過渡的綱領
――資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務――
第四インターナショナル創立国際会議(一九三八年)において採択された。
13 労働者と農民の政府
“労働者と農民の政府”というこの公式は最初一九一七年にボリシェヴィキの煽動のなかであらわれ、十月革命後、決定的にうけいれられた。究極的には、それは、プロレタリアートのすでに確立された独裁にたいする通俗的な名称以上のものではなかった。この名称の意義は、主としてそれがソヴィエト権力の基礎をなすプロレタリアートと農民のあいだの同盟の観念を強調したという事実から生れる。
エピゴーネンのコミンターンが歴史によって葬られた“プロレタリアートと農民の民主主義的独裁”の公式を復活させようとこころみたとき、彼らは“労働者と農民の政府”という公式にすっかり異なった純粋“民主主義”的な、つまりブルジョア的内容をあたえ、これをプロレタリアート独裁に対置した。ボリシェヴイキ・レーニン主義者はブルジョア民主主義的内容の“労働者と農民の政府”を断固として拒否した。ボリシェヴィキ・レーニン主義者は、プロレタリアートの党がブルジョア民主主義の限界をふみこえることを拒むとき、プロレタリアートと農民の同盟は、――ちょうど一九一七年のメンシェヴィキと社会革命党、一九二五〜一九二七年の中国共産党がそうであったように、いままたスペイン、フランスその他の諸国における“人民戦線”がそうであるように――たんに資本にたいする支持になりさがってしまうと当時断言したし、そして今日もなおそのように断言する。
一九一七年四月から九月にかけてボリシェヴィキは、社会革命党とメンシェヴィキにたいして自由主義的ブルジョアジーと手を切り、自分自身の手に権力をとれと要求した。このような条件のもとで、ボリシェヴィキ党は、労働者と農民の小ブルジョア的代表としての社会革命党とメンシェヴィキにたいして、ブルジョアジーに対抗する党の革命的援助を約束した、――しかしながら、メンシェヴィキと社会革命党の政府に参加することも、またその政府にたいする政治的責任を担うことも絶対的に拒否した。もしメンシェヴィキと社会革命党がカデット(自由主義派)の党や外国帝国主義と現実に手を切っていたならば、彼らによってつくられた“労働者と農民の政府”はただプロレタリアート独裁の確立を急がせ、促進することにしかならなかっただろう。だが、まさにこの理由ゆえに、小ブルジョア民主主義の指導部は自分自身の政府をうちたてることに全力をつくして抵抗したのである。きわめて有利な条件下においてさえ、小ブルジョア民主主義の諸党(社会革命党、社会民主主義者、スターリニスト、アナーキスト)が労働者と農民の政府、つまりブルジョアジーから独立した政府を樹立しえないことをロシアの経験は実証したし、またスペインとフランスの経験は今一度これを確認している。
にもかかわらず、ボリシェヴィキがメンシェヴィキと社会革命党によびかけた“ブルジョアジーと訣別して、権力を君たち自身の手にとれ!”という要求は、大衆にとって巨大な教育的意義をもっている。七月事件をつうじてあまりに劇的に暴露されたメンシェヴィキと社会革命党の権力掌握にたいする頑迷なまでのためらいは、大衆の世論のまえで彼らの運命を決定し、ボリシェヴィキの勝利を準備した。
第四インターナショナルの中心任務は旧指導部からプロレタリアートを解き放つことであり、そしてこの旧指導部の保守主義は崩壊しつつある資本主義の破局的爆発と完全に矛盾をきたし、歴史的進歩の主要な障害となっている。第四インターナショナルがプロレタリアートの伝統的諸組織にたいしてくわえる主要な非難は、彼らがブルジョアジーの半死体から身をひきはなそうとしないということである。このような諸条件のもとで、“ブルジョアジーと手を切って、権力をにぎれ!”という旧指導部にたいして系統的に語りかける要求は、第二、第三ならびにアムステルダム・インターナショナルの党や組織の裏切り的性格を暴露するための極度に重要な武器である。したがって“労働者と農民の政府”というスローガンは、それが一九一七年にボリシェヴィキとともにあったときの意味においてのみ、つまり反ブルジョア的・反資本主義的スローガンとしてのみ受け入れられるのであって、――後になってエピゴーネンがそれにあたえた“民主主義”的な意味、つまり社会主義革命への架け橋から社会主義革命の途上における障害にかえてしまった意味においてではない。
労働者と農民に基礎をおき、彼らの名において語るすべての党と組織にたいして、ブルジョアジーと政治的に訣別し、労働者と農民の政府のための闘争の道にはいれとわれわれは要求する。この道において、われわれは資本主義的反動に反対して彼らを全面的に支持することを約束する。と同時に、われわれは“労働者と農民の政府”の綱領をなすものであるとわれわれが考えている過渡的諸要求を中心に疲れることを知らない煽動を展開する。
伝統的な労働者組織によってそのような政府をつくることは可能であろうか。すでにのべたように、過去の経験はこのことがきわめてありそうにもないということを示している。だが、完全に例外的な状況(戦争、敗北、財政の崩壊、大衆の革命的圧力等々)の影響下に、スターリニストをふくむ小ブルジョア的諸党がブルジョアジーとの訣別の道を彼らが望む以上にすすむかもしれないという理論的可能性をあらかじめ絶対的に否定することはできない。いずれにせよ、ただ一つのことは疑問の余地がない、――すなわち、たとえこのきわめてありそうにないことが、いつか、どこかで現実となり、上にのべた意味での“労働者と農民の政府”が実際にうちたてられるとしても、それは真のプロレタリアート独裁への途上におけるほんの短い一つのエピソードでしかないだろう。
しかしながら、臆測にふける必要はない。労働者と農民の政府のスローガンを中心とする煽動は、あらゆる条件下において巨大な教育的価値を保持している。それは偶然ではない。この一般化されたスローガンは、われわれの時代の政治的発展の線――旧ブルジョア諸党の破産と崩壊、民主主義の没落、ファシズムの増大、より積極的でより攻撃的な政治へと加速的につきすすむ労働者の傾向――に完全にそって進む。したがって、一つ一つの過渡的要求は、労働者は農民と協力して、自己自身の権力を樹立するためにブルジョアジーの一切の伝統的諸党と手を切らねばならないという同じ一つの政治的結論にゆきつかねばならない。
大衆の革命的動員の具体的諸段階を前もって予測することは不可能である。第四インターナショナルの各国支部は、新しい段階ごとに批判的に態度を決定し、独立した政策のための労働者の努力を助けるようなスローガンをかかげ、これらの諸政策の階級的性格を深化し、改良主義と平和主義の幻想を破壊し、前衛と大衆との結合を強め、そして権力の革命的奪取を準備しなければならない。
14 ソビエト
工場委員会はすでに述べたように、工場内における二重権力の要素である。したがって、それは増大する大衆の圧力の条件のもとでのみはじめて存在することができる。また同様に、このことは戦争に反対する特別の大衆的組織や物価委員会、その他一切の新しい運動のセンターについてもあてはまる。このようなものが出現したということそれ自体が、階級闘争はプロレタリアートの伝統的諸組織の枠から溢れでたということの証拠である。
しかしながら、これらの新しい機関やセンターは結集力を欠き、不十分であるということがすぐに感じられるだろう。ブルジョア体制を保持するという諸条件のもとでは、過渡的要求はただの一つたりとも十分にみたされえない。と同時に、社会的危機の深化は、大衆の苦難だけでなく、彼らの焦燥と執拗さと圧力をも増大するだろう。被抑圧大衆のいよいよ新しい層が頭をもたげ、自己の諸要求をもってたちあらわれるだろう。改良主義指導部によってこれまで一顧だにあたえられなかった幾百万の労働に疲れた“小人”たちは、労働者諸組織の戸口を執拗に叩きはじめるだろう。失業者も運動にくわわるだろう。農業労働者、破産した農民や破産しかけている農民、都市の被抑圧者、婦人労働者、主婦、知識人のプロレタリア的層、――これらすべてが統一と指導をさがしもとめるだろう。
たった一つの都市内においてさえ、種々様々な要求と闘争形態をどのように調和することができるだろうか。歴史はすでにこの問いにこたえている、――すなわちソビエトをつうじてできる。ソビエトはすべての闘う集団の代表を統一する。この目的のために、いままでこれとちがった組織形態を提起したものはいない、――事実、ソビエトにまさるものを考えだすことはほとんど不可能であるだろう。ソビエトはア・プリオリな党綱領に限られない。それは一切の被抑圧者にたいしてその門戸をひらく。闘争の全般的流れにひきこまれたありとあらゆる層の代表がこの門戸をくぐる。この組織は運動とともに拡大しつつ、その母体のなかで不断に更新される。プロレタリアートのあらゆる潮流が、もっとも広範な民主主義の基礎のうえでソビエトの指導権をもとめて闘うことができる。したがって、ソビエトというスローガンは過渡的諸要求の綱領の最後をかざるものである。
ソビエトは大衆運動が公然たる革命的段階にはいったときにのみはじめておこりうる。ソビエトは、その出現の最初の瞬間から、幾百万の労働大衆が搾取者との闘争において統一する中軸の役割をはたしつつ、地区の当局そして中央政府にたいする競争者ならびに反対物になる。もし工場委員会が工場内に二重権力をつくりだすとするならば、ソビエトは国内における二重権力の時期をきりひらく。
一方、二重権力は過渡期の極点である。ブルジョア体制とプロレタリア体制という二つの体制はたがいに非和解的に対立しあう。両者のあいだの衝突は不可避である。社会の運命はその結果いかんにかかる。革命が敗北するならば、ブルジョアジーのファシスト独裁がやってくるだろう。勝利のあかつきには、ソビエト権力、すなわちプロレタリアートの独裁ならびに社会の社会主義的再建がはじまるだろう。
15 後進諸国と過度的諸要求の綱領
植民地ならびに半植民地諸国はその本質からして後進的諸国である。だが、後進的諸国は、帝国主義によって支配されている世界の一部である。したがって、これら諸国の発展は複合的性格をもっている、――すなわち、最も原始的な経済諸形態が最新の資本主義的技術ならびに文化と結びついている。後進国のプロレタリアートの政治的努力もまた同じように規定される、――民族独立とブルジョア民主主義の最も初歩的な成果を獲得するための闘争は、世界帝国主義に対する社会主義的闘争と結びついている。諸々の民主主義的スローガン、過渡的諸要求、そして社会主義革命の諸問題はこの闘争においてたがいに区別された歴史的時期に分割されるのではなく、直接に相互に関連しあっている。中国プロレタリアートは、労働組合を組織し始めるやいなやただちにソビエトを準備しなければならなかった。この意味において、この綱領は、少なくともプロレタリアートが独自の政治を遂行しうるにいたっている植民地・半植民地諸国に対して完全に適用可能である。
植民地・半植民地諸国の中心的任務は、農業革命――すなわち封建的遺産の一掃、ならびに民族独立――すなわち帝国主義のくびきの打破である。この二つの任務はたがいに密接に結びついている。
民主主義的綱領をただ単に拒むことはできない――闘争の中で大衆がそれをのり越えることが絶対に必要である。中国やインドのような諸国では、国民議会(あるいは憲法制定議会)のためのスローガンは完全な力を保持している。このスローガンは、民族解放と農業革命の問題とわかちがたく結びつけられねばならない。まず第一歩として、労働者はこの民主主義的綱領によって武装されねばならない。ただ彼らだけが農民を奮いおこし、統一することができるだろう。革命的民主主義の綱領の基礎のうえで労働者を“民族”ブルジョアジーに対立させねばならない。そのとき、革命的民主主義のスローガンに基づく大衆の動員のある段階において、ソビエトが登場しうるし、また登場しなければならない。それぞれの時期におけるソビエトの歴史的役割、ことに国民会議とソビエトの関係はプロレタリアートの政治的水準、プロレタリアートと農民の結合、そしてプロレタリア党の政策の性格によって決定されるだろう。おそかれはやかれ、ソビエトはブルジョア民主主義を打倒しなければならない。ただソビエトだけが民主主義革命を結論にまで導き、同様にまた社会主義革命の時期をひらくことができる。
プロレタリアートの闘争における個々の民主主義的ならびに過渡的諸要求の相対的重要性、これら諸要求の相互の結びつきとそれらが提起される順序は、各々の後進国の特殊性と具体的な諸条件によって、またかなりの程度までその後進性の度合によって決定される。にもかかわらず、すべての後進諸国における革命的発展の一般的趨勢は、ロシアにおける三つの革命(一九〇五年、一九一七年二月、一九一七年十月)によってはっきりと示された意味における永久革命の公式によって規定することができる。コミンターンは、それが強力かつ有望な革命をいかにして破滅させることができるかということについて古典的な実例を後進諸国にあたえた。一九二五―二七年の中国における嵐のような大衆的高揚をつうじて、コミンターンは国民会議のためのスローガンを提起しそこない、また同時にソビエトの樹立を禁止した(スターリンの計画によれば、ブルジョア政党たる国民党が国民会議とソビエトの両方のかわりになるはずであった)。国民党によって大衆が粉砕されてしまった後で、コミンターンは広東にソビエトのカリカチュアを組織した。広東蜂起の不可避的な崩壊の後に、コミンターンは、産業プロレタリアートの側の完全な消極性にもかかわらず、ゲリラ戦と農民ソビエトの道をとった。かくして袋小路におちいったコミンターンは、中日戦争に乗じて、ペンの一筆で“ソビエト中国”を清算し、農民“赤軍”のみならず、いわゆる“共産”党をもおなじ国民党、つまりブルジョアジーに従属させてしまった。
“民主主義”的奴隷所有者たちとの友好のために国際プロレタリア革命を裏切ったコミンターンは、同時にまた植民地諸大衆の解放闘争を裏切らざるをえなかった。――しかも、かっての第二インターナショナルの裏切りよりもはるかに悪辣にである。人民戦線と“祖国防衛”政策の任務の一つは、幾千万の植民地人民を“民主主義”的帝国主義のために大砲の餌食にすることである。植民地ならびに半植民地の人民、すなわち人類の半数の人々の解放闘争の旗は決定的に第四インターナショナルの手中にうつった。
16 ファシスト諸国における過渡的諸要求の綱領
ヒトラーの勝利は単にテールマンの勝利への第一歩にすぎない、とコミンターンの戦略家たちが声明したのはいまや遠い昔のことである。テールマンはすでに五ヶ年以上もヒトラーの監獄にはいっている。ムッソリーニは、一六年以上にもわたってイタリアをファシズムによって縛りつけている。この時期をつうじて、第二インターナショナルと第三インターナショナルの諸党は大衆運動を指導しえなかっただけでなく、ツァーリズムの時代のロシアの革命的諸党といくらかでも比較できるような重要な非合法組織を作ることさえできなかった。
これらの失敗をファシストのイデオロギーの力によって説明しうべき理由はまったくない(本質的にいって、ムッソリーニはいかなる種類のイデオロギーも提出しはしなかった)。ヒトラーの“イデオロギー”が労働者を本当につかむようなことは絶対になかった。一時ファシズムに酔いしれた住民層、つまり主として中間階級が酔いからさめるのに十分な時間が経過した。多少でも感知しうる反対がプロテスタントやカトリック教会のサークルにかぎられているという事実は、“人種”や“血”に関するなかば精神錯乱的で、なかばだぼら的な理論の力によって説明されるのではなくて、民主主義のイデオロギー、すなわち社会民主主義とコミンターンのおそるべき破産によって説明されるのである。
パリ・コミューンの大虐殺の後、暗黒の反動がほば八ヵ年にわたって支配した。一九〇五年のロシア革命の敗北の後、勤労諸大衆はほほ同じほどの期間にわたって麻痺状態におちいった。だが、この両方の場合とも、以上のような現象は力関係によって余儀なくされた物理的敗北の現象でしかなかった。しかも、ロシアにおいて、そのプロレタリアートはいまだ処女というべきものであった。ボリシェヴィキ派は、その時、いまだ第三回目の誕生日を祝ってもいなかった。ドイツにおいては事態はまったく異なっていた、――そこでは指導部は二つの強力な党からやってきたし、その一つはすでに七〇年間も存続していたし、もう一方はほぼ一五年にわたって存在していた。ともに幾百万の投票者を背後にもったこの二つの党は戦闘以前に精神的に麻痺し、一戦もまじえることなく屈服した。これと比較しうるような破局を歴史は過去において知らない。ドイツ・ブロレタリアートは、戦闘によって敵に粉砕されたのではなかった。彼らは自分自身の二つの党の臆病と卑劣さと背信によって打ちくだかれたのである。したがって、ほば三世代にわたって信じることに慣れてきたいっさいのものに対する信頼をこのプロレタリアートが失ったとしても、何ら不思議ではない。ヒトラーの勝利はまたムッソリーニを強めた。
スペインあるいはドイツにおける革命的活動の長期にわたる衰退は社会民主主義とコミンターンの犯罪的政策に対する報酬にすぎない。非合法活動は大衆の同情だけではなく、先進的層の意識的な熱情を必要とする。だが、歴史的に破産した諸組織に対して熱情を期待することができるだろうか。亡命指導者としてあらわれるものの大多数は、骨の髄まで墜落しはてたクレムリンとゲ・ペ・ウの手先であるか、あるいは労働者たちが、何らかの奇跡によって、すでに失ったもとの地位に自分たちをもとしてくれることを夢みている社会民主党の元大臣たちである。これらの紳士諸君が“ファシスト”革命の指導者の役割につきうるなどと、ほんのちょっとでも考えられるだろうか。
そして、世界的舞台の諸事件――オーストリア労働者の潰滅、スペイン革命の敗北、ソビエト国家の堕落――はイタリアならびにドイツにおける革命的高揚を助けることはできなかった。ドイツとイタリアの労働者は政治的情報をおおくラジオにたよらなければならなかったがゆえに、テルミドール的虚言を愚劣さと横柄さと結びつけているモスクワのラジオ放送は、全体主義諸国の労働者を士気沮喪させる最も強力な要因になった。他の点でもそうであるが、この点でもまたスターリンはたたゲッペルスの助手たるにすぎない。
と同時に、ファシズムに勝利をもたらした階級対立は、ファシズムのもとでもその作用を続け、漸次的にその基礎をほり崩しつつある。大衆はかつて以上に不満である。あらゆる事情にもかかわらず、幾百幾千の自己犠牲的労働者たちは革命的なもぐらの活動を遂行しつづけている。旧い伝統と大いなる希望の崩壊を直接に経験していない新しい世代が前面に進み出ている。プロレタリア革命を準備する分子活動は全体主義の重い墓石の下で不可抗力的に進行している。だが、おおいかくされたエネルギーが公然たる反抗となって燃えあがるためには、プロレタリアートの前衛は新しい展望、新しい綱領、そして新しい汚れない旗を見出ださなければならない。
ここに主要な困難がある。ファシスト諸国の労働者にとって新しい綱領を選ぶことは極度に難しい。綱領は経験によって確証される。そして、全体主義的独裁制の国々において欠けているのは、ほかならぬ大衆運動における経験なのである。ファシスト地域における革命運動に刺激をあたえるためには“民主主義”諸国の一国においてプロレタリアートが真の成功をおさめなければならないということ、――このことは大いにありそうなことである。財政的あるいは軍事的破局によっても同じような効果をもたらすことができる。ただ将来において大規模な成果をもたらすことができる主として宣伝的な準備の活動を遂行することが現在のところ絶対に必要である。現時点においても一つのことは確信をもっていうことができる。すなわち、ファシスト諸国において革命的波がひとたび爆発すれば、それはたちまち壮大な規模になり、ワイマールの死体を何らかの形で生きかえらせようとする試みにとどまるようなことは絶対にないだろうということである。
第四インターナショナルと破産して生きながらえている旧い諸党との非和解的な相異は、まさにこの点において始まるのである。亡命“人民戦線”は、可能なあらゆる人民戦線のうちでも最も悪性かつ背信的な種類のものである。本質的には、それは存在してもいない自由主義ブルジョアジーとの連立に対する無力な憧憬を意味する。もしそれが成功していたならば、プロレタリアートに対してスペイン型の一連の新しい敗北を準備するにすぎなかったであろう。それゆえ、“人民戦線”の理論と実践を無慈悲に暴露することは、ファシズムに対する革命的闘争のための第一の条件である。
もちろん、このことは、ファシズムに対する大衆動員の手段としての民主主義的スローガンを第四インターナショナルが拒否するということではない。反対に、そのようなスローガンはある瞬間に重大な役割を演じることができる。だが、民主主義の諸々の公式(出版の自由、労働組合の権利等々)は“われわれにとって”プロレタリアートの独自の運動におけるほんの偶然的ないしはエピソード的なスローガンを意味するだけであって、ブルジョアジーの手先によってプロレタリアートの首にまきつけられた民主主義的な首綱を意味するものではない(スベイン!)。運動が幾分かでも大衆的性格をおびるやいなや民主主義的スローガンは過渡的スローガンと結びつくであろう。古い常套主義者たちが彼らの官庁から飛び出して労働組合を組織しないうちに、工場委員会が出現するだろう、――新たな憲法制定議会がワイマールに集まる以前に、ソビエトが全ドイツをおおうだろう、――われわれはこのように想像することができるだろう。イタリアやその他の全体主義ないし半全体主義諸国についても同じことがあてはまる。
ファシズムはこれら諸国を政治的野蛮状態に投げ込んだ。だが、ファシズムはこれら諸国の社会的構造を変えはしなかった。ファシズムは金融資本の手中にある道具なのであって、封建的地主の道具ではない。革命的綱領は、ファシスト諸国にとってもまた義務的な階級闘争の弁証法にその基礎をおくべきであって、恐怖におののく破産者の心理に基礎をおくべきでない。“第三期”のかつての英雄であるスターリニストが――ただ自分自身のみにくい顔をかくすために――次々とカトリック、プロテスタント、ユダヤ人、ドイツ民族主義者の仮面をかぶってあらわれるよう強制した政治的仮面劇の方法を、第四インターナショナルは嫌悪の情をもって排撃する。第四インターナショナルはいつでも、どこでも自分自身の旗のもとにあらわれる。第四インターナショナルは、ファシスト諸国のプロレタリアートに対して自分自身の綱領を公然と提起する。全世界の先進的労働者たちは、ムッソリーニやヒトラー、そして彼らの手先や模倣者たちの打倒がただ第四インターナショナルの指導のもとでのみおこるだろうということをすでに固く確信している。
17 ソ連邦と過渡期の諸問題
ソ連邦は労働者国家として十月革命から生まれ出た。社会主義的発展の必要な前提条件である生産手段の国家所有は、生産諸力の急速な増大の可能性を切り開いた。だが、労働者国家の機構は完全な堕落をとげた、――それは労働者階級の武器から労働者階級に対する官僚的暴力の武器に転化し、ますますこの国の経済をサボタージュする武器になっていった。孤立した後進的労働者国家の官僚化とその官僚の全能の特権階層への転化は、一国社会主義の理論に対する――理論的のみならず、こんどは実際的にも――最も強力な反駁となっている。
かくしてソ連邦はすさまじい矛盾を体現している。だが、ソ連邦はいぜんとして堕落した労働者国家である。これが社会的診断である。政治的診断は二者択一的な性格のものである、――官僚がますます労働者国家内の世界ブルジョアジーの機関となって、新しい所有形態を打ち倒おし、この国を資本主義に投げ返すか、それとも労働者階級が官僚を粉砕して、社会主義への道をひらくかである。
第四インターナショナルの各国支部にとって、モスクワ裁判は意外なことでも、クレムリンの独裁者の個人的狂気の結果でもなく、テルミドールの当然の所産であった。モスクワ裁判はソビエト官僚そのものの耐えがたいまでの内部対立から生れ出たものであり、これらの内部対立はまた“人民”自体の間での深まりゆく対立とともに官僚と人民の間の矛盾を反映している。裁判の血なまぐさい“怪奇”な性質はこれらの諸矛盾の激烈さをはかる尺度であり、さらには大詰めの切迫を告げしらせる。モスクワへ帰還することを拒んだクレムリンの前外交官たちの公開の発言は、官僚の間にあらゆる色合い――真のボリシェヴィスム(イグラス・ライス)から完全なファシズム(F・ブテンコ)まで――の政治思想が見い出されるということをそれなりに反駁の余地なく確証する。ほんの少数にすぎない官僚内部の革命分子は、確かに消極的にではあるが、プロレタリアートの社会主義的利益を反映する。たえまなく増大するファシスト的反革命分子は世界帝国主義の利益をますます一貫して表現する。買弁の役割にむけたこれらの候補者どもは当然にも次のように考えている、――すなわち、新しい支配層は、“西欧文明”、つまり資本主義との同化という名目のもとに国有化と集団化と外国貿易独占を排除することによってのみ自己の特権的地位を確保することができる、と。これら二つの極のあいだに、ブルジョア民主主義のほうに引きつけられる中間的なメンシェヴイキ、社会革命党、自由主義の諸傾向がひろがっている。
かのいわゆる“階級なき”社会の隊列そのものの内部にも、官僚内部のそれとまったく同様な諸グループがある、――ただそれほど尖鋭ではなく、反比例的に表現されているだけである。意識的な資本主義的諸傾向は主として集団農場(コルホーズ)の富裕な部分に目立っており、全人口のうち極小数部分の特徴である。だが、この層は全般的困窮の犠牲において個人的富を蓄積する小ブルジョア的諸傾向のための広範な基礎をなしており、官僚によって意識的に力づけられている。
社会的均衡をますます踏み越えてゆく増大しつつある内部対立のこの体系の頂点に、いまでは主としてスターリンのボナパルチスト的一徒党だけになってしまっているテルミドール寡頭制が恐怖政治の方法によってしがみついている。最近のでっちあげ裁判は左翼にたいする打撃を意図するものであった。このことは右翼反対派の指導者たちの一掃についてもまたあてはまる、――なぜなら、官僚の利益と諸傾向の見地からするとき、旧ボリシェヴィキ党の右翼グループもまた左翼的危険をあらわしていたからである。ブテンコのような自分自身の右翼の同盟者をも同様に恐れているボナパルチスト的徒党が、自己保存の利益のために旧ボリシェヴィキの世代をほとんど最後の一人まで処刑せざるをえないという事実は、大衆の増大してゆく不満はもちろんのこと、これら大衆の間における革命的伝統の生命力についての反駁の余地のない証拠である。
つい昨日モスクワ裁判をまじりもののない純金だと評価したばかりの西側の小ブルジョア民主主義者たちは、今日、“ソ連邦にはトロツキズムもトロツキストもいない”と執拗にくりかえす。しかしながら、これらすべての粛清がまさしくこの(トロツキズムの)危険に対する闘争という旗印のもとに行なわれるのは何故かということ、このことを彼らは説明できない。もし“トロツキズム”を一つの完成した綱領として、またよりはっきりといえば一つの組織としてみるならば、そのとき“トロッキズム”がソ連邦において極度に弱いということは疑いない。しかしながら、その破壊すべからざる力は、それがロシア労働者階級の革命的伝統のみならず、彼らの今日の現実的な反対を表現しているという事実からでてくるのである。官僚に対して積み上げられた労働者の社会的憎悪、――これこそが、クレムリンの徒党の見地からするとき、“トロツキズム”を構成している当のものなのである。クレムリンの徒党が十分に根拠ある死の恐怖におびえているのは、深刻だがはっきりと表明されない労働者の憤激と第四インターナショナルの組織との結びつきなのである。
旧ボリシェヴィキの世代と中年ならびに青年の世代の革命的代表たちの根絶は、官僚の右翼的なブルジョア的翼と全国にわたるその同盟者たちに対してより一層有利に政治的均衡を破るよう作用した。彼らの側から、つまり右翼の側からソ連邦の社会主義的性格を修正し、ファシスト形態における“西欧文明”の型にますます近づけようとする試みが次の時期においてより一層断固としてなされようとするだろう。
このような展望からして、“ソ連邦の防衛”の問題はいよいよ具体性をおびる。もし明日にでもブルジョア・ファシストのグループたる“ブテンコ派”が権力奪取を企図するとすれば、“ライス派“は必然的にバリケードの反対側に立つであろう。彼らは一時的にスターリンの同盟者になるであろうが、にもかかわらず彼らが防衛するのはボナパルチスト的徒党ではなくて、ソ連邦の社会的基礎、すなわち資本家からもぎとられて国家所有にかえられた財産を防衛するのである。もし“ブテンコ派”がヒトラーと同盟するようなことがあれば、そのとき“ライス派”は世界的領域においてと同じく国内においても軍事干渉からソ連邦を防衛するだろう。他のいかなる路線も裏切りになるだろう。
こうして、資本主義反革命の公然たる攻撃に対抗して官僚のテルミドール的部分との“統一戦線“の――厳密に規定された場合における――可能性をまえもって否定することは許しがたいことであるが、ソ連邦における主要な政治的任務はいぜんとしてこの同じテルミドール官僚を打倒することである。この官僚の支配の一日一日は経済の社会主義的要素の土台をくさらせ、資本主義復活の機会を増大させる。コミンターンがスターリニスト的徒党の手先ならびに共犯者としてスペイン革命を絞殺し、国際プロレタリアートを士気沮喪させているのは、まさに以上の方向にそってのことなのである。
ファシスト諸国におけると同様、官僚の主要な力は彼ら自身のうちにあるのではなくて、大衆の幻滅のうちに、つまりこの大衆が新しい展望をもっていないということにある。
スターリンの政治機構は、いっそう無拘束に残忍であるということをのぞけば、ファシスト諸国とのちがいをもっていないが、――これらファシスト諸国におけると同様、ソ連邦では今日ただ準備的な宣伝活動しかできない。ファシスト諸国におけると同様、ソビエト労働者の革命的高揚に対する刺激はおそらく国外の諸事件によってあたえられるだろう。世界的領域におけるコミンターンに対する闘争は、今日、スターリニスト独裁に対する闘争の最重要部分である。コミンターンはゲ・ペ・ウに直接の基盤を持たないがゆえに、その崩壊はボナパルチスト的徒党ならびに全体としてのテルミドール官僚の崩壊に先行するだろうという多くの兆候がある。
ソ連邦における革命の新らたな高揚は、あきらかに社会的不平等と政治的抑圧に反対する闘争の旗印のもとに始まるだろう。官僚の特権を打倒せよ! スタハノフ主義を打倒せよ! ソビエト貴族とその位階ならびに官僚を打倒せよ! あらゆる形態の労働にたいして、よりいっそう平等な賃金を!
労働組合と工場委員会の自由、集会の権利と出版の自由のための闘争は、ソビエト民主主義の再生と発展のための闘争のうちに展開されるだろう。
官僚は階級的機関としてのソビエトをヒトラー・ゲッペルス型の作り話しによっておきかえた。ソビエトにその民主主義的形態のみならず、その階級的内容をもまたとり返してやらねばならない。かつてブルジョアジーとクラーク(富農)はソビエトにはいることが許されなかったように、いまや官僚と新貴族をソビエトから追いださなければならない。ソビエトには労働者、下部の集団農民、農民、赤軍兵士の代表しかはいる余地がない。
ソビエトの民主主義化は、ソビエト諸党を合法化することなしには不可能である。労働者と農民自身が、自らの自由な投票によって、どのような諸党をソビエトの諸党として認めるかをしめすだろう。
生産者と消費者の利益にそって、計画経済を上から下まで修正せよ! 工場委員会に生産管理の権利がもどされねばならない。民主主義的に組織された消費者協同組合が生産物の品質と価格を統制しなければならない。
そこで働く労働者の意志と利益にそって集団農場を再組織せよ!
官僚の反動的な国際政策はプロレタリア国際主義の政策によっておきかえられねばならない。クレムリンのいっさいの外交文書を公開せよ。秘密外交の打倒!
テルミドール官僚によって上演されたいっさいの政治裁判を完全なる公開性、公然たる論争、そして誠実さをもって再審せよ。ただ被抑圧諸大衆の勝利せる革命的蜂起だけがソビエト体制を再生し、その社会主義への発展を保障することができる。ソビエト諸大衆を反乱にむけて導きうる党はただ一つしかない。それは第四インターナショナルの党である。
カイン・スターリンの官僚的ギャングを打倒せよ!
ソビエト民主主義万才!
国際社会主義革命万才!
18 日和見主義反対、無節操な修正主義反対
フランスにおけるレオン・ブルムの党の政策は、改良主義者が歴史の最も悲劇的な教訓からさえ何ごとも学びえないということをあらためて証明する。フランス社会民主主義はドイツ社会民主主義の政策を卑屈に模倣し、同じ最後をむかえようとする。わずか数十年のうちに、第二インターナショナルは自らをブルジョア民主主義体制に織りこみ、事実上その一部となって、このブルジョア民主主義ととも腐りはてつつある。
第三インターナショナルは、資本主義の危機がプロレタリア革命を現実の日程に決定的に上げたとき、改良主義の道をとった。今日のスペインならびに中国におけるコミンターンの政策――“民主主義”的ならびに“民族”的ブルジョアジーのまえに叩頭する政策――は、コミンターンもまたこれ以上何一つ学ぶことも変えることもできないということを証明している。ソ連邦において反動的力となった官僚は、世界的領域において革命的役割を演じることはできない。
一般にアナルコ・サンジカリズムは同じような進化をとげた。フランスでは、レオン・ジュオーのサンジカリスト官僚はとっくの昔から労働者階級内部のブルジョアジーの手先である。スペインでは、アナルコ・サンジカリズムは、その見せかけの革命主義をかなぐりすてて、ブルジョア民主主義という馬車の第五番目の車輪となった。
ロンドン・ビューロを中心とするどっちつかずの中間主義諸グループは社会民主主義もしくはコミンターンの単なる“左翼”的附属物にすぎない。これらの諸グループには、政治情勢を正しく理解し、そこから革命的結論をみちびきたす能力をまったく持ちあわせていないということを暴露した。彼らの頂点はスベインのPOUMであったし、このPOUMは革命的諸条件のもとで革命的路線にしたがうことが全然できないということを証明した。
長い年月にわたって世界プロレタリアートがこうむった諸々の悲劇的敗北は公式の諸組織をよりいっそうの保守主義へとおいやり、同時に幻滅した小ブルジョア“革命家”たちを“新しい道”の探索にむかわせた。反動と衰退の時代にはいつでもそうであるように、革命的思想の全コースを修正したがるやぶ医者や山師があらゆる方面にあらわれる。彼らは過去に学ぶのではなくて、これを“拒否”する。あるものはマルクス主義の矛盾を発見し、他のものはボリシェヴィズムの終焉を宣言する。
革命的理論を裏切ったものの誤ちや犯罪を革命的理論そのもののせいにするものがいるかと思えは、薬が即座に奇跡的な薬効をあげないからといって、薬そのものを呪うものがいる。もっと大胆な人は、万能薬の発見を約束し、これを予期して闘争を停止するようにすすめる。多数にのぼる“新しい道徳”の予言者たちは倫理的同種療法(病気の症状と似た作用をおこす薬品を用いる)によって労働運動を再生すべく準備しつつある。これらの使徒たちの大多数は、戦場に到着する以前に、自から道徳の病いにかかってしまった。こうして、マルクス以前の社会主義の記録綴りのうちにとっくの昔に埋葬された古い処方が、“新しい道”という装いのもとにプロレタリアートに提起される。
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