツキー
これはトロツキーとの対話のきわめて大まかな草稿である。彼は他の仕事のために、郵送する前に自分の発言をいつものように校閲することができなかった。 ―速記者―
トロツキー 綱領一般に関するいくつかの見解を明確にしておくことがきわめて重要である。どのようにすれば綱領を首尾一貫したものに作り上げることができるであろうか? 一部の同志たちは、この綱領草案がいくつかの部分でアメリカ労働者の心理状態や気分に十分に適応してはいない、と言っている。ここでわれわれは自問しなければならない。綱領というものは労働者の心理に適応していなければならないのか、それとも、その国の現在の客観的な経済的・社会的諸条件に適応していなければならないのか、と。これはもっとも重要な問題である。
われわれは、社会のそれぞれの階級の心理は客観的諸条件、生産力、その国の経済状況によって決定される、ということを知っている。しかし、これはただちに反映されるのではない。心理は、一般に、経済的発展に比較して後進的であり、立ち遅れている。この立ち遅れは短期間に終わることもあれば、長期にわたることもある。発展がゆるやかで、だらだらとしたものである平時においては、この立ち遅れが破局的な結果をもたらすことはない。この立ち遅れは、概して、労働者が客観的諸条件によって彼らに提起されている任務に応えることができないでいる、ということを意味している。しかし、危機の時期においては、この立ち遅れは破局的なものとなるかもしれない。ヨーロッパでは、たとえば、それはファシズムという形をとった。ファシズムは、労働者が権力を取ることに失敗した際の彼らへの罰なのである。
現在、合衆国は同じような破局の危険を伴った同じような情勢にはいり込んでいる。この国の客観的情勢は、あらゆる点で、そしてヨーロッパにおけるよりもむしろいっそう社会主義革命と社会主義のために成熟しており、世界の他のいかなる国におけるよりもいっそう成熟している。アメリカ労働者階級の政治的後進性はきわめて著しい。このことは、ファシズム的破局の危険がきわめて大きいことを意味している。これがわれわれの全活動の出発点である。綱領は、労働者の後進性よりも、むしろ労働者階級の客観的諸任務を表現しなければならない。綱領は、労働者階級の後進性ではなく、社会の現実の姿を反映しなければならない。綱領はこの後進性を克服し、それに打ち勝つための道具である。これが、われわれがわれわれの綱領において、資本主義社会――何よりもまず合衆国を含めた――の社会的危機の鋭さのいっさいを表現しなければならない理由である。われわれは客観的諸条件を先に押しやったり、加減したりすることはできない。客観的諸条件はわれわれに依存しているのではない。われわれは、大衆が危機を解決するだろうと保証することはできない。しかし、われわれは情勢をありのままに表現しなければならない。そして、これが綱領の任務なのである。
もう一つの問題は、どのようにしてこの綱領を労働者に提起するかである。それは、むしろ、現実の情勢を労働者にしめす際の教育的任務ならびに用語上の問題といってよい。政治は生産力に、すなわち、生産力の高度な発展、資本主義的所有形態による生産力の麻痺、ますます深刻になりつつある失業の増大――最も重大な社会的疾病――に透応しなければならない。生産力はもはや発展することができない。科学的テクノロジーは発展するが、しかし物質力は減退しつつある。それは、社会がますます貧しくなり、失業者の数がますます多くなることを意味する。大衆の悲惨さは深まり、ブルジョアジーと労働者にとっての困難はますます増大している。ブルジョアジーはファシズム以外にいかなる解決策も持っていない。そして、危機の深まりはブルジョアジーに民主主義の残りかすを廃棄し、それをファシズムと取り替えざるをえなくさせるであろう。アメリカ・プロレタリアートは、団結力、意志力、勇気の欠如のために、二〜三〇年にわたって、ファシスト派によって罰を科されるだろう。ブルジョアジーはアメリカ労働者に彼らの任務を鉄の鞭によって教えるだろう。アメリカはヨーロッパの経験の恐るべきくり返しにすぎない。われわれはこのことを理解しなければならない。
同志諸君、これは重大である。これがアメリカ労働者にとっての展望である。ヒトラーの勝利後、トロツキーが『フランスはどこへ行く』というパンフレットを書いたとき、フランスの社会民主主義者たちは「フランスはドイツではない」と笑った。しかし、ヒトラー勝利の前に彼がパンフレットを書いてドイツ労働者に警告すると、社会民主主義者たちは「ドイツはイタリアと違う」と笑った。彼らは何の注意も払わなかった。いまやフランスは日に日にファシズム体制に近づいている。同じことが合衆国にもそのままあてはまる。アメリカは脂肪がついて太っている。過去からのこの脂肪がルーズヴェルトに彼の実験を許しているが、これはいっときの間にすぎない。全般的情勢はまったく類似している。危険は同じである。確かに、アメリカ労働者階級がプチブル的精神を持っており、革命的連帯を欠いており、高い生活水準に慣れており、そしてアメリカ労働者階級の心理状態が今日の現実にではなく、昨日の思い出に照応しているのは事実である。
いまや情勢は根本的に変化した。この情勢の中で革命的にできることは何か? まず第一に、客観的情勢とこの情勢から生じる歴史的諸任務を、労働者が現在このために成熟しているか否かに関係なく、明確に、卒直に提起せよ。われわれの任務は労働者の心理に依存しない。任務は労働者の心理を発展させることである。これが、綱領によって定式化され、先進的労働者の前に提起されるべぎものなのである。ある人々はこう言うだろう――よかろう、この綱領は科学的綱領である、それは客観的情勢に適応している。しかし、もし労働者がこの綱領を受け入れようとしないならば、それは不毛である、と。あるいはそうかもしれない。しかし、このことが意味するのは、危機は社会主義革命以外のいかなる方法によっても解決されえないのであるから、労働者は粉砕されてしまうだろう、ということにすぎないのである。もしアメリカの労働者がこの綱領をときを逸することなく受け入れなければ、彼らはファシズムの綱領を受け入れることを余儀なくされるだろう。そして、われわれがわれわれの綱領をたずさえて労働者階級の前に現われたとしても、われわれは彼らがわれわれの綱領を受け入れるだろうと保証することはできない。われわれはこのことに責任を負うことはできない……われわれはわれわれ自身に責任を負うことができるだけである。
われわれは労働者に真実を語らなければならない。そうすれば、われわれは最良の分子を獲得するだろう。これらの最良の分子が労働者階級を指導し、彼らを権力に導くことができるかどうか、私は知らない。私はそうあってほしいと思う。しかし、私はその保証を与えることはできない。だが、もし最悪の場合、労働者階級が現在の精神と力を社会主義革命に向けて動員することに成功しえないとしても――もし最悪の場合この労働者階級がファシズムの犠牲に陥るとしても、その最良の部分は言うだろう――「われわれはこの党から警告されていた、それは良い党である」と。そして偉大な伝統が労働者階級の中に残るだろう。
これは最悪の場合である。これが、この綱領は労働者階級の心理に照応していないから、われわれはそのような綱領を提起することはできない、というすべての議論が誤っている理由なのである。これらの議論は情勢を前にしての恐怖を表現しているにすぎない。もちろん、もし自分の眼をふさぐなら、私はだれもが受け入れる申し分のないばら色の綱領を書くことができる。しかし、それは情勢に適応しないだろう。綱領は情勢に照応していなければならない。私は、この初歩的な議論がきわめて重要である、と考えている。プロレタリアートの階級の心理は遅れているが、その心理は工場や鉱山や鉄道のようなものではなくもっと流動的であり、数百万の失業者という客観的危機の打撃のもとでは、それは急速に変化しうるものである。
現在、アメリカ・プロレタリアートはその政治的後進性ゆえにある種の利点を持っている。これはいささか逆説的に見えるが、にもかかわらずそれはまったく正しい。ヨーロッパの労働者は社会民主主義とコミンターンの伝統という長い過去を持っているが、これらの伝統は保守的な力をもっている。いろいろな党が裏切った後でさえも、労働者は依然として彼らに忠実である。それは、労働者が、自分をはじめて目覚めさせてくれ、政治的教育を与えてくれた党に対する感謝の念を持っているからである。これは新しい方向づけにとって一つのハンデキャップである。アメリカの労働者は、その大多数が政治的に組織されていなかった、そしていまやっと労働組合に組織されはじめたばかりであるという利点を持っている。このことは革命党に危機のせまる情勢下で彼らを動員する可能性を与えている。
その速度はどうであろうか? 誰も予測することはできない。われわれにはその方向がわかるだけである。誰もこの方向が正しいものであることを否定することはできない。次に、われわれには、いかにしてこの綱領を労働者に提起するかという問題がある。それはもちろん非常に重要である。われわれは政策を大衆の心理や教育と結びつけ、彼らの心へのかけ橋を築かなければならない。ただ経験のみが、この国のあれこれの部分でどのように前進すべきかをわれわれに示しうるのである。しばらくの間、われわれは労働者の注意を一つのスローガン――賃金と労働時間のスライディング・スケール――に集中させるために努力しなければならない。
アメリカ労働者の経験主義は、単一税、複本位制という一、二のスローガンで、諸政党に多大の成功を収めさせている。それらは大衆の中に野火のように広がっている。彼らは、この万能薬が失敗するのを目にすれば、新しいものを期待するだろう。いま、われわれは、卒直なもの、われわれの綱領全体の一部、デマゴギー的ではなく、情勢に全面的に適応しているものを提起することができる。現在、公式には一、三〇〇万あるいは一、四〇〇万の失業者が存在している。実際にはおよそ一、六〇〇万から二、〇〇〇万だろう。しかも青年は悲惨な状態のままに完全に見捨てられている。ルーズヴェルト氏は公共事業を主張している。しかし、われわれはこれで、鉱山や鉄道などとともに、全国民を吸収することを主張する。そして、各人が現在よりも低くないかなりましな生活をおくれる可能性を持つべきであり、われわれは、ルーズヴェルト氏が彼のブレーン・トラストを用いて、働くことのできるあらゆる人々がかなりの賃金で働くことのできるような公共事業計画を提出することを要求する。これは貸金と労働時間のスライディング・スケールによって可能である。われわれは、いかにしてこの考えをあらゆる現場で提起すべきかをあらゆるところで討論しなければならない。それから、われわれは、これが社会主義労働者党の綱領であることをすべての人々が知るように集中した宣伝活動を始めなければならない。
私は、われわれが労働者の注意をこの点に集中させることができると思う。もちろん、これはただ一つの点にすぎない。始めはこのスローガンは情勢に完全に適応している。しかし、事態が発展するにつれて他のスローガンをつけ加えることができる。官僚はそれに反対するだろう。この時、もしこのスローガンが大衆に広く受け入れられるようになれば、対極にファシズム的傾向が発展するだろう。われわれは、われわれには防衛隊が必要であると言うだろう。私は、当初はこのスローガン(賃金と労働時間のスライディング・スケール)が受け入れられるだろうと思う。このスローガンはいかなるものであるのか? 実際にはそれは社会主義社会における労働の体制である。総労働時間が総労働者数で割られる。しかし、もしわれわれが全面的な社会主義体制を提起するならば、それは普通のアメリカ人にとって空想的な、何かヨーロッパからきたもののように見えるだろう。われわれはこれを、彼らが食べ、飲み、かなりのアパートで生活する権利を保証するこの危機への解決策として提起する。それは社会主義の綱領であるが、しかし大衆的なやさしい形で示されている。
質問 このキャンペーンはどのように行なわれるべきか。
トロツキー このキャンペーンは、およそ次のような具合に進行するだろう。諸君は、たとえばミネアポリスで、アジテーションを始める。一、二の組合をこの綱領に獲得する。他の町のそれぞれの組合へ代表を送る。諸君がこの考えを党から組合に持ち出したときに、戦いの半ばはすでに勝ったに等しい。それをニューヨークやシカゴなどの対応する組合へ送る。一定の成功を収めたならば、特別大会を召集する。それから、諸君に組合の官僚たちに賛成か反対かの立場を明らかにさせよとアジテーションする。プロパガンダのためのすばらしいチャンスが開けてくる。
質問 われわれは実際にこのスローガンを実現できるだろうか。
トロツキー 資本主義のもとでこの要求を実現するよりも、資本主義を打倒するほうが簡単だ。資本主義のもとでは、われわれの要求のどれ一つも実現されないだろう。これが、われわれがそれらを過渡的要求と呼ぶ理由である。それは、労働者の心理へのかけ橋を、そしてさらに社会主義革命への物質的かけ橋を作り出す。問題のすべては大衆をいかにして闘争に動員するかである。就業者と失業者の分裂という問題が出てくる。われわれはこの分裂を克服するための方法を見つけなければならない。固定した失業者という階級、パーリア(賤民階級)という観念――そのような観念は、まったくファシズムを心理的に準備するものである。もしこの分裂が労働組合で克服されないならば、労働者階級の運命は暗い。
質問 われわれの同志の多くが、これらのスローガンは実現されえないものであるということを理解することができない。
トロツキー それは非常に重要な問題である。この綱領は一人の人間の新しい発明ではない。それはボリシェヴィキの長い経験から引き出されたものである。私は、それが一人の人間の発明ではない、それは革命家たちの長い集団的経験から生まれたものだ、ということを強調したい。それは古い諸原則のこの情勢への適用である。それは情勢に対して鉄のように固定的なものではなく、柔軟なものであると考えるべきである。
革命家たちはつねに、改良や成果が革命的闘争の副産物に過ぎないと考えている。もしわれわれが、われわれは支配階級が与えることのできるものだけを要求するであろうというならば、支配階級はわれわれの要求したものの十分の一しか与えないか、あるいは何も与えないだろう。もしわれわれがもっと多くのものを要求し、われわれの要求を押しつけることができるならば、資本家たちは最大限の譲歩を強いられる。労働者の精神が広大であればあるほど、そして戦闘的であればあるほど、それだけより多くを要求し勝ち取ることができる。それらは不毛なスローガンではない。それらはブルジョアジーへの圧力の手段であり、可能な最大の物質的成果をただちにもたらすだろう。かつてアメリカ資本の上昇期には、アメリカ労働者は経験主義的な闘争やストライキなどだけを基礎として勝利を収めることができた。彼らは非常に戦闘的であった。資本が上昇期にあったという事実があったので、資本主義はアメリカ労働者を満足させることに関心を持っていた。いまや情勢はまったく異なっている。いまや資本家たちには繁栄の展望はまったくない。彼らは、多数の失業者がいるためにストライキを恐れていない。これが、綱領が労働者階級の両方の部分を包含し統一しなければならない理由なのである。賃金と労働時間のスライディング・スケールがまさにそれを実現する。
一九三八年五月一五日
(社会主義労働者党『内部通報』一九三八年第二号に発表)
過渡的綱領についての再度の討論 レオン・トロツキー
これはトロツキーとの討論の大まかな草稿であり、討論参加者による校閲はなされていない。 ――速記者――
綱領について
トロツキー 綱領の重要性は党の重要性である。党は階級の前衛である。党は最も意識的な、最も先進的な、最も献身的な分子からえり抜かれた精衛によって形成されており、党はその数的な力とは直接的には無関係に重要な歴史的・政治的役割を果たすことができる。それは小さい党であっても大きな役割を果たすことができる。たとえば、一九〇五年の第一次ロシア革命において、ボリシェヴィキ分派が有していたメンバーは、一〇、〇〇〇人を越えず、メンシェヴィキは一〇、〇〇〇人から一二、〇〇〇人であった。たかだかそれだけである。当時両者は同一の党に属していた。だから、党は全体として多くて二〇、〇〇〇人から二二、〇〇〇人の労働者しか有していなかった。党は正しい政策とその団結力によって、全国にわたってソヴィエトを指導した。ロシアとアメリカやその他のあらゆる古い資本主義国との相違は、ロシアのプロレタリアートが労働組合や保守的な改良主義のいかなる伝統も持たぬまったく新鮮な、処女のプロレタリアートであったことだ、と異議をとなえることもできよう。それは、指導を必要とし、またこの指導を求めていた若い新鮮な処女の労働者階級であり、党が全体としてたかだか二〇、〇〇〇人の労働者しか有していなかったにもかかわらず、この党は戦いの中で二、三〇〇万の労働者を指導したのである。
それでは、党とは何か? その団結力は何に由来するのか? この団結力は事件や任務の共通の理解であり、この共通の理解――それが党の綱領である。近代労働者が野蛮人と同様道具なしには労働することができないように、党にとって綱領は道具である。綱領がなければ、一人一人の労働者が道具を間に合わせに作り、間に合わせの道具を探さなければならず、そしてそれらは互いに矛盾しあうのだ。共通の概念の基礎のうえに組織された前衛を持っているときに初めて、われわれは行動することができる。
われわれは今日まで綱領を持っていなかった。しかし、それでもわれわれは行動したと人はいうかもしれない。しかし、この綱領はいろいろな論文、いろいろな決議などの形をとって定式化されていた。この意味で綱領草案は新しい発明を予示するものではない。それは一人の人間の作品ではない。それは今日までの集団的活動の総和である。しかし、同志たちに情勢についての観念、共通の理解を与えるために、そのような総和が絶対に必要である。プチブル的アナーキストや知識人は、共通の理念、共通の態度を党に与えることに同意するのを恐れている。反対に彼らは道徳的な綱領を望んでいる。しかし、われわれにとって、この綱領は共通の経験の結果である。それは誰にも押しつけられない。なぜなら党に加わる者はだれでも自発的に加わるのであるから。
これと関連して、私は、必然と対立する自由というものによってわれわれが意味するものは何かということを強調しておくことが重要であると思う。われわれは自由な個性を持つべきであるというのは、非常にしばしばプチブル的概念である。それは虚構にすぎず、誤りである。われわれは自由でない。われわれは、形而上学的意味での自由意志を持っていない。私が一杯のビールを飲みたいと思うとき、私は自由な人間として行動している。しかし、私がビールを飲みたいという欲求を考え出したわけではない。それは私の肉体から生ずるのである。私はその執行者にすぎない。しかし、私が私の肉体の欲求を理解し、その欲求を意識的に満すことができるかぎり、私は自由、つまり必然性の理解を通じての自由を知覚するのである。この点で、私の肉体の必要のこの正しい理解が、いかなる問題であれ動物に与えられた唯一の真の自由なのであり、そして人間は動物なのである。同じことが階級についても当てはまる。階級のための綱領は天から降ってきはしない。われわれはただ必然性の理解に到達することができるだけである。先の場合、それは私の肉体であったが、今度の場合、それは社会の必然性である。綱領は、われわれが理解することを学んだ必然性の明確な表現であり、また必然性は階級の全成員にとって同一であるがゆえに、われわれは任務の共通の理解に達することができるのであり、この必然性の理解が綱領なのである。
われわれはさらに進んで次のように言うことができる。すなわち、われわれの党の規律は非常に厳格でなければならない、なぜなら、われわれは、自己の利益を意識した敵の巨大なブロックと敵対している革命党であり、現在われわれはブルジョアジーによってばかりでなく、ブルジョアジーの手先の中で最も悪意に満ちた手先であるスターリニストによっても攻撃されているからである、と。絶対的規律が必要である、しかしそれは共通の理解から生れたものでなければならない。もしそれが外部からおしつけられるなら、それは束縛である。もしそれが理解から生じているならば、それは個性の表現であるが、しかしそうでなければ、それは束縛である。だから規律は私の自由な個性の表現なのである。私は私の自由意志によって加入したのであるから、それは個人の意志と党との間の対立ではない。綱領もまたこの基礎に立っており、このことをわれわれが十分に理解したときはじめて、この綱領は確固たる政治的・道徳的基礎を持つことができるのである。
過渡的構領の性格
綱領草案は完全な綱領ではない。この綱領草案には欠けているものがあり、またその性格からいって綱領に属さないものが含まれている、と言うことができる。綱領に属さないものとは、注釈的説明のことである。この綱領にはスローガンだけでなく、注釈的説明と敵対者への論争も含まれている。しかしそれは完全な綱領ではない。完全な綱領は帝国主義段階における近代資本主義社会、その危機の理由、失業者の増大などの理論的記述を含んでいなければならない。この草案のなかではこのような分析は第一章で簡単に概括されているだけなのだが、それはこれらのことについてわれわれがすでに論文や本などで書いているからである。われわれはもっと多く、もっと立派に書きたいと思っている。しかし、実践的目的のためには、ここで述べられていることで十分である。というのは、われわれはみな同じ意見を持っているからである。綱領の初めの部分は完全でない。というのは、そこでは社会革命、蜂起による権力奪取、資本主義社会の独裁への、独裁の社会主義社会への転化について、語られていないからである。これは読者を戸口に連れていくものにすぎない。それは今日から社会主義革命の開始点までの行動のための綱領である。そして、実践的観点から現在最も重要なのは、プロレタリアートの様々な層をわれわれかいかにして社会革命の方向へと導いていくか、ということである。私が聞いたところによると、現在ニューヨークの同志たちが、綱領草案を研究し批判するというだけでなく、綱領を大衆に提示するための方法と手段を練るという目的を持ったサークルを組織しはじめている、ということであるが、私はこれはわれわれの党が利用することのできる最良の手段であると思う。
この綱領は最近の接近にすぎない。次の時期の国際協議会に提出されるという意味においては、それは一般的すぎる。それは全体的世界の一般的発展傾向を記述している。それは半植民地諸国および植民地諸国に当てられた短い一章を含んでいる。それはファシスト諸国に当てられた一章、ソビエトに関する一章などを含んでいる。たしかに、これらの諸国がすべて帝国主義経済の圧力のもとにおかれているために、世界情勢の一般的特徴は共通してはいるが、各国はその独自の条件を持っており、真の生きた政策は、各国における、あるいはさらに各国の各部分におけるこれらの独自の条件から出発しなければならない。これが、綱領へのきわめて真剣なアプローチが合衆国のあらゆる同志たちの第一の義務だという理由である。
綱領を練りあげるに際しては、二つの危険がある。第一は、一般的、抽象的路線にとどまり、現場の労働組合との真の結びつきもなしに一般的スローガンをくり返すことである。それはセクト的抽象の方向である。もう一つの危険は、逆に、地方的諸条件、特殊な諸条件にあまりにも適応しすぎ、一般的な革命路線を見失うことである。私は合衆国では第二の危険の方がより差し迫っていると考えている。私の記憶では、軍国主義化の問題、武装ピケットなどの問題についてとりわけそうだと思う。一部の同志たちは、労働者にとってそれは現実的でないのではないかなどと危惧していた。
ファシストの方法と労働者自衛の任務
この数日、私は、イタリアにおけるファシズムの台頭についてイタリアの労働者が書いたフランス語の本を読んだ。著者は日和見主義者である。彼は社会党員であるが、興味深いのは彼の結論ではなく、彼が提供している事実である。彼はとりわけ一九二〇〜二一年のイタリアのプロレタリアートの描写を行なっている。それは強力な組織であった。彼らは一六〇名の社会主義者の国会議員を持っていた。彼らは選挙区の三分の一以上を手中にし、イタリアの最も重要な部分は労働者の中心勢力である社会主義者の手中にあった。いかなる資本家も組合の同意なしには雇用も解雇もできなかった。これは工業労働者だけでなく農業労働者にもあてはまるものであった。それは四九パーセントのプロレタリア独裁であるように見えた。しかし、プチブルジョアジー、復員した将校たちのこの情勢に対する反応は恐るべきものがあった。それから、著者は、彼らが将校たちの指導のもとに小さな組織を作り、これらをあらゆる方面にバスで派遣したことを述べている。社会主義者の手に握られていた人口一〇、〇〇〇の都市で、三〇名の組織された男たちが町に入ってきて、市を焼きつくし、家々に火をつけ、指導者を射ち殺し、資本家に有利な労働条件を押しつけ、それから彼らは他の都市に行き、次から次へと、何百も何百もの都市で同じことをくり返した。恐るべきテロとこのような系統的な行動で、彼らは労働組合を完全に破壊し、こうしてイタリアのボスとなった。彼らは取るに足りない少数者であった。
労働者はゼネストを宣言した。ファシストは彼らのバスを派遺し、地方のあらゆるストライキを破壊し、わずかの組織された少数者によって労働者の諸組織を一掃した。この後選挙が行なわれ、労働者はテロのもとで以前と同数の国会議員を選出した。議員たちは国会が解散されるまで、国会内で抗議した。これが形式的権力と実際的権力との相違である。あらゆる国会議員が自分たちが権力を握るであろうと確信していたが、しかし、犠牲の精神を持ったこの巨大な運動は、犠牲の精神とすぐれた軍事指導者を持ったよく粗纖されたおよそ一〇、〇〇〇名のファシストによって粉砕され、押しつぶされ、排除された。
合衆国では事情は異なるかもしれないが、根本的任務は同じである。私はハーグの戦術について読んだ。それはファシストによる転覆のリハーサルである。彼は、危機が深まっているために激怒している小ボスたちを代表している。彼は完全に憲法違反のギャングを持っている。これは非常に伝染力が強い。危機の深化とともに、それは全国に拡がるだろう。そして非常に善良な民主主義者であるルーズヴェルトは、「おそらくそれが唯一の解決策である」と言うだろう。
イタリアでも同じだった。社会党員に入閣を求めた一人の大臣がいた。社会党員は拒否した。彼はファシストを容認した。彼はファシストによって社会党員とのつりあいをとることができると考えた。しかしファシストはこの大臣をも粉砕した。私はいまニュージャージーの例が非常に重要であると考えている。われわれはあらゆるものを利用すべきであるが、とりわけこれを利用すべきである。私はファシストがいかにして勝利したかについて、一連の特別の論文を提起しょぅと思う。われわれは同じようにして勝利することができるが、われわれは労働者の大部隊に支持された小さな武装された部隊を持たなければならない。われわれは最良の規律、組織された労働者、防衛委員会を持たなければならない。さもなければわれわれは粉砕されるであろう。私は、合衆国の同志たちがこの問題の重要性に気づいていないと思う。ファシストの波は二、三年で拡がることができる、そして労働者の最良の指導者たちは、南部の黒人たちのように、ありうべき最悪の方法で私刑にかけられるだろう。私は、合衆国でのテロはあらゆるものの中で最も恐るべきものであろうと思う。これが、われわれが非常に控え目に、すなわち、防衛隊から始めなければならないが、しかし、ただちにそれに着手すべきであるという理由である。
質問 われわれはどのようにして実際に防衛隊の組織に着手すればよいのでしょうか?
トロツキー それはきわめて簡単だ。諸君はストライキの際、ピケット・ラインを張るかね? ストライキが終わった時、われわれはこのピケット・ラインを恒久的なものにしてわれわれの組合を防衛しなければならないと言うのである。
質問 党自らが党員で防衛隊を作るのでしょうか?
トロツキー 党のスローガンは、われわれを防衛してくれるシンパサイザーや労働者がいる地域に根を据えなければならない。しかし、党が独自の防衛組織を作ることはできない。課題はそのような組織を労働組合の内部に作ることである。われわれは非常に立派な規律を持ち、簡単に挑発されない、すぐれて慎重な指導者を持ったこのような同志たちのグループを持たなければならない。なぜなら、そのようなグループは簡単に挑発されることがあるからである。次の一年の主要な任務は、戦闘や流血の衝突を避けることであろう。われわれはストライキの間は、平和な時期の間は、少数派組織であればこのような衝突を最少限にくいとめねばならない。ファシストの集会をやらせないためには、それは力関係の問題である。われわれだけでは強力ではない。しかし、われわれは統一戦線を提起するのである。
ヒットラーは彼の本の中で彼の成功の理由を説明している。社会民主党はきわめて強力であった。社会民主党のある集会に、彼はルドルフ・ヘスの一隊を派遣した。彼は、集会の終りに彼の三〇名の隊員たちが労働者を全部追いたて、労働者たちは彼に逆らうことができなかったと言っている。この時彼は自分が勝利するだろうと知ったのである。労働者たちは党費を支払うために組織されていたに過ぎなかった。他の任務のためには何の準備もいらなかった。いまやわれわれは、ヒットラーがやったことを逆の側からやらなければならない。集会を解散させるために四〇人から五〇人の人を派遣しなければならない。これは大変重要なことである。労働者たちははがねのように鍛えられた戦闘的な分子になる。彼らはラッパ手となる。プチブルジョアジーはこれらは真剣な人々であると考える。すばらしい成功だ! 非常に多くの大衆が目をくらまされており、後進的で、抑圧されており、彼らはただ成功によってのみ目覚めさせられることができるのだから、これは大変重要なことである。われわれが目覚めさせることができるのは前衛だけである。しかし、次にはこの前衛が他の人々を目覚めさせるにちがいない。これが、私がこのことを非常に重要な問題であるとくり返し言う理由である。われわれは、熟練した強力な同志たちを持っているミネアポリスで、これに着手し、国全体に示すことができる。
われわれの綱領は客観的情勢に適合していなければならない
私は、われわれのテキストで十分に展開されていない草案のこの部分を、少し討論したら有益だろうと思う。それは一般的な理論的部分である。私はさきの討論の中で、この草案では綱領の理論的部分は社会の一般的分析としては完全にはなされておらず、いくつかの短いヒントが示されているにすぎないと述べた。他方、草案は革命、プロレタリア独裁、革命後の社会建設に関する部分を含んではいない。ただ過渡期だけしか問題とされていない。われわれが何度もくり返し述べてきたように、われわれはわれわれの綱領を大衆の現在の政治的状況、思想、気分に合わせるのではなく、社会の経済的階級的構造に表現されている客観的情勢に合わせるという点に、われわれの活動の科学的性格がある。心理は遅れている場合がある。その時の党の政治的任務は心理を客観的事実に調和させること、すなわち、労働者にその客観的任務を理解させることである。しかし、われわれは綱領を労働者の遅れた心理に合わせることはできない。心理、気分といったものは二義的要素であり、第一義的な要素は客観的情勢である。これが、綱領には情勢に合致しない部分があるといった批判や評価を耳にした理由なのである。
いたるところで、私は、われわれは何をなすべきか、われわれの綱領を客観的情勢に適合させるべきか、それとも労働者の心理に適合させるべきか、と問われる。私は、この質問が、この綱領はアメリカの情勢に適さないと言っているあらゆる同志に向けられなければならないと思う。この綱領は科学的綱領である。それは客観的情勢の客観的分析にもとずいている。それは労働者全体によって理解されることはできない。もし前衛が次の時期にそれを理解し、それから労働者に向かって「諸君たちは諸君自身をファシズムから救わなければならない」と言うならば、それば大いに結構なことだ。
社会革命の客観的諸条件
われわれは客観的情勢ということをどう理解しているか? ここでわれわれは社会革命のための客観的諸条件を分析しなければならない。これらの条件はマルクス・エンゲルスの諸著作の中で明らかにされており、現在もそれらは本質的に変化していない。第一に、マルクスはあるとき、いかなる社会もその可能性を使い果たすまではその座を明け渡さない、と述べた。これは何を意味しているのか? それは、主観的意図によってある一つの社会を廃棄することはできないということ、われわれはブランキストのように蜂起を組織することはできないということを意味している。“可能性”とは何を意味しているか? “社会はその座を明け渡すことはできない”とは? 社会が生産力を発展させ、国民をより豊かにすることができるかぎりは、社会は依然として強力であり、安定している。そのことは、奴隷社会、封建社会、そして資本主義社会についての条件であった。ここで、われわれは、私が以前に『共産党宣言』への私の序文のなかで分析した非常に興味深い問題に到達した。マルクスとエンゲルスは、彼らの生存中に革命が起きることを期待していた。とくに一八四八年から一八五〇年にかけて、彼らは社会革命を期待した。なぜか? 彼らは、私的利潤に基礎を置いた資本主義体制は生産力の発展にとってのブレーキとなってしまった、と言った。これは正しかったか? 正しくもあり、また正しくなくもあった。もし労働者が一九世紀の必要に答え、権力を取ることができたならば、生産力の発展はもっと急速で、国民はもっと豊かであったろう、という意味においては、それは正しかった。しかし、労働者はそれができなかったかぎりにおいて、資本主義体制はその危機を伴ないつつ生き残った。しかも、一般的傾向は上昇した。前次大戦(一九一四〜一八年)は、世界市場が生産力の発展にとってあまりにも狭隘となり、各国が他とすべての国々をおしのけて自己の目的のために世界市場を獲得しようとしたことの結果であった。彼らは成功しなかった。そして、現在、われわれは、資本主義があらたな段階に入っているのを目にしている。多くの人々が、戦争の結果そうなったのだと言っている。しかし戦争は、社会がその可能性を使い尽したという事実の結果であった。戦争は社会がこれ以上発展することができないことの表現にすぎなかった。われわれは戦後ますます深化している歴史的危機を目にしている。資本主義の発展はどこにおいても繁栄と恐慌であった。しかし、この恐慌と繁栄は、全体としてみれば、上向きであった。しかし、戦争とともに、恐慌と繁栄のサイクルは下降線をたどっている。そのことはいまや次のことを意味している。すなわち、この社会はその内的可能性を完全に使い尽しており、新しい社会にとってかわられねばならない。さもなくば、その可能性を使い尽したにもかかわらず、どの階 @諸階級は、それが数的にいかに強 蛛Aいかにして第四インターナショナルが組織され、労働階級 G団ウivウz゚~"|コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
C/'3:)}ウ3ィイ)8}tK・
ロZソe^コマ#dGヲクノア抂)鰻クォ゙奪黹# =ヒヒ(J濛ヌ <ノ\.硯k【"(4!p札疎~罌w`ソケ8 h。6屎ノシ0aチ∃ンス : `Y=Oカ壘セヨンホ|ョ#A:塁ネツ=楕I4
ウヘ撤メムZc彝ZU堪 メ捌r2ウNッア#)ンナ譚樶サ拯|圈x鵬促 Hu ミ^ノW-レ此ェウb,rトテu[9(`リ;博ィ=リ噫ア1租晴姉>ムヒ冢゙-A)レ,$xヤ2?n禎ツ ュヂー cマク~5w\フセ?s)w1'MCGヒ哺u柢y&宙ツAナ
ヤBAヌノPッチ%IネPリ、ExX踝崟掌ケ[ォ魄ササァ奪"7Kヒ J秡I*<ニ^ナ .$ヒ〔。(|膏セU*Fヘチ|H # bクネcレRメ匯聯nq・JヌンフIモQ#袁&ケ逵|的a 竇W0L(8)ヒ・FIヤ0oT$嬉アヘ7s
キsキ_Vー>-ホコ>ThI.リ櫺 ,i "閔(&+D%丞=奬rョgコ剱掖垉m4。1欺カーヨ歡ンdbn
。温ナゥ・婀ヌョ2x,1-フcョ゙qラハュ賁・RS烏Ei髪牴9Q キ」イラコE]L涓ヨO貝\ヨ禅ヨ如,V.*mルイt2唾。「(地Mホ、Zu |