まったく別の場面で、あるお話をまた、ご紹介したいと思います。
世の中には、オーケストラを鑑賞する人たちがいます。
彼らのほとんどは、どの楽器を演奏できるわけでもありません。
ではありますが、彼らは彼らの耳で、心で、演奏を味わい、そして批評する。
もしも、オーケストラを鑑賞するのに、
すべての楽器の、あるいは少なくともオーケストラ演奏者と同じだけの
演奏技術が求められるとしたら?
あるいは、その技術を持たない者は、
オーケストラを黙って聴いておればよく、消費はしても、決して批評はして
いけないなどと、求められたら?
それは非常に理不尽な批判の封じ込めです。
さて翻って、政治の寡占ということを考えて見ます。
あるいは、ここで言えば、言論の場の寡占。
掲示板を運営して、俺様と同じように実名を出した場合だけ
批判できるというのは、オケ演奏技術を、聴衆に求めるのと同じことでは
ないでしょうか。
折しも、東国原知事は宮崎県議会の2月定例会の15日開会にあたり、
「行政や一部の人だけが考える時代は終わり、総力戦が求められている」と
所信表明を行っています。
すでに多くの人が同意するように、政治は一部の政治家テクノクラートが
独占し、声なき声を抑圧する形でスポークスマン化する時期は終わり、
現在は徐々に市民の声を反映する政治が模索されております。
当然市民派を名乗る政治家であれば、抑圧的な態度は、好ましからざるもの
でしょう。
民主主義は手間のかかるものです。
多くの人が関与すればするほど、それを集約するのに、一貫して安定した
そして非暴力的なルールが必要です。
さまざまな意味で、生まれてきた批判の意味を、ただ抑圧するのではなく
考えるべきではないかと思うのです。
当初のお話に戻りましょう。
オーケストラは鑑賞する人たちが自由に心を開き、味わい、そしてさまざまな
辛口あるいは賞賛の批評を重ねられることで、更に発展していきます。
楽器ができない人は黙ってありがたく聞いておれ、ではなく、より広い
聴衆に味わわれる音楽が、やはり、あるべき姿だと思われます。
そこのところを、今一度、よくお考え下さいますようにと願います。
ウェブ運営をすること、実名を出すことは、別に偉いことではないのです。
あなたがやろうと決意して、政治家として活動するときに、自ら選んだものであり
それは同時に、声なき声を聞き取り、掬い取る決意であったはずです。
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