過渡的綱領
――資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務――
第四インターナショナル創立国際会議(一九三八年)において採択された。
1 社会主義革命の客観的前提条件
全体としての世界政治情勢は主としてプロレタリアートの指導部の歴史的危機によって特徴づけられる。
プロレタリア革命のための経済的前提条件はもはや資本主義のもとで可能な最高の成熟度に全般的に到達している。人類の生産諸力は停滞している。もはや新しい発明や改善も物質的富の水準を高めることができない。資本主義制度全体の社会的危機の条件下における循環性恐慌は、ますます激しい損失と苦悶を大衆にあたえる。増大する失業はまた国家の財政危機を深め、不安定な通貨制度をほり崩す。ファシスト体制も民主主義体制も一つの破産から他の破産へとよろめいている。
ブルジョアジー自身いかなる抜け道も見い出しえていない。ブルジョアジーがすでにファシズムに最後の切り札をかけざるをえなかった諸国では、ブルジョアジーはいまや目をふさいだまま経済的、軍事的破局にむかってすべり落ちている。歴史的に特権的な諸国、つまりブルジョアジーがなお一定の期間国民的蓄積を犠牲にして民主主義の贅沢をゆるすことができる諸国(大英帝国、フランス、アメリカ合衆国等々)では、資本の一切の伝統的諸政党は意志の麻痺にちかい困惑状態におちいっている。“ニュー・デイール”は、その初期におけるもったいぶった決意にもかかわらず、ブルジョアジーがはかりがたいほどの富の蓄積に成功した国においてだけ可能な特殊な形態の政治的困惑にほかならない。いつ終わるともしれない現在の危機は、“ニュー・ディール”政策が、フランスにおける人民戦線同様、経済的袋小路からの抜け道をなに一つ開きはしないということをすでに明らかにしてしまった。
国際関係の様相もまたこれにまさりはしない。資本主義の分解のますます増大する緊迫のもとで、帝国主義的諸対立は袋小路に達しており、――その極点において、個々の衝突や局地的な流血の騒乱(エチオピア、スペイン、極東、中部ヨーロッパ)は不可避的にあい合して世界規模の猛火になるにちがいない。ブルジョアジーは新しい戦争が意味する自己の支配への致命的な危険をもちろん知っている。だが、この階級は、現在、一九一四年の前夜よりもはるかに戦争を回避できなくなっている。
歴史的諸条件は社会主義のためにいまだ“成熟”していないといった一切のおしゃべりは、無知もしくは意識的な欺瞞の産物である。プロレタリア革命のための客観的前提条件は“成熟”しているだけではない、――それはいささか腐りはじめている。社会主義革命なしには、それも次の歴史的時期におこらないとすれば、人類の全文化は破滅によっておびやかされる。いまやプロレタリアートの出番なのであり、それも主としてその革命的前衛の出番なのである。人類の歴史的危機は革命的指導部の危機に還元される。
2 プロレタリアートとその指導部
ブルジョアジーの経済、国家、政治そして国際関係は、社会の革命前的状態の特徴たる社会的危機によって完全に萎縮させられている。革命前的状態を革命的状態に転化させる途上にある主要な障害は、プロレタリア指導部の日和見主義的性格にある、――すなわち、大ブルジョアジーの死の苦悶にもかかわらず、大ブルジョアジーにたいしていだく彼らの小ブルジョア的臆病さ、そして大ブルジョアジーとの裏切り的な結びつきである。
あらゆる国々において、プロレタリアートは深刻な不安によって打ちのめされている。幾百万の大衆は再三再四にわたって革命の道につき進む。だが、その度ごとに、彼らは自分自身の保守的官僚機構のためにおしとどめられる。
スペイン・プロレタリアートは、一九三一年四月以来、権力を自己の掌中におさめ社会の運命を指導しようと幾度もの英雄的企図をなした。しかしながら、彼ら自身の政党(社会民主主義、スターリニスト、アナーキスト、POUM)は――それぞれのやり方で――ブレーキの役割をはたし、かくしてフランコの勝利を準備した。
フランスでは、ことに一九三六年六月の坐りこみストライキの巨濤が資本主義制度を転覆せんとするプロレタリアートの心底からの用意をあきらかにした。しかしながら、指導的諸組織(社会党、スターリニスト、サンジカリスト)は、人民戦線の名のもとに革命的流れを吸いあげ、少なくとも一時的にはこれを阻止することに成功した。
アメリカ合衆国における坐りこみストライキの空前の波と産業別労働組合主義(CIO)の驚くべきほど急速な成長は、歴史によって課された任務の水準にまで高まろうとするアメリカ労働者の本能的努力をこのうえなく明らかにしめしている。だが、ここでもまた、新しく結成されたCIOをふくむ指導的な政治諸組織は大衆の革命的圧力を抑制し麻痺させるために全力をつくしている。
コミンターンのブルジョア秩序の側への決定的な移行、そして全世界をつうじた――ことにスペイン、フランス、アメリカ合衆国その他の“民主主義”諸国における――その冷嘲的な反革命的役割は、世界プロレタリアートにたいして異常な困難をさらにあと一つつくりだした。十月革命の旗のもとに“人民戦線”によって実行された妥協的政策は、労働者階級を無力におとしめ、ファシズムのために道をはき清める。
一方における“人民戦線”と他方におけるファシズム――これらは、帝国主義にとってプロレタリア革命と闘うための最後の政治的手段である。しかしながら、歴史的見地からするとき、これら二つの手段は間に合せ的なものにすぎない。資本主義の衰退は、フランスの自由帽のもとでも、ドイツのスワスチカ(かぎ十字)のもとでも等しく進行している。ブルジョアジーを打倒する以外、抜け道をひらきうるものはなに一つない。
大衆の方向決定は、まず第一に衰退する資本主義の客観的諸条件によって、第二に古い労働者諸組織の裏切り的な政策によって決定される。これらの原因のうち、もちろん第一のものが決定的である――歴史の法則は官僚機構よりも強力である。社会裏切主義者の方法が――ブルムの“社会”的立法から、スターリン裁判のフレーム・アップにいたるまで――いかに相違しようとも、彼らはプロレタリアートの革命的意志をうち破ることは決して成功しないだろら。時がたつにつれて、歴史の回転をおしとどめようとする彼らの必死の努力は大衆にたいして次のことをいよいよ明白に証明するだろう――すなわち、人類文化の危機にまでなっているプロレタリア指導部の危機はただ第四インターナショナルによってのみ解決しうる、ということを。
3 最小限綱領と過渡的綱領
次の時期――煽動、宣伝、組織の革命前的時期――の戦略的任務は、客観的な革命的諸条件の成熟と、プロレタリアートならびにその前衛の未成熟(古い世代の混乱と失望、若い世代の未経験)との間にある矛盾を克服することにある。大衆が、日常の闘争の過程において当面する諸要求と革命の社会主義的綱領のあいだの架け橋を発見するのを助けることが必要である。この架け橋は、今日の諸条件と労働者階級の広範な層の今日の意識からはじめて一つの究極的結論、つまりプロレタリアートによる権力の獲得に不可避的に導く過渡的諸要求の体系をふくまねばならない。
進歩的な資本主義の時代に活動した古典的社会民主主義はその綱領をたがいに独立した二つの部分に分けた――ブルジョア社会の枠内での改良に限定された最小限綱領と、不特定の未来において資本主義を社会主義によってとってかえることを約束する最大限綱領とに。最小限綱領と最大限綱領とのあいだにはいかなる架け橋も存在しなかった。事実また社会民主主義はそのような架け橋を何ら必要としなかった――というのも、社会主義という言葉はただ休日のおしゃべりのために用いられるにすぎなかったからである。一般に系統的な社会改良や大衆の生活水準の向上とかについて論じることができないとき――プロレタリアートの重大な要求はことごとく、そして小ブルジョアジーの重大な要求でさえすべて不可避に資本圭義的所有関係とブルジョア国家の限界をこえてしまうときに、つまり資本主義の衰退期にコミンターンは社会民主主義の道にしたがいはじめた。
第四インターナショナルの戦略的任務は、資本主義の改良ではなく、それを打倒することである。その政治目的は、ブルジョアジーの財産を没収するためにプロレタリアートが権力を獲得することである。しかしながら、この戦略的任務の達成は、戦術上の一切の問題に――たとえそれが小さな部分的なものであったとしても――最も慎重な注意をはらうことなしには考えられない。プロレタリアートのあらゆる部分、そのあらゆる層と職業とグループを革命運動にひき入れなければならない。現在の時期は、革命党を日々の活動から解放するのではなく、この活動を革命の現実的諸任務と緊密に結びつけて遂行しうるというところに特徴点がある。
第四インターナショナルは、古い“最小限”要求の綱領が少なくともその重要な力の一部を保持しているかぎり、これを無視しない。第四インターナショナルは労働者の民主主義的諸権利と社会的既得の成果をあくまでも防衛する。だが、第四インターナショナルは正しい現実的な、つまり革命的展望の枠内においてこの日々の活動を遂行する。大衆の古い部分的な“最小限”要求が退廃的資本主義の破壊的で退化的な諸傾向と衝突するかぎり――そして、それは一歩ごとに生起しているのだが――、第四インターナショナルは過渡的諸要求の体系を提起する。この過渡的諸要求の体系の本質は、それがブルジョア体制の根底そのものにたいしてますます公然と決定的にむけられるという事実のうちにある。古い“最小限”綱領は、プロレタリア革命にむけて大衆を系統的に動員することを任務とする過渡的綱領によってとってかわられる。
4 賃金のスライディング・スケールと時間のスライディング・スケール
崩壊しつつある資本主義の諸条件のもとで、大衆は、貧窮の深淵になげこまれる危険に他のいかなる時代よりもつよくおびやかされながら、被抑圧者の貧困な生活をつづけている。彼らは、たとえその一口の。パンをふやしたり、よりよくしたりできないまでも、これを防衛しなければならない。全国的、地域的、労働組合的な具体的状況の基礎のうえにくりかえしおこる個々の部分的諸要求をここで列挙する必要もないし、またその機会でもない。だが、資本主義制度のいよいよ増大する不合理を集約している二つの基本的な経済的災難たる失業と高物価は、一般化された闘争スローガンと闘争方法を要求する。
資本家の手先たる改良主義者の政策と同じように、軍国主義、恐慌、通貨制度の崩壊、資本主義の死の苦悶から発生するその他一切の災難の重荷全体を勤労大衆の背におしつけようとする資本家の政策にたいして、第四インターナショナルは断固たる戦いを宣言する。第四インターナショナルはすべてのものにたいする就業と相当な生活条件を要求する。
金融上のインフレーションと安定化は、おなじ一本の棒の両端にすぎないがゆえに、いずれもプロレタリアートのためのスローガンたりえない。戦争の切迫とともにいよいよ無制約的性格をおびるであろう物価の暴騰にたいしては、ただ資金のスライディング・スケールのスローガンのもとでのみ闘うことができる。このことは、団体協約が消費物価の上昇に比例する賃金の自動的上昇を保障することを意味する。
自分自身が崩壊してしまう脅威のもとにあるプロレタリアートは、労働者のますます増大する部分が崩れゆく社会の水粥をすすって生きる慢性的失業の貧窮者になりかわってゆくことを許すことができない。就業の権利こそは、搾取のうえになりたつ社会において労働者にのこされた唯一の重大な権利である。今日、この権利は一歩ごとに労働者から奪いとられつつある。“構造”的ならびに“循環”的な失業にたいして、公共事業のスローガンとともに労働時間のスライディング・スケールをかかげるべき時機は成熟している。労働組合やその他の大衆諸組織は労働者と失業者を相互責任の連帯をもって結合しなければならない。これを基礎にして、現にある一切の労働は、週労働時間の必要とされる規準にしたがって現存するすべての労働者のあいだで分配されるだろう。あらゆる労働者の平均賃金は古い週労働時間のときと同一のままである。確実に保障された最低賃金のもとで、賃金は物価の動きにしたがう。現在の破局的な時期にさいして、これ以外の綱領をうけいれるわけにはいかない。
財産所有者やその法律家たちは、これらの要求が“実現不可能である”ことを証明するだろう。より小さな資本家、ことに破産した資本家は、さらに彼らの会計元薄をひきあいにだすだろう。労働者はそのような結論や言及を絶対的に排撃する。問題は、相対立する物質的利害の“正常”な衝突なのではない。問題なのは衰退と堕落と破滅からプロレタリアートを防衛することである。それは、唯一創造的で進歩的な階級の生死の問題であり、さらには人類の将来の問題なのである。もし資本主義が自ら生みだした災難から必然的におこってくるこれらの諸要求をみたしえないのであれば、そのとき資本主義はよろしく滅びさるがよい。“実現可能”か“実現不可能”かは、現在の場合、力関係の問題であり、この力関係はただ闘争によって決定することができる。その直接的な現実の成功がいかなるものであろうとも、このための闘争によって、労働者は資本主義的奴隷制を清算すべきことをもっともよく理解することになるだろう。
5 過渡期における労働組合
部分的ならびに過渡的諸要求のための闘争において、今日、労働者はいままで以上に大衆的組織、ことに労働組合を必要とする。フランスならびにアメリカ合衆国における労働組合の強力な発展は、“その有効性は終わった”と教えてきた極左的空論家達の説教をもっともよく反駁している。
ボリシェヴィキ・レーニン主義者は、たとえそれがたんに労働者階級のもっとも控えめな物質的利益や民主主義的権利のための闘争であっても、あらゆる種類の闘争の最前線にたつ。彼は大衆的労働組合を強化し、その闘争精神を高めるために積極的にこれに参加する。彼は、労働組合をブルジョア国家に従属させ、プロレタリアートを――ファシスト的なものだけでなく“民主主義的”な――“強制的仲裁”ならびに他のあらゆる形態の警察的保護にしばりつけようとするいかなる企図にたいしても断固として闘う。ただ労働組合内部でのこのような活動を基礎にすることによってのみ、スターリニスト官僚をもふくむ改良主義者にたいする闘争は成功することができるのである。小さな“革命的”組合を党の第二版としてつくってみたり、あるいは維持しようとするセクト的な試みは、実際には労働者階級にたいする指導権のための闘争を放棄することを意味する。つぎのような確固たる規則をもうけなければならない、――すなわち、大衆的労働組合からの敗北主義的孤立は革命の裏切りに等しく、第四インターナショナルの成員たることとは両立しがたい、と。
同時に、第四インターナショナルは、労働組合主義者の特徴であり、サンジカリストの特徴ででもある労働組合崇拝を断固として拒否し、否定する。
(a) 労働組合は完全なる革命的綱領を提出しえないし、またその任務、構成、組合員徴募のしかたからしてこれを提供することができない。したがって、労働組合は党にとってかわることはできない。第四インターナショナルの支部として各国の革命的党を建設することは過渡期の中心任務である。
(b) 労働組合は、それがもっとも強力であったとして、労働者階級の二〇ないし三五パーセント以上を包含していないし、しかもそれは主としてより熟練した高賃金の労働者層である。労働者階級のいっそう抑圧された多数者は、労働運動が異常に昂揚した時期にただエピソード的に闘争にひきこまれるだけである。このような瞬間には、闘う全大衆を包含する特別の組織、すなわち、ストライキ委員会、工場委員会、そして最終的にはソビエトをつくらなければならない。
(c) プロレタリアートの上層をあらわす組織としての労働組合は、スペインのアナルコ・サンジカリスト組合の真新しい経験をふくむ過去の歴史の一切の経験が立証するように、ブルジョア民主主義体制と妥協しようとする強い傾向を発展させた。尖鋭な階級闘争の時期において、労働組合の指導的諸機関は大衆運動を無害なものにするためにその支配者になろうとする。このことは、単純なストライキ、ことにブルジョア財産の原則を震憾させる大衆的坐りこみストライキの場合にすでに生起している。ブルジョアジーが異常な困難におちいる戦争や革命にさいして、労働組合指導者は通常ブルジョア大臣となる。
したがって、第四インターナショナルの各国支部は、労働組合の上層部を更新し、危機の瞬間にはきまりきった仕事しかできない役員や出世亡者のかわりに、新しい戦闘的指導者を勇敢に断固としておしだすようつねに努めるだけでなく、また、あらゆる可能な場合に、ブルジョア社会にたいする大衆的闘争の課題によりいっそう緊密に対応する独立的な戦闘的組織をつくるよう努めるべきである。そして、もし必要とあれば、労働組合の保守的機構から公然と断絶することをさえおそれてはならない。もしもセクト的な虚構をはぐくむために大衆的組織に背をむけることが犯罪的であるとすれば、革命的大衆運動が公然と反動的な、あるいは偽装した保守的“革新的”官僚一派の統制に従属するのを消極的に黙認することもまた同様に犯罪的である。労働組合は、それ自体において目的なのではなく、プロレタリア革命の途上における手段にすぎない。
6 工場委員会
過渡期をつうじて労働者運動は、組織的な均衡のとれたものではなくて、熱病的な爆発的な性格をおびる。組織形態ならびにスローガンは運動の指漂に従属しなければならぬ。指導部は、疫病を警戒すると同様に情勢の常套的なとり扱いを警戒することによって、大衆のイニシアチブにたいして敏感に反応しなければならない。
この種のイニシアチブのもっとも新しい表現である坐りこみストライキは、“正常な”資本主義的手続きの限界をのりこえる。罷業者の要求とは独立に、工場の一時的占拠は資本主義的財産という偶像に打撃をあたえる。あらゆる坐りこみストライキは、工場の支配者はだれか、資本家かそれとも労働者かという問いを実際的なやり方で提起する。
もし坐りこみストライキがこの問いを挿話的に提起するとすれば、工場委員会はこれに組織的な表現をあたえる。工場のすべての従業員によって選出される工場委員会は、その瞬間に経営者の意志にたいする平衡力をただちにつくりだす。
改良主義者が“良い”“民主的な”搾取者と対照してフォードのようないわゆる“経済的王党派”型のボスたちを批判するのにたいして、われわれは前者と後者の双方にたいする闘争の中心軸として工場委員会のスローガンを対置する。
労働組合官僚は、大衆の動員のためにとられる一切の大胆な処置に抵抗するように、工場委員会の創出にも抵抗するのが通例である。
だが、運動の範囲が拡大すればするほど、この抵抗を打破することはますます容易になる。すでに“平和時”においてクローズド・ショップ制が確立されているところでは、工場委員会は労働組合の通常の機関と形式的に一致するだろう。だが、それは、その役員を更新し、その機能を拡大するだろう。しかしながら、工場委員会の中心的な意義は、それが労働組合の力では普通には行動にうつらせることができないような労働組合の層のための戦闘的スタッフになるということである。革命のもっとも自己犠牲的な隊伍が生れてくるのは、ほかならぬこれらのよりいっそう抑圧された層からである。
このような委員会が出現するその瞬間から、事実上の二重権力が工場内にうちたてられる。この委員会はその本質からして過渡的状態をあらわす。なぜなら、それは資本主義体制とプロレタリア体制という二つの相いれない体制をその内部にもっているからである。工場委員会の根本的意義は、それが直接に革命的時期への戸口をひらかないまでも、ブルジョア体制とのあいだにある革命前的時期への戸口をひらくことにある。工場委員会の考えの宣伝が時期尚早でも人為的でもないということは、いくつかの国々に燃えひろがっている坐りこみストライキの波によって十分に証明されている。この型の新しい波は近い将来に不可避的におこるであろう。不意をうたれないためには、遅れることなく工場委員会のための運動をはじめなければならない。
7 “ビジネスの秘密”と産業の労働者管理
競争と自由な商業に基礎をおく自由主義的資本主義は完全に過去のものになってしまった。その後継者たる独占的資本主義は、市場の無政府性を緩和しないだけでなく、それどころかその無政府性にたいしてとりわけ痙攣的な性格をあたえる。経済を“管理”し、産業を国家の“指導”のもとにおいて“計画”することの必要は、今日、ファシストから社会民主主義者にいたる現在のほとんどすべてのブルジョア的ならびに小ブルジョア的諸傾向によって――少なくとも言葉のうえでは――認められている。ファシストにとって、それは主として軍事的目的のために人民を“計画”的に略奪することである。社会民主主義者は無政府の大洋を官僚的“計画”のスプーンでくみつくそうとする。技師や教授たちは“テクノラシー”について論文を書く。民主主義的政府の臆病な“調整”の実験は、大資本の無敵のサボタージュに頭をぶちつける。
搾取者と民主主義的な“統制者”とのあいだの現実の関係は、紳士的な“改良主義者”がトラストやそのビジネスの“秘密”の敷居をまえにして信心深く恐怖におののき立ちすくんでしまうという事実によってもっともよく示されている。ここでは、ビジネスにたいする“不干渉”が支配する。個々の資本家と社会とのあいだの勘定は資本家の秘密のままである、――それは社会が関知するところではない。ビジネスの“秘密”の原則のための動機は、自由主義的資本主義の時代同様、あきらかに自由な“競争”ということである。現実には諸々のトラストのあいだでは何の秘密もない。現代のビジネスの秘密は、社会の利益にたいする独占的資本主義の執拗な陰謀の一部である。“経済的王党派”の独裁権を制限しようとする企ては、社会的生産手段の私的所有者が搾取、横奪、詐欺の策謀を生産者と消費者から隠しおおせるかぎり、哀れな茶番劇たりつづけるだろう。“ビジネスの秘密”の廃止は産業にたいする現実的な管理へむかう第一歩である。
労働者は、資本家におとらず、上場、トラスト、産業の全部門、全体としての国民経済の“秘密”を知る権利がある。まずなによりも銀行、重工業、集中化された運輸部門が観察鏡のもとにおかれればならない。
労働者管理の直接の任務は、個々の企業からはじめて、社会の借方貸方を明らかにし、――個々の資本家ならびに全体としての搾取者によって着服された国民所得の実際の割合を決定し、――銀行やトラストの舞台裏の取引や詐取を暴露し、――最後に、資本主義の無政府性と赤裸な利潤追求の結果である人間労働の法外な浪費を社会のすべてのメンバーに暴露することである。
ブルジョア国家のいかなる役人も、たとえ彼にいかに大きな権威をあたえてみても、この仕事を遂行しうる立場にはない。それぞれの国の“六〇家族”や“二〇〇家族”のたくらみにたいしてルーズヴェルト大統領やブルム首相が無力であることについては、全世界が目撃者であった。搾取者の抵抗をうち破るためには、プロレタリアートの大衆的圧力が必要である。ただ工場委員会だけが、人民のために誠実に奉仕する専門家たち、すなわち計理士、統計家、技師、科学者等々を――“テクノラート”としてでなく、相談役として――呼び入れ、生産にたいする真の管理を実現することができる。
失業にたいする闘争は、公共事業の広大で大胆な組織を要求することなしにはありえない。だが、諸々の公共事業は、それがかなりの長年月にわたる全般的計画の一部であるときにのみ、失業者ならびに社会にとって持続的で進歩的な意味をもつことができる。労働者は、この計画の枠内において、恐慌の結果として閉鎖された私的事業を公益事業として再開続行することを要求するだろう。このような場合、労働者管理は直接的な労働者経営にとってかわれるだろう。
いかなる初歩的な経済計画も――それが搾取者の見地からではなく、被搾取者の見地からするものであるとき――、労働者管理なしには、すなわち資本主義経済のすべての公然・非公然の動力にたいして労働者の視線が滲透することなしには、それを立案することができない。個々の企業体を代表する諸々の委員会は、トラスト、産業の全部門、経済的地域、そして最後に全体としての全国産業にそれぞれ対応する委員会を選出するために、あつまって会議をもつべきである。こうして、労働者管理は計画経済の学校になる。管理の経験をもとにして、プロレタリアートはその時機が到来するとき国有化産業を直接に経営するために自らを準備するだろう。
労働者にたいして自らすすんで帳薄をひらいてみせる――それはいつも賃金切下げの必要を証明するためだが――主として中・下層の資本家たちにたいして、労働者はこたえる、――われわれが関心をもつのは、個々の破産しかけた帳簿ではなくて、一全体としてのすべての搾取者の会計元簿である、と。労働者は自己の生活水準を自らもまた自分自身の体制の犠牲者である個々の資本家の急迫した事情に順応させることはできないし、また順応させようともしない。より一層品位ある実行可能な基礎のうえに生産と分配の全体系を組織しなおすことが任務である。もし、ビジネスの秘密の廃止が労働者管理の必要条件であるとすれば、そのとき管理は経済の社会主義的指導への第一歩である。
8 個々の資本家グルーブの財産没収
財産没収の社会主義的綱領、すなわちブルジョアジーを政治的に打倒し、その経済的支配を一掃するという社会主義的綱領は、現在の過渡期において、その機会が保証されるとき、国民的存在にとって決定的ないくつかの基幹産業部門あるいはブルジョアジーのもっとも寄生的なグループの財産を没収せよという要求の提起を決して妨げてはならない。
こうして、アメリカ合衆国の“六〇家族”やフランスの“二〇〇家族”の独裁にかんする民主主義的紳士諸君の哀れな恨みごとにたいして、われわれはこれら六〇あるいは二〇〇の封建的な資本家的君主どもの財産を没収せよという要求をもってこたえる。
まさしく同様に、われわれは軍事産業、鉄道、もっとも重要な原料資源等々を独占する会社の収用を要求する。
これらの要求と愚劣な改良主義者の“国有化”のスローガンとのあいだの相違は、次の点にある。――(一) われわれは補償を拒否する。(二) 国有化を口にしはするが、現実には資本の手先のままである人民戦線のテマゴークにたいして、大衆に警告する。(三) われわれは、大衆が自分自身の革命的力にだけ依拠するよる呼びかける。(四) われわれは、収用の問題を労働者と農民による権力獲得の問題とむすびつける。
より包括的な宣伝においてだけではなく、部分的な形態での日常的な煽動においても収用のスローガンを提起することの必要は、産業の種々の部門があい異なる発展の水準にあり、社会の生活において様々の位置をしめており、階級闘争のあい異なる段階を経過するという事実にもとづくのである。ただプロレタリアートの全般的な革命的高揚だけがブルジョアジーの財産の完全なる没収を日程にのぼせることができる。過渡的諸要求の任務はこの問題の解決のためにプロレタリアートを準備することである。
9 私的銀行の収用と信用制度の国有化
帝国主義は金融資本の支配を意味する。銀行は、トラストやシンジケートとならんで、しばしばこれらの上にたって経済にたいする現実の支配権をその手に集中する。銀行はその構造をつうじて現代の資本の全構造を集中的な形態で表現している、――それは独占の諸傾向を無政府の諸傾向とむすびつけている。銀行は科学技術の奇蹟、巨大企業、強大なトラストを組織する、――それはまた高物価、恐慌、失業を組織する。もし銀行の支配的地位が略奪的な資本家の手中にとどまるかぎり、その破壊の作用をたがいに補足しあっている独占的専制と資本主義的無政府にたいする闘争において重要な歩みはただの一歩たりとも不可能である。人民全体の利益に合致する合理的計画にしたがう投資ならびに信用の統一的な体系をつくりだすためには、すべての銀行を単一の全国銀行に合同させることが必要である。ただ私有銀行の収用と全信用制度の国家への集中たけが、経済計画のために必要な――たんに紙上の官僚的なものではない――現実的な、つまり物質的な手段を国家にあたえるだろう。
銀行の収用は、銀行預金の収用を決して意味しない。その反対に、単一の国有銀行は、小預金者のために私有銀行よりもはるかに有利な条件をつくりだすことができる。同様にして、ただ国有銀行だけが農民や小売り商人のために有利な条件、つまり安い信用を設けることができる。しかしながら、よりいっそう重要なことは、単一の金融指揮所によってみちびかれる全体としての経済――何よりもまず第一に大規模産業と運輸――は、労働者とその他の一切の勤労大衆の重大な利益のために役だつことができる。
しかしながら、銀行の国有化は、国家権力そのものが搾取者の手から労働大衆の手に完全に移行するときにのみ、はじめて以上の有利な諸結果をもたらすことができる。
10 ピケット・ライン――防衛隊――労働者民兵――ブロレタリアートの武装
坐りこみストライキは、ブルジョアジーのみならず、また第四インターナショナルをふくむ労働者諸組織にたいする大衆からの重大な警告である。一九一九〜二〇年にイタリア労働者は自分自身のイニシアチブにもとづいて工場を占拠し、かくして彼らの“指導者”たちに社会革命の到来のニュースを合図したのであった。“指導者”たちはこの合図に留意しなかった。ファシズムの勝利はその結果であった。
坐りこみストライキは、いまだイタリア的様式の工場占拠を意味しない、――だが、それは占拠にむかう決定的な一歩である。現在の危機は階級闘争をその極限にまで尖鋭化し、大詰めの瞬間をよりいっそう近づけることができる。だがこのことは、革命的情勢が一挙に到来するということを意味しない。現実には、その到来は一連のうちつづく激動によって告げしらされる。その一つが坐りこみストライキの波である。第四インターナショナルの各国支部の問題は、プロレタリア前衛がわれわれの時代の全般的性格とテンポを理解することをたすけ、いよいよ断固たる闘争的な組織的手段をもって大衆の闘争を時機を失せずに結実させることである。
プロレタリアートの闘いの激化は、資本の側からする反撃の方法の激化を意味する。坐りこみストライキの新しい波はブルジョアジーの側からする断固たる対抗措置をよびおこすことができるし、また必ずやよびおこすだろう。そのための準備工作が大トラストの腹心のスタッフによってすでになされつつある。もし、またもや不意打ちをくらうとすれば、そのとき革命組織とブロレタリアートにとってわざわいとなるだろう!
ブルジョアジーはどこでも公式の警察と軍隊に満足しているわけではない。アメリカ合衆国では、“平和”時においてさえブルジョアジーは軍事化されたスト破りの部隊や私的に武装した暗殺者を工場にもっている。いまでは、これにアメリカ・ナチスの様々なグループをつけくわえねばならない。フランス・ブルジョアジーは、危険が最初に切迫したとき、軍隊内のそれをもふくむ半合法ならびに非合法のファシスト部隊を動員した。イギリス労働者の圧力がいま一度強力になるやいなや、ファシスト部隊は二倍、三倍、十倍にも増大して、労働者にたいする血なまぐさい進撃をはじめる。現代において階級闘争が内乱に転化しようとする不可抗力的な傾向をもっているという事実について、ブルジョアジーはもっとも正確な情報を不断にえている。イタリー、ドイツ、オーストリー、スペインその他の諸国の事例は、プロレタリアートの公式の指導者にたいしてよりも、資本の大立物と従僕たちにたいしてはるかに多くのことを教えた。
労働組合の官僚と同様、第二ならびに第三インターナショナルの政治家たちはブルジョアジーの私設軍隊について意識的に目をとじている、――さもなくば、彼らはブルジョアジーとの同盟をただの二四時間も維持しえないはずである。改良主義者は、ブルジョアジーが歯まで武装し、労働者が非武装であるとき民主主義の神聖さはもっともよく保障されるという考えを労働者の意識に系統的にうえつけている。
第四インターナショナルの義務はこのような奴隷的政策にたいして最後的な止めをさすことである。社会民主主義者、スターリニスト、アナーキストをふくむブルジョア民主主義者は、現実にいよいよ臆病にファシズムに屈服すればするほど、ますます声高にファシズム反対の闘争についてわめきたてる。幾千万の勤労大衆の支持を背後に感じる労働者の武装部隊だけが、ファシスト隊にうちかつことができる。ファシズムにたいする闘争は、自由主義的な編集事務所からではなく、工場においてはじまり、――そして、街頭において終る。工場内におけるスト破りと私的な殺し屋はファシスト軍隊の基本的な中核である。ストライキのピケットはプロレタリア軍隊の基本的中核である。これがわれわれの出発点である。あらゆるストライキと街頭デモンストレーションを結びつけて労働者自衛グループをつくる必要を宣伝することが絶対に必要である。労働組合の革命的左翼の綱領にこのスローガンをかきこまねばならない。青年のグループからはじめて、できるところはどこでも自衛グループを組織し、彼らを訓練し、彼らに武器の使用を知らしめることが絶対に必要である。
大衆運動の新しい高揚は、これらの部隊の数を増大するだけでなく、またそれらを近隣地域、都市、地方ごとに統一するのに役だつだろう。スト破りやギャングやファシストの部隊にたいする労働者の正当な憎悪に組織的な表現をあたえねばならない。労働者の諸組織、集会、新聞・雑誌の不可侵性にたいする唯一の真剣な保障たる労勲者民兵のスローガンをかかげねはならない。
つねに大衆自身の経験を基礎にするこのような系統的でしつようで疲れをしらない勇敢な煽動と組織の活動のたすけによってのみ、大衆の意識から服従と消極性の伝統を根絶し、すべての労働者大衆の手本となるべき英雄的闘士の部隊を訓練し、反革命の武装した暴力団に一連の戦術的敗北をあたえ、被搾取者と被抑圧者の自信をたかめ、小ブルジョアジーの眼前でファシズムの威信をうちこわし、プロレタリアートによる権力獲得への道をひらくことができる。
エンゲルスは、国家を“武装した人々”の団体であると規定した。プロレタリアートの武装は、その解放のための闘いに必然的にともなう要素である。プロレタリアートがそれを意志するとき、プロレタリアートは武装への道と手段を見いだすだろう。この領域においてもまた、その指導は当然にも第四インターナショナル各国支部に帰せられる。
11 労働者と農民の同盟
労働者の農村における戦友ならびに相対者は、農業労働者である。この両者は一つの階級の二つの部分である。彼らの利益はわかつことができない。工業労働者の過渡的諸要求の綱領は、そこここを変れば、そのまま農業プロレタリアートの綱領にもなりうる。
農民は他の階級である、――彼らは農村における小ブルジョアジーである。小ブルジョアジーは半プロレタリア的要素から搾取者的要素にまでいたる様々な層からなりたっている。したがって、工業プロレタリアートの政治的任務は階級闘争を農村にもちこむことである。こうしてはじめて、工業プロレタリアートは自己の同盟者と敵対者のあいだに一線を画すことができるだろう。
各国の民族的発展の特殊性は、農民の状態、そしてある程度までは都市小ブルジョアジー(職人、小売商人)の状態のうちにもっとも奇妙な表現をみいたす。これら諸階級は、それが数的にいかに強 蛛Aいかにして第四インターナショナルが組織され、労働階級 G団ウivウz゚~"|コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
C/'3:)}ウ3ィイ)8}tK・
ロZソe^コマ#dGヲクノア抂)鰻クォ゙奪黹# =ヒヒ(J濛ヌ <ノ\.硯k【"(4!p札疎~罌w`ソケ8 h。6屎ノシ0aチ∃ンス : `Y=Oカ壘セヨンホ|ョ#A:塁ネツ=楕I4
ウヘ撤メムZc彝ZU堪 メ捌r2ウNッア#)ンナ譚樶サ拯|圈x鵬促 Hu ミ^ノW-レ此ェウb,rトテu[9(`リ;博ィ=リ噫ア1租晴姉>ムヒ冢゙-A)レ,$xヤ2?n禎ツ ュヂー cマク~5w\フセ?s)w1'MCGヒ哺u柢y&宙ツAナ
ヤBAヌノPッチ%IネPリ、ExX踝崟掌ケ[ォ魄ササァ奪"7Kヒ J秡I*<ニ^ナ .$ヒ〔。(|膏セU*Fヘチ|H # bクネcレRメ匯聯nq・JヌンフIモQ#袁&ケ逵|的a 竇W0L(8)ヒ・FIヤ0oT$嬉アヘ7s
キsキ_Vー>-ホコ>ThI.リ櫺 ,i "閔(&+D%丞=奬rョgコ剱掖垉m4。1欺カーヨ歡ンdbn
。温ナゥ・婀ヌョ2x,1-フcョ゙qラハュ賁・RS烏Ei髪牴9Q キ」イラコE]L涓ヨO貝\ヨ禅ヨ如,V.*mルイt2唾。「(地Mホ、Zu |